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現代宗教研究第60号 2026年03月 発行

研究論文 『身延鑑』から探る七面大明神の正体 玉木晃仁

『身延鑑』から探る七面大明神の正体

玉 木 晃 仁

【はじめに】本稿の目的と『身延鑑』について
 江戸時代に成立した身延七面山の参詣ガイドブック『身延鑑』がある。今日の観光ガイドブックでも『身延鑑』を参照している観があり、今日でも影響力がある。内容は、身延在住の老僧をガイドに伴い巡礼する紀行文で、三巻からなる。逢島・総門から三門を経て、祖師影堂・本堂・大書院等の諸堂各坊を周り、七面山へも登詣している。
 本稿は、『身延鑑』に登場する老僧ガイドによる七面大明神の紹介から正体を探ることが目的である。僧侶成り立ての頃から「そもそも七面大明神は、なぜ龍神(女)なのか?」数多のお上人にお聞きしたが、納得いくお答えは頂けないばかりか逆鱗に触れたこともあった。七面大明神は玉木家の守護神である。私自身答を出さねばならないようだ。
 『身延鑑』は、『日蓮宗事典』によれば、「貞享二年(一六八五)撰、筆者は身延三一世一円院日脱(一六二六~一六九八)と推定されている。身延輪番制の廃止は正応元年(一二八八)と記されている。なお特に身延七面山信仰の歴史的推移を知る要書である。《高木豊「『身延鑑』管見」(棲神五二)》」とあるが、高木豊「『身延鑑』管見」を確認すると、高木豊(一九二八~九九)によれば、「刊記を見るに、刊時の「貞享二乙丑孟春吉辰」を中心にして、右下に「洛陽之沙門」、左下に「松会開板」とある。「洛陽之沙門」とは、筆者を示すが、その誰人であるかはわからない。」と結論づけている。
 高木豊によれば、岩波書店刊『国書総目録』から貞享二年(一六八五)・元禄一七年(一七〇二)・宝暦一二(一七六二)・天保五年(一八三四)・同六年・同一五年の刊記の伝存している。貞享・元禄本と宝暦以下の諸本と二つに大きく分かれる。
 ○貞享・元禄本は、版権は松会。
 ○宝暦本以下は、版権は身延山久遠寺 貞享・元禄本の増補・新訂刻。
 貞享本には三十一世一円院日脱(一六二七~九八)が存命であることが記され、宝暦本以下は、追補補刻の部分で久遠寺歴代提示の項があり、歴代が継続列記されている。恐らく『日蓮宗事典』の『身延鑑』の項の執筆者が、初版の松会版が、身延三十一世一円院日脱の時代に成立したとするところが、誤って著者としたのであろう。『日蓮宗事典』の影響は大きく『身延鑑』の著者は、一円院日脱と記載されている文献が確認できる。
 今日では『新訂 身延鑑』(平成十三年(二〇〇一)二月十六日 発行 身延山久遠寺 編著者 藤井日光)が最も流通していると思える。編著者 藤井日光(一九〇九~ 二〇〇六)は、昭和四十一年(一九六六)当時の立正大学教授兜木正亨(一九一〇~七九)の協力で翻刻出版した。藤井日光の師父 身延山第八十六世一乗院日静の代であった。新訂発行した平成十三年、藤井日光は九十一世法主となり、翌年の平成十四年(二〇〇二)は日蓮聖人立教開宗七五〇年に向け北沢光昭の協力を得て改訂した。底本は宝暦十二年(一七六二)本・文化十四年(一八一七)修印本を依用している。
 元禄本(松会版 国会図書館デジタルコレクション蔵)の七面大明神の箇所とを確認すると、身延山久遠寺版の『新訂 身延鑑』(平成十三年(二〇〇一)二月十六日 発行 身延山久遠寺 編著者 藤井日光)と同様であったことから、身延山で認識された七面大明神観を十七世紀後半まで遡り窺うことができる。『身延鑑』から七面大明神の正体を探る。
【なぜ七面大明神は、龍神なのか】
 『身延鑑』ガイドの老僧による七面大明神についての説明によれば、
    あれなるは池の太神なり。拝み給えと申され侍る。その時に問わく、此の御神の本地はいかなる仏菩薩にて、何時の頃よりか此の山に跡を垂れ、末法法華の守護神とはなり給うや。又、七面とはいかなるいわれにて申し候や。老僧の云く。
