現代宗教研究第43号 2009年03月 発行
『守護国家論』考─法然浄土教批判を中心として─
研究ノート
『守護国家論』考
─法然浄土教批判を中心として─
岩 田 親 静
はじめに
日蓮聖人の『守護国家論』(一二五九年 撰述)『立正安国論』(一二六〇年 撰述)の思想を論ずる場合、法然浄土教・『選択本願念仏集』批判は重要な論点の一つであることは云うまでもないことであろう。この場合、日蓮聖人が『選択集』をどう読んだのか。具体的には『選択集』十六章中どの章を問題にし、どう答えたのかと言うことは論じられなければならないことであろう。この点に関しては、既に先師・先学により勝れた研究が存在している。
『守護国家論』
中昔、邪智の上人ありて、末代の愚人のために一切の宗義を破して、選択集一巻を造る。名を鸞・綽・導の三師に仮りて、一代を二門に分ち、実経を録して権経に入れ、法華・真言の直道を閉(と)じて、浄土三部の隘路を開く。また浄土三部の義にも順ぜずして、権実の謗法を成し、永く四聖の種を断じて、阿鼻の底に沈むべき僻見なり。(中略)この悪義を破らんがために、また多くの書あり。いわゆる浄土決義鈔・弾選択・摧邪輪等なり。この書を造る人、皆碩徳の名一天に弥るといえども、恐らくはいまだ選択集謗法の根源を顕わさず。故に還つて悪法の流布を増す。譬えば、盛なる旱魃の時に小雨を降らせば草木弥枯れ、兵者を打つ刻に弱き兵を先にすれば強敵倍)力を得るがごとし。予この事を歎く間、一巻の書を造りて選択集の謗法の縁起を顕わし、名づけて守護国家論と号す。願わくは一切の道俗、一時の世事を止めて永劫の善苗を種えよ。今経論をもつて邪正を直す。信謗は仏説に任せ、あえて自義を存することなし。(立正大学日蓮聖人教学研究所編『昭和定本日蓮聖人聖人遺文』〔以下『定遺』と省略〕第一巻 八九・九〇頁)
選択集─権実の謗法
浄土決義鈔・弾選択・摧邪輪等─謗法の根源を顕わさず
守護国家論─謗法の縁起を顕す
「謗法の根源を顕ず」と批判したそれ以前の『選択集』批判の三書(『浄土決義鈔』・『彈選擇』・『摧邪輪』)中、唯一現存する『摧邪輪』をどう読み批判したのかを関連させることにより再検討し、あわせて『立正安国論』の浄土教批判との相異点をも考えてみたい。
ただし、本発表では
「まだ、『開目抄』も『観心本尊抄』も書いていない日蓮聖人の著作として読んだということです。したがって、本書にコメントできるものは、『守護国家論』を代表とする『立正安国論』以前の著作です。
ところで、すでに読み直しの時点において、副神研究所の諸君と老生の違いは明らかです。諸君が六〇歳の日蓮から、さらには、今の時点から読み直し、見直しているような日蓮ではなく、誤解を恐れずに言わせてもらえば、未完な─もし六〇歳の日蓮を完成した存在とすればです─日蓮の著作として読んだということにおいて違うことをあらかじめ申しておきたいし、これを聞いてもらわなければ、これから先の筆は進みません。」
とする髙木豊博士の『立正安国論再読』(福神 第一号)と同様の視点に立ち、考察を試みていることを表明しておきたい。
一、『選択集』の構造
『選択集』の構造に関する研究は、近年平雅行氏の「法然の思想構造とその歴史的位置」において、
『選択本願念仏集』全十六章の中で、どれを中核と考えるかについては、古来から二行章(第二章)中心説と本願章(第三章)中心説とがある。
と述べている。近年の研究の傾向としては、本願章中心説が主流となっている。更に本願章の弥陀の本願の根拠となる勝劣義・難易義の二義のどちらを重視したかという点に関しても、従来から意見の分かれるところであるが、難易義中心説が近年では有力である。
末木文美士「新宗の開創とその論理」(『鎌倉仏教形成論』)では左記のように示している。第三章の性質が他の章と異なり、重視されるべきは明らかであろう。
第一、二章─衆生による選択(浄土門への帰入→称名一行への徹底)
第三章─弥陀による称名念仏一行の選択
第四章以下(除第八、九章)─その助顕
