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現代宗教研究第44号 2010年03月 発行

阿仏房元屋敷(妙宣寺草創地)の調査報告

調査報告

阿仏房元屋敷(妙宣寺草創地)の調査報告
小 瀨 修 達
 
調査日時 平成二一年三月〜一一月
調査場所 新潟県佐渡市金井新保「阿仏房元屋敷」、竹田地区「妙宣寺」周辺
調査内容 蓮華王山妙宣寺(阿仏房)草創の地である「阿仏房元屋敷」の所在と妙宣寺が現在の地に至るまでの経緯や傍証となる鎌倉時代の佐渡国府・守護所等を現地調査・検証し、田中圭一著『新版 日蓮と佐渡』との比較検証を行った。最後に、佐渡島内における霊蹟の取得問題として、「阿仏房元屋敷」の土地取得を始めとした、近年の霊蹟に対する島内寺院の取組みを記した。
調査員 小瀨修達研究員
調査指導 小菅徹也氏 (社)資源素材学会・日本鉱業史研究会理事、『旧版 日蓮と佐渡』共著者
聞き取り調査 日蓮宗妙満寺住職 竹中智英師(妙満寺周辺の土地問題)
【現代と教学プロジェクト】
 『立正安国論』奏進は、当時、鎌倉幕府への危機管理の提言でもあった。そこで、現代と教学プロジェクト「日蓮宗の危機管理」〈他教団の侵害に備える〉では、日蓮正宗の「塚原跡碑」建立地の買収を例に、私有地の霊蹟買収に対する危機管理‥私有地にある霊蹟を事前に調査確認し対応する体制を想定した。今回は、その一環として佐渡市金井新保の阿仏房元屋敷(妙宣寺草創地)や市内竹田地区(妙宣寺)周辺を調査・検証したものである。
 本稿は、第一節に新保の阿仏房元屋敷(妙宣寺草創地)として、妙宣寺の前身である新保村阿仏寺の所在を特定する根拠となる『阿仏房元屋敷絵図』を基に現地調査・検証を行った。第二節阿仏寺(妙宣寺)の新保村から八瀬ヶ平、雑太本城跡への移転では、『宝暦佐渡国寺社境内案内帳』や『妙宣寺縁起』等の歴史資料を基に移転先の八瀬ヶ平から現在地の雑太本城跡周辺を現地調査・検証した。第三節鎌倉時代の佐渡国府・守護所では、『新版 日蓮と佐渡』の目黒町塚原配所説(田中説)の傍証となる下畑沖佐渡国府・守護所説を関連する研究資料を基に現地調査・比較検証した。第四節島内における霊蹟の取得問題では、「阿仏房元屋敷」の土地取得を始め、妙満寺周辺の土地問題等、近年の霊蹟に対する島内の取組みを記した。なお、調査研究の全般にわたり『旧版 日蓮と佐渡』共著者・『佐渡中世史の根幹』著者である小菅徹也氏の指導・協力を得た。
一、新保の阿仏房元屋敷(妙宣寺草創地)
 『宝暦佐渡国寺社境内案内帳』(妙宣寺)「もと寺の地は新保村にて」や『妙宣寺縁起』「草創地は新保にあり。」等の記述に基づく一般論として、阿仏房妙宣寺の草創地は新保村であり、阿仏房の屋敷を改めて妙宣寺の前身となる阿仏寺を建立したというが、『新版 日蓮と佐渡』の田中圭一説や『佐渡中世史の根幹』の小菅徹也説では、阿仏房の在家(開墾集落)は、目黒町の妙満寺付近にあり、隣接する塚原三昧堂(配所)での阿仏房の宗祖への給仕が罰せられ、所払いを受けて新保村へ移転し、阿仏房没後、二世日満上人により当地での屋敷を改め阿仏寺としたとする。
『新版 日蓮と佐渡』における阿仏房の目黒町から新保への移転時期と経緯
 次の御遺文には、阿仏房の目黒町から新保への移転の経緯が記されている。
 『千日尼御前御返事』弘安元年(一二七八)七月二八日
 「而に日蓮佐渡国へながされたりしかば彼国の守護等は国主の御計に随て日蓮をあだむ。万民は其の命に随う。念仏者・禅・律・真言師等は鎌倉よりもいかにもして此へわたらぬやう計と申つかわし、極楽寺の良観等は武蔵前司殿の私御教書を申て、弟子に持せて日蓮をあだみなんとせしかば、いかにも命たすかるべきやうはなかりしに、天の御計はさてをきぬ、地頭々々等念仏者々々々等日蓮が庵室に昼夜に立そいてかよ(通)う人あるをまどわさんとせめしに、阿仏房にひつ(櫃)をしをわせ、夜中に度々御わたりありし事、いつの世にかわすらむ。只悲母の佐渡国に生かわりて有か。漢土に沛公と申せし人、王相有とて秦始皇の勅宣下云、沛公打てまいらせん者には不次の賞を行べし。沛公は里中には隠れがたくして山に入て七日二七日なんど有しなり。其時命すでにをわりぬべかりしに、沛公の妻女呂公と申せし人こそ山中を尋て時時命をたすけしが、彼は妻なればなさけすてがたし。此は後世ををぼせずばなにしにかかくはをはすべき。又其故に或は所ををい、或はくわれう(科料)をひき、或は宅をとられなんどせしに、ついにとをらせ給ぬ。法華経には過去に十万億の仏を供養せる人こそ今生には退せぬとわみへて候へ。されば十万億供養の女人なり。」『昭和定本』(一五四四頁)
【移転の経緯】『新版 日蓮と佐渡』(九三〜八頁)
・塚原問答で圧勝した宗祖に対する敗者の怨恨 文永九年(一二七二)正月一六日
・宗祖を擁護した佐渡代官本間重連が二月騒動で鎌倉へ行き(一八日)留守の為、迫害の機会となった。
・極楽寺良観等の政治的工作・讒訴「武蔵前司殿(北条宣時)の私御教書」
 等の宗祖への迫害を背景として、
 阿仏房夫妻の宗祖への給仕「阿仏房にひつ(櫃)をしをわせ、夜中に度々御わたりありし事」等に対する処罰として「又其故に或は所ををい、或はくわれう(科料)をひき、或は宅をとられなんどせしに」所払い・科料・自宅没収を受け、目黒町の「阿仏房在家」(現妙満寺)より金井新保の「阿仏房元屋敷」へ移転した。阿仏房没後、二世日満上人により屋敷を改め阿仏寺とした。(妙宣寺二世日満上人については、阿仏房の曾孫説〔通説〕、息子の藤九郎盛綱説〔『妙宣寺過去帳』『宝暦佐渡国寺社境内案内帳』妙宣寺、小菅説『佐渡中世史の根幹』二六〜九頁〕等がある。)
【移転の時期】
 『新版 日蓮と佐渡』(九四〜八頁)では、『阿仏房御書』を「文永九年三月一三日」の作とし、書簡のやり取りがある事から宗祖と阿仏房屋敷との間に距離ができたとして、「文永九年三月頃」金井新保へ移転したとしている。
 『昭和定本』の『阿仏房御書』(一一四四頁)脚注によると、『朝師本』写本に「建治二年三月十三日」、或いは『縮刷遺文』に「文永九年」の作とあり、『昭和定本』では「建治二年(一二七六)」説をとる事から、本書が「文永九年」(一二七二)の作である可能性は低く、また、古来より真偽論のある事から根拠として希薄である。
 しかしながら、文永九年、佐渡代官本間重連が二月一八日に鎌倉へ赴き、四月に宗祖は石田郷一谷入道の邸へと転居する事から、阿仏房が「文永九年三月頃」金井新保へ移転したとする説が妥当とも考えられる。
新保村阿仏寺の所在の特定
 阿仏寺が現在の妙宣寺の場所へ移転した後も、新保村の土地を寺領として所有していた為、現存する記録を基に新保村阿仏寺の寺領の推定が可能となる。
【新保村阿仏寺の寺領】(『金井町史』一八一〜五頁)
 三か一寺領
 「徳川時代以前に佐渡の各地にあった寺は、その土地土地の領主から寺領を与えられていた。慶長五年(一六〇〇)徳川家康の代官田中清六と川村彦左衛門はそれまでこうした寺がもっていた寺領を三分の一に限って与えることとした。だから徳川時代の検地水帳などに三か一寺領の載せられている寺は徳川以前にすでに大寺として寺領をもっていたと考えてよい。しかもそうした寺領は、その領主でないと与えることができないから、お寺がその昔どこにあったかを知ろうとする場合、そのお寺の三か一寺領がどこにあるかをみるのがもっともよい方法である。」(『金井町史』一八一頁)
 したがって、妙宣寺の三か一寺領を調べることで元の所在がわかることとなる。以下の「妙宣寺古文書」に記載の三か一寺領により、阿仏房が以前、新保村にあった事がわかる。
「可納
 一、米二石五升九合三勺
  右者新保村高之内ニ而卸除米三分一今日御納御請取可被下侯、以上
   阿仏山
     妙宣寺様
                          雑太郡新保村
                           名主 孫左衛門 印 」
 次に挙げる寛文八年の新保村の『妙宣寺寺領覚書』には、新保村の三か一寺領の詳細が記されている。
「 『田地坪付の覚』
内之舟付
 一、百七拾苅      権助
 一、[  ]       同人
 一、百苅        同人
はざま
 一、百四拾苅      同人
はざま
 一、百五拾苅      同人
はざま
 一、七拾苅       同人
新田
 一、三拾苅 是者酉新田 同人
外舟付
 一、弐百苅 是ハ同村弥次右衛門と申、父伊左衛門と申者ニ売り申候
りぼうさわ
 一、六百苅 是ハ伊左衛門継持ニ侯へ者弥次右衛門江売渡申侯
 一、権助父祖 伊左衛門と云者左京と申親之屋敷ニ罷在侯へ共其後ハ雅楽と申者の屋敷のつまニ居申侯が廿八年
  以前巳年新屋をひらき罷出申侯。
 寛文八年申八月廿六日
                             新保村 五人組
                                甚太郎 印
                               同清次郎 印」
『新保村古帳之覚』
字谷地
 一、本九拾二束苅 見出二十束苅 助左衛門
字谷地
 一、本百束苅 見出十五束苅 助左衛門
字谷地
 一、本弐百二十五束苅 見出四十束苅 助左衛門
字谷地
 一、本五十束苅 見出五束苅 助左衛門
字谷地
 一、八十七束苅 見出十束苅 助左衛門
字谷地
 一、四十束苅 見出七束苅 助左衛門
字谷地
 一、八十束苅 見出二十束苅 助左衛門
   右之通古帳如此侯 以上
    寛文八年
     申拾月八日
  阿仏 様
                       先中使 利右衛門 印
                       名主  徳兵衛  印
                       与頭  徳右衛門 印 」
                           (『金井町史』一八二〜五頁)
 以上、寛文八年に新保村の阿仏房元屋敷(阿仏寺寺領)における三か一寺領の除米として「二石五升九合三勺」の米が阿仏房に納められていた事がわかる。元屋敷寺領の二枚の『覚書』では、苅数が合計一七六五束苅となる。元屋敷の田地の作人に権助、弥次右衛門、助左衛門等の名が見られるが、寛文一一年の『阿仏房元屋敷絵図』にも同じ人名が見られる。
 『真野町史上巻』では、寛文年間の「妙宣寺古文書」から新保村の阿仏房元屋敷(阿仏寺寺領)の規模を「新保村権助請けの田畑屋敷合わせて一町六反七畝一六歩と山林一か所、同じく弥兵衛請けの田一町一反三畝一五分の外に山林一か所、この二人の請け地を合わせると、二町八反一畝一歩となり相当広い土地を持っていた。」(二七〇頁)と、算出している。したがって、阿仏寺の寺領の規模は、二町八反一畝一歩=約二・七九㌶程となる。
【『阿仏房元屋敷絵図』、阿仏寺所在の特定】
 『阿仏房元屋敷絵図』は、佐渡市金井新保における寛文年間の阿仏房の寺領(三か一寺領)を画いたもので、その中に阿仏房の屋敷跡で妙宣寺の前身となる阿仏寺建立(二世日満上人代)の地とされる「阿仏房元屋敷」の場所が記されている絵図であり、同時期のものが二つあった。
 一つは『金井町史』編纂の際、小菅氏が鑑定して「阿仏房元屋敷」の場所を特定したものであるが現在行方不明となっている。元屋敷に特定された土地は、佐渡市(当時は金井町)教育委員会により標柱が建てられている。
 もう一つは、『真野町史上巻』二七一頁に掲載され佐渡博物館に写真乾板が保存されているもので、前者と同時期同内容(控)。小菅氏がこれを用いて「阿仏房元屋敷」を再確認した。(『佐渡中世史の根幹』八四〜一〇二頁)
 『阿仏房元屋敷絵図』‥寛文一一年七月一〇日、新保村の権助と弥次右衛門が阿仏房へ提出したもので組頭と名主が一緒に署名・押印をした絵図(控)。近藤福雄氏(故人)が撮影し、佐渡博物館にその乾板が保存されている。『真野町史上巻』二七一頁、『佐渡中世史の根幹』九九頁(上写真)
 
