現代宗教研究第44号 2010年03月 発行
第42回中央教化研究会議全体会議(分科会報告)
第42回中央教化研究会議全体会議(分科会報告)
第一分科会
立正安国と教化学
座 長 西口玄修
問題提起 町田順文
助 言 者 伊藤立教
記 録 高平妙心 塩入幹丈
運 営 小瀬修達 石川修道 馬島浄圭
第一分科会の参加者は総勢19名
一、基調報告
中央教研では過去六回、立正安国をどう現代につたえ、実現していくかをテーマに、その理論を教化学として定義付けし、一切衆生を救済する方法を現代社会の諸問題に対応させる形で討議してきた。
今回 田澤元泰所長が、基調報告という形で、あらためて教化学の確立について、理論、応用論を再提示された。その後、「常に変動していく時代に、歴史上の布教法をそれぞれの経験を基に体系化し、法華経・御遺文を時代に合わせて説いてゆく。」ことが必要であり、また、「立正安国の精神に基づいて社会問題に取り組み、人々と係わることが未信徒教化につながる」と述べられた。
二、分科会討議
問題提起者 町田順文師が基調講演を受けて、教師一人一人が自分の問題として「『立正安国』を如何に実現させるか」を考えていただきたいと発題された。
当分科会では、意見を活発化させる意図から事前にレポート形式でアンケートを依頼し、当日取りまとめて討議の参考資料とした。
アンケート結果分類
1、環境問題 低炭素社会の実現
2、安穏な社会作り─社会の安定災害防止・治安の確保
情報収集(世界的飢餓や内戦を認識する。)
宗門の福祉への参入、心といのちの相談所の開設
3、教学 他宗批判より法華経の優位性を説く
立正安国論を社会に認知させなければ
法華経による幸福とは何かを訴え続ける
娑婆即寂光の認識
正法弘通が目的
教学の研鑽
三、自由討議
討議の前半、法華経や安国論を、一般に伝えられる平易な言葉が出てこないないもどかしさ、僧侶と檀徒、更に未信徒との間で言葉が共有できない。本尊の意味も含めて、信仰の言語化の難しさに悩む教師の姿が浮き彫りにされた。
また、キリスト教の発想の言葉が定着し、それに反して仏教の言葉が死語化しつつある状況への危機感。
次に 現代人の自我意識や自己主張の強さを指摘する意見が多く出された。しかし本当は心の満足、平穏な生活を望んでいるのだから、どのようにして信仰に導くか?それこそ教化学に望まれることである。
最後に助言者伊藤立教師より寺庭婦人の身分に関する問題提起があり、身分の保障や、位置づけの不安定さが、議論の中心になった。
四、おわりに
参加者二十四名は、それぞれの布教、教化の体験、悩みを披露し合い、全体を通じて自己の信仰、教学を自分の言葉で語ることの難しさに悩む者と、教師としての信念に基づいて、発言される教師が、非常に対照的でした。仏教離れと世間では言われているが、自己中心的生き方に本当は疲れているのが現実なのだろう。鬱病が増加しているのものその表れではないか。
この分科会で、法華経の慈悲の教えを広めることが悩める人々を救済することになるという信念を改めて確認した思いです。
教化学では、環境問題等、社会問題に取り組むことが重要視されるが、討議のなかで、社会の中に分け入るために、それぞれの分野の専門家を集めたシンクタンクを宗門で組織すれば、即応できるという意見は傾聴に値すると思われる。
寺庭婦人に関する問題提起は急であったので、議論は深まらなかったが、現実に宗制が対応していないという事実は動かしがたい。
第二分科会
広い「安国」
〜多様化する問題への取り組み
座 長 黒木源章
問題提起 野村佳正
助 言 者 新間智照
記 録 松森孝雄
運 営 有本智心 佐藤拓温 松本真美
一、問題提起
平成二十年度中央教化研究会議において、東洋大学の西山茂教授によって「『立正安国』は如何に伝えられてきたか」と題した基調講演がなされた。その後の分科会において、現代においては寺院を取り巻く問題の多くが、檀家と寺院との関わり方、環境や人権等に多様化しているという指摘があり、今年度第二分科会において、その布教の現場が今まさに直面している多様化する問題を明らかにしていこうと意見を求めた。
二、分科会討議
二日間にわたり、参加各聖から上記問題提起を受け、さまざまな意見が提出されたものを、以下に四つに分類し整理する。すなわち「A:僧侶として共通認識をもってほしいこと・もたねばならないこと」「B:実際の活動状況」「C:対宗門の希望」「D:現状の問題点」の四つである。(まさに「多様化する問題」への意見であり、四つに分類することに弊害があるかもしれないが、便宜上敢えて分類するものである)
当分科会においては具体例を各聖に示していただくという形式をとったので、意見を列記しつつ記録としてまとめていきたい。
【A:僧侶として共通認識をもってほしいこと・もたねばならないこと】
・我々は「僧侶目線」という特異な視線でものごとをみている。一般の視点で捉えることが必要である。
・日本を安国にできずに世界を安国にできない。安国の定義づけの必要がある。結局、教師個々人の身の振る舞い・努力による身近な「安国」を考えなければいけない。
われわれは「伝道宗門」を謳い、対社会の前線で布教しているにもかかわらず、「宗門」という枠にとらわれ、「井の中の蛙大海を知らず」状況に陥っている現況を憂う意見が多く出た。
【B:実際の活動状況】
・創価学会では難しい教学の本を学会員に読ませている。理解できてるかどうかは疑問ながら、ベースができている。これを「一般の視点」でやっている。
・檀家の少ない寺に入寺したが、三十年近く法に触れていない檀家・地域の人々に対して説法は受け入れられない現実があった。そこでもちまきなどのイベントを催して、お寺との接点をもってもらうところから始め、「あの寺に行くとなんか楽しいことがあるぞ」という感覚をもってもらうのが大事であった。
・地元新聞にコラム欄をもっている。HP・テレホン法話も有効である。
・門の掲示板には、横書きで自ら書いている。(横書きの方がなじんでいる世相を反映)
・花祭りライブを開催している。議論を深めるのも大事だが、とにかく「動く」ことが最重要であり、情報の発信源(難しい言葉も平易に)になるべきである。
・同和問題にたずさわっているが、いわれなき差別は日蓮宗に多い。
・「わかりやすい」を心がけて「檀信徒」に布教。まず「檀家」を「信徒」にという内側からの布教が大事。法事のときに、最初にお経の解説をして一緒に読経している。管区で「お通夜を布教の場に」というコンセプトで小冊子を作成した。四十三ヶ寺に五十部ずつ配布した。
・地域で民生委員をやっている。地域のお年寄り宅を訪問している。「いのちの電話」にボランティアとして参加している。四校のスクールカウンセラーをしており、不登校問題などに取り組んでいる。
・平成七年から保護司としての活動を地域で続けている。家庭の「安国」が成立しないと社会が崩壊する。
