教化学研究3 現代宗教研究第46号別冊 2012年03月 発行
ヨーロッパにおける日蓮宗の開教事情について ─イタリア─
ヨーロッパにおける日蓮宗の開教事情について ─イタリア─
イタリア共和国
ピエモンテ州
モンフェラート地方
チェレゼート市
弘法山蓮光寺
タラビーニ勝亮
この二十年間、日蓮宗は海外布教非常に力を入れ、海外での寺院も増加してきました。現在、海外に置ける日蓮宗
寺院は三十ヶ寺になっています。しかし、日蓮宗の海外布教の歴史は最近始まった事ではなく、日蓮聖人の十三回忌
の後、六老僧の一人日持上人は北日本各地を布教しいくつかの寺院を開山した後、シベリアや中国に向いました。こ
れは日蓮宗だけではなく、日本仏教会全体で初めての海外布教となりました。後に日蓮宗に於ける海外布教史につい
て述べようと思いますが、その前に、現時点での海外に於ける日蓮宗の寺院はどのようになっているのでしょうか?
私は、最近出来た海外寺院の一つ、イタリアや南欧州の国々を担当している北イタリアにある小さな寺院「蓮光
寺」の主任を務めております。法華経・お釈迦様や日蓮聖人の教えと日蓮宗の伝統を海外で布教・指南するための日
蓮宗寺院は現在時点では、全部で三十一ヶ寺あります。その寺院のある地域はハワイ諸島、北南米、東南アジア、東
アジア、南アジアと欧州ですが、その内訳は左記のとおりです。
131 ヨーロッパにおける日蓮宗の開教事情について(タラビーニ)
古代地中海文化と仏教の初期接点
仏教の世界的な布教や伝道は、最初古代インドの大陸に全
国的に広がり、そして北方に伝播していきました。インド全
大陸の大王であったマウリヤ王朝のアショーカ王(三〇四.
二三二BC)は、仏教徒となり、臣民のための幸福に貢献し、
その他の国との関係などを仏教の基礎に基づいて努めてきま
した。彼はまた、仏教を弘めるため人を助ける事に尽力し、
「アショーカ王の摩崖碑文」と呼ばれている三十三の石柱を
建てました。これらの摩崖碑文では、彼はダルマや道徳を教
え、いくつかの布告の中には、伝道や布教の範囲を指摘した
箇所もあります。
アショーカ王は仏教を弘めるために、遠くの国々に大使
(多くの場合は僧侶でした)を派遣してきました。このアシ
ョカ王の摩崖碑文により、仏教はインド全大陸、そして北方、
北西方と北東方に広がっただけではなく、ヨーロッパや地中
海の文化との接触を行った事を知ることができます。 摩崖
碑文第十三では、左記の通り書かれています。
ハワイ諸島5ヶ寺
北米
・アメリカ合衆国
( カリフォールニア 3ヶ寺、オレゴン州 1ヶ寺、ワシント
ン州 2ヶ寺、ネヴァダ州 1ヶ寺、テクサス州 1ヶ寺、イ
リノイズ州 1ヶ寺、ニューヨーク 1ヶ寺、ボストン 1ヶ
寺、ケンタッキー州 1ヶ寺、南カロライーナ州 1ヶ寺)
・カナダ
14ヶ寺
13ヶ寺
1ヶ寺
南米(ブラジル) 2ヶ寺
欧州(英国、ドイツ、イタリア) 3ヶ寺
アジア
( インド 2ヶ寺、スリランカ 1ヶ寺、マレーシア 2ヶ寺、
シンガポール 1ヶ寺、インドネシア1ヶ寺、韓国 1ヶ寺)
8ヶ寺
総合計: 31ヶ寺
「教化学研究3」2012. 3 132
今では、神々の最愛士の最高の征服は法(ダルマ)によるものである。その「ダルマの征服」によって、
勝利を受賞される事が出来ました。そして六百ヨージャナ(由旬)離れても、ギリシャのアンチアンティオ
コス王の治世の国にしても、以遠のプトレマイオス、アンティゴノス、マーガスとアレクサンダールールと
いう四人の王様達の治世の国々にしても、南方のチョラス族やパンディヤス族とタンラパルニ族の場合も同
様であります。(筆者訳)
その六〇〇ヨージャナ(由旬)という距離は約六五〇〇キロであり、その測定は中央インドからギリシャ迄の距離
を計算されたものでありました。アンティオコス王のセレウコス帝国がシリアからバクトリアに広がっていました。
その帝国内にて、初めて仏像が誕生し、全世界の仏教文化や美術に採用さました。アンティオコス王はアショーカ王
の隣人でした。プトレマイオス王はエジプトのアレクサンドリアを支配した人です。アンティゴノス王やマーガス王
の二人は(ギリシャの)マケドニア王国の王達です。アレキサンダー王はエピラス王国(現在バルカン諸国)のシチ
リア人とマケドニア人の混血の人でした。チョラス族やパンディヤス族は南インド(アショカ大王の帝国外)であり、
タンラパルニはスリランカの古代名でありました。
ローマ帝国の時代には、ローマと仏教の世界との間の相互作用の例は、古代の作家によって文書化されています。
ローマの歴史的記録によると、紀元十三年には、インドのパンディオン王(Pandya)はローマ皇帝のアウグストゥ
スの所へ大使を派遣したことが知られています。その使者はギリシャ語の外交手紙を携え旅行しました。そして使者
と共に旅をした一人はインドの出家者(..rama.a)でした。その出来事は大変印象的で、当時のギリシャ地理学者ス
トラボンやローマ領事・歴史家のルシウスカシアスディオの報告によると「彼の墓を立て、その碑文には
『ΖΑΡΜΑΝΟΧΗΓΑΣ ΙΝΔΟΣ ΑΠΟ ΒΑΡΓΟΣΗΣ』(「インド・バリガーザ国出身の沙門大師」)と記され、プルタ
133 ヨーロッパにおける日蓮宗の開教事情について(タラビーニ)
ルコスの時代でもその碑文が見られたと言う。」こんな碑文には、インドからの宗教者は古代地中海の諸国に訪問し
たことが明確に示されています。
古代インドでは、ギリシャ人とローマ人による紅海の開放後に発生した多くの国と強い海上貿易を確立していまし
た。紀元最初の二世紀間、皇帝アウグストゥスの時代(紀元前六三年.紀元十四年)に帝国による確立された比較的
平和な時期には、インド西部とローマ間の貿易が増加され、その重要な商業関係は古代インド西部とローマとの間で
存在していました。
ローマの文献に記録されているように、ローマはインドのトラ、ヒョウ、サイ、ゾウ、猿、クジャクや蛇を輸入し
ていました。また、「ペリプルス」の記録によると、ローマの女性はインド産の真珠を身に着け、そしてインドのハ
ーブ、香辛料、コショウ、ライシーアム、コスタス、ゴマ油や食品用の砂糖を食料品として指定していました。衣料
