現代宗教研究第43号 2009年03月 発行
大陸における日蓮宗の活動─満州事変以降の二つの問題を中心に─
第九回日蓮宗教化学研究発表大会
大陸における日蓮宗の活動
─満州事変以降の二つの問題を中心に─
坂 輪 宣 政
はじめに
本稿では発表大会での発表のうち、日蓮宗と日本山妙法寺との満州での布教に関する問題と本山貞松蓮永寺の満州への移転計画問題の二点を取り上げる。日蓮宗の戦前満州での布教に関する問題を考察する上での大切な問題ではないかと考えるのである。
(一)日本山妙法寺との問題
第二次大戦前の日蓮宗の大陸における活動のなかでも特に注目される事件の一つに昭和十年の神保日静管長の満州親教がある。この親教については別に稿を改めて述べたい。
ここでは昭和十年の親教に関連して日本山妙法寺の藤井日達師が、神保管長を非難した事件をあげる。すなわち神保管長が満州親教の際に満州国の有力者に働きかけて日本山妙法寺への弾圧をさせた、という主張である。藤井日達著『仁王護国抄』(昭和十二年)にその一件は記されている。
藤井は同書の中で、神保管長が満州へ来て以来日本山への官憲の圧力が強まったので、既成教団である日蓮宗からの妨害であろうと記し、「若し、たとい阿錬野の管長が公処に向かって我が悪を説かざりしと云うも」などと激しい表現を多用して強く非難している。その発端となったのは、満州にいて大連布教所の留守を預かっている信徒杉崎浩一からの藤井への書簡である。満州関東局教育課長が布教所をたずね、「大連日本山妙法寺はいずれの宗務院にも在籍せず、官庁において適任なりと思量せらるる代理者を配置せざる現状があり、右二項を以て推移することは黙許し難い」ことを述べて対処を迫ったというものである。藤井は日蓮宗が日本山妙法寺の満州での布教を妨害するために関東局を利用していると非難しているのである。
この問題について、中濃教篤も「これは当時満州布教の督励に渡満した日蓮宗管長から出た日本山妙法寺を廃寺にすべしとの申し入れを背景にするものである」と藤井の説を真実としている。つまり、神保管長が満州巡錫をした際に、当局要路者に対して妙法寺を廃止してほしいと訴え、それが一つの背景となって、翌年五月に満州国関東局教育課長が妙法寺の布教所を訪問して法律上の不備を詰問した、という内容である。
また、戸頃重基も『近代社会と日蓮主義』において同様の見方をしている。
すでに日蓮宗は一九一九(大正八)年、宗規を楯にとって日本山が満州では寺院建立のできないよう民政署に訴えていたが、満州事変後も、関東局教育課長の杉岡定治は、日本山妙法寺の信者杉崎浩一をたずね、日本山妙法寺を廃寺にすべし、と申し入れていたほどである。三六(昭和十一)年のことであった。この申し入れの背景には、当時、満州布教を督励するために渡満した日蓮宗管長の圧力があったのである。しかし藤井山主は、「今末法に入って九百年、日蓮宗々務院管長等非法非律を制作し、剰へ満州に渡りて公処に向て法をり人を謗り日本山妙法寺を廃寺せしめんと欲す、あに三類の強にあらずや」と喝破(中略)ただ日蓮宗が、官権と結んで日本山妙法寺の大陸進出を押えにかかろうとしたのは卑怯でもあれば愚劣でもあり、そのうえ大陸進出にたいする自信喪失をばくろしていた、といわなければならない
と厳しい表現をしている。但し、両書ともに藤井の著作以外に論拠を挙げて居らず、以前に日蓮宗の満州開教監督が日本山の布教をとめようと民政署に訴えたことからも事実であろうと推論しているだけのようである。
はたして、神保管長がこのような要望をしたのであろうか。筆者は実は藤井の推測は誤りであり、妙法寺への宗教行政当局の圧迫は当時推進されつつあった満州国の新たな宗教行政を背景としてしたのであろう、と考えるのである。
