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現代宗教研究第43号 2009年03月 発行

明治維新以降の神道についての研究

研究ノート

明治維新以降の神道についての研究
山 田 孝 行
 
 
 明治時代に「宗教」という和訳が準備され、そこでは神道は非宗教と位置づけられた。
現代宗教界では多くの人が神道を宗教法人下の宗教と認しているが特に「国家神道」「国体神道」のとらえ方に問題を残したままであり、正確なところは神道者間でも微妙である。
 国体神道の見方は、明治維新から第二次世界大戦に主流となる神道思想。国体は国柄、政治的にも文化的にも天皇を中心にする日本国家だと示される。
 国家神道の見方だが近世「国家神道」は時代的に大別三と分けてみた。
 「初期の国家神道」は真宗策略の「神社非宗教論」を政府が採択して明治三三年に神社局を独立させた処にある官僚管理神道。
 これは「官僚管理神道・国家神道」と「国家管理外神道」を区別する為に使われており、この時点での「国家神道」の語句は一般国民にはなじみのないものだった。
 よって後に戦時を語る時に使われる「国家神道」とは異なるものと解釈できる。
 「中期の国家神道」は「官僚管理神道・国家神道」を基に「啓蒙合理主義」の押付的神道。
 「後期の国家神道」は「啓蒙合理主義」の押付が強制化・軍政化し国民精神を支配したもので軍政国教化・軍国主義の支柱の神道。
 これが戦時を語る時に使われる「国家神道」であろう。
 神道の起は大和の時代以前に始まり、首長霊信仰(各国魂)を崇拝していた。大王(おおきみ)の発生から各国魂は現人神化され、後に天神と地神に別けられ各祖神により豪族序列が定められる。奈良時代には“神国”の表記があり、国家的神が定着している。
 仏教・天文・気象・呪術などは一般庶民に漏れないよう中央で管理される中で、次第に神仏習合の受入が始まり、大化の改新以降は官政管理下にありながらも武家公家への信仰が普及し国内交通網の整備とともに一般にも広まりはじめる。後に神道は仏教と棲み分けと共存をしながら時代に合わせ変化し江戸時代まで続く。
 明治維新により神仏分離令を発し維新政府は祭政一致を宣言した。神社社家は世襲廃止令のもと官選となり社格制度が整う。しかし新憲法制定に向けて次第に“国家の宗祀”という原則を放棄し始めている。国家と神社の切断が始まり神社は人民信仰の共有物化される。信教の自由に始まる“勢力を増すキリスト教”に対抗する為の国民教化政策推進を目的とした教導職が準備され僧侶・神職が任される。さらに大・中・小教院が設置されるが祭神論争が興り真宗は祭神論争の収拾を政府に提言し祭祀と宗教の分離が行われた。神社は非宗教と位置づけ神職者教導職を停止。これに対し神社は団結し処遇改善を求める。明治憲法が制定され教育勅語“全国民的な教え”また国体の顕現・御神徳発揚が神社の本務と位置づけられ神社側が立ち直りはじめ、つづく日清日露戦争の勝利で神社界は勢いづいていった。
 行政管理下の国家神道も他宗教(仏教・宗派的な神道)も軍政下ではあったが、このころ迄の軍政と軍令は善く一体化しており戦略も“勝利の証”も示されており軍部の暴走はなかった。この時期では軍部神道的「国家神道」は姿を顕していない。ところがシナ事変頃には政府が神社界に介入し強制参拝などが行われるようなる。天皇機関説を封じ国体明徴論を掲げ天皇神権説へ進む。軍政化が進む中で国家神道が軍政神道化しはじめ宗教統制教化が始まり宗教団体法が制定されている。二・二六事件以後はさらに天皇神格化が進み軍政統治権は軍令統帥権の下となり天皇→軍令統帥権を持つ軍部→皇道主義→軍令神道となっていく。
 「国家神道」という名は「軍令神道」の本名にされた。国民を軍部神道漬けたままで戦略も“勝利の証”も不明で戦争終結を知らない大本営に対して首相陸相の東条英機は海軍総司令官の戦死後に、戦線不利は軍政と軍令の足並みの揃わないことに問題があると考えて統帥権と統治権を“東条英機”が兼ねる事を天皇に要望する。天皇はこれを許可はしなかったようだが、杉山元参謀総長と山田乙三教育総監を前にして陛下がの了解を得たと宣言したようである。直ちに杉山が陛下に訪ねると陛下は否定せず濁したとされている。
 明治憲法上で認められない「軍令」と「軍政」を兼ねた“東条英機”は“天皇と同等の発言権”を持ち軍事政権を“神国・皇国に負けは無い”と神憑的迷進した。併せて海相の嶋田繁太郎も軍令部総長を兼任し東条と嶋田が全ての決定権をもつ東条幕府となってしまった。しかし戦術の失敗は続き近衛文麿等による東条おろしが始まる。求められる内閣改造と陛下の「軍令と軍政は分けてある方がよい」の詞を受けた後の昭和一九年七月一八日に東条内閣は総辞職した。新たな小磯内閣後も戦力低下は進み陛下は続く鈴木貫太郎内閣に終戦を期待した。鈴木は戦争を進めながら和平を探ったが答えの出る前に敗戦を迎えポツダム宣言一三条を受諾し東久邇宮内閣により戦後復興の第一歩を踏み出した。
 東条政権下から戦争終結直前までの軍事神道の統一的教学説を説いていたのが宮内官の星野輝興であるが、星野神学は戦後直ちに否定されていく。このあたりの説前が不十分なまま軍と民から祭り上げられた「国家神道」は“軍部”の二文字の心が消えず危険思想と見なされ敗戦と自由の指令により、その誤解が解けぬまま「神道指令」により廃絶へ向かう。
 一般宗教を、①教義は固定され、②教学は短期間で変化することなく、③教化を応用論と置くならば、江戸末から明治初期頃の神道は逆であり、ことに国家神道に向かう頃は③教化応用(国民精神統一)に合わせて②教学(道徳観)を変化させ、教学に合うように①教義(皇室位置・神道思想)を変更してきた。しかもその担当は神道家ではなく官制下であった。
(以下、発表時の持参資料を整理したもの)
 ファイル……1 
 
○王政復古と政教分離
 慶応三年一二月九日“王政復古の大号令”
 徳川内府、従前御委任ノ大政返上、将軍職辞退ノ両条、今般断然聞シ召サレ候。抑癸丑以来未曾有ノ国難、先帝頻年宸襟ヲ悩マセラレ御次第、衆庶ノ知ル所ニ候。之ニ依リ叡慮ヲ決セラレ、王政復古、国威挽回ノ御基立テサセラレ候間、自今、摂関・幕府等廃絶、即今先仮ニ総裁・議定・参与ノ三職ヲ置レ、万機行ハセラルベシ。諸事神武創業ノ始ニ原キ、縉紳・武弁・堂上・地下ノ別無ク、至当ノ公議ヲ竭シ、天下ト休戚ヲ同ク遊バサルベキ叡慮ニ付、各勉励、旧来驕懦ノ汚習ヲ洗ヒ、尽忠報国ノ誠ヲ以テ奉公致スベク候事。(明治神宮編『明治天皇詔勅謹解』・王政復古の大号令)
 これは徳川内府の辞任を認め王政復古の宣言文であり、徳川幕府が大政返上の直後で維新政府成立直前に出された号令で維新の基礎になる重大な文書とされる。岩倉具視の宣言文だが、これは過激な神道派で国学論者の玉松操(後の玉末真広)が岩倉に進言し出されている。この頃に玉末は岩倉の賓師だった。「神武に戻る」の詞は幕末の水戸学・本居・平田の復古神道派や漢学者や国学者の維新推進派にしても好都合だった。そして明治元年三月には『祭政一致の制に復し、天下の諸神社を神祗官に所属せしむ』と表明する。この後に神仏分離令が発せられ神道人と維新派の願いは実現に向け急加速してゆく。
 岩倉に対して激派神道思想を持つ玉松は尊攘神道者を集結して祭政一致の公約を盾に京都皇學所(現皇學館)を神道教学の本拠にすることを要求する。対する皇學所側には新政府の開明派精鋭人が在し反対意志を表明した。この結果、岩倉は玉松に多くの敵があり危険と判断し敬遠しはじめている。これは明治四年には玉松が懇意にした檄派重要人は検挙される事実がある。この頃に政府側の動きだが、明治元年四月に太政官の一官に神祇官を立て翌二年七月八日に神祇官は太政官から外し独立させている。職員として国学者や儒学者を入れて職務は宣教使官員として国民教化活動をさせている。また祭政一致を「詔勅」を示し寺と神社の境内地を上知させ国有にした。また「神社は国家の宗祀につき、神官以下神社の世襲神職を廃止」という神社を国家的存在に近づけもした。ほかに『官幣社以下の社格制度』などの法整備を行ったことも揚げられる。しかしながら神祇官は少ない職員数と捗らない職務内容から明治四年八月に神祇省となってしまう。さらに八ヵ月後の明治五年三月には改変しても実行力が乏しい神祇省を廃止して、それまでの欠点を補う教務省に替わっていく。教務省設置は神仏儒三教合同の共同政策だと決定をするのだが、これ教務省設置を岩倉に進言願い出たのは真宗島地黙雷と強くキリスト教を避ける長州攘夷派だった。教務省には地島系・長州攘夷系ほか神道者らも勤務した。しかしながら準備が整った後も神仏儒三教合同政策の開始とならず、頼る岩倉・地島等は海外視察へ出てしまっている。現在と異なり長期外遊なので留守番役を置くが、これが西郷等でありその為に薩摩系や攘夷神道系のスタッフが中心となってしまい真宗の思惑から外れてしまう。その結果、大教院は神儒思想のままで仏教色は薄かった。地島は明治六年に帰国し大教院の現状を非難した。さらにキリスト教を阻止するために教務省設置を要望していた地島は態度を反転し信教の自由と政教分離を掲げてしまう。併せて真宗は大教院の脱退を主張する。
 真宗の地島の意図する処は①皇室国家の神道は宗教ではなく“政令であり治教”だから国民の誰もが肯定すべきである。②国家神道と非国家神道は分断を必要とする。③存在した非国家神道及び教派神道(宗教性の神道)は邪教であり廃すべきだと言う。この三本の柱を掲げた。そして地島は「神道は皇室の治教にして、宗教に非ざるなり」という重大発言をした。
 その頃に伊藤博文は明治三年から米国法学を研究し米国の信教の自由、政教分離の法学の存在とドイツ法学の国教の必要論の存在で頭を悩ませていたが、結論は米国法学を取り入れる事になる。この信教の自由と政教分離へ進む要因が先の発言「神道は宗教なる者に非ざるなり」であり明治七年から十年にかけて政府の政教分離の指針と定まる。
 