品には、インド製の綿や藍も色として使用され、そしてローマ帝国はインド産のライム、桃、そして薬用その他の果
物を輸入していました。結果的には、古代インドの西部にはローマの金が大量に流れました。
その古代インドやローマの間の顕著な貿易の背景には、ローマが当時のインドの仏教徒とヒンドゥー教徒が使用し
ていた「ジャパマーラー」(念珠、数珠)も輸入していました。初期の頃のキリスト教徒はその輸入されたマーラー
を選択していましたが、そのままの仏教風ではなく、キリスト教用にしたマーラーを利用されるようになりました。
サンスクリット語の「ジャパマーラー」(実際には「数えるためのビーズ」と意味する)からラテン語の「ロザリウ
ム」(ローズの木製ビーズの意味)に誤訳され、初期のキリスト教徒には、このロザリウムを採用して以来、地中海
のキリスト教(特にカトリック教とギリシャ正教)の宗教文化の不可欠な一部のものとなりました。
「教化学研究3」2012. 3 134
初代教会と仏教との振り合い
仏教に関する情報は、初期キリスト教の世界にも入っていたといいます。紀元二〇〇年頃は、初期キリスト教神学
者であるアレクサンドリア市のクレメンスは「ボウッタ」(Boutta)の信者に関して初めて言及しました。クレメン
スは自作品の「ストロマティス」では、「古代、様々な国に光を流して、野蛮人のうちに栄えていた。その後ギリシ
ャに来ました。」というボウッタの哲学の起源を説明しています。その後は、「インドの『ジムノソフィースト』(裸
の哲学者という古代ギリシャ語のインドの苦行を課す僧侶という意味)も数多くおります。彼らの中には、二つのク
ラスがあり、一つはサルマナエ(Sarmanae、沙門)で、もう一つはバラモンと呼ばれている。そして、その中でも
『ボウッタ』の戒律を守る人もいます。それはなぜならその『ボウッタ』が非凡な神聖のための、神の栄誉に上昇し
たというからであります。」と記しています。
その後、紀元一〇〇年頃、バルラーム(Barlaam)とヨザファト(Josaphat)の伝説を通して、仏陀の人生の物語
は西洋のキリスト教行者の理想に影響を与えるようになりました。その物語はアトス山の僧侶エウティミウス
(Euthymius)によりグルジア語からギリシャ語に翻訳され、その内容はインド出身の二人のキリスト教聖人の物語
でありました。一人はキリスト教仙人のバルラームで、もう一人は改宗された王子のヨザファトの話しでありました。
この二人の物語は、古代インドの仏教僧アシュバゴーシャ(A..vagho.a、馬鳴)のサンスクリット語の釈尊伝、紀元
二世紀「ブッダチャリタ」に基づいたものであり、釈尊の出家のについて語ったものです。それが中央アジアから西
方に渡たり(ペルシアの)マニ教の釈尊伝の中の出家の話しの解釈を通して出来たものとして最も可能性が高いと思
われます。そして、その物語は八世紀頃にイランのペレーヴィ方言から翻訳されたアラビア語版のものがバグダッド
のマニ教コミュニティに登場します。サンスクリット語の「Bodhisattva(菩薩)」という単語は、ウイグル語の
135 ヨーロッパにおける日蓮宗の開教事情について(タラビーニ)
「Bodhasaf(ボダサフ)」となり、後にアラビア語の「Yudhasaf (ユダサフ)」に変わり、グルジア語の「Iodasaph
(イオダサフ)」とギリシャ語の「Iosaph(イオサフ)」となり、そして最終的にラテン語の「Josaphat(ヨサファト)」
に進化しました。その後、キリスト教ではヨザファトは聖人となりました。要するに、キリスト教の中では、この古
伝を通して、お釈迦様がキリスト教の聖人に形質転換されました。
実は、イタリア南部ナポリ市にヨザファト聖人を捧げる小さな教会が二つあると聞いていますが、まだその教会が
見つからず、訪問する事が出来ていません。もしこれが本当であれば、ヨザファト聖人を捧げる教会は実際にはお釈
迦様に捧げる教会という事になります。また、このナポリの教会以外に、北イタリアのパルマ市の大聖堂の洗礼堂入
り口の上にはヨザファトとバルラーム両方の彫刻が施された画像があります。それに対して言及することは興味深い
ものでしょう。そして、このヨザファトとバルラームの崇拝は未だにギリシャ正教にみられ、二人の饗宴日は毎年八
月二十六日に祝われています。
ヨーロッパのキリスト教の宣教師や使者とアジアへの旅の歴史
古代ヨーロッパの歴史に於いて、仏教と最初の接触の後、西洋は中世時代以来、仏教との接触は見られません。し
かし、ヨーロッパが再び仏教と接触したのが一二〇〇年代に始まり、インド、中国、東南アジア、チベット等に大使
や宣教師を派遣しました。この時期、日本では宗祖日蓮聖人の時代でありました。その歴史の背景に於いて、多くの
国際的な旅行者はアジアの方面へ出かけ、その旅行者はアジア諸国の景色、社会、政治、文化等を見聞して、目にし
たものを欧州の政府やローマ法王に報告しました。その報告の中にはアジア各国の仏教信仰や伝統についても言及さ
れています。
大モンゴル帝国皇帝に会見するため、ローマ法王イノセントは使者四名を派遣しました。最初の使者はイタリア人
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のジョバーニ・ダ・ピアノ・デイ・カルピーニ(Giovanni da Piano dei Carpini)というペルージャからのフランシ
スコ会の修道士・宣教師でした。彼は一二四三年大モンゴル帝国の朝廷に入り、その当時、崩御したばかりのオゴデ
イ・カアン(皇帝)の長男であるグユク(後に第三代モンゴル皇帝となりました)に受け入れられました。カルピー
ニ師の次はイタリア北部クレモナ出身ドミニコ会の修道士のニコーラ・アシェリーノ・ディ・ロンバルディア(Nicola
Ascelino di Lombardia)でした。彼は一二四五年に帝国のバイジュ・ノヤン将軍にも近づき、そして一二四九年には、
第三の使者はローマ法王の使者だけなく、フランス王のルイ九世の大使としても派遣されたドミニコ会の宣教師のア
