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現代宗教研究第38号 2004年03月 発行

生命・尊厳死・生命倫理観・クローン人間について

生命倫理
生命・尊厳死・生命倫理観・クローン人間について
(日蓮宗現代宗教研究所嘱託) 牟田口義隆  
㈰ 「生命について」

 ソ連の科学者オパーリンが『生命の起源と生化学』という著書の中で、太古の地球環境に見立てた条件のもと、種々な原子を反応させ、生命の基となるアミノ酸、ひいては自然増殖するコアセルベートという蛋白質を合成する事が出来る、これが「生命の起源」であろう、という「生命の自然発生論」であるオパーリン学説に触れて衝撃を受けたのは、三十年以上前のことであった。
 その後、科学は進み、このオパーリン学説を主張する科学者は見受けられない。
 宇宙物理学の進歩で、約百五十億年前にビックバンが起こり、約五十億年前に、地球をふくむ天体が誕生したであろうと考えられている。
 この地球上の生命についての研究も、遺伝子、ゲノムのレベルでの探求がなされている。
 ヒトゲノムとは、「ヒトをヒトたらしめている遺伝情報の総体」「ヒトが生命活動を行う上で必要なすべての遺伝子をもった一組の染色体のこと」と定義されている。遺伝子は四種類のアミノ酸が対になって結合してラセン構造をなしている染色体に存在し、その塩基の数は人間の場合は約三十億個といわれている。そして、その中に約十万個の遺伝子が存在していると考えられている。
 今日、国際的にもヒトゲノムの解析が進められ、その約三十億個の塩基の配列は既に解明されたとの報告もある。つまり、ヒトゲノムの構造解析は終了したとの報告である。今後は、約十万個ある遺伝子のゲノムの機能解析がなされる事になるが、全遺伝子を解析し、生命現象の全体像に迫ろうというのが、ゲノム解析計画である。
 コンピューターを駆使して現代科学は急速な進歩を続けているが、科学の進歩が人類に幸福と調和をもたらす限りにおいては、それは喜ばしい事である。しかし歴史の示すように、場合によっては科学が人類にとって深刻な脅威をもたらして来た事実を踏まえて、諸問題について考察する。
 さて、「生命」の問題であるが、地球上の生命は約三十億年前に誕生したと考えられている。
 原始生命体から連綿と進化を重ね、現在のような地球上の生物分布が出来上がっていると考えられている。すべての生物が細胞レベルで活動状態にあり、生活を維持している状態にある時に内包されている、いわば恒常状態を指し示しているのが、「生命」という言葉である。
 「生命」という言葉は、科学では頻繁に使用されるが、仏教ではなじみが薄く、近い言葉としては、「身命」「寿命」「寿量」などが彷彿とさせられる。
 科学では生命は個体に属し、個体の消滅とともに完結するものと考えるが、仏教では「生命」をそのようにはとらえない。
 科学は実証主義であり、実証されない事柄について述べることは憶測や推測の城を出ないと考えられるが、仏教の言葉は「教え」であり、この世にとどまらない森羅万象についての「教え」を心で感得するところに信仰が生まれる。したがって、科学と宗教は次元の異なるものであり、お互いの立場で論議を尽くしても、結論が出るとは限らないことは当然のことである。
 その仏教の教えるところは、「生命」であれ「身命」であれ、個体に属し完結するものではなく、己自身が所有するものではない。「生命」とは仏の慈悲により、身体に付与されたものであり、いつの日かお返ししなければならないものである。「生命」とは、仏の慈悲により付与されたかけがえのないものであり、私たちは生かされているのである。
 しかし多くの現代人は、自分の命は両親から偶然に選択の余地もなく与えられ、自分の自由になるものと考えている。
 インターネット上で集団自殺者を募り、集団自殺を図る事件が起こる現代の世相が、それを指し示している。
 私たちは皆、仏と誓願を交わし、自ら進んで道場である娑婆世界に生命を付与され、生かされている存在であるが、現代人の多くはそうは思っていない。
 現代のバイオテクノロジーやクローン技術の進歩により、人類が「生命」さえ自由に出来ると考えるとすれば、それは大きな過ちである。人類は、ただ一個の生命すら創り出すことは出来ない。
 バイオテクノロジーやクローン技術とは、生命を宿す身体に応用を加える技術であり、「生命」を創り出すことではない。
 仏教の「生命」に対するとらえ方は、「仏により付与されたもの」「かけがえのないもの」であり、生かされている私たち人類は、慈しみと畏敬をもって対処しなければならないと考えるものである。

㈪ 「尊厳死」

 尊厳死という言葉を耳にして、十年あまりが過ぎた。
 日本人のほとんどが病院のベッドの上で死を向かえる、終末期医療の問題がその発端である。
 個人の意思とは関係なく、延命のためだけの医療が成される事に対し、終末期の医療は、個人の意思を尊重した医療がなされるべきであるという考えのもと、そのような医療のもとで終末を迎えることを「尊厳死」という。
 日本尊厳死協会をはじめ、他の民間団体で、リビングウィルの登録や保管をする活動がなされている。
 そもそも医療とは、医療従事者だけのものではなく、本来患者の為のものである。患者の意向を尊重し、十分な説明を尽くして同意のもとに治療に当たってくれる信頼できる医療従事者のもとで、終末を迎えることが出来れば幸いなことであり、又そうあるべきことである。
 さて、「尊厳死」という言葉は、本来仏教の言葉ではない。
 古来、仏教では、死に臨んで正念を保つことを重大事と考える。
 臨終正念なくしては、尊厳ある死とは考えないのである。
 また、尊厳ある生なくして、尊厳ある死はありえない。
 尊厳ある生とは、仏道を成就することであり、不惜身命のお題目の信仰を貫いた一生の後に、尊厳ある死が訪れ、霊山浄土の門が開かれるのである。
 回向文で唱えているように、「……少病少悩にて、あらかじめ死期を悟り、臨終にあっては正念を失わず……」に最後を迎えてこそ、尊厳死なのである。

