現代宗教研究第44号 2010年03月 発行
『南海寄帰内法伝』にみるナーランダ僧院の修養生活
研究ノート
『南海寄帰内法伝』にみるナーランダ僧院の修養生活
影 山 教 俊
◇はじめに
仏教を探求する方法について考えると、仏教を思想信条として学問的に探求する仏教学という方法と、さらに仏教が伝承している修行法(僧院生活の全体)による体験的に探求する方法がある。具体的に仏教の学びには「行学二道」、「行学一体」という伝統的な習いが、学問的な探求法と体験的な探求法が併存し、仏教とは行と学の不離不即の全体であるとされていた。
しかし、明治政府の仏教弾圧による明治七年の大教院制度によって、現代では仏教を思想信条として学問的に探求する方法が主流となり、修行法による体験的な探求法は殆ど顧みられていない。この仏教の学問的な探求は、あくまでも言語理性に基づく論理学を前提にした学問である。論理学はロジック(Logic)の訳語で、どのような推論が正しいかを体系的に探求する学問のことである。そもそも論理学とは、ロジックという言葉が物語るように、ギリシャ語の「神の言葉」であるロゴス(Logos)にその語源があり、聖書(神の言葉)を言語理性によってどのように理解し論証するかの学問である。
キリスト教では、神の経綸は契約書としての聖書に全て存在すると考える。神の言葉が全ての始まりだからである。聖書に書かれていることは、神の経綸としてこの世に具体化する。そのため契約書である聖書の文言を精確に解釈し、思想信条として哲学化(観念化)することは、神の経綸を知ることであり、それは信仰そのものである。
ところが、さきのように仏教とは行と学の不離不即の全体であり、僧院生活の中で培われて来たものである。そのため仏教文化は論理学によって理性的に解釈され学問化された瞬間、体験的に探求された仏教文化は観念化され、具体性(現実・身体)を失うという運命を背負うことになる。だからこそ仏教の学びのあり方は、解釈し理解すること目的とせずに、行学二道の信行生活という伝統的な習いが重んじられ、実践されてきたのである。
行学二道という伝統的な習いから仏教の学びのあり方を見れば、仏教の学問的な探求法によって解釈し理解された思想信条を、体験的に主体化することが目的になっていることが分かる。具体的に言えば仏教の目的は、生老病死の四苦、現実苦の解決(悟り)であり、仏教はその解決のための技術ということは、「四門出遊」の伝説に見られる通りである。
このように仏教が現実苦の解決(悟り)を目的とするところから、仏教はよく医療ベースの宗教(『法華経』良医病子の喩え、『涅槃経』五味相生の譬) であると言われている。これまで天台止観典籍から律蔵経典まで、仏教の医学的な知識について、インド医学二大聖典『チャラカ・サンヒター』、『スシュルタ・サンヒター』なとを頼りに論じてきた。
今回は行学二道という伝統的な習いから仏教の学びのあり方を『南海寄帰内法伝』にみるナーランダ僧院の修養生活から探ってみたい。
1 『南海寄帰内法伝』執筆の理由
序章に『南海寄帰内法伝』執筆の理由が次のように見える。
「中国における持戒の方法はインドとは異なっていて、自らが所属するところとは異なる諸部派の律を互いに用いている。そのために律の講義などばかりではなく、その注釈書までも複雑なものにしてしまった。また具足戒全体も難しくなり、律の解釈どころか律自体を敬遠することになった。さらに中国における律の学習は、律蔵そのものに依らずに師と弟子の間における相承が軌則となっている」と、中国仏教界の実情を示してから、次のように述べている。
「出家の僧侶には、守るべき軌規や儀則を講義し説法をすれば、多くの僧侶や信徒は厳然として、その極旨を承けることができる。中国の僧侶にも、一生懸命に修行の道に励み、禅那・三昧の入定を行うものがある。このことは、よく経律に符合するために、過ちがないように思える。しかし、中国への経律の伝受には訛り誤謬があり、さらには中国の師資相承の中で積み重なった習慣によって、律の真実にそむいている。そこで私は謹んで聖教および現にインドで行われている要法によって、律の真実のあり様を知らせしたい。本書は総じて四十章あり、分けて四巻とし、『南海寄帰内法伝』と名付ける」と、中国における持戒の方法は、自らが所属するところとは異なる諸部派の律を互いに用いているために、律蔵の全体が正しく伝承されていない。そのために『南海寄帰内法伝』を執筆したと言ってるのである。
2 インド七世紀(唐代)の仏教事情について
インド七世紀(唐代)の仏教事情はどうだったのだろうか。義浄三蔵の脚注に依れば、さきには「律の学習は律本にそのものに依らずに、師弟の相承が軌則となっている」といい、さらにインド仏教の修養生活の実状について、各部派で三衣の縫い代(葉)に広い狭いの違い、寺院に宿泊するにも同宿・別宿の違い、食事を受けるにも直接・間接の違いはあるが、いずれも各部派に伝承した律に依っているので、そこに過ちはないことを挙げ、続けて次のように述べている。
「インド仏教の修養生活は中国のように他部派の律を自分の部派の律に交ぜることはない。インド仏教を伝える諸部派の始まりは同じではないが、現在のインド仏教の大綱はただ四部派である。一つには大衆部で七分派に分派している。二つには上座部で三部派に分派している。三つには根本説一切有部で四部派に分派している。四には正量部で四部派に分派している。経・律・論の三蔵は各々十万頌があり合計すれば三十万頌で、唐語に訳せば一千巻に成るという。また四大部派の各部派は、合計すれば十八部派がある。中国では五部派というが、インドでは聞いたことがない。その四部派の関係は、もとよりインドの地、及び東南アジアの諸州はみな四部派であるが、その地方によって四部派には多少の偏りがある。インドのマガダ国では、四部派は通じて学習されているが、根本説一切有部が最も盛んである」と、現在のインドの相承の大綱はただ四部派は、大衆部・上座部・根本説一切有部・聖正量部で、それぞれの律蔵があったという。さらにマガダ国では根本説一切有部が最も盛んだったという。
3 南海(東南アジア)の仏教事情について
義浄三蔵が中国広東省広州から出航し、東インドのタームラプリティにいたる航海の途中(六七一年十一月〜六七三年二月)で見聞した仏教事情は如何なるものだったのだろうか。
「スリランカではみな上座部であり、大衆部は斥けられている。しかし、東南アジアには十余国が有るが、もっぱら根本説一切有部であり、正量部も尊ばれていた。しかし、近日は少し上座部と大衆部をも兼ねて行われている。その東南アジアの島々はみな仏法に遵っていて、その多くは小乗である。ただスマトラ島のマユーラに少し大乗があるだけである。
またヴェトナム北部の驩州から正南へ徒歩で半月、船ならば五、六日(朝)で、ヴェトナム中部の匕景に到着する。そこから南下すると占波があり、正量部が多いが一部で根本説一切有部も兼ねている。そこから先には衣服を付けない裸国があり、多くの人たちはインド教の神々に使えていた。その後に仏法が盛んに流布したが、現在では仏教以外の外道が雑居しているだけである。これはインド亜大陸部とは地続き南隅のことであって、東南アジアの島々のことではない」といい、スリランカでは大衆部が退けられ、もっぱら上座部である。東南アジアでは根本説一切有部が多く、正量部も尊ばれていた。さらには近年になると一部では上座部と大衆部の兼行も行われていたという。東南アジアでは、マユーラに大乗があるのみで、後はすべて小乗だったという。
4 義浄三蔵のみたインド仏教の実際について
中国から一年半の航海で到着したインドの仏教事情はどの様なものだったのだろうか。およそ四〇歳から五一歳までの一一年間(六七四〜六八五)義浄三蔵はどの様なインド仏教の修養生活を見聞したのだろうか。ここから義浄三蔵の詳細な報告が始まる。
「インド仏教の修養生活を詳細に見ると、四分派の差異については、律儀が異なっているために、各部派の律蔵にみる罪過の軽重はかけ離れている。そのために出家の僧侶はそれぞれ各部派で執行されている作法によっている。ところが、先のように中国の律の註釈家は、各部派の律蔵を自由に引用し都合よく理解しているために、中国では他の部派の律蔵にみる罪過の軽重を自分の部派の律蔵に置き換えたり、他の部派の作法を嫌ったりする。
