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教化学研究3 現代宗教研究第46号別冊 2012年03月 発行

近世の改宗について ─岡山藩の事例から─

近世の改宗について ─岡山藩の事例から─

坂 輪 宣 政

近世仏教については、辻善之助(『日本仏教史の研究 近世三』岩波書店 一九六一年)によって示された説が長
く影響をもってきた。幕府の定めた宗門改めとそのための寺檀制度が寺と僧侶を保護して安定した地位・経済力とさ
らには権力をもたせ、結果として宗学も沈滞し仏法自体は衰微していった、などという説である。この説では改宗は
極めて困難で民衆は家制度と直結した寺檀制度の檻に束縛され個人の信仰心が発揮されて行動することはあまりなか
ったとされた。寺や僧侶もその社会体制に適合した行動をしていたように想像されてきた。とくに離檀の困難につい
ては通説となり、現在でも支持されることがある。(一例として

岩田重則「葬式仏教の形成」『東アジア仏教史⑬民
衆仏教の定着』佼成出版社

二〇一〇年)それに対し懐疑的な見解も以前からあり、様々な視点から再検討もされて
いる。例えば最近のものでは法制史から朴澤直秀「寺檀制度に関する通念の形成│一家一寺制法令再論│」(『綜合仏
教研究』八号

二〇〇九年)や民俗学から吉原睦「近世檀家制度の民俗学的考察│「一寺一家原則」の有無について」
(『民俗学論叢』一五号二〇〇〇年)などがある。

本稿では岡山藩の文書(『池田家文庫藩政史料マイクロ版集成』より引用)から日蓮宗に関わるものを中心に改宗
に関する文書を検討した。辻説でいう改宗の困難に対しての反証、さらには寺と檀那の関係についての再検討と考え
る。

一節 岡山藩における改宗の史料

ここでは近世岡山藩での改宗に関する史料を年代順に検討を行う。

①宝永元年に城下蓮昌寺の塔中圓壽院と浄土宗西寶寺の間で改宗の出入りがあった。この一件書類(TPA -〇一
六)が残っている。

まず最初に六月二十三日付で西寶寺から寺社方へ訴え出た口上書がある。それを要約すると以下のようである。西
寶寺の檀那である西大寺町の磯屋七左衛門が当月十二日に死去して翌日火葬を行った。その翌朝に西寶寺の僧が磯屋
へ法事に赴いたところ、不要と断られ、さらに尋ねたが「是非に無用」といわれた。西寶寺では「辞退に及ばず、檀
那の事に候はば何程遠方に候ても参る作法に候」などといったが、磯屋では断り、寺へ同道しての法事も断ったため、
役僧は怒って帰ってしまった。十四日夕方に住職が磯屋へ勤行に行くと、仏檀に骨桶が無く、子息平三郎に戻すよう
に伝えたところ、「平三郎勝手へ引き返し罷り出申さず候、しばし相待ち居り申し候へ共出申さず候故、勤行仕罷帰
り申候」となった。十五日の夜、住職は役僧に勤行に行って骨桶は仏檀の上にあるかどうか見てくるように命じた。
役僧が子息にたずねたところ、「七左衛門女共日蓮宗にて候故、内仏壇に置き廻向仕り候故、表仏壇え出し申す事、
成り申さ」ずとのことであった。磯屋は複檀家(一つの家で複数の寺院と檀家としての関係をもつ)の状態で表の仏
檀のほかに内に夫人と娘の宗旨である日蓮宗の仏檀をも勧請していて遺骨はその仏壇で供養されていた、ということ
であろう。この件では後で圓壽院が出奔していることからみても、もとから西寶寺の檀家である当主を夫人の旦那寺
圓壽院で無断で供養したのが問題だったのであろう。

その後、十六日と十七日の両日は役僧が勤行にいったが骨桶はなかった。十八日は初七日であったが、西寶寺の問
いに対し平右衛門は「骨は一昨日此の方にて納め候間、それにも及ばず、御念を入れられ忝なく候」との返答であっ
た。後家も同様の返答であった。「今日より土用に入り候に付き、土を動かし申す事も忌み、昨日夫婦の墓を地取り
納め申し候」そして「其の通り西寶寺え宜しく心得下さるべし」と返事した。西寶寺では墓の場所を教えてもらって
そこで廻向すると申し出た。すると「むつ屋十助」という人物が出てきて、西寶寺ではなくこちらで納めたのでお帰
り下さいと申し出た。しつこく墓の場所を尋ねると、むつ屋は蓮昌寺の圓壽院であると話した。西寶寺は同宗の浄覚
寺をも同道して圓壽院に赴き、下人に磯屋の骨を納めた場所を案内させた。すると初七日の卒塔婆があった。そこに
役僧を残して圓壽院に会いに行き詰問した。同院の住職は「右の骨桶見届けたき由も候へば、磯屋方へ人を遣わし申
すべく候の間、少相待ち申す様に申され候」というので待っていたが使いは返事をもらえずに帰ってきた。そこで圓
壽院の下人に骨桶を掻き出させ見届けた。ふたの上に紙で「深入禅定、見十方仏」横に「南無妙法蓮華経、南無多宝
如来、南無釈迦牟尼仏」「善受院玄真日乗骨」内横に「宝永元年

甲申

六月十二日」と書きつけてあった。誰から
頼まれて書きつけたのかと問うと、七左衛門の後家からであった。西寶寺は骨桶や卒塔婆を圓壽院の本堂の仏檀へう
つし、そこで勤行と焼香を行った。かなり強硬な態度である。圓壽院の仏壇の右の方には「戒名を書き立て、盛物仕
り、百か日までの書き付け之在り、法事仕る様子に見え申し候」と供養をしていたことがみてとれた。

西寶寺は墓の保有者についても尋ねた。「墓所の儀は御自分寺内にて候哉、と尋ね申し候処、蓮昌寺惣墓の内借り
申す由」と圓壽院は答えた。圓壽院は寺中であったため、磯屋の墓のあった場所は蓮昌寺の墓所の一部を借りていた。
西寶寺は即刻蓮昌寺へ浄覚寺を使いとして遣わし、磯屋のことを伝えて蓮昌寺への付け届けはしていたのか、と尋ね
た。このときは住職は留守で返答はなかった。

