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現代宗教研究第43号 2009年03月 発行

日蓮正宗建立塚原跡碑について

第九回日蓮宗教化学研究発表大会

日蓮正宗建立塚原跡碑について
小 瀨 修 達
 
 
一、はじめに
 平成十九年五月十六日、田中圭一氏が『新版 日蓮と佐渡』において「塚原配所」として推定した佐渡市目黒町の土地の一部に、日蓮正宗が「塚原跡碑」を建立し、落慶法要を行った。続いて、本年平成二十年五月二一日、新たに「題目碑」を建立し開眼法要を行った。
 場所は、田中氏が「推定塚原配所」とした台地の中央を横切る道路より、目黒町の共同墓地の手前までの箇所で、平成十七年、前管長阿部日顕の名義で土地が購入され、平成十九年二月より工事が始まったと云う。
 
 ●施  主 日蓮正宗 立正安国論正義顕揚七百五十年記念局、記念事業として建立。
 ●施行業者 ㈱本井建設 佐渡市東大通八六三─一(日蓮正宗妙護寺檀家総代)
 ●場  所 佐渡市目黒町鳥居畑五五九番一。総面積六六二坪。
 昨年、平成十九年五月十六日建立
Ⓐ 「日蓮大聖人と塚原」石碑……塚原跡碑建立までの経緯を記す。同局 佐渡塚原跡碑建立委員会。
Ⓑ 「塚原跡」石碑……大石寺六十八世日如筆、立正安国論正義顕揚七百五十年記念局、高さ三・九m。
Ⓒ 「塚原配所考」石碑……塚原配所推定の根拠を記す、元筑波大学教授 田中圭一・佐渡博物館館長 山本仁。
Ⓓ 庭石二個……大石寺の方向を向く。
 以上に引き続き、
 本年、平成二十年五月二一日の題目碑開眼法要に際して、
Ⓔ 宝塔型題目碑……大石寺六十八世日如代、立正安国論正義顕揚七百五十年記念局建立、施主妙護寺檀家総代本井氏。
Ⓕ 地図入り石碑……日蓮大聖人関連佐渡地名図・塚原跡碑周辺図。
Ⓖ ステンレス製地図版……前方に見える国分寺(国府)・守護所跡等の位置関係を示す。
Ⓗ 大石寺法主手植え桜と記念碑……題目碑開眼法要の記念に桜を植えたもの。
他、周囲の側壁工事、舗道・庭砂利・植木の整備等が、完成した。
 以上により、当地における事業は一旦完了したと考えられる。また、Ⓕ地図入り石碑やⒼステンレス製地図版は、ⒶⒷⒸ石碑群に示されたこの地を「塚原跡」とする田中圭一説の根拠となる安国寺・国分寺(国府)・守護所跡等の位置関係を記したものである。
 なお、調査に当って『旧版 日蓮と佐渡』の共著者である小菅徹也氏(社団法人 資源素材学会・日本鉱業史研究会理事)のご協力を得た。
 
二、田中圭一著『新版 日蓮と佐渡』所説「目黒町塚原配所説」の検証
 田中氏の妙満寺前塚原配所説は、
① 目黒町に阿仏房を名主とする在家(開墾集落)があり、宗祖はこの在家内の三昧堂に預けられたとし、
② 在家に隣接する台地に古来墓地(Ⓒ畑野共同墓地)があり、付近に「塚の腰」の地名があることと、
③ 波多の守護所が、現在の下畑玉作遺跡に在ったとする小菅旧説を根拠に、本間重連の館は、この守護所に近接する熊野神社遺跡であるとする推定に基づき、『種種御振舞御書』の「六郎左衛門が家のうしろ」(本間重連の館の後ろに見える)との塚原配所の所在を示す記述から、
④ 「北は熊野神社から、南はⒶ目黒町とⒷ寺田の共同墓地のあたりまで、約二百メートルの範囲の内が「塚原配所」であると推定」(『新版 日蓮と佐渡』七七頁)するものであるが、①②③の条件と田中氏の④「推定塚原配所」とする場所を検証すると以下の事が考えられる。
 
 先ず、『新版 日蓮と佐渡』七五頁の「図16」について次の点を指摘しておく。
●日蓮正宗が「塚原跡碑」石碑群を建立した場所は、Ⓐ左の▽形の土地である。