第八、九章─衆生による念仏需用のあり方(三心、四修)
二、『守護国家論』の構造と『摧邪輪』
では日蓮聖人はこの『選択集』をどう読み、批判を展開していったのであろうか。ここで注目すべき点は『守護国家論』の構造に関してである。
『守護国家論』は最も重要視すべき批判の基盤となる考えを大文の第一で、天台の一代五時判を提示し、教の浅深を論じ、大小乗を論じるのだが、ここで注目されるのが無量義経の「四十余年未顕真実」に基づいた箇所である。
『守護国家論』
問うて曰く、(中略)これらの文を見るに、諸の大乗経の常の習いなり。何ぞ一文を瞻て、無量義経は四十余年の諸の経に勝れたりと云うや。答へて曰く、①教主釈尊、もし諸の経において互いに勝劣を説かば、大小乗の差別・権実の不同あるべからず。もし、実には差別なきを、互いに差別・浅深を説かば浄論の根源・悪業起罪の因縁なり。爾前の諸の経は第一に縁に随ひて不定なり。或るは小乗諸々の経に対して第一となりとし、或いは(中略)一切の第一にあらず。②今の無量義経の如きは、四十余年の諸の経に対して第一なり。(『定遺』第一巻 九三・九四頁)
右の文章では、①の箇所は諸経の関係は縁に随うものであるから勝劣(差別・浅深)を論じるべきでないとするが、②において法華経の開経たる無量義経が一切経のなかで最も優れていることを述べ、法華経の優越性を主張するのであるが、実は①の考え方は明恵房高弁撰述の『摧邪輪』の考えとも符号しているのである。
『摧邪輪』
辺夷殊俗に生まれ、如来の遺教に値う。須らく一字一句を聞き甘露を嘗めるが如かるべし。空しく上下の勝劣を論じ、徒に空有の辺執を懐く。あまつさえ諸の大乗宗を軽じ、大菩提心を撥す。(鎌田茂雄・田中久夫編『鎌倉旧仏教』〔以下『鎌旧』と省略〕(岩波書店 一九七一)三四四頁上)
この勝劣を論ずるのは、『選択集』第三本願章で論じられているものであり、『選択集』中でも、最も重要な箇所の一つと目される箇所である。してみると、日蓮聖人はこの勝劣義に対して真っ向から批判をしていると言える。
『選択集』本願章の「勝劣・難易義」の論述箇所
何が故ぞ、第十八願に、一切諸行を選捨して、唯だ偏に念佛一行を選取して往生の本願と為すや。答へて曰く。聖意測り難し、たやすく解することあたはず。然りと難も今試みに二義をもって之を解せば、一は勝劣義。二は難易義なり。(法然著 大橋俊雄校注『選択本願念仏集』岩波書店 一九九七 四九頁)
一方、明恵はこの点、勝劣義を論じることを回避したかのようである。では、明恵は本願章の「勝劣・難易義」の箇所に対していかなる態度を示したのであろうか。
『摧邪輪』
此に依りて言う、称名一行は劣根の一類のために授くる所なり。汝何ぞ天下の諸人を以て下劣根機と為すや。無礼の至り、称計すべからず。此の文証を引くに依りて称名行を執せずに非ず。唯是れ汝の一門、称名を以て無上殊勝行と為し、余行を撥して下劣と為す。以て汝の集に云うが如く、仏名号の功徳、余の一切の功徳に勝なる故に、劣を捨て勝を取る、以て本願と為す。〈文。称名を本願と為すを釈して、勝劣難易の二義を出す中、第一義なり。問答法譬文、具に出すに能わず云々。〉唯往生勝行と云い、下根契合と云うは、此の文上文、盛んに名号功徳殊に勝と為す。余の功徳皆劣と為す義、是の頗り胸臆に任す。(中略)何ぞ名号を以て殊に勝と為し、余徳を以て劣と為すや。近代の専修男子女人等、盛んにこの義を述べる。今思うに此の集の文を以て本説と為す。不可説不可説なり。この執心を懲らしめんがための故に、すべからくこの義を出だすなり。理実に十住毘婆沙論の意は、易行難行の二道を分かちて、易行道を好むの人を誡め、称名の行勝徳無しと謂うにはあらず。(中略)唯だ根性の大小を讃毀するのみ、未だ必ずしも所行の勝劣を定めるにあらざるなり。(『鎌旧』三八七頁上・下頁)