また西寶寺はすぐに西大寺町の頭名主である嶋屋孫左衛門と名主の近藤屋与左衛門へ右の顛末を連絡していた。そ
して、藩の寺社方へ口上書を提出しようと準備していたところ、嶋屋から「しばし相待ち申す様にと指し留め申す
故」待っていると、七つ時分に蓮昌寺から使いがあり「先刻は寺中圓壽院へ其元旦那骨の儀に付き此の方まで付け届
け候、然共此の方へ御改めに及ばざる義に御座候はば、檀那と相対に成らるべし」と伝えてきた。ところが、夜の四
つ時分に実如院が使僧として来て、先の口上は使僧か取り次ぎの間違いである、と言って来た。もう一度呼び戻すな
どしたが、結局最初のものに間違いはなかった、としている。蓮昌寺でも対応を考えていたのであろう。結局蓮昌寺
では磯屋を檀那とは主張しなかった。十九日には西寶寺から磯屋へ使いを送り、平三郎へ誰が圓壽院へ頼んだかを問
うと、母であり反対するのは親不孝であるので従った。母が納得すれば自分はかまわない、という返答であった。夫
人の意向で実家の菩提寺であったのだろう。

これが六月二十三日付で寺社方へ出された西寶寺の口上書の概要である。ついで六月二十五日付の圓壽院から西寶
寺への一札がある。七左衛門の後家が圓壽院の旦那であったので埋葬したが、貴寺へ断りもしなかったことは「不
念」として「御腹立御尤もに存じ奉り候」として、それで承引してもらいたいと願っている。しかし詳しい事情はわ
からないが、此の後圓壽院はこの一件を理由として蓮昌寺へ詫びの書き置きを残して立ち退いてしまう。問題が大き
くなったので責任をとったのであろうか。

その後に蓮昌寺から寺社奉行門田市朗兵衛への六月二十八日付の「口上之覚」が圓壽院の書き置きを添えて出され
た。それによると、圓壽院は二十七日の八つ時分に退去したが蓮昌寺では事情をまったく知らない、だが書き置きを
提出するので後の手続きを許可してほしい、とある。圓壽院の書き置きは二十七日付で「御聖人日逞尊師

蓮昌
寺寺中各様」宛てである。内容としては、結局西寶寺からの一札はもらえなかったことで進退に困り「此の度の義は
拙僧身に仕り候てはめいわくに存じ候へ共、右の仕合に立ちのき申すべく候」とあって磯屋の一件にまきこまれたと
いう認識を示す内容である。

最後に寺社方のまとめた記録がある。これによれば後家だけではなく平三郎も元来圓壽院に帰依して旦那であり、
数珠も日蓮宗のものであったとしている。十九日に寺社方へ西寶寺から内々の報告があり、二十五日に決着したとあ
る。圓壽院から西寶寺へ書き物を出し、その上で「平三郎を西寶寺旦那に仕り、七左衛門骨西寶寺へ取り返す、平三
郎西寶寺へ参り本尊の前にて一札仕り

一向宗の数珠に取り替え申し候」とある。さらに平三郎はたとえ今後別家し
ても西寶寺の檀那を続けるという一札を出した。圓壽院からの書き物とは「圓壽院より平三郎西寶寺旦那に付候に付
き放ち手形出す」と改宗のための放ち手形であった。この文面から平三郎は以前は圓壽院の檀那であり宗門帳にもそ
う記載され、日蓮宗を信仰していたことがわかる。しかし一件の結果西寶寺の檀那になることを強制されたことにな
る。西寶寺の檀那であった七右衛門の遺骨を勝手に圓壽院へ埋葬したことが問題とされたのであろうか。あるいは磯
屋が家として西寶寺の檀那であったために平三郎はその後継となるべきと考えられたのであろうか。通説のように藩
は一家一寺制を推進しようとしていたためだろうか。この点は家制度と寺檀制度が如何に関連するかという重要な論
点に直結するが、この史料のみからは判断できない。また複檀家による寺院間の檀那の取り合いの問題の一つと捉え
ることも可能であり、圓壽院は西寶寺の宗門改帳記載の旦那を無断で埋葬や供養を行ったのが問題であったとも考え
られる。逆にいえば遺族がもとの檀那寺と交渉して納得してもらえれば「死後の改宗」ともいうべき行為は可能であ
ったのかもしれない。その時に元の檀那寺に拒否権がどれほどあったのかが、改宗の難易という観点からも重要であ
るが、やはり不詳である。

②正徳三年五月には「備中子位庄村龍昌院おんぼう旦那の儀に付き出入りの事」(TPA -〇一〇、四四〇.四四
一)がおこった。龍昌院の旦那であった「隠亡」たちが檀那寺の差別的な態度に不満を持ち寺替えを願った一件であ
る。「窪屋郡軽部村おんぼう共儀、諸法儀勤め候儀に付き、銘々宅え参り候様にと望み申し候えども、前々より宅へ
は参り申さず候、祈祷法事の儀は寺にて執行仕り遣わし来り候、尤も死人之有り候節ハ野辺迄罷り出見届け、葬り来
たり候、前々の住持宅え参り度て諸法儀相勤め申し候儀は承り申さず候」と寺僧は各家へは赴かず葬儀でも野辺まで
しか出なくなった。そこで旦那たちが旦那寺替えを希望したところ、住持は「尤も旦那寺替え仕りたき由申し候えど
も、寺付きの旦那の儀に御座候えば前々の住持え対し拙僧了簡にて放ち手形遣わし候儀も心得難く存じ奉り候」との
理由でおんぼうの宅へ参ることも放ち手形を出すことも拒否した。

「おんぼう共申し候は、死人之有るの節は先年の住持は家え来たり勤め請け候、当住に成り野辺の結縁迄にて御座
候、先年の通り家え来たり勤め請け候様にと申」と前の住職は葬儀でも違う対応をしていたし、その他の仏事でも以
前は「弟子同宿の内(各家へ)御罷り越し請け候」と主張した。龍昌院は弟子同宿は遣わしたことはないが「道心
者」は遣わしていた、と返答した。また「代々の旦那故放し手形出し候事も」できないとした。

訴えをうけた寺社奉行所では用人中へ上申した。すると「右の通り双方埒明き申さず候」ならば「おんぼう共望み
の通り宅え自分又は弟子同宿罷り越し候儀成らず候はば、放し手形遣わし候へば申し分之無き事に候」とあっさりと
旦那寺替えですませるようにという方針を示した。寺替えを容認していたことになる。しかし住持は「両品共に指し
支え候」「罷り成らず」と言い切って抵抗した。

その後寺社奉行所では類例を尋ねたところ、備中生坂村や中庄村では「死人之有り候節は宅え参り勤め遣わし、野
辺迄も見届け葬い申す、又同火は請け申さず候えども、病人之有り候節は宅え罷り越し加持祈祷遣わし候由」であっ
た。この様子を龍昌院にも伝えたがやはり説得には応じなかった。