 
 上図に「阿仏坊元屋敷、今ハ助左衛門居申候」と、ある通り、寛文一一年当時、作人の助左衛門の屋敷であった場所が、「阿仏房元屋敷」である事が確認できる。これにより、「阿仏房元屋敷」(阿仏寺)の所在が特定できる。『佐渡中世史の根幹』九八・一〇〇頁(上写真)
 
 
●現地調査
 『阿仏房元屋敷絵図』の表す新保村(現佐渡市金井新保)の土地を小菅氏(『旧版 日蓮と佐渡』共著者)指導の下、現地調査を行った。
【現在地との比較】
 ①寛文一一年(一六七一)の『阿仏房元屋敷絵図』(『佐渡中世史の根幹』一〇〇頁)を現在の地図上に再現したものが、左②図である。右①図記号Ⓐ〜Ⓔは、それぞれ左②図の同記号Ⓐ〜Ⓔに該当する場所である。(次頁参照)
 当地は、佐渡市金井新保の国仲低地にせり出す段丘上にある。北のⒶ阿仏房元屋敷より、南のⒺ継橋までの距離は、約七九〇㍍程あり、『阿仏房元屋敷絵図』の実際の範囲は新保村内のおよそ七〜八〇〇㍍四方を表した図である事が確認できた。前掲の資料によれば、元屋敷の寺領は、二町八反一畝一歩=約二.七九㌶の田地や山林を有していた。開墾集落である在家の規模は、平均一㌶である事から、寛文年間に至までに田地の開拓が徐々に進行したと推測できる。絵図においても新たに開墾された「新田」が見られる。現在は、農地改革により荒野であった場所等も大部分が水田となっている。
 ①『阿仏房元屋敷絵図』におけるⒶ〜Ⓓの土地は、現在の地図である②図のⒶ〜Ⓓの土地にそれぞれ該当する。この内、Ⓐ阿仏房元屋敷の土地は近年まで小菅家の土地であった為小菅氏自身が周囲の土地に詳しい事や、Ⓑ貝塚村大蔵之屋敷の土地が昭和五五年まで貝塚大蔵家の所有であった事、Ⓒ屋敷之内(新田)の土地名が現在も残る事、②図Ⓗの土地に垣之内の地名が残り在家(開墾集落)の存在した証拠となる事等から、Ⓐ〜Ⓓの土地の位置関係の特定が可能となった。
 ②図中のⒻは、『新版 日蓮と佐渡』において田中圭一氏が「阿仏房元屋敷」に推定した場所である。後に検証するが、この書に根拠となる説明はなく不審な点がみられる。
 また、『旧版 日蓮と佐渡』(一〇九頁)や『金井町史』(一八六頁)では、現在の②図中のⒹ児玉繁雄(助四郎)家の場所を「阿仏房元屋敷」としているが誤りである。
【絵図の土地の現状】
※『阿仏房元屋敷絵図』(寛文一一年)に記された土地の現状は次の通りである。
『阿仏房元屋敷絵図』    【現 在】
 Ⓐ阿仏房元屋敷=助左衛門→寺沢弥十郎(〜大正一〇年、絶家)屋敷跡となる。
 Ⓑ貝塚村大蔵之屋敷   →地名として残る。昭和五五年まで貝塚大蔵家の所有。
 Ⓒ屋敷之内(新田)    →児玉繁雄家の北側の土地に地名として残る。室町期の地名。
 Ⓓ与次兵衛屋敷     →児玉繁雄家の宅地となる。
 Ⓔ大道とほり・継橋   →同じ場所に現存。これによりⒶ〜Ⓔ間の距離が確認できた。
 Ⓖ権助之屋敷      →渡辺権助家、古絵図より二〇〇㍍北に移転。
 Ⓗ垣之内(絵図不記載)  →地名として残る。在家の存在した証拠となる。
 弥次右衛門(裏書の署名) →寺沢弥次右衛門、権助家の北側に現存。寺沢一族の総本家。
 
【阿仏房移転の協力者】
 小菅氏の調査によると、阿仏房が金井新保の太子野へ移転する際に同地に住する寺沢一族が協力したと考えられるという。『阿仏房元屋敷絵図』の裏書の署名に見られる「弥次右衛門」(現・弥治右衛門)は寺沢一族の総本家であり元は阿仏房妙宣寺の有力檀家であったという。
 太子野と隣の関根地区には、現在も寺沢一族の末裔が以下の通り確認できたという。
〔太子野〕 弥治右衛門、弥三右衛門、弥右衛門、武右衛門、弥十郎(島外移住)、甚三郎、十右衛門(絶家)
〔関根〕 又平、吾助、七郎平、五平 新兵衛(根本寺檀家)
 以上の寺沢一族全てが日蓮宗寺院の檀家であり、新兵衛(根本寺檀家)以外の家は現在、河原田の日蓮宗妙経寺檀家であるという。
 寺沢一族は、阿仏房の移転と共に阿仏房(阿仏寺、現妙宣寺)の檀家となったが、以降、以下の理由により離檀したと考えられるという。
 『弥治右衛門には、面白い話が伝わっている。「昔、真野の阿仏房妙宣寺の田んぼや野山が太子野の南側に沢山あったので、その管理の為に時々妙宣寺から寺侍がやって来ていた。この寺侍が酒と賭け碁が大好きなので、地元の弥治右衛門達が賭け碁に誘って、碁に負けて土地の一部を取られた。そこで寺侍は、申し訳無いといって寺に帰ってから切腹した」という話を十五年も前に地元で聞いたことがある。
 もう一つは最近聞いた話で「その頃、渡辺作十郎が酒屋をやって居たので、弥治右衛門と渡辺清三郎(本屋敷の妙光寺檀家であったが、北海道に移住。今の風牧の宅地が元屋敷)と児玉甚左衛門が相談して、作十郎の座敷に上げて賭け碁に熱中させ、気がついて表に出た時には検地が終って、検地役人が帰ってしまった後であったのでどうにもならず、寺侍はとうとう妙宣寺へ帰れなくなった」という。』(『佐渡中世史の根幹』一〇二〜三頁)(同類の言い伝えが『金井町史』(一八六頁)にある)
 以上の言い伝えから、寺沢一族が賭け碁事件等を理由として阿仏房妙宣寺から離檀したと推測している。
 
【阿仏房元屋敷の現状】
場所 佐渡市金井新保 寺沢九五一・九五二番地。
面積 ㈠(九五一番)七三七平方㍍、㈡(九五二番地)一二四二平方㍍
現状 金井町(現佐渡市)教育委員会により特定され標柱が建てられている。
 この土地は、上図に点線で区分している通り二分されている。その内、㈡(九五二番地)の部分は、水田である。㈠(九五一番地)の部分は、平成二〇年、日蓮宗妙宣寺が購入した土地であり、現在、荒地となっている。また、墓石、石碑等はない。
①「阿仏房元屋敷」の標柱。金井町(現佐渡市)教育委員会により設置されたもの。
②一〜二㍍程の雑木が密生している。
③池。元はT字型の池(湧水)であったが、現在は埋められ浅く水が溜まっている。この池の湧水を元に周囲の田地が開墾されたと考えられると云う。
④高さ七〇㌢程の丘状になっている。
 
 
 
 
 
