現代宗教研究第43号 2009年03月 発行
寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績
第九回日蓮宗教化学研究発表大会
寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績
石 川 修 道
はじめに
不受不施派の信仰を貫いた女性を研究した好著がある。「対立と興亡の中で」の著者・中谷裕子氏である。「武家の女性たち」の中で、寿福院ちよと自昌院満姫を現地調査した資料である。平成二十一年五月身延山久遠寺では、明治八年焼失した寿福院・前田家奉納の五重塔再建が成就した。五重塔建立にまつわる寿福院の信仰内容と時代環境を考察すべきと考えられる。
日蓮宗不受布施派への弾圧
江戸時代の初期、徳川家光の治世期、法華経の未信者である国主の供養をめぐって、身延久遠寺日暹(隆恕)を代表とする受不施派と池上本門寺日樹を代表する不受不施派の対論が、寛永七年(一六三〇)二月二十一日、江戸城内酒井雅楽頭忠世の邸で行われた。
その伏線として備前法華(岡山)の強信仰で育った仏性院日奥(安国院、一五六五─一六三〇)は京都妙覚寺一九世に二十八歳で晋山し、文禄四年(一五九五)九月豊臣秀吉の京都東山方広寺における豊臣一門九族の菩提の千僧供養に法華宗は百名の出仕を招請された。京都諸本山は、古来より堅守してきた不受不施義の原理主義と、国主の布施は格別で受くべきとする受不施義の現実主義が協議された。長老の一如院日重(のち身延二十世)の言により、本法寺日通、立本寺日抽、頂妙寺日暁など供養出仕に傾いた。妙顕寺日紹、本国寺日禎、本国寺求法檀林日乾は日奥の不受不施義による不出仕に讃意したが、日紹・日乾は日重の説諭に出仕を表明し、日奥・日禎は本山を出寺して秀吉に「法華宗諫状」を献じ、「法華宗奏上」を宗祖の「立正安国論」「災難興起由来記」を添えて後陽成天皇に進上した。慶長三年(一五九八)八月、豊臣秀吉歿後も千僧供養は継続され、京都の僧俗は日奥・日禎の不受不施義を誉め、不出仕を支持した。そこで日重・日乾等の寛容、摂受派は千僧供養の不出仕は公儀に背くものと徳川家康に訴えた。家康は大阪城内にて日乾・日紹らと日奥・日禎を出仕の当否につき対論させた。対論を聴いた家康は日奥・日禎が一度出仕すれば、あとの出仕は免ずる折紙を出す譲歩を示したが、日奥は所信を貫き家康の激怒を買い、慶長五年(一六〇〇)六月対島に配流された。関ヶ原合戦の年である。そののち常楽院日経らと浄土宗との宗論「慶長宗論」が慶長十三年に起きる。日奥は在島十三年間の慶長十七年(一六一二)五月赦免され京都妙覚寺に帰山した。元和二年(一六一六)五月十九日、京都諸山を代表して妙顕寺日紹が日奥へ改悔し和融の義が成立した。家康は日奥の宗制堅持を称え、不受不施公許を認める内心でいたが、同年四月十七日、七十五歳で死去してしまった。家康の内意を得ていた所司代・板倉伊賀守勝重は元和九年(一六二二)十月十三日、不受不施公許の折紙を出し、法華宗は再び不受不施の伝統的宗制が復活した。日奥と同じく備前法華(岡山)で養成された長遠院日樹が元和五年(一六一九)六月池上本門寺十六世に晋山した。三十七歳であった。この頃は中山法華経寺、平賀本土寺、小湊誕生寺、碑文谷法華寺、中村檀林、小西檀林の関東諸山は不受不施、強義折伏を主張し、日奥・日樹に同調していた。そして関東進出を計る身延山と受不施義の関西学派を拒む関東諸山は、国主の施の受・不受問題に再び対立するのである。これが寛永七年(一六三〇)二月二十一日の「身池対論」である。徳川家康の側室・養珠院お万の方は、身延山日遠、日暹を支持し、加賀藩前田利家の側室・寿福院ちよは、不受不施義の池上日樹に帰依するのである。徳川宗家の側室と外様大名の加賀百万石側室の対立でもあった。四月一日付の裁決─政治的配慮により関東諸山は敗者となり、日樹は脇坂淡路守安元の預かりとして信州飯田に配流された。中山法華経寺日賢は三河へ、平賀本土寺日弘は伊豆の戸田、小西檀林日領は奥州相馬、碑文谷法華寺の日進は信州上田に配流となった。この時すでに遷化していた日奥は、遺骨が対馬へ配流となり、これに義憤した小湊誕生寺日税は自刃する。日樹は池上歴世から除籍され、幕命により心性院日遠が身延から池上に四月二十二日晋山し、不受不施の牙城である日奥の妙覚寺は、身延先住の日乾が入った。