ンドレ・デ・ロンジュモー(Andre de Longjumeau)であり、彼は第三皇帝となったグユク・カアンに受け入れら
れました。最後は、ローマからの大使、フランダースからフランシスコ会の修道士・宣教師のウィレムヴァン・ロイ
スブルーク(Willem van Ruysbroeck)で、一二五四年にモンケ・カアンに謁見され、その旅中、ロイスブルークは
モンゴルや中央アジアの社会・地理・風俗・宗教・言語を旅日記として「東方諸国旅行記」を書き残しました。これ
ら初期旅行者の後継は、有名なマルコ・ポーロであります。
ヴェネツィアの商人は一二七一年.一二七五年の間に元朝廷に到着し、その後二十年間程滞在し、クビライ・カア
ンに接受されました。その後、スペインのイエズス会の宣教師フランシスコ・デ・ザビエルはポルトガル王ジョアン
三世に命じられ、一五四二年インド・ゴアに派遣され、そして一五四五年には東南アジアのボルネオ島やムルク諸島
(マルク諸島やモルッカ諸島、香料諸島の事、現在インドネシア共和国内)を訪問しました。最後は一五四九年日本
に入国し二年間滞在しました。
フランシスコ・ザビエルとイエズス会のキリスト教宣教師達の布教により多くの九州大名も含め十万人以上の信仰
者をキリスト教に改宗させ、更にザビエルは仏教の教えと実践の詳細なレポートを西洋に遣わしました。そしてフラ
ンシスコ会の宣教師ジョヴァーニ・ディ・モンテコルヴィーノが一二九一年インドに入国し三年間滞在した後、一二
137 ヨーロッパにおける日蓮宗の開教事情について(タラビーニ)
九四年中国に渡たりました。そして一三〇八年モンテコルヴィーノはニコラス法王の任命に応じて、北京の初代大司
教に任命されました。
イタリアイエズス会の司祭ミケーレ・ルッジェリやマテオ・リッチとその他十二人の宣教師と共にアジアに向けて、
ポルトガルからヨーロッパを出発しました。彼らは先ず一五七八年にゴアに到着し、一五八二年にマカオに入りまし
た。中国へ大使を派遣するようローマ法王に依頼するためルッジェリ師は一五八八年十一月中国を出発して、ローマ
へ向いましたが彼はその目標を果たせずに、途中で死亡してしまいました。一世紀程後にイタリアイエズス会の司
祭・宣教師のイポリート・デジデーリは一七一六年インドのゴア経由でチベットの古都ラサに到着しました。デジデ
ーリはヨーロッパで初めてチベット語に長けた人であり、ラサにある三大仏教寺院の一つセラ寺に入りました。当僧
院大学で暫く生活をしながら、デジデーリはその他の仏教僧侶と共に学習及び議論に参加しました。
十七世紀.二十世紀のヨーロッパと仏教との関係
十七世紀に注目すべきは大勢の仏教徒がヨーロッパに渡り仏教の信仰や伝統を守りながら、生活を始めるようにな
った事です。一六三〇年チベット仏教の信者であったモンゴル人は南シベリアのヴォルガ地方の草原に入りカルミキ
ヤ国を設立しました。現在、この地方はロシア連邦内のカルミキヤ共和国となり、ヨーロッパでは唯一の仏教国とな
っています。
当時、「ブッダ」、また「佛様の教え」、「ブッダダルマ」、「仏法」、「仏教」という用語をよく聞くようになったヨー
ロッパでは欧州の言語で表現をする必要があり一八二五年にフランスで「Bouddhisme」という言葉を初めて使うよ
うになり、後にその新単語が英語に「Buddhism」、ドイツ語に「Buddhismus」、またイタリア語の「Buddismo」な
ど各国の言葉に翻訳されました。
「教化学研究3」2012. 3 138
一八七〇年以来、近代ヨーロッパにおける仏教への関心は早期の頃、ドイツの哲学者のアーサー・ショーペンハウ
アー(一七八八年.一八六〇年)やフレドリヒ・ニーチェ(一八四四年.一九〇〇年)、そして密教やオカルトに深
い興味を持つロシア神知学の学者ヘレナ・ブラヴァツキー(一八三一年.一八九一年)などのはヨーロッパ学界の間
で周回していました。
十八世紀後半における中央ヨーロッパ大学のサンスクリット語の研究の到来と共に、仏教のテキストやその他の書
物の利用が可能となり、仏教に関する議論が始まりました。一八四四年に著名なフランス人・東洋学者であったエウ
ジェーヌ・ブルノーフ(Eugene Burnouf)は、パリのコレージュ・ド・フランスで「L’introduction a l’histoire du
buddhisme indien」(インド仏教史入門)を出版しました。サンスクリット語とパーリ語の高度な技術を持って、ブ
ルノーフ氏は仏教の歴史の基本的なアウトラインを再構築し、いくつもの宗派とその教義との関係を示し説明しまし
た。一八五二年には、ブルノーフ氏は「Le Sutra du Lotus」(ル・スートラ・デュ・ロートゥス、法華経)をフラン
ス語に翻訳しました。この翻訳は、現在でも使用されています。
一八六〇年代には、英国海軍大尉ジョンM・ジェムズ(一八三九.一九〇八)は、海上ナビゲーション技術を教え
るために来日しました。ジェムズ大尉は「日本海軍の父」と呼ばれています。東京に在住していたジェムズ氏は、当
時の日本の政治家、関ヨシトモに出会い、日蓮宗仏教を知る事が出来ました。その後、ジェムズ氏は日蓮宗に改宗し、
熱心な信者となりました。ジェムズ氏は明治帝国政府に雇用され、後に海軍省の顧問に昇進しました。一九〇八年彼
は逝去、葬儀は身延山久遠寺法主第七八世のもと執り行われ、墓地は久遠寺の本堂の裏に立てられています。
英国では、サー・エドウィン・アーノルドが一八七九年に詩「The Light of Asia」(「アジアの光」)という釈尊伝
を執筆しました。その古典は現在でも、印刷されています。
一八八一年になると、T・W・リース・ダービッズ氏がロンドンの「パーリ語テキスト協会」を設立しました。こ
139 ヨーロッパにおける日蓮宗の開教事情について(タラビーニ)
の協会はパーリ語大蔵経の翻訳・編集を始め現在でもその作業が続いています。この時代フランス、ドイツやロシア
でも、学者は仏教経典をサンスクリット語、中国語、モンゴル語、チベット語から各国の言語に翻訳、編集、分析、
解釈等が行われています。