右のように明恵は称名を劣根の一類のための行であるとし、すべてのものを下機下根とすることを「無礼」であると否定するが、易行であることは否定していない。批判にしているのは、称名(名号の功徳)を勝とし、余行(余の功徳)を劣とすることである。この考えは、十住毘婆沙論においても易行たる称名念仏に功徳がないとしたのではなく、根性の大小を論じたのであって、行の勝劣は論じていないと主張するにいたっている。
この点は、仏が「機に随って一往称名等の易行を説」(『鎌旧』三三九頁上)いたことを認めることとなり、念仏のみならず法華・真言等であっても一行のみに限定することを批判することになる。
『摧邪輪』
若ししからば、唯だ念仏一行に限るにあらず、設ひ法華読誦を為すと雖も、真言修行を為すと雖も、若し一行のみ勧めるもの未だ機縁の生熟を知らず。(『鎌旧』三五五頁下)
この点、日蓮聖人は『守護国家論』の大文の第二において、「如来の教法に大小・浅深・勝劣を論ぜず、ただ時機に」よるとして教法の価値を論ぜずに、時機の相応・不相応を論じ、法華・真言を末法にそぐわないと規定することを批判している。
また当時、末代の下機の為に、称名の易行が勝れると主張しているのであると表明する法然の門弟が、存在していたことが、大文の第三の問いの中に確認することができる。
法然の弟子の主張
『守護国家論』
ただ風勢なき末代の衆生を常没の凡夫と定めて、この機に易行の法を選ぶ時、称名念仏をもつてその機に当て、易行の法をもつて諸教に勝ると立つ。権実・浅深等の勝劣を詮するにあらず。(『定遺』第一巻 一〇七頁)
このような考えに対して、日蓮聖人は無量義経の引用をし、それに基づく形で十住毘婆娑論を法華以前の難易を論じたものとして、法華とは比較するべきではないとし、その上で易行性で言うならば、法華経の五十展転の行が称名念仏より行じ易いとし、「もし勝を以て易行と定めれば」として行の功徳による勝劣を主張した上で、「観経等の念仏三昧を法華経に比するに、難行の中の極難行、勝劣の中の極劣なり。」と「勝劣義、難易義」を意識している。更に「四十余年の経に依る人師は彼の経の機を取る。この人はいまだ教相を知らざるが故なり。」としては、機根の相応・不相応より教法の浅深・勝劣を重視している。その根拠となったのは、先の傍線②でも示されている無量義経である。
この点は、『選択集』本願章の「勝劣義、難易義」への対応に顕著に現れている。先に示したように問題の箇所では「聖意測り難き」弥陀の本願の理由を法然が「試みに二義をもって之を解」するのであり、法然の推測・推定であるのに対し、左の如く日蓮聖人は無量義経に基づいて「仏自ら難易・勝劣の二道を分かちたまえり。」と難易・勝劣を定めるものを仏と明確に規定した上で、本願章の「勝劣義、難易義」の考え方を「外道・魔王」と批判したのである。
『守護国家論』
其の故は釈迦如来五十年の説教に、総じて先四十二年の意を無量義経に定めて云く、「険しき逕を行くに留難多きが故に」と。無量義経の已後を定めて云く、「大直道を行じて留難なきが故に。」仏自ら難易・勝劣の二道を分かちたまえり。仏より外等覚已下末代の凡師に至るまで、自義を以て難易の二道を分け、是の義に背く者は外道・魔王の説に同じからん歟。(『定遺』第一巻 一〇八・一〇九頁)
このように日蓮聖人は本願章の難易・勝劣の問題に対しては、どちらかと言えば勝劣義を中心として批判を展開したが、この点に対して明恵は、機根・すべての人々が下機下根なのかという、易行義に関わることを中心に批判を展開したのである。(この点で菩提心を中心に据えた易行化を目指した『三時三宝禮釈』・『自行三宝禮功徳義』を生み出して行く原因になったと考えられる。)
日蓮聖人は易行面のみを論じ、教の勝劣を論じなかったという点で『摧邪輪』へ不満を感じたのではないだろうか。
三、『立正安国論』との相異点
では、このような法然浄土教批判の思想は、『立正安国論』にも表明されているものなのであろうか。権実判に関しては、「一代五時の間、先後を立て権実を弁ず」(『定遺』第一巻 二一八頁)と述べた箇所があるが、権実を弁えることは「法相宗 貞慶」「興福寺奏状」でも要求されていることである。
「興福寺奏状」
