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現代宗教研究第43号 2009年03月 発行

『瑞相御書』における宗祖の依正不二思想

研究ノート

『瑞相御書』における宗祖の依正不二思想
小 瀨 修 達
 
 
 一、序
 二、佐前における依正不二思想
 三、『瑞相御書』対告者、四条頼基について
 四、『瑞相御書』本文《「地動瑞」の説明》
 五、『瑞相御書』本文《宗祖の依正不二思想》
 六、妙楽大師「依正不二門」《依正不二の出典》
 七、本時成道と身土不二
 八、結
 
一、序
 「仏法やうやく顛倒しければ世間又濁乱せり。仏法は体のごとし、世間はかげのごとし、体曲ば影なゝめなり。」
『諸経与法華経難易事』(昭和定本一七五二頁)
 仏法と世間との相関関係は右の日蓮聖人御遺文によって広く知られているが、仏法と世間との間に実際にどのような関係が働いて相関関係を起こすのか原理としての具体的な説明を記す御遺文は少数である。
 「夫れ十方は依報なり、衆生は正報なり。依報は影のごとし、正報は体のごとし。」
『瑞相御書』(昭和定本八七二頁)
 仏法と世間との関係は、仏法を行じる衆生「正報」と国土・環境としての「依報」の関係でもある。
 本稿では、「正報」と「依報」の相関関係を説く、宗祖の「依正不二思想」について、最も詳細な見解が述べられる『瑞相御書』を中心に考察する。第二節「佐前における依正不二思想」では、佐前の思想として『立正安国論』の草案に見られる仏法と世法、正報と依報の相関関係を検証する。次節以降は『瑞相御書』の研究となる。第三節「『瑞相御書』対告者、四条頼基について」では、『瑞相御書』の内容と対告者の関係を説明し、第四節「『瑞相御書』本文《「地動瑞」の説明》」では、『瑞相御書』に引用された『法華文句』「地動瑞」の原典に遡り検証する。第五節「『瑞相御書』本文《宗祖の依正不二思想》」では、前節に対する宗祖の見解としての「事」の依正不二思想を検証する。第六節「妙楽大師「依正不二門」《依正不二の出典》」では、天台の依正不二思想の出典である『法華玄義釋籤』「依正不二門」を検証し『瑞相御書』の思想と比較する。第七節「本時成道と身土不二」では、前節の身土不二論の宗祖における受容を本時成道を軸として考える。
 
二、佐前における依正不二思想
 宗祖の佐前における依正不二の思想は、戒律思想の研究中に五戒を持つ人【正報】と国土・環境【依報】の相関関係として説かれる。『災難興起由来』『災難対治鈔』では、『立正安国論』の基礎研究(草案)として『摩訶止觀』「世間の法薬」所説の五戒と五常五行の相関性を説く理論を応用し、法然の『選択集』流布により衆生【正報】が「捨閉閣抛」を実行すると世間【依報】に災難が起こると云う、【正報】【依報】間に働く相関関係の原理を究明された。
 「今の世の災難も五常を破りしが故にこれ起るといわば、何ぞ必ずしも選択集流布の失に依らんや。答えて曰く、仏法已前に五常をもつて国を治むるは、遠く仏誓をもつて国を治むるなり。礼儀を破るは仏の出したまえる五戒を破るなり。」『災難対治鈔』(昭和定本一六八頁)立正安国論草案
 法然の『選択集』流布により衆生が五常(礼儀道徳)を破る行為(捨閉閣抛)は、仏法における五戒の破戒に該当する。法華経の開会思想(就類種開会)に基き、五常(礼儀道徳)を仏法(五戒)伝来の先駆けとして開会する事により、人【正報】の守るべき五常・五戒を破すと五行に基く環境【依報】が相関して災難が起こると説く。この様に五戒と五常五行の相関性を説く理論は、次に示す『摩訶止觀』巻第六上「世間の法薬」の説に基くものである。
『摩訶止觀』巻第六上 四破法遍 世間の法薬
 「十善を束ぬればすなわちこれ五戒なり。深く五常五行を知るは、義また五戒に似たり。仁慈矜養して他を害せざるは、すなわち不殺戒なり。義譲推廉にしておのれを抽いてかれに恵むは、これ不盗戒なり。礼制親規矩、髪を結い親を成すは、すなわち不邪婬戒なり。智鑒明利、所為秉直にして道理に中当するは、すなわち不飲酒戒なり。信は実録に契い誠節欺むかざるは、これ不妄語戒なり。周孔はこの五常を立てて世間の法薬となし、人の病を救治す。
 また五行は五戒に似たり。不殺は木を防ぎ、不盗は金を防ぎ、不婬は水を防ぎ、不妄語は土を防ぎ、不飲酒は火を防ぐ。また五経は五戒に似たり、礼は節に趣くことを明かす、これは飲酒を防ぐ。楽が心を和するは淫を防ぎ、詩が風刺するは殺を防ぎ、尚書が義譲を明かすは盗を防ぎ、易が陰陽を測るは妄語を防ぐ。是の如き等の世智の法、精しくは其の極に通ず、能く逾ゆることなく、能く勝るることなし、咸く信伏せしめて而して之を師導す。」
(『佛教大系 摩訶止觀 第四』一五七〜九頁)
 以上(『弘決』の解説を含む)の相関関係を表にすると、次の図になる。
 【仏 法】   【世 法】
 五 戒    五常  五経  五行  五方  五臓  五識  五時
 不殺生戒   仁   詩   木   東   肝   眼   春
 不偸盗戒   義   尚   金   西   肺   鼻   秋
 不邪婬戒   礼   楽   水   北   腎   耳   冬
 不飲酒戒   智   礼   火   南   心   舌   夏
 不妄語戒   信   易   土   中央  脾   身   土用
 右図の通り、就類種開会(同類の開会)を根底に、五戒【仏法】と五常・五経・五行等【世法】の相関関係が示され、【仏法】の五戒を持つ事で【世法】の中国五行思想に基く配当(五常 五経 五行 五方 五臓 五識 五時等)が相関して統制される事となる。これ等は、世法から仏法への入門となる思想として示されたものである。
 『立正安国論』の草案である『災難興起由来』『災難対治鈔』では、上記理論を応用して五戒を持つ衆生【正報】と五行思想に基く環境【依報】との相関関係を以って災難が起こる原理を説明されたのである。真蹟図録では、三五『五行事』(昭和定本二九一八〜二一頁)に五戒と他の五行を同様に配当した図が見られる。
 以上の通り、宗祖の佐前における【正報】と【依報】の関係は、法華経開会思想により仏法の五戒と世界全般を五種に分類し体系的に説明する中国陰陽五行思想とを結び付ける事で、五戒を持つ衆生【正報】と五行思想に基く環境【依報】との相関関係を説く事を可能にしたものであった。
 
