教化学研究3 現代宗教研究第46号別冊 2012年03月 発行
日蓮聖人、小佐渡山脈越え(松ヶ崎・真浦~佐渡守護所間)の経路を辿る
日蓮聖人、小佐渡山脈越え(松ヶ崎・真浦~佐渡守護所間)の経路を辿る
日蓮聖人が通られた.御流罪…松ヶ崎~佐渡守護所間、.御赦免…佐渡守護所.真浦間の峠越えの経路について、橘正隆著『佐渡霊蹟研究』、田中圭一著新・旧版『日蓮と佐渡』、小菅徹也著『佐渡中世史の根幹』の各説に基づき検証する。宗祖の通られた古道を実際に辿ることで教化学に役立てる事を目的とし、実用面として現状の古道を自動車で通行可能か検証した。
左図中央を横切る山並は小佐渡山脈であり、国津の松ヶ崎より図上部の(1)雑太(さわた)〔雑太国府・守護所説〕(2)波多(はた)〔波多国府・守護所説〕国府のある国仲平野へ至る峠越えの経路A~Dは、中世の古道を前掲書を基に再現したものである。Eは真浦へ至る古道である。
(一)松ヶ崎~守護所間経路。【橘説】…AB経由仙道。【田中説】…AB経由(2)波多(はた)。【小菅説】…ACD経由(1)雑太(さわた)
(二)守護所~真浦間経路。【橘説】…DE経由真浦。【田中説】…BA経由松ヶ崎→〈海路〉→真浦。【小菅説】…DCA経由松ヶ崎〈海路〉→真浦。
※鎌倉後期の国府・守護所の位置が、.雑太説の場合…が官道(駅路)、.波多説の場合..が官道となる。
《御流罪》松ヶ崎↓佐渡守護所間、峠越えの経路
【橘・田中説】…笠借峠経由説、橘氏により、文永八年の宗祖佐渡流罪から一六三年後の永享六年(一四三四年)に佐渡へ流された観世元清(世阿弥)が、配流の記録を謡曲にした『金島書(集)』を基に松ヶ崎.小倉・長谷(国仲平野手前)間の峠越えの古道を再現した説。田中説は橘説に準拠し、更に、波多国府・守護所説により笠借峠経由説を補っている。
文永八年(一二七一)
一〇月二九日 松ヶ崎↓笠借峠↓佐渡守護所〈行程約二六㎞〉
三〇日 守護所泊
一一月 一日 佐渡守護所(田中│波多)↓塚原配所(橘│仙道、田中│波多・現目黒町)
『金島書(集)』(はい処) 『世阿弥十六部集』(能楽会刊)所収
「その夜は②大田の浦に留まり、あまの庵の、磯枕して、明れは、山路をわけ登りて、⑤笠借りと云たうけにつきて、駒をやすめたり、ここはみやこにてもききし名ところなれば「山はいかてか紅葉しぬらん」夏山楓のわくらはまても、心あるさまにおもひ染めてき、そのまま山路をおりくたれば、⑨長谷と申て、観音の霊地わたらせ給」
「宗祖の執られた道を一般には現県道の旧道、松崎より多田河内、小倉峠(此旧道に日蓮水、日蓮塚等があり、日蓮塚迄物部天神迎へに出られた等の伝説も存するが皆文化頃の創作で刀根越の宝塔石の如きは単に交通安全の建碑で他宗のものも一所に建てられてあった)小倉と主張してゐるが私は矢張金島集同様①松ヶ崎、③丸山、⑤笠借峠、⑥八瀬松、⑦小倉と思ふ。流人は官所の取扱で随て其とる道も定まっている筈なるが故である。」(『佐渡霊蹟研究』六〇.一頁)
「笠借古道考 ②多田ヨリ③丸山ニ出デ多田川渓谷ヲ遡リ④「ささんくびと」ニ出デ赤泊方面(思フニ旧三川駅道乎)道トノ追分ヲ過ギ⑤笠借峠ノ頂上ニ達シ(現称檜山越)小倉川水源ノ渓谷ニ下リ城ガ尾ノ裾ヲ迂回十字路ヲ右ニ取リ⑦小倉中佐為⑧御梅堂下ニ出ヅ、処々石畳アリ古道ノ俤ヲ留ム」(『佐渡霊蹟研究』五一九頁)
以上を総合すると次の順序となる。
①松ヶ崎↓②多田↓③丸山↓④ササン首戸↓⑤笠借峠↓⑥八瀬松↓⑦小倉↓⑧御梅堂↓⑨長谷
⑦長谷以降、田中説は、.波多守護所へ向かったとし、橘説は塚原配所を「仙道」とした。
次頁上図は①.⑦の古道の経路を再現したものである。下図は橘氏の笠借峠越説の図(『佐渡霊蹟研究』六一頁)である。
『旧版 日蓮と佐渡』(二九.三三頁)、『新版 日蓮と佐渡』(二九.三八頁)に橘氏の『佐渡霊蹟研究』とほぼ同様の笠借峠越えの古道の解説がみられる事から、橘説を踏襲したとものと理解できる。