    此の御神と申すは本地弁才天功徳天女なり。鬼子母天の御子なり。右は施無畏の鍵を持ち、左に如意珠の玉を持ち給う。北方毘沙門天王の城、阿毘曼陀城妙華福光吉祥園にいますゆえ、吉祥天女とも申し奉る。
    山を七面というは、此の山八方に門あり、鬼門を閉じて聞信戒定進捨懺に表示、七面を聞き、七難を払い、七福を授け給う七不思議の神の住ませ給うゆえに七面と名付け侍るとなり。
    此の神、身延山末法護法の神となり給う由来は、建治年中の頃なりとかや。大聖人御読経の庵室に二十ばかりの化高女の、柳色の衣に紅梅のはかまを着し、御前近く居渇仰の体を、大旦那波木井実長郎等共見及び、心に不審をなしければ、大聖人はかねてその色を知り給い、かの女にたずね給うは、御身は此の山中にては見なれぬ人なり。何方より日々詣で給うとありければ、女姓申しけるは、我は七面山の池にすみ侍るものなり。聖人の御経ありがたく三つの苦しみをのがれ侍り、結縁したまえと申しければ、輪円具足の大曼茶羅を授け給い、名をば何と問い給えば、厳島女と申しける。聖人聞し召し、さては安芸の国厳島の神女にてましますと仰せあれば、女の云く、我は厳島弁才天なり、霊山にて約束なり、末法護法の神なるべきとあれば、聖人のたまわく、垂迹の姿を現わし給えと、阿伽の花瓶を出し給えば、水に影を移せば、一丈あまりの赤竜となり、花瓶をまといしかば、実長も郎党も疑いの念をはらしぬ。
    本の姿となり、我は霊山会上にて仏の摩頂の授記を得、末法法華受持の者には七難を払い、七福を与う。誹謗の輩には七厄九難を与え、九万八千の夜叉神は我が眷属なり。身延山に於て水火兵革等の七難を払い、七堂を守るべしと固く誓約ありて、また此の池に帰り棲み給う。その時の蛇形を狩野大蔵が筆にて元祖大聖人霊翰をあそばされ残し置き給う
 本文太字の「女姓申しけるは、我は七面山の池にすみ侍るものなり。聖人の御経ありがたく三つの苦しみをのがれ侍り、結縁したまえと申しければ、輪円具足の大曼茶羅を授け給う。」の部分に注視する。
 三つの苦しみについて、編者 藤井日光によれば、註(11)に「三つの苦しみ、内苦外苦の苦々と壊苦(楽をやぶる)と行苦(変化のための苦)の三苦」なのだという。はたしてそうか?
 蛇・龍を祭神あるいは神の使者とする神社仏閣は多い。その理由を検証する。天台宗の学僧 慈眼房光宗(一二七六~一三五〇)により応長元年(一三一一)から貞和四年(一三四八)までの比叡山の行事・作法や口伝法門などを集録した『渓嵐拾葉集』がある。そのなかの「山王御事」によれば、
   問。神明ノ垂迹必現二蛇身一方如何 答。神明ト者。和光同座ノ體カ故ニ。似二─同凡夫一給也。凡夫ト者。三毒等分極成體也。三毒極成無作本有形體ハ者必蛇體也。(中略)
 神の垂迹は必ず蛇身の類いであるのはなぜか?その答えは、神とは仏が和光同塵した姿であるから、我々凡夫衆生の似姿としてあらわれる。凡夫とは煩悩の源泉である三毒で構成されている。この三毒を結晶化した姿が蛇だから神は必ず蛇身なのである。
 この部分から、七面大明神は、三毒に苦しめられているから、それが「三つの苦しみをのがれ待り」の告白に繋がり、「一丈あまりの赤竜」の体で蛇形である理由が推理できる。三毒とは、善根に害毒を与える三つの煩悩のことで、貪・瞋・癡をいい、三不善根とも称する。貪毒は引取の心、瞋毒は恚忿の心、癡毒は迷闇の心をいう。三毒は、日蓮聖人遺文『開目抄』『観心本尊抄』『四恩抄』等にも確認できる。
 さらに続く
   尋云。龍女カ之詣二鷲峯一體形如何 答。靈山聽衆ノ見ニハ八歳ノ龍女也。釋尊見ニハ十六丈蛇形也。其ノ故ハ一切衆生ノ無作本有ノ形體ハ蛇形也。不レ改二此無作ノ體一ヲ。開二─覺本有法身一ト也。