養珠院の要請により水戸徳川家が日遠の駕籠を警備し、百人の武士が抜刀のまま池上本門寺に入ったと伝えられる異常な情勢であった。日樹の法弟・一如院日僧、仙国院日仙、華蔵院日由は抗議の自害、他の数名は出寺して姿を隠し不受不施義を守った。この宗門を二分する対立は、宗祖三百五十年遠忌の前年の事件である。この不受不施僧を江戸において匿い支援したのが、寿福院ちよの孫娘の満姫(自昌院英心日妙大姉・一六一九─一七〇〇)である。父は加賀三代藩主・前田利常、母は二代将軍徳川秀忠の二女・珠姫(天徳院・一五九九─一六二二)である。徳川秀忠の孫でもあるが、自昌院の法華信仰は、祖母寿福院の不受不施義の法華信仰を相続した。不受不施僧の大乗院日達、安国院日講に帰依し、特に日講が日向佐土原に配流の砌は、兄弟の契をした間柄と伝わる。浅野本家の広島二代藩主・浅野光晟に嫁し、国前寺を菩提寺として諸堂を再興する。しかし元禄四年(一六九一)徳川幕府は悲田不受不施を禁止し、これを国前寺覚雲院日憲が拒否したため、翌年には菩提所と寺領を召上られ身延の支配下となる。
この身池対論の二十八年前、対島より赦免された日奥は不受不施義を貫き身延山と対立、身延謗法・身延参詣堕獄を主張し、身延の後立となる養珠院を諫言した。寿福院は身延・池上の和解に奔走するも不成功に終った。不受不施の小湊誕生寺は、江戸の拠点として四谷千日谷に妙円寺を創設する。すると養珠院は徳川頼宣の四十二厄年を満過した御礼に赤坂紀伊徳川邸内に久遠寺末・東漸寺(のち仙寿院)を建て千駄谷に移す。開山の一源院日遙は養珠院の外甥である。不受不施派の寺院を監視する役目を帯びていたと考えられる。妙円寺はのち現在地の原宿神宮前に宝永三年(一七〇六)に移る。宗門の学問所である中村檀林でも、受不受の諍論が起り学生が離散し、身延支配下になる。池上日樹の弟子である小湊誕生寺十七世・長遠院日遵は井上河内守正利、久世三四郎、酒井山城守等の外護を受け、中村近くの玉造に蓮華寺を再興し、不受派学徒養成の玉造檀林を創設した(寛永十四年)。
日蓮法華宗における「不受不施」の教義は、日蓮聖人の守護国家論・立正安国論に説かれる留施、止施、不施に依っている。不受は他宗の信徒や未信徒は謗法者であるため、これらの人々の供養、施物は受けない。不施は信徒の立場で言えば他宗謗法の僧に布施供養をしない事である。立正安国論に
「釈迦の以前の仏教は其の(謗法)罪を斬るといえども、能仁の以後の経説は即ち其の施を止む」
「所詮、国土泰平天下安穏は一人より万民に至るまで好む所なり。楽う所なり。早く一闡提の施を止め……」
と、不施思想が見られる。それは、不受不施思想により、法華信仰を守る根本理念である。不受不施は大別すると、神社参拝の禁止(社参禁止)と謗法供養の禁止の二つがある。天照・八幡をはじめ日本の神祇は久遠本仏の垂迹であるから、社参は差支えないが、その殆どが天台・真言僧に祭祀されている。密教化した天台や真言では、正法の法味を嘗めず威力を失った諸神は「神天上」し、社殿には祭神不在。善神は国を捨て、聖人所を辞している社参は無益である。社殿に供物を献上することは、謗法の社僧に布施することとなり謗施である。信仰の純粋性から社参を禁止したのである。
宗祖滅後、日像上人は三度京の都を追放され、三回赦された「三黜三赦」の法難のあと、ついに後醍醐天皇が帰依されて「法華宗の公許」が公認され、日蓮教団が独立したのである。元亨元年(一三二一)十二月八日、後醍醐帝より寺地を皇居御溝傍に拝領、妙顕寺が創建され、日蓮聖人滅後、四十年にして「日蓮法華宗」が誕生した。元弘三年(一三三三)三月には、後醍醐帝の還幸を祈り、その賞として尾張、備中に三ヶ所の地を賜う。建武の新政になり建武元年(一三三四)四月、四海唱導の「綸旨」が下賜され、勅願所となり、同三年には将軍・足利尊氏の祈願所となった。日像上人のあとを継承された大覚大僧正妙実は、延文三年(一三五八)祈雨の効験により朝廷(後光厳天皇)から日蓮聖人に大菩薩号、日朗・日像師に菩薩号の宣下を受け、自身は大僧正に任ぜられた。このように日蓮教団初期は、朝廷より寺領、祈願所、僧位を受けることは不受不施の対象に考えられてはいなかった。朝廷や幕府の公武からの布施は謗施と理解されていない。「公武(王侯)除外の不受不施」と言われる。
