現代宗教研究第43号 2009年03月 発行
『日蓮聖人伝』千文字漢文歌
第九回日蓮宗教化学研究発表大会
『日蓮聖人伝』千文字漢文歌
三 谷 祥 祁
鎌倉仏教の特性には、時代と地域の二面性がある。それは朝廷貴族の仏教から、武士庶民に広がった時代性。東国と西国の地域性である。
東国生まれの東国で活躍された仏道の師は日蓮聖人お一人であり、ほとんどの名立たる仏教者は西国に生まれている。
鎌倉時代、日蓮聖人は東国、坂東の安房に生まれ活躍された。坂東とは足柄峠、碓氷峠の急坂よりも東の地域を指し、相模、武蔵、上野、下野、常陸、上総、下総、安房の八カ国を意味する。古来、坂東には平氏が土着していた。一方、西国、河内国の香炉峰(壺井)には源満仲の三男で河内源氏の初代となる源頼信の本拠があった。因みに、満仲の次男、源頼親が大和源氏の祖。満仲の嫡男、源頼光が摂津源氏の祖である。源頼信が藤原道長に仕えて甲斐守を在任中、長元元年(一〇二八)に平忠常の長元の乱が起こり、房総三国の安房、上総、下総を荒廃させた。鎌倉に本拠地を持つ平直方が追討出来なかった平忠常を源頼信が鎮圧した。これを契機に河内源氏は東国へ進出し、坂東平氏と主従関係を持ち、源頼信の嫡男、頼義は平直方の娘を娶り、鎌倉が源氏の本拠となった。源義朝が平治の乱で誅され、河内源氏の七代目となる十三歳の息子頼朝は、平清盛の手下に捕まった。清盛の妻、池の禅尼の懇願で頼朝は助命され伊豆国へ配流となるが、清盛の恩赦と取らず伊勢神宮のご加護と霊知する。二十年に亘る流人の間、頼朝は、坂東平氏の北条政子を妻にした。三十四歳の時、以仁王の令旨「平家討伐」が下り参戦する。石橋山で敗れるが、船で逃避して安房国へ渡ったのは、日蓮聖人ご誕生の四十二年前のことであった。安房の地で頼朝が再起を図り、武運隆昌して、伊勢の豊受大神宮に東条御厨を寄進したのは、助命され流人として京の町を出る時の霊知が因を成している。坂東の民は、天災地異に打ちのめされながら、奥州合戦、源平の戦に駆り出され戦禍を蒙る。源頼朝が他界すると執権北条が台頭し、二代将軍頼家を始め、比企氏、畠山氏等々の家臣を撲滅させた。北条氏の不遜は後鳥羽上皇の怒りを買い、承久の乱が勃発する。再び坂東は戦禍に遭う。日蓮聖人のご先祖も何らかの災禍を受けておられることは『佐渡御勘気鈔』等のご出家の動機に汲み取れる。
「本より学文し候しことは 仏教をきはめて仏になり 恩ある人をもたすけんと思ふ」。学文を志したことは仏道を究めるためであり、その訳は、恩ある人をもたすけたいと念願されたことにある。恩を知り恩に報いたいと決心されたご高志には、ご出家前の深い事情が含蓄されている。
日蓮聖人のご生涯を支えた法華経の祈りは日本哀史への鎮魂でもある。
源頼朝が安房で再起してから日蓮聖人の晩年まで約百年を経る。この激動の百年史を千文字の漢字で著し字数を整列させたので漢文歌と名づけた。創作は始めから意図したものではなく、日蓮聖人を人様に紹介させて頂く為に生国の歴史を遡りご先祖が生きた時代性を見つつ普通の文章で書いていた所、平家の壇ノ浦辺りから十字、八字の漢字ばかりの文章に変わってしまったので冒頭から漢字体に改めた。日蓮聖人のご生涯が漢字の文体のみで表現出来ることは全く未知であったが形を成した。