しかし、インドではそのようなことはない。そのために中国では各部派で律蔵を別異にする意義が分からず、さらに律蔵に定められた罪過の軽重の道理も分からなくなっている。身体は一つだというのに四部派の各律蔵のすべてを行ずることはできなのである。(中略)まさに行法が異なっている出家の僧侶は、当然、自分が所属する部派の行法によるべきである」と、さきの中国仏教界の実状をくり返してから、次のように述べている。
「そこでインドの仏教事情に触れておけば、先のように大衆部・上座部・根本説一切有部・正量部の四部派があり、その四部派では大乗と小乗と区分が定まっていない。とくに北インドと東南アジアではもっぱら小乗である。一方これに対して中国では、その意は大乗教にある。そして、その他の諸国は大乗と小乗をまぜて修行しているのが、インドの仏教事情である。
それを考察すると、大乗も小乗も共に律蔵の教えによって修養生活を検察しており、共に五篇の波羅夷・僧残・波逸提・提舎尼・突吉羅を制定し、また大乗も小乗も同じように四諦(苦・集・滅・道)を修行している。
そして、もし菩薩を礼拝し大乗経典を読誦するれば大乗、その菩薩礼拝、読誦大乗経典をしなければ小乗と呼ぶだけのことである。さらにその大乗も二種類あるに過ぎない。一には中観、二には瑜伽である。しかし、二種類の大乗があると言っても、これはすべて聖教に遵っており、大乗と小乗と言っても何れが正しく、何れが間違いということはなく、みな同じように涅槃への約束、その意は煩惑を断じて衆生を救済することにある。
中国では、大乗と小乗と色分けして広く乱れているが、ここインドでは大乗も小乗も双行されており、道理として大乗も小乗も共に背いたり、争ったりすることはない」という。
5 インド仏教にみる修養生活について
序章からは、中国仏教にはインド仏教が正しく伝承していないこと、とくに僧侶の生活規定である律蔵が、各部派の異なりを考慮しないまま、勝手に取捨択一して用いられていることを嘆いていることが読み取れる。そのことが義浄三蔵のインド留学の理由であり、それによって多くの梵本の将来され、とくに説一切有部所伝の律蔵を翻訳・紹介の偉業となっている。『南海寄帰内法伝』執筆の由来もそこにあったと分かる。
しかし、『南海寄帰内法伝』を読み進むと、義浄三蔵の伝えたいことは説一切有部律などの将来だけではないことが読みとれる。『南海寄帰内法伝』には、律蔵文献として伝承されている作法と共に、インド僧院で実際に行われている修養生活の重要性が力説されている。四〇章の中で、とくに重要と思われる箇所を挙げながら論を進めよう。
ところで、義浄三蔵は五一歳(六八五)の時、梵本三蔵五十万余頌を携えて、ナーランダ僧院から帰路につき、上陸地タームラリプティへと向かう。さらに五十三歳(六八七)航路で東南アジア・スマトラ島の末羅遊に到着し、ここで七年間滞在することになる。その間に執筆されたのが『南海寄帰内法伝』である。そして、この『南海寄帰内法伝』は、五十七歳(六九一)の時に帰国する大津に委託し、唐の王室への献納と、インドに支那寺を建立するように願ったという。
その執筆の背景を考えると、義浄三蔵はすでにナーランダ僧院に留学中の四十歳(六七四)の時に根本説一切有部律などの素訳を済ませているのだから、『南海寄帰内法伝』には律蔵の規定に関する詳細な記述がありそうだが、実際には律蔵に基づいた修養生活の実際が、中国の仏教事情を批判的に眺めながら、詳細に綴られていることに気づく。
第一章「破夏非小」(夏安居を破ることで、序列が小く成ることはない)では、夏安居の経験数と僧伽内の地位・法臈の算定とは、切り離すべきことが示されている。
(【大正五四 二〇六C】縦令失夏不退下行。尋撿聖教無文。誰昔遣行斯事。)
第二章「対尊之儀」(尊像・尊者に対する儀礼)では、履き物はぬいで裸足に、偏袒右肩、頭にかぶり物をしないことなどが示されている。
(【大正五四 二〇六C】准依佛教。若對形像及近尊師。除病則徒跣是儀。無容輒著鞋履偏露右肩。衣掩左髆首無巾。)
第三章「食坐小床」(食事は小さな椅子に腰掛けてとる)では、インド寺院では一人一人が小さな椅子に腰掛けて食事をするが、中国寺院では長椅子に数人が胡座をかいて坐って食事をする。そのため隣の僧侶と膝が接触するなど、律蔵を犯している。さらに中国では食事の食べ残しを回収するが、これも律を犯しているなどが示されている。
(【大正五四 二〇六C】西方僧衆。將食之時。必須人人淨洗手足。各各別踞小床。高可七寸方纔一尺。藤繩織内脚圓且輕。卑幼之流小拈随事。双足蹋地。前置盤盂。地以牛糞淨塗。鮮葉布上。座云一肘互不相觸。未曾見有於大床上跏坐食者。且如聖制。床量長佛八指。以三倍之長中人二十四指。當笏尺尺半。東夏諸寺床高二尺已上。此則元不合坐。坐有高床之過時衆同此欲如之何。護罪之流須觀尺樣。然靈巖四禪床高一尺。古徳所製誠有来由。即如連坐跏趺排膝而食。斯非本法。幸可知之。聞夫佛法初来。僧食悉皆踞坐。至于晉代此事方訛。自茲已後跏坐而食。然聖教東流年垂七百。時經十代代有其人。梵僧既繼踵来儀。漢徳乃排肩受業。亦有親行西國。目撃是非。雖還告言誰能見用。)
第四章「餐分浄触」(食事には浄と不浄という状態の区別がある)では、義浄三蔵がインドに入国した当時、インド社会また仏教寺院では、浄と不浄(触)の区別が行われていた。食事の浄・不浄、 大小の用便に関する浄・不浄、食べ終わった食器や動物など(不浄)を触る二次汚染がある。僧侶の残食を他者に施すことは非儀であるから深く慎むべきであるという。それは残食をいただいて僧侶に触れ、また家に帰って家族にそれを施すことは、清潔さを保つ生活習慣の効用が台無しだからであるという。とくに食後の手洗い、口をすすぐ作法と、さらにお斎(正午過ぎに食事しないの非時食戒)の作法にについて示している。
(【大正五四 二〇七A】凡西方道俗噉食之法。淨觸事殊。既餐一口即皆成觸。所受之器無宜重將。置在傍邊待了同棄。所有殘食與應食者食之。若更重收斯定不可。無問貴賤法皆同爾。此乃天儀非獨人事。故諸論云。不嚼楊枝便利不洗。食無淨觸將以爲鄙。豈有器已成觸還將益送。所有殘食却收入廚。餘餅即覆瀉瓮中。長臛乃反歸鐺内。羮菜明朝更食。餅果後日仍餐。持律者頗識分彊。流漫者雷同一概。)
第五章「食罷去穢」(食後に穢れを去る)では、食後に不浄の状態になっているために、浄の状態に戻さないと僧院生活ができない。そのため口中の浄化法として、歯・舌・唇に至るまで歯ブラシ(歯木)の作法などが示されている。
(【大正五四 二〇七A】食罷之時。或以器承。或在屏處。或向渠竇。或可臨階。或自持瓶。或令人授水。手必淨洗口嚼齒木。疏牙刮舌務令清潔。餘津若在即不成斎。)
第六章「水有二瓶」(水に浄と不浄の二つの瓶がある)では、インドの僧院では水に浄と不浄の区別があり、それぞれ浄瓶と不浄(触)瓶がある。浄水は飲料水で、不浄水はトイレの洗浄水であることなどが示されている。
(【大正五四 二〇七A】瓶有二枚。淨者咸用瓦瓷。觸者任兼銅鐵。淨擬非時飲用。觸乃便利所須。淨則淨手方持。必須安著淨處。觸乃觸手随執。可於觸處置之。
第七章「晨旦観虫」(朝には必ず、飲料水などの生活水の虫を観察する)では、僧院生活をする上で必須の水を確保し、かつ不殺生戒に基づきその水の中の虫を観察する作法などが示されている。
(【大正五四 二〇八A】觀察事非一准。亦既天明先觀瓶水。可於
白淨銅盞銅楪。或蠡杯漆器之中。傾取掬許安置[甎]上。或可別作觀水之木。以手掩口良久視之。或於盆罐中看之亦得。蟲若毛端必須存念。若見蟲者倒瀉瓶中。更以餘水再三滌器。無蟲方罷。有池河處持瓶就彼。瀉去蟲水濾取新淨。如但有井准法濾之。若觀井水汲出水時。以銅盞於水罐中。酌取掬許如上觀察。若無蟲者通夜随用。若有同前瀘漉。池河觀水廣如律説。)
第八章「朝嚼歯木」(朝起きたら歯磨きをする)では、詳細に口中の浄化法が示されている。紹介してみよう。
「インド社会また仏教寺院の生活では、朝起きたら必ず歯ブラシで歯を磨き、舌をこすって舌苔をぬぐい、努めて如法に行っている。まず手を洗い、口をよく漱いで清浄になってから、敬礼するのである。もし如法でなければ、敬礼することも、それを受けること、律に照らしてみれば皆罪となる。
歯ブラシは梵語で憚哆家瑟詫(ダンタ・カーシュタ)という。それを使う作法は、まず一本をコップなどに汲んだ水に一晩つけておき、その先をよく噛んで柔らかくしてから、きれいに奥歯から磨くようにする。そして、よく磨きおえたら、さらにその歯木を縦に割いてから曲げて、それで舌をこすって舌苔を拭うようにする。
その次には、鼻中を少量の水で洗いながす作法について説明しよう。これは龍樹菩薩の養生術と呼ばれている。鼻中を水で洗いながそうとすれば、慣れない内は鼻から喉の方へと流れてしまうが、始めはそれでもよい。そうやっている内に上手に出来るようになり、それを習慣にしていれば病気にもなりにくくなる。
