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現代宗教研究第43号 2009年03月 発行

教化上の二処三会

第九回日蓮宗教化学研究発表大会

教化上の二処三会
原   顕 彰
 
 
─二つの我─
 法華経は何ゆえに二処三会(前霊山会─序品から法師品、虚空会─宝塔品から嘱累品、後霊山会─薬王品から勧発品)で構成されたのか、教化上の解釈をすれば、それは、私という我(自己)を、一つの我ではなく二つの我を想定して教える為ではなかろうかと考えられるのである。
 今、この考えを展開する前に、先ず以って「三法印の無我」と「法華経の我」について考察しておきたい。
 何故なら、仏教から、この「無我」を取ると、仏教では無くなるのではないか。
 しかし、法華経で一番大切な経である寿量品偈(三世の諸仏は寿量品を命とし十方の菩薩は自我偈を眼目とす)には「我」という字が十五も出てくる。これは所謂「久遠の本佛としての立場の我」であるが、それに対する「衆生という立場の我」も存在すると考えられる。
 では原始仏教では、「我」をどのように考えたかというと、それは、「非我(無我でない)」と「真我」である。すなわち、日常生活上の「我」と思っている「我」は「真我」ではなく「非我」である、故に「真我」は別にあるという考えである。それ故に、求道者は「真我」を求めて八正道を歩めと教えている。しかし、現代の大乗仏教の教えでは、四法印の「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、一切皆苦」であり「無我」を基本としていると考えられる。
 すなわち、実体的原理である「我」とか「霊魂」は想定することを拒否するのが仏教であり、全ては無常であり、無我である。涅槃経の釈尊最後の教え「自灯明、法灯明」の「自」である(下田正弘東大教授─「パリニッバーナ」─NHK出版)と解釈している。
 又、中村元先生は、是に対し『確かに原始仏教では「真我」を求めるという考えはあったが、歴史の変遷を経て大乗仏教では、「我」は哲学上の「我」もしくは「わがもの」という執着、考え方から離れる為の「実践目標としての我」であり、真実の自己の実現の為のもの「自我と無我」─平楽寺書店』と解釈されている。このように、現代大乗仏教では無我を説くと思われる。
 それでは日蓮聖人はというと、阿佛房御書に「阿佛上人の一身は地水火風空の五大なり─しかれば 阿佛房さながら宝塔、宝塔さながら阿佛房、これより外の才覚無益なり─我が身又三身即一の本覚の如来なり」と法身、報身、応身が即一である、すなわち「我」も認めた上で、人間(我)阿佛房が虚空会上の宝塔であり、久遠の本佛(如来)と同体であると教えられるのである。又、無作三身については、妙法尼御前御返事に「この法華経には、我らが身をば法身如来、我らが心は報身如来、我らが振る舞いをば応身如来と説かれて候」と、この無作三身を説明されている。これらを纏めると次のようになると思われる。
         体(法身)─    地水火風空 (五大)
  無作三身   心(報身)─    一個の細胞 (生命)
        振舞(応身)─ 八十億万兆の細胞 (人間)
 この考えは、強いては、日常生活上での我(衆生としての我)と、無我を超えた法華経の悟りの我(久遠の本佛としての我)の両方を認めた上で、しかも、その二つの我は即一(同体)である(所化以って同体)、という表現の仕方にされたと考えられる。
 又、この考え方は、とりもなおさず、前述の原始仏教(非我と真我)を発展、完成させたものと同様のものと思われる。
 私は今、これら原始仏教の「非我と真我」、法華経の「久遠の本佛としての我と衆生の我」、そして、日蓮聖人の「所化以って同体」の考え方等を考察すれば、仏教は「我」を認めている(移りゆく我であるが)ように思えるのである。
 しかも、この「我」を認めるという考え方は、現代人の、仏教への不信に対しても大いに有効な回答にもなると考えるものである。