『日蓮聖人伝』千文字漢文歌
治承四年安房国之秋望 源氏棟梁乗船着岸
南無八幡大菩薩祈頼朝 再起援軍万旗集結
帰還鎌倉陣地捲土重来 神宮寄進東条御厨
寿永四年三月源平之戦 西海群船競赤白旗
幼帝公達御入水壇之浦 平家滅亡戦乱無常
黄金郷奥州合戦灰燼煙 平泉栄華百年夢如
今様奏楽鎌倉幕府隆昌 将軍他界崩落連鎖
源氏絶家北条政権台頭 承久之乱三帝配流
貞応元年二月十六日朝 蓮華鯛群海湧水庭
日蓮聖人御誕生安房国 仏心感得知恩報恩
御年十二春清澄寺入門 山岳修行昼夜精進
立願成就虚空蔵尊賜与 智恵之宝珠小袖入
六年時巡三光天子示唆 運気来迎諸国遊行
鎌倉比叡京都南都巡学 天台法華真言念仏
律禅等多門教義湧疑念 如何御経釈尊金言
高野登頂山内修巡研鑽 五坊寂靜院心字池
源家貞暁開基往時偲風 一心院谷鶯谷別所
順路摂津洛内諸寺歴訪 仏道先師恩義厚謝
帰山比叡横川読経最中 多数異人神応現堂
曰法華経守護三十番神 感応道交写照記名
至河内国太子御廟参拝 源氏祖宮香炉峰雪
伊勢神宮奏上三大誓願 我日本柱眼目大船
釈尊真理解暁故郷帰山 清澄寺旭森山頂立
建長五年四月二十八日 一天四海皆帰妙法
南無妙法蓮華経御題目 立教開宗大獅子吼
聴聞信徒異説震撼憤怒 恩師狼狽破門宣告
堅持法華経孤高坂送風 信心一乗星海煌響
浜里之灯家族異体同心 父母決意妙法受持
鎌倉辻説法松葉谷草庵 民衆愁訴生活難儀
旱魃暴風水害飢饉疫疾 正嘉元年秋大地震
如何天変地妖蔵経清鑑 正法不敬善神亡去
立正安国論御執筆奏進 前執権北条時頼宛
未然他国侵逼自戒叛逆 末法国難回避正法
諌暁論幕府黙殺沙汰無 松葉谷襲撃炎上難
伊豆配流俎板岩上置去 船守救助満潮之海
大法難激発小松原夜襲 龍口飛光万死一生
遠流佐渡島塚原三昧堂 破壁風雪雨入放題
衣食薄乏椀雪露命日日 飯櫃背阿仏房恩謝
諸宗僧侶参集塚原問答 北条内乱騒動伝聞
魂魄著人開顕書開目抄 法開顕書如来滅後
五五百歳始勧心本尊抄 佐渡始顕本尊染筆
白頭鴉飛来眼前吉報瑞 赦免状着鎌倉帰行
三度諫暁幕府袖手傍観 一心向佛入山身延
蒙古襲来国家危機甚大 対馬壱岐博多鷹島
暁梵清浄信徒弟子教化 恩師墓前捧報恩抄
元寇再来朝廷幕府決起 国防交戦敵国敗退
深山説法七面天女聴聞 天空飛龍女人成仏
彼岸中日富士昇天旭日 直光七面山大明神
幽境奥之院思親閣望郷 父杉母杉四恩杉立
千早振神恵身延川楓流 秋冷晩節法体不調
墓参湯冶旅出立愛馬嘶 鷲峰棲神身延哀別
正法堅持激動生涯懐古 池上逗留病態重篤
委嘱帝都弘通宗義天奏 経一麿十三歳拝命
噫弘安五年十月十三日 辰刻御入滅地鳴動
臨滅度時鐘池上桜震悼 夜半月久遠偈荘厳
安房之海照臨平和奏上
三谷祥祁謹書
平成二十年十月二日
『日蓮聖人伝』千文字漢文歌・あらまし
1(治承)…治承四年(一一八〇)の秋、房総半島安房国へ、船が着く。源氏の棟梁、源頼朝が石橋山で平氏に敗れた故の逃避行。
2(南無)…安房にて、頼朝は八幡大菩薩に再起を誓いご守護を願う。安房、上総、下総の忠臣が結集して、援軍は膨れ上がった。
