現代宗教研究第43号 2009年03月 発行
近世庄屋記録『万波家文書』にみられる近世村落の寺院
研究ノート
近世庄屋記録『万波家文書』にみられる近世村落の寺院
坂 輪 宣 政
(一)はじめに 和気郡大庄屋万波家とその文書について
本稿では岡山地域の大庄屋の記録した文書から域内寺院の様相を考えてゆきたい。中心となるのは岡山藩東部の大庄屋であった万波家に伝来した文書の関連部分の検討である。
万波家は備前国和気郡藤野村に在住の旧家である。近世前期には肝煎役、中期からは代々大庄屋などの役を勤めた家であり、代々の当主が書き留めた記録のうち相当部分が現存している。その中には村内の寺社に関するものもある。本稿では藤野実成寺など日蓮宗に関する記述を中心に検討をした。
本稿では、谷口澄夫・三好伊平次校訂の『万波家文書』(和気町教育委員会編、一九六〇年)を引用している。両氏による同書の解題によれば、万波家の先祖は織田信長の家臣であったが本能寺の変を機に備前国和気郡藤野村に土着したと伝えられる。約二十年の中断期間を除き八代二百二十年の間庄屋(元禄二年以降は名主)あるいは大庄屋をつとめていた。数代にわたり名字帯刀を許され、文化年間には在方下役人(徒格)にも就任している。
岡山藩の郡方統治機構を先行研究をもとに要約すると、担当部署として郡会所があり、郡代、郡奉行、地方役人(以上侍)→在方(徒格の郡方下役人。中世的な土豪・城主など侍の末裔や社家が多い)→大庄屋→以下村役人 となっている。郡奉行は免、改、役人などの監督を行い、触の伝達などをも担当する。村役人としては、承応三年に「十村肝煎」が十ヶ村に一人くらいの割で置かれた。天和二年からは肝煎・下肝煎が一村に二、三人置かれた。宝永四年時点では大庄屋は藩領内に六十三人いた。(後減じる)それぞれ二十俵から三十俵を支給されていた。
在方下役人は二十俵から三十俵支給され、「村役人と村役の何れも執り難い職掌を担当するものとして特殊な格式身分と職務をもつ」などとも評される存在であった。中世土豪の末裔や社家が多かったが大庄屋からも抜擢された。天和二年以降は武士にあたる下役人等は原則として城下に集住するため村を離れるようになり、其の後は大庄屋が村落に於けるより重要な位置を占めるようになった。
岡山藩は大庄屋を少なくとも宝暦年間頃まではかなり冷遇していた。先行研究によれば、藩は大庄屋の身分について、「平百姓同然」という方針を打ちだしていた。藩内の庄屋・名主・社家などには旧来は武士であったが近世に至って土着した旧家が多かったが、その身分を認めようとはしなかったのである。その方針に沿って、寛文八年(一六六八)には旧土豪家の感状や家伝来の証文が藩に詐取されるという事件も起きた。但し、そういった藩の方針にもかかわらず、一般農民からは、それら「荘官」層の人々は他藩の郷士のように一般農民とは異なる格式をもつものとしてうけとめられ、実際に特権的な社会階層を温存して明治まで至ったともいわれる。
大庄屋としての万波家の担当地域については金井円の考察がある。これによるとその範囲は和気郡北部の大半を占めていた。ある時代では三十三ヶ村、古くは一四ヶ村であったこともあった。いずれにしても数十か村のまとめ役であり、地方行政司法土木建築天災地変各種の争論などについても、郡役所の指示によって下役の名主らとともに様々に関与していた。例えば検地帳・名寄帳・戸籍簿・田畑高物成帳などの作成、年貢取り立、上からの命令や下からの願い出の伝達、などであり、結果として万波家の記録は多岐にわたる。
本稿ではこの記録類から宗教に関するものを抜き出す形で岡山藩の一地域の様子を探っていくこととする。このような記録資料は、在地村落にある寺院の様子を示す史料として、また幕府・藩などの指令や方策が一般の人々にどのように伝えられ作用したのかを確認する手段ともなりうる。
(二)宗門改めに関して
まず大庄屋の関与した重要な役として宗門改めについて検討する。
宗門改については、藤井論文が通説として認められている。岡山藩でも幕府の指令により宗門改めが実施されるようになった。この改めと不受不施の関係については多くの先行研究があり、宗門改めが切支丹のみを対象とするものではなく、日蓮宗不受不施をも抑圧するものであったことが明らかになっている。
①岡山藩の宗門改めの様子については妻鹿・倉地の研究がある。以下、それに沿って具体的な規定を見ていくと、村ごとに三種の帳面がつくられていたことがうかがえる。①「切支丹宗門御代官直御判形名歳帳」②「切支丹宗門御改月次判形帳」③「切支丹宗門御改銘々宗旨旦那坊主請判名歳帳」である。①と②はほぼ同形式で判をする者と保管所などが異なる。①は家主・名主・僧侶が請判をして、大庄屋保管で年一回代官の直改をうけたもの。②は家主が毎月請判を行い、末尾に月別の人数の増減を記して名主が保管し年末に名主から代官に提出される。③は旦那寺が旦那の家毎に請判をして村役人に提出したもので、宝永六年正月に廃止された。③のみ下人は含まれない。この三種の帳面は天和期頃から作られだしたという推測もある。③の内容は①とほぼ共通なので宝永六年に廃止された。また、宝永六年十月十六日には「月並み判形改め止め」が出され、この年度から宗門改めが月一回から年一回になった。寛文年間に年一度であった判形改が延宝年間には月一度となり、宝永六年十月に再び年一回に改められている。(「法令集」一三二九・五二五号) 翌年宝永七年からは八月十五日の年一回のみの改めとなったわけである。