・お布施が工面できないという問題に対し「お布施は金銭だけではない」ということで、境内の草むしりをしましょう、と働きかけ三ヶ月養った。その中で自立を促した。
・お寺で「待って布教」していては、過疎地域においては次世代につながらない。「出向いて布教」する必要があり、出張布教をしている。
各地域、寺院・教師をとりまく環境などによって「できること」「しなければいけないここと」が違い、統一したガイドラインを示すことは難しいが、逆に言えば「その環境だからこそできること」を模索・実践することによって、寺離れなどの問題の解決の糸口を見出すことができるという実例であろう。
【C:対宗門の希望】
・過去に新間上人が渡辺総長に「宗会議員に一般人を入れられないか」と提案したことがあるがそれに対して総長は「名誉・金を求める『政治家』が現れる」として否定的な見解を示した。
・現実問題として、法器育成機関にて資格をとっておしまいという風潮がある。布教研修所などで実践的現場を考える機会があるのは有り難い。若い教師が参加できる機会をもっとつくるべきである。
・『宗報』の中で、全国の有志で活動しているグループの紹介をして欲しい。それによって横のつながりをもたせて情報交換が出来る。その「グループ」を現宗研で把握して欲しい。
・和讃の振興に力を入れて欲しい。御詠歌は活発であり、浄土宗でイベントすると武道館で数日かかる。法華和讃分野を掘り起こして欲しい。
・信仰の原点を大聖人に立ちえかえれるようなシステム作りをして欲しい。わかりやすい言葉で短いメッセージ作成をして発信。
・身延山の参拝者をみていて気づいたこととして、参拝者には「檀信徒」「新宗教」「趣味(サイクリングや写真など)の三通りあることがあげられる。その中の「趣味」としてこられてる人は、西洋文化の中で育った故に日本文化にあこがれている部分もあるのではないかと推測される。「お寺そのもの」に興味のある人に布教するのは、現代風よりもくり弁など古来の布教法が受容されるのではないか?
【B】で示された教師各人の活動の「基盤」をしっかりと確立するためには、「個人」をバックアップする「宗門」の対応・政策に期待するところが大きい。そのためにも各教師の活動の現状・現況を把握する体制作りも不可欠であろう。
【D:現状の問題点】
・宗門は檀信徒を「運動の対象」としか見ていない。「この運動をやるから、檀信徒はついてこい」という姿勢になってしまっている。
・僧侶に有り難みを感じない。英語を話しているのと同じ。葬儀社にとってもBGMになっている。このような問題を僧侶だけで考えるには限界がある。一般にアピールする力が足りない。
・地域の自治会活動にも積極的に参加すべき。お寺の行事はさかんにPRするのに、自治会には無関心である。この意識がお寺と地域の壁になっている。
・青少年育成など福祉面の充実、公益性という面において、寺よりも一般の方が数段進んでいる。
・相手が求めないのに、こちらから出て行っても通じない。求められて答える、というスタンスの確立が大切である。
・僧侶は「普通ではない」という自覚を持つべき。僧侶のほうから社会に入っていく覚悟も必要であり、たとえばマクドナルドに入って1日中頭をさげてみる、なども有効な手段ではないか。
・管区で檀家を巻き込んだイベントを企画するが、一般の人のスケジュールを無視してしまっている。寺院側の都合による日程で企画している。これでは人は集まらない。「イベントをした」という自己満足でしかない。自坊では土日で設定している。「いつ・どこで・だれが・なにを・どのように」というのは地域性がでる。
・お坊さんに対するイメージは「怖い」「お金がいくらかかるかわからない」といったものがある。
・「お上人」という立場で敷居を上げてしまっている。
・如何に寺を活性化するか。熱心な檀家と一般的な檀家に温度差がありすぎる。一般的な檀家は自然消滅してしまう。かといって、そこに一生懸命働きかけると「有り難迷惑」になるというジレンマがある。
・百人百様の『立正安国論』があるのは当然であるが、お題目への結縁が大前提である。ただイベントとして楽しませるエンターテインメント性の追求だけでは、取っ掛かりにすぎず戒められるべきである。
【B】で示された教師各人の活動をするにあたり、【A】で指摘された「僧侶目線」からの脱却が急務であろうことが問題点として認識されている。
三、まとめ
参加各聖より多岐にわたる具体例が示されたが、われわれは布教の場において常に祖意に還るべきであり、その基本はお題目の下種であり、その手段としての活動は多岐にわたる。寺で全てを抱え込むのではなく、「多様化」の問題は時代を問わずにあるということを前提に、多様な問題を(各専門分野と提携して)采配する能力も必要であろう。
・『立正安国論』は奏進という大それた捉え方ではなく、私たちに遺してくれた「勘文未来記」という受け取り方が重要である。
という指摘を受け、
・西山先生に指摘されるまでもなく、大聖人はすでにお示しくださっている。「安心・安家・安国」に邁進しようではないか。
と参加各聖の決意へとつながっていった。
【布教のヒント】
途中、有本上人による「布教のヒント」に関する解説がなされた。
その一例を紹介する。
例:「宣伝」について
松下電器は昭和三十年代当時、盛んに宣伝活動をしていたが、その宣伝費を節約すれば商品の値段を抑えられるのではないか、という指摘に対して松下幸之助氏は「一日四〇〇〇人亡くなって、五〇〇〇人生まれてきている。1日四〇〇〇人の松下を知ってる人が亡くなり、五〇〇〇人の知らない人が生まれてくる。この人たちに宣伝しなければならない」と答えた。絶え間ない「宣伝」の必要性がある。
として、「伝道宗門」のあるべき姿勢の一端を示された。
西山教授のご指摘を受け、本年も引き続き第二分科会で各聖のご意見を頂戴する中で、僧侶と世間のつながりの中で、無限の可能性が見えてきた。
第三分科会
環境問題にどう取り組むか
〜間伐材塔婆の事例から
座 長 梅森寛誠
問題提起 吉田尚英 松本恵行
助 言 者 石川浩徳
記 録 齋藤宣裕
運 営 藤崎善隆 石伏叡齋 高橋純子 三好和美 灘上智生 小林貫誠
第三分科会は二十三名の参加となり、環境問題への意識・興味の強さをうかがえた。大人数での分科会のため運営上の不安もあったが、結果的には参加者全員から満遍なく意見を聞くことができ、大人数ながら活発な議論を行うことができた。また、広島県教化センターの松本恵行上人、東京布教伝道センターの吉田尚英上人より塔婆に関するそれぞれの取り組みを紹介してもらい、今回の分科会の問題提起とした。身近な問題から参加者も討議に入りやすい様子であり、問題提起の題材として最適であったように思われる。
一、問題提起