およそ宗をたつるの法、先づ義道の浅深を分ち、能く教門の権実を弁へ、浅を引いて深に通じ、権を会して実に帰す。(『鎌旧』三一二頁下)
この点『守護国家論』では、諸経と法華経の勝劣を論じ、明確な価値基準を提示したのに対し、『立正安国論』では「一代五時」という天台宗が立てる法(教判論)に依ることを表明したのみであり、意識的かどうかはわからないが、「勝劣」という表現を用いていない。勝劣と関連する無量義経の「四十余年未顕真実」の表現も引用していない。(後年、『立正安国論』広本では、「法華・真言の勝劣を分別し」とあるが、一二六〇年述作当時にはない。)
行の勝劣に関しては、先の『摧邪輪』の引用部分とも関連するが、大橋博士により念仏勝行説を主張する危険性が指摘されている。
念仏が易行であることを主張しても、(中略)教法流布となり得ても、余宗をおびやかすほどの力とたのむことはできない。しかるに、念仏が易であるとともに勝であるとするならば、明らかに念仏がおもてにおし出され、力強いあゆみをもって、他教団に比して堂々と教義を宣布することができる。こうなったとき、いずれのものにもひけをとることのない専修念仏は、他宗を凌駕して展開し得る。とすれば念仏勝行説こそは聖道門=旧教団にいたく刺激をあたえ、そのはねかえりとして専修念仏教団への迫害がみられるようになったのではあるまいか。
日蓮聖人が、「興福寺奏状」・『摧邪輪』等の念仏批判を読んでいたことは、『守護国家論』・『立正安国論』のなかで名を挙げていることからも確実であるから、右のような認識を有しており、意識的「勝劣」の表現を避けたとも考えられる。『守護国家論』にも次のような表現があり、日蓮聖人が『守護国家論』を撰述していた当時、さきにも触れたが、浄土宗側(「源空の門弟、師の邪義を救うて云く」)が、念仏が勝行であることを主張するのは、あくまで時機によるものであり、「易行の法をもつて諸教に勝ると立つ」と述べている。
『守護国家論』
ただ風勢なき末代の衆生を常没の凡夫と定めて、この機に易行の法を選ぶ時、称名念仏をもつてその機に当て、易行の法をもつて諸教に勝ると立つ。権実・浅深等の勝劣を詮するにあらず。(『定遺』第一巻 一〇七頁)
さらにこの点を意識していたのではないかと考えさせるものとして、『守護国家論』と『立正安国論』の『選択集』からの引用部分の特徴がある。
『守護国家論』は『選択集』の一、二、三、十二、十六章を挙げるのに対し、『立正安国論』は一、二、十二、八、十六章の順番で挙げているのである。特にここで注目すべきは、三章と八章の増減である。さきに述べたように、三章は「勝劣・難易義」という『選択集』でも特に注目すべき章の一つであり、この点を日蓮聖人も法華最勝論を論じる課程で重視したと考えられるのに対し、八章は明恵も問題した「聖道門を群賊に譬える」箇所である。『立正安国論』(『定遺』二一六頁)、『摧邪輪』(『鎌旧』三七五頁)ともに八章の「一切の別解・別行・異学・異見等と言うは、これ聖道門の解行学見を指すなり。」と言う箇所を問題としている。
さらに「群賊」の表現に関して、『摧邪輪』は「一切顕密二宗の仏法を指して群賊というなり。」と規定する。一方『守護国家論』では「念仏の一門を開きて、還って法華・真言の門を閉づ。末代においてこれを行ずる者をば定めて群賊等とこれを書く」(『定遺』第一巻 一二六頁)と法華・真言に限定的に表現しているが、『立正安国論』では「三国の聖僧十方の佛弟を皆群賊と号す」としてより広い意味で群賊を規定しており、この点でも『摧邪輪』との関連が注目される。