三、『瑞相御書』対告者、四条頼基について
 『瑞相御書』(真蹟身延曾存)は、文永十二年(一二七五)二月、身延から鎌倉の四条頼基へ送られた書であると云われている。
 四条頼基は、宗祖より『開目抄』(文永九年)を託された様に、鎌倉の檀越を代表する教学の理解者であったと共に、医術の専門知識があり主人江馬光時の病(建治三年)や身延の宗祖を治療(施薬)した人物であった。
 本書は、冒頭の文章が『法華経』「地動瑞」の説明より始まる事から、四条頼基が『法華経』と「正嘉・文永の大地震・大天変(大彗星)」との関係、即ち、仏法と世間、正報と依報の間に働く具体的な原理の説明を宗祖に問い、その返事として送られた御書であろうと考えられる。
 当時の医術〔平安時代の寛平年間に編纂された『日本国見在書目録』に漢方医学の基礎理論を記した『皇帝内経』の注釈書が日本に輸入されていた記録があり、以降の日本の医学が漢方医学の影響下にあった事は定説である。『中国の科学』九一頁〕は陰陽五行説に基く漢方医学が基礎にあった事から、宗祖は、教学の理解者であり陰陽五行思想に精通した頼基に対して、正報と依報の関係(依正不二)についての詳細な解説を『瑞相御書』において試みたと考えられる。
 『瑞相御書』の内容は、法華経序品所説 此土之六瑞中第四地動瑞の原理説明に始まり、地動瑞の相の大きさを爾前経・法華経序品、迹門・本門、宝塔品-涌出品・神力品、在世・滅後の順に相対し、最後に滅後末法の「正嘉元年の大地震、大天変」を、宗祖の法華経弘通により衆生の元品の無明を破る故に起きた最大の瑞相であると結論付けるものである。(末尾の真言批判は省略)
 次節では、冒頭の「地動瑞」の詳細な原理説明について検証する事で宗祖の依正不二観を考察してゆく。
 