 何故なら、今、現代、宗教ブームといわれながら、実は宗教、特に仏教は、私たち僧侶が思っているほどは信じられていないのではないかと思われるからである。確かにお盆、御彼岸の行事や葬儀、法事は盛んではあるが、それは生活習慣上のことで、心から仏教を信仰しているからとは断言できないのではないか。
 又、無我、無常、一切皆苦の思想は日常生活の否定にもなるのではないか。
 例えば、無我であれば、私とは一体全体何なのか、私の一生とは何なのか、霊魂を認めないのなら何を供養するのか、生苦といわれても、子供が生まれれば可愛いし、皆が祝ってくれる。一切皆苦といっても人生は結構楽しいことが多い。仏教は、何故これらのことを否定するのか。
 又、過去に、インドでの世界でも「不浄観」が説かれた後に、多くの弟子たちが自殺をしたと伝えられており、中国では、家庭を捨てて出家した僧たちへの苦情に答える為に盂蘭盆経が書かれた(インドではなく中国で)といわれている。
 このように、仏教には、対機説法といわれながらも、常に多くの矛盾や日常生活の否定をも内在しているように思えるのである。
 今、ここで、参考までに、最近の興味あるアンケートの結果のデーターを示したい。
 北海道教育大学の佐々木馨教授が、教育大学生や老人施設の老人、看護学生等に対し、死、死後の世界の存在、そして、是に対する宗教の救い等を尋ねたところ、次のような結果になったとのことである。
─アンケート「あの世」(抜粋)二〇〇七年十一月教育大学生、看護生、高齢者(三七〇人)─
 あの世を
     信ずる     六二% あって欲しい、全てが無に成るのが怖い
     信じない    三八% あの世は空想、この世以外の存在は無い
 死と宗教の救い
     信ずる      二%(高齢者は二一%)
     どちらでもない 五七%
     信じない    四一%
 このアンケート(必要事項抜粋)について佐々木先生は次のように総括されている(転載)
『「あの世」と「宗教の救い」について』
 過半数の人が魂の永遠性を信じ、「あの世」を肯定的にとらえているが、宗教への期待は過半数以下である。その意味で「あの世の救い」と「宗教の救い」はイコールではない。
 そして、「宗教の救い」に対する期待感が小さいのは既成仏教が葬式化している現実を反映しているとすれば、日本の宗教界は、今後のあるべき姿をより真剣に考えるべき時代を迎えているといえようか。
 このアンケートによれば、現代人は、死や無が怖いため、あの世は信ずる(信じたい)が宗教には救いを求めないというのである。その上、高齢者でさえ二割しか宗教に救いを求めないという現実を私どもは直視する必要がある。
 これらを考える時、仏教(宗教全般も)は、現代人の心の安らぎ(救い)の糧にはなっていないのではないかと考えられる。
 では、その原因の第一に考えられるのは、仏教が正しく伝わっていないからではないかと思われるし、その上、その教えを伝える僧侶でさえ、前述の如き、仏教の矛盾に対する明確な答を持ち合わせていないからかと思える。
 ここで、この仏教の矛盾という難問に答える為には、「無我」という表現よりも、先ほどの「二つの我(悟りの久遠の本佛という我と衆生という我)」という考え方のほうが有効であると思える。何故なら、仏教は対機説法であるから、三法印の無常、無我、一切皆苦でさえも例外ではないと考えるべきであると思うし、今、これらの三法印の教えは、人生最悪の状態に陥った人、死を目前にしている人、悟りを開こうとしている人、等への教え(最後には、無常、無我、空を越えた法華経の我を説くのだが)と解釈し、日常生活を普通に営んでいる人(私は仮に「生活習慣我」と表現する)には五戒、八正道等を説くことが理に叶うと思うのである。
 このように、教化上は、我(自己)といっても一つでなく、大きく分けると、日常生活を営む生活習慣我と虚空会上から見たような、無常、無我、空を越えた法華経の我(悟りの我、久遠本佛としての我)の、二つの我が、掌の両面の如く同時に存在する、という考え方こそが真の仏教(法華経)の解釈であり、前述の現代人の仏教の矛盾への問いにも答えられるものと考える。