妙龍院日静は足利尊氏の外護を得て、京都六条堀川に鎌倉松葉ヶ谷の庵を移し本圀寺を建立する。これも王侯除外の不受不施である。皇室の勅願寺、将軍の祈願所となると、どうしても権威・権力側に阿る様になり、折伏精神が薄れ、摂受主義に片向く。大覚妙実、朗源のあと、日蓮門下でこの風潮に憤激して龍華院日実(一三一八─七八)、明珠院日成(─一四一五)の兄弟が小野妙覚の外護のもと京都・妙覚寺を立て独立し、「妙覚寺式目九条」(一四一三年)を制定し、社参を謗供厳禁、強義折伏を主張し宗門に新風を送った。そののち、久遠成院日親(一四〇七─八八)は正当不受不施を主義し、「王侯除外」を更に純粋化し、諸山の寺領、祈願所は施主の信不によるものとし、王侯除外制を脱却する方向に醸成せしめた。公武(朝廷・将軍等)の行う祈願・供養会には不出仕の免除を請う─不受不施の公許─の折紙を得た。明応元年(一四九二)六月、将軍足利義稙代の「本国寺広布録」にその記録が収められている。室町中期には正当不受不施義が確立されたと考えられる。宗祖滅後二一二年の事である。
それから約百年後、文禄四年(一五九五)九月、豊臣秀吉の京都東山の方向寺における豊臣一門の追善(千僧供養)に法華宗も招請され、本満寺日重をはじめ長老は、王侯除外の先例に習い出仕を了承するが、妙覚寺日奥、本圀寺日禎は出寺流浪して宗制を守った。徳川家康の時代になり、対島に流罪となった日奥が帰京(四八歳)、在島十三年であった。京都諸本山と日奥は和議し不受の宗制を確認し合った。元和九年(一六二三)十月、法華宗は「不受不施の公許」折紙を得て、王侯除外制を捨て正当不受不施制に戻ったのである。この良好なる期間は長く続かなかった。寛永三年(一六二六)十月、将軍徳川秀忠の室・崇源院夫人の追善法会が増上寺で行われ、諸宗に諷経が命ぜられ、池上日樹・中山日賢等は諷経して供養を受けず帰寺した。この頃よりまた「王侯除外」が問題となり、寺領・寺子(地子)は国主の供養の布施であるとする身延・関西寺院と、国主の仁恩による布施であるとする池上・中山等の関東寺院が対立することになった。この対立が「身池対論」となるのである。これは一致団結の強い法華教団を、対立二分させる徳川幕府の宗教政策に嵌った可能性がある。身池対論の審判役・天海僧正の智恵かも知れない。
不受不施の法義は、守護国家論や立正安国論で説かれる他宗謗法者からの供養は「受けない」、「施さない」と言う法華信仰を守るための理念である。留施・止施・不施は法華教団の発展に伴い解釈が拡大されてきた。宗祖滅後、日像による京都妙顕寺、妙龍院日静による本国寺の勅願寺、祈願所になるのは後醍醐帝や将軍足利尊氏の公武の布施によるものであるが、初期教団は朝廷・幕府による布施は除外と考えていた様である。「王侯除外の不受不施」である。妙顕寺が大覚妙実より三世朗源、四世日霽の時代になると、折伏精神を忘れ摂受主義に陥ると、龍華院日実(一三一八─七八)・明珠院日成(─一四一五)らが妙顕寺を出て妙覚寺を創立するのである。時代が近世の中央集権の政治体制になると、信仰の純粋性を保持する「不受義」と、教団の維持を図る「受義」の論争が「身池対論」である。布施を福田に譬えて解釈されることになる。恩田、敬田、悲田の三田思想である。
㈠ 恩田……父母・師匠など受けた恩に報いる布施、供え物すれば福を増す。
㈡ 敬田……仏法僧の三宝に供養、布施すると福を増す。
㈢ 悲田……貧苦者に対し慈悲の心を以て供養、布施すると福が生ず。
徳川幕府(将軍家綱の時)は「身池対論」から三〇年のち、寛文元年(一六六一)八月二十七日、「本寺帰属令」を出し、寺院の帰属系統を明示すれば、その門流は公認していた。この頃は不受不施派も公許されていた。同五年には寺社領の朱印調査がなされ、「諸宗寺院法度」が定められた。寺社の朱印地は徳川家より寺社に供養として下賜されるから請書(手形)を出すよう命ぜられた。平賀本土寺日述、上総妙覚寺日堯、雑司谷法明寺日了、野呂檀林日講、玉造檀林日浣らは宗義に反すると御朱印を受け取ることが出来ないと手形提出を拒んで流罪となった。誕生寺日明、碑文谷法華寺日禅、谷中感応寺、鏡忍寺、村田妙法寺、真間弘法寺、法華経寺らは、御朱印は悲田(慈悲で戴いた寺領)として受取ると請書(手形)を出して朱印を受けた。日明・日禅らは悲田不受不施派と呼ばれた。