これらの宗門改帳の具体的な見本の書式が「法令集」一三二二号(宝永五年)にある。①の「切支丹宗門御代官直御判形名歳帳」である。各家の人名と年齢を書き上げたあとに、名主と僧の判がなされる。出生や死亡の場合にはその人名のあとへ僧侶が判をして帳へ追加したり帳から除かれたことを証明することとなっていた。人数の増加も記される。通説通りに旦那寺の僧侶は檀家のすべての構成員を把握して、それを記録し藩へ提出していたことが追認される。まさに戸籍作成であり、寺僧侶が宗門改めに関わっていたことは、人々にとっても体制にとっても寺や僧侶を社会にとって欠かすことのできない存在として認識させるうえで大きな比重をもっていたのであろう。そして、後述するが、この宗門改めの行為は藩主から見れば領内寺院の藩主への奉公と認識されることもあったのである。
一三二二号
(各個人の名前と年齢を列挙する)
右男女百五十七人、天台宗にて拙僧旦那に紛れなく御座候、御法度の切支丹并日蓮宗の不受不施・非田不受不施宗門にては御座無く候、若し宗門の儀に付き、何廉と申す者御座候はば、拙罷り出埒を明け申すべく候、後日の為宗門受け判件の如し、
元禄六年酉何月何日 当郡何村何山
何村名主 何寺
誰殿 [実名書判に印]
五人組頭
誰殿
②宗門改めと神道請け
岡山藩の宗教政策において重要な事件として寛文六年に当時の藩主池田光政が開始し延宝二年まで約二十年間行れた「神道請」がある。神道請には多くの先行研究がある。ここでは、『万波家文書』の中に記録されている神道請に関する項目を示す。
貞享四年(一六八七)に幕府は岡山藩からの宗門改めの請け取りを拒否するという形で神道請けの廃止を命じた。岡山藩主綱政は幕府の指示を受けて約二〇年間の神道請けを完全に廃止した。
(貞享四年)(神道請廃止について)
六月十九日御口上ニテ仰せ渡さるる趣の覚
一、江戸宗門御奉行の手前諸国の宗門御改めにつきて神道請けを古来の例之無きに付き、神道の請け判御取り成されず候間、今度御家中町中御郡方共に只今迄の神道にて居り申す分、残らず仏道を用い旦那坊主を定め、宗旨は何宗にても思い思いの仏道になされ、死人之有るの節は、旦那坊主を呼び、引導を請け取り置き仕るべく候。小身成る者にても旦那坊主を呼び取り置き仕るべく候。付けたり。神道を内証にて立て申したくと存じ候者は、旦那坊主え合点仕らせ其の上にて内証に神道を用い申す義は御法度にては御座無く候。兎角、一同に仏道請け判之無くては成らず候。
一、神職神子禰宜之儀は寺社御奉行之帳に乗り神前を勤め申す者の分は神道を尊み申すべく候。神道神子禰宜の家内にても帳に乗らず神前を勤め申さざる分は親兄弟妻子にても残らず仏道に成られ旦那坊主相い定め、寺請け判取り申すべく候。已上。
この項目は江戸表で決定されたことが具体的に在地村落へどのように伝達されたかの例証となる。大庄屋は御郡奉行から布令の内容や伝達方法を指示されると、それに基づいて下の名主はじめ村役人に伝達し、それが一般村人に伝達されていた。江戸で幕府と藩の間で決定が行われてから、最終的にはこのような形で村人に伝達されたのであった。「神道を内証にて…」と隠れ神道でもよいという箇所があるなど、藩の姿勢がうかがえる。
そして、その後の佛教への復帰の際の書式が「法令集」一三一八号(貞享四年)にある。
只今迄神道にて居り申す者、此の度仏法に罷り成り候に付き、直改帳の神職坊主の判形仕る様の覚
(朱書)宗旨神道湊村岡木工判旦那
一 彌助 歳六十八 (朱書)但し、卯の何月より仏道に成る、真言宗門田村大福判旦那
子仁兵衛 同廿七
妹 まさ 同四十五
(神職判)
合(坊主判)三人の内 男弐人
(庄屋判) 女壱人
右の通りに成り申すに付き、請け判帳も神職奥書之有る奥に、又何月より仏法に成る何宗拙僧旦那に罷り成り候由、奥書判形二重に仕らせ申すべく候、
大庄屋はじめ村役人はこのような書式を伝達されて、それを実行していったのであろう。
③改宗などによる変化の実例。宗門人別帳・手形に関する実務の諸例を挙げる。結婚養子移住身分転換などにより変化がある。
(享保十三年)
願い上げ奉る
一、和気郡藤野村甚吉 宗旨法華宗ニて御座候処、同村五郎兵衛後家の養子ニ来たり天台宗同郡野吉村安養寺南光院旦那ニ罷り成り居り申し候えども、法華宗に戻り申したく存じ奉り候。南光院へ断り申し達し、宗旨放ちの手形申請し、法華宗同村実成寺旦那に罷り成り申したく存じ奉り候。願上げの通り為され仰せ付けられ候らハバ有難く存じ奉るべく候 已上。