十年前にも中央教研会議において環境問題が分科会テーマに掲げられたことがあったが、この十年で状況は激変している。現在、世間ではマスメディアを中心として「エコ」が盛んに叫ばれているが、疑問に思う点も少なくない。環境問題への関心も高まっている現状で、現在の地球環境の危機的な状況というものは日蓮聖人の『立正安国論』奏進当時の状況と重なるものがあるように思われる。そんな中、我々が宗教者として「信仰の寸心を改め」ることを目的とし、環境問題へのアプローチを考える時に「教化学」こそが重要なツールとなる。今回の会議では、僧侶として身近な問題である広島県教化センターの間伐材塔婆の事例、また東京都教化伝道センターの多摩産の杉を用いた塔婆の事例を紹介していただき、環境問題への取り組みについての問題提起とした。十年前の会議では観念的な議論が多くなされたが、今回の分科会では我々が具体的に何をすべきかを考え、実際に行動に移すきっかけとなる会議を目指した。
広島県教化センターからは間伐材を用いた塔婆の取り組みが紹介された。間伐材とは密集している樹木を間引きして手入れをした際に生じる木材のことであり、この間伐作業を行わない山は保水能力がなくなり、樹木の成長を妨げてしまう。しかし間伐材を製材するためには多額の費用がかかるため、間伐材は山に捨てられていた。そこで間伐材を有効利用するために、広島県教化センターでは間伐材の塔婆を購入して使うことを呼びかけることにした。また、間伐材を塔婆に加工する過程での乾燥作業の仕事を地元の障害者就労施設に依頼しており、地元の雇用を新しく生み出すことにも成功している。現在、延べ四十一ヶ寺で約三万本の間伐材塔婆を使用している。間伐材塔婆は節があり見た目は通常の塔婆よりも劣るが、檀信徒からは特に悪い評判は聞いたことがなく、逆に趣旨を説明すると喜んでくれる例が多かった。今後の課題として塔婆の後処理について、よりよい方法を模索中である。
東京都教化伝道センターからは多摩産の杉を用いた塔婆の取り組みが紹介された。現在、杉の木材価格が下落しており、それに伴って杉を伐採することでかえって赤字になってしまう。山の手入れをする者がいなくなり、日本の林業は危機的な状況に陥っている。林業に携わる方々へ少しでも利益を還元し、日本の林業を救う一助となればと多摩産の杉塔婆を使う取り組みを始めた。杉を用いた塔婆は赤い色が入っていたり節があったりするが、檀信徒からのクレームはなく逆に軽いというメリットもある。杉の塔婆を扱うにあたり、檀信徒側ではなく、むしろ僧侶側・塔婆業者側の意識改革が必要である。価格は、現在主流となっている外材塔婆よりも高くなってしまうが、その利益は山主へと還元され、その資金によって山を手入れすることができる。現在は東京都限定の取り組みであるが、この活動を通じて全国の方々に関心を持ってほしい。
二、分科会討議
二日間で合計五時間を越える分科会であったが、時間が足りなく感じられるほどに活発な議論が交わされた。
その内容については以下のようにまとめさせていただく。
(一)環境問題とは
①自然環境の問題
②人間を含めた社会環境の問題
「エコ」ブームに惑わされず、しっかりと問題を見極めるべき。
(二)間伐材塔婆と多摩産杉塔婆の事例について
・双方に共通のキーワードは「地域」……広島では社会福祉施設の雇用創出。東京では様々な地元業者との関わり。
地域を巻き込んだ社会教化への取り組みが重要。
・寺院で地産地消を行うことによって寺院と地元のネットワーク・つながりを生む。
・僧侶の取り組みをアピールすることが布教につながる。
・檀信徒から反対意見は聞いたことがない。新しい取り組みに抵抗を持っているのは、檀信徒ではなくむしろ僧侶側ではないか。
僧侶側の意識改革が必要。
・小さな取り組みも、国土の安全といった大きな問題につながっている。つながりを意識した活動を。
(三)僧侶としての環境問題への取り組み
・棚経を自転車でまわる、草取りを自らすすんでやる、といった日常的な取り組みから始めてみる。
僧侶が取り組む姿勢を見せることが教化につながる(教化のチャンス)
・日常の宗教活動をしっかりと実践する。環境問題への取り組みと同時に供養の心も伝える。
・寺院内の自然を活用して、子どもたちへ環境問題に目を向けさせる。生命の大切さを説き、信仰へ導く。
(四)今後の課題
・寺院・僧侶の環境問題への取り組みをどのようにアピールしていくか。
・宗教行事と環境問題の矛盾。
《例》お焚き上げ、供物を川へ流す
伝統を伝えていく必要がある一方、環境問題や世論への配慮も重要。
・寺離れ・墓離れ・葬儀離れの三離れ現象と言われているが、まだ寺院・僧侶は世間に期待されている。しかし応えられていない現状。
世間に見られていることを意識して僧侶としての自覚を持った行動を。
・環境問題への取り組み、地域での活動等においてリーダーとしての自覚、行動が問われている。
三、まとめ
問題提起が非常に興味深い題材であったため議論は大変盛り上がったが、塔婆について話し合う時間が多くなり、当初の目的であった「我々が今、具体的に何をすべきか」という点に関しては論を尽くすに至らなかった点は悔やまれる。しかし、十年前の中央教研会議よりも積極的に具体的問題に取り組む姿勢が多く見られたことは収穫であったと思われる。
今回の分科会での結論としては、環境問題に関して氾濫する情報の中からしっかりと真実を見極め、その上で我々ができることから今すぐに実践することが大事である、ということ。そうした小さな取り組みを見せることが檀信徒への教化につながり、それこそが布教手段になる。そしてその取り組みの積み重ねがいずれは国土の安全、そして立正安国へと通じていく。三離れ現象が叫ばれているが、やはり世間ではまだ寺院・僧侶へと期待が寄せられている。地域とのつながりをより一層強め、今こそ地域のリーダーとして、その背中で教化をしていくべきではないだろうか。これはすなわち教化の絶好のチャンスでもある。昨今、宗教法人の公益性が求められている中、早急に行動を起こすことが肝要であろう。間違いなく、僧侶の意識改革が求められている。
第四分科会
防災・滅災ワークショップ
─てらこや
座 長 小林康洋
分散会座長 山田孝行 川名湛忍
間題提起 石原顕正
助 言 者 影山教俊
記 録 河㟢俊宏 丸山賀子
運 営 原顕彰
図上訓練指導 NPO法人危機管理システムアース社員 月崎了浄
第Ⅳ分科会は参加者十名(参加名簿)外部講師一名(図上訓練指導)を招いての分科会となった。問題提起、趣旨説明、図上防災訓練を一室で共通に行い、その後は二つに分散しての討議を行った。図上防災訓練により模擬体験した状況を共通認識として持ち、分散会形式を採ることで参加者が発言しやすい環境をつくり、活発な議論が展開されることを意図した。しかし、それぞれの分散会で全く違う方向に話題が展開してしまう不安から、事前に共通の設問を用意し方向性を持たせようとした。結果的には両分散会の方向性は保ちながら、それぞれの分散会で全く違った観点からの発言があり、分科会全体としては意見が多様化した。