この一件は藩寺社奉行所から龍昌院の本山である御室の坊官へ問合せを出し、本山が出入りを知ったことによって
決着へ向かった。本山から藩内触頭と龍昌院への返書で放し手形を出すようにと指令があった。「龍昌院滅罪旦家の
内おんぼう之有り、彼の者どもと出入り相起こり候、此の趣其元役人より内意に付き申し越され候」「出入り是非の
儀存ぜず候えども、元来諸末寺に左様の旦家之有る事然るべからず候間、早々放し手形差し遣わし事済み候様にと」
命じてきたことにより、旦那寺を替えることで決着した。隠亡の檀家がいること自体を問題とするととれる内容であ
り、葬儀の際の差別対応などの従来の論点には言及していない。しかし寺替えは本山だけでなく藩でもそれほど問題
視せず、放ち手形を出して簡単にすむと考えているようである。ただし龍昌院が拒絶していたのを藩が強権的に対処
できず、結局本山への問い合わせによって解決したことを考えれば、改宗や寺替えはあくまで相対の事柄で檀那寺の
拒否権が優先され、藩が仲裁しても一旦拒否されれば強制できず事態がこじれるのは確かであろう。

③享保四年六月に「保壽院殿旦那国清寺へ替え候様、仰せ付けられ候事」(TPA -〇二三、四四二.四四五)が
ある。
「保壽院俊鶴旦那に付き、同人引導にて国清寺葬い之有り候、此の以後金山御寺旦那にては事済まざる儀に付き、自
今国清寺旦那に仰せ付けられ候、此の旨柏道俊鶴えも御申し聞かせ候様にと隼人殿仰せられ候、以上」ごく短い記事
でよくわからないが、国清寺の俊鶴が金山寺の檀那である人物に引導を行ったことにより、寺替えとなったというこ
とになろう。「仰せ付け」とあるので藩の意向による寺替えに金山寺が従ったのであろう。

④藩の文書ではないが、享保十三年の年紀がある改宗の記録が和気郡藤野村の大庄屋である万波家の文書にある。
「和気郡藤野村甚吉

宗旨法華宗ニて御座候処、同村五郎兵衛後家の養子ニ来たり天台宗同郡野吉村安養寺南光院旦
那ニ罷り成り居り申し候えども、法華宗に戻り申したく存じ奉り候。南光院へ断り申し達し、宗旨放ちの手形申請し、
法華宗同村実成寺旦那に罷り成り申したく存じ奉り候。願上げの通り為され仰せ付けられ候らハバ有難く存じ奉るべ
く候

已上」とあり、ここでは「南光院へ断り申し達し」放ち手形を発給してもらうことにより円満に改宗が行われ
ている。放ち手形の内容は「一、其の村甚吉宗旨天台宗拙僧旦那ニて御座候処、貴寺旦那ニ成り申したしと願申し候。
此の方何の構いも御座無く候間、自今以後貴寺旦那ニ御請け込み成られるべく候。其の為宗門放ち手形件の如し」と
いうものである。通常はこのような手続きが雛形にそって行われ、藩の記録に残るようなこじれた問題はほとんどな
かったとも推測できる。勿論、改宗の頻度、容易さなどは断片的な史料から論ずることはできないが、平穏な事例の
存在も留意しておく必要があろう。

⑤享保十五年には浄土真宗光清寺の檀那であった角田屋助八郎が改宗した一件(TPA -〇二六)がある。やはり
藩の一件書類となって日時順に収録されている。順を追ってみてゆくと、まず享保十五年九月十二日付の光清寺への
角田屋からの口上書がある。それによると藤野町の角田屋助八郎は幼少のころに養父である角田屋へ来たが実父は日
蓮宗であった。「実父法花宗にて御座候に付き幼少乍ら法花宗能き宗旨と申すを承り覚え候」と幼少の頃の記憶があ
ったと述べている。助八郎は昨年九月から檀那寺の光清寺で壁の上塗りをした際に、ふと志して講仲間へ入れてもら
い数度教えを受けたが「一円合点参らず」かえって日蓮宗の教えを聞いたところ不覚の身でよくはわからないながら
もよく思えて日蓮宗の信徒となりたいと考え、ある法華寺へ行って「御経頂戴」した。そこで光清寺へ放ち手形を申
請した。実父の信仰などを理由として改宗を考え、放ち手形を希望したわけであった。

ついで享保十六年七月二十四日付の助八郎から光清寺への口上がある。助八郎は昨年から放ち手形を申請していた
が光清寺は受け付けなかった。そのうちに翌年の宗門手形改めを迎え、助八郎は手形が提出できず困難な状況となっ
た。そこで、またもや放ち手形を請求したが光清寺は捨て置き、帰されたという内容である。

つぎに八月日付の光清寺宛助八郎口上と光清寺からの案文がある。要約すると、町名主中が仲裁して、角田屋から
光清寺へ誤書として詫び状の一札を提出することによって、とりあえず今年の宗門手形を出してもらえたとある。と
ころが、その後助八郎の提出する一札の文言をめぐって事態は紛糾していった。

助八郎は「宗門手形遣わされす候故、御公儀様へ対し迷惑に存じ奉り候、右慮外御免許成され」たいという文言で
一札を出した。公的な制度に関する理由を表に立て、宗旨に関することにはふれていなかった。しかし光清寺は満足
せず、助八郎に提出すべき誤りの一札の案文を渡した。そこには「御寺(光清寺)より下され候法名我が儘に取り捨
て、題目并びに位牌外方にて購ひ案置仕り候」という助八郎の行動が記されている。自儘に改宗しようとして、菩提
寺をないがしろにするような行動をしていたのも光清寺の怒りにふれたのであろう。光清寺は改宗を認めず「急度相
改め家の御本尊案持(安置)仕り、尤も位牌も前々の通り」にすることと「先日より慮外の(光清寺への)悪口」を
詫びるようにという案文を示した。

しかし助八郎は案文の通りに書くことを拒否し、自分で考えた文面で口上書を提出した。その中で助八郎は不満に
思うこととして、去年十月に光清寺の小僧衆と旦那二人が「仏前を見申すべし」といって助八郎の留守中に角田屋へ
押しかけ強引に仏檀を検分していったことを記している。助八郎は「(光清寺からの)本尊は西中島町伯母方へ譲り、
位牌も自身書き替え」ていた。それを確認にきたのであるが、助八郎の留守中に押しかけ、老母を押しのけたと記さ
れている。この助八郎の文面では位牌は前々の通りにするが、改宗の件についてははっきりしない書き方をしていた。
このため、光清寺は受け取らず、難航した。