禁制された日述、日浣、日講らは恩田不受不施派と呼ばれ、僧も信徒も「寺請」を停止され戸籍を失い、寺を出奔し地下に潜んだ。不受不施派への弾圧により逃げ切れない僧俗、悲観した人々は自刃、入水、断食、流浪する者数知れず、捕った信徒は処刑される状況である。手形提出を拒否した妙満寺日英、上行寺日応は日向に、鷲山寺日受は出羽に、野呂檀林の安国院日講は日向佐土原、玉造檀林日浣は肥後人吉に配流された。これが「寛文の惣滅」である。弾圧され地下に潜んだ僧俗を匿った人物が自昌院満姫であり、その場所が原宿の広島浅野本家の下屋敷の近く「松平安芸守抱え屋敷」である。浅野家は下屋敷三万三千八百七十七坪を幕府より拝領し、隠田川の対岸近くの土地一万七千三百七十坪を百姓より買い求め「抱え屋敷」を自昌院専用屋敷としたのである。新寺建立は禁止されているため、屋敷内に表向きは熊野権現社再建とし、寺社奉行が介入できない武家屋敷内に熊野社を建て、不受不施僧を隠まうのである。自昌院は写経した法華経八巻を熊野権現に奉納し、玉造蓮華寺の日浣に開眼を依頼し、自らの心願を祈るのである。自昌院が支援した安国院日講は、
㈠ 仏法僧の三宝を敬う心で布施するのは敬田であるが、他宗の者からは布施を受けられない。
㈡ 慈悲の心で供養(悲田)されても、施主が法華信者でなければ三宝が冒涜され受け取れない。
㈢ 寺領、道路、水などは国主の供養(恩田)と考えるべきでない。国民として当然の権利であり、幕府が言う供養としては受け取れない。
と主張する。不受不施の正統性は日講の言う通りである。しかし徳川幕府の宗教政策は、不受不施派・キリシタンを口実に外様大名の取り潰しを狙っている。この難しい時代に自昌院満姫は、悲田派の道を選び、浅野家・加賀前田家の改易を逃れ、不受不施の法華信仰を貫いたのである。日浣・日講が肥後・日向に配流される寛文六年(一六六六)は自昌院四十八歳である。この年の一月江戸雑司谷に鬼子母神堂を建立する。子孫繁栄は表向きで、不受不施派に対する弾圧に対し、法華経の行者守護を鬼子母神に強き祈願を込めたに違いない。
寛文五年の「諸宗寺院法度」は次の内容である。
一、諸派法式の厳守
二、寺院住持の資格並びに新義説の禁止
三、本寺・末寺の制限
四、檀越との関係
五、徒党の禁止
六、国法に背く者の処置
七、寺塔修復の制限
八、寺領売買質入の禁止
九、師弟契約の制限
寿福院ちよ
寿福院ちよは、加賀百万石・前田利家の側室で、三代前田利常の生母である。越前の上木新兵衛の娘「千代」・「千代保」と言い、母は朝倉義景の家臣・山崎右京の娘と言われる。前田利家は加賀に移る前の領地が越前府中(福井県武生市)であった。寿福院はこの越前府中で元亀元年(一五七〇)に誕生する。母はのち小幡九兵衛に再嫁し、子の寿福院ちよは「小幡氏」とも呼ばれた。寿福院は前田利家の正室・芳春院まつ(お松の方)の侍女であった。豊臣秀吉の朝鮮出征に前田利家は、九州肥前国(佐賀県鎮西町)名護屋に滞在中、お松の方に「身の回りを世話する女子を一人派遣せよ」の手紙に、お松の方は侍女の中から選抜しようとしたが、誰一人九州の遠地に赴く侍女はいなかった。その状況を見てちよが「お役に立てれば」と承諾した。側室になって二ヶ月の時である。「本妻公認の側室」となり、ちよは利家の寵愛を受け懐妊し、金沢に戻り文禄二年(一五九三)十一月二十五日、利家の四男・猿君(後の利常)が誕生した。慶長六年(一六〇一)猿君は二代藩主・三十一歳年長・兄の前田利長の嗣子となり「利光」と称し、二代将軍・徳川秀忠の次女・珠姫(天徳院)と婚姻する。珠姫三歳、利光九歳の時である。この年、寿福院は実家上木家の菩提寺武生経王寺より兄・善住院日淳の弟子・養仙院日護を招き、金沢小立野に寿福山経王寺を建立する。越前経王寺の寺号を移したのである。慶長八年(一六〇三)二月、徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開いた。そして滝谷妙成寺を寿福院の菩提所とする。この前後の時代、武家政治の流れに重層するように宗教活動も大きな波をかぶるのである。天正七年(一五七九)五月、安土宗論により、織田信長は法華宗が他宗との論争を禁じ、文禄四年(一五九五)方向寺大仏殿が完成し、豊臣秀吉は各宗に千僧供養の出仕を求めた。しかし法華宗門は京都妙覚寺日奥が、その出仕を拒否し、宗門に受・不受問題が宗門を二分にする対立関係が生じてくる。