○時代の流れ
 明治一〇年西南の役で西郷隆盛は没し、残る大久保利通は伊藤博文を信頼して起用するが、大久保も一一年に暗殺されてしまう。政府内には信教の自由と政教分離(神仏平等)を求める思想が強くなっていた。
明治一二年太政官達には
 「府県以下の祠宮祠等ノ等級ヲ廃シ、身分取扱ハ一寺住職同等タルヘシ」(明治一二年一一月一一日付)
と達した。これにより明治六年から変化の無かった日本国は新たな動きを始める。
 明治四年に定めた規則は意味の無いものになり、政教分離主義により他の宗教と同一視されたのである。明治一五年神官教導職を分離、神官の宗教活動を禁止、神道葬儀も執行停止の閣議同意を得る。明治一七年神仏の教導職(国家制度)を廃止する。そして期限を定めず当分の間は私的宗教活動と神道葬儀を認めるとした。政府は明治一九年にそれまで暫定管理の必要性があった神社への国費支出を明治二五年をもって廃止の決定をする。国は帝国軍事、経済、文化と繁栄していくが神道の地位は衰退し始めた。
 明治二三年憲法は制定される。時を同じくして神祇官復興運動で神道家の巻き返しが始まる。明治三二年内務省の社寺局神社課は廃止され神社局ができ『国家の宗祀』として他宗教と区別された。これで官制の“国家神道”が確定した。
 憲法制定時の“非宗教”の理解は二別されており政府側は“宗教と異なる別のもの”であり宗教活動は制約されるものとし、衆議院側は“日本精神の骨格なので一門一宗とは異なり上位に位置するもの”と位置づけての憲法成立である。
 明治三三年の政府の宗教法案は各宗平等を趣旨としたが賛成不足で廃案になっている。この原因には仏教諸派が仏教国教化を期待して反対したとも残されている。(後の昭和一二年林内閣では『神仏儒三教習合の国教制』を意図したが昭和一三年近衛内閣で否定し「国教選定の意思なし」と表明している。)この後、日露戦争が始まる。各宗教は“大日本宗教者大会”を開き戦意に同調し、各信徒も必勝を願うのだが“国家神道の神社”は宗教活動の制約から臣民に対して必勝祈願指導ができなかった。戦中でも従軍僧に対する従軍神職は付けられない。
 次第に政府により神仏習合時代の神社境内も神社神道も合理的に整備されてゆく。国家管理の浄財献金により明治神宮が創建される。祭儀礼典(法式)は正統派古典有識者により統一化され不良神職は正された。内務省の公式見解で神社“非宗教”の解釈は「国家精神(国民道徳)以上のなにものでもない」と解された。さらに神社は国家に功績のあった偉人に対して伝統的礼法をつかい敬意を表すところであり、神主は記念堂(神社)の管理人兼礼法執行者である。それまでの神道精神を捨て仏儒キリストなどと同一の国民精神を要求された。それを拒否するならば教派神道へ道を求めろ……という雰囲気であった。これは神社局が神祇院に代わっても同様であった。
 『国家神道』の位置を知るのに大東亜戦争中に出版される『神社法』が揚げられる。その一部を要訳すれば「人格神(神格化した偉人)と自然神(山川・草木・鳥獣)、観念神(哲学的)の三つに別けられる。そして神社に祀られるのは人格神のみである。この人格神は皇祖・国家に功労ある者、戦争事変の殉難者などである。これらは皇国の鎮護たる神社に相応しいもの」とある。これは神道の精神的信仰を神社から捨て出すことであった。国家神道が神社神道に対して重圧を加え、諸論も加担した時代である。
 大正時代の神社局は大きな変化は見られず、大役なはずの局長も思想とは縁遠い腰掛的局長だった。行政法の「神社は宗教に非ず……」を知る程度と言われた。しかし大正時代は思想活動が活発化する時代であり右翼思想は尊王攘夷を思い出させる『神国思想』も持っていたが、まだ組織体系を整える思想統一はできなかった。象徴的右翼団体として黒龍会(内田良平)があげられる。内田は日清日露時代から武力主義者として名を知られており後に大日本生産党総裁になる。この大日本生産党は神祇官設立も思案にもっていた。内田の思想は皇道大本教(戦前期)の出口王仁三郎と一致していた。帝国政府「国家神道」は右翼的「神道思想」に圧力を加えていった。反政府運動に「国家神道」と「神国思想」が大きく絡み“亡国政府と位置づける帝国政府”に向けられ「国家神道」を蔑視し反対した。そのなかで昭和一一年に二・二十六事件が興る。大陸戦は昭和一二年に日華事変に進んでしまう。徴兵されていく兵士から“祖国神国意識”が生まれてくる。それまでの従軍僧侶の葬儀を退け従軍神職の葬を望む兵士の増加でも明らかである。布教や葬儀を禁止されているので非国家神道・教派神道の従軍神職だった。
 昭和一六年の大東亜戦争の頃には『神国思想』は急速に発達し国民総意の勢いを見る。しかし帝国政府の法令に基づく国家神道は国民の心に感動を与えるようなことはできなかった。時の日本人が神道思想を求めるならば明治一五年以前の制定前の神道に戻るか教派神道や神道新派に行くしかない状況だった。そして祖国を護れとばかり、様々な古典神道が呼び起こされた。戦時下において国民の持つ神道思想はそれまでの『国家神道』思想を眼中に入れる事などなく進んだ。旧来の国家神道下の神道人は“思想的に無力無能”とされ新たな国家神道から押し出され、新たな戦事国家神道を創造する星野輝興等の思想家が座した。
 