享保十三年正月藤野村 甚吉
右の通り吟味仕り相違無く御座候。願い上げの通り仰せ付けられ候ハバ人馬帳肩書きの宗旨書き替え申したく存じ奉り候。則ち南光院宗門放ち手形相い添え指し上げ申し候、以上。
同村名主 三郎太夫
右正月晦日願の通り御聞き済み
宗門放ち手形の事
一、其の村甚吉宗旨天台宗拙僧旦那ニて御座候処、貴寺旦那ニ成り申したしと願申し候。此の方何の構いも御座無く候間、自今以後貴寺旦那ニ御請け込み成られるべく候。其の為宗門放ち手形件の如し。
享保十三年正月十五日同郡安養寺 南光院
藤野村実成寺
養子・結婚などで他の村へ行く際には宗門手形の確認・移転があった。双方寺院の確認があってはじめて人別帳が改正される。この例は養子後にもとの法華へ戻りたいという希望での改宗の事例である。信仰による改宗の事例である。また、改宗の手続きとして藩の確認が必要であった様子がわかる。
近世においては檀家制度の確立により改宗はほとんど不可能になったというのが通説である。ここに示した改宗の事例も、珍しいので手本として記録された、という可能性もあるが、この地域によってはそれほど困難ではなかったのかもしれない。日蓮宗では信徒が宗式に違反した場合、寺院から放ち手形を出して義絶することもあった。
また、ほかにも同文書には宗門改めに関する条が多くある。なかには藩校に奉公したので人別が村から藩校の管轄へ移る。藩校をやめたので村の人別へ戻るという記載もある。また、下役人になった場合なども同様であった。このような、身分変換による帳間の移動は、近年の近世身分制度再考の問題とも関わるものである。
これら宗門改に関する変更は村方の執務に直結する大きい変更であるので、やはり大庄屋の記録として、このように間違いなく確実に残っているのであろう。
天明六年の万波家文書には郡役所が大庄屋の手元に保管している改帳を取り寄せた記録がある。 藤野村十九ヶ村の宗門人別帳についてである。
一、去る安永四未年ヨリ天明四辰年迄の分、藤野組十九ヶ村宗門帳二百五十七冊、御入り用に付き御郡会所へ七月四日指し上げ。御当番様御預かり。追って十月御返しなされ候
当時の人別帳は戸籍の役目を果たしてもいたのであるから、何か問題など生じて、必要が有ればこのように大庄屋の手元に保管されたものを郡役所へ取り寄せて調べていたのであろう。
④寺院内の宗旨人別帳
寺内に住む人々の人別帳は一般住人とは別に作られた。「法令集」一三二二号(元禄六年)から、寺方人数宗旨改の書例を確認したい。
御代官宛
(朱書)「日蓮宗、但し本寺京都何寺」[是れは本寺他国に之在り、御国に組頭寺も之き分]
○一本住院○ 歳何十
弟子○ 同何十
母 同何十
合○○ 三人内[弐人出家 壱人女]
外に
下人市助 歳何十 [岡山何町何右衛門子、何宗何町何寺宗門受取状取り置き候、]右当寺京都何寺の末寺にて御座候、寺内の人数差し引き合い三人
日蓮宗に紛れなく御座候、(已下同文の請け状を書くべしとの注記有り)
元禄六年酉何月何日 本住院 実名判印
この寺院の組頭寺が藩内にある場合には末尾の「右当寺京都の」以下の部分が「右何何院、国何寺の末寺にて、当寺の組下、何宗に紛れなく御座候」となり、組頭寺の印判署名が必要となる。一三二六号には「一、本寺又は組頭寺の奥〆の事、一同に本寺頭寺の〆判取り然るべき事、[御領分にそれぞれの〆判取り然るべき事、社方もそれぞれのかしらの〆判右同断]」とある。本寺や藩内触頭の判が必要であった。
いずれにしても、寺内の宗門改は直接代官にあてる形式で作成されていた。また、寺から提出された書類は名主・五人組頭の判形を経て「寺数何軒人何人」(出家・道心・同宿・禅門・堂守の区別がありそれぞれに人数が記載される。また下人も別に記載される)などと書き上げられ上記のルートを通して代官まで到達するわけある。この例では「住職の母」が寺内居住者として寺内の人別帳に入っている。これはどの程度一般的であったのかは不明であるが、住職の親族が同居する場合もあったのであろう。下人は別帳である。
「法令集」一三二七号(宝永七年正月十一日)によれば、此の年から住職交代があった場合の書式が変更になり住職の名前の右に点をかけることとなった。
一 何寺
実名 歳何十
右の通りに記し置く、住持替り候節は、実名に点掛け申す様に仕るべき哉と御郡奉行から伺い、窺い出の通りに然るべきの旨申し談ず
さらに、僧侶以外の宗教者についても宗旨改めの関連記事が「法令集」の一三二二号にある。神職については社家の神職本人は独自の宗門改めを行うが、家族は寺院檀家にならなければならない、というものである。
また、ほかに少々変わった存在として妻帯する山伏がいた。山伏の宗門改についても、本山方山伏本人と弟子は天台宗、当山方山伏は真言宗となるが、「妻子どもは諸宗何にても勝手次第に旦那寺を頼み申し候間」とどこかの寺で判を請けなければならなかった。