また、歯根にたまった昨日来の穢れをそのままにしておくと、歯垢や歯石となってしまうから、歯木でよく磨き、舌もこすって清潔する。そこで口中を水でよく漱ぐのは当然だが、それにお湯を使ってよく漱げばさらに腐敗することがないので、自分自身の歯で終身まで食事をすることが出来る。インドでは歯の痛みというものがないように見える。これは偏に歯木で歯を磨く習慣があるからである。
僧侶の生活も、一般人の生活も、歯木の作法は効用を発揮していることを肝に銘じて欲しい。もう伝えるべきことは言い尽くしたので、この作法を実践するか否かは、各人の良識に任せることにしたい。」と示している。
以上の第一章「破夏非小」、第二章「対尊之儀」(尊像・尊者に対する儀礼)、第三章「食坐小床」、第四章「餐分浄触」、第五章「食罷去穢」、第六章「水有二瓶」、第七章「晨旦観虫」、第八章「朝嚼歯木」で気づくことは、義浄三蔵は律蔵に基づく如法ついて述べているようだが、その律蔵に基づいた修養生活の実際の作法について述べていることは分かる。
とくに食事には浄と不浄という状態の区別があること、僧侶の残食を他者に施すことは非儀であるから深く慎むべきであること、食後に穢れを取り去ること、水に浄と不浄の二つの瓶があることなどは、実はインド医学のアーユルヴェーダの生活習慣から言えば、インドというところは暑い環境であるために、食事の作法によって護浄・清潔さを保つことに力点がおかれていると言うことである。
まさに第八章「朝嚼歯木」では、「インドでは僧侶も、一般人も歯木で歯を磨く作法は習慣となっていて、三歳の童子ですら磨くほどである。僧侶の生活も、一般人の生活も、歯木の作法は効用を発揮していることを肝に銘じて欲しい。」と力説する作法は、アーユル・ヴェーダ医学そのものの浄化法である。
6 律蔵に基づいた修養生活の実際の作法について
義浄三蔵は律蔵に基づきながら、インドで実際に行われている作法について、その伝承ごとを重要視していることが分かる。ところで、この『南海寄帰内法伝』の執筆の理由は、第九章「受斎赴請」(お斎と受食の作法)には「受斎について云えば、中国でも法門の徒であれば、仏の制定した法式、律の教えによって行うべきである。僧侶であれば必ず斎の供養には水濾しフィルターを持参し、水の中の虫の有無をよく観察すべきである。餐食がおわれば、かならず歯ブラシで歯を磨くべきで、磨き終わって始めて、斎供が終了したとされるのである。非時食戒によって、正午を過ぎてからの噉で食べる固形の食べ物は食べられない。中国の僧侶は、インドの食法を看て、中国の作法をその正しい食法となぞらえ議論すべきである。
かって私はこんなことを論じたことがある。仏教の教えを実践するために最も重要なことは、実は衣と食のあり方を正すこと、律蔵の規定によって日常生活を正しく保つことである。だからこそ世尊は煩悩が増長することを恐れて、僧侶の修養生活を厳しく戒められたのである。この戒律の制定そのものは世尊の意にそのものである。
ところが、中国の仏教事情は、この仏が制定した戒律を軽んじている。たとえば毎日の食事一つとっても、食事を食べたままでは、それは不浄(触)の状態になっていることを知らないなどである。それでいて、ただ不邪淫戒など持って、女性との交渉ごとをもたないとの一条をだけを護って、これによって私は無罪の人であるなどと主張するのである。
そして、そのような人は、着衣喫飯に及ぶ日常生活によって生ずる自分の感情をまったく無視し、仏教の思想信条などの観念的な次元で、直ちに空の法門を指して、それを仏の意であるとしているのである。本来、戒は仏意そのものであり、一つの空門は貴い、また一つの戒律は軽いというのは、単なる臆断に過ぎないのである。」と、律蔵の規定に則って修養生活を営むことの重要性と説きながらも、とくに不邪淫戒などの重要な戒をしっかりと持っていても、戒を持つこと以上に着衣喫飯に及ぶ日常の修養生活の作法を遵守することの大切さを述べている。
とくに非時食戒では正午を過ぎてからの噉で食べる固形の食べ物について、食事を食べたままでは不浄(触)の状態について、これらはアーユルヴェーダ医学に基づく健康管理、これらにことは後に明らかになるが、この健康管理こそ修養生活そのものであることが分かる。
不邪淫戒を持っているように見えても、自分自身の健康管理という最も基本的な振るまいが節制できないのであれば、それは修養生活から逸脱しているというのである。
7 師弟関係にみる修養生活の基本について
着衣喫飯に及ぶ日常の修養生活の基本とは如何なることなのだろうか。師弟関係の「おこない」そのものがアーユルヴェーダ医学に基づく修養生活であることが分かる。
第二十五章第「師資之道」(師弟関係のあり方)には「門人や弟子に法門を教授することは、仏教が栄える要である。律蔵には着衣喫飯の修養生活の中で、弟子たるものは早朝には、まず自らが歯木を嚼んで清浄になる。次に師匠のところへ行き、身体を按摩し、師匠が目覚めたら、早朝の洗面の準備をして、歯木・澡豆・拭巾などを取りそろえ安穏にするのである。そして、弟子は師匠が、昨夜は身体は安らかだったか、身体を構成する四大要素、地・水・火・風の四大の感覚は健やかだったか、身体の動きはよいか、朝食はよく食べられたかを伺う」とあり、まさに地・水・火・風の四大要素のバランス、その安・不安の感覚、四大の感覚が健やかであることが、修養生活の要となっていることが分かる。
8 修養生活の要となる四大感覚について
四大の感覚が健やかであることが、修養生活の要となっていることが分かったが、その実際はどの様に行われていたのだろうか。
第二十七章「先体病源」(病因論などについて)では、「「前二十五章で朝粥の時間になったら、身体の四大要素のバランス感覚、軽重を量り、師匠に申し上げてから、まさに弟子も自分の朝粥を食べるのであると云ったのは、即ち起床した時の四大の身体感覚、地・水・火・風の四大要素のバランス感覚を観察して、その状態によって朝粥を取るかどうか決めることである。
その実際は、もし早朝に起きて身体感覚が軽利であれば、それは四大要素のバランス感覚が調っているということで、朝粥を取ってよいのである。しかし、身体感覚が軽利とはゆかず、体調が普段とは異なるならば、必ずその四大の身体感覚が不調である理由と、その四大不調の原因を調べるべきである。そして、その後に休息して養生すべきである。それで身体がもし軽利になって健全な感覚になったら、それは消化の火(火大)が身体の内で燃えて、昨日来の胃中の食べ物を銷化しているのである。その時には朝粥の時間に始めて、粥食をすするってもよいのである。
およそ朝は「痰癊の時」と名付ける。それは水大の時間帯で、昨日来の食べ物が未消化のままで胸と腹の間に残っている状態だからである。そのために、そのまま朝粥を食べたなら、身体にとって良いわけがない。それを譬えてみれば、火の燃えさかっている所に薪を投げ入れれば、薪は燃え上がり火は盛んになるようなものである。もし火が燃え上がる前に草をかぶせたらら、草は燃えずにくすぶり続けるようなものである。
そもそも朝粥とは大聖釈迦牟尼世尊が、本来一日一食の昼の食事(時食)とは別に、身体の四大を調和させるために許可したものである。律蔵に粥の効能について、小食を粥にすればよく仏道を資けると、徳性が讃えられているほどである。」と、アーユル・ヴェーダ医学の四大理論に則って、インド仏教の修養生活の詳細が語られている。まさに僧院の修養生活は健康管理そのものであることが分かる。
9 ナーランダ僧院にみる医療について
このように律蔵に基づく修養生活の実際を見てくると、これらはアーユルヴェーダ医学に基づく健康管理そのものが修養生活であることが分かる。実際に義浄三蔵は、当時の僧院で実践されていた医方明の診療科目を挙げている。
第二十七章「先体病源」には「インドの学問で、声明・工巧明・医方明・因明・内明の五明論がある。その一分野の医術では、まさに五官によって声の感じ、皮膚の色つやなど身体の特徴などの変化を観察し、その後に八医術(『八科精髄集』)を行ずべしという。その八つの診療科目は、一には所有る諸々の腫れ物(内科外科をかねた身体のできものの治療)を論ずる。二には首疾に針刺する(頭部の疾患で眼耳鼻や咽喉の治療)を論ず、三には身の患(身体の首から下の疾患で内科の治療)を論ず、四には鬼瘴(心が惑わされたような疾患の精神科の治療)を論ず、五には悪掲陀(毒物の療法)を論ず、六には童子の病(胎内の子供から十六歳までの子供の治療)を論ず、七には長年の方法(寿命を延ばす療法)を論ず、八には身力を足す(身体壮健の療法)を論じている。