○国家の宗祀
 まず神道国教化であるが神道側の基本理念『国家の宗祀』という表現は明治四年の太政官布告中に神職の世襲を禁じた法規の部分に初めて出てくる語句であり「神社の儀は国家の宗祀にして一人一家の私有すべきに非ざるは勿論に候云々」にある。法律を定めるには日本が三大神勅に従って万世一系の天皇を奉戴してきた歴史と現実から『国家の宗祀』は 重要であり、天壌無窮の寳祚と共に万邦無比の国体を為すものであるという国家の宗祀としての神道の立場を保証した箇所である。
 国体の語句には、神道記録中の最古は『出雲國造神壽詞』にある。国体をクニガタと読み、このクニガタは『日本記』の景行記で地形と変わる。当時の文中にある“クニガタ”は心理的用語と異なり地理地形の用語として使用されていたが、維新の頃から“日本国の精神的心理的な体裁”の意味として使われてくる。
 神道は神仏分離を促す復古思想が勢いづくまで、日本史の仏教枠に長くその身をおいていたといえよう。仏教伝来以前には『神道』という枠切りは存在せず神道という表記は輸入教と分類する為にあった。その神道は輸入教の勢いが増している時期や戦国時代の混乱の最中でも、国民の崇敬を受けていたのは事実であり、これは日本に住まう人々の生活に、神道と呼称される以前からその観念が、国民道徳・生まれ持った心として既に浸透していたからであろう。
 この国民道徳というものは、何も日本のみが有しているわけではなく世界各国にも国民道徳観は存在し、各国の建国精神に基づいて形作られるものである。日本においては唯一存在する天皇の聖徳と皇祖皇宗の遺訓、祖先の威風と歴史とを国民が自覚する事により発現継続したものであるとして、戦前までのその神道観は日本国の近代的展開の歴史と国民生活の歴史により堅実な精神が伝承されて来たとする。
 神仏分離について神道は宗教であるか否かの問題について激しく論議されているが、これは神道が国家の宗祀という公的な面と国民道徳の根幹という性格を持ち、国民の神社崇敬による私的な面が存在するからである。神道国教化にむけて前段階としての神仏分離の必要性が発生する。すなわち神仏習合の本地垂迹思想を翻し、神社より仏教思想を取り払う必要があった。これに伴い強い廃仏論を持つ国学者等の拙論とそれに迎合する側の国民により激しい“寺こわし運動”が展開されたのである。常識を逸脱した行動も政府は黙認を続けたが、政府は強硬な廃佛運動がキリスト教勢力の増強に成りかねない事を想定して寺院保護にも努力する結果を招いた。この弾圧運動により神道は新たな国家神道を生み揚げ外策から先に復古したわけだが残る中身の思想界を救済が必要だった。そして政府は国家神道の大精神となる“皇道”を標榜し宣教して国民思想の統一を図っていった。
 ここで神道を国教化(国家神道化)するにあたり神道の宗教性の有無を確認してみる。
 以下は法律上から神道を考察する足立收先生の論文からの引用である。
神道を宗教であるとする説としては
 
 イ 比較宗教学の見地からして神道は一般宗教の発達進化の過程中に包含せらるるものである。
 ロ 神社成立の起源について見れば、神社は国民の宗教意識によって成立したものであって、祈願祈祷の如き宗教的要素を含むものであるから宗教である、故に国民の宗教意識から見た所謂社会意識上の神社と、国法上の神社とを区別しなければならぬ。
 ハ 神社現在の実状に鑑み現に種々の宗教的行為をなす神社は事実上の宗教である。
宗教と異なるという説は
 い 神社は教祖教典を有たない点が一般宗教と異なる。
 ろ 神社は普通宗教の如く未来を説かず。
 は 宗教は元来個人の心霊教濟を目的とする個人的のもので、神社の信仰は国家的なるをもつてその本義とする。
 上記は、法律上で信教の自由が掲げられる中、国家の宗祀として存在する神道の扱われ方が活発に論議されていた時期のものである。また『神霊と人間の交渉を本義とする現象が宗教であるといふ風に定義』するのであれば宗教として分類でき、『狭く現在のキリスト教、仏教等所謂既成宗教の範囲に限つてこれ等と神社とを比較する』ならば、宗教に含むことはできないとも足立先生は著わしている。
 この問題について考えてみると、神道の性格から考えて世界宗教として既に各国に知られている“宗教(例にキリスト教)” という枠に対して、独自の発展をした神道は当てはまらないのという結論に達する。それなのに何故神道は宗教であるか否かという問題で議論され続けたのは、国民道徳同様、当時の先進国に『宗教』の存在は必要不可欠なものだったからではないだろうか。神道から見れば日本国は外来宗教を輸入し国産化した日本仏教が浸透した処と考えられ、しかもその考え方は純粋な国家宗教を持たない国とも位置づけられてしまう。つまり“宗教のない国”の存在は当時の外交上に問題があったので、国家神道はいつまでも宗教か否かという議論が付きまとわざるを得なかったのだ。これが昭和二〇年まで続いている。神道は非宗教と位置づけから神葬祭の禁止令が出されていた。しかし従軍僧侶の読経で成仏を求めない神道信仰者は従軍神職者を求め、従軍神職者は準備されていった。
 
○軍部と天皇と神道
 軍事主義が横行している最中の軍部は、天皇の発言には国を左右する程の重責を負わせ、沈黙を余儀なくさせてしまったのであるが、戦後になって天皇を悪として考える場面はなく、むしろ戦後において敗戦と言う屈辱を負いながらマッカーサーと対面していたり、また国民の前によく姿を晒されるようになった事に好感を持たせるような場面が多く見られるようにされている。
 ポツダム宣言を受諾する際、鈴木貫太郎首相らは敗戦によって天皇の戦争責任が問われて天皇制がなくなる事を恐れた。その時トルーマン米大統領が国体を守る事、天皇制を存続させる条件を飲んだ形で事実上終戦を迎えることができた。すなわち象徴天皇としての残されたわけだから好感の持てる場面がおおいのも当然である。天皇というよりは軍部の動きというものが問題であったという見解になるのであり、このようになってしまった原因として、“統帥権”の問題があげられる。もちろん、当時はこれを有するのは唯一天皇のみである。この問題において、昭和初期に陸軍大学にて扱われた『統帥参考』の該当箇所を引用してみる。
  帝国の軍隊は皇軍にして、その統帥指揮は悉く統帥権の直接又は間接の発動に基づき、天皇の御親裁により実行し或はその御委任の範囲において、各統帥機関の裁量により実行せしめらるるものとす。
  統帥権の行使及びその結果に関しては議会において責任を負はず、議会は軍の統帥指揮並びに之が結果に関し質問を提起し、弁明を求め、又はこれを糾弾し、論難するの権利を有せず。
として、日本の軍隊は天皇に仕える軍隊であり、その活動においては議会とはいっさい関係のない、独立した権限の下に成立しているのであるから、如何なる 干渉も受けない……というものである。
 
○軍部
 『軍部』とは軍の政策や戦略を司る中央部分のことであり戦地兵士ではない。そして軍国主義は中央からの命令や戦略とそれらの認識の位置が好戦的な雰囲気の状態と捉えたい。
 その構成は全て軍人という枠にある。そして軍人は兵士の一般戦闘員と命令系統の職業軍人に別けられる。軍部に就く軍人はおよそ職業軍人である。この職業軍人になるには陸軍士官学校や海軍兵学校などの養成機関を卒業する必要があった。
 山縣有朋は明治六年の国民皆兵(徴兵令)をだし、陸軍幼年学校・陸軍士官学校・海軍兵学校をつくった。海軍主体だったが西南戦争では陸軍が必要だったので後に陸軍優先となる。
 臣民は陸軍幼年学校に入ることは誉れであり格好がよかった。続いて士官学校を卒業すれば少尉になれた。原則になるが徴兵での兵士は少尉にあがれなかった。士官学校出は狭き門ながら望めば陸軍大学に進み高級将校になる道もあった。この高級将校の中の優秀者が軍中枢に勤めることができた。卒業一期生には東条英機の父英教がいた。『統帥』について帝国軍は皇軍であり陛下の命令で活動するものであり天皇の軍隊だと教え込まれた。統帥権を有する側“軍部”は統治権側(政治)から一切の干渉を受けない独立したものと位置づけ秘密裏な行動が王道を進んだ。この統帥権が昭和で強力になってしまい予備士官学校・航空士官学校・憲兵学校・飛行学校・歩兵学校・騎兵学校などを作り上げる。後に統帥権は終戦まで影響を及ぼすことになる。一方の海軍兵学校は明治九年に作られる。陸軍士官学校と同じだが幼年学校に相当するものは無くかなり狭い門だった。明治二一年には海軍大学が用意される。陸軍はドイツ型で海軍はイギリス型で教育された。日清戦争後に日英同盟を経て軍艦が輸入、造船技術の向上・日露戦争でバルチック艦隊を破り日本は国防に力を注ぎ始め高度国防国家を目指した。陸軍はロシア・海軍はアメリカを仮想敵国にして方針を定めた。大正七年に第一次世界大戦が終わり日本は大型船を配備することになり海軍は人員増加を進めた。そして軍部の暴走を許す大きなきっかけとして“二・二六事件”があげられている。青年将校の言い分は「天皇の側近は臣民の意見を曲げて報告している。したがって側近を討つ……」だったが、対して天皇は「青年将校を討伐せよ」と意思表示した。結果はテロを引き起こした人間たちの気持ちとは裏腹に、軍部の増長を促す一要因となった上に、天皇の発言が事を大きくしてしまった事から、以後に天皇自身が沈黙する起因にもなった。
 第二次世界大戦前、人口の一割は兵士になってしまう。国防と兵士を管理するにあたり、日本軍は天皇の下に軍令(戦争方針決定機関)と軍政(行政機関)の二部門をおいていた。軍令が統帥部であり大本営である。この統帥部はさらに海軍(軍令部)と陸軍(参謀本部)の二つに分かれていた。軍令部内と参謀本部内のトップが“作戦部”と称されている。この“作戦部が軍部”と指されるところである。陸軍参謀本部には統帥権があるが陸軍省は統治権側であり参謀本部には何も言えなかった。これは軍令部(統帥権)と海軍省(統治権)も同様である。この統帥権と統治権が合同会議を開くが、この会議を『大本営連絡会議』と称した。この会で議決された事項は御前会議で天皇の判断を仰いだ。しかし多くの事項は判断を仰ぐより追認をさせる会議だった。つまり大本営が最高機関であり、しかも統帥権を持つ軍部の思うままになっていた。開戦直前の戦力比はアメリカが一〇に対して日本は一の数値だったが統帥権側の東条は四対一に置き換えてしまい、そこに日本人の精神力という係数を使い五分五分と結論付け開戦可能とした。
 