【阿仏房元屋敷の所有権】
 「951寺沢 宅地4畝3歩 寺沢弥十郎 その後の所有権は大正9年寺沢啓蔵・相続、大正10年小松茂兵衛・競売、大正11年本間市作・売買、昭和18年本間市郎・相続、昭和19年小菅五之八・売買(小菅徹也祖父)となったものである。
 952寺沢 田5畝歩 寺沢弥十郎 その後の所有権は明治29年本間市右衛門、大正2年本間市作、昭和5年本間市郎、昭和19年小菅五之八と移転している。」
(『佐渡中世史の根幹』八七頁)
※以降、所有権は小菅氏の親戚の所有となり、昨平成二〇年、小菅氏の協力により、日蓮宗本山蓮華王山妙宣寺(関道雄住職)がこの土地㈠(九五一番地)を購入し所有権を取得した。
『新版 日蓮と佐渡』における田中圭一説「阿仏房元屋敷」の場所
 『新版 日蓮と佐渡』(一〇〇〜一頁)では、「阿仏房元屋敷」について「阿仏房元屋敷絵図」に基づく図面・現在の地図・写真によって「阿仏房元屋敷」の場所を特定しているが、佐渡市教育委員会が特定した場所と異なる場所であり、その根拠も文章による説明がない。また、小菅氏により、『旧版 日蓮と佐渡』に掲載の「阿仏房元屋敷絵図」図面に「阿仏房元屋敷」と記された箇所が、『新版』では同じ絵図を引用しているにも拘らず意図的に削除されているとの指摘(『佐渡中世史の根幹』九〇頁)があるので検証してみる。
 上に示した通り、『旧版 日蓮と佐渡』(一一〇頁)の図の上部に「阿仏坊元屋敷、今ハ助左衛門居申候」とある箇所が、『新版 日蓮と佐渡』(一〇一頁)では意図的に削除されている事が確認できる。そして、旧版とは異なる箇所に「※阿仏房(阿仏房元屋敷)」と書き加えられている事が確認できる。
●現地調査
 『新版 日蓮と佐渡』(一〇〇頁)の「図18金井町新保の阿仏房元屋敷」に示される「推定阿仏房元屋敷」を現地調査したところ、本章に前掲の「②現在の地図における阿仏房元屋敷絵図の範囲」に示した箇所Ⓕである事が判明した。同地点で『新版 日蓮と佐渡』(一〇一頁)の「写真30」のと同じ場所が確認できた。この場所Ⓕは、佐渡市教育委員会が特定した場所より約三五〇メートル離れ、田地の中に台地状にせり出した土地である。下の写真がその場所Ⓕである。『新版 日蓮と佐渡』には、ここが「推定阿仏房元屋敷」である根拠について文章による説明がない。前述の「阿仏房元屋敷絵図」中の「阿仏房元屋敷」を意図的に削除し、異なる箇所に「※阿仏房(阿仏房元屋敷)」と書き加えられている事も併せて不審な点である。
 小菅氏によると、この土地Ⓕは新保村の寺領経営の為に残した阿仏寺の支坊跡の可能性があるが、根拠となる資料は一切ないと云う。
二、阿仏寺(妙宣寺)の新保村から八瀬ヶ平、雑太本城跡への移転
『宝暦佐渡国寺社境内案内帳』妙宣寺 雑太郡阿仏坊村(現佐渡市竹田)
 「もと寺の地は新保村にて、嘉暦年中、地頭本間山城守下知して今の地に遷す。天正十六子年、本間家亡び、惣領信濃守、第三廓まで残らず上杉景勝の命により当寺に寄付、天正十年三月、本間高滋の黒印、天正十七年六月、景勝の臣直江山城守兼続の一紙、慶長九年七月、大久保石見守印状、各々今にあり、境内四町四反八畝歩御除、米二石七斗二升四合六勺、此の反歩八反八畝三歩、三ケ一御除、阿仏坊、新保、両村より納まる。」
(『日蓮聖人佐渡霊蹟研究』四二三頁、『新版 日蓮と佐渡』三一一頁)
『妙宣寺縁起』
 「草創地は新保にあり。その後嘉暦二丁戌歳 執権北条高時の代、領主本間山城守入道の下知により竹田へ転地す。二世日満上人の代なり。この地蹟いまは田畦にして、字を御堂屋敷、本屋敷という。この辺に旧蹟六か所あり。この昔の地よりいまの地までの街道に坂あり。各郷民は阿仏房坂と申し伝う。寛永元年よりのち、延宝五年前の絵図面に阿仏坂と記しあり。」(『真野町史上巻』二六八〜九頁)
 嘉暦二年(一三二七)、執権北条高時の代に領主本間山城守の命により、阿仏寺(妙宣寺)が二世日満上人の代に新保村寺沢の「阿仏房元屋敷」より竹田の「八瀬ヶ平」へ転地した(当地で妙宣寺に改名)。そして、約二六〇年後の天正一七年(一六年は誤記)、上杉軍の佐渡攻略により雑太城主・惣領家地頭本間信濃守は滅び、本間氏による佐渡支配は終焉した。同年、上杉景勝の命(許可の下、家老直江兼続)により雑太本城の第三廓まで残らず妙宣寺(十世日帝代)に寄進、妙宣寺は「八瀬ヶ平」より「雑太本城跡」へ移転し、天正末から文禄・慶長年間にかけて堂宇の造営が進められたという。(現在の本堂・庫裡は文久年間の再建である。)
 妙宣寺へ宛てられた三通の安堵状(寺領の承認証)が当寺に現存する。天正十年三月、雑太城主・雑太郡地頭本間高滋の黒印状。佐渡平定直後の天正十七年六月直江山城守兼続の安堵状。慶長九年七月、初代佐渡奉行・大久保石見守長安の印状。
新保村から「八瀬ヶ平」への移転
【阿仏寺・八瀬ヶ平】
 嘉暦二年(一三二七)、阿仏寺が新保村から竹田へと転居した場所は、『妙宣寺縁起』によると「字を御堂屋敷、本屋敷という。」と、ある。現在は、『「御堂屋敷、本屋敷」と呼ばれる地名も現在はうすれて、「みとうざか」や「てなしぼとけ」、「やせのはか」と呼ばれる旧街道と竹田川の交叉するあたりの地名に名残りをとどめている。』(『真野町史上巻』二六九頁)と、いう「八瀬ヶ平」の地にある。隣に「てなしぼとけ」の地名が残る。
 『妙宣寺縁起』の「この昔の地よりいまの地(現妙宣寺)までの街道に坂あり。各郷民は阿仏房坂と申し伝う。」と、ある「阿仏房坂」は現存し、同名で呼ばれている。
【竹田城・佐渡守護所】
 『真野町史上巻』(二六九頁)には、妙宣寺の縁起に、阿仏寺を「嘉暦年中、竹田の城主本間孝昌居城の傍に移し…」との記述があるという。したがって、阿仏寺の移転した「八瀬ヶ平」の近くに当時の本間惣領家・守護代の館で佐渡守護所を兼ねる竹田城があった事になる。
 同『真野町史上巻』には、鎌倉末期の嘉暦二年(一三二七)、阿仏寺移転時の雑太城の場所について、現在の妙宣寺(雑太本城跡)としているが戦国末期の城跡でありこの場所ではない。小菅氏によると、妙宣寺より約三〇〇㍍北に位置する「竹田城」(雑太元城)が当時の城跡として有力であるという。他に、妙宣寺より北西約一㌖の場所にある「檀風城」を当時の雑太城とする説があるが、次節「鎌倉時代の佐渡守護所の推定」で検討する。
妙宣寺の八瀬ヶ平から雑太城跡への移転
【上杉軍佐渡攻略までの経緯】
 承久の乱(一二二一)に鎌倉幕府が勝利し佐渡島も幕府の支配下に置かれると、大佛北条氏が佐渡守護職となり、大佛氏の被官であった本間氏が佐渡守護代兼地頭代となった。文永・弘安の役(元寇)以降、本間氏は佐渡に定着し一族庶子を島内の各要地(河原田・石田・久知・波多・羽茂郷等)に地頭代官として配置し、惣領家雑太本間氏を中心とした惣領制の下に佐渡を支配した。以後、鎌倉幕府の滅亡、南北朝時代の争乱により庶子家の独立・勢力の拡大化が進み惣領制が崩壊、戦国時代には庶子家の本間氏の間で抗争が激化した。
 上杉景勝は天正一五年新発田家重の乱を鎮圧し越後を統一すると、天正一七年(一五八九)六月上杉軍は本間庶子家等の乱立が続く佐渡を平定すべく攻略した。島内では南佐渡の羽茂本間高貞が中心となり上杉軍に抵抗、高貞は越後に逃れたが捕捉後殺害された。北佐渡の沢根本間永州や潟上の本間秀高等は上杉側に付き他の佐渡勢と戦い、戦後も上杉に仕えた。戦闘は五日間ほどで上杉軍が勝利を決し佐渡を平定、景勝の下で本間一族の所領を没収し、佐渡を直轄地として家老直江兼続に支配を命じた。
【雑太本城跡等寄進の経緯】
 天正一七年(一五八九)六月、上杉軍の佐渡攻略により雑太城主・惣領地頭本間信濃守の雑太本城は廃城となった。同年直江兼続は上杉景勝の許可の下、雑太本城と支城の竹田城(雑太元城)を妙覚寺日典上人の願いにより妙宣寺(十世日帝代)に寄進、妙宣寺は「八瀬ヶ平」より「雑太本城跡」へ移転した。佐渡平定直後の天正十七年六月、妙宣寺へ送られた上杉景勝の『制札』・直江兼続の『安堵状』(寺領の承認証)が現存する。
【直江兼続と日典上人の関係について】小菅説
 上杉氏の宰相である直江兼続(一五六〇〜一六一九)は、越後与板の曹洞宗徳昌寺を菩提寺とし、移封後米沢に徳昌寺を移すと共に臨済宗禅林寺を創建した。また、主人の上杉景勝は高田では曹洞宗林泉寺を菩提寺としたが、一方で真言宗に帰依し、米沢では真言宗法音寺を上杉家の菩提寺とした。佐渡に真言宗の寺院が多い理由は上杉氏の影響といわれている。
 兼続はなぜ、日典上人を通して日蓮宗の妙宣寺へ佐渡防衛の中枢となる雑太本城(雑太本間氏の居城)と支城の竹田城(雑太元城)を一括して寄進したのか。兼続による日蓮宗寺院への寄進の例が他にない事から兼続研究家の間でも謎とされているが、小菅氏の研究によると以下の通り推測できるという。
 「天正一七年、直江兼続は上杉軍として佐渡を征伐し、平定後に佐渡の支配を命じられる。同年、兼続は上杉景勝の許可を得て雑太城(雑太本間氏の居城)と支城の竹田城を妙覚寺日典(翌年来島)を通して妙宣寺の境内地として寄進する。
 直江兼続は有名な蔵書家であり、妙心寺南化玄興、相国寺西笑承兌等、京都の禅宗僧侶との交流が知られているが、妙覚寺一八世日典とも古書蒐集を通して親交があった。時期としては、天正一四年、兼続が秀吉に呼ばれ上洛の折、本山本國寺に宿泊中、日典と知り合ったと推定する。
 日典は、天正一八年以前より数回(天正一五年他)佐渡に来島している事(『宝暦佐渡国寺社境内案内帳』『実相寺古文書』)から、兼続は日典を通して佐渡の情報を収集していたと考えられる。また、日典は、佐渡において阿仏寺(現妙宣寺)十世日帝を配下として情報収集していた。
 兼続の佐渡攻略成功の裏には、この様な日典の協力があった為、その礼として妙宣寺に雑太城と支城の竹田城跡地が上杉景勝許可の下寄進されたと考えられる。」と云う。
 「学問への関心も深く、景勝に伴って上洛の隙は、高野山に詣で、妙心寺の僧南化玄興の禅門に入り、文禄元年(一五九二)朝鮮出兵の際も、貴重な書籍や朝鮮古活字本などを蒐集し持ち帰った。古書の蒐集は、その後京都の日蓮宗妙覚寺の日典との交際によるものも多く、のちの禅林文庫の基礎となる。」(『国史大辞典』第五巻 吉川弘文館 五二九頁 直江兼続の項)
 兼続は晩年の元和四年、移封先の米沢に禅林寺(後に法泉寺と改名)を創建、禅林文庫に蒐集した書籍約八五〇冊を置いて藩の学問道場とした。文庫に納められた古書の蒐集に日典上人も貢献していたのである。
 『宝暦佐渡国寺社境内案内帳』根本寺 日典上人は天正一五年(一五八七)に来島していた。
 「天正一五年、妙覚寺日典上人当国へ渡海、当村に根本寺と云う一寺を開基す。」
 「〇佐州塚原山根本寺第八代日典上人傳
 師諱ハ日典 洛之妙覚寺十八代主也 越後長尾家兼テ佐州ヲ領ス部将直江山城守景綱 世々ニ法華宗ニシテ師與ト道契尤篤且通家ノ好アリ」(『本化別頭仏祖統紀』本満寺編 三九九頁)
 以上、『仏祖統紀』には、直江兼続の妻方の父である景綱は代々の法華宗徒であり、妙覚寺一八世日典上人とは旧知の親交があるとの記述がある。したがって、日典上人は佐渡において権力者兼続との上記縁故を背景に根本寺の復興や妙宣寺への雑太本城等の譲渡を受けたという事になる。直江景綱は代々の法華宗徒とあるが、実際には、直江家の菩提寺は曹洞宗徳昌寺である。『仏祖統紀』の記述は参考となるが根拠は不明である。
現地調査(次ページより本文)
●現地調査
 前項の歴史資料の考察に基づき、竹田地区における八瀬ヶ平(阿仏寺跡)・竹田城跡(鎌倉期の佐渡守護所)・妙宣寺(雑太本城跡)等の現地調査を小菅氏指導の下行った。
 左図のⒸが現在の妙宣寺である。Ⓑは阿仏寺(現妙宣寺)が新保村から転居してきた場所である「八瀬ヶ平」であり、嘉暦年間より天正一七年にⒸの現在地へ移転するまでの約二六〇年間阿仏寺(現妙宣寺)が存在した。Ⓔは妙宣寺の寺領であった水田で現在も「阿仏坊」の地名が残る。妙宣寺の『田地預け高小作改め控え帳』(明治四年)によると、Ⓔを含めた会沢地区(向う沢)に約二町歩、「八瀬ヶ平」(やせのはか)に二町一反二畝六歩の所有田があったという(『真野町史上巻』二六九頁)。Ⓓは『妙宣寺縁起』に記述のある「阿仏房坂」という旧阿仏街道の坂であり、旧道は坂を下りⒷ「八瀬ヶ平」の下を通り県道へと通じている。
 高低差約一〇㍍程の段丘上のⒶは中世初期の城郭の特徴である単郭方形の城跡を残す「竹田城」(雑太元城)跡で、外周部を囲む土塁が残り城畑の地名がある。この城跡の周辺には、『太平記』に記される鎌倉末期に正中の変で佐渡流罪となり雑太城主本間山城入道の下に幽閉された日野資朝卿の伝説が残る(次項に解説)。Ⓑ隣のⒻは「てなしぼとけ」と呼ばれる土地で、日野資朝卿の仇討ちをした息子の阿新丸が隠れたと伝承の残る「阿新榎」(『佐渡志』付図)が現存する。
 また、妙宣寺縁起の「竹田の城主本間孝昌居城の傍に」Ⓑ阿仏寺を呼び寄せたとの記録に基づくⒶ竹田城とⒷ阿仏寺の位置関係。近隣の国府関連遺跡と守護所との位置関係(次節に説明)等から、Ⓐ「竹田城」(雑太元城)跡を鎌倉から南北朝期にかけての佐渡守護所(守護代居城)であると小菅氏により比定されている。Ⓛは東西約二三〇㍍に渡り短冊状の地割が見られる戦国末期に竹田城の城下町であった地区で、島内最大級の規模(行政力の反映)である事から、Ⓐ竹田城が守護所であった根拠の一つになるという。