この八医術は、先には八つに分かれていたが、近日になって有る人(バーグバタ)が編集し略述して一夾(一編の書物)と為したものである。インドでは八医術によって医術が広まっている。しかし、私はこの八医術について、その功学を学習して用いていたが、入天竺の目的が仏跡巡礼と正しい律蔵の招来であり、さらに仏教は生死の病を解脱する妙薬であることに反し、アーユル・ヴェーダ医学は四大病の治療が目的であるから、それは僧侶の正業ではないという理由で、とうとうこの医術を放棄したのである。」と、インド仏教の修養生活の実際を支えていた、アーユルヴェーダ医学に基づく健康管理の全体が見えてくる。その当時、実際に僧院で実践されていた医術が八医術、『八科精髄集』(アシュターンガ・フリダヤ・サンヒター)であることが分かる。
参考のために、この医方明のテキスト、義浄三蔵をして「近日人ありて、略して一夾なす」といわしめたテキストについて述べておこう。
近年の研究では、このテキストは、バーグバタ(Vāgbhata)の『八科精髄集』(Skt. Astānnā-hrdaya-samhitā tib. Yan-lag brgyad-pahi sñin-po badus-pa shes-dya-ba)であり、それはほぼ七世紀に成立し、さきにあげたインドの二大古典医学書である『スシュルタ・サンヒター』と『チャラカ・サンヒター』に含まれる医学的知識を集大成した文献であったことが指摘されている。
また、さきの二書にこの『八科精髄集』を加えて、インドでは三大医学書と呼ばれる。
そして、この『八科精髄集』が医学の理論と臨床の双方を扱いながら、二つの古典をうまく折衷し読みやすいために、ナーランダ大僧院のような総合大学的な教育機関では最適なテキストとして用いられたらしく、インド国外へも伝えられて、チベット大蔵経にも八世紀後半には所収され、九世紀半ばのペルシャ人の医師アッ・タバリーがアラビア語で著した『知恵の楽園』にインド医学に関する部分で『八科精髄集』にもとづく記述があり、すでに八世紀にはアラビア語に訳されていたという。
しかし、残念ながら、この医方明としてのテキストは漢訳されていない。ちなみに、このテキストの重要性を物語る事実として、現在のインド国ケーララ州のアシュタヴィディヤー(Asta-vaidyā)医学派に属するナンブーディリ・バラモンで実践されているという。( 『古代インドの苦行と癒し』 七〇頁と九五頁、『インド医学概論』朝日出版社 解説)
さらにこの八つの診療科目は、現代のアーユル・ヴェーダ(インド医学)の根本聖典である『チャラカ・サンヒター』の第一巻三十章「心臓に根をもつ十の大脈管に関する章」と、『スシュルタ・サンヒター』の総説篇第一章「聖者ダンヴァンタリのスシュルタに談ぜられしままの吠陀の起源の章」に同様の科目が見られる。(『チャラカ・サンヒター』矢野道夫訳 世界の名著『インド医学概論』二三四頁 朝日出版社 一九八八年、『スシュルタ・サンヒター』 大地原誠玄訳『スシュルタ本集』一ー二頁 アーユル・ヴェーダ研究会刊 一九七一年)
□『チャラカ・サンヒター』&『スシュルタ・サンヒター』 □『南海寄帰内法伝』
一、腫瘍、膿瘍などの治療法(一般外科学、Śala-tantra) 一には所有る諸瘡を論ず
二、眼科や耳鼻咽喉科の治療法(特殊外科学、Śalakya-tantra) 二には首疾を針刺すを論ず
三、内科全般の治療法(身体療法、Kāya-cikitsā) 三には身の患を論ず
四、精神病治療(鬼神学、Bhūta-vidyā) 四には鬼瘴を論ず
五、小児病治療(小兒科学、Kāumāra-bhritya) 五には悪掲陀を論ず
六、解毒剤の投薬療法(毒物学、Agada-tantra) 六には童子の病を論ず
七、長生薬論(不老長生学、Rasāyana-tantra) 七には長年の方を論ず
八、精力増強法(強精学、Vājikarana-tantra) 八には身力を足すを論ず
それらを比較すると、アーユル・ヴェーダ医学と『南海寄帰内法伝』の八つの診療科目は、『南海寄帰内法伝』の五「悪掲陀を論ず」と六「童子の病を論ず」が、アーユル・ヴェーダ医学では五「小児病治療」と六「解毒剤の投薬療法」と、その順が逆になっている以外は、科目数と内容はそのまま一致することが分かる。
10 アーユル・ヴェーダ医学に基づく修養生活の実際について
インド仏教の修養生活の実際を支えていた技術がアーユルヴェーダ医学であることが分かったが、その実際とはどの様に行われていたのだろうか。
第二十七章「先体病源」に「およそ四大によって構成される身体の疾病は、みな食べ過ぎによって起こるか、あるいは過労による疲労がたまって生ずるかの何れかである。この多食について云えば、中国では一般的には夜に食して、その食物がまだ排泄されないうちに、朝だからといって食べてしまう。または朝に食べて銷化しないうちに昼食を食べてしまう。これによって疾病が発動することになる。(中略)ここで病気と健康について考えれば、既に一度病気になってしまったら、修養生活によって多食と過労を避け、病気に罹らない生活が大切なのである。(中略)ここに私はいささかアーユルヴェーダ医学について叙述したが、母国の皆さん、しつこい(繁重)と嫌わないでほしい。願っていることは、中国では多くの薬を使わなくても慢性疾患を除くことができるようにさせることであり、医術の門を叩かなくても、急性疾患をなくしてしまうことである。
アーユルヴェーダ医学にいう四大の調って暢(おだや)かならば、百病が生ずることがないという教えは、自他共に利益するものである。大切なことはアーユルヴェーダ医学の健康管理や心がけによって多食や過労を回避することが、本章の主題である「先体病源」では必ず為すべきことである」という。
続いて第二十八章「進薬方法」では「病源の徴候を知るには、旦朝に起床して身体の四大の状態を感じなさい。もし四大不調の徴候を感じたなら、まず朝のうちは絶食することである。そして、どんなに喉が渇こうとも、決して水やジュースを勧めてはならない。それは極禁である。
また絶食の期間は、一日から五日のあいだ続け、明け方に起床して体調を観察し、それでも不調を感じなければ、それでやめて良い。これが病気の徴候を知る方法である。もし腹に宿食が有ると疑ったなら、まず腹部を軽くマッサージしてから適量の白湯を飲んで、更に指をつかってその白湯を吐くようにする。これを数回くり返し、お昼頃になれば冷たい水を飲んでも差し支えない。そのとき、もし水などを飲むのであれば、乾燥させた生薑のお湯を飲む方が最適である。」という。
◇おわりに
これまでの記述は新たに解説することなく、インド仏教の修養生活の実際を支えていた技術はアーユルヴェーダ医学そのものによって行われていたことが分かる。そして、ここまで義浄三蔵の執筆を読んでくると、律蔵に基づく修養生活の重要性が見えてくる。
さきに義浄三蔵は「仏教の教えを実践するために最も重要なことは、実は衣と食のあり方を正すこと、律蔵の規定によって日常生活を正しく保つことである。だからこそ世尊は煩悩が増長することを恐れて、僧侶の修養生活を厳しく戒められたのである。」と、さらに「中国の仏教事情は、この仏が制定した戒律を軽んじている。たとえば毎日の食事一つとっても、食事を食べたままでは、それは不浄(触)の状態になっていることを知らないなどである。それでいて、ただ不邪淫戒など持って、女性との交渉ごとをもたないとの一条をだけを護って、これによって私は無罪の人であるなどと主張するのである。」と言った。
これは中国の僧侶が、着衣喫飯に及ぶ日常生活によって生ずる自分の感情をまったく無視し、仏教の思想信条などの観念的な次元で、直ちに空の法門を指して、それを仏の意であるとしていることへの警告でもある。
なぜ律蔵に基づく修養生活が、アーユルヴェーダ医学に基づく健康管理そのものであり、またなぜそれが重要なのかと言えば、さきに着衣喫飯に及ぶ日常生活によって生ずる自分の感情に気づきを得ること以上に、四大要素のバランス感覚によって生ずる自分自身への気づき、四大要素の調和・不調和から生じてくる自分自身への気づきが、実は仏教の信心や信仰という宗教的機能の気づきに繋がるからだと言える。
(注1)
