ホーム > 刊行物 > 現代宗教研究 > 現代宗教研究第44号 > 中世日蓮教団における法華一揆の研究 ─その構成員を中心として─

刊行物

PDF版をダウンロードする

現代宗教研究第44号 2010年03月 発行

中世日蓮教団における法華一揆の研究 ─その構成員を中心として─

研究ノート

中世日蓮教団における法華一揆の研究
     ─その構成員を中心として─
齋 藤 宣 裕
 
◎発表の概要
 町衆とは南北朝の内乱、応仁の乱を経て都市生活の前面に進出し来った「町」に據って、地域的な集団生活をいとなむ人々①を指す。当時の京都は戦乱に巻き込まれることが多く、また周辺郷村による徳政や年貢の減免を求める土一揆の乱入の危機、さらに一向一揆による襲撃の脅威と、京都の人々は常に危険にさらされていた。町衆はそのような状況において、自衛の必要によって法華一揆という組織を構成する。法華一揆とは、当時京都において隆盛をほこっていた法華宗の僧侶・信徒を中心とした武装集団である。
 法華一揆について先行研究においては、大きく分けて主に三つの見解が示されている。一つは林屋辰三郎氏、藤井学氏などによる「町衆と法華一揆を一体的に理解し、京都自衛の性格を強くもっていた②」とする見解、もう一つは今谷明氏、西尾和美氏などによる「法華一揆の構成員は町衆とは重ならず、法華一揆は権力に徴発された武力にすぎない③」とする見解、それらに対して坂輪宣政氏は「この二つの見方はそれぞれ別々の視点のみからみて、それを絶対視してしまっているものであり、新たな理解が必要であると考えているのである④」として新しい見解を示されている。
 筆者は坂輪氏の見解に賛同し、法華一揆の構成員としては法華信徒であった有力な町衆を中心としつつも、完全に同一のものとは認められないと考える。そして京都の町衆は自ら自衛の必要にせまられ法華一揆を構成したが、その動きを細川晴元政権に利用されたと考える。本発表においては、法華一揆の構成員について先行研究をもとに改めて検討を加え、法華一揆の歴史的展開について考えたい。
◎町衆とは
 さて、京都の町が惣町としての実体を整え始めたのは応仁の乱後、幕府の権威が衰えて、都市の秩序が幕府の手で守りきれなくなってからである⑤。十四世紀初頭、京都の町はすでに三百軒以上の土倉が営業するほどの経済的発展をとげていた。そして幕府は地口銭・棟別銭のような土地や家屋に応じた課税体制をとるようになり、それにともなって京都に住む人々においては地縁的な組織が成立していったのである⑥。
 その後、地子銭の請け負いや町の自衛の必要性などから都市住民の間には自治の気運が見られ、惣的結合の傾向が著しくなってきたが、このような情勢のうちに都市の住民はしだいにその自立的結合を強め、都市の領主との戦いのうちにその自由を確保して行った⑦。応仁の乱を経て、新しい町に生活をする住民たちを当時の日記・記録において町衆と呼んだのである。ちなみに町衆とは単に「町の住人」という意味ではなく、原則として自ら土地・家屋を所有して、そこに住む一定の義務、権利を持つものを指し、借地借家の者は町の構成員とはみなさない⑧。このことからも町衆とは一定の力を持った住民を表していることがわかる。
◎天文法難へ至る経緯
 応永年間(一三九四〜一四二七)において、すでに特定の商業地区ではなく全般にわたって生活組織体として「町」をつくり上げ一応の自治的意識をもった「町人」は存在したのであるが、自主独立性の点ではなお低調であり、自己防衛にしても幕府の警察機関である侍所によりかかる傾きが強かったり、幕府に対しても町人夫や棟別銭を納入せしめられたりという状況であった⑨。
 その後、京都の町は経済的成長にあわせて土倉・酒屋などの高利貸資本が発達し、また町衆たちは法華宗をよりどころとして、ますますその団結を強めていった。当時は政情も不安定であり、京都は戦乱に巻き込まれることが多かった。さらには周辺郷村による徳政や年貢の減免を求める土一揆が頻発し、京都の町への乱入の危機、そして一向一揆による襲撃の脅威と、町衆はつねに生命・財産が危険にさらされていたのである。幕府は力を失っており、町衆には自衛の必要性が生まれ、ついには法華一揆を構成するに至るのである。
 この法華一揆は京都の自衛のほかにも、その武力を背景として諸本所へ地子銭不沙汰を行ない、また幕府に変わって京都の町の警察機関としても働いていた⑩。しかしそのように力をつけていく法華一揆は、以前より法華宗と対立を深めていた旧支配層である山門や細川幕府にとって疎まれる存在となっていった。そして、京都の町の自衛を目的として組織された法華一揆は、共通の敵を持っていた細川晴元政権によって利用され、天文五年(一五三六)の天文法難によって壊滅させられてしまった。
◎法華一揆について
 先に述べたとおり法華一揆についての先行研究においては、大きく分けて主に三つの見解が示されている。
 林屋辰三郎氏、藤井学氏などは町衆と法華一揆をほぼ一体的に理解され、法華一揆の活動と町衆による京都の町の自治・自衛とを強く結びつけておられる⑪。しかしその後に今谷明氏、西尾和美氏などによって法華一揆の構成員は京都の町衆とは重ならず、その行動も細川晴元政権に徴発・利用されたにすぎないという見解が出されている。そしてそれらに対して近年、坂輪宣政氏は「この二つの見方はそれぞれ別々の視点のみからみて、それを絶対視してしまっているもの⑫」であるという見解を出された。