また、陰陽師とその配下の陰内は、陰陽師の支配にあたる土御門家の藩への返答により、独自の宗門改めをなすことなく寺院の檀家として帳に登録されていた。
(三)実成寺の住僧に関して
実成寺の住僧の入退寺についても藩寺社方の許可が必要であり、村の庄屋への周知・確認があった様子がよくわかる。万波家文書には計九件の記録がある。うち典型的な三件を引用する。
(享保十一年)
一、実成寺近年病身檀那の法用等相い勤めがたく難儀に仕り候ニ付き隠居仕りたく 後住を弟子恵順に仰せ付けられ下され候様三月晦日願い出の通り四月二日御免。
(文化十四年)
一、藤野村実成寺無住中、蓮昌寺寺中林照院代判の処、本坊弟子継巌二十八歳罷り成 り候を僧住仕りたきの段、林照院より願い上げ二月十八日済み。日命上人是也。
(享保十四年)
一、実成寺弟子恵正去る申三月より京都鷹峯談所に学文に登り十月帰寺届け。
以上はとくに珍しい点もないが、住職の入退寺や檀林への修学にも藩へ届けが必要であった様子がよくわかる記録である。正式に入退寺するのは藩に申し出て許可を受けてからであった。(「法令集」)もしも届けなしに寺を出てしまうと「出奔」ということになり人別帳から除かれて公民としての身分と権利を失ってしまうことになる。なお、一旦除帳となった僧侶が願い出てもう一度寺へ戻った記録もある。
(万延元年)
藤野村実成寺日研上人遷化、日笠長泉寺弟子堯政後住になる。
一、藤野村実成寺日研上人行年七十六、四月上旬より腰痛にて同村医師岡野俊民療治候えども、老病指し加わり、五月二日の晩命おわる。法中の義邑久郡福岡村妙興寺を相い頼り同院より御届け出ならびに同院へ無住請け持ち相い頼み、両様とも寺社方へ指し出し相済むの上、御郡方へも書上、妙興寺請け持ちに相成る。元来浦辺伊部妙国寺も法中に候えども上京留守にて日笠村長泉寺へ談ず。同寺の心配りにて右の通り相済む。其の後、長泉寺弟子堯政行歳三十四歳に相成り候を後住職に願い上げ、寺社済みの上御郡方九月十一日御聞き済み。内実九月五日入院也。
歓として(銀)拾匁指し遣わす。
但し先住日研弟子瑞光、元来偸盗度重なり、寺を退き帳外れに相成り居り候処、近ごろ立ち入り病中も看病にも及び後住を望に候えども、兎角不身持ちの故、法中も内談の上、浦伊部妙国寺の計らいにて、堯政子津高郡十谷日応寺へ出張り庵参り居り申し候を、右瑞光と引き替えに計らい之有り候処、瑞光不身持ち者にて辛抱を罷めて逃ぐる様の姿にて退去せし也。
住職が遷化した後の記録である。法中の寺院が寺社方と郡方の両所へ代判などを届けた様子が確認される。五月に前住が遷化して九月に後任が決定したのは遅いようだが、後半に述べられた前住の弟子瑞光の存在があったからであろう。また、窃盗とは穏やかではないが、どのような事情があったのであろうか。いずれにせよ、出家した後で窃盗により帳外れになる、また、別の庵を預けられた後出奔して再び帳外れになる僧の存在もあったのであろうか。
以上、入退寺を中心とした記録を見てきたが、住職の代務や後任決定、その期間・経緯などが具体的にわかる。歴代譜などとも異なる資料である。藩の行政機構への申請を通じて情報が保存されていたわけである。
以下に引用するのは、宝暦十七年に和気村から村内の本成寺に住職を招聘しようとした際の二通である。
(宝暦十七年)
願い上げ奉る
一、和気郡和気村本成寺、永々無住に付き、寺殊の外破損に及び、旦中共一等難儀仕り候。之に依り藤本甚介様御代官所作州 勝田郡木知ヶ原村本経寺隠居慈照院日栄を本成寺後住に上裁仕る様願い上げ奉り存じ候。尤も御公儀様御本山表、滞り無く相済ませ候様、御取り計らい成し下され候はば有り難く存じ奉り候。已上。
宝暦十七年酉年七月
(以上、和気村など七ヶ村の四十七人が連印)
右の通り相違無く御座候
和気村五人組頭
九平次
同村名主
卯右衛門
妙林寺様
無住寺院に住職を招聘したいという願い出である。これに対し藩役所ではすぐには認可しなかったようである。以下は大庄屋記録に残っている書状写しである。
(前略)然れば和気村本成寺住職の義を右同寺旦那より代判妙林寺へ別紙の通り相願い申し候。この段御郡方には何の御構いも御座無き義には之有るべく御座候へ共、御内々御聞き置き下され、何となく旦那の様子を御聞くとも下され候はば忝なく存じ候。兼ねて右在所の辺り内信心の徒多き様子に御座候えば、若し旦那の望み申す僧を住職に仰せ付けられ 以後右の内信心の者を見免じ置き候様に罷り成り候にては、御役介も出来仕るべき哉と存じ候。之に依り御郡方より旦那共の手前を御聞き合わせ置き下され候はば、縦い邪道之有る者も相改め候様に罷り成るべく申す哉と御内々貴意を得申し候。一通り御移し合わせも御座候上にて此の書付けの僧を妙林寺より願出候にも仕らせ申すべく候。御面倒乍ら御考え下さるべく願い奉り候。尤も今日貴答は御口上にて他聞下さるべからず候。已上。
七月二十二日亦兵衛(内海か)
元右衛門様 (田代か)