「中国(神州)戒を持つ人々は、インドのそれとは異なり、自らが所属するところとは異なる諸部派の律を互いに牽引している。そうして律の講義・説法・撰述・記録の家(ひとびと)は、遂には注釈書の章・鈔を煩瑣・複雑なものにしてしまったのである。五篇(ひん)・七聚(二百五十戒の五分類・七集成、具足戒全体のこと)」の易しい処も更に難しくなり、方便の罪(罪にようなものなの)か、実際に罪を犯したのかなど、本来は顕著なものまでもが、還(ま)た隠れてしまったのである。律の解釈が煩瑣になって、律自体を敬遠することになった。
それで遂には、中国で律を学ぼうとしても、一簣(土を運ぶのに用いる丸い竹のかご)を覆すほどで、学ぼうという情熱は息なってしまい、律の講義の一席を聴いただけで、学ぼうとする意欲は心から退いてしまうのである。
そのために中国では機根の上流の数人が学んでも、老人(蒼髭)になってやっと律の学習が成就するという有り様である。ましてや機根の中・下の徒弟は老人(白首)になっても、寧して成就できるだろうか。そのようなことだから、律本は自然に落漠(あいまい)になってしまい、その注釈書の「章」や「疏」を読むだけで、遂には終身に至ってしまうのである。
このように中国における律の学習は、律本にそのものに依らずに師弟の相承が軌則と成ってしまい、章の段落を論ずれば、科段に更に科段を加えて煩瑣なものになっており、その結罪を述べるならば句に還た句を加えて煩瑣なものになっている。これは其の功を考えれば実に山のような労力を致すも、其の利益をきびしく調べて明らかにすれば、海真(真珠)の潤みが有ったようなもので、偶然の産物で頼りないものである。
【大正五四 二〇五C】
且神州持律。諸部互牽。而講説撰録之家。遂乃章鈔繁雜。五篇七聚。易處更難。方便犯持。顯而還隱。遂使覆一簣而情息。聽一席而心退。上流之伍。蒼髭乃成。中下之徒。白首寧就。律本自然落漠。讀疏遂至終身。師弟相承用爲成則。論章段則科而更科。述結罪則句而還句。考其功也。實致爲山之勞。覈其益焉。時有海珠之潤。
(注2)
其の出家の法侶(法の仲間)には、守るべき軌規・儀則を講義し、説法すれば、僧徒の衆は厳然として欽で極旨を承けることができる。中国の僧侶の中には自ら幽谷に屏居し、樊籠を脱ようとし、厳流に(心身を)漱いで、想いを遠くに離して林の簿に坐し、しかも志を棲ますもののあるのである。一日に六時の行道はよく浄信の恩を報じ、その中で両期する「禅那・三昧」の入定は、人天の重を受けている。これのことは、よく経律に符合するために、どのような過ちがあるのだろうか。しかしながら、中国への経律の伝受には訛り誤謬ががあるために、その軌則は参差、経律の明文ではなく、さきのように中国の師資相承の中で積み重なった習慣は、日常となって綱到にそむくものがある。そこで私・義浄は謹んで聖教および現にインドで行われている要法によって律の真実の有り様をお知らせしたい。本書は総じて四十章あり、分けて四巻とし、『南海寄帰内法伝』と名付ける。
【大正五四 二〇六A】
其出家僧侶講説軌儀徒衆儼然。欽誠極旨。自有屏居幽谷脱屣樊籠。漱巖流以遐想。坐林薄而棲志。六時行道。能報淨信之恩。兩期入定。合受人天之重。此則善符經律。何有過焉。然由傳受訛謬。軌則參差。積習生常。有乖綱致者。謹依聖教及現行要法。總有四十章。分爲四卷。名南海寄歸内法傳。
(注3)
インドの修養生活は中国のように他の部派の律を自分の部派の律に和雑えることはない。(中略)インド仏教を伝える諸部の流派の生起は同じではないが、現在の西国(インド)の相承の大綱はただ四部派である。一つには阿離耶莫訶僧祇尼迦耶(Āryamahāsamghika-nikāya)で、唐語では聖大衆部と云う。それが分かれて七分派を出している。経・律・論の三蔵は各々十万頌があり合計すれば三十万頌で、唐語に訳せば一千巻に成るだろう。
二つには阿離耶悉他陛攞尼迦耶(Āryasthāvira-nikāya)で、唐語では聖上座部と云う。それが分かれて三部派を出している。三蔵の多少は前に同じである。三つには阿離耶慕攞薩婆悉底拖尼迦耶(Āryamūlasarvāstivāda-nikāya)で、唐語では聖根本説一切有部と云う。それが分かれて四部派を出している。三蔵の多少は前に同じである。四には阿離耶三蜜栗底尼迦耶(Āryasāmmitīya-nikāya)で、唐語では聖正量部と云う。それが分かれて四部派を出している。三蔵は三十万頌である。
然しながら、各部派の執っている三蔵や威儀の所伝には多くの異なる所も同じ所もある。かりに現在の事実に依れば、四大部派の派生を計算すれば、七+三+四+四=十八部派と云うことになる。中国では分かれて五部派というが、西国(インド)では聞いたことがない。
其の四部派の間の分離や出没、その部派で律蔵を別異にしているために、その名字としては、事として一致することはない。それは余所でまた論ずるので、ここでは繁しく述べない。故よりインド(五天竺)の地、及び南海の諸州はみな上述の四種の尼迦耶(nikāya 四部派)である。然し、その地方によって四部派では其の欽う所に多少の偏りがある。インドの摩掲陀(Mghadha)では、四部派は通じて学習されているが、根本説一切有部が最も盛んである。
【大正五四 205A】
各有師承。事無和雜。(中略)諸部流派。生起不同。西國相承。大綱唯四(一阿離耶莫訶僧祇尼迦耶。唐云聖大衆部。分出七部。三藏各有十萬頌。唐譯可成千卷。二阿離耶悉他陛攞尼迦耶。唐云聖上座部。分出三部。三藏多少同前。三阿離耶慕攞薩婆悉底婆拖尼迦耶。唐云聖根本説一切有部。分出四部。三藏多少同前。四阿離耶三蜜栗底尼迦耶。唐云聖正量部。分出四部。三藏三十萬頌。然而部執所傳。多有同異。且依現事言其十八。分爲五部。不聞於西國耳。其間離分出沒。部別名字。事非一致如餘所論。此不繁述。故五天之地。及南海諸洲。皆云四種尼迦耶。然其所欽處有多少。摩掲陀。則四部通習。有部最盛。
(注4)
師子洲(Simhaladvīpa スリランカ)はみな上座部であり、大衆部は斥けられている。然し、南海諸洲(東南アジア)には十余国が有るが、純ら唯だ根本説一切有部であり、正量部も欽ばれていたが、近日より已来は少しく余の二部派(上座部と大衆部)をも兼ねて行われるようになっている。(義浄注略)其の南海諸洲は咸な仏法に遵っていて、その多くは小乗で、唯だ末羅遊(Malāyu)に少し大乗が有るのみである。(中略)また驩州(ヴェトナム北部)から正南へ、徒歩で半月あまり、もし船に乗るならばわずかに五、六日(朝)で、匕景(ヴェトナム中部)に到着する。そこから南下すると占波(Campā)に至る。これは即ち臨波のことである。此の国では正量部が多く、少しの根本説一切有部も兼ねている。ここから西南に一ヶ月で跋南(Bnam)に至る。中国で旧くは扶南と云った国である。先には衣服を付けない裸国であり、多くの人たちは天(Deva インド教の神々)に事えていた。その後に仏法が盛んに流布したが、悪王によって今では仏法はみな除かれてしまい、逈く僧衆(僧伽 Seamgha)はなく、仏教以外の外道が雑居しているだけである。斯れは贍部(洲、DJambudvīpa(インド亜大陸部とは地続き)の南隅のであって、南海の洲(東南アジアの島々)ではない。
【大正五四 二〇五B】
師子洲並皆上座。而大衆斥焉。然南海諸洲有十餘國。純唯根本有部。正量時欽。近日已来。少兼餘二(義浄注略)斯乃咸遵佛法。多是小乘。唯末羅遊少有大乘耳。(中略)驩州正南歩行可餘半月。若乘船纔五六朝。即到七景。南至占波。即是臨邑。此國多是正量。少兼有部。西南一月。至跋南國。舊云扶南。先是裸國。人多事天。後乃佛法盛流。惡王今並除滅。迥無僧衆。外道雜居。斯即贍部南隅。非海洲也。
(注5)
インド仏教の修養生活を詳細に観ると四分派の差異については、律儀が殊異なっており、そのため各部派の律蔵にみる罪過の軽重は懸隔ており、開許と制遮とは迢然い。そのため出家の僧侶はそれぞれ各部派で執行されている作法によっている。ところが、先のように中国の律の註釈家は、各部派によって成立した律蔵を自由に引用し都合よく理解しているために、中国では宜しく他の部派の律蔵にみる罪過の軽事を取って己れの部派の律蔵にみる重条に替えたり、また自らの部派の律文では開許しているからといって、余の部派の制遮のを見て嫌うことがないようにすべきである。インドではそのようなことはない。もしそうであれば、そこでは各部派で律蔵を別異にする意義が顕著になってしまうし、律蔵に定められた開許と制遮の道理も分からなくなってしまうからである。豈して、身体は一つだというのに四部派の各律蔵の遍てを行ずることが出来るであろうか。(中略)行法が殊なる徒は、当然、自部の行法によるべきである。
