現代宗教研究第43号 2009年03月 発行
日蓮宗の本尊に関する一考察
第九回日蓮宗教化学研究発表大会
日蓮宗の本尊に関する一考察
塩 入 幹 丈
「此皆本尊に迷、例せば三皇已前に父をしらず、人皆禽獣に同ぜしがごとし」(定遺五七八頁)と喝破され、「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士 一閻浮提第一本尊立此国」(定遺七一九頁)と宣言された日蓮大聖人。しかし、その教えを今に継承すべき私たち日蓮宗は、全ての人々が信仰すべき本尊を正しく把握し、その意義を人々に説き明かしていると言えるでしょうか。
『本尊抄』に「其本尊為体 本師娑婆上宝塔居空 塔中妙法蓮華経左右釈迦牟尼仏・多宝仏釈尊脇士上行等四菩薩 文殊弥勒等四菩薩眷属居末座 迹化・他方大小諸菩薩万民処大地如見雲閣月卿。十方諸仏処大地上。表迹仏迹土故也。」(定遺七一二頁)と詳説された世界を図顕された大曼荼羅。本来、本尊の実態を余すところ無く顕現しているはずのこの大曼荼羅を、佛本尊たる一尊四士に対する法本尊とし、本尊の単なる一表現としてしまう考えでは、
□本尊が何かが判り難い
□本尊のもつ意義が正しく示せない
□本尊を信仰することで展開されるべき働きがはっきりしない
こととなり、これでは万民が崇むべき真の御本尊をこの国にたてることは、はなはだ難しいのではないでしょうか。
□本尊が何かが判り難い
例えば佛教未信の人に本尊を示す場合、禅・念仏・密教等の主な教団に比べ、最も分かりにくいのが、日蓮宗の本尊でしょう。
釈尊、阿弥陀仏、大日如来等と名前を言い、その仏像を示せば、とりあえずことたりる他宗にくらべ我が宗では、実態は久遠実成釈迦牟尼佛ですとは言いながら、表現形式で種類が分かれるのだとしています。大きくは大曼荼羅と一尊四士の二種類、宗義大綱によると、更に増えて首題本尊、釈尊一体、大曼荼羅、一尊四士、一塔両尊四士の五つだとされます。
しかもこれだけ種類をだしながら、一般の家庭で実際にお祭りされている、つまり数的に一番多いのは大曼荼羅に一塔両尊という、この五つにも入らない形態です。
形式で種類別けし、全て同列に観ていくのでは、ただただ煩雑になるだけでしょう。
しかもこれは法としての本尊、これは佛としての本尊とするわけですから、それぞれが本尊の断面を表現したものに過ぎず、その実態を完全に顕現するものはなく、いろいろあるばかりで、決定版がないことになります。
これでは諸宗教を統一する真の大本尊として広めていけるとは言い難いでしょう。
□本尊のもつ意義が正しく示せない
このように統一すべき本尊が逆に煩雑化してしまう原因は、本尊を佛と法に別けてしまうことにあります。
本尊抄に「此等仏造画正像未有寿量仏。来入末法始此仏像可令出現歟」(定遺七一三頁)とあるごとく、大聖人は大曼荼羅を佛と表現されています。南無妙法蓮華経と中央に書かれたこの本尊は、法の本尊であると同時に佛の本尊でもあると観るべきです。
深草元政和尚が「題目和談鈔」「この心佛衆生の三法は、妙ふしぎの法なるゆえに、妙法と申すなり」(草山拾遺下巻六一二頁)と述べるがごとく人格に即した法であり、優陀那日輝和上が「妙宗本尊略弁」に「本尊ニ書給所ノ題目ハ即久遠實成ノ佛體」(充洽園全集第三編三八〇頁)と述べるがごとく、法をもって顕したる佛なのであり、厳密に別けるべきものでも、上下を決めるべきでもないものです。茂田井教亨師も「『法華経』への不借身命の信は当然『妙法連華経』をそのまま久遠の円仏の象徴と見る信仰が生じなければならない過程が理解されるであろう」(観心本尊抄研究序説六一〜二頁)と述べるように、それを法か佛かのどちらにきっちりさせることなど、できないことです。
かかる佛本尊、法本尊の意義を同時に表現できうるのは、大曼荼羅であることは自明といえます。
大綱では一尊四士はご本佛の大慈悲、大曼荼羅はご本佛の内観ともわけてますが、九界の衆生全てを大光明で救っている曼荼羅も、まさにご本佛の大慈悲の姿、わざわざ完璧なものを半端にする必要はありません。
更に大曼荼羅は「本尊抄」の四十五字法体段たる「今本時娑婆世界離三災出四劫常住浄土。仏既過去不滅未来不生。所化以同体。此即己心三千具足三種世間也。」(七一二)をも表現されています。