つぎの書類は十一月十二日付の名主より寺社方への口上書である。名主たちの仲裁で一度は収まったはずなのに、
角田屋が案文通りに書くことを拒否したので宗門改め以降は両者の意向が食い違い経過に困惑している、との内容で
ある。

つぎに十一月十八日付の光清寺より寺社方への口上書がある。経緯を光清寺の観点から述べている。主な経緯は前
述の通りである。ただし確認したところ、助八郎の実父は日蓮宗ではなく浄土宗であった、としている。後述するが
実父云々は先の④と同様に、改宗や寺替えを申し出る際の常套手段としての表向きの口実であった可能性もある。さ
らに昨年十月十一日には助八郎が光清寺に来て送り手形を出して改宗を認めてほしいと言ってきたが拒否した、とあ
る。伯母の証言として、助八郎が光清寺からの本尊や位牌を取り捨てようとしたので、自分が引き取って預かってい
る、ともある。光清寺が角田屋へ行ってみると仏檀には「題目二幅并他流の位牌六七本」があった。どこからのもの
かと光清寺が助八郎に尋ねたが覚えていないとの返答で寺の名は明かさないという様子であった。八月の宗門改めの
際には助八郎が光清寺へ来て「我が儘悪口」をした、ともある。光清寺が家代々の宗旨を用いるようにと説得しよう
とすると助八郎は「私男にて御座候えば町内又は御奉行より仰せ付けられ候共覚悟相究め」ている、と強硬に言い張
ったとある。八月二日には町の年寄や名主が寺へ来て宗門改めに差し支えるので助八郎ではなく私たちに手形を出し
てほしい、と寺へ相談に来た。皆の迷惑を考え、一札の条件をつけて手形を出した。七日には名主が助八郎に誤り手
形を出させる、といってきたがその案文に光清寺は納得がゆかず、先述の案文を要求した。十日に別の名主がきたが、
助八郎が案文通りに書くことを拒否していると聞かされる。「宗門替え仕り候義も世上に御座候得共、旦那寺納得之
無き内に本尊位牌改め、宗旨替わり申す抔と申し触れ候者、承り及ばず候」と光清寺は述べ、助八郎には送り手形を
出せないとしている。ここでは「宗門替え」も世上にあるといい、時折あるような書き方である。また宗門改めが滞
りなくすまなければ名主たちが困るとあり、案外このような理由で仲裁が入り改宗が許可されることも時折あったの
かもしれない。ここでは元の檀那寺との話し合いや手続きを経ずに本尊位牌を粗末にしたということが光清寺の助八
郎の改宗を容易には認めない理由ともとれる。

十一月付の寺社奉行廣澤喜之介の留め書きが最後にある。廣澤は光清寺の訴えに基づき両者から口上をとって検討
した。廣澤は「元来宗旨替わりは相対の義に御座候へとも、断り次第に寺より放ち手形遣わす間敷」として、改宗は
本来相対のことであるが、檀那から寺へ一方的に通告してすむものではないとしている。そして助八郎が自儘に仏檀
等を改めたやり方が非常に良くないと判断した。結局、助八郎を咎めの処分とし、その上で光清寺へは放ち手形を出
すように申し聞かせることとした。光清寺はこれに従い、放ち手形が出た後で角田屋親子は押込の罰に処された。助
八郎の言動が咎められたのはともかく、光清寺へ放ち手形を出すように役所が説得したところが注目される。寺社方
の決定は、関係が破綻したことを重視し、このままでは両者は正常な寺檀関係にもどることはできないという判断に
もとづくものであり、光清寺はそれに応じたのであろう。

ここで廣澤は改宗を「相対の義」と表現している。この姿勢は藩の役所では少なくとも近世中期以降は一貫してい
るようである。そのことについては拙稿でも触れたことがある。藩は改宗については寺と旦那の双方で納得すればよ
いのであり、藩で取りあげるべき問題ではないという姿勢であった。思うに今回のように名主たちの仲裁もきかずに
こじれて藩の奉行所へ持ち込まれるようなケースはまれであり、本来はこのような藩の記録になる前に仲介などによ
って穏便に寺替えや改宗がなされるものであったのではなかろうか。

この件では宗旨手形の拒否という辻説における菩提寺の最強の手段が無効で、藩の保護もなく改宗をとめられなか
った。これは辻説の「僧侶は宗門改に従って半ば幕府の公吏に等しい実権を握った」への有効な反証となるであろう。

なお磯屋と角田屋の事例で改宗の容易さに違いがあったのは年代的な理由もあったのかもしれない。宗門改め制度
の成立に近い元禄の時期と、制度がある程度定着して世代をへて現実との乖離を埋めるような手続きができてきた時
期との差であるかもしれない。

⑥享保十九年には「旦那替え出入りの事」(TPA -〇二七)がある。「戸川左門殿御知行所備中窪屋郡羽島村日間
山法輪寺寺中浄光院」で先年住持が退院して無住になり、「浄光院の旦那の内、此方様御領分福島村御百姓七軒」が
岡山藩領の生坂村真如院(今は東雲院)旦那になった。「右浄光院も只今にては住持定り申す処、以前の通りに浄光
院旦那に罷り成り申したき」と浄光院の檀那に戻りたいと願い出があった。両寺の本山御室では寺替えを認めた。す
ると東雲院は岡山藩に訴え、旦那替えの差しとめを求めてきた。「東雲院は当分の旦那とは心得申さず」一旦檀那と
なった以降はこちらに権利があるとしていた。

しかし「寺社方にて先年の様子相知り申さず候えども、御郡方へは当分と願い置き候」と藩の調べでは当時には当
分の措置という届けがあったという。寺社奉行から小仕置中へ上申したところ「旦那替えの義は相対の事に候故、御
取り上げ成さざる旨申し聞かせ、書付戻し候様に御年寄中仰せられ候由」と檀那替えの出入りについては相対なので、
藩で受け付けず門前払いとした。ここでも藩は改宗や寺替えには関与しないという明確な方針をとっている。これは
他領の寺院と藩領の寺院の争論であり、本山との関係もあったことから慎重に対応して書類を作成したのであろう。

⑦元文二年の備中後月郡吉井村の事例では、医者が別の村で開業するために寺替えを申請した。「則、宗門送り手
形差置き申し候由」ですぐに改寺が認められた。同年には備中の浪人者が同様に送り手形持参で来て認められている。
このような記録は時折見られるが、何かの事情があったのでとくに記録に残ったのかは不明である。