 Ⓒ雑太本城跡(現 妙宣寺)は図の通り三郭からなる戦国期以降に見られる城郭である。本間惣領家は戦国末期にⒶ竹田城からⒸ雑太本城へ移転したという。
 天正一七年(一五八九)、Ⓑ妙宣寺は、上杉軍の攻略で廃城となり寄進されたⒸ雑太本城跡へ移転した。
 阿仏房妙宣寺は、雑太本間氏の雑太本城跡に建立した寺である故、雑太本城時代の城郭・空掘等が残る。図㈡は、『旧版日蓮と佐渡』(一一二頁)に記載の雑太本城(阿仏城)跡の城郭図である。図の通り、①本丸を挟み②二の丸・③三の丸を備えた三郭により構成される戦国期以降に見られる城郭であり、『宝暦佐渡国寺社境内案内帳』の「第三廓まで残らず上杉景勝の命により当寺に寄付」とは、まさにこれを示すものである。城の裏面は自然の谷と空掘で囲まれている。図㈠は、現在の妙宣寺の地図に①〜③の城郭の位置を確認したものである。現在、本堂・祖師堂・庫裏等が建つ場所①が本丸であり、五重塔の建つ場所②が二の丸である。上の写真の通り二の丸・本丸間の空掘は大分埋められているが確認できる。山門脇には、高さ約二㍍程の土塁が本丸外周部に残り、土塁の一部を削りⒶ日野資朝卿墓地がある。また、宝蔵脇から谷を下りた場所にⒸ歴代墓地がある。これ等墓地ⒶⒸは、阿仏寺が当地に移転してから建てられたと考えられる。二の丸横に一段下がった段状の土地Ⓓが見られる。(一説に、寺は最初③三の丸に移転し、後に①現在地に移転したとも云う。)
 天正十七年六月、上杉軍の佐渡平定直後に治安維持と寺領承認の為発された『制札』と『寺領安堵状』が妙宣寺に現存する。
 『制札』は、上杉景勝が阿仏坊の寺領内で諸軍勢の乱暴狼藉と竹木伐採を禁止したものである。「制札 右当地に於て、諸軍勢濫妨狼藉、並に竹木剪採の事、堅く停止せしめ畢んぬ。若し違犯の輩これあらば、立ち所に於て成敗を加うべき由仰せ出し、御朱印なさる者也、仍て件の如し。朱印 天正一七年六月日 奉行中 阿仏坊」と記されている。(佐渡市指定文化財)
 『寺領安堵状』は、家老直江兼続が妙宣寺寺領を承認したもので、「寺内前々の如く、諸式相違あるべからざる者也、依て件の如し 直江 天正一七年六月廿九日 兼続花押 妙宣寺」と記されている。この記述から、妙宣寺が現在地に移転以前に「妙宣寺」の寺名となった事が推測し得る。
 また、妙宣寺には、直江兼続が寄進した鑓の穂先が現存する。長さ約八〇センチメートル・幅三センチメートル程の素槍で、大正期の什物帳に「直江山城守寄進の鑓」と記されているのが初見の記録であるという。
『太平記』における日野資朝卿親子と日満上人
 雑太元城(竹田城)が鎌倉〜南北朝期の佐渡守護所であった傍証として、一三二五年(正中二)、正中の変で佐渡配流となり、雑太元城・守護所(竹田城)に幽閉されていた日野権中納言資朝卿や面会に来た息子の阿新丸と日満上人との交流の記録が『太平記』に記されていると、『佐渡中世史の根幹』(二八〜九頁)に述べられている事から、これを検証してみる。
 『太平記』「長崎新左衛門尉意見事付阿新殿事」
 「都ヲ出テ十三日卜申ニ、越前ノ敦賀ノ津ニ着ニケリ。是ヨリ商人船ニ乗テ、程ナク佐渡ノ國へゾ着ニケル。人シテ右卜云べキ便モナケレバ、自本間ガ館ニ致テ中門ノ前ニゾ立タリケル。①境節僧ノ有ケルガ立出テ、「此内へノ御用ニテ御立侯カ。又何ナル用ニテ侯ゾ。」ト問ケレバ、阿新殿、「是ハ日野中納言ノ一子ニテ侯ガ、近来切ラレサセ給ベシト承テ、其最後ノ様ヲモ見侯ハンタメニ都ヨリ遥々卜尋下テ侯。」ト云モアヘズ、泪ヲハラ〳〵ト流シケレバ、②此僧心有ケル人也ケレバ、急ギ此由ヲ本間ニ語ルニ、本間モ岩木ナラネバ、サスガ哀ニヤ思ケン、③軈テ此僧ヲ以テ持佛堂ヘイザナヒ入テ、蹈皮行纒解セ足洗テ、疎ナラヌ體ニテゾ置タリケル。阿新殿是ヲウレシト思ニ付テモ、同ハ父ノ卿ヲ疾見奉バヤト云ケレ共、今日明日斬ラルべキ人ニ是ヲ見セテハ、中々ヨミ路ノ障トモ成ヌべシ。又関東ノ聞へモイカヾ有ランズラントテ、父子ノ對面ヲ許サズ、四五町隔タル處ニ置タレバ、父ノ卿ハ是ヲ聞テ、行末モ知ヌ都ニイカヾ有ラント、思ヤルヨリモ尚悲シ。(中略)
 五月廾九日ノ暮程ニ、資朝卿ヲ籠ヨリ出シ奉テ、「遥ニ御湯モ召レ侯ハヌニ、御行水候へ。」ト申セバ、早斬ラルべキ時ニ成ケリト思給テ、「嗚呼ウタテシキ事カナ、我最後ノ様ヲ見ン為ニ、遥々卜尋下タル少者ヲ一目モ見ズシテ、終ヌル事ヨ。」ト計リ宣テ、其後ハ曾テ諸事ニ付テ言ヲモ出給ハズ。今朝迄ハ気色シホレテ、常ニハ泪ヲ押拭ヒ給ケルガ、人間ノ事ニ於テハ頭燃ヲ拂フ如ニ成ヌト覚テ、只綿密ノ工夫ノ外ハ、餘念有リトモ見へ給ハズ。夜ニ入レバ輿サシ寄テ乗セ奉リ、④爰ヨリ十町許アル河原へ出シ奉リ、輿舁居タレバ、少モ臆シタル気色モナク、敷皮ノ上ニ居直テ、辞世ノ頌ヲ書給フ。
 五蘊假成形。四大今帰空。(五蘊假ニ形ヲ成シ。 四大今空ニ帰ス。)
 將首當白刃。截断一陣風。(首ヲ將テ白刃ニ當ツ。截断ス一陣ノ風。)
 年号月日ノ下二名字ヲ書付テ、筆ヲ閣キ給ヘバ、切手後ヘ回ルトゾ見へシ、御首ハ敷皮ノ上ニ落テ質ハ尚坐セルガ如シ。⑤此程常ニ法談ナンドシ給ヒケル僧来テ、葬礼如レ形取營ミ空キ骨ヲ拾テ阿新ニ奉リケレバ、阿新是ヲ一目見テ、取手モ撓倒伏、「今生ノ對面逢ニ叶ズシテ、替レル白骨ヲ見ル事ヨ。」ト泣悲モ理也。阿新未幼稚ナレ共、ケナゲナル所存有ケレバ、父ノ遺骨ヲバ只一人召仕ケル中間ニ持セテ、「先我ヨリサキニ高野山ニ参テ奥ノ院トカヤニ収ヨ。」トテ都へ歸シ上セ、我身ハ勞ル事有ル由ニテ尚本間ガ館ニゾ留リケル。是ハ本間ガ情ナク、父ヲ今生ニテ我ニ見セザリツル鬱憤ヲ散ゼソト思フ故也。角テ四五日経ケル程ニ、阿新晝ハ病由ニテ終日ニ臥シ、夜ハ忍ヤカニヌケ出テ、本間ガ寝處ナソド細々ニ伺テ、隙アラバ彼入道父子ガ間ニ一人サシ殺シテ、腹切ランズル物ヲト思定テゾネライケル。」
『日本古典文学大系 三四』岩波書店(七三〜五頁)
 妙宣寺に日野資朝が元徳三年(一三三一)に父母の追善の為、法華経を書写した『細字法華経』(国指定重要文化財)が現存し、資朝の「墓地」(伝火葬塚)が境内山門脇に奉られている事から、文中の阿新丸に応対した人物は妙宣寺の僧侶であると考えられる。
 更に、次の年表に示す年代関係から、前の『太平記』文中、佐渡に配流された日野資朝に会いに来た息子阿新丸を、①佐渡代官本間山城守泰宣の館(雑太城)の中門の前で出迎え、②処刑される父資朝に対面に来た旨を本間泰宣へ伝え、③持佛堂へ案内し足袋を脱がせ足を洗い持成し、⑤資朝の法談の相手となり、斬首された資朝の葬儀を形通り行い、遺骨を阿新丸へ渡した僧侶は、妙宣寺二世日満上人である事が判明する。
一三二五年(正中二)八月、【資朝】佐渡国に配流。雑太城主本間山城守の下に幽閉される。
一三二七年(嘉暦二)、【日満】阿仏寺を新保村より竹田の「八瀬ヶ平」に移転する。
一三三一年(元徳三)七月七日、【資朝】父母の追善の為『細字法華経』書写。
一三三二年(元弘二)六月二日、【資朝】斬首される。享年四三歳。
一三三二年(元弘二)七月二四日、【日満】日興より定め置き状・宗祖直筆の本尊を譲与。
 以上の通り、両者の年代が符合している事が確認できる。嘉暦二年、雑太城主本間山城守の命により阿仏寺を新保村より竹田の「八瀬ヶ平」に移転させた日満上人は、雑太城に幽閉されていた日野資朝の法談の相手となり、父母の追善の為法華経書写を勧め(元徳三)、翌年(元弘二)六月二日に斬首された資朝の葬儀を行い息子阿新丸に遺骨を手渡した(『太平記』)。妙宣寺に資朝筆『細字法華経』や資朝の墓地が残る事からも推測し得るところである。また、元弘二年七月二四日、本堂完成の砌に日興上人より日満上人へ送られた宗祖直筆の「大曼荼羅本尊」や定め置き状「佐渡国法華衆等本尊聖教之事」(『日蓮宗宗学全書』第二巻一四二頁)が現存する事から、日満上人が同時期佐渡に居られた根拠となるのである。
 また、前記『太平記』の「④爰ヨリ十町許アル河原へ出シ奉リ」との記述から、資朝は、幽閉されていた雑太元城より「十町許」=約一・〇九キロメートル程離れた河原で斬首された事になるが、実際に、雑太元城(竹田城)より北西に約一キロメートル程離れた大道川陣場橋付近に日野資朝卿斬首の場所が伝承され石碑が建立されている。
【阿新榎について】
 阿仏寺跡である八瀬ヶ平の隣「てなしぼとけ」に、雑太城下で斬首された日野資朝卿の仇討ちをした息子の阿新丸が隠れたと伝承の残る「阿新榎」が現存する。この「阿新榎」については『佐渡志・付図』に記録がある。「同書には竹田川を挟んで川向こうの竹田城(=雑太元城・鎌倉期佐渡守護所)を背景に阿新榎が描かれていて、昔の阿新隠れ松が枯死したので、松の若木を植え替えたが、これもまた老木となって枯死してしまった。そこで村人がその遺跡の消滅を惜しんで、榎に植え替えたと詳細な顛末・由緒を明記してあった。」(『佐渡中世史の根幹』一〇九〜一〇頁)と云う。榎の下には、阿新丸を助け石子詰の刑に処された山伏大膳坊への供養と伝う三基の磧石陰刻五輪塔板碑(南北朝後期〜室町期作)がある。手なし仏の名は、板碑の形状や石子詰刑の様に由来すると云う。
 妙宣寺境内脇に「阿新松」があるが、妙宣寺が八瀬ヶ平より現在地に移転してきた際に、日野資朝卿の墓地と共に事跡を移転させたとも考えられる。
『新版 日蓮と佐渡』(二二〇〜七頁)【田中圭一説】における阿仏寺の移転説
 田中説が『宝暦佐渡国寺社境内案内帳』の記述と大きく異なる点は、阿仏寺が新保村の阿仏房元屋敷から「八瀬ヶ平」へと移転せず、天正十七年に阿仏寺(十世日帝代)が新保村から直接、竹田の雑太本城跡へと移転したとする点である。
 天正十七年移転の理由として、妙宣寺の記録に一世日得・二世日満以降、三世〜十世までの寂年が記されていない点。また、歴代墓地の十世日帝(一六二一寂)までの墓石がみな同じである事から、十一世の日述(一六三七寂)が一〜十世までの墓石を同時期に作ったと考えられる点を根拠に挙げ、「十世日帝が、天正十七年(一五八九)招かれて現在の寺域に寺基をつくり、それが母体となって近世中後期に現在の寺構えができあがっていった。」と推測している。また、天正十七年まで新保に阿仏寺があった根拠として、「戦国末期まで新保に妙宣寺の前身の寺が存続していなければ、終戦後の農地解放まで新保に阿仏荒野や田地が残るはずがない。」と、戦後まで新保に阿仏寺の寺領が残っていた事を根拠として述べている。
 前述の田中説を受けて、『佐渡中世史の根幹』で小菅氏は、「現在も新保の古老の間で阿仏荒野の近くに阿仏所縁の寺(実際は支坊)が三軒もあったと、その場所を含めてかなり鮮明に伝えている事から、新保から真野・竹田への移転が早かったか遅かったかの時期の問題ではなく、これは真野へ移った新保阿仏寺(妙宣寺)が現地に支坊を残して、新保の阿仏房在家関連の田畠・野山に対する経営・維持管理を巧みに行ってきたかどうかの、成果の問題として捉えるべき問題であろう」(三六〜七頁)と、述べている。嘉暦二年(一三二七)、阿仏寺が新保村の阿仏房元屋敷から真野の「八瀬ヶ平」へと移転してからは、新保村に残した阿仏寺の支坊によって当地の寺領を管理させ間接的に経営していた訳である。また、妙宣寺歴代墓地の十世日帝(一六二一寂)までの墓石がみな同じである理由は、十世日帝が天正十七年に「八瀬ヶ平」から現在地へ移転してきた為、十世日帝滅後、十一世日述が一〜十世までの墓石を新たに作ったからであろう。『妙宣寺過去帳』や墓石には、十一世は「日述」ではなく、「日」と記されている。歴代墓石について詳細は次項に調査結果を述べる。
 田中説は、嘉暦年間の阿仏寺の真野「八瀬ヶ平」への移転について意図的に無視し否定する根拠を述べていないが、「嘉暦年中、地頭本間山城守下知して今の地に遷す。」との記述のある『宝暦佐渡国寺社境内案内帳』は「元禄期に佐渡奉行所が寺社の書き上げを取採り集めて編纂した公簿(原本伝存せず)を基に、宝暦期に増補改訂した」(三七頁)と、いう信頼性のある歴史資料であり、この書に明記されている上記記述を明確な根拠もなく否定し去る田中説を批判している。
 また、田中説では、日典が天正一八年に初めて佐渡へ来島したとするが、『宝暦佐渡国寺社境内案内帳』(天正一五年、根本寺開基)や『実相寺古文書』(天正二年、矢馳季暁より後の実相寺境内となる土地の寄進を受ける。『河崎村史料編年志上巻』所収)には天正一八年以前に日典が来島した記録があり、田中説の天正一八年初来島説は誤りであるという。
妙宣寺歴代墓地の調査
 上段の写真が妙宣寺歴代墓地(開基〜三十五世)の全景である。この歴代墓地は、妙宣寺南西側の谷の中腹に位置する。また、歴代の墓石は写真に記入した通りの順に並んでいる。
 下段の写真は、開基阿仏房日得聖人・千日尼夫妻の墓石を中心とした十四世までの墓石である。二世日満師より十一世日師までの墓石は、長方形の細長い竿石をもつ同じ形状(笠塔婆)の墓石が並び、その両脇に十二世日透(寛永十年)・十三世日遵両師の五輪塔形式の墓石が建つのが確認できる。また、十四世日遺師他、十九世・二十世の墓石が二世〜十一世までの墓石と同形式である。
 この内、三世日圓師の墓石右側面に「寛永乙巳(十)年六月廿三日」、十世日帝師の墓石右側面に「寛永十一年」の建立と刻まれている事や、『妙宣寺過去帳』に拠ると三世〜九世までの寂年の記録がなく(十世の代に移転してきた為)、十世日帝師が元和七年、十一世日師が寛永十五年、十二世日透師が寛永十年に入寂している事、また、二世〜十世の墓石の幅・高さや笠の部分の形状がそれぞれ異なる事等から、妙宣寺が天正年間、十世日帝師の代に「八瀬ヶ平」より現在地に移転後、二世日満師より十世日帝師までの現存する墓石は、寛永年間(特に十〜十一年を中心として)に、㈠十二世が加歴の場合、十一世日師の代に、または、㈡十一世日師が寛永十年(十二世入寂)以前に引退と推定した場合、十三世日遵師(慶安三年入寂)の代に、複数の石工により建立されたと推測し得る。