四、『瑞相御書』本文《「地動瑞」の説明》
 「夫れ天変は衆人のおどろかし、地夭は諸人をうごかす。仏、法華経をとかんとし給ふ時、五瑞六瑞をげんじ給ふ。其の中に地動瑞と申すは、大地六種に震動す。六種と申すは、天台大師文句の三に釈して云く、〔①「東涌西没とは、東方は青、肝を主る。肝は眼を主る。西方は白、肺を主る。肺は鼻を主る。これ眼根の功徳生じて、鼻根の煩悩互いに滅するを表するなり。鼻根の功徳生じて、眼の中の煩悩互いに滅す。余方の涌没して余根の生滅を表するもまたまた」云云。妙楽大師、これを承けて云く、②「表根と言うは、眼鼻已に東西を表す。耳舌理として南北に対す。中央は心なり。四方は身なり。身は四根を具す。心は良く四を縁す。故に心をもつて身に対して涌没をなす」〕云云。」(昭和定本八七二頁)
 右記、法華経序品 此土之六瑞中第四地動瑞「普仏世界 六種震動」の原理説明について、①『法華文句』、②『法華文句記』の引用箇所の原典に基き、順に検証してみる。
①『法華文句』巻二ノ下、序品 此土之六瑞、第四地動瑞、「普仏世界 六種震動」を釋す。
 「今釋す地六種に動ずるは、圓家の六番に無明を破すことを表す。無明磬礴として未だ曾て侵毀せず、方に將に破壞せんとす。故に地を動じて以て之を表す。無明若し轉ずれば即ち變じて明と爲す。故に普佛世界六種に震動する也。六種は住行向地等妙の六番を表す也。」(『国訳一切経』経疏部二、九五頁)
 先ず、序品の「地動瑞」で地面が「六種に震動」する理由について、「圓家の六番」即ち、円教の五十二位(十住・十行・十回向・十地・等覚・妙覚)の内、最後の等覚より第六妙覚位へ至る段階において、最後心の煩悩である「元品の無明」を破す時に起こる震動であると云う。法華経聞法により、無明を転じて明(法性)と爲す時に「六種震動」が起こるのである。
(第四観心釋)
 「觀行は六根を動ずる也。地の相堅固なること、六根氷執して未だ曾て大乘之道に入らざるが如し、動じ難きの地を動じて、未だ淨めざるの根を淨むることを表す。
 ①東涌西没とは、東方は青にして肝を主り、肝は眼を主る。西方は白にして肺を主り、肺は鼻を主る。此れ眼根の功徳生じて鼻根の煩惱互に滅し、鼻根の功徳生じて眼中の煩惱互いに滅することを表はす。餘方の涌没は餘根の生滅を表すこと、亦復是の如し。
 六動とは。動と起と涌と震と吼と覺となり。一一の中に又三有り。謂く動・遍動・等遍動なり、直に動ずるを動と爲し、四天下の動ずるを遍動と爲し、大千動ずるを等遍動と爲す。餘の五も亦是の如し。合して十八種の動なり。此れ即ち十八界を淨むるを表はす也云云。」(『国訳一切経』経疏部二、九五頁)
 次に、『瑞相御書』に引用された箇所①のある「第四観心釋」について見てみると、「地動瑞」において地面が六種(動・起・涌・震・吼・覺)に震動する現象は、無明を破す時に十八界(六根・六境・六識)が浄化される過程で生じる震動を表していると云う。
 ①「東涌西没」以下の文は、法華経聞法により功徳が生じ(六根清浄)、煩悩が滅して四根・四方が相関し涌没(震動)すると云う十八界が浄化される過程を陰陽五行思想の相関関係を利用して説明したものである。これを図表化すると次の表になる。
 五行 五方 五色 五臓 五識 五根
 木  東  青  肝  眼  眼 →東方は青、肝を主る。肝は眼を主る。
 金  西  白  肺  鼻  鼻 →西方は白、肺を主る。肺は鼻を主る。
 水  北  黒  腎  耳  耳
 火  南  赤  心  舌  舌
 土  中央 黄  脾  身  意
 右記の表の縦の関係が五行の五種の分類の内で同じ性質を具えたものの連関であり、木の性質の連関が「東方は青、肝を主る。肝は眼を主る。」、金の性質の連関が「西方は白、肺を主る。肺は鼻を主る。」である。また、横の関係には相生・相剋の二種があり、これを各根の功徳・煩悩の生滅に準えたのであろう。縦横の関係が相関して涌没(震動)が起きることとなる。
 以上の通り、『法華文句』では、「無明を破す」という【仏法】の内的現象に相関して「地面が震動する」という外的現象が起こる原理を【世法】の陰陽五行思想の相関関係を利用して説明したものであった。