3(帰還)…先祖の領地、鎌倉に帰還する。安房国の東条郷を伊勢の豊受大神宮へ御厨として寄進。将軍頼朝、捲土重来、順風満帆。
4(寿永)…寿永四年三月二十五日卯ノ刻、源氏と平氏の合戦。長門国壇ノ浦の海峡に平氏の赤旗、源氏の白旗閃く戦船が犇いた。
5(幼帝)…八歳の安徳天皇は、祖母(故清盛の妻)に抱かれ御入水。公達等も続くが、ご幼帝の生母(清盛の娘徳子)建礼門院は救助され大原へ。平氏一門滅亡。戦乱無常は平家物語にある。
6(黄金)…文治五年、源氏は奥州平泉を平定。藤原氏百年の栄華壊滅。
7(今様)…鎌倉幕府は隆昌する。頼朝の家臣は、文武両道、芸能の風雅あり、今様を歌舞する。一一九九年、征夷将軍頼朝は五十二歳で他界。続いて、第二代将軍頼家、第三代将軍実朝他界。
8(源氏)…鎌倉幕府将軍三代倒れ源氏絶家。政権は執権北条氏に移る。承久三年五月、承久の乱起こる。後鳥羽上皇が、執権北条義時を追討する院宣を出し討幕を計るが敗北。三帝配流。
9(貞応)…貞応元年二月十六日の朝、安房国東条郷小湊片海に青蓮華が咲き、海面に鯛が群れ泳ぎ貫名家の庭には清水が湧く。
10(日蓮)…日蓮聖人が誕生された。善日麿と命名され、仏さまを崇敬して、恩を知り恩に報いることを生来から感得されていた。
11(御年)…十二歳の春、故郷清澄山清澄寺へ入門された。学徳勉励。
12(立願)…「日本一の智者にならしめたまえ」と虚空蔵菩薩尊に祈る。立願成就して、知恵の宝珠を授かる。
13(六年)…六年の歳月が流れた。清澄寺の経蔵に入る(入蔵第一)。三光天子は、「諸国遊行」の好機到来を暗示した。
14(鎌倉)…鎌倉に四年間、遊学。西国比叡山、畿内各所の学派を巡坊巡学。
15(律禅)…各宗多門多義に湧く疑念。釈迦の真理は一乗である。園城寺、元興寺、興福寺、東大寺、法隆寺、招提寺、西大寺、東福寺、涌泉寺、宝塔寺、薬師寺(入蔵第二)、諸寺院を歴訪。
16(高野)…一二四八年、紀伊国高野へ上る。(前年は、鎌倉で宝治合戦)宝治合戦を勝利させた幕府の統率者、安達入道景盛は安居する高野で、五月十九日に遷化。(景盛の母は大学三郎の親族。景盛の娘は時の執権北条時頼の母。宗祖遊学中の執権は、景盛の孫、経時と時頼)。五坊寂靜院の開基は仁和寺から高野へ上った頼朝三男の貞暁法印。五坊の境内には心を象る心字池があった。
17(源家)…貞暁の高野での師匠は、源家と懇意の法華経の持経者で修験道の行勝。五坊の辺りは一心院谷という。鶯谷の別所で重源が修行したのは大仏勧請前。多宗派、混交する山岳仏教を研修。
18(順路)…四天王寺、東寺、仁和寺、洛内。遊行中、仏道の先師、多くの人々のご恩義に厚謝。
19(帰山)…比叡へ帰山。横川定光院の堂内に異人神が、次々と応現。
20(曰法)…「法華経守護の三十番神」であると告げる。一日から三十日までの守護を受け持つ三十神の姿を写し、神名を記す。
21(至河)…河内国、聖徳太子のご廟を参詣。近隣には、源頼朝の祖、河内源氏の地、香炉峰(壷井)があった。