●「塚の腰」の地名は、実際は、「目黒町熊野神社」社殿西側にある地名であり、「図16」に示される様な広範囲にある地名ではない。
●当時の幹線道である「横大道」(太線)は、実際は、「至「畑野駅前」信号」と、ある小倉峠(至松ヶ崎)へと続く道より「伝・藤九郎墓」前を通り、「推定塚原配所」を横切る道であり、「図16」に示される墓地「ⒶⒷⒸ」脇を通る道ではない。
●「図16」に示される通り、実際は、「目黒町熊野神社」は「推定塚原配所」に含まれない。
●現地調査によるとⒸの畑野共同墓地はその場所ではなく、実際はⒸより約一二〇m東南にあることが判明した。
①阿仏房在家
 鎌倉時代の佐渡では、百姓の開墾村落を「垣の内」または、「在家」と云い、周囲をくね木や田畑で囲んだ土地に、長である「名主」を中心として数戸の同姓の百姓が居住し、一つの堂と一つの社、共同墓地、稲場(稲を干す場所)等を共有していた。佐渡では、これを「一堂一社七かまど(屋敷)」と云う。目黒町に阿仏房の「在家…日満上人(阿仏房の曾孫)開山の妙満寺とその墓地が現存」があり、宗祖はこの在家内の「三昧堂」(一堂)に預けられたとするならば、「三昧堂」は、「在家」内、もしくは、これに隣接する場所に在ると考えられる。
 小菅氏によると、『旧版 日蓮と佐渡』において定義した「阿仏房在家」は、複数の在家を一つと見做したもの(『新版 日蓮と佐渡』も同じ定義)であったが、近年妙満寺と隣り合う千日尼実家跡の二軒を中心とした一般的な広さ(半径五〇m)の「阿仏房在家」を確認したと云う。『新版 日蓮と佐渡』の「阿仏房在家」の定義では、在家の規模が広すぎたのである。
②墓地・塚原の推定
 周辺墓地の考察『新版 日蓮と佐渡』
 「Ⓐ目黒町の共同墓地は、藤九郎守綱のものと伝えられる墓のあるところから、明治四十二(一九〇九)年頃に移したものであり、また、Ⓑ寺田の共同墓地は、いまの墓地の南方にある寺田の真言堂のところから大正期に移した。これに対してⒸ畑野の共同墓地は、ずっと前から同じところにあった。すると、いまの寺田と目黒町の共同墓地辺り(ⒶⒷ)が、「塚原」であった可能性が大変強いと考えられる。」(『新版 日蓮と佐渡』七六頁)
 Ⓒ畑野の共同墓地は、「ずっと前から同じところにあった。」と、あるだけで鎌倉期以降の墓地の変移を調査したものではない。いずれも明治以降の墓地の変移を見ただけである。また、現地調査によりⒸの畑野共同墓地とする場所は、実際はⒸより約一二〇m東南にあることが判明した。したがってⒸの場所も以前墓地ではなかったのである。したがって、これ等墓地の考察は「推定塚原配所」の根拠となりえない。
③本間重連館の推定、御遺文の文証
 『種種御振舞御書』には、「六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨る所に一間四面なる堂の仏もなし。」(昭和定本九七〇頁)つまりは、「本間重連家の後見人【うしろみ】の家より塚原へ」という意味であり、本間重連の家と塚原三昧堂との位置関係を示した文ではない。「うしろみ」と云う古語は「後見人」であり、「後に見える」と云う意味は本来存在しない。「六郎左衛門が家」と「うしろみの家」を明確に区別した表現である。
 また、下畑玉作遺跡=波多の守護所とする小菅旧説は、小菅徹也氏(『旧版 日蓮と佐渡』共著者)本人の指摘によると、旧説は下畑玉作遺跡ではなく、下畑沖(北側)の第三次佐渡国府域を波多の守護所と推定したものであり、以降の研究調査によると、鎌倉時代の佐渡の守護所・本間重連の館は、竹田城跡(佐渡市竹田)であり、旧畑野熊野神社遺跡付近は、本間重連の「後見人」である波多本間氏の館跡(『歴史と地理』四九六号平成八年「佐渡の歴史」小菅徹也)との報告があり、鎌倉期の下畑沖の第三次佐渡国府域=波多の守護所、旧畑野熊野神社遺跡=本間重連の館とする説は、既に同氏により否定されている。