②妙楽大師『法華文句記』
 「表根と言うは(①の解説)、眼鼻已に東西を表す。耳舌理として南北に対す。中央は心なり。四方は身なり。身は四根を具す。心は良く四を縁す。故に心をもつて身に対して涌没をなす。」
 心(意)→ 眼 鼻 耳 舌‥四根(身)
  ─     ─ ─ ─ ─
 中央    東 西 北 南‥四方
 妙楽大師の解釈は、右図の通り、心(意根)と四根・四方の関係を説明したものである。心を中心とし、眼・鼻・耳・舌の四根がそれぞれ東・西・北・南という方向性をもつことで、身体を心を中心とした空間として捉えている。心の煩悩(無明)が滅することにより四根・四方(空間)が相関して涌没(震動)することとなる。
 「心は良く四を縁す。」と云う心と四根・四方の関係を、下記の『摩訶止觀』病患境に十二因縁を解説する文を参考に詳しくみてみる。
『摩訶止觀』巻八ノ下 病患境
 「識は過去の行從り生じ、行は過去の無明從り生じ、無明は妄想從り生じ、妄想は還て妄想從り生ず。經に云く、妄想は妄想を生じて十二縁に輪迴すと。
 狂渇の人の焔を見て水と爲す。南に向て之を逐う、之を逐うに得ず。大に喚んで水と言うに、空中響き應ず。己れ大に南の水應に北に在るべしと謂い、頭を北に迴らして走る。是の如く四方皆逐うに得ず。遂に大に懊惱して、水は地に入れりと謂い、地をいて吼喚す。身體疲極して轉た更に闇に至るに、亦復得ざるが如し。
 南に走るを舌の味を逐うに喩え、北に走るを耳の聲を逐うに喩え、西に走るを鼻の香を逐うに喩え、東に走るを眼の色を逐うに喩え、地をくを身の觸を逐うに喩え、闇に到るを意の無明を逐うに喩う。
 是の如き六根、遍ねく諸塵に走て一も得可きもの無し。亦た因縁和合之相を得ず。但だ自ら疲苦す。
 既に覺知し已て復た更に走らず。走らざるを以ての故に身心定住す。身心定住するが故に豁爾として悟解す。」
(『佛教大系 摩訶止觀第五』 一一九〜二〇頁)
『法華玄義』巻二ノ下 十二因縁釋
 「上の三受(六入・触・受)を具する、この時を愛と名く。境を貪ぼるを以つての故に四方に追求す、是の時を取と名く。追求の時、身口意を起す、是の時を有と名く。」(『国訳一切経』経疏部一、七四頁)
 十二因縁は無明より始まるが、「狂渇の人の焔を見て水と爲す。(以下)」とは、この無明の迷いにより心が六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)を介して六境(色・声・香・味・触・法)を追い求める様を、砂漠等で水を切らし喉の渇きから幻想を見て四方に水を追い求めて彷徨う状態に喩えたものである。この状態を十二因縁では、「境を貪ぼるを以つての故に四方に追求す、是の時を取と名く。」と、ある様に「取」と云う。広義では「愛・取・有」に該当する。また、無明により心が一定方向に動く事を「行」と云う。
 十二因縁 無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死
 六識・六根 眼・耳・鼻・舌・身・意
       ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓‥境を貪ぼるを以つての故に四方に追求す
    六境 色・声・香・味・触・法
       ─ ─ ─ ─
    四方 東・北・西・南
 以上をふまえると、喉の渇きから幻想を見て水を求め四方に走り回る様(「如狂渇人見焔爲水」)に、人間の心は個人存在(我執)の根底にある無明の迷いから外界へ向けて絶えず意識が放たれ(行)、感覚器官である六根を介して対象の六境を追い求め(「境を貪ぼるを以つての故に四方に追求す」)六識として認識しながら存在している。この時、意識が外界(四方)へと向けられる中で身体・環境の空間性が認識される(「中央は心なり。四方は身なり」)。故に、個人存在の根底にある無明が破されるならば、心(中央)─身体(四根)─環境(四方)という空間認識全体に影響を与える(「心をもつて身に対して涌没をなす」=六種震動)こととなる。なおこれは、「観心釋」として内観の世界を説いたものである。
 