ここで、日本山妙法寺の満州での布教について略述する。藤井は大正六年に初めて満州での布教を行い遼陽に寺院を建立した。大正八年には満鉄の無償敷地貸付で大連に妙法寺を建立した。『仁王護国抄』では「就中満州の仏教寺院は各宗一律に、其の建立に当りては一軒の寺院なりとも満鉄公司の補助を仰ぎ沿線信徒の寄附を募らざる者は無かりしに、ひとり日本山妙法寺のみは大連を初め沿線各地の寺院建立にも未だ満鉄の補助も受けたることも無く、汎く沿線信徒の寄附を募りしことも無く、偏に正法の護持建立の為に精進し、‥」と満鉄の助力なしで布教していたと称する。しかし、『西天開教日誌』では満鉄の援助により寺院を建立していたことを自ら述べている。すなわち、大正八年には満鉄から土地を無償貸付されて大連向陽台に寺院を建立した。土地貸下は法規により難儀し数年間繰り返し却下されていたが、ついに財務課長の知音を得るに及んで貸し下げを受けることが出来た、という。「日蓮宗教報」一五八号の昭和四年五月の平間寿本視察談によれば、この日本山妙法寺は総坪数一万坪余の広大なものであったという。藤井は帰国中で責任者も外出中で現地の幼童一人のみが留守番であったとしている。
また、藤井は昭和五年九月十三日・同十八日には「満鉄本社地方課土地係主任に会見して、日本山妙法寺の布教方針を弁じて、奉天の道場の敷地貸下の承諾を求め」た。九月十八日には奉天の道場について「今日すでに開堂供養をいとなむべかりしが、魔障ありて満鉄その敷地の貸下げを拒む」と満鉄に拒否された。理由としては、中国人に布教するなら満鉄の附属地外で敷地を求めてほしい、すでに日蓮宗の布教所があるので同一市内に同宗の寺院建立は不必要である、の二点が骨子であったという。このときも藤井は日蓮宗が「悪計」をもって度々妨害をしたためでもあると推測している。こういったところでも藤井は推測によって日蓮宗に対して不満を募らせていたのであろう。また、当時の日本山の満州での布教に従事した富高行保は日本山妙法寺について、「宗教団体としては規格はずれのところが多く、これを理由にした排斥の動きがいつもあった」としている。日本山の布教は現地人を主な対象とした布教であったことは著名である。この昭和十二年頃の当局からの圧力をくぐりぬけて布教していった結果、布教所数は増加し、昭和十八年の『満州年鑑』の統計では計二百カ所にも増加していた。同年の日蓮宗は三十一カ所であり、日本仏教の合計四百八十九カ所の四割強をも日本山妙法寺が占めている。現地の人々を中心とした姿勢によるのであろう。
またそのころ、日本山と日蓮宗の間にはほかにも問題があった。ハルピンの妙法寺布教所の件である。藤井はこの一件についても、『仁王護国抄』に仮称を用いて述べている。同書によれば現地に派遣されていた日本山妙法寺の僧侶吉田が現地信徒にだまされて曼荼羅の写真版を売るなどして、問題となった。「この事情を調査したる官憲はたまたま渡満せる神保管長にそそのかされて、ついに日本山妙法寺廃寺計画を立て」た、とここでも藤井は管長の計略があったかのように記している。また、日蓮宗について「既成集団日蓮宗は猟師の袈裟を着たるがごとく、日本山の信徒を訪ね回って口を極めて日本山の悪を説き、自ら」を正統教団と述べていた、と記して非難している。藤井説では、妙法寺ハルピン布教所の担任であった「吉田某」が、「規制宗団に改宗すればそのまま布教道場を経営させてやるというので、」改宗してしまった、という。その吉田を日本山満州担当の行東が破門して吉田が内地へ送還されたところ、日蓮宗布教師の宍倉が日本山道場へ担任として入ってきて道場を乗っ取ってしまった、と藤井日達は憤慨している。「本尊、仏壇、仏具から茶碗、箸に至るまで、私に何の相談もなく忽然と既成宗団日蓮宗に変えてしまいました」「一般の信徒も何の事とはなしにそのまま既成宗団日蓮宗の檀家となりました」とあって不法行為によって被害を受けたと述べているのである。