その千僧供養より三年後、慶長三年秀吉は歿し、前田利家も隠退し、家督を利長に譲る。翌四年(一五九九)徳川家康は大阪城内で受派(日紹・日統)と不受派(日奥・日禎)を対論を行わせた。日禎は従い、日奥は不受義を貫き、謗法不信者の施を拒否したため対馬に流罪となる。翌慶長五年は関ヶ原の合戦(一六〇〇)。その次年、慶長六年徳川秀忠二女珠姫(三歳)と前田利常(九歳)の婚儀成立。外様大名として百万石を領する前田家の謀叛を封じるため徳川家康が画した婚儀であった。珠姫の侍女、特に「乳母の局」や付侍が徳川家の密偵として加賀藩に入ったのである。家康の側近・本多正純の弟・本多正重が加賀藩の筆頭家老として送り込まれ、近習に至るまで徳川寄りである。加賀藩の独立性を封じられ、取り潰しの改易を感じる危機の中で、寿福院ちよと三代・前田利常は激動の政治権力の流れに泳ぎもがくのである。関ヶ原合戦後、前田利家の正室・芳春院まつは、江戸へ下り人質として十五年間暮すのである。慶長十年(一六〇五)六月、十三歳の前田利常は兄利長(四十四歳)の後を継いで加賀三代藩主となる。三年後の慶長十三年(一六〇八)十一月、江戸城内において浄土宗と法華宗の宗論が行われ、常楽院日経、日顕、日寿、日秀、日堯、日玄師の耳・鼻が切り落され追放となる。日玄は出血多量で死亡する。いわゆる「慶長法難」である。また身延の心性院日遠師は浄土宗との対論を申し出て、家康より処刑を言い渡されたが、側室・お万の方の嘆願により助命された。
六年後の慶長十九年(一六一四)十月、大阪冬の陣、翌二十年四月は大阪夏の陣である。前田利常(微妙院)は冬・夏の陣に出陣する。前年に二代藩主前田利長五十三歳で寂している。瑞龍院殿聖山英賢大居士(十九・五・二十)。六月には、十五年間、人質として江戸滞在の芳春院まつ(利家の室、利長の生母)は江戸から高岡に帰り、利長の墓に詣で、利長夫人の玉泉院(織田氏)を伴って金沢に帰る。その前に寿福院は芳春院の「身代り」人質となる申出をし、その相談に江戸に下向した。誰も行きたがらない九州や江戸に出向くのは、困難に立向ってゆく法華経精神に通じている。
大阪夏の陣以後、平和の到来を期し「元和」と改元される。七月には「武家諸法度」、朝廷の力を弱めるため「禁中並公家諸法度」、仏教規制に「諸宗本山本寺法度」が制定され、元和二年四月に徳川家康が歿する。
この前後に寿福院は越前府中(福井県武生市)より実家の菩提寺・経王寺を金沢に移し寿福山経王寺とする(慶長六年・一六〇一)。前田利常は生母・寿福院の菩提寺を滝谷妙成寺と定め(慶長八年・一六〇三)、寿福院の兄・善住院日淳が滝谷妙成寺十四世を嗣ぎ(慶長十三年)、寿福院による妙成寺本堂、三十番神堂、同拝殿が着工される(慶長十九年)。日體覚書によると
「三十番神之本社並拝殿御建立、微妙院様(利常)大坂御出陣ニ付、為御祈祷寿福院様、微妙院様より慶長十九甲寅年被仰付、本社葵之紋被成置候、且又神前之杉者、寿福院様御意を以、従江戸杉苗到来、被植置候」
とある。慶長二十年(一六一五)四月、大阪夏の陣にて豊臣氏滅亡す。五月寿福院は妙成寺に参詣し、加賀藩の長久を祈った。日體覚書(宝永四年)には、
「寿福院様元和元年乙卯八月江戸御発駕ニ付、同年五月当山御参詣被為成、其砌三ケ国(加賀、能登、越中)永代御静謐、御武運長久之御祈祷可奉勤仕、当寺十四代日淳上人江被仰達、依之塔頭各々七条之袈裟等被成下候。」
とある。年号は慶長二十年が元和元年となり、八月寿福院は芳春院に代り、江戸に人質として住むことになる。この年、寿福院が発願主となり妙成寺五重塔建立が着工され、元和四年に建仁寺流の工匠坂上嘉紹によって完成する。
寿福院と同時期に活躍するのが、加藤清正、養珠院お万の方、心性院日遠、長遠院日樹師等である。現在の重要文化財となる建造物が、この時期に建立されている。慶長二年(一五九七)二代将軍徳川秀忠の疱瘡平癒を乳母の岡部氏(正心院日幸)が祈り、同十三年(一六〇八)池上本門寺に五重塔を寄進する。関ヶ原合戦の翌年、慶長六年(一六〇一)加藤清正が母の聖林院日光尼の冥福を祈って、四十間四面の池上本門寺大堂を落成する。現在の本門寺大堂が十八間半×十九・五間である。いかに大規模な祖師堂であったか想像できる。慶長九年(一六〇四)心性院日遠師三十三歳にて身延山二十二世に晋山。身池対論の論者たる長遠院日樹師が池上本門寺に晋山するのは、元和五年(一六一九)六月である。