藩当局では不受不施を警戒している。岡山藩にとって極めて重大かつ面倒な問題であり、特に今回の僧が藩内ではなく隣国の者であったことも影響しているのであろう。発信者である亦兵衛は寺社方目附の内海亦兵衛のことであり、田代は当時の郡代であろう。藩が常に不受不施を警戒し、日蓮宗僧俗を猜疑の目で見ている様子を示す書状写しではなかろうか。但し、付記すれば、年紀に疑問点があり、また、この書状の写しが万波家文書に現れる理由とともに再考の必要がある。
さて、ここで、「法令集」にある住職交代に関する藩の書式を見てみたい。
一三三五号 (寺院住職の交代の書式 寛延四年から宝暦二年の時期)
口上
何郡何村何寺何住に付き、旦那の宗門請判、拙僧相勤め申したく存じ奉り候、御代官中へ御指紙を遣わされ下さるべく候、已上
年号月日[何郡何村] 何院
広内権右衛門殿
右の書付は私手前に留置き、私より左の通り指紙を遣わし申し候、
何郡何村何寺無住に付き、在旦那宗門受判、何郡何村何院代判相勤めたく断り、承り届候、已上
月日広内権右衛門
御代官宛 書判
一、此の以後は左の通り、
何郡何村何寺無住に付き、在旦那宗門請判、拙僧相勤め申したく存じ奉り候、御聞き届に成られ下さるべく候、以上
年号月日[何郡何村]何院
広内権右衛門殿
右の通り承り届候、以上
広内権右衛門
御代官宛
昨日御見せ成られ候別紙両通の趣、御郡方承り合い候所、此の趣に相成り、下方指し支え申す儀は御座無く候、併せて只今迄の成し来り改候義に御座候間、一寸小仕置中へ御達し成られ候様に仕りたく存じ候、
広内権右衛門宛小堀彦左衛門
右の通り相済み候由相移り候に付き、申正月御郡奉行に申し移す、
以上のような形式で藩から許可を受けたうえで代判となったものであろう。最初は寺院から寺社奉行への届けと「御代官中へ御指紙を遣わされ下さるべく候」という依頼である。寺社奉行から郡方代官へ連絡があり、完了となる。変更以後は寺院からは「御聞き届に成られ下さるべく候」と寺社奉行に許可を求める文言に変更され、寺社奉行はそれに奥書して代官へ回す。代官の調査確認もあった上で許可がなされていたわけである。新住職は寺内の宗門帳に記載され、正式に藩内の居住者の一人となるわけである。
文中の広内権右衛門はこの時期の寺社奉行である。また、小堀彦左衛門はこの時期の代官の一人である。代官は新住職に不受不施の問題がないかなどを調べていたのであろう。
「旦那の宗門請判、拙僧相勤め申したく存じ奉り候」という文言の示すように、藩にとっては寺院住職とは宗門請という形で藩主に奉公するものである、といった認識があるように思われる。このような視点から寺院や住職を見ることは、藩内の文書には幾度か出てくるものであり、そういった視点も宗教政策には影響していたのであろうと思われる。次の「法令集」一三二二号に明確に出てくる。
一三二二号 (元禄六年)
一、寺方宗門受判出し候事、一大事の儀と申し、御国の法ばかりにても御座無く、御公儀より仰せ付けられ候事に御座候えば、寺方国主様への第一の御奉公と存じ奉り、重々念入れ、一判も疎かに仕りまじき事、
寺と藩主の関係が「御恩と奉公の関係」と藩から規定されて、寺僧の行う宗門改は国主の「御奉公」とされている。幕藩体制下では仏教教団もこのような思想構造の中へ組みまれていたことを如実にしめすものであるといえよう。
(四)実成寺の建築物に関して
一般住宅の建築には郡奉行の許可が必要であったが、寺院の建造物には寺社奉行の許可が必要であった。申請や許可が出ると寺社方から郡方、さらに大庄屋へと伝達され周知がなされていた。万波家文書には多くの事例があり、日蓮宗では実成寺と本成寺の造作など六件が載っている。定期的な屋根葺き替えなど、檀家を中心に維持がなされていたことをうかがわせる。建築の際には大きさなどを「有り来るの通り」など新儀ではないことを示す文言が多い。一件を引用しておく。
(安政七年)
一、和気郡藤野村実成寺本堂六間四面屋根瓦葺きに御座候処、年久しく罷り成り、裏板朽損雨洩り候に付き、此の度担(檀)家中相談の上屋根板垂木等取り替え、有り来たるの通り、葺き替え申したく願い上げ奉り候。此の段寺社御奉行所へ宜敷仰せ達せられ下さるべきの様、願い上げ奉り候。已上。
安政七年申和気郡藤野村
実成寺
蓮昌寺
右の通り相違御座無く候。願い上げの通り仰せ付けられ候はば、担家一統有り難く存じ奉り候。則ち寺社御奉行津田重次郎様御奥書の一通相い添え指し上げ申し候。已上。
同村名主
八郎右エ門
右の通り相違御座無く候。已上。
大庄屋藤野村
七郎右エ門
見戸文左衛門様
(五)祭礼などについて
「万波家文書」には村の寺社の祭礼や儀式などの宗教的な行事に関する記録も散見される。何か行事を行うに当たっては、寺社や檀信徒から藩役所に事前に申請をして許可を得なければならなかった。万波家文書にも記録が残っている。ここでは、日蓮宗に関する五件を引用する。
①以下に述べるのは和気郡和気村で行われていた「和気村番神踊り」の一件である。