㈫ 「生命倫理観」

 医療やバイオテクノロジーの進歩に伴い、脳死、臓器移植、安楽死、性転換手術、不妊治療、クローン技術、遺伝子治療などの許容基準について、単に技術面の問題だけでなく、法律、宗教、文化、哲学などの立場から議論がなされている。
 特にクローン技術の進歩により、一九九六年にクローン羊「ドリー」の誕生を見て以来、いっそう生命倫理が問われることとなった。
 一九七八年バイオエシックス百科事典が発刊されて以来、アメリカやヨーロッパで生命倫理学が発展してきたが、その生命倫理の原則は、J・S・ミルの「自由論」に代表される自由主義や個人主義であり、そこから、医療の自己決定権や他者危害原則の考えが生じてきた。
 他者危害原則とは、「他人に危害を加えない限り、公共機関などの他者から制約を受けない」という原則である。
 仏教の立場は、生命倫理学の立場を否定するものではないが、「生命に対する考え方、対処の仕方に大きな相違点があると考えられる。私たちの「生命」は一時的に仏に付与され、いつかはお返しするかけがえのないものとして、慈しみと畏敬の念を持って対処すべきことは、すでに述べたとおりである。
 さらに、このかけがえのない「生命」を持つ他者に対しても、同等の価値を認め、慈しみと畏敬の念を持たねばならない。
 自己と他者は、同等なのである。
 そして私たちは、他者の何人に対しても全責任を負える立場にないことを知っておかねばならない。
 その人の一生を見取り、背負うことができることこそ、他者に対して責任をとれる必要条件であるが、たとえわが子であれ配偶者であれ、それは不可能なことである。
 私たちは、同等の「生命」を持つ他者に対して、決して責任を取れる立場にないことを自覚しなければならない。
 以上を踏まえて、仏教の「生命」に対する原則をまとめると、次のようになる。
=cd=73b9 「生命」は仏に一時的に付与されたものであり、いつしか仏のもとにお返しするものである。
=cd=73ba 「生命」はかけがえのないものであり、慈しみと畏敬の念を持って対処しなければならない。
=cd=73bb 自己の「生命」と他者の「生命」は同等のものであり、他者の「生命」に対して何人も責任をとれる立場にはない。
 このような「生命」に対する原則が、仏教的生命倫理観の中核をなすものと考える。

㈬ 「クローン人間」

 クローンとは、ギリシャ語で「小枝」を意味し、挿し木などで株を増やすことを意味する。
 クローン技術は、主に優良牛を増産する為に活用されてきたが、それは受精卵を活用した受精卵クローンであった。
 これに対し、体細胞を利用した体細胞クローンという技術で、一九九六年にクローン羊のドリーが誕生した。六歳の雌羊の乳腺の細胞から核を取り出し、未受精卵に移植し細胞融合させ、代理母である他の羊の子宮に移植して誕生させたのである。
 その五ヵ月後の一九九七年、羊の皮膚細胞の核に人間の遺伝子を導入し、その核を未受精卵に導入し細胞融合させ、他の羊の子宮に導入して、一部に人間の遺伝子を持つクローン羊「ポリー」が誕生した。
 体細胞クローンの技術は、ポリーのような遺伝子組み換え動物の量産の為に開発された技術である。
 アメリカでは代理母を介した不妊治療がなされ、多くの子供の誕生を見ている。
 この延長線上に体脂肪クローン人間の誕生があるのであろうか。
 技術的には十分可能と考えられているクローン人間は、もう既に誕生しているとの情報もある。
 そこで、仏教の「生命」に対する原則を踏まえて、クローン人間について考えてみる。
 まずクローン人間といえども、かけがえのない「生命」を仏から付与された存在であり、私たちと同等の立場にあることを銘記しなければならない。
 クローン人間の誕生には、クローン技術という人間の手がかかわっているが、クローン技術とは、生命を宿す細胞を操作する技術であり、細胞や生命を創り出す技術ではない。
 そして、クローン人間といえども、生老病死の宿命から逃れることはではないことである。
 人間は何人も、生涯祝福されて人生を終えることはない。
 釈尊は、人生を苦しみであると断じられ、悟りの道を追求されたのである。
 人は人生において、幾度も己自身の存在について問いかけるものである。宗教に対する関心は、このような時にこそ芽生えるものである。
 もし、クローン技術で誕生した人が、人生の苦しみの中で、己自身の存在について問いを発したら、「私は何故に存在しているのか」、「私の存在理由はいったい何であろうか」、と。
 愛情を注いで育ててくれた両親のことを想い、彼は想い止まってくれるだろうか。彼は人間に対して憎悪を抱き、復讐の鬼と化すことはないであろうか。いずれにしても、身のすくむ思いである。
 宗教者が魂の存在を説き、彼の心の救済を試みたとしても、彼が癒される保証はどこにもない。いつの日か癒される時はあるのだろうが、それは遠い道のりである。
 彼自身の存在には、余りに他者が一方的にかかわり過ぎているのである。
 医療であれクローン技術であれ、同意を得ることなく、一方的に他者の「生命」にかかわることは、仏教の「生命」の平等に反する行為であり、自分さえよければ、という醜いエゴイズムに他ならない。
 日蓮宗教師は、「生命」に対する原則を説き、クローン技術の応用に対し、警鐘を発さねばならないと考える。

 

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