 鎌倉期の国府は、雑太国府址(下国府遺跡付近…現佐渡市竹田)であり、守護所は国府近くに設けられるという一般的な先例から、佐渡守護所は、国府を見下ろす場所にある守護代職の本間総領家雑太本間氏居城の竹田城(雑太元城…現佐渡市竹田)であり、総領家の雑太本間氏は、鎌倉幕府の滅亡と共に衰退し、南北朝期の動乱を経て、庶子家の波多本間氏の勢力が増大し、室町期には波多郷(現在の旧畑野熊野神社遺跡)に守護所が移転したと云う。なお、小菅氏は、これ等の内容を平成七年の『朝日百科・歴史を読みなおす9 中世の村を訪ねる』朝日新聞社、平成八年の『歴史と地理』日本史の研究〔一七五〕巻頭論文「佐渡の歴史」山川出版社等に発表してきたと云う。
※以上の事から、②③は問題があり根拠となり得ないと考えられる。①の小菅新説を基にして推測するならば、「塚原配所」は、①阿仏房在家(妙満寺を中心とした半径五〇m)内、または、これに隣接する場所と推定される。
 したがって、田中氏の④「推定塚原配所」とする「北は熊野神社から、南はⒶ目黒町とⒷ寺田の共同墓地のあたりまで、約二百メートルの範囲の内が「塚原配所」であると推定」(『新版 日蓮と佐渡』七七頁)箇所の中で、「推定塚原配所」の中央を分断し横切る「横大道」より「南はⒶ目黒町とⒷ寺田の共同墓地のあたりまで」は、阿仏房在家より離れ過ぎた塚原配所としての明確な根拠のない場所であることが判明した。よって、「横大道」よりⒶ目黒町の間に存在する日蓮正宗塚原跡碑建立地も「塚原配所」ではないと考えられる。
 
三、銘板「塚原配所考」の検証
 Ⓒ『塚原配所考』石碑の銘板には、以下の文が記されている。
『 銘 板 「塚原配所考」
 日蓮大聖人の佐渡配流の地「塚原」については古来諸説がある。しかし、それらはいずれも根拠に乏しく、これまで「塚原」の地を確定するには至らなかった。
一、佐渡守護所跡と本間重連館跡
 佐渡において日蓮大聖人を預かったのは守護代・本間六郎左衛門重連である。当然、佐渡守護所と本間重連の館とは近距離にあつた。守護所を特定する方法として、室町幕府が各国の府中(国府の所在地)に建てた安国寺の存在が欠かせない。佐渡に安国寺が建てられた時期は、日蓮大聖人の佐渡配流から六十年ほど後のことであるが、守護所の近くに建てられた安国寺は畑野の下畑にある。本間重連の館について言えば、『佐渡本間系図』には、日蓮大聖人が塚原に入ってから三十七年後の徳治三(一三〇八)年、本間十郎左衛門が波多(現・畑野町下畑)に熊野権現を建立したことが明記されている。これは本間氏館の敷地内に熊野神社を建立したものであり、この熊野神社は後に移転し、その跡に「熊野神社遺跡」の碑が建てられている。また周辺には「城」や「宮」の付く地名がいくつか残っている。これらのことから本間重連の館や守護所は、波多熊野神社跡とそれに隣接する下畑玉作遺跡とされる場所を含む約一町四方の地域にあったと考えられる。
二、塚原配所
 守護所跡とされる下畑熊野神社付近から望むことのできる範囲で、日蓮大聖人遺文の「里より遥かにへだたれる野と山との中間につかはらと申す御三昧所あり」に符合する場所は目黒町のこの台地をおいてほかにない。この地の近くには、日蓮大聖人に深く帰依した阿仏房の子・藤九郎守綱のものと伝えられる墓があり、阿仏房の曽孫・日満が建てたとされる妙満寺もある。また妙満寺の西側に建つ目黒町熊野神社の水田には「塚の腰」の地名が残っている。