 仏教では本来、十八界(六根・六境・六識)という感覚器官とその対象現象により生ずる認識作用で構成された人間存在の内に認識される世界を説くものであるが、天台思想においてはこの仏教思想に外界の事象を体系的に説明する陰陽五行説を用いて会通する事により、心(中央)─身体(四根)─環境(四方)という心と空間の関係を説く事を可能にさせた訳である。しかしながら、これは「観心釋」として内観の世界の説明に止まるものであった。
 
五、『瑞相御書』本文《宗祖の依正不二思想》
 前節で説明した法華経序品「地動瑞」の『法華文句』『法華文句記』における解説に対する宗祖の見解が次の文である。
 「夫れ十方は依報なり、衆生は正報なり。依報は影のごとし、正報は体のごとし。身なくば影なし、正報なくば依報なし。又正報をば依報をもて此れをつくる。眼根をば東方をもつてこれをつくる。舌は南方、鼻は西方、耳は北方、身は四方、心は中央等。これをもつてしんぬべし。かるがゆへに衆生の五根やぶ(破)れんとせば、四方中央をどろう(駭動)べし。されば国土やぶれんとするしるし(兆)には、まづ山くづれ、草木か(枯)れ、江河つくるしるしあり。人の眼耳等驚そう(躁)すれば天変あり。人の心をうごかせば地動す。」(昭和定本八七二頁)
 上図を参照すると、「正報をば依報をもて此れをつくる。眼根をば東方をもつてこれをつくる。舌は南方、鼻は西方、耳は北方、身は四方、心は中央等。」とは、心が無明の根本的執着(我執)の下に六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)を介して外界の四方で表される方向へと六境(色・声・香・味・触・法)を追求する中で、正報の身体・依報の国土(環境)がそれぞれ空間性として形成(「これをつくる」)され認識される事と考えられる。したがって、この意味で正報(身体)・依報(国土・環境)は一体性をもつ空間として認識され「依正不二」となるのである(「依報は影のごとし、正報は体のごとし。身なくば影なし、正報なくば依報なし。」)。
 「これをもつてしんぬべし。かるがゆへに衆生の五根やぶ(破)れんとせば、四方中央をどろう(駭動)べし。されば国土やぶれんとするしるし(兆)には、まづ山くづれ、草木か(枯)れ、江河つくるしるしあり。人の眼耳等驚そう(躁)すれば天変あり。人の心をうごかせば地動す。」と、心から身体(正報)・国土(依報)へと空間認識が形成される故に、依報・正報は一体性をもつ空間として認識され(「依正不二」)、人の心の動きに連動して依報の国土(空間)も振動する(「人の心をうごかせば地動す。」)と説くのである。
 この様に、宗祖の思想の特徴は、『文句』『文句記』の「地動瑞」に「観心釋」として内観の世界を説いた説を応用し、現実世界の現象の説明に用いたところにある。
 「問て云く、在世よりも滅後の瑞大なる如何。答て云く、大地の動ずる事は人の六根の動くによる。人の六根の動きの大小によて、大地の六種も高下あり。爾前の経経には、一切衆生煩悩をやぶるやうなれども実にはやぶらず。今法華経は元品の無明をやぶるゆへに大動あり。末代は又在世よりも悪人多多なり。かるがゆへに在世の瑞にもすぐれてあるべきよしを示現し給ふ。疑つて云く、証文いかん。答て云く、〔「しかもこの経は、如来の現在にすらなお怨嫉多し。いわんや滅度の後をや」〕等云云。」(昭和定本八七五頁)
 爾前の経典では、無明を完全に断ずる段階に至らぬが、円教における妙覺に至る最後の段階(「圓家六番破無明」)において断じる無明を「元品の無明」と呼ぶ。無明は、個人存在の根底にある執着(我執)である故に、この根底の無明を完全に破すことは、心─身体(正報)─国土(依報)へと形成される空間認識全体を揺るがすこととなる(「今法華経は元品の無明をやぶるゆへに大動あり」)。
 「去ぬる正嘉・文永の大地震・大天変は、天神七代・地神五代はさてをきぬ。人王九十代、二千余年が間、日本国にいまだなき天変地夭なり。人の悦び多多なれば、天に吉瑞をあらはし、地に帝釈の動あり。人の悪心盛んなれば、天に凶変、地に凶夭出来す。瞋恚の大小に随ひて天変の大小あり。地夭も又かくのごとし。今日本国、上一人より下万民にいたるまで、大悪心の衆生充満せり。此の悪心の根本は日蓮によりて起れるところなり。」(昭和定本八七五頁)
 『瑞相御書』(昭和定本八七三〜五頁)では、「地動瑞」の相(六種震動)の大きさを比較し、爾前経よりも法華経迹門「序品」の〔地動瑞〕、迹門「序品」よりも本門「宝塔品」〔宝塔涌出〕・「涌出品」〔下方涌出〕、釈尊在世の本門「宝塔品」・「涌出品」よりも滅後末法の「神力品」〔十神力〕(「遍至十方諸佛世界。地皆六種震動」)を「法華経の肝要(題目…結要付属)のひろまらせ給ふべき大瑞なり。」とし、これに相当する「正嘉元年の大地震、大天変」を、宗祖の法華経弘通により、日本国内の悪心を懐く衆生の「元品の無明」を破る事により起きた瑞相であると結論付けるのである。
※「事」思想としての宗祖の依正不二観
 以上の『瑞相御書』における経文所説の世界(「地動瑞」)を現実世界に引き当てて実証する思想は、日蓮教学において宗祖の「事」の思想として位置づけられるものである。望月歓厚博士は、著書の『日蓮教学の研究』において「日蓮の事の表現」(同書一一八〜一二二頁)として、宗祖の「事の表現」を十四項目に分類し考察しているが、その中でも第三・四節に示した『瑞相御書』の内容においては、特に以下の点が該当すると考えられる。(一〜六省略)
 