以上のように、岡山藩の文書にある改宗や寺替えの諸事例をみてきた。寺で寺替えや改宗を拒絶できなかった事例
もある。藩では他の寺院の檀家を無断で埋葬した場合を除き、改宗などは本来相対のことなので関与しない、という
方針が一貫していたと思われる。そして、たいていの場合藩では改宗自体には難色を示さずすぐに認めるようにして
いた。藩の記録に残っているのは、収拾が付かないくらいにこじれた事例や他領との関わりがあったりする場合など
特異な事例であって、例外的なものと考えたほうがよいと思われる。

このように考えてみると、本稿で検討した事例は、「寺檀の間は相対」という考え方にも符合するものであり、改
宗は権力による強圧があるので大変困難であり宗門手形が重要視されたために寺僧が生殺与奪の権を握った、などと
いうという古い通説を再検討する動きに合致する内容でもある。近世といっても長期間であり、土地柄によっても大
きな相違があるのも当然なので安易に判断できないのは当然であるが、ここで取りあげたいくつかの事例からも、通
説の再検討の必要があると思われる。

近世仏教について従来の研究では、宗門改め制度の発生と寺檀関係の成立をほぼ連動したものと考える傾向が強か
ったが、両者を区別することは重要であろう。行政制度としての宗門改め制度が開始されると、寺院は藩からも行政
機関の一環としての扱いをも受けるようになる。宗門改めを実施することは寺院から藩主への「奉公」と表現される
こともある。辻はこの「システムとしての寺院」を近世仏教の中心にすえて、すべてを見通すような検討をした。寺
檀関係はこれによって形成されたとした。しかし幕府の保護しようとしたのは社会秩序の一部としての門流体制や宗
門改め制度であり、寺檀制度はその基礎としても必要であったが、寺院や寺僧へ檀家に対する特別な強権を与え保護
することは対象外だったと考えるのである。中世以来の信仰的な理由によって結びついていた寺院と信徒の関係は、
幕府の宗門改め制度と並行する形で存続し近世的寺檀関係へと移行していったのであり、その具体的な姿が個別の事
例の積み上げによって明らかにされてゆくことが、今後さらに必要ではなかろうか。

二節 寺送り手形について

岡山藩寺社奉行の広内権右衛門は宝暦二年に送り手形についての検討を行った。その結果として「旦那寺替候節、
送手形の事」(TPA〇〇六、八六.八九)「一、寺の送手形は天下の法に無之事」と題する二通の文書が作成された。
昵懇の寺院や各地の藩屋敷へ問い合わせを行い、その返答をもとに見解をまとめた文書である。ここでいう送り手形
とは、村送り手形ではなく宗旨送り手形で、ある人物が移住などによって所属寺院を変更するにあたり、前の寺院か
ら出されるもので、その人物が以前はその寺の檀徒であったが現在は何ら問題なく所属を離れたことを証明するもの
である。この手形を移住先の寺院へ提出してそこの檀徒となり宗門帳へ記載してもらう。同文書では「寺方へ新ニ旦
那付ニ前々之寺より送手形を出し受取の上、師旦の契約仕るは天下の御法に候哉、但国法にて左様に仕り来り候哉、
御吟味」とこの習慣の根拠が幕府や藩の法令であるかに疑念をもって検討をはじめたとある。

方々へ問い合わせを行ったが、まず城下の養林寺巌明は生国豊前中津では送手形は無かったと答えた。同じく天球
院・盛岳院は「天下の御法・御国法と申す義にては之無く候得共、当時僧家必用の作法に成し来り候」といい、さら
に「送手形も之無く容易に旦那替え取り斗らい、争論等の端に相成り、後日若し表向へ出候時、越度に罷り成り申す
事御座候、近来江戸表ヶ様の出入御裁断の趣考え候えば、当時にて別て大切に仕り候筋と存候由」と寺院方が身元不
明の者を安易に受け入れて後日責めを負わない用心のためでもある、と返答していた。京都妙覚寺は寺法として行っ
ているが、「前旦那寺迄和談相済み候えば証文に及ばず」相対の節は送り手形はなくとも済ませることもある、と答
えた。

江戸留守居役からもたらされた幕府寺社奉行用人下山治部左衛門よりの返答では「御公儀 仰出し候義にては之無
し、然れ共寺院へ旦方に罷り成り度き段、相頼み候節、前方の宗旨旦寺等相糺し、旦方に仕り候事は其節違之無し、
為に送手形御座候義と存ぜられ候、畢竟世法国法と申す類の様成る義と存じ奉り候」と寺院が新に檀家を受け入れる
際に確認するためのものであり、幕法ではなく世間の仕来りや藩法であるとしている。

京の留守居役津村甚介は京都町奉行所へ内々に尋ね、諸家の同役へも回状にて問合せて以下の回答をした。「左様
の義之無し、御家法にも之有り候哉、亦は致来候御国も御座候得共、天下の御法と申義は具さに相知れず候」と幕法
でもなく、岡山藩法にもなく、各藩によってことなるとの返答であった。そして「尤も宗門は大切に仕り候故、送手
形取り候義も之有り候、送手形調え難き所候えば先々宗旨の義承り届け、送手形之無く候ても師旦契約致し候義と承
り及び候」と寺方では重要視して用いる所もあり、それがなくともかまわない場合もある、としている。

大坂の留守居長谷川次郎右衛門も諸家の留守居や大坂町奉行所宗旨方与力へも問い合わせた。その返答は、やはり
送り手形は幕府役所は関知しないもので「本山寺法」であろうという結論であった。送手形は役所より取捌きを命じ
たものではなく「手形取り遣候義は本山寺法と存ぜられ候、若し宗門の義、出入之有り候得ば、公儀には其所を御聞
き届け成され候」と寺方の出入りへの用意のためと答ええた。そして「併しながら西国筋は御念入に候様に承り及び
候由申し候旨、寺方へ承り合せ候えば、当地は他所者出入多く候故、旦那寺の送手形と申にては甚指支候故」と西国
で多い仕来りであり、大都市の大坂では人の出入りが多いために、かえって用いがたい方法であると返答した。そし
てさらに「其の人は何所の仁に御座候ても当地請け込み人代々旦家にて、其の仁親族候間、師旦の義頼まれ候えば請
け込み申し、無縁の仁に候えば、師旦の契約難く仕る埒に御座候」と当地に住む代々の檀家が保証人になるならば送
り手形がなくともかまわないし、逆に無縁の者ならば檀家とはできない、と答えた。また、その時次第で判断も異な
り一通りでは言い難いことであるともいい、留守居仲間に尋ねても送り手形がいるところもいらないところもあるよ
うだとしている。各藩の渉外代表で先例に詳しい留守居たちでも送り手形については明確な返答をすぐに出来なかっ
た様子である。なお浜野潔「近世京都における人口移動と寺檀関係│寺替・宗旨替をめぐって」(『京都学園大学経済
学部論集』一二巻二号