○天皇神格化
 時期を同じくして天皇の神格化に関しても忘れてはならない。美濃部達吉による「天皇機関説」において、統帥側は神経質な態度を見せた。この頃から国体が強調され、「国体明徴論」(天皇があって国家がある)を徹底するよう通達し、天皇神権説へエスカレートさせていった。この天皇の神格化は後の神道指令を発する占領軍側に注目されてしまう要因になってしまった。
 昭和一二年『国体の本義』が刊行され「日本人は天皇の臣民であり、たとえ一身を賭しても天皇に忠で奉公しなければならない。西洋諸国とは異なり、日本では天皇と臣民との関係は、一つの根源から生まれ、一体となって栄えてきた。これが即ち日本の大道であり、日本の進むべき道の根本である。この一体の道を現じ、日本は他国に例を見出すことがないほど優れ栄えてきたのだ。そこにこそ世界無比の日本の国体があるのであって、欧米思想に毒されずに、世界に冠たる日本の伝統、文化を守り、全てのことはこの国体の道に帰して考えるべきである……」と記されている。ここに皇道主義が明確に発生した。
 軍部統帥政権が確立されると民衆運動は弾圧され国民精神総動員運が推進されていく。これにより国家神道を除く各宗教団体は監視強化さされ昭和一四年に二ヶ月という短期間で宗教団体法が成立する。これは宗教を保護監督といいながら絶対主義天皇制を確立し各宗教団体を国家神道に従属させる目的があった。また宗派合同も要求され日蓮宗は他門と合同した。さらに大正一四年に制定されていた治安維持法は昭和一六年に改正され反政府運動をそれまで以上に強く制圧した。宗教団体法と治安維持法の宗教弾圧により各団体は教義を無理矢理に拡大解釈して軍事政権に従属せざるをえなかったのである。
 昭和初期に小学校入学時「天皇は神様である……」を厳しく教え込まれる。昭和初期には、既に天皇の神格化は教育現場においても浸透していたのであり、そんな中で美濃部氏による『天皇機関説』は日本中枢の人間からすれば横やりを入れられたような形であったのかもしれない。しかしながら天皇は美濃部に対して理解を示したと言われている。
 また、この頃は小学校において「国の為に命を捧げることは立派である。靖国神社に祀られる事は臣下にとっては最高の名誉である。」と教えられていた。徴兵制は昭和以前からあった訳だが『挙国一致』と『尽忠報国』の下、兵隊になることは名誉であり成人男子の証とされていた時代である。むしろ、戦争に反対するような態度を見せれば、“非国民”のレッテルを貼られる世の中であり、特攻隊への志願者を募る際も多くの青年が悩んだ訳である。
 軍部と直接関連する神社はおもに靖国神社(招魂社)である。当時のメディアにおいても「靖国神社で会いましょう」といった内容が報じられていたのだ。こうした教育は日本の歴史が生み出した愛国心によるものであり、戦争は国を発展させる為の命のやり取りだと教え説かれ、戦争は軍部側の設定でしか出来なかった。軍部は兵士教育に“捕虜の保護に関する協定”が存在する事を含めなかった。これにより捕虜になる前に自刃玉砕する兵士は多く、実際に捕虜になって初めて保護協定を知らされている。軍部の教育方針は武士道を歪曲させた軍部道と姿を変えていた。玉砕や特攻には愛国心という道徳精神と武人の精神とされる大和魂の存在が観える。切腹という独自の生涯の閉じ方の文化を日本は有していた訳が西洋圏ではキリスト教の影響で“自殺のたぐい”は御法度である。日本の場合も快くは思われていないが、自刃に関しては畏敬の念を持って礼を尽くす傾向にある。
 軍部道の正当性を強調する靖国であり精神を天皇に捧げ、魂は軍部制作の国家神道の本社となる靖国神社に祀られることを栄誉とすることが大切だった。
 神道指令にて危険とされた国家神道は、戦時中の軍部制作国家神道であり、それまでの国家神道の“利用できる部分”の抽出したと考えることもできる、神道指令の概念規定によれば、民族的優越感と戦争賛美思想を指摘している。非常に限定的な点しか言及できないことからも米国は日本神道を理解していないと推察できる。
 
○軍部の国家神道
 戦後の歴史は終戦の結果を受けて、都合よく用意された経過で構成されているように思えるのだが各国の戦争を見るに、まず戦争は第三者の善悪判断は下しにくい面を持ち供えている。その戦争の終戦後に絶対の原因を一つに絞ることはできない。そして悲しいことに勝利を収めた側の都合で敗北した側は扱われてしまう。遙か昔であれば殲滅も免れなかっただろうが、近年においてはそういった熾烈を極めるような戦争は行われていない。戦争の根底にあるのは、宗教圏の違いからの争いと、そして領土拡大または利益の為の戦争である。前者の場合は日本以外の世界各国で現在でも頻繁に行われている。過去の日本の場合に琉球王国やアイヌ民族とのケースは例外として日本に根付く宗教というものは国民の道徳観や寛容な国民性の下に日本国風にアレンジしてしまう為、宗教戦争に発展することはなかった。
 他方の利害関係によって成立する戦争を考えてみると、日本も隣国の朝鮮半島や中国に対しては身に覚えのある事実である。しかし逆に日本は他国の侵略の危機にさらされた事はあっても、目に見えた侵略を歴史上では受けていない。第二次世界大戦において敗戦し、占領軍を受け入れた時が初 めての“侵略”と言えるのかもしれない。
 戦後の神道だが、戦時下でも純粋な神道思想そのものは一貫しており戦前も戦中さらには戦後においても同じだとされる。実際には戦後においては国家と神道の位置づけは大きく変容してしまった。これは明治以前の位置づけに戻ったとものとは全く違うのである。
 その戦時中の国家神道を探ってみると国家神道は戦時中にさらに強力になっていった訳であり、この国家神道の中身は大きく二つに分別されている。それぞれを狭義と広義と呼んでいる。狭義は『戦前の国家により管理され、国家の法令によって他の神道とは区別されて行政の対象となった神社神道』を指し、広義には『皇室神道と神社神道とが結合した“国教的地位”にあった神道や近代日本国家のイデオロギー的基礎となった宗教』と捉える。その成立は幕末時より明治初期にかけて成立するが、神道精神の基幹は古来より一貫しているとされる。政治権力や他の宗教勢力からの習合・分離・干渉などの影響の結果において精神や意義の柔軟性化、世俗合理主義なものに変化してしまったとも言えるだろう。だとするならば戦時中の神道を占領軍は誤った知識のまま悪として祭り上げたもの考えられる。その本来の神道の姿はどうだったのだろうか。
 国家神道の要素に、敬神崇祖や、忠君愛国といった面が内包されていて、これは古来神道が重んじて来た欠かせない要素である。この要素は戦中の仏教にも強く盛り込まれた経緯もある。祖先と祖先が崇敬愛慕してきた神々を崇拝尊敬することは、日本民族の伝統的な観念である。皇室奉戴と国家愛護の精神がその基礎であり、宗教的情操や郷土愛の情感、偉人に対する尊敬といった正常の観念等が包容して成り立っている。それが具体的に表現されているものが神社である。
 神社は日本の建国精神に通じ、各地域の氏神と氏子の関係が、神社と国民という国家の枠組みとして位置づけられ、自治体の精神的中心であり、地域をまとめる力であって、国民性の組織を重んじる精神のよりどころである。
 そして、神社において願うことは、『寳祖の無窮』と『国家の平和』と『国民の幸福』の三つに他ならず、これは戦時下においても政治権力による圧迫を受けても、変わらず途絶えることなく続けられた神社のお祭りであった。これは皇室と国民、日本と言う国に生きる者全員の希望と理想に外ならない。敬神崇祖の本義とは、時の国の安寧を祈ることそのものだった。さらに祖先崇拝は子孫なくして行う事はできず、世代を超えて連綿と続けられるものである。これは祝詞に見る「子孫の八十連続に至るまで厳し八桑枝の如く立栄えしめ給へ」という下りにそれがよく表れており、この思いが相続の精神つまり“生命の永続性”だ。これが国を強くする力となり戦力にも変わっていった。忠君愛国に含まれる大和魂・愛国心・武士道と聞くと、激しい気性が包括されるように誤解されていることが多々あるが、それは危機 に直面した際、どんな民族においても防衛本能としては備わっているであろう。国家は国民の団結力、文化の発展によって栄え、そこで生きる国民には義務が伴う。忠君愛国の精神は合理的基礎であり、建国の精神を連綿と持続させ、更には國を発展させて国民自らの生活を安定させるという人の生涯に必要な要件である。
 忠君愛国と聞くと、国家神道に偏見を持っている人間は嫌な顔をするだろう。しかしながら道徳的国家は国を統治する君主と民とが力を合わせて建設することを示すものであるから、どこの国にも備わっている心得でなのである。
 日本の国民性は基本的には穏やかなもので、これは鎖国中のオランダ人や、鎖国前のポルトガルの宣教師たちの報告書などからも明らかである。また平安・江戸時代を振返ってみればわかるように、穏やかな時代を継続する事においてその特徴を発揮している。その一方で、尚武の特性である武士道がある事も否定できない。武士道という概念の発達初期は鎌倉時代にあり、その後鍛錬し陶冶され、武士社会に於ける道徳律を構築していった。国民それぞれに根付く日本独自の道徳が生んだ特質である。
 武士道のベースは古くから存在しているものである。諸外国それぞれの歴史にも見られるように上代において戦乱の世を経ていた共通点があり、日本では物部氏を初めとして武備部族が存在していた事から武士的部族の存在を有している。また、そういった武備部族が宗教行為に密接に関わっていたのは明かである。戦時的環境は上代(およそ大化の改新前の実在の時間)にも存在していた事から、国の歴史に武士的要素は大きく関わっている事は否定できない。武士的要素は平和の影に隠れていたわけだが、平安末期の動乱において復活し、以後武家社会によって武士的教養が活発になり武士道化したと思える。さらに幕府によって世襲的主従関係が組織化された。日本人に見られる質素倹約、廉潔や節義といった精神の源流と言えるだろう。
 そして江戸時代において、平時に於ける武士的教養、戦国の世における軍事の進歩、教訓書などによって武士道の特徴が集約され、大成するに至ったのである。時代を経て武士道は領民、国民と枠を超えて日本全国に道徳観として浸透していった。
 戦中の国家神道とは軍部により『“基とする神道”にある日本人として活きる部分』を軍部神道的に利用したと位置づけたのではないだろうか。
 