万波家文書の宝暦十三年八月には「和気村番神踊祭り子供踊り差し止め受け書」がある。和気村の番神祭礼に合わせた「和気村番神踊子供踊り」を前夜に子供たちが踊ろうとしたが、折からの倹約令のため、大庄屋以下の村役人の注意を受けてやめさせられたという記録である。以前から大庄屋たちによる指導注意があったのに、「ふと心得違い」で踊りかけたところを注意されたので、向後やめる旨の一札を保護者十七名が連署して名主さらには大庄屋宛に誓約する内容である。踊っていた子供二十三人の名も記されている。
番神踊りとはどのようなものであったのか詳細は不明である。しかし、三十番神信仰に起因する習わしであったであろうと思われる。まったく同じものであるかは不明であるが、池田家文庫の「寺社旧記」には寛延二年には、和気村本成寺の毎年八月の番神祭礼に際し、和気村の村人が踊りを踊っていたという記述がある。宝永元年(一七〇四)に和気村の人々の志で踊りを始めたという記述もある。おそらく、これと同じものであろう。また、同時に大人とは別の「子供踊り」という形でも行われていたのであろう。
いずれにせよ、番神踊りとは単なる盆踊りでななく、法華信仰をもつ人々のお盆の時期に踊る踊りであり、「子供踊り」は法華信仰者の子女の参加する行事であったのであろう。あるいは、この番神踊りは本成寺など特定の日蓮宗寺院の檀家による踊りであった可能性もあり、先の寛延年間の藩の裁許で寺内で祭礼をするように命ぜられてから以降は、寺院の境内で踊るものであったという可能性もあるであろう。
人口から見ると、時代は下るが和気村は江戸後期(文化頃)の「和気郡手鑑」(『和気郡史』に収録)によれば人口五九〇人、戸数百四十四軒である。宝暦年間と比べるにはやや年代が開きすぎているが、この文書の番神子供踊りに関与した人数を考えれば、村全体の行事と考えるにはやや人数が少ないようにも感じられる。ある寺院の檀家、あるいは法華信者の集中している特定の地域の行事と考えるのが自然であるかもしれない。
岡山藩内の村にはしばしば皆法華の地域もあったといわれるが、残念ながら和気村の宗派分布についてはよくわかっていない。先の宝永年間の事例では村が皆本成寺の檀家であるように記されているし、どちらの事例でも「和気村番神祭礼」という表現を使用しているので、この点からは村の住民の大半が法華信徒であったという推測もできる。いずれにしても、信仰に結びつく行事がこのような形で行われていたことは大変興味深い。
②以下に挙げるのは万波家の屋敷の中に妙見大菩薩の宮を建立した際の縁起である。上述のように万波家は法華信仰を持ち、実成寺の檀家であったがある時縁があって屋敷の内に宮を建立していた。
妙見宮木造由来
「妙見宮木造相求める始末」
一、国平俊永兼ねて病身に付き同人母の存志にて摂州能勢妙見宮え功力として千ヶ寺執行人え一人二十銅づつ相施す、右当春より取り計らい居り申す所三月廿一日、出家の千ヶ寺参るに毎の通り施し候処、妙見宮信者と見請け候哉、「私は甲州身延山十万部弟子僧日道と申す者にてかねがね播州可児新田に妙見宮信仰の者多く、講等も致し来れり、併て祈願の尊影之無くては何となく信心行き届き申さず間、妙見宮にて御正体頂戴致し呉れと頼まれ、則ち能勢にて御木像頂戴致し帰り候所、旦那寺又は所の役人等より察当致し、元来真言宗の場所、右様の事甚だ不当の段と厳しく申し付き、既に是迄致し来る講も指し留め候由、全体、愚僧は是より九州肥後隈本の浄地院清正公へ参詣の積もりの所、右の次第拠ん所なく、遙々此くの如く背負い参る能わず、信者もがな、譲り候はば肩軽し、併せて不帰依の人へ与え候はば却りて不本意、当家御信者と見請け候間、御求め下さるべし」と申すに付き、兼ねがね厚く信仰致し候御神体の義、其の儘譲りもらい安置奉る。尤も代銀能勢にて相求め候元金金一分外に二匁札とも渡し、同僧は直に出宅、西国に参詣立ち出申し候。則御木像の入箱・外に格子を拵え安置。訳国平俊永の書記、左の通り
南無妙見大士本尊一体、家内安全・俊永開運の為安置奉る所也。授主身延山十万部及第比丘日道は西播加児新田異派の信者。彼に依りて是を摂の能勢に需む。然れども加児の寺僧里正等の許さざる荷、負いて当家に至る、適ま慈母俊永の病に遇う、清貨二十銅を千ヶ寺へ施行す、彼、此において信者と知る。則ち羈旅の労を語り之を授く。価償元金百疋二百銅、実に所願具足の結縁か。
安政四丁巳廿一求め焉るの日
当主万波七郎右エ門貞俊男俊永之を識す
万波家で自宅内に妙見大菩薩のお宮を建立した次第である。この中には極めて興味深い内容が記されている。内容を要約すると、息子俊永が病身であったため、母は妙見菩薩を信仰し、千ヶ寺参りが来る毎にに一人二十文を供養して代参を頼んでいた。今年の春からはじめたところ、三月廿一日に至り、ある出家の千ヶ寺参りが来たのでいつもの通り二十文を渡すと、その僧は「法華の僧に布施するのであるから法華宗の信徒であろう。しかも妙見信者と見受ける」、と話しを始めた。
