教化学研究3 現代宗教研究第46号別冊 2012年03月 発行
私から見たアメリカ開教事情
私から見たアメリカ開教事情
私が今迄に赴任したユタ州ソルトレイク市、ワシントン州シアトル市、カリフォルニア州ロスアンゼルス市、そし
て現在のネバダ州ラスベガス市のお寺での経験と体験を通してお話させて頂きます。開教師は宗務院より派遣ですか
ら、各地へ赴任先が変わります。
北米開教区には日蓮宗寺院、教会並びにサンガが一五ヶ所あり、中には事務所を借りて週に一度布教している所も
あります。
教師の半数は私の息子も含めてアメリカ人です。現地生まれの現地育ちの教師は通常開教師ではなく、国際布教師
と呼ばれております。
一九七一年七月、金井上人と結婚してユタ州ソルトレイク市の日蓮仏教会へ赴任。管轄はユタ州、アイダホ州、コ
ロラド州、ワイオミング州、ネブラスカ州と広範囲ですから泊りがけで信者さんの家を訪問しました。金井上人は日
本語学校、サンデースクール、さらに英語法華経講座をスタートし、その活動の一環として友人で高校の英語の先生
Jack Christensen さんが、中学生を対象とした〝NICHIREN.という教科書とその本の教師用マニュアルを英語で
書いて下さいました。お寺はもともと一世の方々の憩いの場として設立されていましたので、詩吟、華道、茶道、囲
碁、将棋と宗派を超えてよく人々が集まっていました。大きな法要の後、お斎の接待その後、余興が必ずあり、一世
の方々が小さい頃習った歌や詩吟を毎回同じ人が同じ歌を唄い、なごやかな雰囲気でした。
息子三人はこのソルトレイク市で生まれ、二世の女医さんのお母様は誕生祝いに太巻き寿司を三本持って来られま
した。その当時、お寿司はお祝いに欠かせない食べ物でした。アメリカにはお米とお醤油が既にあり、一世の人達は
アメリカの材料で日本風に上手に手作りされていました。どんなやり方で作ったのか、熱心に教えて下さいました。
藤本味噌店から、にがりを分けてもらい、大豆からお豆腐を、果物からジャムを、グリーン・プラムから梅酒を、小
麦粉からうどんを、そして各種野菜から東京漬(福神漬け)などを作りました。コーン・ミル(とうもろこしの粉)
に干した大根をレーズン(干しぶどう)と一緒に漬けたぬか漬けはとても美味しかったです。ソルトレイク市には二
軒の日本食料品店があり、そのうちの一軒の和田商店のご主人がある日、小豆を選んで袋詰めされていました。小石
やごみを除きながら袋に入れる作業は時間がかかります。そのご主人は「お客様に買ってもらう品だからこそ一つ一
つ丁寧に袋へ入れてるんです。」と言われました。いまだに心に残っている言葉です。
一九七九年七月、ワシントン州シアトル市の日蓮仏教会へ赴任。管轄は、ワシントン州及びカナダのバンクーバー
迄です。お隣のポートランド日蓮仏教会へは片道、車で三時間ですが毎年、お花祭りとお会式はお互いに週を変えて
主任と信徒が訪問し合いました。シアトル日蓮仏教会では春と秋にお寺の資金作りの為、バザーを開催。手作りのチ
ャーメン(炒.)、お饅頭、芋菓子、太巻き寿司、ばら寿司(ちらし寿司)、アップルパイ、チキン照り焼き、カステ
ラ、クッキース等を売りました。
佐渡の鬼太鼓座のアメリカ公演がシアトルであり、見に行きました。そのメンバーの一人は昔、金井上人がロスア
ンゼルスのお寺で教えていたサンデースクールの生徒さんでしたので楽屋を訪ねました。「皆、お腹がすいていて、
どこか食べる店はありませんか?」といわれ、「もし良かったらお寺へ来られませんか。夕食をご馳走しますよ。」と
私は十三人のメンバーをお寺へ招待しました。夕食後、二階の本堂へお参りした後、大太鼓、団扇太鼓を見て、今晩
の夕食のお礼といって即興で素晴らしい太鼓のパフォーマンスを披露して下さいました。それが縁で「シアトル日蓮
太鼓グループ」が発足。和太鼓はワインの樽の両サイドを少し切り落とし、皮はローハイドという牛のなめし皮を張
り、信者さんと一緒に作りました。さらに団扇太鼓用に低い台を作り、二本のバチで叩けるようにしました。お寺の
年中行事や日系人の催しに数多く出演し、最後は炭鉱節を皆で歌い、お上人が太鼓を叩き、会場の人々はホールで踊
り、大変喜ばれたものでした。
私の友人、Mari Hooten さんが金井上人が書いたDial A Sermon と言う「三分間テレフォン説教」の英文を校正
して、英語でわかり易くテープに吹き込んで下さいました。この「三分間テレフォン説教」は日蓮宗以外の方々も聞
いて下さったようです。退任するまで、月二回吹き替えの説教は六〇数話続きました。その頃はコンピューターはも
ちろんなく、インターネットもない時代でした。
一九九四年九月、カリフォルニア州ロスアンゼルス市の日蓮宗米国別院へ赴任。カリフォルニア州は日本全土が入
る広さです。管轄は北はサンタバーバラから南はサンデイエゴ迄です。普段お寺参りが出来ない信者さんの為、家庭
集会を開き、往復四時間、車を走らせていました。ロスアンゼルスには仏教連合会があり、西本願寺、東本願寺、浄