蓮華院日心(家康歿後、養珠院)お万の方は、同じ側室の英勝院夫人と伊豆妙法華寺本堂を建立し(慶長十一年、一六〇六)、両親菩提のため昭長山本法寺を水戸に創し、静岡に蓮心寺を創す(慶長十四年)。身延に鐘楼を建立(同二十年)、駿河松野の寺(六老僧日持)を沓谷に移し貞松山蓮永寺と称し(元和元年)、伊豆吉奈温泉の真言宗廃寺を善名寺と再興する。蓮永寺本堂・方丈を建立(元和四年)。同六年には妙法華寺を三島の玉沢に移す。この事業に家康の側室英勝院、紀伊頼宣、水戸頼房、太田道灌の子孫道顕、養珠院の兄弟三浦為春、全国末寺八十余ヶ寺、幕府の援助により、妙法華寺は二万坪の境内に十八間四方の本堂、五重塔、七堂伽藍、二十四の支院が並ぶ壮大な大本山となった。しかし約百七十年後の寛政三年(一七九一)に多くが焼失した。身延に丈六釈尊像、千体仏を造立し、大野山本遠寺本堂を建立した(寛政三年・一六二六)。
五重塔建立に関しては、寿福院と前田利常は、前田利家追善のために元和四年(一六一八)十月、能登滝谷妙成寺に五重塔を建立。翌年(一六一九)十月、身延にも五重塔建立する。両塔は現在では三十億円に相当すると考えられ、膨大な資金提供である。一寺は不受不施派の寺院(妙成寺)であり、一寺(身延久遠寺)は受不施派の寺院である。寿福院の信仰は不受不施義の池上十六世長遠院日樹の教化に基づいていた。身延の五重塔は、寿福院の利家追善は勿論のことだが、徳川による加賀藩取り潰し(改易)の口実─不受不施義の追求─を回避するための高度な政治判断が一面に有ったと考えられる。身延五重塔より三年後の元和八年(一六二二)七月三日、前田利常の室・珠姫(二代将軍秀忠の二女)天徳院殿乾運順貞大姉(三十歳)が死去し、七月二十日、利常と寿福院は本阿弥光堂に資金援助し、不受派の中山法華経寺に五重塔を建立するのである(棟札・日本建築年表)。更に京都妙顕寺にも五重塔を寄進している。そして同年八月、不受派の池上比企十六世日樹の鎌倉妙本寺客殿を寿福院は建立している(棟札)。
慶長六年(一六〇一)加藤清正による池上本門寺大堂(四十間四面の巨大堂)は、建立から十九年目の元和五年(一六一九)十二月、本堂・庫裡客殿が炎上した。日樹が池上入山して半年の事である。日樹は寛永五年(一六二八)十一月、池上本門寺大堂再建の勧進をする(遺滴新目録)。この再建にも寿福院は日樹に再建資金を奉納し、一年後の寛永六年十一月に大堂(祖師堂)再建されている(二十五間×二十三間)。通常では考えられない猛スピードの工事日程である。
祖心尼なあ
祖心尼なあの父は、伊勢国田丸城主牧村和貞、豊臣秀吉の朝鮮出征の時、五歳の娘を前田利家に頼んで出征し戦死する。前田利長(二代)が養父となり、のち前田直知に嫁ぎ、慶長十三年(一六〇八)町野幸和に再嫁す(二十一歳)。町野幸和は名将蒲生氏郷(会津藩主六十万石)の家臣、二代蒲生秀行の室は、徳川家康の娘・振姫である。祖心尼なあは寛永十九年(一六四二)大奥に入り、従姉妹となる春日局に協力する。春日局亡きあと、祖心尼が江戸城大奥を一切取締るのである。なあが町野家に再嫁して四年後、主君蒲生秀行が二男一女を残し急逝した。秀行の室・振姫は徳川家康の娘であるため、遺児の蒲生忠郷と忠知は、「松平」姓を賜り、会津六十万石を襲封した。その後家康は振姫を紀伊三十七万六五〇〇石の浅野長晟に再嫁させた。更に長晟は広島安芸に移封した。振姫の一子たる光晟(浅野本家)が二代芸州広島藩主となる。
祖心院なあの孫姫(不利)は将軍家光の側室に上り「振局」と呼ばれ、法号は「自証院」となる。振姫の一女・千代姫は二歳の時、尾張徳川光友に嫁す。千代姫の母・振局(自證院)は寛永十七年(一六四〇)八月二十一日寂。牛込榎町日蓮宗法常寺に葬り、のち寺を市ヶ谷に移し、自証(性)寺と改める。
祖心院なあが町野幸和に再嫁した慶長十三年(一六〇八)、この年より幕府の法華宗弾圧が始まる(慶長法難・常楽院日経師、身延日遠上人の安倍川に磔刑)。祖心尼なあの年令は、寿福院と振局(自證院)の中間である。