○戦後の神道と神道指令
 戦後の国家神道について、まず問題とされたのは信教の自由であった。それまでの旧憲法下では国家神道は国教と位置づけて信仰の強制、他宗教への弾圧を行ってきた。そして国家神道は軍国主義の基盤ともなったとされ、終戦後占領軍により神道指令が発令され国家神道は消えさった。そして現日本国憲法はその神道指令の趣旨を忠実に継承した政教分離の証の憲法である。この結果“国家神道は戦争激化の原因である”という位置づけが今もなお継承されている。位置づけるに至る事由としては、圧倒的な敵戦力の前でも屈する事なく闘い抜いた日本軍兵士たちの士気があり、また特攻の精神性は異なる文化形態を有していた連合軍にとっては大変な脅威であったからだろう。だからこそ連合軍は、日本人の根底を成している原因“道徳と宗教観”を探り出し、取り去るべく徹底的研究をしたのである。といっても日本は 長年鎖国をしながらオランダとは外交を続けていたのでオランダ発の日本の情勢や文化についての情報はあり後に開国してからは思想面なども深く研究がされていたはずだ。技術力などは確かに連合軍に遅れていた日本が、精神面においては長年培って来た大和魂、または武士道といった特有の尚武性を持っていた訳であり、さらに一度の侵略も受け付けたことのない日本人はその国を守り存続させて行くことに対しては頑な思いを有していた。その歴史的事実によるところの誇りは占領軍及び西洋圏からみれば脅威に思えたのだろう。このような点にひどく危険性を見いだしていた占領軍が、その精神を根底から覆す為にと目を付けたのが国家神道であり、これが軍国主義の根幹だとし国家神道の脅威を取り払ことをもくろんだのである。
 この神道指令を作成する上で、米人神道学者のD・C・ホルトム(注1)による神道に関する文書があり、具体的に神道指令において命じられている要件として、厳密な政教分離が大々的にあげられる。そして占領軍の最大の関心ごとである軍国主義の禁止、教育機関への神道の干渉を禁ずるもの、神道の関する訓令等の頒布禁止、神道行事への強制を行うことを禁止などがあげられている。もう少し細かく占領軍の神道指令の要件を見てみると、まず第一に国家と宗教の徹底的な分離を目的としているのは当然だが、ここで日本と西洋圏での『宗教』の考え方に差異があり連合軍側の理解では、国家と「○○教会」という特定の宗派団体との分離を想定しているものであった。この点において、日本と神社または神道と置き換えることには無理があった。
 この指令はホルトムの影響をおおきく受けている。ホルトムは来日中に神道を学んではいたが、彼の解釈は日本における神道の解釈と一致するものではなく、逆に神道指令における国家神道の位置づけを曖昧かつ矛盾のあるものにしてしまっていることが指摘できる。以下はその箇所として、多くの神道人によって問題にされている点である。
  日本政府ノ法令ニ依ツテ宗派神道或ハ教派神道ト区別セラレタル神道ノ一派、即チ国家神道乃至神社神道トシテ、一般ニ知ラレタル非宗教的ナル国家的祭祀トシテ類別セラレタル神道ノ一派(国家神道或ハ神社神道)ヲ指スモノデアル。
 このように国家神道を定義づけている神道指令であるが、彼が神道を学んだという加藤玄智氏は神社神道をホルトムのいう神社神道を同一視していない。(ホルトムについて注1を参照)
 指令の発令や公布に際しては前提となる趣旨が定義づけされずに神道指令が成立するのは、政府内が混乱していたからであろう。
 次に、軍国主義に関しての連合軍の注目度は高い。神道指令の概念規定によれば、民族的優越感と戦争賛美思想を指摘している。これは後述する部分からもわかる通り、神道の教理や思想というわけではなく、政府や軍部による政策の一環とみることができる。
 この神道指令が発令されてからそれ以降、数多くの神道人たちが反論を繰り返しているわけだが、中でも葦津珍彦氏はこう綴っている。
  「国家神道とは、国際的にもっとも悪質の制度であり、思想(宗教又は哲学)であった」として、占領軍権力の御用をつとめる日本の文化言論人が動員されて、この廃棄された国家神道と、それに関連する日本の文化伝統を玉砕するための大がかりな活動が展開され、国民は、その意味するところを十分には理解しないままにも、大きな心理的ショック・混乱を経験した。(序・「国家神道は何だったのか」の発行に至る事情、より抜粋)
として、連合軍やそれに同調する有識者たちが作り上げた誤解を正すため、本来の国家神道のあり方を常に主張し続けていた。
 国家神道の概念規定を『神道事典』から探ると狭義と広義との二つの見方があると位置づけている。重複するが狭義とは、概ね数ある神社より国家管理下にある神社神道であり、広義には皇室神道と神社神道が結合した“国教的”な宗教部分である。
 ちなみに、神道指令は広義における理解であり、また後に国家神道に悪印象のみを齎すような有識者たちもこの見方から持論を展開しており、しかも広義と狭義の考え方を明確にしないままであるから、更なる誤解や混乱を招くことに繋がった。
 神道指令において指摘されている部分は軍部や政府による国家体制に問題があったことは指摘されている。不思議なことに“神社”に関しては靖国神社の問題を中心としている。そして神道指令を作成する上でピックアップされた問題点は“戦争中と戦争を始める準備期間からの教育”とした。教育を受けた庶民側は、それまでの国家神道はそれほど危険なものとしての認識はなかったのである。というより知識が得られなかったのだからしかたがない。この結果戦後の国内政策の転換に際しては、庶民が伝統として継承すべきものまで否定されてしまったこと、そういった戦争時の真実といったものを伝えず沈黙を守ってしまったことが問題点として残るのである。
 このように国家神道は“宗教団体法”の解体に関連して国教的特権を剥奪された。昭和年一二月二八日新たに“宗教法人令”が成立するのだが宗教法人令により宗教信仰の自由が唄われると軍国思想の強い新興宗教も認めることとなってしまった。この問題を修正するかのように昭和二六年三月に宗教法人法に取り替えられてゆく。宗教団体法は宗教法人令に変わり、さらに宗教法人法と変わってきたが国家による統制管理に変わりはない。さらに国家神道思想が消滅できずに、宗教法人法を改正しても政府と微妙な関係は残されている。
《注1》