22(伊勢)…伊勢神宮を参拝。三大誓願を奏上。「我、日本の柱とならん。我、日本の眼目とならん。我、日本の大船とならん」。伊勢常明寺の「誓願の井戸」で百か日、水垢離。
23(釈尊)…房総下総国の東漸寺の経蔵で鑑真将来の一切経を閲覧顕学(入蔵第三)。釈迦の真理は法華経にあり。旭が森の山頂に立つ。
24(建長)…建長五年四月二十八日、天気晴朗、天津小湊、波濤穏和。「一天四海皆帰妙法」を祈念。
25(南無)…閻浮提一面に、南無妙法蓮華経を十唱。茲に、日蓮宗立教開宗のご聖晨をお迎えした。宗祖の英姿は、燦然と輝き、呱呱の声は、仏天に輪唱。
26(聴聞)…念仏信仰の清澄寺に嵐が沸騰。弥陀の名号を唱える聴衆は驚愕激怒。念仏信者の地頭東条景信は、怒り心頭。恩師道善御房は、西国帰りの愛弟子を助けるために勘当した。
27(堅持)…宗祖は、法華経を堅く護持。清澄を下る孤高の人。空に星が光り、海はきらめく。真理は 宗祖の心に共鳴する。
28(浜里)…浜の実家へ帰り、家族団欒、正法を祈る心は一つ。父母は、入信され、妙法受持を誓われた。
29(鎌倉)…東条郷花房の蓮華寺の後、鎌倉へ。松が葉谷に庵を結び説法の開始。民衆は生活の難儀を訴える。鶴岡八幡宮(入蔵第四)
30(旱魃)…以前から、天候不順、旱魃、暴風、水害、飢饉、疫疾地震などが起こっていた。正嘉元年(一二五七年)秋、鎌倉に大地震。家屋、寺社が瓦解し大打撃を蒙る。
31(如何)…駿河国岩本の實相寺を訪れ、経蔵へ入る(入蔵第五)。天変地妖の原因を究明。薬師経、仁王経、大集経涅槃経などに、国家混迷の因は正法不遜のために善神が離国とある。
32(立正)…先の経典の七大恐怖を示し、『立正安国論』を執筆。大学三郎に見分させた後、幕府の臣下、宿屋入道を介して前執権北条時頼宛に奏進された〈一度の高名〉。執権は長時であったが、時頼の権限が強い為と、時頼は、大学三郎の遠縁でもあった。
33(未然)…『立正安国論』には、天変地妖ある七難中の他国侵逼難、自戒叛逆難がまだ起こっていない。この二大国難を予見し、正法を護持して国を守る大事を説く。『立正安国論』は、衆生の安穏平等な暮らし、平和世界への希求が根底を成している。
34(諫暁)…『立正安国論』は、幕府への諫文である。幕府の沙汰なし。北条長時は、建長三年に浄光明寺創建し、教義は真言、律、華厳、禅の四宗とした。北条時頼は建長五年、南宋の蘭渓道隆を開山として禅寺の建長寺創建。執権長時の父、北条重時は、『立正安国論』奏進の前年に真言律宗の極楽寺を創建。大和国の忍性(極楽寺良観)を開山とした。幕府仏教の姿はかくの如く出来ていた。松葉が谷の草庵炎上【第一の大法難】。
35(伊豆)…幕府諫暁の咎で、伊豆国伊東へ流罪となるが、途中、海中の岩に下ろされ、船は帰る。岩は俎板の形状で、満潮の刻、体は海に飲まれそうになる。お題目の声が届き、一艘の舟が来て救助され、川奈へ着く。その高徳な者の名は、船守の弥三郎。一ト月ほど、親のような親切を受けたが、役人により伊東へ送られ、足掛け三年配流【第二の大法難】。