この一件については日蓮宗では担任の在家信徒が日蓮宗に帰依したので、満人信徒多数もついてきた、と発表している。日蓮宗教報四一号(昭和十三年十一月十日)では
満州国ハルピン布教所主任宍倉存明師は、同地にありて教線拡張に努力中なるが、日本山妙法寺の竹内峰治氏が宍倉師の徒弟になりて本宗に帰属せしより賓県百十七名、海愉県十七名、望奎県五十名、方正県百二十名、巴彦県七十六名の満人信徒も亦同布教所に帰属し、同師により本宗の教化を受けつつあり。同師の満人信徒は濱江省下にて三百八十名に及び本年は三江省方面に教線を拡張中なるが同師今後の活躍は期して待つべきもの多大なり。
と伝える。文中の竹内が藤井のいう「吉田某」のことであろうか。宍倉の「満人信徒」三百八十名は全て日本山の信徒を引き継いだものであることがわかる。藤井説とはかなりの相違があるが、この点については資料からは詳細は不明としかいいようがない。筆者は教報の記事のほうが事実に近いのではと考える。
細かい事実関係はともかくとして、日本山のような帰属や統制の曖昧な宗教団体を既成宗団に統合してゆくことは、当時の満州国当局、ひいては日本当局の政策の一環であったのではなかろうか。日本型の教団への統合は満州国政府の新たな宗教政策の現れの一つであったのであろう。そして、後述するように従来満州にあった曖昧な形態の寺廟や宗教団体も同様に規制され、何らかの形で明確に政府の統制下におかれるようになっていったのであろうと思われ、妙法寺のような既成教団と異なる団体にその影響が最も強く表れたのではなかろうか。
この事件の解釈に一つの新しい視点をもたらすのが、孫江『近代中国の革命と秘密結社』である。同書は近代以前から中国に存在していた宗教的な要素を持った民間団体について述べている。半分は宗教集団でありながら、慈善団体でもあり、反権力ともなりうる秘密結社でもある「会」や「道門」の歴史や活動である。ここで孫は、戦前満州の紅十字社や紅槍会、太刀会などについて、日本官憲がその活動を危険視し、宗教団体の規定を厳格化して規制を加えようとしたという視点から満州国時代の宗教統制を考察している。特に弾圧を受けた大本教の教主が満州へ逃亡して紅十字社と合体するという可能性を当局が恐れたのが、当時の宗教政策にも影響を与えたのではないか、と考察している。孫の説のうち、中国の「会」や「道門」を日本や満州の当局がどの程度重視していたのかという点については再考の余地があるかと思われるが、曖昧な形での宗教の存在を強制的に整理し、統制しようという姿勢であったのは間違いがないと思われる。確かに当時の満州国当局は宗教団体の定義を明確化して、それを国家の認可によって統制しようとしている面がある。満州にも日本と類似の宗教法を適用し、日本と同様の各教団が管長を頂点とする形態をとって官憲からの命令一下対応できるようにしたいと考えていたのであろう。昭和十年に神保管長が満州を訪れた際にもその点について諮問をうけたことがあった。関東軍司令官南大将は参謀吉岡安直大佐を管長のホテルへ派遣して宗教行政について尋ねたのであるが、そのなかに「所謂淫祠邪教の処置」があった。管長は弾圧を加えることには極力反対の旨返答したのであるが、この頃からすでに曖昧な民間信仰への整理政策が検討されていたのであろう。