 中央の開基阿仏房日得聖人・千日尼夫妻の墓石は、側面に「元禄九丙子年四月七日」(一六九六)、「廿二代智善院日忍」の再建と記されている。また、開山墓の台座部分と両辺の歴代墓群が乗る基礎部分の石垣が一体化している事から、元禄年間に二十二世中興開山日忍師により、開基阿仏房夫妻の墓石の再建と歴代墓群の基礎部分の石垣が整備されたと考えられる。墓石調査に当たり、石碑研究家計良勝範氏のご教示を得た。
三、鎌倉時代の佐渡国府・守護所
鎌倉時代の佐渡守護所の推定
 上図は、佐渡市竹田地区周辺におけるⒶ竹田城(雑太元城)跡、Ⓑ阿仏寺跡、Ⓒ雑太本城跡(現 妙宣寺)、Ⓗ下国府遺跡(国府官舎)、Ⓘ檀風城跡、Ⓙ国分寺、Ⓚ世尊寺の位置関係を示した地図である。〔佐渡市 六〇〇〇分の一地図を加工〕
 鎌倉〜南北朝時代の佐渡の守護所である佐渡守護代雑太本間惣領家の館の所在については、Ⓐ竹田城〔小菅徹也説〕、Ⓘ檀風城(雑太城)〔通説〕、下畑玉造遺跡〔『新版 日蓮と佐渡』田中圭一説〕等の説があるが、Ⓐ竹田城説とⒾ檀風城説については、次の解説に見られる。
 『 檀風城(だんぷうじょう)
雑太城の別称で、江戸時代に生まれた呼称であろう。名称の由来は、正中の変で佐渡へ流され、雑太城主本間山城入道に預けられていた日野中納言資朝が、つれづれのままに城外に出て、「秋たけし檀の梢吹く風に、雑太の里は紅葉しにけり」と、詠んだ歌からつけられたと伝えられている。『太平記』の中では、資朝を預った「その国の守護本間山城入道」の居所を、「本間の館」と記しており、これが通称「檀風城」と呼ばれる城館である。今「檀風城址」と呼ばれている場所は、竹田川に向って突き出た低位段丘先端部の一画を占め、周囲には土塁が残り、南端を空堀で切られている、一ヘクタール足らずの居館址である。中世初期の居館は、このような割合低い地に、単郭築造されているのが普通で、鎌倉末から南北朝期にかけては、やや高い丘陵に館を設け、後方山地に山城を築くようになる。戦国期に入れば、さらに高い段丘上に移り数郭を揃えた広大なものとなり、周辺に小支城を配するといった形態に変わる。
 近年、檀風城の東方約一キロメートルの一段高い段丘先端部に、檀風城とほぼ同じ規模で残る竹田城(通称「又助の城」)を、雑太城(守護代居城)とみる説が出ている。それは鎌倉時代末に、阿仏坊を新保より城の傍へ呼び寄せた本間泰昌の城跡とみることと、この段丘下の竹田川辺に、日野公斬首の伝説が残ることからであろう。ここも単郭で周囲に土塁が残り、郭の三方に空堀がめぐらされている。日野資朝や阿新丸に関する遺跡は、果してどちらの城であろうか。〔執筆者〕山本仁』(『佐渡相川郷土史事典』四七四頁 相川町史編纂委員会編)
 以上の通り、単郭築造であるⒾ檀風城〔通説〕とⒶ竹田城〔小菅徹也説〕の二説が(鎌倉期〜)南北朝期の惣領家雑太本間氏の居城である雑太城(守護代居城)として挙げられている。戦国期に、Ⓘ檀風城もしくはⒶ竹田城から移転した場所がⒸ雑太本城跡(現 妙宣寺)である。Ⓒ雑太本城跡(現 妙宣寺)は三郭からなる戦国期の城跡である。
【Ⓐ竹田城説】〔小菅徹也説〕
 小菅氏は鎌倉〜南北朝時代の佐渡守護所の位置と南北朝末期頃の下畑への守護所移転について次の様に自説を述べている。
  「守護所は国衙の近くに設けられるのが一般的です。国衙を潰して守護所にするとか、甚だしく国衙から離れたところに守護所を構えるということは特殊な事情のある場合で、佐渡の場合は特に考えられません。従って戦国期に、かつて国衙跡であったところを城郭にした檀風城址を佐渡守護所と考えることはできませんし、戦国末期の雑太本間氏の居城跡(現、阿仏房妙宣寺境内)を鎌倉期の守護所跡とすることもできません。雑太郷内とすれば、遥かに国中平野の穀倉地帯を見渡し、国衙を見下ろす竹田台地の東縁に構築されている竹田城址以外に守護所の適地はありません。本間六郎左衛門重連が守護代である限り、六郎左衛門重連の居城は竹田城(雑太元城)以外に求めてはならないと思います。下畑の館には、波多郷代官で六郎左衛門重連の後見人を兼ねる波多本間氏がいたと考えるべきでしょう。(中略)
  竹田城から下畑に佐渡守護所が移るのは、南北朝末期頃と考えられます。鎌倉末期に小倉川からの用水路開削が進み、後山から三宮にかけての台地先端部が大規模に水田開発されはじめたことと、半済令以後の前浜での良港の確保、鎌倉幕府の滅亡や佐渡における南北朝の戦乱などが微妙に影響して、守護所は波多郷下畑へ移転したと考えられます。」
『歴史と地理』四九六号 山川出版 所収「佐渡の歴史」小菅徹也(一四〜五頁)
   ※国衙…国司が政務を行った施設(国庁)。国衙を含む区域を国府と云う。
 以上の理由から、小菅氏はⒶ竹田城を鎌倉〜南北朝時代の佐渡守護所と推定している。小菅説に基づく雑太本間惣領家の「雑太城」の変遷を整理すると以下の様になる。
  鎌倉〜南北朝時代…雑太惣領家のⒶ竹田城(雑太元城)が佐渡守護所。
  南北朝時代末期 …佐渡守護所が雑太惣領家から庶子家の波多本間氏の下畑へ移転。
  戦国時代末期  …雑太惣領家の雑太城は現在のⒸ妙宣寺の場所へ移転し、元のⒶ竹田城と国府施設跡に築いたⒾ檀風城を支城とした。
  同・天正一七年 …上杉軍の佐渡侵攻により廃城、城跡にⒸ妙宣寺が建立される。
【Ⓘ檀風説】〔通説・明治期の郷土史家説〕
 Ⓘ檀風城跡については、『真野町史上巻』に「中世に城として使われた「檀風城址」と伝えられるところで、此処からは国分寺瓦と同様の布目瓦、礎石とみられる大石、多数の須恵器、土師器片などが出土しており、国庁のあった地点ではないかと見られている。」(一〇七頁)とある。すなわち、佐渡国府が存在した室町時代頃までは、Ⓘ檀風城跡は、国府施設である国庁(国衙)として機能していたのであるから、鎌倉時代のⒾ檀風城跡は佐渡守護所ではない事となる。したがって、前述の小菅氏の説は妥当と考えられる。国府・国庁が既に消滅した戦国時代末期に雑太城の支城として国庁跡にⒾ檀風城が築かれたのであろう。
【下畑玉作遺跡説】〔『新版 日蓮と佐渡』田中圭一説〕
 この説の詳細については次項に解説する。小菅氏によると、近年の全国的な国府遺跡の発掘調査の結果に基づけば、特殊な事情を除く殆どの事例で、守護所が国衙(国庁)を監視・監督する目的から、国衙(国庁)の近くに守護所を設ける位置関係にあるという。この様な一般事例に基づけば、国衙(国庁)より約三㌖程離れた下畑玉造遺跡を鎌倉期の佐渡守護所する『新版 日蓮と佐渡』の田中圭一説は可能性の低いものと考えられる。
佐渡国府の位置
 佐渡国は、もとは雑太郡一郡であったが、養老五(七二一)年に賀母(加茂)・羽茂二郡を分置して三郡となった。雑太郡に「国府」が置かれ(『和名抄』)、軍団の「雑太團」(『三代実録』)、国駅の「雑太駅家」、前浜・松前(松ヶ崎)に「国津」(『廷喜式』)、竹田に国分寺が建立され、雑太の地に公的機関が集積していた。
 前図にⒽ下国府遺跡(国府官舎)やⒾ檀風城跡(国庁)、Ⓙ国分寺がある様に、真野(旧雑太)地区周辺には国府の所在を裏付ける遺跡が点在し、以前よりⒶ竹田城、Ⓒ妙宣寺(雑太城)、Ⓘ檀風城等の城跡を国府とする説が唱えられてきたが、現在は若宮遺跡周辺が第一次国府説として有力であるという。
 「国府の位置と規模
 佐渡国府の位置については、近世以降、㈠檀風城址、㈡吉岡の現総社の地、㈢四日町・八幡若宮社周辺、㈣竹田城址、㈤妙宣寺境内など、雑太郡の中心地と目される国中平野南瑞部の各所に比定する説が、つぎつぎにとなえられてきた(図.1参照)。このうち最も有力な説は、㈢の四日町・八幡若宮社周辺説であり、その根拠はおよそ次の諸点である。㋑八幡若宮社が府中八幡とも呼ばれていること。㋺若宮社の南の大願寺が一四世紀に府中橋本の道場と呼ばれていたこと。もっとも大願寺の位置そのものは移動しており、もうすこし国府川に近い北西方(図1A付近)にあったというがいずれにしても大差ない。㋩四日町に国府市場の名が残っていること。㋥国府川の河口に近いこと。㋭「廷喜通宝」「承和昌宝」などの銭や墨書須恵・土師器、布目瓦を出土した地点(図1A・B)があること。㋬大道、横大道と呼ばれる主要道路が、若宮社や大願寺の位置する古砂丘上に集まること、などである。」『佐渡の歴史地理』古今書院 所収「Ⅳ国府と郡家」足利健亮(六六〜七頁) ※㋥は国府川河口付近に「国津」を想定している。
 図1のPQRSの四点間を土塁状遺構により囲まれた方五町区画(一辺約五四五㍍四方)が昭和四二〜三年の調査結果により佐渡国府に推定された場所【四日町・八幡若宮社周辺説】(若宮遺跡)である。
 同論文には、さらに、佐渡国府が前述の若宮付近から檀風城跡を中心とする雑太地区へ移転したという国府移転説を紹介している。
 「このいわゆる檀風城址の地表遺構は明らかに中世の館の趣を呈しているが、古くから国府推定地の一つにあげられており、かつ近年の調査によってそこから国分寺と同形式の瓦、宋青磁、青銅器具、須恵器、柱根などの発掘を見、古代におけるかなり重要な施設の遺址であることが認められるにいたった。こういう状況の中で田中圭一・山本仁両氏は、檀風城址周辺の比較的広い範囲に「新川(にいこう)」「内新川(うちにいこう)」「外新川(そとにいこう)」というコアザが散在することを見出し、この「にいこう」を「新国府」と解釈して国府移転の考えを導いたわけである。同説によれば、その府域は檀風城をほぼ中心として、竹田川を北辺、大道川を西辺とする方四町域ということであり、仮にそうであれば府域の南西隅から近距離に旧総社址と伝えられる「八社林」が位置することになる。さらに同説は国府移転の時期を天平宝字三(七五九)年の、生江臣智麻呂が国司に任ぜられた前後のころとする大胆な推定をおこなっている。」(『佐渡の歴史地理』足利論文七一頁)
 論文著者の足利氏は、この説に対し、唯一の根拠が「新川」(にいこう)という地名のみで、その地名の分布限界や府域の四至遺構が不明瞭な点を指摘し、「この新国府説は十分成熟した説得力ある説に達していないのが遺憾である。」と評している。(同書七一頁)
 以上、若宮遺跡付近を国府域とする「四日町・八幡若宮社周辺説」(若宮遺跡)と、檀風城跡付近を「新国府」(後期国府・雑太国府)と推定する国府移転説が提唱され今日に至っている。
 国府移転の経緯については、『真野町史上巻』に「在来の豪族は大化改新以後、雑太の郡司に任命されて若宮の地にとどまって国司の任務を代行していたが、国から国司が派遣されるとその国司は新しい土地に入ったので、そこが新国府となったとも考えられよう。佐渡国司の所見は天平宝字三年(七五九)の生江臣智麻呂であり、彼は条里水田の開発や国分寺造立にも一役かったのではないかと推測される人物である。」(一〇六頁)との解説がみられる。したがって、新国府への移転は七五九年頃と推測されている。
 Ⓗ下国府遺跡は、昭和五〇年の発掘調査により、周囲を二重の溝に囲まれた内側に、二間×五間の掘立柱建物二棟が検出され、溝から九世紀前後頃の須恵器の瓶や杯などが出土し、此処の土地名が『元禄検地帳』に「下国府」とあること、南にⒿ佐渡国分寺があること等から、佐渡国府関係の施設と推定される国指定の史跡であるが、前述の「新国府説」(雑太国府説)に基づき、西方約三〇〇㍍にある新国府(Ⓘ檀風城跡)の関連施設として「国府官舎」(官衙もしくは役人の官舎『埋文にいがた№54』)と想定されている。過去には世尊寺の所有地でもあった場所である。
 Ⓘ檀風城跡を国庁と推定する説は、この様なⒾ檀風城跡(国庁)を中心とした雑太国府説に基づくものである。発掘調査の結果からもⒾ檀風城跡は、国府に関連する重要な施設であった事は事実であろう。したがって、国府が存在していた鎌倉時代に国府施設であるⒾ檀風城跡を佐渡守御所とする説は史実に矛盾している。小菅氏によるとⒾ檀風城跡を佐渡守護代・雑太本間氏の初期居城とする説は、日野資朝伝説と結びつけた明治期の創作であるという。先述の通り戦国末期に国府施設跡に築城した支城であろう。
『新版 日蓮と佐渡』【田中圭一説】における佐渡国府・
守護所の位置
【波多国府説】
 「佐渡における国府(律令制下で国司が政務をおこなう役所)は、最初、国府川が真野湾に流れ込む付近にあった(若宮国府)。時期は定かではないが、この合沢地区で須恵器が見られる平安期には、今、同地区と隣接する檀風城址の場所に国府が移った(雑太国府)。この雑太国府は、合沢で発掘された須恵器の時期が示すように、鎌倉初期以前には別の場所に移されたと思われる。それ故、雑太国府とともに一時期栄えた合沢地区は、国府の移転とともに廃れることとなる。
 ここで、日蓮が流罪された鎌倉時代後期に、国府がどこにあったのかという当初の問題意識に立ち、合沢および波多を見直す必要が出てくるのである。」『新版 日蓮と佐渡』(六四頁)
 以上、田中圭一氏は、佐渡国府が「若宮国府」より檀風城址の「雑太国府」へ、さらに、鎌倉初期以前には「波多」へと移転したとして「国府三転説」を主張している。