土宗、真言宗高野山別院、禅宗の方々と、毎月一回会合を持ち、各宗が当番会場となり、昼食を出しておりました。
日蓮宗では、婦人会の方々と一緒に手作りのお料理を接待し、他宗のお坊さんから「日蓮宗さんはいつもご馳走です
ね」と喜ばれていました。四月のお花祭りと十二月の成道会を合同で催し、ある年には本物の象さんと一緒にリトル
東京を練り歩いたこともあります。他宗のお坊さん達と親交を深めることができ、良い思い出となりました。
金井上人は布教に関して、時代の先端をいっており、丁度インターネットが始まった頃の一九九七年、宗務院や、
開教布教センターでもしていなかったホームページを開設。信者さんの中にコンピューターに詳しい方がおられ、説
教集やお寺の行事などの情報を伝えました。日蓮宗に関しての英文のホームページは初めてのことでしたから、世界
中から問い合わせが殺到し、E-Mail での応答に追われ、その都度、宗務院や他の方を紹介致しました。
一九九八年、「和讃を習って世界中の人々に教えるように」と私の夢枕に出ました。「和讃」を知らない私は信者さ
んと二人で上野から夜行列車で弘前迄行き、紹介して頂いた工藤上人とお会いし、車で西津軽の「永昌寺」田端上人
のところまで連れて行って頂きました。その場で田端上人から厳しい特訓を受けました。いまだに幼稚園程度ですが、
ロスアンゼルス、ヒューストン、シアトル、イタリア、ボストン、さらにはカリフォルニア州ヘイワード市の開教布
教センターへ和讃の手ほどきに行きました。習う人は日系人よりも非日系人の方が多く、アメリカ人、イタリア人、
フランス人、ポルトガル人、スペイン人、メキシコ人、イギリス人等です。言語によってローマ字で書いても発音が
出来ない人たちが大勢いました。例えば、スペイン語では〝H.を発音しませんが団扇太鼓で「和讃」を奉唱出来、
皆驚いていました。これからもいろいろな国に手ほどきに参りたいと思います。
二〇〇七年一〇月、ネバダ州ラスベガス市に移住。金井上人の長年の夢でありました新地開教としてネバダ観音寺
を設立。まだ自宅での布教ですから、公には宗教活動が出来ません。来年半ばにはもっと広い建物を購入してお寺ら
しく直し、そこで太鼓を叩き、お題目を唱え、遠慮なく声を大にしてお経を読み、未信徒の方たちにも気軽に立ち寄
れる場所にしたいです。
二〇一〇年八月初め、ラスベガス市サンセット公園で第一回広島、長崎全世界原爆犠牲者の為の灯篭流しをアトミ
ック・テスティング博物館の主催で行いました。灯篭流しに先立ち、金井上人の導師により信徒と共に読経をささげ、
お題目でご回向致しました。地元のテレビ局が取材に来て夜のニュースの時間に画面いっぱい金井上人がインタビュ
ーされている様子が写っていました。約一〇〇基の灯篭を二〇基ずつ分けて地元のボーイスカウトの協力を得てロー
プでつなぎ、池に流しました。
第二回灯篭流しの二〇一一年八月は特に去る三月十一日の東日本大震災の犠牲者の霊に冥福を祈りました。
ラスベガスは世界中の人々が観光に訪れる町です。各国から来られた旅行者がネバダ観音寺に立ち寄り、お題目に
結縁してもらい、そして言葉は違っても共に、「南無妙法蓮華経」と唱えて、幸せな人生が送れるよう願っておりま
す。
こうしてみますと、赴任先々でそれぞれ布教活動を助けて下さる変化の人が現れ、皆さんに大変感謝しております。
ソルトレイクの町を歩いている時、.Excuse me !..Are you Chinese ?..No !..Are you Korean ?..No !.
.What is your Nationality ?.と誰もJapanese と言ってくれなかった時代、又、財政面で困窮し、金井上人はパート
タイムでガーデナー(庭師)を始めたり、ユタ大学哲学科の勉強をしながら日本語科教師の職を得、大学卒業と同時
にアメリカの銀行の夜間のコンピューター室への就職など、家族の為に働いて下さいました。次男が生まれた時、私
は病院ですから二歳の長男はベビーシッターがいないので、一緒に大学へ朝七時に行き、金井上人が教えている間、
一番前の席に座っていました。
アメリカに住んで早や四〇年、各地へ赴任し、ある意味で波瀾万丈の人生ではありましたが多くの方々に支えられ
てここまできました。今は幸せな人生であったと思います。アメリカの大自然のエネルギーを頂き、他の人が経験、
体験出来ないことが出来たのですから。これからも多くの方々にお題目の力で心の安らぎが得られるよう、日常の生
活を通して、アドバイスをしていきたいです。これが私に与えられた使命だと思います。
私は二ヶ月に一度発行のお寺のニューズレターに巷で見たり、聞いたりしたことや新聞、本を読んで感動したこと
等を小話としてイラスト付きで書いております。嬉しいことにファンが増えてきております。
アメリカ生まれの三人の息子達は得度し、長男は信行道場を修了し、来年には荒行に入れるよう、あるお寺で修行
をさせて頂きます。現在、日本在留資格を申請中です。
皆さん、国は違っても、心は同じです。一人でも多くの方々にお題目の素晴らしさを広めようではありませんか?