【大正五四 二〇五C】
詳觀四部之差律儀殊異。重輕懸隔開制迢然。出家之侶各依部執。無宜取他輕事替己重條用。自開文見嫌餘制。若爾則部別之義不著。許遮之理莫分。豈得以其一身遍行於四。(中略)不殊行法之徒。須依自部。
(注6)
そこでインドの仏教事情に触れておけば、先のように大衆部・上座部・根本説一切有部・正量部の四部派の中では大乗と小乗と区分が定まっていないのである。北天竺(北インド)と南海(東南アジア)の郡はもっぱら小乗である。一方これに対して、神州・赤県(中国)の郷は、意は大教(大乗教)にある。そして、それ以外(自余)の諸国は大乗と小乗をまぜて(雑)修行しているのが、インドの仏教事情である。それを考察すると、それは大乗も小乗も律蔵の教えによる検察は殊異ならずに、斉しく五篇(波羅夷[Pārājika 淫戒・盗戒・殺人戒・妄語戒の四つ、断頭と訳す]・僧残[(Samghāvas´esa 衆僧に懺悔して余命全うするまで僧伽に残る]・波逸提[(Pāyattika 堕と訳し、堕獄の人となることを云う]・提舎尼[(Pratiles´anīya 向彼悔と訳し、他の比丘に懺悔して除滅する]・突吉羅[(Duskrta 悪作と訳し、その所作の悪しきを云う])を制定し、また大乗も小乗も通じて四諦(苦・集・滅・道)を修行する。もし菩薩を礼拝し大乗経典を読誦するれば、それを大乗と名づけ、そのように菩薩の礼拝、大乗経典の読誦をしなければ、それを小乗と号ぶだけのことである。そして、その大乗についても二種類あるに過ぎない。その一には中観、二には瑜伽である。中観の教えでは、俗諦には「有」と見えても真諦には「空」であり、本質の体は虚にして幻覚の如きである。瑜伽の教えでは、外は「無」であるが内は「有」であり、事(現実)として皆唯だ識(VIjñāna)のみあるとする。しかし、これはすべて聖教に遵っているのである。ならば大乗と小乗では、孰が正しく、いずれが間違いなのか、みな同じように涅槃への約束である。いずれが真実か、いずれが偽りか、その意は煩惑を断じて衆生を救済することにある。しかし、中国では豈して大乗と小乗と色分けして、広く紛紜(もやもやと乱れているさま)して、重ねて沈結を増やそうとしているのだろうか。大乗も小乗も仏の教えに衣行するときには共に彼岸へと昇り、棄背するするときには生津(まよいのうみ)に溺れることになる。中国とは異なり、西方では大乗も小乗も双行されており、道理として大乗も小乗も共に乖競(そむきあらそ)うことはないのである。
【大正五四 二〇五C】
(義浄注略)。其四部之中。大乘小乘區分不定。北天南海之郡。純是小乘。神州赤縣之郷。意存大教。自餘諸處大小雜行。考其致也。則律異不殊。斉制五篇通修四諦。若禮菩薩讀大乘經。名之爲大。不行斯事號之爲小。所云大乘無過二種。一則中觀。二乃瑜伽。中觀則俗有眞空體虚如幻。瑜伽則外無内有事皆唯識。斯並咸遵聖教。孰是孰非。同契涅槃。何眞何僞。意在斷除煩惑拔濟衆生。豈欲廣致紛紜重増沈結。依行則倶昇彼岸。棄背則並溺生津。西國双行理無乖競。
(注7)
インド社会また仏教寺院の生活では、朝起きたら必ず歯木(歯ブラシ)で歯を磨き、舌をこすって舌苔をぬぐい、努めて如法に行っている。まず手を盥い、口をよく漱いで清浄になってから、方に敬礼を行うのである。もし其れが然でなければ、自分が敬礼礼を受けることも、自分が他を敬礼することも、悉く律に照らしてみれば、皆罪を得ることになる。
歯木とは梵語ではDanta-Kāstha(憚哆家瑟詫)という。dantaは歯、Kāsthaは木と訳された。長さはおよそ十二指ほどあり、減(みじか)いものでも八指よりは大きく、太さは小指ほどである。その作法は、まず一本をコップなどに汲んだ水に一晩つけておき、その先をよく噛んで柔らかくしてから、良久浄(じっくりきれい)に牙関(奥歯)を刷ることになる。もし磨いているときに、尊人(法臈の上位の人)などに逼り近づいてしまったなら、左手で口を掩って礼節をつくすべきである。
そして、よく磨き罷えたら、さらにその歯木を縦に割いてから曲げて、それで舌をこすって舌苔を拭うようにする。あるいは、それを使わずに銅や鉄で作った専用の篦を使用してもよい。また、そこまでしなくても、竹や木の小指ほどの薄片でそれを柔らかくしてヘラ代わりに使ってもよいが、それによって舌を傷つけないように注意が必要である。(中略)次に歯木を作る作法については、大木を割いて、小枝を削って作ってもよい。山間あいにあっては、クヌギの小枝(柞條)や葛のつる(葛蔓)を使い。広い畑が延々と続く地域(平疇)では、楮・桃・槐(豆科の植物)・柳などを予め適宜に集めておき、洗面のときに随意に使えるように準備しておくべきである。
新鮮で湿っている歯木は早々に使い、乾燥しているものは持ち歩くことが許されている。若い者はその先端を噛んで軟らかくして使い、老壮の者はそれを石などでたたき軟らかくしてから使っている。このような歯木に使用する木や枝は、苦味、渋味、辛味、辣味(ピリッと辛い)の味覚で、またその先端を噛んで軟らかくしたときに、線維の長いもの(絮)がよいとされている。
また大木となる胡葈(こし・現代インドでは合歓の木を最良としている)の根は最も効用があり精(すぐれ)ている。それは地中に二寸ほどの根の蒼い部分がよいという。この根を使えば、歯質を堅くし口を香しくし(口臭をのぞき)、食べたものをよく消化し痰癊を去る(気分がよくなる)。これを半月も使っていれば吐く息も清々しくなり、三旬(三十日)もすれば歯の痛みや歯槽膿漏の不快感も癒えるいう。必ず歯木をよく噛んで歯をよく磨いて、歯と歯の間に溜まったものを唾液とともに吐き捨てる(涎癊)ようにする。そして、たくさんの水でよく口を漱ぐというのがこの作法である。
その次には、鼻中を少量の水で洗いながす作法について説明しよう。これは龍樹菩薩の養生術と呼ばれている。鼻中を水で洗いながそうとすれば、慣れない内は鼻から喉の方へと流れてしまうが、始めはそれでもよい。そうやっている内に上手に出来るようになり、それを習慣にしていれば病気にもなりにくくなる。
然して、牙歯根の宿穢は蓄積し久しくすると堅くなって、歯垢や歯石となってしまう。そのために歯根に蓄積した食べ物の汚れなどを歯木でよく磨き、舌もこすって清潔する。そこで口中を水でよく漱ぐのは当然だが、それにお湯を使ってよく漱げばさらに腐敗することがないので、自分自身の歯で終身まで食事をすることが出来る。インドでは歯の痛みというものがないように見える。これは偏に歯木で歯を磨く習慣があるからである。
どうして歯木の習慣を知らないで、その作法を楊枝と名づけて行ってしまったのだろう。インドでは柳という樹木はほとんど目にすることはない。歯木を楊枝と訳した者は、実際には歯木が柳樹と違う樹木だとは知らなかったのである。私はナーランダ僧院で実際に見聞してきたので、これは確かなことである。
(中略)インドでは僧侶も、一般人も歯木で歯を磨く作法は習慣となっていて、三歳の童子ですら磨くほどである。僧侶の生活も、一般人の生活も、歯木の作法は効用を発揮していることを肝に銘じて欲しい。もう伝えるべきことは言い尽くしたので、この作法を実践するか否かは、各人の良識に任せることにしたい。
【八 朝嚼齒木】大正五四 二〇八C
毎日旦朝。須嚼齒木揩齒刮舌務令如法。盥漱清淨方行敬禮。若其不然。受禮禮他悉皆得罪。其齒木者。梵云憚哆家瑟詑。憚哆譯之爲齒。家瑟詑即是其木。長十二指。短不減八指。大如小指。一頭緩須熟嚼。良久淨刷牙關。若也逼近尊人。宜將左手掩口。用罷擘破屈而刮舌。或可別用銅鐵作刮舌之篦。或取竹木薄片如小指面許。一頭纖細以剔斷牙。屈而刮舌勿令傷損。亦既用罷。即可倶洗棄之屏處。凡棄齒木。若口中吐水。及以洟唾。皆須彈指經三。或時謦欬過兩。如不爾者棄便有罪。或可大木破用。或可小條截爲。近山莊者。則柞條葛蔓爲先。處平疇者。乃楮桃槐柳随意預收。備擬無令闕乏。濕者即須他授。乾者許自執持。少壯者任取嚼之。老宿者乃椎頭使碎。其木條以苦澀辛辣者爲佳。嚼頭成絮者爲最。麁胡葉根極爲精也(即倉耳根并截取入地二寸)。堅齒口香。消食去癊。用之半月口氣頓除。牙疼齒憊三旬即愈。要須熟嚼淨揩。令涎流出。多水淨漱。斯其法也。次後若能鼻中飲水一抄。此是龍樹長年之術。必其鼻中不串。口飲亦佳。久而用之便少疾病。然而牙齒根宿穢。積久成堅。刮之令盡。苦盪淨漱。更不腐敗。自至終身牙疼西國迥無。良爲嚼其齒木。豈容不識齒木名作楊枝。西國柳樹全稀。譯者輒傳斯號。佛齒木樹實非楊柳。那爛陀寺目自親觀。既不取信於他。(中略)然五天法。俗嚼齒木自是恒事。三歳童子咸即教爲。聖教俗流倶通利益。既申臧否行捨随心。