 そして、法華経は、この二つの我という考え方を知らせる為にこそ、霊鷲山会上(現実生活)と虚空会(悟りの久遠の世界)という、二つの土に分けて説かれたと考えられるのである。
 詳しく説明すれば、先ず、前霊山会では、生活習慣我の成仏、記別(心の成仏─涅槃)を説き、虚空会では、久遠の本仏(体の成仏─般涅槃)という悟りの我(所化もって同体─法華経の我=自己)を説いたと考えられる。
 そして、今、私という我(自己)が、このように二つの我から成り、しかも、その二つが恰も掌の両面の如き存在(即一、同体)であると解釈することは、仏教、法華経への絶対の帰依(信仰)上、一般檀信徒への教化上必要と思われるのであり、これらの考え方(表現)こそが、現在の仏教への不信を取り除けるものと信ずるものである。
 今、これらのことを、総合して考えるに、法華経は、生活習慣我と、悟りの我(無我を超えた法華経の我─久遠の本佛)という、二つの我の論理を以って衆生を救済しようとしたのではないかと考えるものである。
 しかし、この生活習慣我は、一瞬にして壊れるものであり、苦の根源でもある。なのに「私という我は、永遠不滅」と思う錯覚が、自らを迷わせているのであり、苦の根源にもなっているのである。だからこそ、法華経以前の仏教は、この錯覚から目覚めさせるために、三法印、四法印、所謂、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、一切皆苦を、ことさらに強調して説かれたものと思われるが、前述の如く、一般大衆の不信を招く結果となり、それ故に、その欠点を補い、仏教を完全無欠なものにすべく、「生活習慣我」と「一念三千の心と無作三身の体を持った、法華経の我(久遠本佛と同体の我)」の二つの我が説かれ、その二つの我は同体であるという答により、全ての難問が開会され、一切衆生が救われたものと考えられる。すなわち私という我の代表である釈尊が悟って仏となりその釈尊と久遠の本仏は同体である。故に、私という我も永遠であると教えているのである。
 それ故に、後霊山会では、再び、現実の世界(生活)に呼び戻し『虚空会での悟りの境智「すなわち、私(自己)は、久遠の本佛と同体であるという心」を常に心底に踏まえたうえで、毎日の生活をすべきである』と教えられたものと思われる。しかも、最後に、念を押して、衆生が、万が一、虚空会での如くの、悟りの境智に入れなくとも「日常生活において、次の四つを心掛けると、何時か必ず悟れる」と法華経は説くのである。すなわち「佛所護念、植衆徳本、入正定衆、発救一切衆生之心」である。
 以上、法華経の二処三会の教えは、土を現実と虚空の二つに隔て、現身(生活習慣我)と佛身(悟りの我─久遠の本佛)という二つの我(自己)を自覚させ、それを以って一切衆生を救い、仏に成る道を歩ませようとされた教えであると信ずるものである。又、日蓮聖人は、この久遠の本佛と一体の我を「名体宗用教の南無妙法蓮華経」と表現され、それ故に、唱題による成仏の実現を目指された。
 そして最後に、ここで、私が考えるのには、仏教への不信『「真の悟り、久遠の本佛と同体の我」とは何か、又、現実にそういう我があるのか』を証明しなければ、一般大衆は納得しないと思う。
 しかし、この二つの我『日常生活上での喜怒哀楽を持った我(生活習慣我)と、三法印の無我、般若心経の空、老荘の道(タオ)、五木寛之の大河の一滴等を越えた、法華経の我(久遠の本佛と一体の我)』のうち、後者の「久遠の本佛としての我」は「現実に存在するし、お題目の南無妙法蓮華経以外の言葉でも表現できる」と、私は考えるものである。そして、其れに対する答えは、次回に発表したいと思う。
 以上、各聖の御批判を戴きたい。

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