満州国の宗教行政についてであるが、昭和九年五月一日付朝日新聞の記事では、満州国の宗教事情について西山正猪満州国文教部総務司長(前職は文部省宗教局長)が記者のインタビューに応えたなかで、国教については国内の宗教の実情が判らず決めかねていると述べ、さらに「ご承知の様に満州国においては仏教、儒教、回々教、喇嘛教、シャーマン教その他幾種かの宗教があり、之はただ雑然として存在し国民が一般にどの宗教を一番多く信仰しているのかという事さえも判っていない」ので目下調査中だと述べている。こういった当局者でさえ実情を把握し切れていない状況であったわけである。また、そういった中で、管長の満州親教や満蒙開教方針が決定されていたわけである。
その後、『満州国文教年鑑』が全国的規模の調査によって作成された。同書は文教部礼教司によって三次にわたって編纂された当局者のための資料である。第一次は実に千五百ページの大部で、大同一年三月から同二年六月までの教育・宗教に関する調査を編纂したものである。同第二次は同二年十二月までの調査で、約六百五十頁、同三次は七十頁と統計編二百八十頁にまとめられている。次第に記述がまとまってきてページ数も減り、第三次は樺太とほぼ同様の体裁でよく整備された統計が主となっている。第一次から比較してみると、調査が進むにつれて把握した寺廟数も大変増加しており、調査の結果当局が次第に実情を把握していった様子がよくわかる。
第三次の満州国内の仏教についての記述では、在来仏教を禅・天台・華厳・三論・浄土・密・律・法相・臨済・曹洞に区分している。派別は雑多で混交しており「各教各派の独創により今日まで継続し来れり」と寺ごとの独立性が高く、教義にもとづく集団性が極めて低いなどの日本の仏教教団との性格の相違を指摘している。こういった状況を日本的な構造に変化させようとしていた様子は先行研究にも論じられている。また、僧侶・道士については知識不十分、しかも統一的組織なしと評し、隠遁的で社会に貢献すること少なしと批判している。出家の理由としては「幼年の多病で捨身して福を祈る、事業に失敗し甚だしく精神上に打撃を蒙り厭世の結果出家。身に罪悪を負い懺悔のため仏門に入る」などが多いとしている。僧侶の社会的地位はむしろかなり低いものである、という観察がある。
また同書には宗教の位置については「正当なる宗教には一定の宗旨、一定の教条あり。人に善を勧め悪を戒め既往の過を改めて死後の幸福を祈り、現世に局限せず、国境を分たずと雖も、国界に害をなさず」などという記述もあり、また宗教を国権の統制下にあるものと規定し、満州国の国是に違背するものは許可しない、という態度を一貫して強く示す内容がある。
さらに当局が「(満州国)成立以来努めて邪教を防ぎ、淫祠邪祠を廃止し、以て正しき宗教進展を助成すべく、先ず之が調査に着手し、漸進的方法を以て改善に努力し、宗教の統一を期しつつあり」と、宗教整理を行い宗派的な統一を助長したり、慈善団体や結社のような類似宗教を処断したり、曖昧な廟宇を廃止させたりしたことを述べている。康徳二年には「寺廟規則」も出来ているように、この時期に満州国の宗教行政の方針が確立したといってよいのであろう。前述するように神保管長は吉岡中佐にこのような整理政策には反対であると告げたようであるが、実際にはこのように実施されていったわけである。
さらに、昭和十二年十二月には治外法権撤廃・満鉄付属地行政権の満州国への委譲が行われ、同十三年九月二十四日には「暫行寺廟及布教者取締規則」が実施され満州国の寺院行政が確立する。そして、昭和十四年五月の満州国仏教総会の設立に至る。日本山も満州国仏教総会設立に際し三百円を拠出している。補助金の総額は六千円で、日蓮宗は五百円であった。