 筆者はこの三つの見解の中で坂輪氏の見解に賛同する。すなわち、視点こそ違えどもこの二つの見解にはそれぞれ真実があるのではないだろうか。京都の町衆が自衛の必要にせまられ法華一揆を構成したのはある側面においては事実であるが、その動きを細川晴元政権に利用された、と考えるのである。
 林屋辰三郎氏は法華一揆の構成員を町衆と同一視し、そして法華一揆と町衆の自治活動とを一致したものと考えていた⑬が、近年の研究⑭においては、法華一揆は細川晴元政権によって徴発された武力であり、その構成員も京都町衆とは完全に重なるものではないという見解が示されている。
 享禄五(一五三二)年六月、細川晴元は本願寺一向一揆と結び三好元長を攻め自害へと追い込んだ。これにより畿内において各地で一向一揆が蜂起し、七月には南都に乱入して諸坊を焼くまでに発展した。細川晴元と一向一揆の同盟は破綻し、その一方では一向一揆が京都法華寺院を攻めようとしているとの風聞が起こる。ここにおいて法華一揆が組織され、一向一揆と対決することとなったのである。ここで注目しておきたいのはこの時、すなわち天文元(一五三二)年八月二十三日から始まった合戦において法華一揆の軍は摂津の有力国人であった柳本賢治の被官であった山村正次に率いられていたということである。このことは複数の文献によって確認される事実であり⑮これによって少なくとも法華一揆勃発の時点においては、法華一揆は率先して主体的に軍事力を行使したのではなく、武家の指揮下において行動をしていたことが確認できるのである。
 また法華一揆の構成員に関して藤井学氏は、法華一揆の構成員として町衆に加えて畿内法華武士・野武士や京都周辺の地侍などの参加を指摘され、その攻撃的な性格について説明されている⑯。法華一揆が京都近郊を打ち廻ったとされる示威行動に関して坂輪宣政氏は『一度山科より一向一揆が起れば、この騒動と京の無防備を奇貨として一向一揆に加わって掠奪をしようとする近郷の人々とともに京へ乱入してくることが予想され(中略)このような事情が京の均衡を「打ち廻る」示威行動につながったとみてよいのではなかろうか⑰』と述べているが、打ち廻りの理由には野武士・地侍の攻撃的性格も影響はあったものと思われる。自治・自衛意識のもとに組織された法華一揆ではあったが、闘争とは縁のなかった町衆たちにとっては自分たちを利用しようとする武家の指揮、あるいは細川政権からの報酬が目的であったと思われる野武士、地侍の参加も軍事力という面では時に必要な勢力であったのではないかと予想される。
 また、当時は町衆による地子銭の不沙汰、あるいは年貢の減免である半済の事例が頻発していた。坂輪宣政氏は「幕府の指示や諸領主の努力にもかかわらず法華宗檀徒としての身分を楯に地子納入を拒み続けた⑱」のではないかと推測をされている。その場合、地子銭納入を拒むための、ある意味における免罪符として法華宗は民衆から評価され、法華宗の信徒となる者はますます増加したのではないだろうか。そのような推測からも法華一揆が盛んに活動していた時代において、町衆の中での法華信徒はかなりの数にのぼったと思われるのである。
 つまり法華一揆の構成員は法華宗信徒を中心とし、それに加えて信徒・未信徒混在の京都町衆、さらには細川政権からの報酬が目的であった野武士や地侍などが加わっていたと考えられる。そして法華一揆の隆盛とともに、その構成人数は増加していったものと推測されるのである。
 法華一揆を構成する町衆たちは、その力の増大とともに年貢や地子銭の半済または不沙汰の要求を頻繁に行なうようになった。この動きによって、山門をはじめとする荘園領主たちは決して黙視できない影響を受けることになったのである。また、町衆の力の増大は旧支配階級の人々にとって封建権力そのものをゆるがしかねない事実であったと思われる。今谷明氏は「晴元は早くから町一揆の軍事力を恐れ、弾圧の機を狙っていたはず⑲」であると述べて、山門だけではなく細川晴元もまた、その存在に危機を感じていたことを指摘している。
◎法華一揆の歴史的意義
 当時の京都は近郊郷村などからの乱入、略奪の危機に加え、一向一揆の脅威にもさらされていた。幕府の警察機構の弱体化もともない、京都住民の自衛の必要性は明らかであった。そこにおいて必然的に構成されていった法華一揆という組織が、共通の敵を持っていた細川晴元政権によって利用されていったと考えるのが妥当であろう。しかし、細川政権によって利用されていたとしても、京都の町の自衛という点においては法華一揆成立の目的は果たされていた。また、各地での戦闘によって力をつけた法華一揆の軍事力は、その自治の力を成長させるために大いに役立ったのではないだろうか。
 つまり以上のことから推測するに、京都における町衆は土倉・酒屋などの経済的な力によって成長を遂げ、法華宗の信仰によってその団結を強め、さらには法華一揆という軍事力によって京都の町の自治的な成長を大いに促したと言えるのではないだろうか。
 天文法難の後には織田信長の入洛によって京都の町は次第に新しい封建的専制支配のうちに組み込まれてしまうが、旧勢力の支配から自らの力で自立・自治の動きを生み出した点において、法華一揆は歴史上注目するべき事柄であったと思われる。
                     