 「七、化他事」‥天台を理・自行、宗祖を事・自行化他とする。【瑞相御書】衆生の「元品の無明」を破す化他行。
 「八、色讀事」‥経文を自己の色心(心身)に読み体現する。【瑞相御書】『法華経』「地動瑞」の実現。
 「九、事証事」‥道理証文よりも現証を重視する。【瑞相御書】「正嘉元年の大地震、大天変」。
 「一〇、有相事」‥『撰時抄』「十如是の始の相如是が第一の大事にて候」と云う、沈潜の体より表現の相に意義を認め、理念よりも現実に実相を発見しようとする。【瑞相御書】『法華経』の「瑞相」を現実に発見。
 「一一、法界事」‥自他・法界の共同の成佛が実際行の理念となる。【瑞相御書】「地動瑞」=国土の浄化。
 「一二、世法事」‥法界の成佛の実現には、世間法の開顕が必要。【瑞相御書】世間法である陰陽五行思想の開顕。
 「一三、人間事」‥凡夫為正、人間中心に教を立てる。【瑞相御書】人間中心の依正不二観。
 「一四、現在事」‥末法為正、「今本時」を浄土とする。【瑞相御書】末法現在の瑞相を最大とする。
 「以上の十四項の表現は、聖人の事思想の各面である。これを要約するに、複雑を去って単一に、観念を去って体験に、智解を信仰に、個人を社会に、理論的法界を人間的実証に、三世を現在に結帰したものである。要は死法門を活法門たらしめんとした努力であったというべきであろう。」(『日蓮教学の研究』 一一八〜一二二頁)
 右記の要素が総合して『瑞相御書』における「事」の依正不二観が成立している。次節に述べるが、天台における依正不二の思想は、法身遍在の理に即して依報・正報を一体不二と見る佛の悟りに基く思想である。これに対し、前述の『瑞相御書』における衆生の無明を根底に心─身体(正報)─国土(依報)へと形成される空間認識の下に正報と依報の一体性を論じる依正不二観は、妙楽大師の「依正不二門」とは異なる宗祖独自の「事」の思想と考えられる。
 天台の法身遍在に基く「理」の依正不二観に対し、宗祖の人間存在に基き身体(正報)と国土・環境(依報)の一体性を論じる「事」の依正不二観は、まさに「個人を社会に、理論的法界を人間的実証に」帰結する「死法門を活法門たらしめんとした」思想である。つまりは、天台の佛の悟りに基く観念的無機的な「理」の不二相即論を、宗祖は現実の迷い(無明)の人間存在に基く実証的有機的な「事」の相即論へと再構築した訳である。
 
六、妙楽大師「依正不二門」《依正不二の出典》
 「依正不二」の出典は、『法華玄義』所説「迹門十妙」の補足解釈として、『法華玄義釋籤』に「十不二門」を説く中の「第六 依正不二門」の説である。
『法華玄義釋籤』巻第七ノ上、「十不二門」、第六 依正不二門
 「五は染淨不二門。六は依正不二門。第五第六第七は感應神通從り名を立つ。」
 第六 依正不二門は迹門十妙中、感應妙・神通妙によって立てた法門である。
 「六に依正不二門とは、已證の遮那の一體不二なるは、良に無始の一念三千に由る。三千の中の生陰の二千を正と爲し、國土の一千は依に屬するを以てなり。依正既に一心に居す。一心豈に能所を分かたんや。能所無しと雖も依正宛然なり。是れ則ち理性名字觀行。已に不二正依之相有り。故に自他因果をして相攝せしむ。但だ衆生は理に在り。果未だ辧ぜずと雖も、一切遮那の妙境に非ざること莫し。然るに應に、諸佛の法體遍に非ずして遍じ、衆生の理性局に非ずして局することを復了すべし。始終改まざれば、大小妨げ無し。因果理同し。依正何ぞ別ならんや。故に淨穢之土、勝劣之身、塵身と法身と量同しく、塵國と寂光と異なること無し。是れ即ち一一の塵刹一切の刹。一一の塵身一切の身。廣狹勝劣思議し難く、淨穢方所窮盡すること無し。若し三千空假中に非ずんば、安んぞ能く茲の自在の用を成ぜんや。是の如く方に生佛等しの彼此の事理互に相收むることを知るべし。此は染淨不二門を以て成ず。」(『佛教大系 法華玄義 第四』三五三〜四頁)
 本佛所証の法身(遮那)が所依の常寂光土と一体不二(身土不二)である故は、佛の一念の中に正報(五陰・衆生世間)と依報(国土世間)の三千世間があるからであり、これは本時成道の際、釈尊の一身一念が法界に遍満し法身を証した時に成立したものである。故に所証の法身(法身佛自体が円教浄土の常寂光土でもあり本来依正一体)に即すれば能所・依正は一体不二であり、一切の国土は「遮那妙境」である常寂光土である。また、所証の法身の依正は法界に遍在する故に、諸佛の法体として遍在し且つ個々の佛に内在し、衆生の理性(佛性)として遍在し且つ個々の衆生の内に局在する(「諸佛の法體遍に非ずして遍じ、衆生の理性局に非ずして局する」)。この様に、法身の依正は一切の依報の国土と正報の佛・衆生の内に平等に具わっている。
※両者の依正不二論の比較
 以上の様に、『法華玄義釋籤』の「依正不二門」における依正不二の思想は、法身遍在の理に即して依報・正報を一体不二(不二而二・而二不二‥不二にして二の別あり)と見る佛の悟りに基く思想である。法身佛自体が円教浄土の常寂光土でもあることから身土不二とも云う。
 これに対し、前節の『瑞相御書』における衆生の無明を根底に心─身体(正報)─国土(依報)へと形成される空間認識の下に正報と依報の一体性を論じる依正不二観は、妙楽大師の「依正不二門」とは異なる宗祖独自の思想と考えられる。天台の法身遍在に基く「理」の依正不二観に対し、宗祖の思想は、人間存在に基く「事」の依正不二観であると言い得るであろう。
 一念三千は、己心の一念に具す三千世間(十界・十如・三種世間)を観察する内観の行(観心)であり、出典である『摩訶止觀』「第七正修止観、観不思議境」(『佛教大系 摩訶止觀第三』二三五頁〜)の三種世間の説明においても、正報・依報の関係に現実世界の現象を結びつけた説明は見られない。
 宗祖の上記依正不二思想は、一念三千の構成要素である故に広義として宗祖の「事の一念三千」思想でもある。『富木入道殿御返事』では、「一念三千の観法に二つあり。一には理、二には事なり。天台・伝教等の御時には理なり。今は事なり。観念すでに勝る故に、大難また色まさる。彼は迹門の一念三千、これは本門の一念三千なり。」(昭和定本一五二二頁)と、本門事の一念三千の特色として「色」即ち現実の現象(災難)として現前する点を挙げている。
 