また『守護国家論』では『選択集』を「謗法の相貌は此の法を捨てしむるが故に、選択集は人をして法華経を捨てしむる書に非ずや」(『定遺』第一巻 一〇五頁)と謗法の法を法華経と規定したのに対し、『立正安国論』では「凡そ法華経の如くんば大乗経典を謗ずる者は無量の五逆に勝れたり。」(『定遺』第一巻 二二三頁)として、法を大乗経典と規定している。(「法華・涅槃の経教は、一代五時の肝心なり。」の表現もあるが、これは謗法の規定において引用した法華・涅槃が中心的経典であることを主張することにより、謗法の罪の重さを示そうとしたものであり、謗法の法を法華・涅槃に限定したものではない。)ことをまたこの点「興福寺奏状」の第四万善を妨ぐる失で「大乗を謗ずる業、罪の中にも最も大なり、五逆罪と雖も、また及ぶこと能はず。ここを以て、弥陀の悲願、引摂広と雖も、誹謗正法、捨てて救うことなし。」(『鎌旧』三一三頁下)と述べられおり、大乗経典を謗ずるという『立正安国論』の批判は顕密仏教側にも問題として認識されていたことが確認できる。さらに後世の無住の『沙石集』でも「ただ五逆と正法を誹謗するを除く」を問題としている。
同様の特徴は『選択集』引用箇所の主旨を陳べた箇所でも見られる。『守護国家論』では門人の言葉としながらも、「上人智慧第一の身としてこの書を造り、真実の義を定め、法華・真言の門を閉じ」と法華・真言を「閉」じることに限定して批判するのに対し、『立正安国論』では「法華・真言総じて一代の大乗六百三十七部・二千八百八十三巻一切の諸仏及び諸の世天等を以て」として法華・真言を代表としているが限定せずに大乗経典・一切の仏神を「捨閉閣抛」したと批判しているのである。
この点『立正安国論』では先にも示したように「法華・涅槃の経教一代五時の肝心なり。」(『定遺』第一巻 二二三頁)の表現があり、法華最勝を唱えているとの批判があるかもしれないが、法華経を重視するという点だけであるならば、専修念仏弾圧の史料である「念仏者追放宣状事」(一二六〇年 念仏者追放の奏状・宣旨・御教書・院宣・下知状の五篇を集めて政治的方面から法然念仏を破斥したもの)の南都の奏状の中に「殊に法華の修行を以て、専修の讎敵となす」(『定遺』第三巻 二二五九頁)との表現がある。自己所属の宗派の優位性を主張するという点では、八宗の代表(「八宗同心の訴訟、前代未聞なり。」)として貞慶が著した「興福寺奏状」においても「ここにわが法相大乗宗は源釈尊慈尊の肝心より出でて」(『鎌旧』三一五頁)と表明している。
さらに、永仁三(一二九五)年の『野守鏡』下巻(『続群書類従』二七号 五一二・五一三頁)にも浄土教批判を展開する中で、「法華経をよむべからずなどといふ事愚痴の至極なり。」「観経をよみて法華経をよまざるあり。本願の意楽にたがひ。真実の利益を失う。」として法華経信仰重視を表明した箇所がある。さらに後代の無住『沙石集』では「況ヤ法華ヲ誦シ、真言ヲ唱ヘテ、往生ノ素懐ヲ遂事、」と言った表現や、法華の持経者が、念仏門入り法華信仰を捨てた結果狂い死にした事などを上げており、顕密仏教側でも法華経を重視していたことは明確である。
おわりに
法然浄土教批判に限ってではあるが、いずれも日蓮聖人の撰述でありながら、『守護国家論』と『立正安国論』では表現に微妙なちがいが見られる。最大の違いは、批判(価値)基準の提示のしかたである。『守護国家論』での日蓮聖人は、なぜ批判を加えるのかということを、『選択集』第三章(念仏を何故「選択」するのかを述べた最も重要な箇所)を問題にし、法華経の勝行性を主張している。この点、日蓮聖人以前に法然浄土教を批判した明恵の『摧邪輪』は諸経・諸宗・諸行の勝劣すなわち法華至上主義を論じていない。そのことを不満として、日蓮聖人は批判を加えたと考えられる。一方、『立正安国論』での日蓮聖人は、批判を述べるのに、三章を問題視せず、勝行性も主張していない。さらに『摧邪輪』と同様に八章の「聖道門を群賊に譬える」ことを批判の対象の一つに挙げている。
その理由は、『守護国家論』を読むのは日蓮聖人の信徒・門弟であったのに対し、『立正安国論』は、時の権力者(北条時頼)などであり、未信徒であったからであろう。
それで日蓮聖人も、『摧邪輪』等の旧仏教側が批判した勝行性を主張することにつながってしまう『選択集』第三章を論ずることを避けたのだと考えられる。