(注8)
第九章「受斎赴請」(お斎と受食の作法)
受斎について云えば、必ずもし中国でも法門の徒であれば、須く仏の制定した法式、すなわち律の教えによって実践させるべきである。また僧侶も必ず斎の供養に赴くことがあれば、濾羅(水濾しフィルター)を将(もって)ゆき、衆僧のもちいる水は虫の有無をよく観察すべきである。すでに餐食がおわっているのなら、かならず歯木で歯をみがくべきである。もし口に残った余の膩が有るのであれば、まだ食事が済んでいないと見なされ、斎供は済んでいないのである。歯木を嚼んで、口に残った膩を除去して始めて、斎供が終了したとされるのである。
また一日二食のため、餓腹して夜を過ごそうとも(夜宵)、非時食戒の抵触、正午を過ぎてからの嚼食(噉で食べる固形の食べ物)の罪は免れない。幸(どう)か西方(インド)の食法を看て、東川(中国)の作法をその正しい食法と擬(なぞら)え議論すべきである。中国の状況が律蔵の検察に叶っているかどうかの宜しきは、自然に明かになる。ここで詳細にする暇はないが、知者はまさに考えていただきたい。
嘗って私・義浄は試みにこんなことを論じて曰ったことがある。然して無上世尊であり、大悲父親である大聖釈迦牟尼世尊は、衆生が迷津に淪滞(しずみ・とどこおり)していることを愍れみ、三大阿僧祗劫を歴るあいだ翹勤(つとめ)られ、衆生を教えに依り行わせようと冀(こうねが)い、七紀(八十余年)ものあいだ、この世に現れて正法を顕揚し、衆生を教化したのである。
その教えを住持する大本は、実は衣と食のあり方を正すこと、律蔵の検察に則して日常生活を正しく保つことが、最も先となることである。だからこそ世尊は塵労の増長することを恐れて、僧侶の日常生活に機能すべき修養規範の作法を厳しく戒検(いましめしらべる)を施行されたのである。
この戒律の制定は大聖釈迦牟尼の意に在るから、道理としてその戒律に遵って日常生活を行うべきである。ところが、中国の仏教事情は、この仏が制定した戒律に反して軽んじる心があり、それを以て自分たちは戒律に照らして無罪の道だというのである。すなわち、中国の法侶は日々の日常生活で行われている着衣喫飯、たとえば毎日の食事一つとっても、食噉すれば不浄(触)を受けているのを知らないのである。但だ淫戒(女性との交渉ごとをもたないと)の一条をだけをと護って、これによって私は無罪の人である。その私が何で苦労して更に煩瑣な律を学ばなければならないのかと云ってるのである。
そして、そのような人は、飲食物を咽(の)んだり噉(たべ)たり、衣を着たり脱いだりしている日常生活の現実とは、元より自分の感情をまったく関わらせずに、思想などの観念的な次元で、直ちに空の法門を指して、それを仏の意であるとしているのである。それで寧(どう)て諸々の戒が仏の意ではない、と知ることが出来るのだろうか。本来、戒は仏意であり、一つの空門は貴い、また一つの戒律は軽いというのは、単なる臆断なのである。
しかし、実際のところ、中国仏教の法門の徒は相踵(あいつ)いで、戒律を軽視し、空門を重視する伝統を習い、仏が制定したはずの戒経(Prātimoksa 波羅題木叉)を窺い看ることはしない。両巻(中観・唯識)の空門を説く経巻を書写することが得(でき)れば、それだけで道理は経・律・論の三蔵を包むと謂っている。こんなことをすると、一口一口咽(の)むたびに、正に流漿の苦(大変な苦しみ)が有ることを思わず、一足一足歩くたびに、現実に賊住の殃(偽僧侶のわざわい)を招くことを一体、中国の誰が知っているのだろうか
【大正五四 二一一C】
必是門徒須教法式。若行赴供。應將濾羅。僧所用水並可觀察。既其食了須嚼齒木。若口有餘膩即不成斎。雖復餓腹終宵。詎免非時之過。幸可看西方食法擬議東川。得不之宜自然明白。無暇詳述智者當思嘗試論之曰。然無上世尊大慈悲父。愍生淪滯。歴三大而翹勤。冀使依行。現七紀而揚化。以爲住持之本。衣食是先。恐長塵勞厳施戒撿。制在聖意理可遵行。反以輕心道其無罪。食噉不知受觸。但護婬戒一條。即云我是無罪之人。何勞更煩學律。咽噉著脱元不關情。直指空門將爲佛意。寧知諸戒非佛意焉。一貴一輕出乎臆斷。門徒遂相踵習。制不窺看戒經。寫得兩卷空門。便謂理苞三藏。不思咽咽當有流漿之苦。誰知歩歩現招賊住之殃。
(注9)
第二十五章「師資之道」(師弟関係のあり方)
法門の徒、門人や弟子を教授することは、仏教の紹隆の要である。もしこのことを存念しなければ、仏法は滅してしまうことを期すべきである。そのために本師と弟子が互いに関係する事は、必ず須く慇懃(懇ろに勤めること)して、宜しく網漏(ぬかり)のないようにすべきである。
律蔵には着衣喫飯の修養生活の中で弟子たるものは、毎日晨旦(早朝)にはまず自らが歯木を嚼んで清浄になる。次に本師のところへ就くべきである。寝ている本師の身体を按摩しおえて、本師が起きたなら、晨旦の歯木を嚼む準備をして、歯木・澡豆・拭巾を奉じて座処に敷き置き、本師を安穏にし已(おわる)のである。然して後に尊儀を礼拝するために、弟子は仏殿を旋繞(めぐ)る。その後にもとの所に却って本師の処に就き、衣を襵(ととの)えて一礼をする。(義浄注略)
そして、弟子は本師に云う。私は、いま、請白すること、不審(いかがでしょうか)。鄔波駄耶(親教師)、宿夜(ひとばん)、身体は安らかであるかどうか。身体を構成する四大要素のバランス、地・水・火・風の四大の感覚は平和であるかどうか。動止は軽利にして、飲食は銷化したかどうか。旦朝の餐食は能く進んだかどうか。斯らの請白の広略は、その状況に随う。その時に本師は乃ち、身体の四大要素のバランスの安・不安を量って、具に其の事を弟子に答えるのである。これで本師への請白は終了し、次に弟子は隣近に比(なら)んだ房舎で、任せることの大きい者(法臈の多い法侶)を敬礼することが能(でき)るのである。
次に少し許かりの経を読み、また先に受けた所の教えを憶念する。日々に新しいことを学び、また月々に故(過去に学んだ)ことを憶念し、寸陰も虧けることがない。日時計の影が小食(朝食の粥)の時間の位置に至るのを待ち、身体の四大要素のバランス感覚、軽重を量り、本師に請白してから、方に弟子も自分の小食を食べるのである。
【大正五四 二二一C】
第二十五章「師資之道」
夫教授門徒。紹隆之要。若不存念。則法滅可期。事須慇懃無宜網漏。律云。毎於晨旦先嚼齒木。次可就師奉其齒木。澡豆水巾敷置坐處。令安穩已。然後禮敬尊儀。旋繞佛殿。却就師處攝衣一禮更不重起。合掌三叩双膝踞地。低頭合掌問云。鄔波駄耶存念。或問云。阿遮利耶存念。我今請白。不審。鄔駄耶。宿夜安不。四大平和不。動止輕利飲食銷不。旦朝之餐可能進不。斯則廣略随時也。時師乃量身安不。具答其事。次於鄰近比房任。能禮其大者。次讀少許經。憶所先受。日新月故無虧寸陰。待至日小食時。量身輕重。請白方食。
(注10)
第二十七章「先体病源」
前二十五章で「日時計の影が小食(朝食の粥)の時間の位置に至るのを待ち、身体の四大のバランス感覚、軽重を量り、本師に請白してから、方に弟子も自分の小食を食べるのである。」と云ったのは、即ち起床した時の四大の身体感覚、地・水・火・風の四大の強弱(バランス感覚)を観察して、その状態によって小食を取るかどうか、決めることである。
その実際について云えば、もし早朝に起きて身体感覚が軽利であれば、それは四大の強弱が調っているということで、便ち日常食べる所の如くに小食をとって可いのである。必ずしも身体感覚が軽利とはゆかずに、体調が普段とは別異なる処があるならば、必ず須く其の身体感覚の不調の起因と、その由来する四大不調和の原因を視るべきである。次に既に病気の源を知り得たならば、然して後、将に息(休息し養生する)すべきである。そうして休息し養生した後に、もし身体が軽利・健全の感覚になったら、それは飢えの火(火大)が身体の内で然(燃)えて、昨日来の胃中の食べ物(宿食)を銷化しているからである。その時には小食の時間に至ったら、方に始めて餐噉するのである。
凡そ平旦(朝)は「痰癊の時」と名付ける。それは宿食の余り口津(つば)が積聚して胸膈(胸と腹の間)に在って、尚、未だに踈散(銷化)していない状態だからである。そのために、そのまま小食を食べたなら、便ち身体にとって咎(わざわい)となるのである。それを譬えてみれば、火焔の起きているところに薪を投げ入れれば、薪は乃ち尋(つ)ぎ従ぎに火と化すようなものである。もし火が未だに著いていないところに草を安置したなら、草は遂にそのままで存って、そのまま火がついて然(燃)えたりはしないのである。