一、問題提起
「実践ワークショップ‐図上防災訓練‐を実施し、災害を理解する・地域、街を探求する・防災・滅災意識を掘り起こす」を端緒として問題点を捕捉し「立正安国を目指す布教の実践とは」何かという社会への対応の可能性を考えるなかで、寺院と危機管理(防災・滅災)の関係を模索する。「我々自身が被災した時、的確な判断をして行動できるのか」という現実的な問い、池上本門寺周辺の地図上での実践ワークショップとして図上防災訓練を実施し、各自、災害を理解し、防災意識を掘り起こす作業とする。そのなかで地震災害のイメージを形成をしてもらったうえで、社会への対応、殊に宗教的取り組み(宗教者としての対応)を考える、というように展開される事を目標としていた。「 」内は問題提起文の抜粋
参加者は災害経験者と非経験者、災害実務習得者と初心者が混在するが、一緒になって互いの知恵・経験を出し合い議論する中で問題点を探り、各々の考え方の違いや、地域の特性を理解し、地域の中での役割を考えていく主旨が確認された。住職、一教師さらには一住民として想定される自然災害における対応から教団単位の話、「立正安国を目指す布教の実践とは」という命題まで辿り着く必要があるのだが、寺院と危機管理(防災・滅災)という事に対して、具体的な諸対策の報告、問題点の分析、発展的な展開が得られれば、と考えた。しかし、単に物質的な備えや、境内建物の耐震補強といった危機対策だけに議論が集中しないようにと分散会座長からの指針により討議を開始することとした。
二、基調講演との連続性
基調講演Ⅰで示された立正安国の精神と日蓮宗教師の課題─現代における社会問題に対する、教師としてのかかわり方の基本と実践─また─現代の宗門組織による可能性と問題点─に関しては現実的問題に対する教師としてかかわり方を模索する点、宗門組織としての問題点は話題として露呈するであろうが、宗教家の役割等の話題や、基調講演Ⅱ教化学体系、教化学応用論としての社会活動への参加のあり方を考察する契機とは成り得るものの、教化学原論・理論まで掘下げた議論へと連絡がとれたのだろうか疑問は残る。基調講演Ⅱとの連絡までは難しかったかもしれないが、基調講演Ⅰとは問題の具体性から、布教実践にどう結びつけていくかが主題となるべきだが、テクニック的な話題が多すぎたと思われる。基調講演・会議開催のテーマにまで踏込んだ発言が時間の制約もあろうが少なかったのも事実である。
三、図上訓練
状況付与1……東京湾北部地震「南関東地震」発生 M7・3
状況付与2……参加者は、会議出席のため池上・宗務院に居合せている
のもと東京都、大田区、池上地域がどうような状況となってしまうのかを地図上で訓練し非日常(災害時)を模擬体験する。
四、分科会討議
図上訓練実施後の感想を述べてもらい、災害時のイメージ形成を共通のものとして確認する作業とした。そのなかでの共通していたものは次のものである。
・防災意識の欠如
漠然と宗務院周辺は安全だろう・普段自分だけは大丈夫と思いが働いている
いざ災害が起きてからでは何も行動できなくなるだろう
図上訓練による被害想定が自分の問題として捉えられたことににより防災意識が増した
さらに2つの分散会形式で討議を行った。分散会共通の設問として三つを事前に用意した。
① 現在「防災・滅災」をテーマに取り組んでいること
② 今後取り組みが必要であると思われる諸問題
③ 宗教的取り組み(宗教者としての対応)として
分散会二日目の冒頭に問題提起者より、補足説明として「宗教と災害」という観点から日蓮聖人ご自身が罹災者としての体験による宗教的な自覚、さらに災害発生の原因究明に力を注いだ事実を踏まえ、現代我々がどう取組んでいくべきか念頭にいれて議論をしていただきたい旨の説明がされた。
①については個人として取り組み、寺院住職として、また社会に対する事項に分類してみたが、
個人的………自身が被災した際の水・食料の確保また用意していても賞味期限等の管理の問題がある
寺院住職……境内建物の耐震補強、墓石の補強促進、プレハブの災害用物資倉庫を建てる
対社会………民生委員の立場で災害時に独居老人への対応を考えるものの個人情報保護から把握できないというジレンマを抱えている
等各々の立場で準備していること、必然性は感じながらも実際に行動していないことなどの問題点は多く出された。
②については被災した立場としては非常用持出し袋等の準備、寺院(教師)の防災意識を向上させる研修等、救援をする立場となっては個人で行動することの難しさ、果たして何が出来るのという疑問から、組織的に活動することの必要性、ネットワークの構築、が挙げられた。
・宗内に災害対策本部・支部が組織として立ち上げられているが、実際の機能はどうなのか
③について参加者発言から抜粋すると
・物質的備えも当然必要であるが、我々は個人と住職(教師)としての立場の両方を踏まえなければならない
・自分自身が被災した立場で果たして何が出来るのか
・困難にどう立ち向かえば良いのか常々考えていなければ、いざという時にとんでもない世間の目にさらされる事になるのではないか
・まずは宗教者としてではなく個人として助けに入り共に手助けをしていくなかで宗教者としての対応する部分と気づかぬうちに宗教者としての対応していることが後になって見えてくるのではないか。
・一人の人間として動き方向性を示してくれるのが御遺文であり法華経であるから、日常の生活のなかで育まれた環境をつくることが肝要である
ほとんどの教師が宗教者としての対応が必要であるとの認識のうえでの発言かと思われるが、他人事ではなく自分自身がどう行動したらよいのか真摯に取組もうという表れだと考えられる。しかし宗教者以前に一人と人間として行動が如何であるかといった問題が参加者の多くが考えたことであろう。本分科会が具体性を持ち過ぎていたからかも知れないが宗教者としての対応についての言及は多くなかったと言わざるを得ない。
参加者の発言に「災害発生時、人々が苦しんでいる時に何もしないのは宗教者ではない」旨のものがあったが、対極的な考え方もあろうかと思われるし、何をするのか、何ができるのかが問題となるべきである。実践は理論を凌駕するというが、宗教者としての対応となれば話は別で、そこにもどかしさを感じている者も少なくない。教学の「現代版」、「マニュアル」を求める声がでてくるのは、教学をもって現代社会の間題に対応することが重要だと考え、具体的な方策を講じ、布教教化へ邁進することへの切望からだろう。多くの教師は普遍的、公理的な教学を持ちながら、ともすれば対岸の火事のごとくに捉えている教師もいるというなかで、実際にどう対応すればよいのか応用することができないだろうという悲観的な空気もあったのも事実である。