 同書において田中圭一氏が鎌倉時代の佐渡守護所・国府として畑野(波多)の下畑玉作遺跡周辺を推定する根拠は、次の様に述べている。
 「金井町中興にある西蓮寺所蔵の『本間系図』では、雑太(現・真野町竹田)と波多(現・畑野町下畑)は、どちらも本間惣領家に属したとしており、承久の乱(一二二一)の時に惣領家は雑太に居住したとしている。この記載を信じると、本間重連の館は雑太にあったことになる。しかし『日蓮遺文』によれば、本間重連の館のほど近く、阿仏房が徒歩で食事を運べる範囲に日蓮が置かれていた配所がある。
 日蓮が身延山に帰った後、亡くなった阿仏房の遺骨を首にかけて身延山を訪れた阿仏房の子・藤九郎守綱の墓と言われるものは、畑野町の目黒町にある。また、阿仏房と並んで日蓮に探く帰依した国府入道の遺跡が、畑野町下畑の波多熊野神社跡の西側にあった。
 このように、日蓮関係の遺跡は波多郷に集中している。これに反して、雑太付近には日蓮関係の遺跡がまったくない。」『新版 日蓮と佐渡』(六四〜五頁)
 以上、田中氏は『日蓮遺文』と「日蓮関係の遺跡」を根拠として鎌倉期の佐渡国府・守護所を畑野下畑と推定している。畑野下畑における佐渡国府・守護所説は、前回の『現代宗教研究第四十二号』所収の「調査報告」(二一三〜九頁)に記した通り、根拠の希薄な説である。
 【佐渡守護所】について田中氏は、日蓮聖人御遺文『種々御振舞御書』「六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申山野の中に」(昭和定本九七〇頁)の文章を「守護代本間六郎左衛門の家のうしろ塚原へ」と訳し、守護代館(守護所)の後ろに塚原配所があるという位置関係を根拠に、畑野目黒町の塚原配所と畑野下畑の守護所を推定している。
 この説は、田中氏による御遺文の誤訳であり、『種々御振舞御書』「六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申山野の中に」(昭和定本九七〇頁)の文意は、「守護代本間六郎左衛門家の後見人の家より塚原へ」という意味であり、「うしろみの家」とは本間惣領家(守護代)の後見人(うしろみ)である「波多本間氏の館」のことである。よって、正しい解釈に基けば、田中氏の推定した下畑玉作遺跡は佐渡守護所ではなく、後見人の「波多本間氏の館」となる。したがって、この御遺文は佐渡守護所と「日蓮関係の遺跡」との位置関係を表すものではない。(『佐渡中世史の根幹』七一〜六頁)
 以上の御遺文誤訳の根拠を除けば、前記『新版 日蓮と佐渡』では「金井町中興にある西蓮寺所蔵の『本間系図』では、(中略)承久の乱(一二二一)の時に惣領家は雑太に居住したとしている。この記載を信じると、本間重連の館は雑太にあったことになる。」という根拠が残る。誤訳を最優先した結果、守護所の所在を誤認した訳である。下畑玉作遺跡を波多の守護所とする根拠については『新版 日蓮と佐渡』(六五〜六頁)に小菅氏の説を引用しているが、小菅氏自身は既にこの説を否定している。詳細は「国府三転説」の項で説明する。
 【佐渡国府】について田中氏は、『世尊寺文書』『畑野区有文書』『文化年間村絵図』等を根拠に世尊寺(国府入道開基)の前身である「下国府坊」の地名・在家が畑野下畑の推定佐渡守護所(下畑玉作遺跡)隣の波多熊野神社跡(守護代館)西側にあり、近辺に寺領があったとする。この「下国府坊」は国府の所在を表す地名であるから、畑野に国府・守護所があった証拠となるとしている。また、室町幕府が国府近くに立てた安国寺が推定佐渡守護所近隣にあることも根拠に挙げている。(『新版 日蓮と佐渡』一五五〜一六〇頁)
 『世尊寺文書』『畑野区有文書』については、小菅氏の『佐渡中世史の根幹』によると、「明治期の地図や土地台帳等の各地籍図、及び、『畑野町史総篇 波多』に掲載されている1694(元禄7)年の畑方村検地帳及び畑本郷村検地帳、旧版や『新版 日蓮と佐渡』などで畑方村に「下国府坊」(世尊寺の前身といわれる下江坊=下国府坊)という地名があった証拠としている1663(寛文3)年の世尊寺の田地預り証文等を詳細に調べた結果、下畑地域に国府関連地名を一筆も見出すことは出来なかった。」(六一〜二頁)また、「文化年間村絵図」は現在行方不明であるが、前述の資料から推測すると「下国府坊」の地名があった可能性は低い(同書六九頁)と、調査結果を述べている。つまりは、畑野(波多)下畑の地域に国府の存在を裏付ける地名は一つもないのである。
 小菅氏によると、田中説は『世尊寺文書』『畑野区有文書』等に土地の所有者として記載・捺印されている「下国府坊」の名を地名と誤認して根拠としている様であるという。
 実際に『新版 日蓮と佐渡』(一五六〜七頁)を検証すると、
 『畑野区有文書』「下国府坊 三石八升四合四勺(中略)寺領」
 『世尊寺文書』「一畑方村之寺領田地度々預申証文之事、一字経田壱ヶ所、一しやうけ田壱ヶ所、一馬場壱ヶ所、一庫裏壱ヶ所、一たい代壱ヶ所(太子堂)、合五ヶ所 此御年貢米三石八升四合四勺 但定納也」
 以上の二書を挙げ、双方に同じ「三石八升四合四勺」の年貢米がある事から、田中氏は〔「下国府坊」と呼ばれる田地が世尊寺の「畑方村之寺領」〕であると判断しているが、二書の内容から判断すれば、「下国府坊」(寺院名)の「畑方村之寺領」の詳細が「一字経田壱ヶ所(中略)合五ヶ所」であると解釈できる。「五ヶ所」別々にある地名が「下国府坊」という一つの地名に集約される事は考えられない。「下国府坊」はやはり土地を所有する寺院名であると考えられる。
 また、「安国寺」については、「波多郷の安国寺集落は、「垣の内」地名は近くにあるものの、これまでに鎌倉期に集落があったことを証明する陶磁器片や遺構が只の一度も確認されたことはない。」(『佐渡中世史の根幹』四〇頁)と、安国寺集落に鎌倉期の波多国府が存在した根拠となる考古学的証拠は無いという。また、室町期創建の安国寺が現在波多の地にある事が、鎌倉期の国府が波多に存在した直接の根拠とはならない。
 【国府三転説】 以上の田中氏の佐渡国府・守護所説は、「下畑沖の第三次佐渡国府域を波多の守護所とする国府三転説(若宮→雑太→下畑)」を根拠とし、昭和四二年に『佐渡国府緊急調査報告書Ⅰ』として発表されたものであるが、小菅氏はこの調査において「下畑沖での第三次の佐渡国府の所在と規模の特定に従事し(中略)「第三次の佐渡国府」を方四町の規模で図面上に復元した。なお、鎌倉期に入るとこの国府域に佐渡守護所が成立した」(『佐渡中世史の根幹』五三〜四頁)と仮定したという。しかしながら、後の調査により「第三次佐渡国府域」の中心となる畑野(波多)下畑の地域に「国府の遺構」自体が全く発見されていない上に、国府の存在を表す地名も正確なものが一つも発見できない事が判明し、「佐渡国府が雑太郷から波多郷へ移転した事実はまったく証明出来ないことが明らかとなった」という。この様に、「下畑沖の第三次佐渡国府域を波多の守護所とする」説は、当時の調査担当者自身が既に否定している。小菅氏によると、現在、この説の支持者は田中氏を中心とする数人しかいないと云う。現に、前記の『佐渡の歴史地理』足利論文(昭和四六年刊)においても根拠の希薄な所為か、波多国府説は紹介されていない。他に佐渡市や新潟県の公的な出版物においても同様に記載は無く、一般に認知されていない非公認の説である。
 【雑太国府・守護所説】 小菅氏によると、宗祖在島中の鎌倉後期は、前述(『歴史と地理』四九六号所収 小菅論文)の通り、檀風城址の場所に国府の政務機関である国庁があり(雑太国府説)、これを監視・監督する関係にある佐渡守護所が雑太本間惣領家の竹田城にあったと云う。
 佐渡守護代の雑太本間惣領家は、庶子家の本間氏を地頭代官として佐渡国内の各郷に配置し、雑太本間家を中心とした惣領制の下に佐渡を守護代として支配していたが、鎌倉幕府の滅亡、南北朝時代の争乱により庶子家の独立・勢力の拡大化が進んでいった。この様な時代背景の中、南北朝時代末期には守護所が雑太惣領家から庶子家の波多本間氏の下畑(玉作遺跡)へ移転したと云う。また、波多郷下畑の地に移転した行政的な理由として、「室町期になって下畑の城館に置かれた佐渡守護所にとっての、佐渡支配最大の政治課題がここ(小倉川)の氾濫防止と波多郷の広域再開発事業であったと思われる。この時点で新しい行政中心域へ、すなわち雑太郷から波多郷へと、人的支援、物的資源、宗教施設の一部が活発に移動したことが考えられる。」(『佐渡中世史の根幹』四一頁)と、推測している。
【下国府坊の所在】
 世尊寺(国府入道開基)所蔵の『世尊寺年代記』に、国府入道がはじめ畑方村(現・畑野下畑)の地に世尊寺の前身となる「下国府房」を建立したと記述(『新版 日蓮と佐渡』一五五頁)があるが、前述の通り小菅氏の調査により下畑周辺に「下国府坊」なる地名が存在しない事がほぼ判明した。
 「下国府遺跡」のある場所は、竹田村『元禄検地帳』に「下こう」の地名で記載があり、国府関連施設である「下国府遺跡」が発掘され、慶長五年の検地張に世尊寺の所有地「畑田」である記録が残っている事等から、世尊寺の前身である「下国府坊」が存在した可能性の高い場所である事や、国府から約三キロメートルも離れた下畑の地に国府の所在を示す「下国府坊」の地名が残るとする『日蓮と佐渡』の田中説を疑問視する点が『畑野町史総篇 波多』(畑野町史編纂委員会編)、『佐渡中世史の根幹』(八一頁)に指摘されている。
 以上の通り、Ⓗ「下国府遺跡」付近に世尊寺の前身である「下国府坊」が存在し、後に上のⓀ現在地へ移転したとする説が明白な根拠がある故に有力であろう。
『塚原跡』石碑群、銘板「塚原配所考」「地図版」【田中圭一説】における佐渡国府・守護所の位置
 銘板「塚原配所考」
 「一、佐渡守護所跡と本間重連館跡
 佐渡において日蓮大聖人を預かったのは守護代・本間六郎左衛門重連である。当然、佐渡守護所と本間重連の館とは近距離にあつた。守護所を特定する方法として、室町幕府が各国の府中(国府の所在地)に建てた安国寺の存在が欠かせない。佐渡に安国寺が建てられた時期は、日蓮大聖人の佐渡配流から六十年ほど後のことであるが、守護所の近くに建てられた安国寺は畑野の下畑にある。本間重連の館について言えば、『佐渡本間系図』には、日蓮大聖人が塚原に入ってから三十七年後の徳治三(一三〇八)年、本間十郎左衛門が波多(現・畑野町下畑)に熊野権現を建立したことが明記されている。これは本間氏館の敷地内に熊野神社を建立したものであり、この熊野神社は後に移転し、その跡に「熊野神社遺跡」の碑が建てられている。また周辺には「城」や「宮」の付く地名がいくつか残っている。これらのことから本間重連の館や守護所は、波多熊野神社跡とそれに隣接する下畑玉作遺跡とされる場所を含む約一町四方の地域にあったと考えられる。」
 『塚原跡』石碑群には、次頁の写真に示したステンレス製の地図版が設置され、銘板「塚原配所考」の田中圭一説における佐渡国府・守護所の位置を説明している。
 「守護所を特定する方法として、室町幕府が各国の府中(国府の所在地)に建てた安国寺の存在が欠かせない。」とある通り、上図では「波多国府説」に基づき波多国府域内の下畑玉作遺跡を①【守護所】としているにも拘らず、「国分寺(国府)」つまりは、雑太国府域に属する国分寺を挙げて②【国府】は「雑太国府説」を主張するという矛盾が見られる。根拠の希薄な「波多国府説」を放棄し、国府のみ「雑太国府説」を採用したとも考えられる。
 前述したが、守護所は国府内の国衙を監視・監督する目的から、国衙の近くに守護所を設けるのが一般的な事例であるという。したがって、雑太国府との距離が約三キロメートル程離れた下畑玉作遺跡を鎌倉時代の守護所とする田中説は、この点においても史実に矛盾すると考えられる。
 守護代本間重連の館について「『佐渡本間系図』には、日蓮大聖人が塚原に入ってから三十七年後の徳治三(一三〇八)年、本間十郎左衛門が波多(現・畑野町下畑)に熊野権現を建立したことが明記されている。」として、波多熊野神社跡を守護代館に推定するが、小菅氏の『佐渡中世史の根幹』(四二頁)によると、『西蓮寺本間系図』(寛永二〇年)の原文には、「宗忠 左衛門十郎忍連 住雑太徳治三年畑野村熊野権現宮御正躰建立」と、ある事から、「本間十郎左衛門宗忠」は、「雑太」に住していた事が明白であるという。つまりは、佐渡守護代の館は、徳治三年の時点で「雑太」に在った訳である。したがって、守護代の館に隣接する「佐渡守護所」も「雑太」に存在した事となる。
 前掲の『新版 日蓮と佐渡』に「金井町中興にある西蓮寺所蔵の『本間系図』では、(中略)承久の乱(一二二一)の時に惣領家は雑太に居住したとしている。この記載を信じると、本間重連の館は雑太にあったことになる。」(六四頁)とある事から、田中氏・小菅氏共に同じ『西蓮寺本間系図』を引用していると判断できる。つまりは、銘板「塚原配所考」に、『西蓮寺本間系図』を引用しておきながら、原文の「宗忠 左衛門十郎忍連 住雑太徳治三年畑野村熊野権現宮御正躰建立」と、「住雑太」(雑太に住す)と記載のある部分を意図的に無視して、「熊野権現を建立した」ことのみで波多熊野神社跡を守護代館と推定したのであろう。
 以上の通り、銘板「塚原配所考」「地図版」に示された田中圭一説は、史実に矛盾する内容である。
 
