現代宗教研究第43号 2009年03月 発行
『六巻抄』の構造と問題点(六)─「依義判文抄」を通して(その二)─
第九回日蓮宗教化学研究発表大会
『六巻抄』の構造と問題点(六)
─「依義判文抄」を通して(その二)─
早 坂 鳳 城
一
前回は、『六巻抄』第三章の「依義判文抄」で、序、一、三大秘法の開合の相を明かすまでについて論じました。そして、そこでは、一般に日蓮門下では三大秘法が説かれるのでありますが、堅樹日寛の教学では六大秘法が説かれ・独善己義・曲会私情の釈であることを論じました。
今回は、『六巻抄』の目次にありますように、迹門の文証の中の、二、法師品の「若復有人」等の文について論じます。
二
第二に法師品の「若復有人」等の文(大石寺版『六巻抄』八十三頁)ですが、ここは、堅樹日寛が、法師品の五種法師の文を三秘に配当した無理があります。
寿量品に到達して久遠の本地を開顕し立ち還って迹門を見れば、迹門の中にも三大秘法に配当する文言が存在する、という解釈は成立します。
法華玄義にあかす十重顕本(佛教体系『法華玄義』第九巻下 三三二頁〜三四五頁)でいうところの住本用迹(前掲)で迹門を解読することであります。単独の迹門の文言のみから三大秘法と言う本門思想を読み取るのは、あきらかな逸脱であります。
従って、迹門の法師品や宝塔品から、いきなり三大秘法を解読するのは暴論であります。こんなことを言いますと三大秘法は、爾前経にも存在することになり、法華経も本門も無用となってしまいます。
本門の義を迹門で読まなければ、迹門の中に本門の義を含み、迹門・本門共通する思想があることを読み取るは出来ません。
例えば、日蓮聖人の佐後思想をもって、佐前をみれば共通する思想の存在に気がつきます。
しかし、佐前だけであくまでも佐前の思想であります。佐前は、佐後に到るプロセスの時期であります。このことより佐前には、佐後に共通する思想が存在するのは当然であります。
日蓮聖人の思想では、在世は順次(読)、滅後は逆次(読)であります。堅樹日寛は、三大秘法に約して法師品の五種法師の文を次の如く分類します。
堅樹日寛説
受持 戒壇
読誦 題目
解説 /
書写 /
経巻 本尊
依文判義を前提なしにいきなり三秘の理を持って依義判文することは暴論であり、曲会私情のそしりをまぬがれません。客観性の欠落であります。
五種(原則)本義は、行者の行法論であります。法師品という題号、品号に示す通りであります。法師の修行の五種の分類を示した要句であります。
しかも、自行化他に分ければ受持・読誦・書写は自行、解説は化他であります。
経巻は行者の内的・心的方向を示しています。行法を総別に約せば、受持は総在の行、以下の四種は別行であります。
受持 読
誦
解説
書写 経巻
受持の一行に全ての行が含まれます。
天台は「受持即五種法師」(天台大師全集『法華文句』第四巻 一八二三頁)をあかし、 妙楽は法華玄義の巻一の中で(佛教体系『法華玄義』第一巻 八十二頁)「観心は即聞、即行なり」と釈します。
日蓮聖人は『観心本尊抄』に受持の自然譲与を明かしますが、『観心本尊抄』には「我ら此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう」(定遺七十一頁)とある如く、受持の一行に五種の行を総在するのが日蓮聖人の思想であります。
法師品の文を本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目と解釈するのは、明らかに日蓮聖人の意志に反するのであります。迹門・法師品の文は何故に本門の三秘に論ずるのか、ここに論理の飛躍があります。
日蓮門下の迹門の文言の解釈には二種あります。
一、教相文上釈、附文釈。
これは、迹門の文章をそのまま解釈することであります。つまり、始成釈尊の立場で経文を解する見地であります。(開三顕一釈)であります。住迹用本顕本(佛教大系『法華玄義』第五三四頁)
二、観心文底元意釈。
迹門の文言を本門の立場から解釈する。これは、久成釈尊の立場から経文を解する見地であります。
文在迹門義在本門(文は迹門に在るが、義は本門に在り。)
久遠還帰具謄本種(久遠に還って、具に本種に謄ぐ。)
と云う。住本用迹顕本(佛教大系『法華玄義』第五三四五頁)
堅樹日寛の依義判文の用い方は観心釈の如くでありますが、論証が極めて瑣末であります。従って、曲会私情の釈となります。
三
問答①の問いでは、「受持・読・誦等は是れ五種の妙行なり。何ぞ受持の両字を以て即ち本門の戒壇とせん」(大石寺版『六巻抄』八十三頁)として、法師品の受持が即本門の戒壇に配当する由来を問います。
答えでは、法師品の受持の語句の問いに対して解答は全て神力品で答えています。(大石寺版『六巻抄』八十三頁)従って解答になっていません。
神力品の「応受持斯経」(平楽寺書店版『真訓両読妙法蓮華経』五〇六頁)の文を本門の戒壇と規定していますが、『上行所伝三大秘法口決』と称する大石寺の相伝書では「応受持 持戒清潔にして作法受得の義なり。」(『平成新編日蓮大聖人御書』一七〇四頁・太字引用者)とあり、戒の持ち方を明かしているだけであります。
また、「斯経 三大秘法の中の本門戒。」(『平成新編日蓮大聖人御書』一七〇四頁・太字引用者)の文証を受持即ち戒壇と規定しています。しかしながら、神力品、文句いずれにも戒壇の用語はありません。