日蓮聖人はこの二書を、とくに『立正安国論』を、後に自身が評したような「未萌をしるを聖人という」(撰時抄)といった予言書とするために書いたのではなかった。結果としてならば予言を示すこととなったが。本来は予言のごとき災難を避けることを目的にしていたのである。日蓮聖人の真意は、とくに『立正安国論』での真意は、時の為政者に、宗教制裁の見直しを求めることにあった。為政者に向けて書くことで、為政者の理解と支持を獲得することにあったのであろう。
なぜなら、日蓮聖人が自らに課した最重要課題は、日本国に法華信仰を広めること、であったからであろう。それを実現するためには勘文を上呈しなければならなかったし、上呈した以上は為政者に面会し禅も含めて広がりつつあった邪宗教を批判することで、宗教的新秩序への協力や支持の獲得に努めねばならなかった。
このような事情があるため、『立正安国論』での日蓮聖人は、言葉の選択にすこぶる慎重である。『守護国家論』では、聖人以前の浄土教批判書を批判したのに対し、『立正安国論』では叡山・興福寺の奏上(聖人以前の旧仏教側の浄土教弾圧要求)も、批判していない。諸宗は劣で法華が勝といった「勝劣」の表現は絶対にしていない。禅や八宗といった諸宗と関わってきた為政者の神経を逆なでするような表現は、実に慎重に避けたのである。
※1 浅井円道「五義判の形成過程の考察」(『大崎学報』一一八号)同「宗祖対法然房」(『大崎学報』一二八号、一九七六年)小松邦章「守護国家論の一考察」(『大崎学報』一二五・六五号)関戸堯海「日蓮聖人佐前教学の再認識」(同『日蓮聖人研究の基礎的研究』山喜房仏書林 一九九二)
※2 『守護国家論』と『摧邪輪』に関して考察したものとして、浅井円道「守護国家論と摧邪輪」(『勝呂信靜博士古稀記念論文集』山喜房 一九九六年)佐藤弘夫「守護国家論と立正安国論─その念仏排撃をめぐって─」(『北日本中世史の研究』一九九〇年)などがある。
※3 平雅行「法然の思想構造とその歴史的位置」(同『日本中世の社会と仏教』塙書房 一九九〇)
この点に関して、平氏は石井教道『選択集の研究 総論編』第三編第四章と石井充之『選択集研究序説』を引いている。拙者は前者しか管見に及んでいないが、そこには過去の研究史をまとめた上で、「道綽・善導によって樹立された実体をもって三部経を見るのであるから、第二章に明かす選択本願念仏の樹立が主体となり」と述べ二行章中心説を取っている。
※4 第三章中心説に関しては、近年ではほぼ常識になったといってよい。佐藤弘夫「中世仏教における正統と異端」(同『神・仏・王権の中世』法蔵館 一九九八)一二八頁 阿満利麿『法然を読む─選択本願念仏集講義』(角川書店 一九九九)などにも述べられている。さらに、この本願章中心説に立ち、その上で勝劣・難易の二義の何れを中心に置くかということに関しては、大橋俊雄・香月乗光は勝劣義中心説、平雅行・末木文美士・松本史郎は難易中心説を取っている。ここでは、その諸説をまとめておこう。
勝劣義中心説
大橋俊雄「法然における専修念仏の形成」(同『法然・一遍』岩波書店 一九七一)
難易義は衆生による選択、勝劣義は阿弥陀による選択と考え結果として「念仏が選択されるためには、易なるがための選択ではなく、余行に勝るが故の選択とすべきであって、易と勝とは次元は異にし並立すべきものではない。」としている。
香月乗光「法然教学に於ける称名勝行義の成立」(同『法然浄土教の思想と歴史』山喜房 一九七四)
称名の行が仏の功徳を享受する曇鸞、道綽の説があったことと示し、これらが勝劣義の根拠であったと述べる。その上で法然の選択本願の教説は、「称名が本願の行であることによって意義づけられているのである。」とし、その上で「このように功徳無上なる勝行の称名念仏が、同時に又易行なるが故に多念相続されて、恒沙無上の功徳を成ずるのであり、かくて選択本願の義旨が顕揚されるのである。」としており、勝劣・難易の二義の内やや勝劣義を重視する姿勢を示している。
難易中心説
平雅行「法然の思想構造とその歴史的位置」(同『日本中世の社会と仏教』塙書房 一九九〇)