四、島内における霊蹟の取得問題
㈠「阿仏房元屋敷」(妙宣寺草創地)の土地取得
※「阿仏房元屋敷」の詳細は、本稿第二節で説明した。
名称 「阿仏房元屋敷」
場所 佐渡市金井新保寺沢九五一番地
 日蓮正宗の「塚原跡碑」建立地の買収から、「阿仏房元屋敷」(妙宣寺草創地)の史跡買収を危惧した小菅徹也氏の尽力により、第二節に説明した「阿仏房元屋敷」は、平成二〇年、日蓮宗本山蓮華王山妙宣寺(関道雄住職)がこの土地(九五一番地)を購入し所有権を取得した。
㈡妙満寺周辺の土地問題について
 妙満寺住職竹中智英師より聞き取り調査した佐渡市目黒町五七二の妙満寺周辺における、田中圭一「目黒町塚原配所説」に基づく日蓮正宗「塚原跡碑」建立地と、妙満寺に伝承する塚原三昧堂跡地の土地取得状況について説明する。
※妙満寺に伝承する塚原三昧堂跡地と日蓮正宗「塚原跡碑」建立地については、『現代宗教研究第四十二号』所収の「調査報告」(一八七〜二三六頁)で詳細を説明した。
【妙満寺周辺図】
Ⓐ…妙満寺に塚原三昧堂跡地と伝承のある「三角田」。妙満寺檀家の土地であったが、妙満寺(竹中智英住職)が購入した(平成二二年二月、地権取得)。
Ⓑ…「塚原跡碑」建立地
Ⓒ…駐車場
Ⓓ…妙満寺前住職夫人の元所有地。既に、日蓮正宗に売却済み
Ⓔ‥日蓮正宗に売却済みの土地
Ⓕ…日蓮宗法宣寺の土地
Ⓖ…日蓮正宗に売却済みの土地
【「塚原跡碑」裏の新たに造成中の土地】(平成二一年四月)
 日蓮正宗は、「塚原跡碑」建立地の駐車場を拡張する為、Ⓓ〜Ⓖの土地買収を企てたものと考えられる。
 「塚原跡碑」建立地の管理、及び、Ⓓ〜Ⓖの土地買収の交渉は、佐渡市栗野江一八一六日蓮正宗妙護寺が行っている。
 Ⓓの妙満寺前住職夫人の元所有地は、竹中住職が土地購入を夫人と交渉したにも拘らず、日蓮正宗に売却してしまったと云う。この土地は、元は妙満寺の土地であったが、農地解放後、先々代住職の所有となり以降、前住職、前住職夫人の所有となったと云う。
 Ⓕは、日蓮宗法宣寺(目黒町三二九)の土地であり、日蓮正宗より法宣寺総代へ土地買収の打診があったが断ったと云う。これにより、Ⓓ〜Ⓒ間の土地を分断する形となっている。
【「塚原跡 駐車場」】
 平成二一年八月、上記「塚原跡碑」裏の土地は整地され「塚原跡 駐車場」となった。
 日蓮宗法宣寺の土地Ⓕは、買収されなかった為、現在、駐車場Ⓓ〜Ⓒ間の土地を分断する形となっている。今後も、定期的に監視する。
 平成二二年三月、大石寺により、塚原跡碑への分岐点手前に「塚原跡」の看板が設置された。
⑶松ヶ崎本行寺「大欅」復興と土地の取得
 文永八年(一二七一)一〇月二八日、日蓮聖人が佐渡島ご着岸後、三日三晩を過されたと伝承される樹洞のある欅の大木が通称「大欅」(二代目、樹齢推定五〇〇年以上)と呼ばれ、日蓮宗松ヶ崎本行寺より約四〇〇㍍程離れた場所にある。佐渡市松ヶ崎一六二六番地。
 昭和六三年の環境庁(当時)による巨樹巨木林調査では、幹周五・一㍍、樹高二〇㍍と計測されている。現在の「大欅」に樹洞は無い。
 近年「大欅」が衰弱して枯死・倒木の危機にあることを危惧し、本行寺武藤孝臣住職の下で復興事業が行われ、平成二一年八月完成した。また、土地所有者(池田四五右衛門家)より寄進を受け、「大欅」の土地は本行事の所有となった(平成二二年二月、地権取得)。
「 (大欅)復興事業の主な経過と概要
平成一八年
  地方紙『新潟日報』紙上でおけやきが壊死の危機に瀕していることが公表される。
  一二月一二日 地元有志が集まり、おけやきに悪影響を与えていた竹を伐採する。
平成二〇年
   二月 四日 おけやきを守る会設立→四月二八日 寄付金勧募活動開始
   七月一三日 地鎮式挙行
    同一四日 第一期工事着工(樹勢回復工)→八月二八日完了
  一二月一八日 第二期工事着工(農道・用水路回復・周辺石積み・階段参道敷設工)
平成二一年
   二月一五日 第二期工事完了
   五月 七日 追加工事着工(荒れ地部分整備工)→同一四日完了
   七月一〇日 第三期工事着工(ほこら・寄付者名板等設置工)→同一六日完了
   八月 一日 式典前のおけやき周辺整備として有志が集まり竹林を伐採
   八月 二日 完成式典・法要挙行 」(「事業報告」より)
 