最後にこれからの我々の課題について論じたい。大規模災害発生時において本宗教師がとる行動はあくまで個人的なまた共通した考えを持つ人間の集団が独自の理念によって動いてきたのが実情かと思われる。もしどこかで災害が起こった場合、物質・金銭的な救援活動は行政・企業その他団体により繰り広げられるであろうが、被災者が受けた心の傷を癒すための支援は長期的に必要である筈である。非日常のなかにいる人々に対して宗教が果たす役割は何なのか議論の余地があるように思われる。宗門全体として活動しなければならないとすると災害救援実施における現場に対応した教義を基本として持ち、実践につなげていく必要がある。社会問題に対する日蓮宗教師としての対応としては当然であろう。教学と現代社会をつなぐ多角的かつ具現性を持ち合わせた教化学を樹立する必要性が迫られている。
第五分科会
ITと教化
〜インターネットの活用〜
座 長 中村龍央
記 録 岩本泰寛 鈴木大道
運 営 遠藤了暉 成田東吾
IT機器の利用は近年とくに急増しているが、その機器の性能や使用のあり方、ソフトに対する習熟度は個々様々である。そこである程度パソコンを使用し、ソフトの使い方を理解している方に参加していただくためにノートパソコンの持参を分科会への参加条件とし、十一名の参加があった。また、個々様々であることから、「PC利用頻度」「主な接続形態」「今回参加した動機」の三点のアンケートをとってニーズをはかった。さらに当日はインターネットの閲覧に支障がないように、パソコンがネットワークに繋がるよう、環境を整えた。
一、問題提起
「ITと教化〜インターネットの活用〜」
携帯電話・インターネット・LAN・ネットワーク・プログラミング・パソコン・モバイル、どれもIT用語事典で用語の大分類に掲載されている言葉である。そもそもITとは「lnformation Technology」の略で「情報通信技術」と訳されているが、ここでは「コンピュータとネットワーク(特にインターネット)に関連する技術」として捉えておきたい。
さて、我々に身近になったIT機器としてパソコンがあり、パソコンはインターネットでの検索や閲覧、メール、文書の作成・印刷、住所録や経費の管理、ホームページの作成、あるいはテレビやDVDや本を見たり、音楽を聴いたり等様々な活用がなされている。
今回のテーマ「ITと教化」は大変大きなテーマであり、分科会において全ての内容をカバーするという訳ではなく、その一面として、インターネットを利用した教化活動(ホームページ)を中心として、ITに関する理解を深め、教化活動のツールとして如何にITを活用していくか、を考える分科会を意図した。
ホームページを取り上げたのは、ホームページ作成には、どのプロバイダを使用するか、どのような内容にするか、文書や写真の用意、ホームページのデザインなど、ITに関する多くの知識と技術が必要となる。このためそれぞれの要素を的確で、効率的に処理する為の工夫が必要となるので、総合的にITへの理解を深めることが可能と思われるからである。またホームページには、 広報・連絡・交流といった機能があり、教化活動を行う上で必要な機能を有するからでもある。
二、分科会討議
はじめに、司会者よりホームページの基本的な機能の解説と日蓮宗ポータルサイト・現宗研・浄土宗・浄土真宗等のホームページが紹介された。浄土宗では、特別に教師専用のIDとパスワードを発行してもらい、浄土宗の教師しかアクセスできないページの閲覧を許可して戴いた。ここでは、宗制の閲覧や提出書類の雛形がダウンロードできたり、様々な問題をQ&Aにまとめられていたり、教師にとって必要な情報が漏れなく掲載されていて、利便性の高いホームページであることが理解できた。
ついで、「PC利用頻度」「主な接続形態」「今回参加した動機」のアンケートを元に、自己紹介をしてもらった。その結果、大方の人がホームページの運営に興味があるようだったので、司会者が中心となって、個々人の興味に沿った内容を討議した。それらを分類整理すると次の通りである。
一、ホームページにかかる費用
ホームページ作成には、無料で作成できる所と、有料の所がある。無料の場合は、ほとんどが会員登録をして作成する。有料の場合は、ホームページのディスクスペースを貸し出すサーバー会社との契約を結ぶ必要があり、費用は年間数千円から月額数万円以上と大きく異なり、その差はディスクスペースの容量やサービスのあり方による。参加者の使用しているホームページは、無料、月額2万程度、月1万〜2万程度で業者委託等であった。
二、ホームページの設計
ホームページを作るためには、どんなホームページを作るか、その構成を設計しておく必要がある。この点を明確にしておくことにより、方向性が持てるので作業がスムーズに進む。
まず、内容を考える。個々の寺院のホームページの場合、「寺院の由来・境内の案内・行事案内・特別な活動の紹介・法話・悩みごとの相談」等のページを設けている所が多数見うけられる。
次にそれらの内容をどのように配置するか構成を考える。具体的にはトップページから各ページへどのようにリンクさせるか、ということになる。
構成が決まれば各ページのレイアウトやデザインを考える。
具体的な作業はテキストエディタやワープロでも行えるし、専用のソフトを使用したり、プロバイダで用意されているレイアウトに写真やテキストを挿入するだけで作成できる所もある。さらに業者に委託して作成することも可能である。
ホームページの作成は、どのような目的で作成するかによって、デザインもおのずと異なる。現宗研のホームページは、簡素なデザインで構成している。それは様々な調査研究の成果をパソコンだけではなく、携帯のような非力な機器でも容易に表示できるようにしているためである。
三、ホームページの公開と更新
ホームページの閲覧は、一般にホームページの内容をサーバーに送信すれば、その時点で閲覧できるようになる。しかし検索サイト(「Google」「Yahoo! JAPAN」「goo」「インフォシーク」等)から公開したホームページを検索できるようになるまでには多少の時間(三〇〜六〇日)がかかる。検索サイトでホームページを検索できる仕組みには「ウェブページに関する情報を自動的に収集するクローラーと検索エンジンを使う「ロボット型」と、人手でインデックスを作成するディレクトリ型があり(Weblio 辞書 http://www.weblio.jp/content/検索サイト より引用)」、それらによって蒐集されたデータが分析されて登録されるまでに時間を要するためである。
一般に検索サイトで検索された時に閲覧されるホームページは上位十件ほどといわれている。