 ダニエル・クラレンス・ホルトム(一八八四〜一九六二)は、明治末に宣教師として来日し大正・昭和初期をほぼ日本で暮らしており戦前には大学(現在の関東学院大学)で教鞭をとっていた。長期滞在により多くの日本人と交流し、欧米と異なる“信仰が無いのに宗教儀式に参加する日本人”を分析し理解していた。後に神道研究者となるホルトムは加藤玄智の神道論に影響を受けている。加藤を師としたホルトムも加藤同様に神道を宗教と判断している。しかし当時は非宗教と定めるのが常識論であった。
 ホルトムは「神社神道」と「国体神道」とを分類せずに国家神道として扱っている。この所以は加藤の「国家的神道」の影響があろう。その加藤は“日本人の持つ歴史と道徳”の基で「神社神道」の“神社の国家的宗教性”と「国体神道」の“天皇信仰の宗教性”の上にあるものを「国家的神道」と名づけていたからである。しかしホルトムの目線は“天皇中心主義にある政治哲学を基に創造された宗教”という説であり歴史と道徳を持つ加藤の説との違いが見える。後にもホルトムは「明治以降の日本は『日本の国家構造は世界最強最良であり日本人以外の人は日本の統治下に入ってこそ益を得る。』という国家宗教で発展した。」と主張している。
○流された神.道
 不平等条約や植民地化を避けねばならぬ危機的状況の最中、『国の宗教』を有している事には世界情勢において非常に重要だったと考えられる。もとより『宗教』は日米修好通商条約において最初に翻訳されたものであり、教義を強調する意味合いが強かったようだが、国際交流に伴い当時のエリート層や知識人の価値観が変化し、次第に現在のような意味合いに定着していった。
 『国の宗教』は日本を含め各国にてその歴史や文化の成立に非常に密接に関わっている。民族や国を形作り集団なす根幹に位置する部分である。神道というか国民道徳の場合には根幹にありながらも自覚的な意識は少ないようである。しかしその時代の日本製の国の宗教は神道と位置づけざるを得ない。これは仏教や儒教・キリスト系と比較する際にその違いがはじめて具体的に表れる。つまり、各国において土着信仰や生活の基礎として関わる宗教は、国の個性を反映しその価値を重んじる傾向にある。これは海外旅行先で自分は無宗教であると断言した場合に、避難の視線を帯びる事と同じであろう。明治初期は日本の国際交流上、神道がその役目を大いに担うべき質を持っていた。それは国家の宗祀と言われるだけの価値を十分に秘めていたのである。
 開国後の日本は油断をすれば他国からの侵略を簡単には退く事の出来ない状況だった。日本が列強諸国と渡り合える程高い水準にあった部分と言えば、国内の問題を円滑に解決しようとする力だろう。それは、鎖国が二百年も続けられたことが象徴している。
 西洋諸国との接点の多い政府の人間や、一部の知識人たちは他国との国力の差、特に軍事力や技術力において劣っている日本に気づき、国民の豊かさを求める事よりも、国家の強化・富国強兵政策へとどんどんのめり込んで行ってしまった。それはだんだん軍部の権力を強固なものにしていく。これは、危機感からくる愛国心の、自己防衛が非常に強く働いた結果だったのかもしれない。
 他国の侵略をいつも退けて来た国。小さな島国であるにも関わらず、西暦においても二〇〇〇年近く日本と言う国は絶えずその国であり続けたのである。その歴史が忠君愛国、敬神崇祖、武士道を形作り、もちろん政府の要人にもそれはあったはずだ。さらに日本人は仏教的先祖供養と神道的祖先崇拝と忍ぶ心を他国以上に持っていると民族である。皇祖皇宗の遺訓と、祖先偉人の遺風とを国民道徳に根幹として、またそれが人々の間に浸透していたのはごく当たり前の成り行きであり、それに神道が密接に関係していたとしても戦争の原因とは言いがたい。神道を戦争の原因に含めるのならば少なからず仏教各宗も軍部宗教に近づいた事実がありそれぞれの仏教史にどのように記録するのだろうか。
 明治天皇の教育勅語において、その心は国民を追いつめるようなものではなく、むしろその誇りを奮い立たせ、国際化に向かって行こうとしている自国の人々をそれぞれに自己と自国を背負って行く為の、高貴な注意書であり国民各々の行く末を案じてのものに違いなかろう。戦火を拡大させたりするような危険性は何も感じられない。また、現在も靖国神社を始め、神社での戦没者の慰霊祭等の問題においても、亡くなった尊い命を偲ぶ日本の国土に根付く精神の象徴がよく表れている。現在の日本仏教において見られる同様の傾向も、こうした道徳観がこの国に深く根付いていた為に取り入れられたものであるから、古くの時期から見られた日本人の特徴であって近代、少なくとも明治期からの国民的傾向ではない。
 臣民たる身分に付随する義務だとして、国民道徳が説かれる場合がある。これは義務というよりも、もとよりそこに生きていた人々の中にあった生活や世界観そのものの現れであってもとより日本に根付いている潜在的な性質を確認するものと言えるのではないだろうか。
 戦中にあった神道観というのは、現在「国家神道」として悪質なイメージで知られている面と、素朴で人間的・生活習慣に密接な面とに分類できるだろう。
 前者はもちろん、修身教育を初め全体主義に掲げられる軍国主義を支える為に抽出され、政策に登用された面。これは残念ながら確かに情報操作による統制しやすい人間の育成に繋がったと言えてしまう。日本人の心を形ちづけて来た道徳観を逆手に取った皮肉な結果でもあった。
 後者は、豊かな国を守りたいと言う当たり前の国民精神と、日本と言う国の歴史や未来を担っていく為の地盤を保とうと国土の安寧を願う天皇と国民の同調そして確固たる目的を持って一致団結できる協調性。また、それだけでなく個々の性質も重んじられ、国民あっての国という家族的なつながりを持つ国家体制の面である。
 果たして、国家神道は戦争の原因であったのだろうか。神道指令にある国家神道の要件は、もとより誤解の上に成り立っているものであり、その後に展開された神道指令に同調する見解は矛盾の産物でもある。日本国民にとって、いまだ根強く誤解されたままの「国家神道」は存在している。
 国家神道に関する偏見は、残念ながら完全に払拭する事は今後も難しいと思われる。
昭和二七年にアメリカの管理下から独立し建国の復活を果たすのだが昭和二五年に元号廃止の危機や神道思想に繋がる祝日問題もあった。九割以上の国民がキリスト教西暦への一本化を受け入れず、皇位元号の併用を願った。これには神道指令を受け入れながら神社神道へと移り変わる時期の神職達による全国規模の運動が大きく寄与したという記録があった。
 神道指令が下され国家神道は廃止され神社神道が成立する過程において国家と神社の距離は他の宗教法人と同様となる。
 