 さらに探く聞く。龍女が霊鷲山の峰に詣でるときの体の形はどのような状態か?その答えは、霊鷲山の聴衆は八才の龍女に見える。釈尊には十六丈の蛇形に見える。その理由は一切衆生は、自然のままの本来的な姿 身体が蛇の形である。改めずとも自然のままの身体は、本来的な法身で聞き悟ことができる。
 『身延鑑』の本文に「本の姿となり、我は霊山会上にて仏の摩頂の授記を得、末法法華受持の者には七難を払い、七福を与う」がある。「本の姿」とは法身の姿で、霊就山で授記を得ていること。結果的に蛇形を狩野大蔵によって書きとどめられていることからも、論理展開は同様である。
 この「山王御事」の部分は、『身延鑑』の七面大明神の存在論理の順番に沿っていることから参照した可能性が高い。しかし中世成立の書籍には、神が蛇身である記述が多く確認できる。伊藤聡氏によれば、中世、神が蛇の姿である認識が一般的であったと論考されている。中世の神道史・神概念については紙面の関係で触れない。
 神は仏が和光同塵した姿であり、我々凡夫と似た姿で現れる。凡夫は煩悩の源泉である三毒(貪・瞋・痴)により構成され、三毒が結晶化した姿が蛇である。七面大明神が蛇身であること。『妙法蓮華経』「堤婆達多品第十二」に登場する龍女と関係している論理が『渓嵐拾葉集』「山王御事」から確認できた。こうした論理展開から『身延鑑』に確認きる七面大明神の三つの苦しみは三毒(貪・瞋・痴)により生じる苦しみである。
 神が蛇身の理由について、作者 洛陽之沙門が中世の一般的神概念を踏襲したのだろうか。時代は近世 江戸時代である。中世に成立した書籍の引用・参照したと考えるのが妥当でだろう。次に他に引用・参照書籍の特定を試みる。
【七面大明神と厳島の弁財天の関係】
 『身延鑑』では、七面大明神は「我は厳島の弁才天」と自身の口で正体を明かしている。厳島の弁財天との関係から、引用・参照書籍を推理・考察する。
 七面大明神の縁起・逸話等を一覧すると、本地は提婆品の龍女・吉祥天・弁財天等、統一されていない。それなのに七面大明神の尊像の持ち物である左手の宝珠。右手の鑰である。それ以外の持ち物を持った七面大明神の尊像は管見では確認できない。そればかりではなく、持ち物に言及した縁起すらないことは興味深い。何を意味するのか。七面大明神は、尊像が成立していた。それから後に縁起が製作された証左である。
 七面大明神は、持ち物から宇賀弁財天が変態した存在とを確信している。日本撰述偽経と認定された『仏説最勝護国宇賀耶頓得如意宝珠陀羅尼経』に、宇賀神王の持ち物が明記されている。
   有リ二八臂一。左ノ第一ハ鉾。第二ハ輪宝。第三ハ宝弓。第四ハ宝珠。右ノ第一ハ剣。第二ハ棒。第三ハ鑰。第四ハ宝箭。
 太字にしている持ち物は、今日の一般的七面大明神の尊像の持ち物である左手の宝珠。右手の鑰である。七面大明神は自ら宇賀弁財天の垂迹で、変態したと主張しているかのようである。
 七面大明神の縁起・逸話を一覧すると、時代が進むにつれて、宇賀弁財天の影がうすくなり、日蓮宗の守護神へと展開し今日に至る。『身延鑑』の場合はどうか?やはり宇賀弁財天の影が、色濃く残存している。
 厳島神社は宇賀弁財天信仰がなされていた。少なくとも室町時代後半・織豊時代には、「弁財天の霊場」として全国的に有名であった。洛陽之沙門による現地調査の有無は、確認できない。参考書籍の存在を推理を試みる。
 江戸前期の日蓮宗僧侶の一般的教養は天台学である。日蓮教団は、中世、京都を中心に教線が拡大していった。天正七年(一五七九)織田信長(一五三四~一五八二)による弾圧 安土法難を契機に宗風が一変する。それまでの折伏と不受不施義の二大布教方針があり、特に折伏は自重するようになった。不受不施義は後の徳川幕府の政策により禁止となった。安土桃山時代から江戸時代初期に、教育機関 檀林が創設される時期に時代的影響を受け。カリキュラムは、天台教学となった。
 さらに先に挙げた『渓嵐拾葉集』所収の第三十七「辨財天縁起末 私苗」に興味深い記述がある。