最後にお願いがございます。
キリスト教信者数が一九九〇年で八六・二%、二〇〇三年で七九・〇%と減少したとはいえ仏教徒の大変少ないア
メリカでの布教は並大抵ではありません。特にこれからの世の中は精神面での正しいアドバイスが必要となります。
それには指導する立場の私たちがもっと各方面の知識を勉強しなければいけないと思います。どうか各分野でご活躍
されていらっしゃる皆様、アメリカへ足を運んで、私たちの為にセミナーやワークショップを開いて頂きたく、よろ
しくお願い申し上げます。
ご清聴有難うございました。 南無妙法蓮華経
105 私から見たアメリカ開教事情(金井)
参考資料
北米開教区寺院教会及びサンガ(2011年1月現在) 金井久美子
年数
1)ロスアンゼルス日蓮宗米国別院(カリフォルニア州) 97年
2)シアトル日蓮仏教会(ワシントン州) 95年
3)ポートランド日蓮仏教会(オレゴン州) 81年
4)サクラメント日蓮仏教会(カリフォルニア州) 81年
5)シカゴ日蓮仏教会(イリノイ州) 60年
6)トロント日蓮仏教会(カナダ国) 60年
7)日蓮宗みのり会(オレゴン州) 37年
8)サンノゼ妙覚寺別院(カリフォルニア州) 31年
9)ニューヨーク大聖恩寺(ニューヨーク州) 17年
10)レキシントン日蓮仏教コミュニテイー(ケンタッキー州) 6年
11)テキサス日蓮仏教サンガ妙見寺(テキサス州) 5年
12)グレーター・ニューイングランド日蓮サンガ(マサチューセッツ州) 4年
13)シャーロット日蓮仏教会妙声寺(ノースカロライナ州) 4年
14)ネバダ日蓮仏教会観音寺(ネバダ州) 4年
15)ニューミッション・サンフランシスコ(カリフォルニア州) 2年
「Wikipedia」
日系アメリカ人は2005年の国勢調査において、1,221,773人。アメリカ合衆国
の総人口の0.4%を占めている。日系アメリカ人は初めてアメリカにわたった
第一世代のことを一世、そのこどもたちの世代を二世、三世、四世、五世と呼
んでいる。一世や二世の時代に第一言語として用いられた日本語も世代が進む
ごとに徐々に現地語である英語にとって変わられ、自然な流れとして日本語を
理解しない日系人が増えている。
「米国日系人百年史 新日米新聞社 1961年発行」
米国に於ける日本史は排日史を加えた極めて特殊なかたちの移民史である。
1860年首都ワシントンに於いて、日米修好通商条約の批准交換のため新見豊前
守正興一行の遣米使節が渡米して日米の国交史がはじまった。そしてその後日
本人の米国渡航がはじまり、日本人移民史は100年におよぶ。
漂流者から始まった初期の移民者は学生や米国に知識をもとめた日本人を主
とし、それから労働を目的とした移民時代に入り、次第に完全なる社会を形成
して進展を続け、日米大戦を経て今日におよんでいる。
日本からアメリカへ渡った日系人の元祖ともいえる人達は明治元年にハワイ
へ出かけた「ガンネンモノ」と呼ばれる人達。翌年、カリフォルニア州「若松
コロニー」へ入植した人達だった。その後アメリカの横断鉄道の建設や鉱山採
掘の労働者として大勢の日本人がアメリカ大陸をめざした。これらの人々がい
わゆる日系一世と呼ばれている人達である。
チャーメン(Chow Mein 炒.)…… 茹でた.と肉、野菜を炒めて味付けした
焼きそばに近いもの
キッコーマン醤油…… 1957年サンフランシスコにキッコーマン・インターナシ
ョナルが設立
カリフォルニア米…… 1685年サウス・カロライナで始まった商業稲作は200年
後にはルイジアナ南西部やテキサスへ広がり、更にアー
カンソー等の平坦な広大な土地における大型機械を投入
しての稲作へと進展。1912年に西海岸のカリフォルニア
が加わり新たな米生産地域が形成されていった。カリフ
ォルニア州にて生産される米の90%以上の作付はサクラ
メント平野にて行われており、一部サンフォアキン平野
北部にて作付られている。
(OMIC 海外貨物検査㈱ カリフォルニア米事情 より)