二〇〇二年)には京都への移住に際して宗旨変更がかなりの確立であったことが示されてい
る。

さらに広内は江戸留守居を通じて幕府の寺社奉行所へもう一度問合せを行った。その返答は同様であった。「田舎
にては宗旨送り手形と申す物を大事に仕り」「御当地京大坂抔にては他所より参り候者来る程、宗旨手形参り候に及
び申さざる由、承り及び候、しかし是は店請人之有り候故、其の者を証拠に旦方に仕り候事」とある。また「御当地
京大坂にても結句地付きの者、訳之有り候て旦那寺をかへ候節は送り手形入り申すべしと存ぜられ候」と地付きの者
では寺替えに際してかえって必要になるともしている。さらに「尤も武家に送手形と申す事は之無く、先き方の時節、
先旦那寺へ断り申し候て、罷り立ち候えば新住居の場所にて旦方に頼み候ても寺にていなとは申さざる事に御座候」
と武家では不要であったとしている。

以上の返答などを踏まえ、広内は結論を出した。寺院で新たな旦那を入れるには前の旦那寺より送手形を取って師
旦の契約をしているが「江戸大坂其の外諸国の内にも送手形取り遣わし仕らず候」と一部地域のみの習慣であり「惣
じて諸国の御家風いろいろ候由承り申し候」と土地によって差異があることも示し、藩によっては藩法の可能性もあ
るとしている。そして「左候えば送手形の儀は天下一統の御法共相見え申さず」また同様に「第一、三ヶ津(江戸・
京都・大坂)にて用いず候えば天下一統の御法にて之無き処、明白候」ともして、送り手形の慣行は結局「右の趣に
付き、天下の御法にては之無きと相究め候」と幕府法ではないと断定した。

この文書によると、送り手形というものは、幕府法には根拠がまったくなく、寺の便宜のためにはじまった習慣的
なもので土地によっても異なっていたということになる。公法のように思われ通用していたのにそうでなかったわけ
で、寺や僧と幕府の関係から興味深い問題である。
三節

藩内末寺の召し上げ│寺院の改宗│に関する検討

宝暦五年から六年にかけて岡山藩内の日蓮宗寺院と神社の間で勧化銀を発端とする出入りがあり騒動の末和議とな
った。その後、藩内の四ヶ寺がその行動を理由に本山妙満寺から同六年十一月二十九日に追却された。このことを十
二月九日に知った当時の寺社奉行広内権右衛門ら藩首脳は、これを細注書によって成立した和議を揺るがし、藩政に
障る不埒な行為と判断した。追却そのものについては「法式に付き追院は其の通りに候えども」と宗義に関すること
として認めながらも、藩の人別帳に記載されている者が届けや伺いもなく処分されたことをも藩を軽んずる行為とし
て問題視していた。

その後、広内を中心に妙満寺への処罰として意外な検討が始められた。藩内の末寺を「潰し」たり召し上げたりす
ることである。家老と広内は協議の上、江戸留守居に幕府寺社奉行所へ「他国にこれ有る本山不届きこれ有るに付き、
其の末寺御国に之有る分御潰し、寺院召し上げ候義、御構いこれ無き埒に候哉」「惣て罪科の寺院お潰しの義、苦し
からず候哉」などと問い合わせをさせ、了解が得られ次第実行する構えであった。これらの根底には「此の度に限ら
ず此の後も所に寄せ立て置かれ候ては御国政に障り候埒之有り候はば、御潰し成され候外これ有る間敷候哉」と今後
も騒動を起こしそうな存在だという認識があった。

具体的には「右に就き妙満寺より猶亦不埒の義申し方之有り候らはば」住職が退寺した後、跡寺を召し上げて、他
の本山の末寺へと藩の命令で異動させたり、または無本寺の寺院として藩で進退するようにできないか、という検討
を始めるのである。

他の本山に擬されたのは妙覚寺であったが「妙満寺に対し辞退仕るべき哉」と妙満寺に配慮して受けないであろう
と考え、無本寺が検討された。「寺召し上げられ、前に無本寺の株を以て、四ヶ寺ども新地に再興、本行寺は帰住

仰せ付けられ、残る三ヶ寺も住持相付け成さるべき哉」と本山妙満寺から住職が追却された宝仙寺・本行寺・本成
寺・久成寺とを没収し、無本寺を再興した形にして新しい場所へ移し、本山に所属しない寺院とし、住職も藩で任命
し、藩の意向に従順に従う寺に再編することを目論んでいた。一つの理由としては藩内日蓮宗寺院とその本山との間
のやりとりに口を挟めず翻弄されているような形になるのが、もどかしくもあり不愉快でもあったのではなかろうか。
五年の勧化銀という大きな一件をやっと内済にできたはずが、宗規という教団内部の問題によっていつまでも揺さぶ
られることに我慢がならず、いっそ藩の管理下におければ都合がよいというのであろう。ここでもやはり藩と教団の
権限の並立という問題に逢着する。藩では「不埒」な住職を罰することは出来るが、寺自体は進退することが出来な
い。藩の手出しが出来ない領内末寺を上部団体である本山から切り離し藩の管理する寺院とするという形での解決を
検討している、このようにとらえたい。ただし結論からいえば、後述のように当時の法制から、それらはほぼ不可能
であった。