 このように、守護所から監視できる場所に位置し、周辺に多くの史跡や関連する地名が残ること、古くから地域の共同墓地であったことなどから、この地を中心に、北は目黒町の熊野神社から南は目黒町と寺田の共同墓地のあたりまでの約二町歩の範囲内を佐渡における日蓮大聖人の「塚原配所」と推定する。
 平成十九年三月一日
元筑波大学教授 文 学 博 士 田中 圭一 
佐渡博物館館長 佐渡史学会会長 山本 仁  』
●守護所を特定する方法の検証
 「守護所を特定する方法として、①室町幕府が各国の府中(国府の所在地)に建てた安国寺の存在が欠かせない。(中略)守護所の近くに建てられた安国寺は畑野の下畑にある。②本間重連の館について言えば、『佐渡本間系図』には、日蓮大聖人が塚原に入ってから三十七年後の徳治三(一三〇八)年、本間十郎左衛門が波多(現・畑野町下畑)に熊野権現を建立したことが明記されている。これは本間氏館の敷地内に熊野神社を建立したものであり、この熊野神社は後に移転し、その跡に「熊野神社遺跡」の碑が建てられている。」(前記碑文)
 以上の文を小菅氏著『佐渡中世史の根幹』を参考に検証する。
①の検証
 「明治期の地図や土地台帳等の各地籍図、及び、『畑野町史総篇 波多』に掲載されている一六九四(元禄七)年の畑方村検地帳及び畑本郷村検地帳、旧版や『新版 日蓮と佐渡』などで畑方村に「下国府坊」(世尊寺の前身といわれる下江坊=下国府坊)という地名があった証拠としている一六六三(寛文三)年の世尊寺の田地預り証文等を詳細に調べた結果、下畑地域に国府関連地名を一筆も見出すことは出来なかった。」(同書六一〜二頁)
 したがって、畑野(波多)の地域に国府の存在を裏付ける歴史的証拠は一切なく、国府が畑野の地になければ、室町幕府が府中に建てた安国寺が、現在畑野にある安国寺の場所に建っていた証拠とならない事となる。
 「波多郷の安国寺集落は、「垣の内」地名は近くにあるものの、これまでに鎌倉期に集落があったことを証明する陶磁器片や遺構が只の一度も確認されたことはない。」(同書四〇頁)
 安国寺が室町期の創建已來、現在の地にあるという考古学的証拠も実際には存在しない事となる。
②の検証
 『西蓮寺本間系図』(寛永二〇年)原文には、
 「宗忠 左衛門十郎忍連 住雑太徳治三年畑野村熊野権現宮御正躰建立」(同書四〇頁)
 と、ある通り、「本間六郎左衛門重連」の次の佐渡守護代であろう「本間十郎左衛門宗忠」は、「雑太」に住していたと明記されているという。つまりは、佐渡守護代の館は、徳治三(一三〇八)年の時点で「雑太」に在った事となる。
※以上の事から、「安国寺」や『佐渡本間系図』の記述は、鎌倉時代に「本間重連の館や守護所は、波多熊野神社跡とそれに隣接する下畑玉作遺跡とされる場所を含む約一町四方の地域にあった」根拠となり得ないと考えられる。
●「塚原配所」推定の検証
 「このように、①守護所から監視できる場所に位置し、②周辺に多くの史跡や関連する地名が残ること、③古くから地域の共同墓地であったことなどから、この地を中心に、北は目黒町の熊野神社から南は目黒町と寺田の共同墓地のあたりまでの約二町歩の範囲内を佐渡における日蓮大聖人の「塚原配所」と推定する。」(前記碑文)
①「守護所から監視できる場所に位置し」の検証
 実際に検証してみると、田中氏が「守護所」と推定する場所から、この石碑の在る場所まで、約七五〇m離れており、高さ三・九mという「塚原跡」石碑ですら一点にしか見えない。更に、夜間や様々な気象状況を考慮すれば、一人の人間を監視できる距離とは到底考えられない。この説に従えば、他の流人も同様に守護所から監視していた事になる。