36(大法)…北条時頼により、流罪は許される。東条郷の小松原を通りかかった夕刻、東条景信の襲撃に遭う【第三の大法難】。極楽寺の忍性の祈雨に対す。浄土僧たちに、公場での法論を望むが、幕府の番頭、念仏信者の平頼綱が介入。『立正安国論』を奏進〈二度の高名〉。松葉が谷の草庵へ平頼綱らに突如乱入され、刑場龍の口へ。斬首に遭う所、江ノ島の方からの光玉で現場は大混乱、刑は中止。
37(遠流)…龍の口→依智→寺泊→佐渡流罪【第四の大法難】。塚原の三昧堂に留め置かれた。墓場の傍らの破れ小屋。雪は堂内に積もり風雨は入り放題。日の光も射さない配所であった。
38(衣食)…衣食乏しく、椀に積る雪を飢渇の足しにする露命の日々。念仏信者であった阿仏房夫妻が、改信して、夜中に飯櫃を運ぶ。
39(諸宗)…北陸、越後、島内の大勢の僧、塚原へ集結法論するが客僧は惨敗。鎌倉で自戒叛逆の難起こる。(二月騒動、北条内乱)
40(魂魄)…厳冬下の塚原堂内で、人開顕の書『開目抄』執筆。
41(五五)…一谷で法開顕の書『如来滅後五五百歳始勘心本尊抄』執筆。『佐渡始顕本尊』を顕現する。
42(白頭)…白頭鴉が飛来する。秦の始皇帝の故事「烏頭馬角の変」の吉報を予見。日朗上人が赦免状を持ち佐渡へ来る。鎌倉帰還。
43(三度)…鎌倉の奉行所で、幕府の平頼綱と面談。『立正安国論』を奏進して三度目の諫行を説くが用いられず〈三度の高名〉。山林に入る故事を思う。一心向佛。甲斐の身延へ入り草庵を開く。
44(蒙古)…蒙古襲来。モンゴルの帝都元朝のフビライ帝率いる大軍が属国の兵隊を連れ襲撃。壱岐、博多、松浦近海の犠牲は甚大。
45(暁梵)…暁の読経。萬霊供養。如説修行。壇越、信徒への消息、文筆、弟子各人の教化。恩師道善御房の墓前に捧げる『報恩抄』。
46(元寇)…元国の蒙古軍が再来した。迎え撃つ朝廷幕府の軍隊は死闘。敵国は敗退、退却、終戦。元寇激戦海底には無数の遺物が眠る。
47(深山)…身延山中で説法の折、妙麗の美女が龍神に変化し、「七面大明神」の名を告げて七面山に飛び去った。この現象は法華経の女人成仏。
48(彼岸)…彼岸の中日に富士山へ上る旭日は七面山の七面大明神に直光する奇瑞。清澄山→富士山→身延山→インドの聖地。この四箇所は、曲折することなく直線上に存在し結ばれている。宗祖ご出家の清澄、終の身延は、宗教的磁場最高の聖域である。
49(幽境)…身延山上、奥の院思親閣にて望郷。境内に四恩杉。父杉、母杉、師恩杉の三本は菩提の為、国恩杉は立正安国平和の為に。
50(千早)…弘安五年の秋冷身延川。過酷な法難の無理が残り法体不調。
51(墓参)…墓参、湯治の旅に身延を出立。九ヵ年の身延のご恩に感謝。
52(正法)…生涯を懐古。武蔵国池上邸に逗留するが病は重くなる。
53(委嘱)…十三歳の経一麿に、『帝都弘通、宗義天奏』を委嘱する。「京の天皇様に日蓮感得の法華経を弘通する勅許を賜わり、世の人々をお助けするように」
54(噫弘)…弘安五年十月十三日辰の刻、ご入滅。俄かに地が鳴動した。
55(臨滅)…日昭上人の打つ臨滅度時の鐘。池上邸の庭に桜が咲き、鐘の音に震悼する。荘厳なる夜半の月の下、久遠偈を唱和。
56(安房)…月影を浮かべる安房の海は、恒久平和を奏上した。
於 宗務院 平成二十年十月二十八日(火)