「民衆的性格ゆえに難易義が高く評価されてきた。私もこれに賛成だが、」として難易義中心説にたつ理由を民衆性に視点を置いている。さらに平氏は従来(奈良・大橋)の説に関して、「勝劣・難易の両義は弥陀が念仏を選択した根拠であって、行者が念仏を選び行ずる時の根拠ではないことを見落としている。」と批判している。
末木文美士「慈悲と選択」(同『日本仏教思想史論考』大蔵出版 一九九三 以下末木①)同「新宗の開創とその論理」(同『鎌倉仏教形成論』法蔵館 一九九八 以下末木②)
末木氏の両論はともに「第一・二章では衆生の側から浄土門に帰入し、称名一行へと徹底する。」とし、第三章は「弥陀による称名の選択」「立場を転換し、仏の立場から与えられたものであったことを明らかに」する箇所であり、本書の中心部分としている。さらに末木②では、易行が「聖意測り難き」弥陀の選択により勝行に転換するものとしており、「弥陀の選択こそが念仏の絶対性を基礎付ける根拠となる。」としているのである。さらに末木①では「勝劣・難易の二義のうち、慈悲が説かれるのは難易義の方である。(中略)一つの考え方として、易なる念仏が弥陀の選択によって勝なるものに転化すると考えることができる。即ち、選択を経た念仏は絶対の勝行であるが、弥陀の選択の動機としては、それが衆生にとって修し易いという易行の点こそ重視されるべきであり、まさにそこに弥陀の慈悲の発現が見られるのである。」として難意義重視の姿勢をも表明している。
松本史郎「道元と批判宗学」(『駒澤大学禅年報研究所年報』第九号 一九九八)
「難意義を説明する論述の中に、法然の選択本願念仏説樹立の動機を認める」とし、末木①論文の「慈悲」に関しての指摘を「卓見」と評価している。さらに道元『弁道話』が『選択集』影響を受けたと言う説をも提示しており注目に値する。
『選択集』の何れを中核にするかの論争の中心となるものの一つとして、選択する主体は誰なのかという点がある。この点に関して、二行章中心説を主張する石井氏は曇鸞・善導によることで選択されるとする。勝劣義中心説を取る大橋氏は選択の主体を勝劣では弥陀、難易は衆生としている。これら二氏は選択の主体の中に曇鸞、善導にしろ、衆生にしろ人間を据えている点に注目される。一方、難易中心説は選択の主体を弥陀と考えている。
さて、ここで私見を提示しよう。実は私も第三章中心説を採る。理由は、名は体を表すではないが『選択本願念仏集』という題名と関連がある。法然は源信撰『往生要集』を重視していたことは、『往生要集』を注釈した本が少なくとも四本現存することからも解る。この『往生要集』は往生のことを述べた要文を集めたものという意味で名が付けられている。これに類して考えれば『選択本願念仏集』の題名の意味は、「選択」された「本願念仏」(善導の念仏説を本願念仏説と一般に呼ぶ。)のことを述べた文を集めたものという意味と考えられる。とすれば、ただの「本願念仏集」と名付けず、「選択」と冠したことは法然に取って重要なことであったと考えるのが順当であろう。では「選択」とは何か、一体どのような願なのかを述べた箇所こそが最も重要であると考えられよう。この点を述べた箇所こそが、本願章(第三章)である。三章は、念仏こそが弥陀が選択した本願であることを示した箇所である。ここではまず、法然は無量義経十八願を弥陀の本願とするために、まず無量義経四十八願を弥陀の特別な願とする。その上で「選択とは、即ちこれ取捨の義なり。」と「選択」の意を示し、無量義経の第十八願こそが「諸行を選捨して、専称仏号を選捨」する願と規定するのである。
さらに勝劣・易行の二義の何れを重視していたかというと、易行義と考える。理由は、構成との関連である。勝劣・易行が論じられた後に法照禅師の『五会法事讃』が引用されている。本来ならば勝劣・易行の両義の説明の後の引用であるから、両義を含む引用もしくは引用なしが本来の姿であるはずである。しかし、法然は易行義を強調する引用を行っている。さらに、難易義では文中に二箇所の引用があるが、勝劣義では引用文は無いのである。