 そもそも、『新版 日蓮と佐渡』における、日蓮聖人は、阿仏房の下(佐渡守護代→波多郷地頭代→在家名主)に預けられ、その監視下に置かれたという仮説を既に忘却している。守護所から聖人を直接監視する必要はない訳である。
 『新版 日蓮と佐渡』で多用した「本間重連が家のうしろ」という「塚原配所」の所在を表す文証を、この銘板では明示せず、「守護所から監視できる場所」という言葉に置き替えた理由は、御遺文の解釈上に問題を発見した事かもしれない。
②「周辺に多くの史跡や関連する地名が残る」
 「関連する地名が残る」とは、「塚の腰」の地名のことであるが、「塚の腰」の地名は、熊野神社脇の田にある地名であり、そこから約二〇〇m離れ・「横大道」により分断されたこの石碑の建つ場所とは直接関係のない地名である。
③「古くから地域の共同墓地であった」
 「Ⓐ目黒町の共同墓地は、藤九郎守綱のものと伝えられる墓のあるところから、明治四十二(一九〇九)年頃に移したものであり、また、Ⓑ寺田の共同墓地は、いまの墓地の南方にある寺田の真言堂のところから大正期に移した。これに対してⒸ畑野の共同墓地は、ずっと前から同じところにあった。すると、いまの寺田と目黒町の共同墓地辺り(ⒶⒷ)が、「塚原」であった可能性が大変強いと考えられる。」(『新版 日蓮と佐渡』七六頁)
 右記の通り、石碑群の隣のⒶ目黒町・Ⓑ寺田の共同墓地は明治以前墓地ではなく、Ⓒ畑野の共同墓地も現地調査により以前は墓地でなかった(Ⓒより約一二〇m西南)ことが判明している。したがって、「古くから地域の共同墓地であった」という記述は誤りである。
※以上の検証の結果から、①②③の理由は「塚原配所」推定の根拠となり得ないと考えられる。特に、『新版 日蓮と佐渡』の「推定塚原配所」説において中核となる「阿仏房在家」の所在を欠除したことにより、浅薄な状況証拠の羅列に終っている。
 
四、碑文「日蓮大聖人と塚原」・「地図版」の検証
 石碑「日蓮大聖人と塚原」碑文には、塚原跡碑建立までの経緯が記されている。その中でこの地を「塚原跡」に推定する理由として以下の文が記されている。
「塚原史跡をたずねて
 日蓮大聖人の法灯を継ぐ日蓮正宗では、大正四年に第五十九世日亨上人が佐渡の史料調査を行い、後の著書に「佐渡の各寺の記録物は信用に足らぬ」と記された。昭和四十三年から第六十六世日達上人の命を受けた宗門僧侶が佐渡史跡を踏査し、御書の記述と史実をもとに目黒町鳥居畑地域を塚原跡と推定した。その主な理由は、この地が波多守護所から監視できる距離にあり、近くに阿仏房ゆかりの寺やその子息藤九郎盛綱の墓があること、周辺に「塚の腰」の地名が残り、目黒・寺田地区の共同墓地があることなどである。これは昭和五十六年刊行の大石寺版『日蓮大聖人正伝』において広く発表された。
 なお、この史跡の確定は、田中圭一氏並びに山本仁氏をはじめ佐渡郷士史家各位の長年にわたる精細な研究成果に負うところが大きい。」
●「塚原跡」踏査の実態
 「昭和四十三年から第六十六世日達上人の命を受けた宗門僧侶が佐渡史跡を踏査し、御書の記述と史実をもとに目黒町鳥居畑地域を塚原跡と推定した。(中略)これは昭和五十六年刊行の大石寺版『日蓮大聖人正伝』において広く発表された。」とあるが、実際に『日蓮大聖人正伝』(二一六〜七頁)を参照してみると田中圭一氏の「塚原目黒町説」(昭和四十七年『旧版 日蓮と佐渡』所収)を簡単に紹介しているだけで「踏査」の形跡は全く見られない。
●「塚原配所」推定の検証、日蓮正宗「碑文」と田中氏「銘板」との比較