   紀州吉野天川者地藏辨財天也。日本第一ノ辨財天。第二嚴島者妙音辨財天也。第三竹生島觀音辨財也云云又云。今天川ト嚴島ト竹生島ト三所穴互通徹。三辨寶珠一體互融セリ。甚深甚深
 紀州吉野天川は地藏辨財天である。日本第一の辨財天。第二嚴島は妙音辨財天である。第三竹生島は觀音辨財である。というわけだ。さらに言えば、今は天川と嚴島と竹生島とは三所の穴が互に通じている。三つの弁財天の寶珠も互いに融通する関係である。奥が深いことである。
 松井輝昭氏によれば、「日本三大弁財天と知られていた天川・厳島・竹生島の弁財天の龍穴が互いにつながっているだけでなく、宝珠まで共有していて一体不可分の関係であったと理解されているのが分かる。このような考え方が何に由来するのかその理由は不明であるが、背後にこの三者を結び付ける宗教勢力があったものと推測できる。つまり、天台宗系の修験者のネットワークが大きく広がっているだけではなく、また修験者の活動範囲も広範な領域に及んでおり、それがこのようなスケールの大きな発想を生んだのではないだろうか」と指摘されている。
 『渓嵐拾葉集』の成立は中世である。身延山・七面山は中世には天台宗系の修験者の領域だったのかもしれない。『身延鑑』が編纂されたのは江戸時代初期 近世に入っている。そのころは身延山も七面山も日蓮宗身延山久遠寺の領域になっている。『身延鑑』は今日でいえば、ガイドブック。観光客誘致をも目的としている。日蓮宗の独自性を模索していたと想像できる。
 洛陽之沙門は、『渓嵐拾葉集』の弁財天についての記述 第三十六「辨財天法秘決 本私苗」・第三十七「辨財天縁起末」を参照・咀嚼し縁起を創作したと推理した。
 例えば、先の神は蛇であることに関連して、第三十六「辨財天法秘決 本私苗」には、
  一。 生身辨財事 示云。先龍神ハ居二大海最底ニ一事ハ。凡龍畜ノ依身ハ三毒極成ノ體。生死沈沒ノ本源也。故ニ大海ノ最底ニ居住ス(以下略)
一 、生身の弁財天について。まず龍神が大海の最も深い底にいることは、普通龍畜は三毒が極めてなった体である。生死が関係ない物事の根源である。
さらに興味深い箇所として、第三十七「辨財天縁起末」
 一。 安藝嚴島三箇祕事 夫レ嚴島大明神者。娑迦羅龍王第二女也。發二五十種誓願一。其中三箇大願者。第一無上菩提。第二大智慧。第三福徳也.。若有レ人詣二我寶前一者。此三箇大願不果遂者。不取二正覺一巳上
一 、安芸厳島の三箇秘事 それ厳島大明神は、娑迦羅龍王の第二女である。五十種の誓願を発する。その中の三箇大願は、第一無上菩提。第二大智慧。第三福徳である。もし参詣するものは、願いのかなわないものはいない。
 娑迦羅龍王は恐らく娑竭羅龍王のことで、『妙法蓮華経』「提婆達多品第十二」(以下「提婆品」)を彷彿とさせる。「提婆品」には、海中で妙法蓮華経を布教した文殊師利に智積菩薩が法華経を修行して速やかに佛になる者はいるかとの質問に、文殊師利が、娑竭羅龍王の娘で、年が八歳で聡明で修行して正覚を得られた。と答える場面が想起される。ただし何番目の娘との情報は「提婆品」にはない。
 嚴島大明神の「大明神」の尊称は天川・竹生島に確認できない。さらに厳島のみが「提婆品」由来である。洛陽之沙門は、こうした点を考慮し、参照・咀嚼したと推理する。
 尊称について『本化別頭佛祖統記』の記述に、七面天女とする「天女」の尊称を確認できるが、江戸時代から尊称は、七面大明神が主流である、明治時代の廃仏毀釈のとき一時的には七面天女と称されたが、今日まで七面大明神と尊称されるのが一般的である。
 前掲『身延鑑』の部分で大明神の尊称は確認できない。恐らく構成上のことのようである。後半には、武田信玄(一五二一~七三)による身延責めを断念した理由に七面大明神が関係している逸話が紹介されている。
   その前の夜、先手の惣がしら侍大将の一同に夢見しは、身延山の鎮守七面大明神女体に甲冑を体し、九万八千の夜叉神を左右に随え、仏法破却の大将を射ると放ち給う。その矢、大将の口の中に入ると見えしと語りしが、果して明くる惣大将信玄俄かに口中を痛み、歯瘡という煩いにて死去し給うなり。夢見し人々の語り伝えし事なり。