※5 この点に関して浅井博士は「日蓮聖人の五義判の成立について─選択集との関連において─」(『印度学仏教学研究』第十三号の一 一九六五年)の中で「選択集を批判するときに、時機相応不相応を批判する前に教法の浅深を問題としなければならぬと主張した」ことを指摘している。
※6 勝劣に関しては、左のごとく観仏(心念見仏)を勝・意業・根本・深とし、称名を劣・語業・加行・浅とした箇所がある。しかし、これは、念仏三昧に限定した場合であり、称名を方便・手段といった相対的存在であるから劣としたのであり、他の行(例えば、法華読誦・真言修行)に比べて劣であるとしているのではない。
若し称名を以って念仏となす義に約せば、観仏をもって勝と為す、意業内門を転ずる故に、称名行を以って劣と為す、語業外門転ずる故に。(中略)既に心念見仏を以って根本と為す。明らかに知れ称名は是れ加行なり。是また称名を以って浅と為し、定心を以って深と為す。(『鎌旧』三六二頁下)
※7 『定遺』第一巻 一〇七頁 またこの法然の門弟と『守護国家論』との関連を論じたものとして、中尾堯「日蓮聖人の浄土宗批判とその意義」(茂田井教亨先生古稀記念論文集刊行会編『日蓮教学の諸問題』(平楽寺書店 一九七四年)がある。
※8 この点を日蓮が意識していたと考えられる箇所が、後世の遺文である『薬王品得意抄』にも見受けられる。
問うて曰く、この経この品に殊に女人の往生を説く、何の故があるや。答えて曰く、仏意測り難く、この義決し難きか。ただし一つの料簡を加えば、
右は女人往生に関して問答の表現であるが、本願章の「聖意測り難し」に対し、「仏意測り難く」、「たやすく解することあたはず。」に対し「この義決し難きか。」、「然りと難も今試みに二義をもって之を解せば、」に対し「ただし一つの料簡を加えば、」といった似通った表現があり、先の本願章の文章を意識していたとも考えられる。
※9 「浅深」の表現に関しては、「法水の浅深を斟酌し」(『定遺』二二四頁)とあるが、やはり深を法華、浅を念仏と規定しているわけではない。又、『守護国家論』では「権実・浅深等の勝劣を詮ずるにあらず。」との表現もあり、権実・浅深ともに本来は勝劣を論じるためにのものであったのであり、ここでも『立正安国論』が勝劣を論じない点は不自然ではないだろうか。
※10 大橋俊雄「法然における専修念仏の形成」(同『法然・一遍』岩波書店 一九七一)四一七頁を参照のこと。
※11 『守護国家論』での『選択集』の引用は、第一章は大文の第三(『定遺』第一巻 一〇七頁)第二・三・十二・十六は大文の第四(『定遺』第一巻 一一六・一一七頁)に、『立正安国論』での引用は第四問答(『定遺』第一巻 二一五・二一六頁)にある。
※12 『選択集』の引用に関しては、関戸堯海「日蓮聖人佐前教学の再認識」〔以下 関戸①と省略〕(同『日蓮聖人研究の基礎的研究』山喜房仏書林 一九九二)同「『立正安国論』にみる日蓮聖人の浄土教批判」〔以下 関戸②と省略〕(『浅井圓道先生古稀記念論文集』平楽寺書店 一九九七年)に詳しく論じられており、そこでは八章の引用が「『立正安国論』執筆の準備的著作」とされる『災難対治鈔』にもないことが指摘されている。(関戸① 五〇四頁)
※13 十二章の後に八章を挙げる考え方に関して、関戸②では「「聖道・浄土」「難行・易行」「雑行・正行」という一代聖教の分類にもとづき、念仏こそ永遠に閉じることのない法門であり、聖道門の人々の妨害を乗り越えて、浄土門に選び入ることを説く法然の主張を浮き彫りにするためであると推察される。」と指摘している。
※14 未木文美士『日蓮入門』(筑摩書房 二〇〇〇)では、「実際、『立正安国論』では『法華経』のみの優越を説くことなく、仏教一般という立場から浄土教だけを徹底的に攻撃するという方法を取っている。しかし、それは幕府に対する上書という性質上、いわば戦略的な意味を持つものであり、『法華経』を表に出すことなく、受け入れやすいように配慮されていると考えられる。」(一一五・一一六頁)とある。