まず「今本時娑婆世界離三災出四劫常住浄土。」と説かれるのが浄土です。茂田井教亨師が「『我此土安穏 天人常充満』の世界にいっらしゃらなければならないのですから、どうしても本尊を説明するにあたっては、土ということを表さなくてはいけない」(本尊抄講讃 中七二三〜四頁)と言われるがごとく、本尊には必ず衣報が必要ですが、その衣報、浄土を須弥檀等の仏具も使用せず、本尊そのもで、仏具以上の効果をもって表現しているのが、大曼荼羅だと言えます。
さらに後半の「仏既過去不滅未来不生。所化以同体。此即己心三千具足三種世間也。」では本尊を拝む行者の成仏が説かれると観るべきで、行者の主観的な成仏をも表現しているのが大曼荼羅だと言えます。
曾ては日蓮大聖人の講義禄と信じられてきた「御義口伝」の「今日蓮等之類意惣如来者一切衆生也。別日蓮弟子檀那也。サレバ無作三身者末法法華経行者也。」(定遺二六六二頁)をはじめ、心性院日遠上人「今家本尊論義落居」の「行者一心中ノ本尊ノ相也」(本尊論資料五三二頁)、日輝和上「妙宗本尊略弁」の「行者一身ノ当体。三世十方無碍円満ノ妙体ナルコト開発シ給。深秘ノ本尊ニシテ。自己ノ当位ヲ本尊ト悟入スヘキ」(充洽園全集第三編三九三頁)等とかっては盛んに言われてきたこの考えも、今は本覚思想との関係から言及されることもなく、大綱では大曼荼羅もご本佛の内観とのみしか説明されていません。
しかし大曼荼羅は一念三千の観法を実現できない私たちたちのために、お題目によって悟るべき悟りの境界にアクセスできるように日蓮大聖人が用意して下さったものであり、行者の主観となるべきものが表現されているはずです。
以上の如く大曼荼羅は法本尊かつ佛本尊という客観的な崇拝対象であると共に、拝む行者の主観的な成仏の立場、さらに本尊と行者が共に住む環境、浄土を表現していると言えます。これらの義を同時に表現するのは仏像は不可能でしょう。より高次なものを二次元に変換した文字式の大曼荼羅だからこそ可能なのです。
その大曼荼羅を部分部分で表現したものが一尊四士だったり、一塔両尊四士、あるいは首題、釈尊一佛、一塔両尊等だと言うべきでしょう。日蓮大聖人にとっての随身佛の如く、判っている人にとっては仏像一体の背後からも大曼荼羅の世界を展開できることでしょう。しかし大多数の未信徒へは、全ての義を備えた大曼荼羅をおいて外にはありえないことでしょう。
大曼荼羅も一尊四士も同列に扱い、正副を決めない曖昧さは、かえって大曼荼羅本来の意義を隠してしまっています。
□本尊を信仰することで展開されるべき働きがはっきりしない
大曼荼羅を本尊として統一できてない結果、まず日蓮宗の救いが明確に示されないといえるでしょう。かっては限りなく本覚思想に近づくとはいえ、大曼荼羅に主観的な成仏観を観ることで、ダイレクトな救いを提示してきたはずです。教主の周囲を火・風・水・地の神霊が囲む姿はそっくり順番もそのままに、キリストとミカエル、ラファエル、ガブリエル、ウリエルの四大天使の姿で西洋にもあります。助けを求める未信徒にとっては教主の名前の違いは些細なことでしょう。
客観的な救い主としての本尊観だけでは、数多の宗教の本尊と同列になるだけです。
また大曼荼羅の浄土観を明示しないことは、本門の戒壇をもぼかしているといえます。本尊が二種類あってよしとする考えだから、戒壇も二種類あっていいということとなり、結局戒壇のために何をなすべきのビジョンも有耶無耶になっているようです。
さらに加えると、守護神信仰の統括もできないと言えます。雑乱信仰と非難されることもある守護神信仰ですが、ややもすると排他的、攻撃的に陥りやすい日蓮宗系にあって、この守護神信仰こそが、亜細亜型宗教の持つ寛容、共生の特質を顕著に示せるものであり、これが旨く機能すれば、日蓮宗がもつ可能性たる一神教的信仰と多神教的信仰の利点の統合が実現できることでしょう。ただしそれには中心たる本尊がきちんと定まっていればこそでしょう。中心が定まらなければ周囲は雑乱化し、特定の神格が祈祷本尊とされる事態ともなるのです。
正しく大曼荼羅を本尊と定めていくとき、日蓮宗は一神教と多神教の理想的な結合の姿を現し、説得力ある救いを提示し、本門の戒壇への具体的なビジョンを推進できることでしょう。
参考文献
「昭和定本 日蓮聖人遺文」
身延山久遠寺蔵版「本尊論資料」
「草山拾遺下巻」
「充洽園全集第三編」
茂田井教亨「観心本尊抄研究序説」
茂田井教亨「本尊抄講讃」
執行海秀「日蓮宗教学史」
日蓮宗勧学院監修「宗義大綱読本」
日蓮宗勧学院監修「日蓮宗の教え」
中村元 他「岩波佛教辞典」
河村孝照「天台学辞典」