江戸城大奥の女性は多くが法華宗不受不施派信者であった。祖心尼なあは養祖母となる前田利家の側室・寿福院ちよの法華信仰を見て育ったと考えられる。法華宗の不受不施信仰とキリシタンは邪教と言われ幕府より弾圧された。キリシタンの高山右近(一五三三─一六一四)は領地を没収され前田家に身を寄せていた。祖心尼の夫・町野幸和(一五七四─一六一四)が仕えた主君・蒲生氏郷(一五五六─一五九五)もキリシタン大名であった。なあの祖父・稲葉重通は臨済宗崇福寺の檀家であるが、祖心尼の内信仰は法華信仰であり、キリシタン信仰にも注目していたと考えられる。
自昌院満姫
自昌院(満姫)の父は、加賀百万石三代藩主・前田利常、母は二代将軍・徳川秀忠の娘・珠姫である。慶長六年(一六〇一)、数え三歳で前田家に嫁した珠姫は、二十四歳で死去するまでに三男五女を生む。十五歳の慶長十八年(一六一三)に長女亀鶴姫を生み、元和五年(一六一九)に六人目の満姫を生んだ。満姫六歳の寛永元年(一六二四)、十二歳の亀鶴姫、四歳の富姫と共に、祖母の寿福院ちよに従い江戸の前田家上屋敷(現・東京大学)に移った。これは慶長二十年(一六一五・元和元年)より、寿福院は江戸に上り、前田利家(初代)・江戸在住の正室まつ(芳春院)の「身代り」人質となり、徳川家に従順を示し外様改易をのがれ、芳春院を金沢に帰す寿福院ちよの策であった。その江戸に寛永元年(一六二四)珠姫の娘三人(亀鶴、満、富)を呼び、祖母が孫を養育するのである。
自昌院・満姫が生れる四十年前には安土宗論(天正七年・一五七九)があり、浄土宗と法華宗の宗論があった。満姫の生れる二十四年前(文禄四年・一五九五)には京都東山の方向寺大仏殿落成の豊臣秀吉による千僧供養の出仕問題に、京都妙覚寺の安国院(仏性院)日奥の出仕拒否による宗門を二分する、不受不施派と受不施派の対立が生じた時代であった。日奥は対島に流罪され、そののち常楽院日経等の「慶長法難」(慶長十三年・一六〇八)があった。赦免された日奥は、受不受の立場にある養珠院お万の方と対立を深め、寿福院ちよは、身延・池上の和解に務めたが不調に終る。池上本門寺には日奥の影響を受けた長遠院日樹が貫主であった。日奥・日樹は備前法華の出身である。その日樹を師として支援したのが寿福院ちよ、加藤清正などである。その寿福院の法華信仰を見て育ったのが自昌院・満姫である。祖母の寿福院と江戸で暮した六歳の満姫は十二歳の時、祖母・寿福院が寛永八年(一六三一)三月六日、六十一歳で死去した。この年は宗祖三五〇遠忌である。その年に前田家は幕府より謀反の疑いをかけられ、前田利常は嫡男光高を伴って江戸城に入り謹慎し、嫌疑を晴した。その前後に満姫の安芸(広島)四十二万石・浅野光晟(松平安芸守)の縁談がまとまり、満姫は家光の養女として寛永十二年(一六三五)に輿入れした。満姫十六歳であった。浅野光晟の母は徳川家康の三女振姫である。最初、蒲生秀行の妻となり二男一女の母であったが、秀行の急逝後、徳川家康は蒲生家から振姫を戻し、当時紀伊三十七万六千五百余石の浅野長晟に再嫁させ、うまれたのが安芸広島藩主二代の浅野光晟である。
この時期、江戸における法華宗不受不施派の布教拠点が確立される。不受不施の小湊誕生寺の末寺拠点が四谷千日谷に妙円寺が創建される。
寛永四年(一六二七)四谷千日谷に妙円寺創建(不受不施派)
同 五年、赤坂紀伊徳川家屋敷内に久遠寺末の仙寿院創建(受不施派)
同 六年、千駄ヶ谷に寂光寺(不受不施派)
同 八年、赤坂より青山権田原伊賀町に立法寺(不受不施派)移転する。
幕府は不受不施派の活躍に寛永八年(一六三一)十月、新地に寺院建立を禁止した。寿福院が歿したこの寛永八年は、将軍家光が弟の忠長を甲斐に幽囚し、翌年改易にする。同九年一月、二代将軍だった徳川秀忠が死去し(五十四歳)、五月には加藤清正の嫡男・忠広が改易され山形庄内の鶴岡、丸岡に配流される。
将軍の娘が嫁ぐとき、化粧料とか賄料が与えられる。江戸の古地図(安永年間)に「松平安芸守抱え屋敷」と記されている場所が、満姫(自昌院)が拝領した「隠田屋敷」である。「東京市史稿」には
「隠田屋敷拝領は延宝以前(一六七三)。拝領の時既に熊野権現社あり」
とある。青山の浅野本家・安芸広島藩四十二万六千石の松平安芸守「下屋敷」の下方に隠田川があり、それを越えると長泉寺、越後糸魚川藩一万石の松平日向守下屋敷がある。その隣地が熊野権現社である。その熊野社を囲むように自昌院の「隠田屋敷」がある。現在の「神宮前六丁目33番地」の辺りである。浅野家が原宿に下屋敷・隠田の抱え屋敷を拝領するのは、寛文四年(一六六四)である。