以上のように考えると、満州において宗教統制策が進展したことが日本山妙法寺の布教所に関する諸問題として現れてきたのであろうと考えてよいと思われる。信徒杉崎氏が関東庁教育課長から詰問されたことやハルピン布教所が日蓮宗に衣替えしたのもそういった背景があったためであろう。
その背景として、前述の満州国の宗教調査とそれに基づく新規の宗教政策がその変化をもたらしたものであろうことは、容易に想像がつく。宗教教団への厳格な管理体制を文教部が目指していた為であろう。
藤井『仁王護国抄』に引用されている信徒杉崎の書状に「尚お、昭和六年の満州事変後、満州国建国せられ万般の御在連時代には想像をも為し得ざる程度に画期的変化を来し」とあり、近年になって宗教行政が大いに変化している様子を伝えているのもそのような事情を内地にいる藤井に伝えようとしていたのであろう。しかし、藤井はそうはとらずに日蓮宗の裏工作と思い込んでしまったようである。この昭和十一年の一件はほかに藤井説の証拠となるものはないようである。
このように考えてくると、結論として、神保管長が有力者へ裏面から依頼して妙法寺を弾圧させようとした、という『仁王護国抄』の藤井説は正しくないとして良いのではなかろうか。
藤井の前著の主な内容は宗教の国家への従属を否定するという点にある。本来の仏教は藤井の主張の通り出世間であり、当時の日本官僚が当たり前と思うような体制、つまり管長があたかも役人の許可を得て宗門を率いて国家に従属するような状況こそが異常なものであり、むしろ満州国建国以前の満州の宗教の方が本来性のものではなかろうかとも思われるが、とりあえず、この神保管長への疑惑は濡れ衣であったと判断するのが妥当であると考えるのである。
(二)蓮永寺と満州
満州において日本の勢力が増大し、在留日本人が増加してゆくにつれ、満州の日蓮宗も発展していった。その動きの中で、日持上人の建立した本山である貞松蓮永寺を満州へ移転しようという運動が幾度かあったらしい。このことについて、いくつか目にした記事をもとに見てゆきたい。
『中外日報』昭和十年五月七日付によれば平間寿本貫首が四月二四日に満州へ赴き、新京に二千五百坪の土地を取得して満州へ完全移転したいとの意向を示したという。日持上人も満州へ本山移転の希望を持っていたはず、との貫首の意向があったという。小泉日慈・丹澤日京の各貫首の時代にも移転を策したが、いずれも檀家の猛烈な反対にあって挫折したともある。平間貫首は五月十四日に帰着して相談の予定、と報じている。明治四十四年一月に丹沢日京貫首は佐野前励宗務総監と協議の上、蓮永寺を満州に移転せんとし、臨時宗会に諮るも、否決されたことがあった。
『朝日新聞』満州版の昭和十年五月三日付でも蓮永寺の移転について
静岡市沓の谷の日蓮宗名刹蓮永寺を満州に移転することになり、住職平間壽本師は新京に買収した二千五百坪の敷地の検分ならびに建築打合せのため去る二十六日渡満したが本月十四日ごろ帰来することになった。蓮永寺は日蓮の高弟日持上人の開山にかかるもので日持上人は今から六百四十年前樺太からシベリア、満州に渡り布教を行ったが中途で倒れ今も松花江、黒竜江沿岸では日蓮宗の団扇太鼓をたたく風習を残しているので日持上人の遺志を実現するため満州に日持派本山たる蓮永寺を移転することになったものである。(静岡)
としている。
両新聞の記事は蓮永寺の移転がかなり具体的に語られており、実現の可能性も高いように書かれている。当時の平間貫首は海外布教に意欲的であり、今回も話だけではなく実行を考えていたのであろう。
この移転については宗会でも決議がなされていた。
(「宗報」二百二十号)