○「笠借峠」…同地名は現存せず、これに近い「笠取峠」は多田の黒根から莚場間の山中にあるが、橘氏によると、「笠借峠」は現在の「ササンクビト(首戸)」(人の首丈程の笹竹が密生し、にわか雨によく会う場所)と呼ばれる場所が語源であると推定している(『畑野町史 満都佐木』八〇頁)。この世阿弥の通った笠借峠(現・ササン首戸)越えの道は中世の道として定説化し『畑野町史 満都佐木』に「檜山越えの道」(七七.八六頁)として解説が記されている。また、実際の古道も「中部北陸自然歩道」として公的に整備されている。
○「刀利の法華塔婆(刀根越の宝塔石)」…江戸期に宗門寺院が日蓮聖人の峠越えを顕彰して建てられた石碑群。
○「山はいかてか紅葉しぬらん」…『金島書』に紅葉の名所として記述のある場所(推定)は、現在、「紅葉山公園」として整備されている。
○小倉御梅堂(藤梅堂)…宗祖が松ヶ崎より塚原配所へ向かう途中休息されたと伝う場所。依智より持参した星降り梅の杖が根付き、御赦免により松ヶ崎へ向かう途中立ち寄ると、開花していたと伝う梅の木が現存する。
※橘氏「笠借峠越説」推定図と現在の地図との比較
橘氏の推定図は、大まかな概略図の為、実際の地図と東境山・男神山・女神山・飯出山等の山の位置関係が若干異なる。推定図の「最旧道」(世阿弥の古道)と現在公的に整備された古道とは、⑤笠借峠.⑥八瀬松間の経路が異なる。現在公認された古道は飯出山の西側の山々の稜線近くを辿り⑤.⑥間を通るのに対し、推定図の「最旧道」は、⑤笠借峠より飯出山の東側を通り⑥八瀬松に着く。『佐渡霊蹟研究』(五一九頁)によると「⑤笠借峠ノ頂上ニ達シ(現称檜山越)小倉川水源ノ渓谷ニ下リ城ガ尾ノ裾ヲ迂回十字路ヲ右ニ取リ⑦小倉」との記述から、⑤笠借峠より飯出山東側の小倉川支流の流れる渓谷に下りて⑥八瀬松方面に向かうとも考えられる。
●現地検証
松ヶ崎…鴻ノ瀬=国府の瀬、佐渡の国津。
松ヶ崎駅…松崎神社付近に比定されている。
日蓮聖人上陸地…戸倉トンネル手前「舟付」(『日蓮と佐渡』)、本行寺裏の浜、「法華岩」(上写真参照)等が伝承されている。
水無街道…松ヶ崎青木地区から段丘の裾に沿って西ノ河内川までの東西に伸びる旧道。日蓮聖人が通られた道と推定されている。
松ヶ崎~多田間の古道「水無街道」、点線部分は通行困難。
①本行寺裏の水無街道、宗祖の宿泊された御欅に続く
②御欅(おけやき)…宗祖が樹洞に三日三晩過されたと伝承される欅(二代目)。この場所は昭和48年の発掘調査により「宿跡」に比定されている。本行寺より約400m程西にある。
③御欅から入玉山の裏側を通り浦ノ河内川に出て上流に向かい、本間庄左衛門家脇の山道を登り旧国民休暇村手前に出る。
④旧国民休暇村手前から多田地区へ降りる山道は現在通行困難。
⑤出口橋より左折し坂を上がる。
⑥分岐点、右折し西龍寺下を上って行く。
⑦交差地点、古道は右折後左に上る。
⑧丸山集落の旧家松岩家
⑨小倉峠よりササン首戸方面へ向かう道との合流点。
⑩ササン首戸、古道より50m程上る丸山~ササン首戸間の古道、整備され比較的道は良いが車には狭い。
ササン首戸~八瀬松間
古道は、ササン首戸より笠借峠を越え飯出山の西側を通り八瀬松に至る。途中、三川・経塚山・猿八・小倉方面等の分岐点が数箇所ある。道は急な上がり下がりが少なく緩やかに下る。八瀬松手前まで未舗装で通行に注意を要する箇所もあり自動車は不向き。八瀬松まで未舗装である。
⑪飯出山
⑫猿八・八瀬松方面の分岐点
⑬小倉・八瀬松方面の分岐点
⑭八瀬松から下る古道と県道との合流点
八瀬松~長谷寺間、【白線】古道、【灰線】県道
古道は、物部神社入口の道標より入る。中左為地区には宗祖御休息と伝う御梅堂が川向にあり、『金島集』に記載の長谷寺に至る。
⑮物部神社入口より入る
⑯物部神社、伝日蓮筆住吉明神木札
⑰御梅堂、伝宗祖御休息場所
長谷寺~下畑間
長谷寺より県道と合流し畑野地区に出る。畑野中付近は整地され旧道が迂回している。