寛永十二年(一六三五)十七歳の満姫は老中土居大炊頭利勝・酒井雅楽守忠世に伴われ江戸城より霞ヶ関の浅野家上屋敷へ嫁いだ。この当時の将軍家の宗教環境は、男性は天台宗、女性は浄土宗である。酒井雅楽頭の女性達に法華信者もいた。大奥の女性達にも多くの法華信者がいた。谷中感応寺は日蓮聖人が鎌倉より安房・下野塩原等へ往還する際、関小次郎長耀の家に宿泊した因縁により草庵となり、岩本実相寺の中老僧日源を開山として感応寺が創建され、当寺九世日長の代に三代将軍家光と英勝院の外護を受け寛永十八年(一六四一)には、二万九六九〇坪の寺領となり、谷中感応寺は、五重塔、三十番神堂など坊舎二十数所の不受不施派の名刹となった。寛文年間(一六六一)に不受不施派は抑圧され、元禄十一年(一六九八)に不受不施の悲田派(寺領は仏法の慈悲を以て与えられたもの)を幕府は禁じ、日蓮法華宗の感応寺は天台宗に改宗され、「護国山天王寺」と改称された。天保四年(一八三三)十二月七日の事である。しかし大奥の法華宗徒の女中連の協力により、十一代将軍・家斉と中野美代の外護により雑司谷安藤下屋敷(目白四丁目・二万八六〇四坪)に新感応寺が建立され、池上本門寺四八世日萬が開山となった。これが「鼠山感応寺」である。この工事中、大奥の女中連が木材を担いで運んだと言い伝えられている。それだけ江戸城大奥の法華信仰は盛んであった。この鼠山感応寺ものち廃寺にされ、木材は比企谷妙本寺に預けられる。明治八年の身延山大火により祖師堂を失った久遠寺は、明治十四年(一八八一)鼠山の木材で十六間×二十二間の身延棲神閣(祖師堂)が再建され現在に至っている。
満姫が浅野家に嫁ぎ、嫡男綱晟が生まれた寛永十四年(一六三七)には、井上河内守正利・久世三四郎・酒井山城守らの外護で玉造檀林蓮華寺(千葉県香取郡多古町南玉造)が再建された。久世氏は本郷丸山町の勝劣派(法華宗陣門流)本妙寺の有力檀越である。不受不施派の誕生寺十六世日領が流罪、十七世日税は自害、十八世日延が流罪となった。その後を継いだのが玉造檀林を再建した誕生寺十九世日遵である。日遵は身池対論で信州伊那に流罪となった池上本門寺・長遠院日樹の弟子である。日遵は身延久遠寺の支配下になった中村檀林を不受不施派に取り戻すことが出来ず、日樹の指示で玉造檀林を再興するのであった。日遵は徳川家光の息女・千代姫の外護を受け、誕生寺に七十石の寺領を給う。
徳川家と加賀前田家の法華信仰する女性に同音の法号を有する二人の姫がいる。寿福院ちよの孫娘・自昌院満姫と祖心尼なあ(前田利長の養女・春日局亡きあとの大奥実力者)の孫娘・自證院振局(徳川家光の室)である。二人の「ジショウ院」たる満姫と振局は従姉妹同士であり、寿福院の不受不施の法華信仰をみて育った。振局は三歳の千代姫が尾張・徳川光友に嫁したのを見届けて寛永十七年(一六四〇)八月二十八日寂した。家光は振局の菩提寺を市ヶ谷に法華宗自性(證)寺を建立し二百石を扶持した。従姉妹の満姫はのち、赤穂浅野長直の室と自分の嫡男・浅野綱晟(疱瘡死)を自性寺に埋葬するのである。法華宗自性寺は寛文五年(一六六五)の不受不施派弾圧により天台宗自証寺と改宗させられる。その前の自性寺の二世として入寺したのが先の小湊誕生寺十九世・玉造檀林蓮華寺を再興した日遵である。日遵は江戸に不受不施派の活動拠点を自性寺に求めたのである。この当時、不受不施派の寺院は江戸に二一二ヶ寺あったと言われる。この日遵より自昌院満姫は法華法門を聴聞していただろう。自昌院が浅野家「隠田抱え屋敷」にて写経した妙法蓮華経八巻は万治二年(一六五九)二月三日である。二年前の明暦三年(一六五七)一月の「明暦大火」による焼死者十万八千人、翌年の万治元年(一六五八)に自昌院の父・前田利常が死去した追善と国家安全を期しての写経であった。この法華経写経八巻を寛文元年(一六六一)六月一日開眼したのは、日遵の後継者たる玉造蓮華寺日浣(明静院)である。自昌院はこの法華経を熊野権現社に奉納し、法華信仰を増進した。自昌院の紋は梅鉢紋であり、のち自昌院の法華経八巻が納められるのは原宿神宮前の妙円寺である。寺紋は梅鉢紋である。熊野社の別当寺が妙円寺だった可能性もある。関東大震災に被災、東京大空襲で全焼した妙円寺住職は、唯一持ち出したのが自昌院法華経である。関東大震災で被災した熊野権現社は再建を断念し、そのとき妙円寺に自昌院法華経が移管されたと考えられる。