 ストック・ファイル……2 
 
○歴史
明治維新
一一九代の光格天皇と尊皇思想
天皇は欧米勢力を危険視し国家安泰を祈願
勤王活動の活発化は国民へ尊皇思想を普及させる。
(高山彦九郎は公家と交流して勤王活動)
(歴史家の頼山陽は“日本外史”「天皇国日本」を唱え尊皇思想)
一二一代の孝明天皇と朝権回復
 植民地化(不平等条約締結要求)を避けるため、天皇は将軍・大名を国家の藩屏となるよう説き「国安かれ、民安かれ」と祈祷をする。また綱吉・吉宗らに“荒廃していた陵(墓)修復”をさせる。この時神武天皇陵の修復と天皇祭を制定するが、これが維新の“神武創業”の起点に繋がる。
 ペリー来航に際しては国難克服を一層強くし全国神社は「国家の宗祀」を行う公的場所と位置づけられていき、維新の神社制度へ繋がる。側に明治天皇となる皇子祐宮が有り、後に父天皇の行動を継承してゆく。
 明治維新の「神武創業」の理念の表裏があり、天皇制の顕教(天皇親政)は表向きで、天皇制の密教と言われるのが政府首脳部支配システムである。天皇機関説はこの密教にある。……政府首脳部支配システムは軍部暴走までは上手にすすんだ。
 王政復古………武力維新派の抑制
 神武に還れ……漢学国学維新派の願望
 祭政一致………神道優位
 神仏分離令(明治元年)
 神仏習合の精神伝統は一二〇〇年からの歴史
 仏教教団は徳川体制下で国教的存在だったので大政奉還しても太政官の動きは弱かった。
 例えば仏教教団側との相談無く神仏分離を断行したが“神仏分離思想を廃仏と判断する仏教教団側は即刻抗議する”と太政官は即刻に廃仏運動を犯罪とする告示を行なっている。
 廃藩置県前なので中央集権力はまだ弱く、地方の諸藩に依存していた。
 明治四年に廃藩置県、真宗(西本願寺)は長州討幕急進派と同盟し支援した。
 明治政府内の長州系人は真宗の盟友とも言えた。しかし政府内の薩摩系者は国学水戸学流の神道廃仏思想を持っているので慎重に対応する。
 これも、西郷薩摩が後退した後は討幕推進派の動きが明確になってくる。
 東京招魂社
 明治二年に維新内乱で殉死の英霊を祀るために創建(明治一二年に靖国神社と変わる)
 宮中祭祀が整う
 全国統治確立により国の祭主となり明治二年(一八六九)七月神祇官を再興され神殿に八神と天神地祇・歴代皇霊が鎮座、明治四年(一八七一)八月神祇官は神祇省と替わり皇霊は宮中に遷座、宮中行事が整う。これにより天皇は国家統治権を総攬する立場を確立。
 維新政府は祭政一致を宣言
 吉田・白川の神職支配を廃し神社制度制定
 国家の公的祭祀を行う。公的待遇を与え国家的性格への変化。
 別当社僧服飾令・神仏判然令
 神仏習合を清算して神職本来の面目回復。
社寺上地令
   廃藩置県の前触れ、寺社存立基盤の社寺領・社寺地の公取。
世襲廃止令と官選(精選補任)
   国家の宗祀に成る神社が私物世襲であることの改め社家(寺族に相当)の世襲制を廃止。
   神祇省選出の適任者配置……祭祀伝承と信仰伝承の衰退を招いた。
社格制度確立
   明治四年、新神社制度により神社を「国家の宗祀」と位置づける。
   神宮を除き官社と諸社に大別化
   官社は、主として皇室崇敬
   国弊社は、地方崇敬集約的な神社
   諸社は、廃藩置県前「府藩県社」
   諸社以下に、郷社……例/一戸籍区(小字)に一社
   後に村社も発生
   明治八年(一八七五)には、紀元祭・新嘗祭など年間行事も定められる。
◎転換(憲法制定に向けて)→国家の宗祀の放棄(修正)→神社制度を制定していたが、国家の宗祀という原則を放棄し始める
下格神社の切捨て
   明治六年(一八七三)二月・郷村神社という府県社以下の神社に対して民費賦課停止。
   同年七月には府県神社神官への俸給停止。……人民の信仰帰依にて生活半祖給与が改められ逓滅禄制とされ一〇年後に交付停止とされる。
国家と神社の切断
   明治一〇年(一八七七)一月、教部省の廃止により社寺行政は内務省社寺局へ移管。同年九月に政府は「社寺取扱概則」を定めて社寺は氏子檀家・神官僧侶が永続保護の責任を負うべきとした。これにより社寺の創立は人民の請願によるものとなる。
   明治一二年(一八七九)一一月、府県社以下神社の神官身分を廃止して寺院住職と同じ位置へ降格する。東京招魂社は靖国神社と改名。
◎明治六年から一連の政策により府県社以下の神社は人民信仰の共有物となり、祭祀は公的支援のない「民祭」「人民の共祭」と変化し一寺院と同格となる。
国民教化政策
   維新政府の課題は欧米諸国対日本の独立維持がある。
   ここに国民教化政策を以てキリスト教に対抗する。
   明治二年(一八六九)神祇官に宣教使いを設置するが神道教化研究にとどまる。
   廃藩置県後に真宗勢力との連携を持ち後の明治五年(一八七二)に神祇省は教部省へ替わる。
   教部省発足後、神官・僧侶は教導職を兼務することを求められ……
   教則三条
    一条……敬神愛国ノ旨ヲ体スヘキ事
    二条……天理人道ヲ明ラカニスヘキ事
    三条……皇上ヲ奉載シ朝旨ヲ遵守セシムヘキ事
      これを交付し教導職活動に従事させた。
大・中・小教院
   明治六年(一八七三)教化拠点の東京に大教院、府県に中教院を設置、神社・寺院を小教院と位置づけ全国的に教化体制を整えた。
   大教院とされた増上寺の主導権は神道側にあり、僧侶に尊神参拝を要求義務づけると神官と僧侶の間で問題発生し真宗(仏教勢力)は大教院解体運動を進める。
   明治八年(一八七五)四月、真宗の主張が認められ大教院は解体。神仏混同の布教活動は停止。仏教各派の教団組織で教化活動を行う。
祭神論争
   出雲大社は天照大神と大国主神の合祀を主張した。伊勢(皇室)対出雲の勢力争いを懸念し政府介入もしたが決裂。集約されていた神道は分裂しはじめた。
   真宗は祭神論争の収拾を政府に提言
    一、近代国家の通則たる信教の自由の原則により国家の宗教への介入を否定し教団の自治権を確立すること。
    二、併せて宗教界の安定をもたらすため、神職の本務を祭祀に限定して宗教・教化活動から手を引かせること、以て神社と宗教を分離すべきこと。
※裏側には、皇室と“宗教界にある神道”の宗教界羅権対策と、仏教勢力の維持存続政策と見受けられる。
祭祀と宗教の分離(教導職停止)
   真宗の提言を受けた政府は明治一四年(一八八一)二月、明治天皇勅裁により祭神論争を収拾、明治一五年一月官国弊社神官の教導職兼務を廃止。併せて葬儀執行を停止(府県社以下の神官は暫時従前通り)
神社は非宗教
   神道(神道事務局)が“宗教本山”となることは「国家の宗祀」の祭祀者の本義から離れてしまうとの観点で宗教活動から撤退させた。
   神道事務局は皇典講究所となり神職中央組織と養成機関と変わってゆく。
   明治一七年(一八八四)八月暫定存続していた教導制度が廃止される。
   これにより国民教化政策の終焉し“神社は宗教に在らず”の政府解釈が成される。
神社団結
   明治六年以降から政府と神社の間は切断方向へ向かっている。
   政府に任せて右往左往しているだけでは地位低下、経営不振となり「国家の宗祀」という神社の根本意義まで失われかねない。
   この共有意識から公的位置と処遇回復運動を行う。
   「神社非宗教・政教分離」を揚げ憲法制定前の政府へ要望してゆく。
教育勅語(明治憲法)
   明治二二年(一八八九)二月一一日、大日本帝国憲法は発布される。明治天皇は宮中三殿に報告。
   神宮・官国弊社も憲法発布報告祭を行う。議会政治の本番開始となり翌二三年一〇月天皇は教育勅語を出す。国民は“全国民的な教え”を歓迎する。また国体の顕現・御神徳発揚を本務とする神職者は神社護持、自らの拠り所として仰いだ。
日清戦争
   公的位置と処遇回復運動・神祇官復興運動は日清戦争勝利後の国民・国家意識の高揚に同調し成功を見る。明治二七年二月一日、「府県社以下神社の神職に関する件」が発令された。これにより身分は待遇官吏となる。……公務員化
   神社非宗教論側の国家神道化を求める真宗勢力側は神社から宗教性を排除すれば仏教に対抗する勢力は消えると考えて政府に対して制度的にも非宗教化を望んだ。
憲法発令直前……神社側と仏教勢力側の望む方向は異なるのだが明治三三年四月に、社寺局から神社局が独立する。これは宗教と神社の区別を明確にした。これにより「国家神道」の準備が完了した。
日露戦争
   日清戦争勝利時と同様に神社制度はさらに充実してゆく。
   明治三九年(一九〇四)四月、「府県社以下神社ノ神饌幣帛料共進ニ関スル件」が発令され府県社以下の神社にも神饌幣帛料共進が行われるようになる。これにより神社は「人民の地域公共の祭祀場」へと性質を変える。
   同年同月に官国弊社国庫共進制度が公布され明治四〇年四月施行、二〇年ぶりに国庫経費が支出されるようになる。
神社合祀
   明治三九年から四三年までの間、下神社への共進は経済的負担を行政に求めるため、政府は神社合祀を進め、府県社以下は六万社へり一三万社になる。この間の明治四一年七月に神社局長により「神社中心説」が唱えられ小学校などで神社参拝が実施される。
   明治四四年に市町村制が改正されると府県社以下は行政補助が得やすくなる規定が出された。
   大正二年(一九一三)四月、「官国弊社以下神社神職奉務規則」(内務省令)により全神職が「国家の宗祀ニ従ヘキ職司」となる。
 
 昭和六年(一九三一)九月の満州事変、昭和一二年(一九三七)七月のシナ事変により宗教団体に政府介入が始まる。
強制参拝(愛国的意義)
   キリスト教信者の神社強制参拝は宗教的意義を含まない愛国心とされる。
   文部省は昭和六年一二月に「児童生徒ニ対スル郊外生活指導ニ関スル件」を発して小中学校の教育に(愛国心で)伊勢・皇居の遥拝や神社参拝・清掃礼拝を正式に位置づける。
シナ事変と戦時体制
   昭和一二年七月のシナ事変直後、国民生活を戦時体制化を進め「国民精神総動員実施要綱」を定める。この運動は公務員・工場従業員などに神社集団参拝を求め、靖国神社大祭の天皇参拝時間に合わせ祈念黙祷を定めた。信教の自由を基に神社参拝拒否ができなくなる。
 