㈠日蓮正宗「碑文」の「塚原配所」推定の文
 「その主な理由は、①この地が波多守護所から監視できる距離にあり、②近くに阿仏房ゆかりの寺やその子息藤九郎盛綱の墓があること、周辺に「塚の腰」の地名が残り、③目黒・寺田地区の共同墓地があることなどである。」
㈡前記、田中圭一氏の銘板「塚原配所考」の「塚原配所」推定の文
 「このように、①守護所から監視できる場所に位置し、②周辺に多くの史跡や関連する地名が残ること、③古くから地域の共同墓地であったことなどから、この地を中心に、北は目黒町の熊野神社から南は目黒町と寺田の共同墓地のあたりまでの約二町歩の範囲内を佐渡における日蓮大聖人の「塚原配所」と推定する。」
 両者を比較すると、文の通り、㈠日蓮正宗碑文と㈡田中氏銘板の①②③はそれぞれ対応する、同じ構成・内容である。つまりは、田中氏の「銘板」を基に「碑文」を作成したのであろう。
 特に、日蓮正宗碑文の「③目黒・寺田地区の共同墓地があること」と云う理由は、『新版 日蓮と佐渡』に「Ⓐ目黒町の共同墓地は、藤九郎守綱のものと伝えられる墓のあるところから、明治四十二(一九〇九)年頃に移したものであり、また、Ⓑ寺田の共同墓地は、いまの墓地の南方にある寺田の真言堂のところから大正期に移した。」(七六頁)と、ある通り共同墓地でなかった場所であり全くの誤りである。
 「塚原跡」碑文作成にあたり、田中圭一氏の著した「銘板」の原稿が大石寺へ送られ、その原稿のみに頼って「碑文」の文章を作成した結果、「守護所から監視できる場所」という『新版 日蓮と佐渡』に無い理由や、「目黒・寺田地区の共同墓地が(古来より)ある」という誤りを「塚原」を推定する理由に付け加えたのであろう。日蓮正宗碑文の筆者が、『新版 日蓮と佐渡』を満足に読まず、現地確認を怠ったまま「碑文」を作成した事実がここに露顕した訳である。
●「地図版」の検証
 地図上の国分寺(国府)と守護所跡との距離は、実際には約三〇〇〇m離れている。小菅氏によると、近年の全国的な調査結果に基けば、守護所は国府近くに設けられることが一般的であり、守護所と国府との距離が三〇〇〇mも離れている事は通常ありえないと云う。
 国府の場所は佐渡市竹田の下国府遺跡(官人の住居)周辺であることが公認されていることから、守護所はその近辺に存在したこととなる。小菅氏は国府を見下ろす場所にある竹田城(雑太元城)跡を鎌倉時代の守護所跡と推定している。したがって、国府との距離が三〇〇〇m近く離れた下畑玉作遺跡を鎌倉時代の守護所とする上記「地図版」の説は誤りであると考えられる。
●地図入り石碑の検証
 日蓮大聖人関連佐渡地名図・塚原跡碑周辺図いずれにも妙満寺を記入していない。前に説明した通り、国府との距離が三〇〇〇m近く離れた下畑玉作遺跡を鎌倉時代の守護所とする説は公認されるものではない。また、妙満寺を中心とした阿仏房在家の存在を無視して、藤九郎守綱(阿仏房の子)もしくは日満上人の墓地と伝承される墓の存在のみで「塚原跡」を推定する事は不可能である。
 国立国会図書館所蔵の参議院会議録『第〇四〇回国会 文教委員会 第三号』(昭和三十七年二月十五日)に、創価学会が用地の買収・登記を行い「佐渡の海上山妙護寺」を建てた旨が記録されている。つまりは、佐渡で日蓮正宗唯一の寺院である海上山妙護寺は創価学会により昭和三十六年に建てられたという事実が、この寺の歴史的起源である。
 自宗にとって都合の良い事物のみを取り上げ、都合の悪い事跡は目の前の妙満寺すら無視するという行為自体が歴史的客観性に欠けるものであり、日蓮正宗の独善性・異端性を物語るものでもある。
 
五、結