其の僧は名を日道といった。播州可児新田で妙見信仰の人々が多かったので、そこで布教をし、講も作っていたが、お祀りする尊像を必要と考え能勢妙見で求めてきた。ところが、像を安置して本格的になることを恐れたのであろう、土地の役人や僧侶に「(ここは)元来真言宗の場所である」などと察当を受け、講も差し止められてしまった。あたかも九州隈本の清正公へ参詣を考えていたので、仕方なく播州を出発して、その道中である。ただ御像を背負っていくのは難儀であるが、不信心の者には渡せないと考えていた。信者と御見受けするのでお祀りしていただけないか、ということであった。母はかねてより妙見大菩薩を厚く信仰していたので、代金と札の礼として金一分と藩札二匁を渡して尊像を譲り受けた。僧はそのまま西国に出発した。万波家では御像の厨子と格子を作りお祀りした。という内容である。
俊永母のように千ヶ寺参りの人々に代参を依頼して祈願を行う人々の存在がはっきり示されている点がまず注目される。また、以前より能勢妙見宮を信仰していたとあるが、とくに関西が主流の妙見信仰の一面を示すものであろう。
また、①日道のように千ヶ寺参りのように諸国を歩き廻りながら布教する僧や、②そういった僧によって講が作られて信者となってゆく人々の存在、③さらにはそういった形態による信仰の広がりを排撃しようとする動き、など実に興味深い内容を示唆している史料である。
日道が以前から作っていた講が差し止められてしまった理由としては、尊像を求めた、つまり永続的な拠点を構築する動きを見せたことにもあるのではなかろうか。修験者や勧化僧など、人々の間を動き回る宗教者の存在は近世にも様々な制約はできたものの、認められていた。しかし、自家や他人の家や空き堂などに本尊や尊像などを安置する事は幕法により江戸市中をはじめ各地で厳しく禁制されていた。岡山藩でも同様の法令があった。(「法令集」一三三六号 宝暦三年九月)。
③領内から領外への参詣願い
近世には住民が藩の外へ出るには藩へ届けをしなければならないなど、様々な規制があった。寺社の参詣でも同様であった。万波家文書にも参拝の願出がある。
(嘉永五年) 三月
一、和気郡藤野村の名主治郎平せがれ国平・和気村名主孫兵衛両人とも、兼ねて立願御座候に付き、この度摂州能勢妙見え参詣仕りたく存じ奉り候。遣いされ候はば、当月二十七日出立して四月中旬罷り帰りかえり申したく存じ奉り候。尤も他国に於いても御法式堅く相守り金銀借用買い掛け等仕らず
願い上げの日限に罷りかえり申すべく候。願い上げの通り仰せつけられ候はば有り難く存じ奉るべく候。已上
嘉永五年子三月藤野村 治郎平 (印)
和気村 孫兵衛 (印)
右の通り吟味仕り相違御座無く候。願い上げの通り仰せつけられ候はば、他国に於いても御法式堅く相守り、願い上げの日限に罷り帰る様申し付け奉りたく存じ候。尤も、孫兵衛留守中の代判並びに諸法用とも、文七郎引き請け相勤め申すべく候。以上。
藤野村五人組頭
仙之助 (印)
和気村名主
文七郎 (印)
右の通り承け届け相違御座無く候。願い上げの通り仰せつけられ候哉、伺い奉り候、
以上大庄屋藤野村
万波七郎右衛門 (印)
見戸文左衛門様
表書願の通り承け届、日限の通り罷り帰る様申し渡され候。以上
三月晦日見戸文左衛門 (印)
藩の外へ出る場合にも届出が必要であり、信仰に基づく参拝も例外ではなかった。ここに引用したのは七郎右衛門の孫にあたる国平等の能勢妙見への参拝の届である。その届を名主・大庄屋・郡奉行へと順に移されてゆき、許可が出るわけである。「法令集」には参拝に関する届の見本例が数通記載されている。一定の様式に則ったものであったことがわかる。日数や日限は必ず記載され、他国にいる間でも藩の規定に違反せず、参拝以外の商売などは決してしないという誓約があるのが通例のようである。伊勢の抜け参りなど信仰的な旅行が盛んに行われていた、というのが近世参拝の一つの視点であるが、このように藩の厳しい管理のもとでなければ参拝に赴けなかったというのも事実であると考える。
国平の能勢参詣は「兼ねて立願御座候に付き」とあるように信仰のいたすところであろう。おそらくは先に妙見宮の件で述べた病気平癒祈願のお礼参りであったと思われる。
④祭礼の認可
(文化八年)
一、本成寺山内正観音往古春秋両度御祈祷祭礼仕り来り中古解り居り候処、十三年已前より三月六月十五日より二十一日迄一七日両度づつ経読をいたし経数心願已満に付き当三月十五日より二十一日迄供養したくの段、二月二十五日願済み。
日蓮宗寺院の例年仏事の記録である。和気村本成寺の観音祈祷祭礼の様子がうかがえる。十三年以上前から毎年春と秋に祈祷祭礼を行っていたこと、その際に七日の間読経を行っていたとある。祈祷や読経にも藩当局の統制が及んでいた様子がわかる。なお、当然ながら臨時の祭礼や祈祷についても藩の許可を申請していた。
⑤葬式の制限
(天保二年)