オランダでは、H・カーン氏が「法華経」や「インド仏教必携」を含む数多くのサンスクリット語の仏教教典を一
八九六年に翻訳・編集し出版しました。現在でも、仏教学部の学生はカーン氏の本を利用しています。
イタリアでは、東洋学者であったジュゼッペ・トゥッチ(一八九四.一九八四)はサンスクリット語やチベット語
の経典を翻訳や彼自身の研究を公開したことにより、欧州の仏教研究会に注目すべき貢献を与えました。多作の作家
で、トゥッチ氏は合計三〇〇冊の本を出版しました。トゥッチ氏は一九三五年に仏教に改宗しました。
ロシアでは、ヴァジリエフ氏、ミナイエフ氏、オルデンバーグ氏やスチェルバツキー氏は科学的に仏教研究を多い
に促進し百科事典ができました。一八九七年に、オルデンバーグ氏は「Bibliotheca Buddhica」(仏教百科事典)シリ
ーズを出版し現在までその百科事典は三〇巻まで出版されています。貴重な作でスチェルバツキーの「仏教の論理」
も同シリーズとして発表され、一九六〇年には、ダンマパダ(法句経)のロシア語訳も出版されました。
この特定期間を観察すると、ヨーロッパ大陸の国々が大乗に特化していましたが、英国は上座部仏教を中心的に傾
向したことが興味深いものです。
近代に於いて西ヨーロッパ人最初仏教僧となったのはイギリス人アラン・ベネット(Allan Bennett)でありました。
彼は一九〇一年にビルマで戒律を受け、法名は「アナンダ・メッテヤ」を授名をしました。三年後、ドイツ人アント
ン・ゲーテもビルマで出家しました。米国に移住していた最初のイタリア人の僧侶は、サルヴァトーレ・チオッフィ
(一八九七.一九六六)で、彼は一九二六年得度の際、「ロカンタ・セーラ」という法名を授名しました。
一九〇七年には、「英国とアイルランドの仏教会」が創立され、そして同会の受け継ぎ先は一九二四年に設立され
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たクリスマス・ハンフリーズ氏の「ロンドン仏教会」でした。それ以来、同仏教会は五十年間程、英国の仏教徒の中
心となっていました。
ドイツでは、作家のヘルマン・ヘッセが「シドハルター」という小説を書き、その釈尊伝を一九二二年に出版しま
した。それ以来、他国語に訳され、世界中でベスト・セラーとなりました。一九二四年には、ポール・ダールケ博士
が「ダス・ブーディステシュー・ハウス」と言うドイツで最初の仏教寺院を設立しました。
そしてフランスでは、アメリカ生まれのグレース・コンスタント・ルンスベリー女史(一八七六年.一九六四年)
が「La societe des amis du Bouddhisme」(仏教の友の会)を一九二九年パリに設立しました。
一九六〇年代には一九五九年のダライ・ラマと約十万人のチベット人亡命はヨーロッパの仏教界に大きく影響を与
え仏教は多くのヨーロッパ人にとって魅力的なものになりました。そして僧侶や信徒の小グループは文化的・精神的
な運動を展開していきました。その後、ヨーロッパ人は欧州に於いて仏教寺院、道場や研修センターを設立するため
に、上座部仏教の僧侶、禅師やチベトのラマを招待しています。
当時の仏教の布教にいて、最も有名な教師は曹洞宗の佐賀県出身の弟子丸泰仙(一九一四年.一九八二年)とフエ
出身のベトナム禅僧ティク・ナット・ハン(Thich Nh.t H.nh、一九二六年.)でした。弟子丸泰仙師は一九六七年
フランスに渡り、後に「Association Zen Internationale」(禅国際協会)を設立しました。ティク・ナット・ハン師
はベトナム戦争時、フランスに亡命して、南フランスにPlum Village Templeを開山し、「行動する仏教」と言う運
動を始めました。多作家であるティク・ナット・ハン師は一〇〇本以上の本を作文し、一九六九年に「Eglise
Bouddhique Unifi ee」(統一仏教教会)を設立しました。
欧州の仏教成長の傾向は一九七〇年.一九九〇年代に拡大を続け、禅宗、チベット仏教、上座部仏教そして日蓮正
宗創価学会への改宗者が増加し、諸国に仏教寺院や研修センター等が上場に設立されました。この時期、ヨーロッパ
141 ヨーロッパにおける日蓮宗の開教事情について(タラビーニ)
に多くのダルマ・マスター、教師と僧侶
の誕生や成長が注目されています。
一九七五年に「European Buddhist
Union」(欧州仏教連合会)はポール・
アーノルド氏によりイギリスで設立され、
そして一九七八年にスイスの「スイス仏
教連合会」(Schweizerische Buddhistische
Union / Union Suisse des Bouddhistes
/ Unione Buddhista Svizzera)
はチェコの仏教僧ミルコ・フリーバ(僧
侶名:ビク・クサラナンダ)により設立
されました。
一九八五年には、十八の仏教寺院を含
めてUnione buddhista italiana(イタリ
ア仏教連合会)がローマに初めて設立さ
れ、二〇一一年になると、当連合会の加
盟寺院は四五ヶ寺に増加しました。一九
八六年には、フランスの仏教連合会も設
立され、一九九〇年後半一四〇以上のチ
西ヨーロッパ:
フランス
ドイツ
イギリス
ベルギー
スイス
アイルランド
オーストリア
791,419~1,002,464人
284,015~892,620人
253,582~760,747人
31,332~104,443人
23,988~79,960人
9,552人
8,222~16,444人
南ヨーロッパ:
イタリア
ポルトガル
スペイン
トルコ
ギリシャ
キプロス
クロアチア
スロベニア
マケドニア
マルタ
モンテネグロ
122,965人
64,796~86,394人
47,370~200,000人
35,416~48,148人
10,773~15,517人
2,311~6,932人
1,343人
1000人
不明
不明
不明
北ヨーロッパ:
スウェーデン
ノルウェー
デンマーク
フィンランド
ラトビア
エストニア
アイスランド