ただし藩内には無本寺の寺院がなく、無本寺の寺院の問題についての知識や経験は乏しく手探りの状態であった。
「若し外本山辞退仕り候はば、無本寺に

仰せ付けられ候哉、無本寺御国には之無く候、先年江戸より御触れにて本
寺を定め候哉、承り伝え候えども、京都亦は他宗には之有り候由承り候、御趣意次第に無本寺に仰せ付けられ相済む
べく候哉」また「慥成る事は存ぜず、然る所他所にては今無本寺之有るの由、惣じて無本寺の株を再興致し候えども、
其の儘無本寺にて苦しからず哉、亦無本寺株にても再興すれば本寺之無くては相ならざる哉、左候はば、追って本寺
定め候間、先に暫く無本寺にて指し置き苦しからず哉、江戸寺社奉行へ御留守居ども聞き合せ有るべき哉」と江戸寺
社奉行所へ問い合わせることから検討ははじめられた。無本寺の定義も明確には知らない様子がよくわかる。内容と
しては、無本寺の実態を聞き、さらに廃寺になった無本寺を再興して名跡を継がせる方法をも模索している。①藩命
で可能なのか、②幕法で本寺を必要とするというが廃寺になった無本寺を再興の形式の場合はどうか、一時的には無
本寺で可能なのか、を問うている。そして「無本寺と申す儀、決して成りがたく候わば、四ヶ寺ども他宗の寺へ下さ
れ、旦那ども直々改宗仕り候とも、外日蓮宗の寺え付け申すべき歟、心次第に

仰せ付らるべき哉」と寺院に本寺が
どうしても必要で無本寺の形態にすることが不可能ならば、藩命により四ヶ寺を他宗や他の日蓮門流へ変え、檀家は
心次第にさせるという方法で、寺を妙満寺の門流機構から引き離し藩の管理下に近づける算段である。藩命で寺院を
潰した先例として、寛文年間の池田光政の破仏が言及されている。また一言だけだが江戸の感応寺が天台宗になった
事例が出てくるのも興味深い。これらの前例を想定して検討は始められていた。

注目すべきなのは、寺院の名義や管理の方法に視点が集中していて、信仰的な面の配慮が抜け落ちていることであ
ろう。日蓮宗から他宗の檀家へ改宗することや他の門流へ移るのは容易になしえないと思われる。また教義的な理由
で檀家たちが騒いで今回の騒動になった経緯を考えると、寺院の所属変更や改宗を彼らが簡単に容認するとは到底思
えないが、ここでは言及がない。

さて、このように検討を始めたが、江戸の留守居役から幕府寺社奉行青山因幡守の用人へ問い合わせた結果を七年
一月二十六日に国元へ知らせてきた。

「無本寺と申す儀は更には決して成らざる事、寺院再興等の義も段々入り割り之有る由、兎角前廣に御公辺御聞き
成され候様」と現在の法令では新規の無本寺は不可能であり、廃寺の再興も難しい様子が伝えられた。
さらに数項目が記載されている。まず「只今まで本寺御座候寺院、本寺引き放し無本寺に仕り候儀も相成り候儀に
候由候哉」という質問は付紙(返答)で「成り難き義に届け候」と否定されていた。前後の経緯をみても、幕府では
本寺の了承なしに末寺を藩が左右することを全面的に否定したとみてよかろう。さらに「無本寺の寺院も兼ねて苦し
からざる事に候由に候哉」という問いには「古来より無本寺に候えば苦しからず」とあり、古来無本寺として続いた
寺院以外は無本寺ではいけない、と返答がある。そして「滅亡跡株の寺、再興仕り、新たと申すにて、無届けにて無
本寺に再興仕り候ても苦しからず哉」の問いには「滅亡跡の寺再興と申す儀、先づ成り難く、引寺に相なり候えば、
跡の寺号を再興仕り候、然れども本寺之無く候にては相成り難く候」とあり、寺を一旦廃寺となった寺院の再興とい
う名目にして本寺を定めない事も困難であった。

さらに「寺院住持不埒にて右寺院無住に相成り候節、旦那宗旨改め候歟、亦は右の寺院外宗門の寺に相成り候ても
苦しからず候哉、尤も本寺を離し候て改宗申し付け候も苦しからず候哉」と住職の不法行為によって無住になった場
合、寺院や檀家の改宗は可能かと質問していたことに対し「無住寺、旦那改宗の義は本寺承知の上に候えば、苦しか
らず、無住の寺院本寺を離れ改宗

仰せ付けられ候義は相成り難き義と候由に候」と寺院宗旨替えや檀家の改宗は本
山が承知しているならば可能であるが、無住であっても寺院そのものを藩の仕置きとして本山を変えたり宗旨を変更
させることは不可能であるとの返答であった。同様に「無住の寺を旦那改宗の義、其の寺看坊の僧亦は代判の僧へ相
対許容仕り候はば本寺へ及ばず相対改宗苦しからず候哉」も本寺の了承なしでは不可であった。やはり藩が寺院を左
右することは制約は厳しく、住職への藩の処分までは可能でも、結果無住となった寺院は藩命ではいかんともできな
かった。(池田光政の寛文年間の破仏の際にも寺を藩が処分したが、幕府法の裏付けがないことは当時の藩でも理解
していた。田中誠二「寛文期の岡山藩政│池田光政の宗教政策と致仕の原因│」『日本史研究』二〇二号

一九七九
年)

同様に「何宗にても寺院改宗の義(藩より)申し付け候ても苦しからざる義に御座候哉、但し在寺へ対し国主より
末寺を改宗申し付け候節、其の筋届けあわせ申し付け候はば、相成るべき哉」との質問に対しては「改宗

仰せ付け
られ候義、本末帳相進め候故、相成り難き事に候、然れども御領国の義訳之有り候か、御例も候はば、本寺承知の上
にて

仰せ付けられる哉、容易に成り難く候」と寺院の改宗を藩が命ずることは寺院本末帳の作成・調進をしている
のでできない、但し藩の事情や先例によっては本寺の了承の上でならば可能であるという返答であった。本寺の承諾
無しで藩命で末寺の改宗を強行するのは無理であった。ここで、寺の改宗は本末帳を寺院から提出しているので難し
いとある。すなわち藩命で宗旨が変更できるのならば本末関係ひいては宗旨改自体が有名無実と化す恐れがある。幕
法としての寺檀制度の保護の趣旨からであろう。本末制度と寺檀制度に基づく宗旨改めは、寺院から幕府・藩への義
務であり時には奉公と表現されるものでもあったが、ここではこれが改宗を命ずるのを否定することにつながってい
る。幕藩体制下での寺院の位置を示す一例であろう。
さらに「本寺より指し斗らい不埒の節、末寺を領主国守へ引き取り、同宗他本寺へ頼み本寺替え等仕り候事も相成
るべき哉」にも「本寺を取り替え候事、一通りにては相成り難き義に有るべく候由也」とこれも現実には不可能とい
う判断であった。藩の力は寺院自体にはよくよくのことがないと及ばないことがわかる。

それでも広内はあきらめず、二十八日に再度江戸藩邸へ書状を送り、何とか妙満寺末寺を処置できないかを尋ねさ
せた。「一、妙満寺末御潰し、外亡跡を以て再興仕り無本寺に相成り候哉、亦は他宗門に改宗