また、戒について戒法か戒行か戒相か戒体かなどの戒の四義の弁別もありせん。故に受持即戒壇の義は成立しないのであります。
神力品の「畢竟住一乗」(前掲版『真訓両読妙法蓮華経』五〇六頁)の文を本門の本尊と規定します。『上行所伝三大秘法口決』によると、「畢竟 必定と云う事なり。住 即身成仏。一乗 とは運載荷負の義 一乗とは三大秘法の中の本門寿量の本尊云云。一切衆生の生死の愛河を荷負する船筏、煩悩の嶮路を運載する車乗なり。」(『平成新編日蓮大聖人御書』一七〇四頁・太字引用者)とあります。
堅樹日寛は、法師品では経巻を本尊と云い(大石寺版『六巻抄』八十三頁〜八十四頁)、神力品では一乗を本尊(大石寺版『六巻抄』八十三頁)と云う。これによって、自語相違が明らかであります。
神力品の「能持是経者」(前掲版『真訓両読妙法蓮華経』五〇五頁)の文を本門の題目と規定しますが、『上行所伝三大秘法口決』の文によると、「能持是経者 三大秘法の中の本門の妙法蓮華経。」(『平成新編日蓮大聖人御書』一七〇三頁・太字引用者)とあります。
法師品には読誦を題目と云い、神力品には読誦の解釈はありません。
堅樹日寛の説によると、法師品には「受持が戒壇」、神力品には「能持是経者」を題目と解釈し、語義の混同が見られます。
法師品の受持と神力品の能持は別儀ではなく、共に法の受持を顕わす用語であり、それを一方では題目と云い、一方では戒壇と云う。明らかに自語相違であります。
最後に問いでは、「受持の両字を以て本門の戒壇とせん」(大石寺版『六巻抄』八十三ページ)として受持を戒壇に約しています。
しかし、受持の三種(一、所持の法体。二、能持の信行。三、受持の儀式)に約して、本尊と題目と戒壇の受持と称しますが引用の神力品の釈義とは符合しません。しかも、設問は法師品の受持の話でありますが、そのことは一言も触れていません。つまり、問いの答えになっていません。
問答②(大石寺版『六巻抄』八十四頁)では、法師品の読誦の話を題目と解釈する由来に関する解答です。問いの要旨は、読誦は経巻であって題目ではないという問いかけであります。答えでは、題目は本尊に向かって唱えるのは読、向かわずに唱えるのは誦。と解釈します。
次に、法華文句(『法華文句』大正蔵三十四巻一〇七頁C)を引いて読誦の釈義を依用します。天台の云う読誦とは、明らかに経巻読誦でありまして唱題の意味ではありません。故に、文証は符合しません。
次に、修禅寺決の文(『修善寺相伝私注』伝教大師全集五巻七五頁)を引いて、読誦即題であるとの説をのべますが、この文証は、読誦即唱題と解釈出来る法華経法師品の「妙法蓮華。経乃至一偈。」(前掲版『真訓妙法蓮華経並開結』三〇六頁)の文を引いて経典読誦を否定しました。
法華経見寶塔品の「仏欲以此。妙法蓮華経。付嘱有在。」(前掲版『真訓両読妙法蓮華経並開結』三三五頁)は、堅樹日寛の主張する読誦唱題の文証ではありません。付嘱の文である事は、明らかであります。
次の法華文句記の「句の下、通じて妙名を結す」(『法華文句記』大正蔵三十四巻一四三頁C)の文は付嘱を顕わす文で読誦即ち唱題を主張する文証ではありません。
日蓮聖人の教学では、唱題は正行、読誦は助行であります。唱題と読誦が同じならば、正行と助行の弁別は無用となります。因みに読誦経典は、読経であり読誦であります。
故に、天台も妙楽も読誦即唱題の主張は希薄であります。読誦即唱題を示す文は、伝教大師の修禅寺決の一文のみでありますので唱題即読誦とは断定できません。
興門の口伝によると、読誦とは読誦経典・補助修行であり、唱題とは読唱玄題・正修行であります。これが、正行と助行の語源であります。
従って、堅樹日寛の論旨は、日蓮聖人の意志に反した暴論と云えます。
問答③(大石寺版『六巻抄』八十四頁)では、問いで、法華経法師品の「於此経巻、敬視如仏。(前掲版『真訓妙法蓮華経並開結』三〇六頁)の文を挙げて、法は、聖の師と質問します。つまり、法は、仏の師であるのに経典を仏の如く敬うと云う義では、法と仏が一如と成る故にその不信を問うているのであります。
解答は、附文(機情・随他意)と元意(仏意・随自)に分けて答えています。附文と元意を分ける理由が不明のまま、附文世情釈としますが、その世情釈の説明もありません。元意は一如と解釈します。
附文とは、経文に附順した釈義であり、世情に順じた解釈ではありません。根本的な仏教用語の解釈、用い方に欠陥がります。
元意とは、仏の意志であります。この点の説明もなく行き成り結論のみであります。
次に、人法論とは、爾前経は、仏は法を弘むる故に人勝法劣論であります。迹門は、法は仏の師である故に法勝人劣論であります。本門と本地本門とは、法仏一如の故に人法一箇論であります。故に、附文・元意と言えども、迹門なれば法勝人劣、本門なれば人法一箇であります。
堅樹日寛は、附文の釈に結論を出さず、元意釈のみに人法一如と解釈したその論旨には欠落があります。堅樹日寛には、全てに論理的プロセスが欠けています。思考回路が散漫であります。日蓮人の教説は、論理的プロセスが明解なのが特徴であることは言うまでもありません。
四
ここにおいて、『六巻抄』第三の「依義判文抄」、第二に法師品の「若復有人」等の文に於いても、論理考証に無理があり、堅樹日寛の独善己義、曲会私情の釈であることが領解されるのであります。ご静聴ありがとうございました。