政府の方向
   昭和一四年 第三次宗教団体法案で国民個人の神社参拝は道徳的な義務であり法律義務ではない。としながら神社参拝を遊興団体が拒否するならば、この法律で取り締まると明言した。
政府の方向(神社制度調査会)
   昭和九年(一九三四)三月、「地方公共団体カラノ神社経費支出ニ関スル答申案」が可決し公費の共進制度が確立する。社各の無い神社も形式を整え人民の崇敬を集めるよう指示される。
招魂社は護国神社へ
   英霊を祀る招魂社だが、シナ事変後の戦死者増加により新設招魂社が必要になる。これは全国に有る招魂社に常駐神職を置き護国神社と改名し対応した。
天皇機関説
   天皇主権より統治大権を重視し君主でが『憲法ノ條規(議会)』で行動が制限されるという立憲学派説(国家主権説、国家法人説とも)派。
天皇主権説
   「君権」に重きを置いた君権学派(神権学派)の考えであり天皇主権に重きをおき原則天皇には『憲法ノ條規』があってもあらゆる制限は無いという解釈。 
特別官衙
   神職側は天皇機関説問題発生後に神社制度調査会は「祭政一致の精神に則る」を掲げ別官衙設置を要求。
   特別官衙は神祇院と称し総理大臣管理に属し独立官庁であり神殿の祭祀管理や神祇行政を行う。陸軍省・海軍省所管と総監府所管の神祇行政統一という部門を設置要求に対し、政府は総裁は内務大臣兼任、事務管理的構成で構築されていたが神職側が苦諾し開始された。しかしながら六〇年ぶりに「敬神思想の普及」は神社行政機関の管轄事項となる。
宗教統制教化
   特別高等警察は昭和八年以降になると職務維持のため治安維持法を盾に宗教活動の取り締まりを強化する。国体の位置が軍部よりに傾きシナ事変以降は軍部も反戦反軍を揚げる宗教団体活動を監視口出しが強くなる。
宗教団体法(戦時体制に向けて宗教団体の動員)
   シナ事変後文部省は宗派代表を集めて時局対策を協議し教義を国体に合わせるように強制する。これにより昭和一四年四月に宗教団体法が制定される。
皇紀二六〇〇年(昭和一五年)
   神武天皇即位の年からの二六〇〇年の全国規模の大祭りの結果「天皇に帰一する国家」の意識が強まる。陸軍はソ連を対戦国と望むが海軍の示す米国を対戦国とした。とにかく陸軍は早期戦争開始を望んだ。海軍の意向次第という状態にあった。
   軍艦保有比率米五・イギリス五・日本三と下げられていた海軍も開戦を期待していた。
   陸軍は開戦したがっており海軍の石油備蓄量を改ざんして“石油が無い”ということにして開戦の理由工作までもした。
治安維持法追記(特高の仕事が減った対応策の業務確保とも)
   昭和一六年(一九四一)「国体ヲ否定シ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スベキ事項ヲ流布ルスコト〜」が締事項に追記される。
大東亜戦争・英霊公葬問題
   戦没者公葬は神式……皇典講究所と全国神社組織が軍へ持ちかける。
   初回の公葬は軍部保護院と文部省主催で増上寺(仏式)にて行われた。
   これに祭政一致翼賛協会が神式を申し入れ問題化する。しかし大日本仏教会の反対運動から政府(軍部)憲法の認める信教の自由の趣旨に反しない故人意思優先となる。
大東亜戦争・ナチス思想と神道の習合の危機
   「別天神論争」であり軍部官僚の中に思想統制・国民の指導理念の重要さが唱えられ、神道思想の統一学説が求められる。古来の理念である造化三神と五柱の別天神は“造化三神説は世界主義的(世界同胞主義)”と否定した。民族神の天照大御神を唯一最高神とする宮内庁の学説が有効となる。これはナチス的世界観(民族の優劣)に近い。だが神社非宗教説を補強できると考えた。
   結果は、神社界の反対もあり国家権力での神道思想統一は果たされなかった。また宮内庁内の神道思想統一学説を唱えた関係者は退官処分で消滅に至った。
海外の神社創建
   戦時下以前の海外神社は「大国主神」「少彦名神」と該当地の「国魂神」という開拓三神だった。
   海外神社は軍事的立場から管轄が総監府であり明治天皇と天照神を祀る。これに神道界は反対するが外地は所管違いで受け入れられずに終わる。
 満州事変以後、国政「国家神道」は思想統一の国民指導色を強豪にし軍政「国家神道」へと変化してゆく。
敗戦と自由の指令
   「思想・宗教・集会と言論の自由に対する制限」を解除。
   「天皇、国体及び日本国帝国政府に関する無制限なる討議」を認める。
   これにより治安維持法と宗教団体法が廃止される。
誤解のまま「神道指令」は国際法違反
   神道の持つ「天皇・国民・国土」に対する神聖な心は「軍国主義・危険な国家主義的な力」と解釈された。「国家神道」は解体され“神社神道民間団体”として扱われる。
ハーグ条約とポツダム宣言
   ポツダム条約と無条件降伏は国際法下か特別国際法下なのか。
   国務省見解……ポツダム宣言は降伏条約を提示したもの。……という。
   ならば、日本が受諾した条件は、一般国際法のハーグ条約にある条件(家の名誉及び権利、個人の生命、私有財産並びに宗教の信仰及その遵行は之を尊重すべし〜)が当てはまる。
   しかし、日本政府は神社神道を宗教ではないと説明している。よって神道指令は、ハーグ条約違反ではない……と言いつつ、ハーグ条約が全ての宗教的慣行を保護はしていない。とも発している。
   神社神道を非宗教とすれば、確実に神道指令で廃止に追い込める。そうなると神道は新憲法下の定める政教分離の枠外に存在することになる。こうなると国家と非宗教の神道の縁が復活して神道国家化してしまう。
   一方、神道を宗教と位置づけるならば、ハーグ条約違反になってしまう。
   神道指令をポツダム宣言を使って正当化しようとはしなかった。
   占領軍は神道指令を合法として占領政策との矛盾のない説明ができていない。
   政治と国家神道の関係を断絶することが最大の目的と思われる。
宗教法人令
   神社神道は宗教法人令には含まれていない。
   神道界は「非宗教」を貫けると考えていた。
宗教法人法
   神社も宗教法人とされる。祭祀法人という枠もあったが文部省が適用しなかった。
 
 ストック・ファイル……3 
国家家神道の歴史観(神道側)
 現存各宗派には『日本固有の神の道というべき“日本民族大衆の中で、自然に成長育成されてきた民族固有の精神・郷土・自然神への信仰〜”』それは非宗教とは言えない。
 非国際的な幕府と仏教の時代には「宗教」という概念は無縁であった。しかし国際的条件下に置かれた明治(政府)と神道の結びつきに「宗教」の位置が論ぜられる。
 明治からの国家と神社の間に介在した法制度であり、非宗教とくくられる一般国民精神と位置づけられた。外来語訳「宗教」の法的概念から神道の非宗教化は「精神のないもの」としながら政府は国民精神統一をもくろむ。
 本来の神道とは日本民族大衆の中で、自然に成長育成されてきた民族固有の精神の総称ととらえる。郷土・自然神への信仰。輸入文化の土着化の影響。これらの要素で成り立つものを全て教義化、一教団に統一できない。○○道という精神の存在する活きる道。また含まれる「道徳」という語句の意味合い。
神道指令は
 占領軍側は神道について深く研究することはせずに「国家神道は国際的にも悪質な思想(宗教・哲学)であった。」と明言できる邦人学者の協力を要請した。
 占領後に神道の戦時中の偏狭な国家主義と民主主義が「一部の神道思想」と結びついていたと発表し(軍部神道)この神道思想が神社界から興った訳ではないと断言できる。問題点となる「国家神道・神社」の外側にある一部神道家が存在していた事を早くに見いだしていた……しかし変化は無い。
 「国家神道」は真宗策略の「神社非宗教論」を政府が採択して明治三三年に神社局を独立させた処にある。内容は乏しく「官僚神道」そのものだった。
「国家神道」の二極論
⑴ 慶応大学村上重良講師一九七〇当時
 国家神道は近代日本国民の隅々まで支配した「国教」軍国主義・侵略主義の支柱
  精神を強制的に纏めることができたのだから、その力は国教の宗教である。
  皇室神道が介在しない神社神道では国家神道は発生しない。
 
⑵ 葦津珍彦……神社界指導者
 国家神道は「啓蒙合理主義」の枠付けで信仰神道ではない「官僚神道」
  官僚創作であり国民の精神を支配などしていない。つまり宗教ではない。
 
○参考文献
葦津珍彦著/阪本是丸註『国家神道とは何だったのか』神社新報社
『わかりやすい神道の歴史』神社本庁研修所編
『神道指令と戦後の神道』神社新報社編
『国家と宗教の間』日本教文社
安蘇谷雅彦著『神道とうはなにか』ぺりかん社
保阪正康著『あの戦争はなんだったのか』新潮新書
武光誠著『天皇の日本史』平凡社新書
『天皇家の謎』学習研究社→『図解 天皇家の謎と真実』(学研版)の加筆訂正版
内野吾郎著『江戸派国学論』アーツアンドクラフツ
河野省三著『国民道徳論』

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