《註》
① 林屋辰三郎「町衆の成立」(『中世文化の基調』)二〇二頁
② 林屋辰三郎「町衆の成立」(『中世文化の基調』)
  藤井 学「法華一揆と『町組』」(『京都の歴史』第三巻)
③ 今谷 明『言継卿記』
  西尾和美「『町衆』論再検討の試み─天文法華一揆をめぐって─」(『日本史研究』二二九号)
④ 坂輪宣政「京都法華宗寺院と天文法難」(『大崎学報』第一五五号)一三〇頁
⑤ 豊田 武「都市における惣的結合の発展─特に天文の法華一揆を中心として─」(『史林』第四一巻第六号)五一〇頁
⑥ 馬田綾子「中世都市と諸闘争」(『一揆 3 一揆の構造』)一三四頁・一三七頁
⑦ 註⑥に同じ
⑧ 吉川弘文館『国史大辞典』
⑨ 林屋辰三郎「町衆の成立」(『中世文化の基調』)一九六〜一九七頁
⑩ 西尾和美「『町衆』論再検討の試み─天文法華一揆をめぐって─」(『日本史研究』二二九号)六三頁
⑪ 林屋辰三郎「町衆の成立」(『中世文化の基調』)『京都の歴史3 近世の胎動』
⑫ 坂輪宣政「京都法華宗寺院と天文法難」(『大崎学報』第一五五号)一三〇頁
⑬ 林屋辰三郎「町衆の成立」(『中世文化の基調』)
⑭ 今谷 明『言継卿記』
  西尾和美「『町衆』論再検討の試み─天文法華一揆をめぐって─」(『日本史研究』二二九号)
⑮ 『経厚法印日記』天文元年八月十日条
  『祇園執行日記』天文元年八月十一日条
⑯ 藤井 学「西国を中心とした室町期法華教団の発展─その社会的基盤と法華一揆を中心として─」
(『佛教史学』第六巻第一号)一八〜一九頁
⑰ 坂輪宣政「京都法華宗寺院と天文法難」(『大崎学報』第一五五号)一三一頁
⑱ 同右 一四一頁
⑲ 今谷明『言継卿記』九五頁

PDF版をダウンロードする