リヒテンシュタイン
ルクセンブルク
36,478~91,194人
33,059~47,227人
11,113~27,782人
5,266人
2,178人
1,266人
631~1,261人
111人
不明
東ヨーロッパ:
ロシア
ウクライナ
ポーランド
チェコ共和国
ハンガリー
ルーマニア
ベラルーシ
アルメニア
ブルガリア
セルビア
700,000人
44,573人
38,384人
10,163~30,489人
9,939人
2,179人
1,151人
309人
不明
不明
現在ヨーロッパ仏教信者予想数
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ベット仏教寺院の完成を見ました。
一九九〇年代の後半から、欧州在住の日蓮宗ヨーロッパ人信者が誕生しました。一九九六年には、ヨーロッパでは
初めてロンドンに日蓮宗寺院が平井智親上人により開山され、その後、中央ドイツにも「大聖恩寺」と言う日蓮宗寺
院がシュテフェンス祥馨上人により開山された。そして二〇〇五年には日蓮宗の三つ目の寺院「蓮光寺」がイタリア
に開山されました。
日蓮宗の海外布教史
前にも述べましたが日蓮宗の海外布教史は近代始まったのではありません。日蓮聖人の十三回忌の後、六老僧の一
人日持上人は宗祖の大願「一天四海皆帰妙法」を達成するため、北日本布教の旅に出て、数ヶ寺を開山した後、シベ
リアや中国に渡りました。これは日蓮宗の海外布教の始まりでもあり、日本仏教に於いて初めての海外布教ともなり
ました。
近代の海外布教は、日本人の移民の歴史と深い関係を持っています。日本からの移民人数の多い順は、ブラジル、
アメリカ、カナダ、そしてペルーです。日本人移民数最大の国はブラジルで一五〇万人を数え、他の日系人社会はオ
ーストラリアや英国にもありペルーの日系コミュニティは八万人にもなっています。
近代日本人移民は一八六八年、明治維新の後に始まりました。渡米最初の日本人は、サトウキビ畑の労働者として
ハワイに移住しました。海外初めての日蓮宗寺院は、ハワイの日本人移民が働き、住んでいた地域に建設されました。
およそ十年後、アメリカ本土に最初の小さな日蓮宗寺院がロサンゼルス市内に設立されました。そして米国内では、
サンフランシスコ、ポートランド、シアトル、ソルト・レイク・シティ、シカゴ、トロント(カナダ)にも建立され
ました。今日、日蓮宗のハワイ開教から一一〇年になり、ホノルルにあるハワイ日蓮宗別院はもう既に一〇〇年を迎
143 ヨーロッパにおける日蓮宗の開教事情について(タラビーニ)
えました。そして二〇一五年には、ロサンゼルス寺院は、アメリカ開教一〇〇周
年を迎えます。
第二次世界大戦の前に、日蓮宗の寺院はブラジル、中国、満州、台湾、東南ア
ジアに設立されましたが、戦時中には、その寺院の多くが閉鎖されたり、或は地
元の仏教のコミュニティに引き継がれました。最近ではマレーシアにて日蓮宗の
檀信徒が現地で発見されました。
現在日蓮宗では、北南米大陸、ハワイ、東南アジア、南アジア、ヨーロッパに
三五ヶ寺が世界中で活動していますが、日蓮宗寺院名簿には三十一の寺院しか掲
載されていません。
日蓮宗「蓮光寺」が活動しているイタリアでは
イタリア仏教界や日蓮宗「蓮光寺」について語る前に、イタリアという国、そ
してその文化、地理と一般的宗教構成を説明しましょう。
イタリアという国は、どんな国でしょうか?
イタリアは、ヨーロッパで五番
目の人口の多い国(五九、六八五、二二七人)です。三〇一、三三八平方キロメ
ートルの総面積の質量が、海に囲まれた半島で、ヨーロッパで第四位の経済規模
を持ちます。国内は二〇の州と、その下位地方行政区域である一〇三の県に区分
されています。イタリア国境にはフランス、スイス、オーストリア、スロベニア
に北方を囲まれ、南ヨーロッパの国で、そのアドリア海の海岸にクロアチア、モ
現在、ハワイや北米全体で、合計19ヶ寺
ハワイ諸島5ヶ寺
北米
・アメリカ合衆国
( カリフォールニア 3ヶ寺、オレゴン州 1ヶ寺、ワシント
ン州 2ヶ寺、ネヴァダ州 1ヶ寺、テクサス州 1ヶ寺、イ
リノイズ州 1ヶ寺、ニューヨーク 1ヶ寺、ボストン 1ヶ
寺、ケンタッキー州 1ヶ寺、南カロライーナ州 1ヶ寺)
・カナダ
14ヶ寺
13ヶ寺
1ヶ寺
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ンテネグロ、アルバニア、マケドニアと西洋ギリシャの一
部に直面しながら、南部では、マルタ、チュニジア、リビ
アに近接しています。イタリア境界内二つの独立した国、
バチカン市国とサンマリノ共和国があります。そしてスイ
ス国内ティチーノ地方には一都市(カンピオーネ・ディタ
リア)もあります。国境付近で非常に多くの国々があると
いう事は、移民、言語、食べ物が何世紀にも渡って、他の
国の伝統や習慣はイタリアに大きな影響を与えています。
イタリア日蓮宗唯一の寺院「蓮光寺」は北西イタリアの
ピエモンテ州に設立されています。古代イタリア半島には、
有名なローマ文明だけでなく、様々な文明の歴史がありま
した。人類がイタリアに住み始めてから四万年程経ってい
ると言われています。ローマ文明以前の古代には、原始非
印欧人と印欧人の二つのタイプがありました。
古代イタリア原始非印欧人は高山族のレティ族やカムー
ニ族、トスカーナ地方からラツィオ地方の幅広い地域に在
中の古代エトルリア人、アドリア海、ヴェネト地方やコモ
湖のエウガネイ族、サルデニア島のシェルデン族、シチリ
ア島のエルミ族、シカーニ族とカラブリアのオエノトリア
国名 :イタリア共和国 Repubblica Italiana
面積 :30万1328km2(日本の約80%)
人口 :59,685,227人
首都 :ローマ
元首 :ジョルジョ・ナポリターノ大統領
政体 :共和制
民族構成:ラテン系イタリア人
言語 : イタリア語。地方により少しずつ異なる方言があり、また、国境
に近い町では2カ国語を話す。
イタリア統一:イタリア王国 1861年3月17日(共和制1946年6月2日)