寺院のホームページを寺院の看板として捉えている場合、必要な情報が公開されていることに意義があり、検索サイトで上位である必要はない。
しかしそれ以上に寺院の活性化に役立て檀信徒を増やしたい、あるいは未信徒に情報発信し交流を深めたいという場合には、検索サイトで上位になるような工夫(SEO対策)が必要となる。また沢山の訪問者をひきつけるためには、多くの情報量と更新頻度を高めることが求められる。
多くの情報量を提示するには様々なデータを電子化しておくことが望ましい。書籍やパンフレット等の紙媒体であれば、スキャナによって画像として読み取り、パターン認識などを行うことによって文字として識別し、文字(テキスト)データに変換(OCR化)することが可能である。テキストデータのファイルは容易にグローバル検索ができるので、多くの情報から任意の情報を摘出でき、学習や情報の確認に便利である。OCR化のリーズナブルな機器としては「スキャンスナップ」、現宗研の所報を一日に十冊以上処理できる機器としてはゼロックスのDocuCentre-IIシリーズなどがあげられる。
また講演や法話の映像や録音などもそれらの媒体をパソコンに接続できる環境が整っていれば電子化が可能である。その際、音声であればmp3ファイル、映像であればwmvファイルなどの汎用性が高いファイルに変換したものを掲載することが望ましい。
更新を頻繁に行うには多くの時間を費やさねばならず、その場合は経済的に許せるのであれば業者に委託することも検討に値する。
四、ホームページへの反応
ホームページを公開したからといって即座に反応があるわけではない。あるホームページでは掲載した内容にクレームの問い合わせメールが沢山きたためにその記事を削除したことがあるらしいが、滅多にないことである。現宗研のホームページでは一日平均五千件ほどのアクセスがあるが、問い合わせに所員が忙殺されたことは一度もない。
メールアドレスを公開している場合、不要なメールが来ることがある。そのような時は、相手に「メールアドレス・名前・ふりがな・性別・電話番号・郵便番号・住所」等の記載をしてもらい、記載が無い場合は送信できないようにすることによって、不要なメールが来なくなったケースがある。もしホームページに掲載したメールアドレスに頻繁に迷惑メールが来るようであれば、メールアドレスを変更し、このような対策を立てるとよい。
また匿名でのメール相談受付は、相手にすれば相談しやすいと思われるが、受ける方では実名で所在地も明らかにしているため重い責任を担うことになる。このため個々人で行うにはリスクが高くつくことが予想されるが、団体で対応するのであれば社会的ニーズがあるものと考えられるので必要ではないだろうか。
ある教化センターでホームページを公開したことにより、新規に檀家が増えたケースもある。逆にクレームをつけに人が訪れた、というケースは今のところ聞いたことがない。しかしながら、誰でも閲覧できることを念頭におき、ホームページの内容は細心の注意を払って掲載すべきものであるとことは論を待たない。
五、まとめにかえて
ホームページを公開したからといって教化になるか、と問われれば答えは否であろう。しかしながら多くの人へ情報を発信出来るツールであることには違いない。
ITは情報技術なので、情報を如何に教化に役立てるかが大前提になる。たとえば法話のネタが尽きるときがある。その際、ネタの元となる情報が必要となる。それを如何にもっておくかが大切になる。ホームページの更新においても同様である。つまり如何に多くの有益な電子化された情報もっているか、ということの方が大切となる。
パソコンが普及する前は寺報を書いて配布、あるいは葉書や手紙を発送して知らせる以外の方法がなかった。ホームページやメールもそれと変わらない。ただ単にツールである。
現宗研田澤元泰所長による基調講演は、教化学の体系化をしようといった時に、情報を集めて、共有して出来るようにしようという内容だった。その時に重要になるのがITであろう思われる。
なお寺院名簿や各種申請書の雛形、年間に多数配布される出版物の電子化されたものを各教師がダウンロードできるようになることを希望する。
(註1)検索サイトヤフーで日蓮宗寺院を検索した所、三百件以上の寺院が見受けられた。業者委託で制作していると思われる所、自身で制作していると思われる所など様々であった。またブログを掲載している所もある。
これらのホームページの内容を詳細に分析したわけではないが、主に掲載されている内容を示した。日蓮宗寺院を検索したデータは、現宗研のホームページに掲載しておくので参照して戴きたい。
(註2)巨大動画サイトYouTubeでは「お勧めのフォーマットは、640×480の解像度でMP3オーディオを使用するMPEG4 (Divx、Xvid、SVQ3)です。アップロードする前に動画をこれに合わせてサイズ変更しておくと、YouTube で再生した時にきれいに見えます。」と記載されている。
(註3)ここでは、成功したリクエスト件数(サーバにあるデータ(HTMLファイルや画像ファイルなど)にアクセスしたユーザーが、正常にデータを読み込むことができた件数))を標記した。サーバにアクセスしてくるロボットの数はこの半数を超えていると考えられる。なお「リクエストしてきたホスト(ファイルを要求するコンピュータ)の数」をみると 42日間の集計で一五、二八九件あり、ロボットの数を引いたとしても、少なくとも42日間に1万人以上の人からのアクセスがあるものと考えられる。
第六分科会
裁判員制度を考える
座 長 岩田親靜
問題提起 長谷川正浩
助 言 者 伊藤如顕
記 録 松田英秀
運 営 坂輪宣政 原一彰 馬渡竜彦 野村環右 伊藤美妙
一、問題提起
平成十六年五月二十一日、小泉内閣時に成立し、本年(平成二十一年)五月二十一日より施行、八月三日に最初の公判が行われた裁判員制度について、日蓮宗顧問弁護士である長谷川正浩師に問題提起者となって頂いた。
長谷川師より、当該制度について概略の説明、僧侶としてどう本制度に臨むべきかの心構えについてのアドバイス、八月の公判を終えての感想を伺い、これから我々が僧侶としていかに関わっていくのかを討議した。
二、分科会討議
長谷川師の問題提起受け、参加者より感想・意見が寄せられたので、左記に列記する。
賛成意見
・司法への市民参加は良いと思う。
・司法への市民参加はこれから必要な文化。改正しながら育てて行きたい。
・国民が関心を持つのは良い。制度として意義はある。
・初めは反対だったが、集団レイプ事件の判決を見て、一般人の感性が反映されることも必要と考えた。
・制度の導入により、国民が死刑について深く考える機会が増えたのは良い。
・司法が国民からチェックされるのは良い。
・制度は修正の上存続すべき。
・池田小の事件では、個人的には被害者感情に立って死刑。僧侶としてはどうなのか?