 近年における佐渡島内宗門寺院の霊蹟取得に対する取組みは以上の通りである。
 
 日蓮正宗の「塚原跡碑」建立地の買収を機に、島内の私有地にある霊蹟を調査確認し対応する体制の必要性が生じ、「日蓮宗の危機管理」の一環として調査研究を始めたが、今後は、各寺院に蔵する寺宝の調査確認も併せて行う事で「他教団に対する危機管理」を進めて行く予定である。
参考文献
『昭和定本日蓮聖人遺文』日蓮教学研究所編
『日蓮宗宗学全書』第二巻 日蓮教学研究所編
『新日蓮宗全書』史伝部 本満寺編
『日蓮宗事典』日蓮宗
『日蓮聖人佐渡霊蹟研究』橘正隆
『佐渡中世史の根幹』小菅徹也
『旧版 日蓮と佐渡』田中圭一編
『新版 日蓮と佐渡』田中圭一
『妙宣寺過去帳』等、妙宣寺古文書類
『金井町史』金井町史編纂委員会編
『真野町史上巻』真野町史編纂委員会編
『畑野町史総篇 波多』畑野町史編纂委員会編
『畑野町史 信仰篇』畑野町史編纂委員会編
『河崎村史料編年志上巻』橘正隆編
『佐渡相川郷土史事典』相川町史編纂委員会編
『佐渡の歴史地理』古今書院
『歴史と地理』四九六号 山川出版
『埋文にいがた』№54 (財)新潟県埋蔵文化調査事業団
『朝日百科 日本の歴史別冊 歴史を読みなおす9』朝日新聞社
『日本古典文学大系三四』岩波書店
『国史大辞典』吉川弘文館
 
『阿仏房元屋敷絵図』
 
部分拡大図:絵図の凸部を拡大したもの
 
上図の文字を起こした図
 
Ⓐ阿仏房元屋敷
Ⓑ貝塚村大蔵之屋敷
Ⓒ屋敷之内(新田)
Ⓓ与次兵衛屋敷
Ⓔ大道とほり・継橋
Ⓖ権助之屋敷
※図①②に共通
 
上図〔佐渡市 六〇〇〇分の一地図を加工〕
 
①阿仏房元屋敷絵図(図に起こしたもの)寛文11年
 
Ⓔ継橋:現在も同じ場所に架かる
 
Ⓐ元屋敷〜Ⓔ継橋
 
②現在の地図における阿仏房元屋敷絵図の範囲
 
現在の地図上のⒶ阿仏房元屋敷
 
①「阿仏房元屋敷」の標柱
 
Ⓐ阿仏房元屋敷㈠㈡の全景
 
→左図より削除された部分(阿仏房元屋敷)
 
『新版 日蓮と佐渡』(101頁)
 
『旧版 日蓮と佐渡』(110頁)
 
『新版 日蓮と佐渡』(100頁)
 
上の「写真30」と同じ場所Ⓕ
 
『新版 日蓮と佐渡』(100頁)
 
Ⓕ阿新榎、Ⓑ八瀬ヶ平(阿仏寺跡)、Ⓐ竹田城跡等の位置関係
 
Ⓐ竹田城、Ⓑ八瀬ヶ平、Ⓒ妙宣寺等の周囲図
 
二の丸(手前)・本丸間の空掘、本丸外周の土塁が残る。(撮影地点Ⓑ)
 
図㈠ 妙宣寺と城郭
 
図㈡ 雑太本城の城郭図
 
上杉景勝 制札
 
直江兼続 寺領安堵状
 
直江兼続寄進鑓の穂先と箱書
 
日野資朝卿の墓(伝火葬塚)妙宣寺山門脇
 
日野資朝卿筆『細字法華経』(国重文)妙宣寺蔵
 
資朝卿斬首の場所に建つ石碑 大道川陣場橋付近
 
Ⓘ檀風城址(中央の台地)と石碑
 
Ⓗ下国府遺跡(国指定史跡)と説明版
 
「塚原跡碑」裏の新たに造成中の土地(平成21年4月)
 
既に整地され駐車場となった「塚原跡碑」裏の土地
 
駐車場を分断するⒻ日蓮宗法宣寺の土地
 
復興事業が完了した「大欅」
 
佐渡市松ヶ崎地図
Ⓐ本行寺
Ⓑ大欅…参道入口に題目塔がある。
 
妙宣寺歴代墓地全景 開基〜三十五世
 
廿二世日忍師墓
 
開基阿仏房夫妻墓
 
三世日圓師墓
 
竹田城(雑太元城)跡・八瀬ヶ平(阿仏寺移転地)・阿新榎
八瀬ヶ平より谷を隔てた段丘上に竹田城跡がある。嘉暦二年、竹田城主の命により阿仏寺は八瀬ヶ平に移転した。隣の土地は手なし仏と呼ばれ、正中の変で竹田城に幽閉された日野資朝を尋ねて来た息子阿新丸が父の仇討ちの後隠れた(『太平記』)と伝承される阿新榎がある。
 
手なし仏の阿新榎と石塔三基(一基は転倒) 【拡大写真】
阿新丸の逃亡を助けて石子詰の刑に処された山伏大膳坊(『太平記』)の供養と伝う磧石陰刻五輪塔板碑三基が阿新榎の下にある。

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