宗教 : キリスト教(92.9%):その内容はカトリック(87.8%)、キリス
ト聖教(3.8%)、プロテスタント教(1.3%)
回教(1.9%)
仏教(0.3%)
ユダヤ教(0.1%)
145 ヨーロッパにおける日蓮宗の開教事情について(タラビーニ)
族でありました。古代イタリア印欧人はイタリック人、ケルト人、ギリシャ人、イリュリア人やヴェネト人でありま
した。
ところが、近代イタリアという国の歴史は未だ浅く、国が統一したのはたった一五〇年に過ぎず、一八六一年に統
一しイタリア王国となりました。それ以前は、各州・地方はそれぞれ別の国であり、一部の地域はオーストリア・ハ
ンガリー帝国に、他の地方はスペインやフランス、またアラブかローマ法王に永い間支配されるなどローマ帝国の崩
壊後から、様々な国がイタリア半島を侵略した影響により、各地方の文化・建築・食べ物・習慣・社会問題・心情や
考え方等が今でも異なっています。
「蓮光寺」が位置しているピエモンテ州の場合は、古代にケルト人が定住し、一時は古代ローマ共和国を脅かしま
したが、その後、征服されローマ共和国の版図に入りました。後にガリア・キサルピナに属す西ローマ帝国崩壊後に、
ブルゴーニュ、ゴート族(五世紀)、ビザンチン、ロンバルド(六世紀)、フランク(七七三年)によって繰り返し侵
略されました。九.十世紀には、マジャール(ハンガリー人)やサラセン人(アラブ人)もピエモンテに侵入しまし
た。中世から近世にかけてフランス系貴族のサヴォイア家に支配された(サヴォイア公国となった)。後にそのサヴ
ォイア家はピエモンテにサヴォイア王国を設け最終的にはイタリアの独立運動・戦争をピエモンテから勃発させ、一
八六一年三月十七日にイタリアを統一させ、全国の王家となりました。
地理的には、アルプス山脈南西部に接しており、北はヴァッレ・ダオスタ州、南はリグリア州、東はロンバルディ
ア州、東北部はスイス南西部のフランス語圏、西はフランス南東部、南西部はモナコに隣接しています。そのため公
用言語は州都のトリノを中心として、イタリア語をはじめフランス語とモナコ語(リグリア語)などであり、同時に
フランス語では、ピエモン(Piemont、「山のふもと」と意味する)と表記されます。その他の言語はピエモンテ語、
オクシタン語(フランス語系)、フランコプロヴェンサール語(フランス語系)、ヴァルサー語(古代ドイツ語系)や
「教化学研究3」2012. 3 146
147 ヨーロッパにおける日蓮宗の開教事情について(タラビーニ)
ロンバルディア語です。
現代のピエモンテの文化は特産品としてワインやトリュフがあります。イタリアを代表するワインの産地として有
名であり、バローロ、バルバレスコ、アスティ・スプマンテなどの銘柄を抱えています。トリュフは、黒トリュフだ
けではなく、ピエモンテの貴重な白トリュフは世界的に有名です。また、家畜、トウモロコシ、米、果物、栗とマロ
ンの産地も有名で、イタリアの重要な農業生産地域です。
現在イタリアでは、キリスト教やイスラム教の信者数に続いて、仏教は三番目に多い宗教です。人口の〇、三%は
仏教徒です。イタリアの仏教界に大乗仏教、小乗仏教、金剛乗仏教や仏教系の新興宗教の四つの部門に分割すること
ができます。
イタリアの仏教界
一二二、九六五人(人口の〇・三%)
大乗仏教
禅宗(曹洞宗・臨済宗)、韓国系禅宗、中国仏教(禅宗・浄土)、台湾禅宗、天台系、日蓮
仏教等、真言宗
小乗仏教
(スリランカ系)
金剛乗仏教
(Vajray.na、チベット仏教)
インターブディスター(Interbuddhista、諸宗派混雑寺院)
新興宗教
(創価学会、立正交成会、真如苑、真光教団、霊気等)
大乗仏教では、チベット仏教、禅宗(曹洞宗・臨済宗)、韓国系禅宗、ベトナム禅宗、真言宗、日蓮系仏教等の数
多くの宗派やアジアの伝統がイタリアに存在しています。
「教化学研究3」2012. 3 148
チベット仏教の場合は、当然大乗仏教ですが、ヨーロッパの分類方法に応じればチベット仏教は大乗仏教だけでは
なく「金剛乗仏教」(Vajray.na)と仕訳ける場合もあります。チベット仏教の宗派は主に四つの宗派のNyingma
(ニンマ派)、Kagyu(カギュ派)、Sakya(サキャ派)、Gelug(ゲルク派、ダライ・ラマの宗派)があり、イタリア
には、この四つの宗派の二十八ヶ寺が全国で活動しています。チベット仏教の信徒は、チベット難民の少数でありま
が、殆どの信者はイタリア人です。チベット仏教は現在のイタリアでは、禅宗のようにもっとも古く、現在、イタリ
ア伝統的仏教界をリードしているのが主にチベット仏教や禅宗です。
禅宗や禅系諸宗派は、チベット仏教のように多く、一番古く(戦前)からイタリアの仏教界をリードしてきました。
イタリアの一般の人は、仏教と言えばすぐ「禅」のイメージを想起します。イタリアにある禅宗や禅系の諸宗派は日
本の禅宗、曹洞宗や臨済宗であり、そしてアメリカ系禅宗、ベトナム禅宗、韓国禅宗、また中国や台湾禅宗です。
現在、イタリア仏教連合会に登録している禅宗寺院は二十ヶ寺ありますが、もっと活動していると思います。また、
ベトナム禅僧ティク・ナット・ハン系の集団・道場、アメリカ系禅宗寺院・道場が全国に数多く、そして韓国のソン
グ(「禅」のハングル読み)宗の一ヶ寺あります。
上座部のテーラヴァーダ宗は現在イタリアに於いて全てスリランカ系の寺院であり、七つ程の寺院があります。こ
の寺院の殆どの信者はスリランカ人の移民です。スリランカのテーラヴァーダ寺院は現在、主に民族寺院となり、イ
タリア人の信者はほんの僅かです。しかし、イタリアのアドリア海に近い一ヶ寺だけはイタリア人・欧州人を中心に
教化しています。
中国系仏教の中国寺院は現在三ヶ寺があり、一つは五千.七千人のイタリア在住の中国人のために最近建立された
台湾系禅宗の寺院「華義寺」があります。「華義寺」が建立される前に開山したのが「普陀山」というローマ市内に
ある寺院とフィレンツェ近くのプラート市の「普花寺」です。この寺院は全て中国人のための民族寺院であり、イタ
149 ヨーロッパにおける日蓮宗の開教事情について(タラビーニ)