・池田小、光市の事件では個人的には死刑と考えたが、最近、僧侶として考え直した。
・量刑部分についてははずしてプロに任せるべき。
・国民が関心を持ち、色々と意見を言える点に意義がある。犯罪抑止の効果もあるのでは。しかし、個人としては参加したくない。
反対意見
・量刑の判断ははずした方が良いのではないか。
・事実認定が大変難しい。制度には絶対反対。元に戻してほしい。
・模擬裁判に参加し、死刑判決を出したが、全員、後味が悪かった。
・個人としては関わりたくない。外科手術と同様、プロに任せたい。
・裁判はプロに任せるべき。制度には反対。死刑等の量刑の判断は一般人には難しい。
・被害者の立場に立って感情に左右されてしまうと思う。正しく判断する自信がない。
・裁判内容の守秘義務、裁判官個人のプライバシーの確保、被告からの逆恨み等々、裁判員になることへの懸念や精神的負担が大きいのではないか。
・制度に反対。判決が死刑になれば、反対した人も心に傷を負う。
・制度は個人には重たい問題。法務大臣も個人の信条で、大勢死刑を執行させる人と、判を全く押さない人がいる。
その他の意見
・裁判員制度について考えたことはなかった。宗教者としての価値観が必要だと思った。この問題を通して自分と教団の価値観を作りたい。
・この問題について檀信徒とも話はするが実態はわかっていない。檀信徒には被害者感情を重視する人もいる。この点につき先生の話を詳しく聞きたい。
・この問題につきメディアからの情報が飛び交っている。レジュメにある裁判員制度への疑問、批判といったものが一般の人の考え方ではないか。裁判員に選ばれたら嫌だ、という程度の話しかでない。
・死刑があるので、宗教者として辞退できるのかどうか知りたかった。
・死刑制度に最も関心がある。宗教者として、犯罪の内容に関わらず死刑反対と言って良いのか。
・宗教的理由では辞退できないというが、裁判所はどのように判断するのか。
・我々は宗教者、僧侶として裁判員に選ばれるのか?
・カソリックや大谷派等では教団としての見解を出しているが、本宗はどうするのか?
等々の意見を受け、長谷川師より以下の補足説明がなされた。
・量刑をを決める上で、被害者感情は、今まで低い位置付けにあったが、この十年くらいは被害者の権利が強くなり、刑が重くなる傾向にある。
・裁判員は、量刑についても、個々の価値観を表明すれば良い。
・裁判員の選任は無作為であり、僧侶として選ばれるわけではない。「一般の国民」という人はいない。だから国民の立場を忖度するということを考える必要はない。一人一人の具体的な個人が、自分自身の意見を言えばよい。その結果、国民全般の広い常識が裁判に反映されることになる。
・僧侶として、日蓮聖人のお言葉を現代にあてはめて使ったとしても、意見はあくまで個人の責任。聖人の責任にはできない。
・制度が違憲だから拒否する、というのは今後の問題。
・制度には参加し、僧侶として意見を言うべき。本宗の教義を現在の状況に当てはめて考えるべき。
・死刑反対であれば、参加して裁判官や他の裁判員を説得すべき。
・カソリックは拒否するようにしている。釈尊は裁判に関わることは禁じていない。聖人は領家の尼に見られるように裁判に関わっている。
・死刑制度については反対。どんな悪人にも佛心がある(十界互具)。死刑は佛を殺すことになる。
・被害者感情で、「殺せ」、「重罰にせよ」というのは、十界のどの部分が言わせているのか見極める必要がある。被害者感情に基づいて量刑を高めるべきではない。
・ドイツ、フランスではキリスト教の教義に基づき、宗教者は裁判から除外している。
・大谷派は死刑反対を表明。
・他教団は裁判員制度について感心は高く研究してはいるが、教団としての意思を表明していない。
・神祇令には「刑殺を判わらず」との由であるが、「神社新報」の論説では、裁判員制度には参加すべしと表明。
・日蓮宗としての統一見解は、存在感を示す為にもすべき。ただし、議論を積重ねて、教師の足腰を強くしてから。過去の教えを現在に合わせて位置づけし、現在の教義を示す必要がある。
これを受け、座長より①僧侶として制度にどのように向き合うのか。②檀信徒への対応。③宗門として見解を出すのか。について、意見を求めた。
①僧侶として制度にどのように向き合うのか
賛成意見
・積極的に参加すべき。裁判官も弁護士もプロだからといって一〇〇%信頼できない。参加の機会は好ましい。
・仏教者なのか、地涌の菩薩なのか、一般人の立場なのか、立場によるが、参加することは立正安国につながる。
・僧侶としては、アフタケアについてもやるべきことがある。
・僧侶本人の自覚が試される時代である。制度への参加は、チャンスとして積極的に活かすべき。
・裁判員の意見をまとめて被告に諭す点は、宗教者として参加する意味がある。
・司法に対し国民の意見が出せる場として重要。司法に対する国民のチェックの機会はもっと必要。最高裁判官の国民審査も、各裁判官の過去の裁判事例や個人の考えなどを出してほしい。
・宗教者として裁判員に選ばれるわけではないが、選ばれれば命を優先する考え方で意見を貫きたい。
・裁判員の議論の過程で、宗教人として関わり、死刑に反対する機会は大切にしたい。
・死刑には反対。死刑反対論者が裁判員を拒否すれば、賛成の人だけが参加することになり議論が偏る。参加して反対したい。