日蓮聖人が配流となられた鎌倉後期は国府が存在していたが、この下畑地区に国府を比定する田中圭一氏の波多国府説は、国府に関連する地名や遺構が何も発見されいていない。
⑱古道を下り、長谷寺に出る
⑲長谷寺下で古道と県道が合流
⑳畑野、古道と県道との分岐点
《御赦免》佐渡守護所↓真浦、峠越えの経路
【田中説】…笠借峠(現・ササン首戸)越説。来島時の松ヶ崎.佐渡守護所間と同じ行程を戻られたとする。『種種御振舞御書』の「三月十三日に島を立て」の記述から、十三日、松ヶ崎より出帆し、風待ちの為真浦に寄港・宿泊したとする。
文永十一年(一二七四) 三月一三日 一谷配所↓佐渡守護所(波多)↓笠借峠↓松ヶ崎↓〈海路〉↓真浦(二泊)
一五日 真浦↓柏崎
《御流罪》松ヶ崎↓佐渡守護所間、峠越えの経路
【小菅説】…官道・三川駅(川茂)経由説。流人護送(公務)の為、佐渡島内も松ヶ崎駅.〈三川駅経由〉.雑太駅間の駅路を通られたとする。日蓮聖人が流罪となられた鎌倉時代後期も、雑太に国府・守護所が存在し駅路が機能していたが、世阿弥が流罪となった室町時代には、波多に移転した佐渡守護所が国政の中心となっていた為、官道も波多に近い笠借峠越えの道となったとする。御赦免後、鎌倉へ帰られる際の峠越えの行程も雑太駅.〈三川駅経由〉.松ヶ崎駅間の駅路を通られ、松ヶ崎より海路で真浦へ着かれたとする。
『延喜式』〈康保四年(九六七)施行〉の「諸國駅伝馬」に「(北陸道)佐渡國駅馬、松崎・三川・雑太各□匹、通じて伝馬に充つ」とあり、佐渡国には、松ヶ崎(国津)、三川、雑太(国府)の三箇所に駅家(うまや)が設置されていた。各駅家には五疋前後の官馬がおかれていた。通常は、駅制に基づき三〇里(約一六㎞)ごとに駅(駅家)、渡し場に水駅を置き、駅長・駅子に駅馬・駅船を運営させた。また、運営に関する費用は地元負担であった。
現在、松ヶ崎駅は松ヶ崎の「松前神社」付近、雑太駅は旧真野町吉岡の高館にある「中畑遺跡」付近が駅家に比定されている。三川駅は、松ヶ崎(国津)・雑太(国府)間の中継場所となる地点にあると考えられるが、所在は現在まで未確定であり、駅路も正確に確認されていないが、駅制に基づけば、松ヶ崎(国津).雑太(国府)間の中間にあり、駅家を運営可能な経済基盤を持つ規模(複数の垣之内集落が密集する場所)の集落である事が推測できる。
三川駅について『赤泊村史 上巻』(五七.六八頁)に解説が見られる。三川駅の比定地について明治期より各説ある中で、「三川郷」内に駅を比定した、橘氏の川茂説《松ヶ崎│川茂│梨ノ木街道│雑太》(『佐渡航海史要』『河崎村資料編年志』)と石崎氏の腰細・徳和説《松ヶ崎│腰細(もしくは徳和)│経塚山│雑太》(『佐渡史学』第六集所収)の二説が有力であるとしている。
小菅説は橘説と同じく「三川駅川茂説」をとる。小菅氏は、『赤泊村史 上巻』(五六頁)で「赤泊村の垣之内」調査を行い「川茂地区の垣之内」について「下川茂には羽茂川沿いを中心に一〇か所以上の垣之内地名が残り、須恵器の出土も多く、古くから開発された地域であることを示している。」とし、後に当時の調査結果を基に『佐渡中世史の根幹』(六七頁)において、川茂地区には垣之内が集合し駅家を運営する経済力がある事から、三川駅を下川茂(下川茂郵便局背後の高台上)に比定している。また、「三川駅腰細説」について「①外山から経塚山の肩部に直登する難路であること。②駅を維持する経営基盤としての「垣之内集落」が一つしかないこと」を問題点として指摘している。
文永八年(一二七一)
一〇月二九日 松ヶ崎駅↓三川駅↓雑太駅・佐渡守護所(雑太郡竹田)〈行程約二八・五㎞〉
三〇日 守護所泊
一一月 一日 佐渡守護所(竹田)↓波多本間氏(後見人)↓塚原配所(波多・現目黒町)
※田中説・小菅説の経路の違いは、宗祖が流罪となられた鎌倉後期における国府・守護所の比定場所の違いに関連する。