一、四月公儀より百姓町人の葬式石碑等不相応之義に相い成らざる御触れ。縦い富有の由緒之有れども、とても集僧十僧より厚き執行相い成らず。墓碑も高さ台石四尺を限る。戒名院号居士号決して相い成らず。是迄の分も修復等の節、追々取り直し候えとの御事。
江戸後期の奢侈禁令の一環。「法令集拾遺」一八二号には藩が幕府から通達を受けた記録がある。これを藩が領内へ通達したのが万波家文書に残されている内容である。末端村落へもこのように伝わっていったという実例として形の文書で、郡役所から大庄屋、名主、そして村人へという流れで、領内各地へ伝えられていたわけである。
(六) まとめ
以上、近世村落における末端行政機構でもある大庄屋万波家の文書に記載された宗教行政について、ごく簡略にではあるが見てきた。岡山藩政下の特殊性もかいま見えたが、何につけても藩当局の許可を必要とする近世寺院のがんじがらめに縛られたような姿を見たような印象もある。宗門改の実際など、幾分かは新しい見方もできたのではないかと考えている。
今後はこのような近世村落での行政機構文書を活用することが宗門史研究の上で必要不可欠ではないだろうか。また、その際には、寺院文書や藩政文書などとリンクさせながら考察する事が重要であり、外部から見た宗門像を想定しながら研究を進めるべきではないだろうか、とも考えている。今後さらに検討しなければならない資料や問題も多いので、本発表を出発点として、近世村落在地文書のなかの宗教について考察を進めたいと考える。
(参考文献)
※1 谷口澄夫『岡山藩政史の研究』塙書房、一九六四年 宗教政策についての部分では、神道請問題のみではなく、寺院淘汰の実体とも絡めて、思想的背景と領民支配の実際を論じている。以下、藩の機構については同書の引用である。
谷口澄夫『岡山藩』塙書房、一九六四年
※2 谷口澄夫「備前藩の在方下役人について」『近世史研究』2─6 一九五五年 下役人など在方統治機構の整備過程などについて検証している。
※3 金井円「大庄屋の行政区域について ─備前藩の場合─」『史学雑誌』62─1 一九五三年 万波家の担当区域などを検証している。 深谷克己「宝永在廻令 ー中期岡山藩政と民百姓ー」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』44─4 一九九七年 「御郡目付」が大庄屋の勤務評定をする。藩から大庄屋へ申し渡した布達を大庄屋がよくのみこんで村方を廻ってきちんと申し聞かせているかどうか、村方がそれを正しく認識していたかどうか、といったことを検証するという役目もあった。
※4 藤井学「江戸幕府の宗教統制」旧岩波講座『日本歴史』近世3、 一九六三年 宗門改制度の確立について述べている。寛永十二年に幕府の命令によりいくつかの藩で始まり寛文年間に全国的に普及する。最初はキリシタン摘発の目的であったが、後には個人把握の手段とも成った様子についても論考されて、通説となっている。
大桑斉「幕藩制国家の仏教統制」圭室文雄・大桑斉編『近世仏教の諸問題』雄山閣、一九七九年 寛文四年の宗旨人別帳政策の確立などについて考察する。
※5 倉地克直「岡山藩における宗門改について ─神職請から寺請へ─」『岡山の歴史と文化』所収 神職請から仏僧請に変わる実態の内容について詳細に論ずる。
妻鹿淳子「備前藩の宗門改制度とキリシタンの摘発について」『清心中学校・清心女子高等学校紀要』五号、一九七九年則武家文書を中心に宗門改めの検討を行う。
※6 藩法研究会編『藩法集 岡山藩上』創文社、一九五九年
※7 田中誠二「寛文期の岡山藩政」『日本史研究』二〇二号、一九七九年 池田光政の独特な宗門改とその致仕について論ずる。特に寛文期という時代背景のもたらす影響にも注目して池田光政の政策を論じている。
水野恭一郎「備前藩における神職請制度について」『岡山大学法文学部学術紀要』五号、一九五六年
圭室文雄「岡山藩の寺院整理」笠原一男還暦記念会編『日本宗教史論集』下巻、吉川弘文館、一九七六年 熊沢蕃山の思想をさらに詳細に論述し寺院淘汰の実数値を調べている。
圭室文雄「備前国金山寺の上訴について」下出積與編『日本史における民衆と宗教』山川出版社、一九七六年 門跡を仲 介とした訴訟で池田光政の政策が幕府によって修正させられていくという部分を論じているが、当時の池田光政の政策は寺院本末関係などを全く無視したものであったという指摘は重要であろうと考える。
※8 『日蓮宗事典』「松ヶ崎」の項では、京都市松が崎の住民がすべて法華の信者で毎年八月十五日・十六日に湧泉寺の境内で内部の人々によって題目踊りが踊られることを述べている。また、藤井学「鶏冠井の法華宗」『向日市史』上下巻 一九八三年・一九八五年にも同様の事例がある。
小林茂「宗門御改帳の資料価値」『近世史研究』1─3 一九五四年
岡山藩政の初期の研究。
谷口澄夫「岡山藩政確立期における寺社政策」小倉豊文編『地域社会と宗教の史的研究』 柳原書店、一九六三年