・制度については、課金を払ってでも辞退すべきと思っていたが、長谷川先生の話を聞き、宗教者として参加し、意見を言おうと思った。檀信徒にも、罰を与えるのではなく懺悔をさせる立場で参加するようアドバイスできる。
・最高裁判所の裁判官の国民審査など、司法に国民の判断が反映される機会は限られている。せっかくできた制度なので、参加しやすく、意見を反映させやすい形に発展させたい。
反対意見
・入り口の事実認定ですら素人には難しい。まして量刑についてはなおさらだろう。
・たとえ反対しても、最終的には多数決によって死刑まで決められてしまうので、制度への参加は難しい。
・江東区のバラバラ殺人事件は無期だったが、遺族の感情には応えられていない。
・制度そのものが自分の中で浸透していない。分からない点が多い。疑問が多いが、始まった以上参加せざるを得ないが、積極的には参加したくない。
・多数決で、死刑反対など個人の意見が消えてしまう。宗教者として、現状では参加したくない。
・江戸時代は僧侶は裁判に関わらず、村の掟で裁かれ、僧侶はケアに携わった。
・制度について自分の考えが定まっていないので反対。参加したくない。
・僧侶は、死刑と脳死に関わることに触れるべきではない。制度については、関心を持って改正を求めるのは良いが、参加すべきではない。
その他の意見
・現在の制度は運営上、矛盾や無理があり、難しい。制度をより良い方向に持っていくべき。良い制度になれば僧侶として寄与できる部分もある。
・容易に辞退しやすい制度にしてほしい。強制は疑問。
・宗門人としては死刑には賛成ではないが、光市母子殺人や幼女殺人を見ると感情的に受け入れられない。個人としては死刑は必要だと思う。
・個人としては仇討ち的発想で死刑賛成であったが、現在は、僧侶としての覚悟を決め、たとえ家族が殺されても死刑を求めるべきではないと決心している。
・死刑に反対する僧侶の立場と、個人の気持ちにギャップがある。気持ちのケアが必要。自分の内心が異なれば、人を説得することはできない。
また、座長から、国民の立場から司法をチェックすることが、「立正」につながるのではないか。との問いかけに対しては、
・「立正」をどうとらえるか、宗門として定まっていない。通仏教なのか、法華経なのか、迹門なのか、本門なのか、題目なのか。立場によって異なる。どこまで真剣に関わるのか。自分は本門の立場で関わりたい。
②檀信徒への対応
・檀信徒からの相談はあるだろう。受ける心構えは必要。
・家族を殺された檀信徒に対しては、被告の命も大切と諭す立場にあるが、自分個人が家族を殺されたら犯人を殺したい、と考えるだろう。
③宗門として見解を出すのか
・制度に対する宗門の考えを早く示してほしい。宗会など、上の方から考えを決めてほしい。
・宗門の見解とは、本来我々が下から議論して決められていくべきもの。中央教研もその場の一つ。受身の立場は問題ではないか。
・制度に対する宗門の立場が先に出れば個人の答えも出せる。
・宗門は対外的にアピールすべき。
・宗門として裁判員のケアに取り組んでほしい。
・宗門として何か見解を出しても従うわけではない。自分の中で消化して、自分の中で決めるべき。
・宗門としての見解は、各自の信条と異なる場合もあるので危険ではないか。僧侶は様々な人々の意見を聞ける立場にあるので、制度の改正点について意見を集約してアピールしてはどうか。
・現行制度であれば、宗門として廃止のアピールをすべき。現在はマスコミも好意的だが、これから矛盾点が多く出てくるだろう。
・宗門には廃止ではなく改正のアピールをしてほしい。死刑がある以上、量刑には関わりたくない。
・宗門内での議論が現状では不十分。まだ宗門として対外的にアピールできる段階ではない。
・宗門として、関わった人へのケアは必要だが見解は不要。
その他
・制度についての情報が国民に広く伝えられていない。今回、もっと詳しく説明が聞けると思っていたが、不十分なまま意見を求められている。情報が乏しい中で意見は出せない。
・現状で選ばれれば右往左往するだろう。模擬裁判や判例など、生の情報をキャッチし、勉強して判断力を高めたい。
・死刑賛成の人は再犯を心配している。刑務所内での更生教育に問題がないのか、など、裁判員制度以前に検討すべき点もある。
・再犯率は高い。保護司をしているが、受刑者の出所後の受け入れ先がない点が問題。再犯につながる。
・裁判員制度に関わる檀信徒のケアが重要だが、それ以前に僧侶のケアが急がれる。僧侶の間でこの問題に関する温度差がありすぎる。模擬裁判等、真剣に考える機会を宗門が用意し、僧侶の資質を向上する必要がある。
長谷川師から、教学の現代化についての提起については、
・教学を現代化しようとしても確たるものはできないと思うが、教学をバックボーンとして、社会に働きかけることは必要。
・時代に関係なく教義一辺倒という人もいるが、時を考えて社会に働きかけるべき。
・教学の現代化は、現代の人々に共感を与えるため、わかりやすく伝えることは必要。
・日常の教化により、仏種を自覚させ、慈悲の心を持たせることにより、犯罪も減り、寛大な心も生まれる。
三、まとめにかえて
制度に対する賛否両論を提起することはかなわなかったが、参加者に当該制度に臨む前段階としてある程度の示唆を提供できたのではないかと感じた。
しかしながら、制度が実働し始めたばかりなので結論的な取り纏めをする段には到らなかったので、継続的な資料収集が望まれる。
また、どうしても死刑・生命の問題に話題が集中し、制度についての議論が捗らなかった。