そもそも小食とは大聖釈迦牟尼世尊が、本来は一日一食の昼の食事(時食)とは別に、早朝に食べることを開許(ゆる)したものである。この小食の内容は、もしは粥、もしは飯であり、やはり身体の四大の強弱を商量してから食べるのである。そして、その小食の内容については、律蔵に粥と飯は認められている。さらに粥の効能について、小食を粥にすればよく仏道を資けると、その徳性が讃えられている。もし飯を要るならば方に身体を長(さか)んにするので、平旦(朝)に飯を食べることも、律の教えを損なうことはないのである。
【大正五四 二二三B】
「二十七先體病源」
前云。量身輕重方餐小食者。即是觀四大之強弱也。若其輕利。便可如常所食。必有異處則須視其起由。既得病源然後將息。若覺輕健飢火内然。至小食時方始餐噉。凡是平旦名痰癊時。宿食餘津積在胸膈。尚未疏散食便成咎。譬乎火焔起而投薪。薪乃尋從火化。若也火未著而安草。草遂存而不然。夫小食者是聖別開。若粥若飯量身乃食。必也因粥能資道。即唯此而非餘。若其要飯方長身。旦食飯而無損。
(注11)
第二十七章「先体病源」
西方の学問で五明論(Pañca-Vidyā)、声明(Śabda-Vidyā)、工巧明(Śipakarmasthāna-Vidyā)、医方明(Cīkitsā-vidyā)、因明(Hetu-vidyā)、内明(Adhyātma-vidyā)の一分野の医学がある。その医学では、まさに五官によって声の感じ、皮膚の色つやなど身体の特徴などの変化を観察する。燃後、八医術(『八科精髄集』、Skt. Astāngā-hrdaya-samhitā、Tib. Yan-lag brgyad-pahi sñin-po badus-pa shes-dya-ba)を行ずべしと云う。如しも斯の医術の精妙なる学問体系を理解しないならば、その医術に順(したが)うことを求めながらも、返ってしれに違背することに成ってしまう。その八つの診療科目は、一には所有る諸々の腫れ物(瘡)を論ず、二には首疾に針刺するを論ず、三には身の患を論ず、四には鬼瘴を論ず、五には悪掲陀(Agada 毒)を論ず、六には童子の病を論ず、七には長年の方法を論ず、八には身力を足すを論じている。
またこの八つの診療科目を解説すれば、一は内科外科をかねた身体のできもの、はれもの治療、二は頭部の疾患で眼耳鼻や咽喉の治療、三は身体の首から下の疾患で内科の治療、四は心が惑わされたような疾患の精神科の治療、五は悪掲陀とは毒(Agada)のことで毒物の療法、六は胎内の子供から十六歳までの子供の治療、七は寿命を延ばす療法、八は身体壮健のの療法」と云う。斯(こ)の八医術は、先には八つに分かれていたが、近日になって有る人(バーグバタ Vāgbhata)が編集し略述して一夾(一編の書物)と為したものである。
五天竺(インド)の地では、咸悉く八医術に遵って医術を修めているそして、但(もっぱ)ら、この医術を理解する者には、インドでは禄を食ませない、医術者が生活に困るということはない。是に由って西国(インド)では大いに医術の人を貴び、また兼ねて(同時に)商客を重んじている。それがなぜかと云えば、この医術の人と商人の二つの職業は、生き物の生命を殺害すること(奪うこと)ないために、まずそれは自利の利益であると同時に、利他として他の救済となるからである。
ここで告白しておきたいことがある。私・義浄は、実は此の八医術について已(すで)に功学を学習して用いていたが、入天竺の目的が仏跡巡礼と正しい律蔵の将来であり、さらに仏教は生死の病を解脱する妙薬であることに反し、アーユル・ヴェーダ医学は四大病を治療が目的であるから、それは僧侶の正業ではないという理由で、遂にこの医術を放棄したのである。
【大正五四 二二三B】
「二十七先體病源」
然西方五明論中。其醫明曰。先當察聲色。然後行八醫。如不解斯妙。求順反成違。言八醫者。一論所有諸瘡。二論針刺首疾。三論身患。四論鬼瘴。五論惡掲陀藥。六論童子病。七論長年方。八論足身力。言瘡事兼内外。首疾但目在頭。斉咽已下名爲身患。鬼瘴謂是邪魅。惡掲陀遍治諸毒。童子始從胎内至年十六。長年則延身久存。足力乃身體強健。斯之八術先爲八部。近日有人略爲一夾。五天之地咸悉遵修。但令解者無不食祿。由是西國大貴醫人。兼重商客爲無殺害。自益濟他。於此醫明已用功學。由非正業遂乃棄之。
(注12)
第二十七章「先体病源」
およそ地・水・火・風の四大によって構成される身体の疾病は、咸食べ過ぎによって起こるか、あるいは過労による疲労がたまって生ずるかの何れかである。この多食について云えば、中国では一般的に或いは夜に餐食して、その食物が未だ洩れ(排泄)ないうちに平旦(朝)だからといって餐食してしまう。或いは平旦に餐食して銷化しないうちに午時に還(ま)た時間だからといって餐食してしまう。茲に因って疾病が発動することになり、遂には暑気あたりによる急性の吐き下しの疾病で霍乱(かくらん)と成ってしまい、呃気(しゃっくり)は連宵(よもすがら)息(や)むことがなく、鼓脹(おなかのはり)は終旬(十日目)にも止まないのである。(中略)ここで病気と健康について考えれば、既に一度疾病になってしまったら、斯れは何によって救われるのだろうか。これは救われる、救われない以前に、修養生活によって多食と過労を避け、病気に罹らない生活が大切だと云える。(中略)ここに私・義浄は聊(いささ)かアーユルヴェーダ医学について叙述したが、母国の皆さん、繁重(くどい)と嫌うことなかれ、冀うのは、未だ多くの薬を損耗して宿痼(慢性疾患)を除くことができるようにさせることであり、医術の門を造らなくても(叩かなくても)、新痾(急性疾患)を遂に殄(つ)くさせてしまうということである。
アーユルヴェーダ医学にいう四大の調って暢(おだや)かならば、百病が生ずることがないという教えは、自他共に利益するものである。豈してこれが有益でないはずがないのである。然れども、毒を食べて死ぬか生きるかということは、アーユルヴェーダ医学の健康管理や心がけの問題ではなく、蓋し(まさしく)斯の個人の往業(宿業)に由るのである。しかし、そのことと現在の縁由があって、いまこの健康管理で可能となる多食や過労を回避することが、本章の主題である「先体病源」は必ず為すべきことである。
【大正五四 二二三B】
「二十七先體病源」
凡四大之身有病生者。咸從多食而起。或由勞力而發。或夜食未洩平旦便餐。或旦食不消午時還食。因茲發動遂成霍亂。呃氣則連宵不息。鼓脹即終旬莫止。(中略)病既成矣。斯何救焉。(中略)聊爲敘之勿嫌繁重。冀令未損多藥宿痼可除。不造醫門而新痾遂殄。四大調暢百病不生。自利利人豈非益也。然而食毒死生。蓋是由其往業。現縁避就非不須爲者哉。
(注13)
第二十八章「進薬方法」
病源の徴候を知るには、旦朝に起床して身体の四大の状態を感じなさい。もし四大不調の徴候を感じたなら、まず朝のうちは絶粒(絶食)することを先とする。縦令え大いにどが渇こうとも、決して奬(ジュース)水も進めてはならない。斯は極禁である。
そして、絶食の期間は、或いは一両日、或いは四日・五日のあいだ続け、明け方に起床して体調を観察していて、それでも不調を感じなければ、それでやめて良い。これが病気の徴候を知る方法である。その義は琴の柱をニカワ付けしてしまい、正しい音階が得られないことと同様で、柱を動かして調律するように、絶食して身体を観察するのである。
もし腹に宿食が有ると疑ったなら、まず腹部を軽くマッサージしてから適量の白湯を飲んで、更に指をつかってその白湯を吐くようにする。これを数回くり返し、お昼頃になれば冷たい水を飲んでも差し支えない。そのとき、もし水などを飲むのであれば、乾燥させた生薑のお湯を飲む方が最適である。
そして、その日一日は断食して、明朝になって食欲があればお粥などを食べるとよい。もし中国の日常生活でなかなか実践が不能ないとしても、臨機応変に斟酌してこの修養生活を行うべきである。
【大正五四 二二四C】
「二十八進藥方法」
凡候病源旦朝自察。若覺四候乖舛。即以絶粒爲先。縦令大渇。勿進漿水。斯其極禁。或一日二日。或四朝五朝。以差爲期。義無膠柱。若疑腹有宿食。叉刺斉胸。宜須恣飲熟湯指剔喉中變吐令盡。更飲更決以盡爲度。或飲冷水理亦無傷。或乾薑湯斯其妙也。其日必須斷食。明朝方始進餐。如若不能。臨時斟酌。
*この小論は第六十二回日蓮宗教学研究発表大会で発表した論考を整理加筆したものである。