この箇所では、「大明神」の尊称が確認できる。
 『身延鑑』が成立した時期の法主である日脱が、吉良上野介義央(一六四一~一七〇三)に授与した七面大明神像の厨子の内側 向かって右の扉に
   南無七面大明神 身延三一世 日脱 (花押)
 と確認できる。またどうして七面大明神の尊称が「大明神」であるのか?と新たな疑問が生じた。「大明神」の尊称について、『世界大百科事典 27』(平凡社)「明神」によれば、「明神号に祭祀上の限定はなく、近世には神祇伯を名のる吉田家が私に明神(大明神)号を乱発した。」と簡潔かつ的確に記載されている。吉田神道には宗源宣旨と称する宣旨がある。吉田家から諸社に、神宣と称して神階・社格・神号などを授けた文書である。朝廷は関係しなかったが,江戸時代盛んに出された。吉田家八代当主 吉田兼右(一五一六~一五七三)は、厳島神社の求めに応じて神道伝授を行っている。また吉田兼右は、仏心院日珖(一五三二~一五九九)と交流があった。それが影響したのか?なぜ七面大明神の尊称が大明神なのか?は後の課題としたい。
 七面大明神と厳島の弁財天の関係をまとめると、洛陽之沙門は、身延山久遠寺三一世一円院日脱の時代、『身延鑑』の七面大明神の逸話の部分を、天台宗の慈眼房光宗『渓嵐拾葉集』の弁財天についての記述 第三十六「辨財天法秘決 本私苗」・第三十七「辨財天縁起末」を中心に参照・咀嚼し縁起を創作した。当時の日蓮宗僧侶の教養が天台学であったことから、天台宗の歴史の百科事典の要素を持つ『渓嵐拾葉集』が利便性があったと推理した。洛陽之沙門の時代には、七面大明神は宇賀弁財天と関係がある認識が確認できた。第三十七「辨財天縁起末」には、天川・厳島・竹生島の弁財天がある中で、厳島を選択した理由は、厳島大明神は、娑迦羅龍王の第二女であり、日蓮宗の依経『妙法蓮華経』「提婆達多品第十二」に由来すること。「大明神」の尊称がある二点からと推理した。
【むすびに】
 疑問の端緒は、そもそも七面大明神は、なぜ龍神なのか?だった。今日の数多のガイド 縁起には『身延鑑』が引用されているように感じ、本稿で取り上げ推理した。調べていく過程で、「大明神」尊称の理由について新たな疑問にぶつかった。
 『身延鑑』において七面大明神と吉祥天との関係も興味深い。ほぼ同時代に成立した大中院日孝(一六二四~一七〇八)『七面大明神縁起』にも
   其神像犹二天女ノ形一首ニ載二寶冠一ヲ身踞寶石ニ一右ニ捧二寶珠一ヲ左ニ持二ス寶鑰一ヲ而其爲二本地一不レ可二測知一相傳是吉祥天ノ應現也ト
 七面大明神像の本地は吉祥天である。しかし持ち物は他の七面大明神と同じ、右に宝珠・左に鑰である。このことからも尊像があり、後に縁起・逸話が創作された証左である。中里日応(一九一〇~一九七八)によれば、『金光明経』の解釈による弁才天と吉祥天の混同と論考されている。日孝は、深草元政の弟子で優秀な学僧である。研究調査をした形跡があることから、七面大明神に宿る宇賀弁財天の影を意図的に避けた可能性があり、興味深い。
 七面大明神の正体を『身延鑑』から探った推理を整理する。七面大明神の神像があり、そのビジュアルを念頭に『身延鑑』を含め縁起・逸話類は、創作された。七面大明神は、持ち物から天台密教の宇賀弁財天が変態した存在ということは、『身延鑑』の作者 洛陽之沙門をはじめ身延山の学僧にとって暗黙の了解だった。江戸時代前期・中期は日蓮宗学僧の教養が、天台学だったことが影響した。『身延鑑』の老僧ガイドの七面大明神の紹介は、天台宗の百科事典的要素を持つ『渓嵐拾葉集』の弁財天の記述を中心に参照し、存在を顕在化した神が七面大明神の正体である。