仰せ付けらるべき哉
の義、江戸御公辺御構い無き哉、御留守居へ尋ね遣わし候処」と四ヶ寺を潰して以前廃寺になった寺院を再興したと
いう形で無本寺としておく方法や、藩から改宗を命ずることを幕府では認めてくれるかという内容であった。また、
寺院を一旦潰した後に藩から何らかの計らいをすることができるのか、というものもあった。

江戸留守居役からの返答は二月一日に届いた。無本寺は一切ならず、廃寺を取り立て再興とするのも無理であり、
引き寺をするのは良いがこれも無本寺であってはならない、無住の寺の旦那を改宗させることや本寺を取り替えるこ
とはその本寺が承知しなければできない、といずれも困難であるとの返答であった。

二月十六日にも江戸留守居役からの返答があった。やはり無本寺などの容易ならざることを伝えてきている。三月
八日にも江戸留守居役からの返答が来て同様に無本寺などの形で妙満寺末寺を召し上げたりすることは不可能である
と伝えられた。また、僧を藩で処罰ということが可能かという問題もあったが、藩法に背いた僧を処罰すること自体
は当然可能であるが、それにより藩が寺院を処罰したり左右したりすることはできない、というのが返答であった。
これらが江戸で留守居役が幕府寺社奉行所へ問い合わせた結果、確認された結論であった。

広内の検討はさらに続いた。あるいは寺号を替えてから退転、あるいは無住の場合など様々な想定で無本寺への変
更あるいは改宗させる事などを検討したものの、いずれも不可能であることがわかった。彼の模索した、妙満寺末寺
をそのままにせず藩の管理下に引き寄せるような何らかの変更を加える、という試みは結局幕法により実現不可能で
あることがわかったのであった。

以上の経過をみてみると、少なくともこの時点では本末関係の維持が強く指向されていて無本寺が原則として認め
られなかったことも明確にわかる。また本末帳を作成していることが末寺の改宗を藩が命ずることを阻却する理由の
一つとされていることは注目すべきであろう。そして、本寺の末寺に対する権限は非常に強く、藩の力をもってして
も寺自体の存立や宗旨にかかわることは自由にはできない、ということが明確に示される内容のやりとりであった。
本山の意向を無視して、藩が末寺や檀家の宗旨を改宗させたり、住職を任命したり本末関係を変化させることは幕府
法からも容認されないことであったわけである。

近世では宗門改め制度は幕藩体制下の重要な施策として維持されていた。また、幕府は各宗派に寺院法度にもとづ
く自律的な集団の形成とその内部での自治を許し、その結果形成された門流を全国的な組織として認定していた。幕
府に直結する本寺を頂点とする門流の体系は、藩と並立的なものである。そして、ある領域を幕府から委任されて統
治する藩は領内の末寺を藩法を優先して左右することは不可能であった。あくまで本寺の了承が必要だったというこ
とになる。これらのことは寺院法度などの諸法令からみればまったく自然なものである。ここでは詳しい検討は省く
が、寺院の存在は幕法を守る限りにおいては、強力に保護されていたといってよいであろう。

ところで、広内は単に妙満寺の対応が不埒であるので処罰するというだけでこのような模索をしたのではないと思
われる。文中で「此の度に限らず此の後も所に寄せ立て置かれ候ては、御国政に障り候埒に之有り候はば、御潰し成
され候外之有る間敷哉」と広内は述べている。広内は日蓮宗の様子を見ていると、今後もこのような他教団と衝突す
る騒動はいつでも起こりうると考え、末寺に対して京都本山の力の及ばないようにし、藩で末寺を管理下に置くこと
を藩政のために考えていたのであろう。無本寺などのいろいろの形式を考えていたのは、そのような見通しのもとの
方策としてであったと思われる。繰り返すようであるが、藩の領域的な経営と地域にとらわれない教団の摩擦がここ
でも意識され、特に日蓮宗という宗式が厳重で外の教団と問題をおこしやすい存在は藩政の上からは危険な要素と認
識されていたのであろう。その様子は広内と江戸留守居役との書状のやりとりの文面からもうかがえる。本山から離
して藩内だけの存在にしておけば、幕府へ出訴されて大事となったり、本寺など藩外の力によって住職・檀家などの
藩内の人々が影響を受けたりはせず、藩の法令だけで対処することが出来る。この宝暦の騒動を体験した広内はこの
ように考え、無本寺などの検討を繰り返したのであろう。

しかし幕府の宗教政策としては、本末関係を重視し本末関係のもとで全寺院を統括しようという構造があり、それ
にもとづく諸法令があった。その為に、このような広内の画策はまったく実現しなかったわけであった。

まとめ

岡山藩の文書をもとに近世の改宗に関する事例をとりあげてきた。一節では、改宗は寺と檀那が相対であれば容易
に行われるもので、藩はそれに関知しない根本方針があったと結論した。また、二節では寺送り手形について宝暦頃
の様相を示した。三節では藩命による寺や檀那の改宗の検討から領域的な支配を行う藩と全国的に点在する寺院を支
配し信徒に影響力をもつ門流との摩擦の一端にふれた。

改宗も十分に可能であると前提するならば、以前のような閉塞的なとらえ方も見直されるべきではなかろうか。宗
門改め制度は厳然としてあっても、檀家というものは辻の想定したような固定化されたものでもなく、信仰による流
動的な部分がかなりあったことになる。すなわち檀那が寺の奴隷のように縛られているわけではない、と想定すれば
現代とあまり変わらない様相が見えてくる。全体としては檀那であることに誇りをもち寺を替えたりすることなど思
いも寄らない人々も多くいたであろうが、自身の信仰の変化によって改宗・寺替えを行う人々もかなりいたと思われ
る。ならば、寺や僧侶の像も変化していく。以前は開帳や説教などの行事、出版などの活動も固定化された寺檀制度
を前提として判断されていた。これらも檀家が離れないようにする、また自宗の新しい信徒を誘引する点を重視する
という新しい視点から再検討する必要があるであろう

そして今後の見通しとして、近世後期には、寺院・信徒ともに法規を守る限りにおいては、実質的に信教の自由が
保障されていたといってもよい状態であり、布教などの活動もそのような状態に沿ったものであったという方向で検
討したいと考える。さらに、宗門改め制度の成立や幕藩体制の確立と寺檀関係がどこまで同調するものなのか、また
制度によって寺と人々の結びつきにどのような変化があったのかも考えてゆきたい。
 

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