リア人の仏教界と振れ合う機会はまだ少ないようです。この三ヶ寺はイタリア仏教連合会に登録していないようです。
イタリアには、伝統的な天台宗寺院は存在していませんが、天台系修験道の寺院一ヶ寺がヴェネト地方に存在して
います。
現在イタリア仏教界で信者数の少ない宗派は、天台山門派(比叡山延暦寺)及び寺門派(園城寺)や中国の天台宗、
.檗宗、日本の浄土系・真宗と奈良仏教の諸宗派です。
日本の新興宗教もいくつかがイタリアに入っています。例えば、創価学会、立正佼成会、真如苑、真光教団や霊気
等があります。創価学会や霊気は全国的に信者数も増えています。
最後になりますが、日蓮宗や日蓮系仏教の諸宗派、在家団体や新興宗教も全国的にありますが。イタリア仏教界の
信者数一二二、九六五人の半数は日蓮・法華経系の信者です。檀信徒数の順に、創価学会(SGI)、日蓮宗、日蓮
正宗、本門仏立宗、立正佼成会、単立グループ(宗派・寺院・信徒団体に無所属)や顕本法華宗の宗派、在家団体や
無所属信者になります。
イタリアに於ける日蓮系仏教界
(イタリア仏教界信者数の五〇%)
創価学会(全国に一八会館)
日蓮宗
日蓮正宗
本門仏立宗
立正佼成会
「教化学研究3」2012. 3 150
顕本法華宗
単立グループ
創価学会(SGI)という宗教団体は、日蓮系の仏教団体の中では古くからイタリアに存在しています。この宗教
団体は何回も名前を変更していますが、現在は「Istituto Buddista Italiano Soka Gakkai(IBISG)」(イタリア創価学
会仏教協会)と名付けています。
七〇年代.現在迄のイタリア創価学会の名称
INS(Nichiren Shoshu Italiana):日蓮正宗イタリア(一九七〇年)
Associazione Italiana Nichiren Shoshu(AINS):日蓮正宗イタリア連合会(一九八七年)
Associazione Italiana Soka Gakkai:創価学会イタリア連合会(一九九〇年)
Istituto Buddista Italiano Soka Gakkai(IBISG):イタリア創価学会仏教協会(一九九八年)
以前この宗教団体は、日蓮正宗の檀信徒団体でありましたが、長い間、同宗派と紛争をし日蓮正宗から破門されま
した。以前の創価学会の教義と宗教的習慣は日蓮正宗の法門や伝統を守っていましたが、破門されてから、その教義
が変化し続けてきました。
当団体のイタリア総本部はフィレンツェにあり、第二・第三本部はローマやミラノにあります。創価学会のヨーロ
ッパ総本部は以前パリにありましたが、フランス政府は「創価学会はカルト団体である」と宣伝したためその本部は
イタリアに移りました。南フランスの創価学会ヨーロッパの総本山であった研修道場を閉鎖しミラノ市外にあるコル
シコ市に一万平方メートルの新しい会館を建設中で、最初に出来上がるのが六千平方メートルで千人収容できる建築
151 ヨーロッパにおける日蓮宗の開教事情について(タラビーニ)
物です。創価学会の様々な批判にも拘わらずこの組織は非常にダイナミックで、常に成長している事と同時に、脱会
者も毎年非常に多い。そのため、全体の転身数はむしろ、多いでしょう。
この三つの本部を含めて、全国に創価学会の集会所は十八会館ですが、その会館の使用は特別な集いの為に使用さ
れ、一般的に毎日の活動は信者の家を利用しています。その会館は文字通り、全国すべての主要都市や地域に位置し
ています。
創価学会イタリア国内全
18
会館
北
部:ミラノ、ゲノヴァ市、ブレシャ市、ターラント市、ヴィチェンザ市、トリノ
中央部:ボロニャ市、チェーチナ市、フィレンツェ、アンコーナ市、グロッセト市、リヴォールノ市、ローマ
南
部:バーリ市、カタニア市、カリアリ市、パレルモ市、サルレルノ市
先程、創価学会は成長していながら脱会者も多く、組織全体の転身は大きいと説明しましたが、その理由はいくつ
かあります。最初は、教義的に見てみましょう。仏教は本来、三宝を尊ぶ宗教であり、どんな宗派も当然仏教の三宝
を礼拝しています。その三宝は、仏宝、法宝、僧宝の三宝ですが、宗派によってその考えや捉え方が異なります。従
って、各宗派の三宝観を見れば、その宗派の本質や価値観を見ることができるでしょう。では、日蓮宗、日蓮正宗や
創価学会の三宝に対するそれぞれの捉え方を簡単に調べてみましょう。
日蓮宗の三宝は:
仏宝:久遠の釈迦牟尼仏
「教化学研究3」2012. 3 152
法宝:妙法蓮華経
僧宝:日蓮聖人
日蓮正宗の三宝は:
仏宝:日蓮聖人(末法の御本仏)
法宝:南無妙法蓮華経の大御本尊(大石寺の板曼荼羅)
僧宝:日興上人
創価学会の三宝の場合は、二つの捉え方がある。
.創価学会は、元々に日蓮正宗の信徒団体でしたので、書面では日蓮正宗と同じです。
仏宝:日蓮聖人(末法の御本仏)
法宝:南無妙法蓮華経の大御本尊(板曼荼羅)
僧宝:日興上人
. しかし、信仰上では、実際の創価学会の捉え方が上記の三宝と異なりますが、創価学会の本音の姿は下記の通り
です。
仏宝:会長池田大作
法宝:会長の書、スピーチなどに顕す会長の仏教観・解釈
僧宝:創価学会の組織
この団体は、日蓮聖人の教えを大きく誤ってとらえていますが、それに気がついて、疑問を持つようになる人は学
会の中で少なくないようです。疑問を問うようになれば、それが学会幹部との摩擦の原因になる場合が多いので、後
153 ヨーロッパにおける日蓮宗の開教事情について(タラビーニ)
に、そういう人は脱会することとなります。創価学会を脱会した多くの方は日蓮宗、日蓮正宗、他宗派などに興味を
持ちお寺に参拝に来ます。中には仏教の信仰を完全に辞める人も少なくないようです。
右記の三宝の例を見ると、創価学会は「仏教協会」と言っていますが、実際問題、学会の会館または信者のご自宅
にしても、お釈迦様の存在は一切ありません。当団体は「本物の日蓮仏教」の宗教団体である事を宣伝していますが、
何処へ行っても、日蓮聖人のお姿でさえ存在していません。その代わりに各会館や多くの信者の自宅で、会長の写真