田中説は、平安時代、既に国府・守護所が.雑太より.波多に移転していた(「佐渡国府三転説」)ので、.波多に近い笠借峠(檜山越え)が官道となっていたとする。小菅説は、鎌倉時代末期迄、国府・守護所は.雑太(「雑太国府説」)に存在したので、奈良時代に律令下の駅制により成立した駅路を通られたとしている。佐渡国府・守護所の所在に関する各説は、『現代宗教研究 第四十四号』「調査報告(小瀨)」に詳細を記した。.雑太国府説は、国府に関連する地名や発掘調査に基づき確証があるが、.波多国府説は、国府に関連する地名や遺構の発見が未だに全く無
い現状である。
●現地検証
丸山.下川茂間
丸山集落までの行程は田中説と同様なので省略する。分岐点の仁王木は交通の要所で以前は五叉路になっていた云う。現在、車では通行困難の為、丸山集落入口より平泉寺に向かう笠取峠への古道(多田の黒根へ至る道)を迂回した。丸山から下川茂へ向かう古道は、山の中腹を等高線に沿って進むなだらかな道で、途中多くの分岐点があるが、その都度標識があり迷わず進むことが出来る。全線舗装されている。
下川茂.真野間
川茂地区は盆地状の地形を成し、松ヶ崎・雑太駅の中間に位置する土地である。三川駅(下川茂郵便局背後の高台上)に比定された下川茂より川茂峠・梨之木を経て真野に至る道は梨ノ木街道と呼ばれる旧道である。現在(平成二四年)、梨之木.真野間は崖崩れにより通行止となっている。
真野.雑太守護所(雑太国府域)間
雑太国府域には、壇風城跡(政庁)・下国府遺跡(官舎)・中畑遺跡(雑太駅)・佐渡国分寺跡等、国府関連施設遺跡が多く点在し、第二次雑太国府説を裏付ける根拠となっている。小菅説に基づくと、鎌倉期には竹田城(雑太本間氏居城)に佐渡守護所があり壇風城跡(国府政庁)を監視する位置関係にあったとする。この様に、守護所は国府を監視する関係にある為、通常、国府の近くに造られるという。
日蓮聖人は、文永八年一〇月二九日、松ヶ崎駅↓三川駅↓雑太駅を経由し佐渡守護所(竹田城)に到着〈行程約二八・五㎞〉。守護所に二泊され、一一月一日、守護所より雑太本間氏の後見人(うしろみ)である波多本間氏(現目黒町畑野)に預けられ、ここより塚原配所(妙満寺付近)に向かわれたとする。
経路には佐渡国分寺・妙宣寺への大型標識が要所に設置され、容易に行くことが出来る。
渋手…宗祖御赦免後、出発に際し、島内直檀有縁者との別れの場、顕彰石碑がある。ここより乗船し真浦へ向かったとの説もあるが、海流の関係で困難とも云われている。
一杯清水…赦免状を持参された日朗上人が休憩された場所と伝う。
《御赦免》佐渡守護所↓真浦、峠越えの経路
【橘・小菅説】…官道・三川駅(川茂)経由説。雑太駅(国府).三川駅(川茂)間の駅路を通り、橘説は大木戸越えより真浦へ向かったとする。〔『光日房御書』(昭和定本一一五四頁)の「同十三日に国を立てまうらというつにをりて」の文より、峠を越え「真浦に下りる」と解釈された。〕小菅説は三川駅(川茂)より松ヶ崎駅まで駅路を経由し、松ヶ崎より海路で真浦に着いたとする。
文永十一年三月(一二七四)
橘 説一三日 一谷配所↓佐渡守護所(竹田)↓渋手↓三川駅↓大木戸越え↓真浦(二泊)
小菅説一三日 一谷配所↓佐渡守護所(竹田)↓渋手↓三川駅↓松ヶ崎駅↓〈海路〉↓真浦(二泊)
一五日 真浦↓柏崎
以上、日蓮聖人の小佐渡山脈越えの経路について検証したが、この様な衛星写真(Goog le ・Earth)を用いた地理上の色覚的解説、日蓮聖人が通られた古道を実際に辿り検証することによる体験等が教化学上有意義と思われるので、今回発表させて頂いた次第である。
佐渡国府・守護所の所在に関する各説は、『現代宗教研究 第四十四号』「調査報告(小瀨)」に詳細を記した。また、日蓮聖人の小佐渡山脈越えの経路・日時等各説の考証、松ヶ崎・真浦等霊蹟調査の詳細は、『現代宗教研究 第四十五号』「調査報告(小瀨)」に詳細を記したので、ご参照頂きたい。