尚此の席を利用して御賛成願いたい事は昨日管長猊下の御話の通り海外布教の大先達日持上人開基たる本山蓮永寺を満州新京に移転する事は重大であり且意義のある事と存じます。幸い、此の席に平間大僧正も御出でで御座いますから此に対する僧正の御意見も御伺いました上で希望決議をして頂きたいのであります。
○六番(平間)
只今教学部長より御話がありました蓮永寺移転の件に関しては昨日も管長猊下御臨場の上御希望でありましたが、私は蓮永寺住職といたしまして本件に満腔の誠意を以て賛意を表する次第であります。これは長年の懸案でありまして前住職小泉日慈上人も深く其の実現を期待して居られました。又明治四十四年佐野前励僧正の時代第五臨時宗会に於て蓮永寺を朝鮮平壌に移転する事を決議されたこともありました。然し今日更に日持上人の御意志を継ぎ上人大陸遊化の足跡地たる新興満州国国都に移す事は意義益々重大であります。さり乍ら本件を実際問題として具体的工作をする手続形式は可成り面倒で困難な事でありますから追々に当局とも相談して万全な策を講じたいと思います。尚皆様に御願い致します事は是の移転に関しては莫大なる経済的問題も伴う事故、其の際全宗門の御援助を俟たなければ完成困難と思います。何分よろしく御願い致します。
○四十一番(柴田)
只今六番議員が蓮永寺住職として誠意ある賛意を致された事は真に欣快に耐えません。本員も衷心より賛意を表する次第であります。然し是が実現に当たりては経営、設備等に充分考慮を払はねばなりません。依て此を一日も早く実現せしむる為には全宗門より成る協賛機関を設けたいと思います。又、宗会議員全員賛成の意を表する為め、決議文を作成する事を希望します。
(ここで議長の促しに応じ柴田議員は決議文腹案を述べる。蓋し予め用意してあったもので管長はじめの同意が予め取り付けてあったのであろう。その決議文とは以下のようなものであった。)
決議文
満州国の建国を好機として日持上人の遺業を継承し大陸化導の祖意を徹底せんが為本山蓮永寺を同国々都に移転する事及び是が実現に当たりては適当の協讃機関を設け事業を達成せしめん事を希望す
右決議す
決議文は満場一致で可決されたのであった。日蓮宗が満州国建国を布教の好機として満州への進出を意図していたことはよくうかがえる。実際に満州大連に建立された蓮永寺の末寺は本国に送金するほどの繁昌ぶりであった。満州国の建国により布教権が得られて日本仏教の布教が認められるようになるという見通しのもと、このような案が出てきたのであろう。しかし、実際には宗会での決議までなされながら移転はなされなかったわけである。その理由はわからないが、やはり費用と満州国の事情、そして檀家の反対と思われる。蓮永寺の移転問題については以上のようにごく簡略に記事を引用する形となったが。当時の人々の意識をうかがうこともできる内容である。
まとめ
日蓮宗の満州布教をめぐる二つの問題についてごく簡略にではあるが述べてみた。当時の日蓮宗の満州への取り組みを考える上での資料となりうるのではないだろうか。今後さらに考究を深めたいと思う。
※1 藤井行勝『仁王護国抄』1937年 日本山妙法寺出版部
※2 中濃教篤『近代日本の政治と宗教』アポロ社 1967年 藤井と日本山妙法寺が特務機関とも関係していたことにもふれている。
※3 戸頃重基『近代社会と日蓮主義』評論社 1972年
※4 藤井日達「西天開教日誌」 『藤井日達全集 三巻』隆文館 1996年
※5 富高行保 「日本山妙法寺の中国大陸布教」 『講座日本近代と仏教・6』1977年
※6 孫江『近代中国の革命と秘密結社 ─中国革命の社会史的研究』汲古書院、2007年
※7 木場明志「満州国の仏教」 『思想』2002年11月
※8 松村寿顕 「日蓮宗における満州開教の状況」 『講座日本近代と仏教・6』1977年