 ただし宇賀弁財天の影は確認できるが、明確には記載されていない。その意図を考えたとき、日蓮聖人入山以後も身延山・七面山は、天台系修験道のネットワーク圏内であった。その影響は徳川時代になり久遠寺の完全な領域になった時代でも残存していた。身延山久遠寺の威徳宣揚を目的に、成立した観光ガイドブック『身延鑑』は、七面大明神を日蓮宗総本山身延山久遠寺の守護神と昇華させた。今日では身延山を越え、日蓮宗独自の神 法華経鎮守となった。

          
*1 『日蓮宗事典』三九一頁a
*2 高木豊「『身延鑑』管見」『棲神』五二号 一三二頁
*3 高木豊「『身延鑑』管見」『棲神』五二号
*4 藤井日光編著『新訂 身延鑑』(身延山久遠寺 発行)「新訂の序」三~四頁参照
*5 『新訂 身延鑑』「新訂版あとがき」二五九~六〇頁
*6 『新訂 身延鑑』一六一~七頁 国会図書館デジタルコレクションに、貞享二年(初版本)の元禄十七年並河治郎兵衛・駒井五郎兵版の再版本。松会版がネットに公開されている。全三十七コマの二十九左~三十一右に同様の内容が確認できる。
*7 『新訂 身延鑑』一八六頁
*8 『日蓮宗事典』一三五頁d〜一三六頁a参照
*9 『渓嵐拾葉集』第六「山王御事」『大正新修大蔵経』七十六巻五一七頁c
*10 伊藤聡「第三部第二章 伊勢潅頂の世界ー変容する神観念」『中世 天照大神信仰の研究』三七一~三九五頁。伊藤聡「第一章中世神道の歴史」「第二章中世の神観念」『神道の中世』
*11 高橋俊隆『日蓮聖人の歩みと教え 第四部』「第五章 七面天女信仰」には、七面大明神の主立った逸話をほぼ網羅している。
*12 山本ひろ子『異神 中世日本の秘教的世界』四七六頁
*13 松井輝昭「厳島神社の宇賀弁財天信仰の成立とその性格」『県立広島大学人間文化学部紀要』八(二〇一三)の中で、松井氏により「一 厳島神社の弁財天信仰に関する研究史」(七二~七三頁)に研究史が纏められている。何れにしても洛陽之沙門は、時代的に厳島神社と宇賀弁財天との関係を認識していた可能性は高い。
*14 檀林のカリキュラムは、影山堯雄等編『諸檀林並親師法縁』一一三頁以下に掲載され、天台教学に関するテキストが使用され、講義も天台学中心であったことが確認できる。天台教学重視のカリキュラムとそのテキストの出版について、冠賢一『近世日蓮宗出版史研究』に詳述されている。
*15 『渓嵐拾葉集』第三十七「辨財天縁起末」『大正新修大蔵経』七十六巻六二五頁a
*16 前掲「厳島神社の宇賀弁財天信仰の成立とその性格」七六頁下
*17 『渓嵐拾葉集』第三十六「辨財天法秘決 本私苗」『大正新修大蔵経』七十六巻六二三頁b 
*18 前掲「辨財天縁起末」『大正新修大蔵経』七十六巻六二五頁b
*19 前掲『新訂 身延鑑』一七七~九頁 前掲 国会図書館デジタルコレクション 元禄十七年版 三十四コマ右
*20 愛知県西尾市吉良町 真正寺蔵
*21 『世界大百科事典 27』五二九頁
*22 吉田兼右の日記『兼右卿記』が一部紛失しているが、残存している。永禄元年から元亀四年に渉る日記で、全五冊である。五は『厳島神社参詣記』で、『広島県史 古代中世資料編1』に翻刻されている。当時を知る一級資料である。
*23 『神道同一鹹味抄』(山口晃一編『法華神道論』第二・三巻)がある。日珖が、講述し一如院日重(一五四九~一六二三)が筆録した。「愚拙モ兼右随分相傳シタソ」(五右)第二巻十五頁とある。
*24 『本化別頭佛祖統紀』巻尾七頁
*25 中里日応「日蓮聖人身延山御入山以前の七面山と身延」『棲神』四二号(一九七〇年) 五八~六四頁

付記
 「弁才天」「弁財天」の表記は、『金光明経』に基づく場合は「弁才天」、『五部経』に基づく場合と民間信仰一般に基づく場合は「弁財天」と表記した。ただし『身延鑑』において七面大明神の正体の告白の際には「弁才天」の表記であったため、それに従った。
 

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