七、本時成道と身土不二
 佛の「遍在」と衆生の「局在」という二つの存在様式を基に、『観心本尊抄』所説、本時成道における身土不二=依正不二観を考えてみる。
本時成道‥「局在」から「遍在」へ
 衆生=個人存在は、根本的執着(我執)である「無明」の基に成立する五陰仮和合の身(五陰世間)として一所に【局在】して存在している。
 「当に知るべし、身土は一念三千なり。故に成道の時、此の本理に称うて、一身一念法界に遍し」
(『摩訶止観輔行伝弘決』五上 『観心本尊抄』昭和定本七一二頁)
 円教における妙覺に至る最後の段階において断じる無明を「元品の無明」と呼ぶが、釈尊が本時成道の時、この最後心の煩悩である「元品の無明」を破す(無明を転じて法性と爲す)と、個人存在【局在】の根底の執着である「無明」の基に成立していた五陰仮和合の身は、根本的執着の「無明」が消失する(転じて法性と爲す)事により五陰仮和合の状態から解き放たれ、「一身一念」が法身理(本理)に称って法界全体に遍満し法身・法界と一体となった。法身は周遍法界身として法界と本来一体で常寂光土でもある(身土不二)が、この所証の法身を境として能証の釈尊の智慧が合一し、境智冥合して法界に【遍在】する久遠実成の釈迦牟尼佛が成立したのである。本佛が偏在する故に身土依正は不二である。
三身即一‥「遍在」即「局在」
 「此の品の詮量は、通じて三身を明かす。若し別意に従はば、正しく報身に在り。何を以ての故に義便に文會す。義便とは、報身の智慧は上に冥じ下に契うて三身宛足す、故に義便と言う。文會とは、〔我れ成佛してより已來、甚だ大に久遠なり。〕故に能く三世に衆生を利益したまうと、所成は即ち法身、能成は即ち報身、法と報と合するが故に、能く物を益す、故に文會と言う。此を以て之を推すに、正意は是れ報身佛の功徳を論ずる也。」
『法華文句』九下、壽量品一六、(国訳一切経 経疏部二 四一八頁)
 久遠実成の釈迦牟尼佛は、本時成道において釈尊(報身)の智慧(能成・能証)が法身の理境(所成・所証)を証して、「法と報と合する」(境智冥合)ことによって成立した、(法・報・応)三身即一の本佛である。
 本佛の三身即一の中心は報身であり(正在報身)、報身の智慧は、上は法身(境)と境智冥合して一体となり、一佛乗の真理・常寂光土を体現し、下は応身の智慧となって衆生を利益し、両者を補いながら三身即一を成立させている(「報身の智慧は上に冥じ下に契うて三身宛足す」)。すなわち、三身即一の内、報身智が主体となって久遠の教化活動(「三世に衆生を利益したまう」)を行ってきたのである。
 したがって、三身即一の本佛は、法界と一体となって「遍在」し、且つ、衆生救済のため応身佛として「局在」して現れる「遍在」即「局在」の存在である。また、法身佛自体が円教浄土の常寂光土として依正の区別なく「偏在」する故、本佛の「身土不二」の視座から見れば、娑婆国土も依正不二の常寂光土である(娑婆即寂光)。
※依正不二の視座
 『法華玄義釋籤』「依正不二門」における天台の依正不二観は、右記の本佛「遍在」の「身土不二」の視座から「理」の依正不二を論じた訳であるが、宗祖の『瑞相御書』における「事」の依正不二観は、根本的執着(我執)である「無明」の基に成立する五陰仮和合の身(五陰世間)として一所に「局在」する衆生の視座から、「今法華経は元品の無明をやぶるゆへに大動あり」と、「無明」を根底に五陰世間(個人・正報)─衆生世間(正報)─国土世間(依報)へと形成される空間の一体性を論じるものと理解できる。
唱題成佛における依正不二観
 「今本時の娑婆世界は、三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。仏すでに過去にも滅せず、未来にも生ぜず、所化以て同体なり。これ即ち己心の三千具足、三種の世間なり。」(『観心本尊抄』「昭和定本」七一二頁)
 宗祖における真の衆生成佛は唱題受持にある。衆生が唱題受持する間(「今本時」)は、妙法五字=佛の智慧を自己の内に持つ事により、「無明」の基に成立する五陰仮和合の身(五陰世間)から超出し、法界に「遍在」する久遠本佛の依正(法身自体が依報の常寂光土)と時間・空間を超越して同体である事が認識される(「所化以て同体なり」)。唱題受持して自己の内心に仏界が備わることで「事」の十界互具が成立し、一念三千が成立する。したがって、唱題受持の間は、「局在」しつつ「遍在」の視座から佛の依正不二を認識しているのである。
 以上が、宗祖の依正不二思想の内、身土不二論を根拠とした「理」の面であり、『瑞相御書』における「事」の依正不二思想は、これ等「理」の裏付の上に成立すると考えられる。
 