 二、三、四に検証した通り、田中圭一氏の『新版 日蓮と佐渡』における「推定塚原配所」説は、その根拠となる下畑玉作遺跡を鎌倉時代の守護所とする説や『種種御振舞御書』の解釈、周辺墓地(Ⓒ畑野の共同墓地)の考察等に問題があり、考古学的物証も皆無の為、今後も地域・県の教育委員会に公認される見込みはないと考えられる(後記)。
 また、これに基いて推定地に建立された石碑群の田中氏「銘板」と日蓮正宗「碑文」も検証した通り「推定塚原配所」の根拠となり得ない内容である。『新版 日蓮と佐渡』の「推定塚原配所」説において中核となる「阿仏房在家」の所在を欠除したことにより、浅薄な状況証拠の羅列に終っている。更に、日蓮正宗「碑文」は田中氏「銘板」の文のみを盲信して作成した形跡があり、『新版 日蓮と佐渡』に明治以前墓地でなかったと記述のある場所の墓地を「推定塚原配所」の根拠とした杜撰なものである。
 前述した通り、小菅氏が新発見された阿仏房在家の範囲(妙満寺を中心とした半径五〇m)に基づけば、「塚原跡」石碑群の建つ場所は在家の範囲外であり、「塚原配所跡」の可能性はないと考えられる。
 佐渡市教育委員会の佐渡伝統文化研究所(佐渡市両津湊一九八)へ目黒町の「塚原跡」石碑群について問い合わせたところ、『目黒町の「塚原跡」石碑群は、史跡指定を受けたものでは無い(非公認)ので建設に際して教育委員会に届出していない。工事中に発掘物があった場合、教育委員会に届け出る義務があるが、連絡が無いことから何も発掘物は無かったと考えられる。』との回答を得た。この様に、「塚原跡」石碑群は、教育委員会非公認であり考古学的根拠も無い、田中氏や日蓮正宗が独断で建てたものである事が確認できた。
 調査にご協力頂いた小菅徹也氏は「塚原跡」石碑群について以下の様に懸念されている。
 「大きな碑とその建立主旨及び歴史的経緯・歴史的な評価を述べた両側の碑の文面に、特定の意図や歴史事実の歪曲・捏造が含まれていたら、後世において歴史を正すことはまったくできなくなる。」「碑文の誤りは、関係者が歿した後も一人歩きし、誤解を島内外に撒き散らし、当事者の恥を永遠にこの世に留めることになる。」(『佐渡中世史の根幹』九二〜三頁)
 「塚原跡」石碑群は、石碑に刻んだ内容が単に「塚原跡」の所在だけではなく、これを立証する為に、佐渡の中世史の根幹を成す鎌倉時代の守護所跡や国府の所在等に、既に立論者が否定している様な信頼性の低い説を引用し、尚且つ、それを定説化しようとしいている事に重大な問題があるのである。
 今後の問題は、歳月が経つと共に世間一般の人々がこの石碑の内容を何も知らずに是認してしまう可能性がある事である。一仮説に過ぎぬものを石碑に刻むことで絶対化しようとする行為は、後世の人々に対する影響を考えれば、許されざる行為である。今後の対応として上記調査内容等を簡略化し、島内の檀信徒を始めとした一般の方々へ伝える必要があると思われる。
※なお、目黒町の妙満寺に伝承する塚原三昧堂跡と日蓮正宗建立塚原跡碑群の詳細な調査内容は、『現代宗教研究 第42号』に『妙満寺伝承塚原三昧堂跡と日蓮正宗建立塚原跡碑の調査報告』として掲載したので、ご覧頂きたい。
参考文献
『佐渡中世史の根幹』小菅徹也著 ㈳資源素材学会・日本鉱業史研究会理事
『歴史と地理』一七五号 山川出版社
『新版 日蓮と佐渡』田中圭一 平安出版
『旧版 日蓮と佐渡』中村書店
『畑野町史 信仰篇』畑野町史編纂委員
『昭和定本 日蓮聖人御遺文』日蓮宗
『日蓮大聖人正伝』大石寺

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