は必ず飾ってあります。佛様もなく、日蓮聖人もない宗教団体に対して、不満な気持ちを発生する信者は珍しくあり
ません。その様な人が日蓮宗と関わると、まず三宝から見る方が多いようです。もう一つの多い理由は、会長に対す
る過度の不信感などがあります。その他の理由もありますが、それだけで論文になる程、書く事が多いので此の辺に
致します。
日蓮宗に魅力を感じる脱会者は、我が宗門の仏教らしさです。三宝にしても、合掌姿にしても、他宗との全体的和
合、また仏教の教え修行と勉強を深く認識しているようです。
私は十三年前に、日本を離れ、まずロンドンの寺院の主任となりました。毎月イタリアにも出掛け、全国を回りな
がら布教してきました。最初は、お寺など何もないため、三人でローマの郊外にある海辺に行って、海に沈む夕日に
向って、お経、お題目を唱えました。二年後の二〇〇三年四月二十八日に、小さなお堂をローマで開き、そこから布
教を始めました。大勢の信者が来ることを期待していましたが早期の頃は数人しか信者さんがいなく、いつか大きな
お寺を開き、イタリアで日蓮宗の教えを全国へ弘めようと皆で語り、日蓮聖人の夢の「一天四海皆帰妙法」を達成す
るように一緒に頑張ろうと誓いました。ローマの小さなお堂は後年に閉鎖し、北イタリアのミラノ市外に一時的に移
し、「蓮光寺」を二〇〇五年に建立しました。その後最終的にもっと広い所に移転しようとのことで、現在のピモン
テ州東部のチェレゼート市に建っています。
「教化学研究3」2012. 3 154
長年、私にとって大きなインスピレーシヨンや励ましになっている日蓮大聖人の御遺文の中に二つの文書がありま
す。その文を若い時からずっと読み続いています。一つは「諸法実相抄
(1)
」からの一節です。
日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかる
べし。是あに地涌の義に非ずや。剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とす
るなるべし。ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給ふべし。
イタリア人の信者は、各地域にいますが、大多数の信者は大都市にいます。主なサンガはトリノ、ミラノ、ジェノ
ヴァ、フィレンツェ、アドリア海、ローマ、ナポリ、南イタリア等、全国的に点在しています。右記の「諸法実相
抄」の一節のように、ここ数年、信者は各地に少しずつ毎年増加してるだけではなく、イタリア国外でも、フランス、
スペイン、ポルトガル、スイス、ポーランド、ギリシャ、トルコやアフリカ等にも少しずつ新しい信者が誕生し、毎
年増えています。その信者数の約九〇%は元創価学会の脱会者や元日蓮正宗の信者です。この状況は現在、海外にあ
る日蓮宗寺院や組織も殆ど同様です。多くの元学会員はSGI内で本物の仏教信仰、研究・学習や修行をする事が出
来ない場所であると実感し、脱会を決心するようです。そして、折角、法華經や日蓮聖人の教えに巡り会ったのにど
うすればその信仰を続けて行く事が出来るだろうと悩み、大勢な方々が今、日蓮宗にその助けを求めようとしていま
す。
これらの人々(特に元学会員)に対し日蓮宗への入信を許すには、あまりにも仏教徒としての教育や価値観が異な
っています。まして、脱会者は、仏教の教えを知らず、法華経の信者だと言ってみても、法華経を読んだ事がない人
が殆どです。脱会者を卒業させ、本物の仏教徒にするには、我々開教師の大きな責務ではないでしょうか。
155 ヨーロッパにおける日蓮宗の開教事情について(タラビーニ)
「蓮光寺」では毎月イタリア、フランス、スペイン等で法要、法華経や御遺文の勉強会、研修会、作務行、日曜礼
拝などの活動を当山、各地域やインターネット(スカイプ通信を通して)で開催しています。また、その研修教材等
を配り、活動や行事を促進する為、いくつかの方法を利用しています。例えば、電話連絡と相談、携帯電話からのテ
キスト・メッセージ、インターネットのホームページやインターネットでソーシャルネットワーキングを通して、法
華経や日蓮聖人の御遺文、仏教の基本知識や価値観、お寺の法要、行事と活動スケジュール、法話、翻訳されたもの
などをイタリア語、フランス語、スペイン語、英語等で配信し、教材を各国の言語で翻訳し、イタリアで出版するよ
うに作業をしています。
大きな問題点は、現在の日蓮宗では、日本語や英語の教材は豊富にありますが、ヨーロッパ人の殆んど(英国、ア
イルランドや北欧以外)は英語がよく分かりません。日蓮宗の出版物を読む事が困難を極めています。そのため、
「蓮光寺」では日蓮宗勤行要典を各国の言語に訳し出版しています。また、欧州の言語版法華経は、フランス語以外、
全てが創価学会から出版されているサンスクリットからの直訳のものしか有りません。その為、蓮光寺では、まずイ
タリア語版の法華経(三部経)を翻訳している最中です。日蓮聖人の御遺文もイタリア語、フランス語、スペイン語、
ギリシャ語、トルコ語等に毎月、原文から翻訳作業をしています。
歴史に於いて、ヨーロッパは仏教と多少触れ合う事があり、いくつかのものが仏教からヨーロッパの宗教や生活に
影響された事があるにも係わらず、欧州は非仏教国であり、キリスト教に深い関係のある地域であります。現在、ヨ
ーロッパのメンタリティーは少しずつ変わってきて、仏教に対して大分関心を持つようになっていますが、ヨーロッ
パには日本人の移民地が殆んどないため、こちらの日蓮宗寺院は民族寺院にはなりません。日蓮宗が完全に各国に根
を据えるには、長い時間や動力が必要でしょう。そのため、当山のヨーロッパ信者には、日蓮聖人の御慈悲や勇気、
決してあきらめない精神を全員に教え、その精神をこの「寂日房御書
(2)
」の一節を通して教えていければと考えており
「教化学研究3」2012. 3 156
ます。
かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思て、日蓮と同じく法華経を弘むべきなり。
註
(1)
『昭和定本日蓮聖人遺文』七二六頁
(2)
『昭和定本日蓮聖人遺文』一六七〇頁