八、結
 宗祖の佐前における依正不二思想として挙げた『立正安国論』草案の『災難興起由来』『災難対治鈔』では、法華経開会思想により「仏法」の五戒と「世法」の世界全般を五種に分類し体系的に説明する中国陰陽五行思想とを結び付ける事で、五戒を持つ衆生「正報」と五行思想に基く環境「依報」との相関関係を説く事を可能にしたものであった。
 佐後の依正不二思想の代表として挙げた『瑞相御書』では、『法華文句』「地動瑞」の解釈において、「無明を破す」という「仏法」の内的現象に相関して「地面が震動する」という外的現象が起こる原理を「世法」の陰陽五行思想の相関関係を利用して説明している。
 仏教では本来、十八界(六根・六境・六識)という感覚器官とその対象現象により生ずる認識作用で構成された人間存在の内に認識される世界を説くものであるが、天台思想においてはこの仏教思想に外界の事象を体系的に説明する陰陽五行説を用いて会通する事により、心(中央)─身体(四根)─環境(四方)という心と空間の関係を説く事を可能にさせたが「観心釋」として内観の世界の説明に止まるものであった。
 宗祖の『瑞相御書』における依正不二思想の特徴は、上記『法華文句』において「観心釋」として内観の世界を説いた説を応用し、現実世界の現象の説明に用いたところにある。
 「正報をば依報をもて此れをつくる。」と、「正報」の身体も「依報」と同一の空間をもって形成される故に、「今法華経は元品の無明をやぶるゆへに大動あり」と、人間存在の根底の無明を破すことは、心(中央)─身体(四根)─環境(四方)へと形成される「依報・正報」の空間認識全体を揺るがすと説くのである。
 天台の法身遍在に基く観念的な「理」の依正不二観(十不二門所説)に対し、宗祖の右記思想は、現実の迷い(無明)の人間存在に基き、身体(正報)と国土・環境(依報)の一体性を論じる実証的な「事」の依正不二観と言い得るであろう。
 この様に『瑞相御書』における依正不二思想は、佐前に見られた思想を前述の経緯を経て人間存在に基づく「事」の依正不二観へと深めた思想であると理解できる。
 以上の宗祖の依正不二思想は、現代思想において「宗祖の身体論」として位置付けることが可能である。つまりは、衆生の身体性に即して、心─身体(正報)─環境(依報)へと「志向性」を以って形成される空間認識の下に、正報【身体】と依報【環境】の一体性を論じる宗祖独自の「身体論」である。今後の展開として身体論の研究者との意見交換を検討中である。
参考文献
『昭和定本 日蓮聖人御遺文』日蓮宗
『国訳一切経 経疏部一』大東出版社
『国訳一切経 経疏部二』大東出版社
『佛教大系 法華玄義』佛教大系完成会
『佛教大系 摩訶止觀』佛教大系完成会
『日蓮教学の研究』望月歓厚 平楽寺書店
『日蓮宗事典』日蓮宗
『中国の科学』藪内清編 中央公論社

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