ホーム > 刊行物 > 現代宗教研究 > 現代宗教研究第35号 > 法華経と宮沢賢治の『春と修羅』(2)―「イーハトブ」の実相―

刊行物

PDF版をダウンロードする

現代宗教研究第35号 2001年03月 発行

法華経と宮沢賢治の『春と修羅』(2)―「イーハトブ」の実相―

    法華経と宮沢賢治の『春と修羅』(二)
     「イーハトブ」の実相

三原正資   
 (現代宗教研究所嘱託)   

   はじめに
 宮沢賢治の短歌に「青びとのながれ」と名づけられ、修羅の世界を透視したかのような一連の特異な作品がある。
 あヽこはこれいづちの河のけしきぞや人と死びととむれながれたり
 青じろき流れのなかを死人ながれ人々長きうでもて泳げり
 青じろきながれのなかにひとびとはながきかひなをうごかすうごかす
 うしろなるひとは青うでさしのべて前行くもののあしをつかめり
 溺れ行く人のいかりは青黒き霧とながれて人を灼くなり
 あるときは青きうでもてむしりあふ流れのなかの青き亡者ら
 青人のひとりははやく死人のたヾよへるせなをはみつくしたり
 肩せなか喰みつくされししにびとのよみがへり来ていかりなげきし
 青じろく流るヽ川のその岸にうちあげられし死人のむれ
 あたまのみひとをはなれてはぎしりし白きながれをよぎり行くなり
【ちくま文庫宮沢賢治全集 以下文と表記3 二〇二頁】
 これらの短歌が作られたのは大正七年、賢治が二十二歳の時である。大正十一年に『春と修羅』第一集収録作品が書き始められる四年前のことだが、『春と修羅』の作者の眼はすでに異界を見つめている。しかもこのように特異な描写は「中学生の時に始まり、高等農林の学生時代および卒業後の研究生時代に最も旺盛に行われ、やがて大正十年夏に至ってほぼ終息する。満年齢で言えば、十三歳から二十五歳にわたる十二年間」【文3 解説 入沢康夫 七〇九頁】の短歌を制作した期間の初期から見られると言う。
 これより早く『宮澤賢治歌集』【昭和二十一年日本書院刊】の編者森荘已池も、同書の解説で「これら八百余首の作品には、後年の『春と修羅』に見られる心象スケッチと同様に、東北・岩手の壮絶な山河のあらはす自然の相貌と、それによって賢治の心象に映像する奇怪な幻想、また扁奇する青春の心理の表白など、およそ短歌とよばれる一般の概念からは思ひもつかないやうな、独自な思惟と感覚とを盛った作品が、じつにおびただしく含まれている。」【文3解説 七一〇頁】と述べている。
 近年この点に着目した板谷栄城は「私は童話「インドラの網」や童話「銀河鉄道の夜」の舞台となっている異空間は、すべて法華経入信以前の一八歳の時に病床で幻視した、「ことなれる」の短歌とその二つの異稿の「ことなれる天」を原形とするものであって、賢治もアインシュタインやミンコフスキーの名を書いてはいるが、それらはあとから説明用として引き合いに出したものであり、本質的には無関係であると考える。」【『宮沢賢治の、短歌のような』一九九九年日本放送出版協会刊五十一頁】と論じている。
 私は昨年の発表で「心象スケッチは、同時代の新しい思想の影響のもと、根本的には田中智学を通して学んだ日蓮教学の一念三千の思想によって成立したと考える。」【「法華経と宮澤賢治の『春と修羅』」 『現代宗教研究』所収二五一頁 平成十二年日蓮宗現代宗教研究所刊】と述べたが、これらの所論によると、心象スケッチと言われるものの原形は、賢治の短歌作品の中に早くからあることになる。本稿では、森荘已池や板谷栄城のこのような視点を考慮に入れて、賢治の短歌と比較しながら『春と修羅』第二集を読み、法華経との関係を考察する。『春と修羅』の成立と法華経とは、はたしてどのような必然的関係を持っているのであろうか
    一、大正三年の短歌作品と『春と修羅』との関係
 大正三【一九一四】年という年には第一次世界大戦が勃発し、田中智学が国柱会を創立した。略年譜【新潮日本文学アルバム『宮沢賢治』一九八四年新潮社刊】によれば、この年の三月、十八歳の賢治は盛岡中学校を卒業したが、卒業時の成績は八十八人中六十番で芳しくなかった。四月、賢治は盛岡市内の病院に入院、手術を受け、加療を続ける。このとき、同年の看護婦に恋愛感情をいだいた。五月末退院するが、家業への嫌悪や将来の希望のなさから悶々とした日々を送る。秋、島地大等編『漢和対照 妙法蓮華経』を読み、感動する。父から進学許可も出て受験勉強に励むようになった。このように大正三年は第一次世界大戦が始まり、世情は騒然として、賢治自身にも色々の出来事があり、生涯の転機となった年であった。
       1 短歌に見る賢治の心情
 賢治が法華経と出会ったというこの年に制作された百五十首余りの短歌について、『春と修羅』との関係を軸に考察を加えてみよう。【これらの短歌は数行にわたって記されている。一字分空けたのは、改行を示す】

     日常の心情をうたったもの
 この年の第一首で彼は自身の入院、病気療養を詠む。
 検温器の 青びかりの水銀 はてもなくのぼり行くとき 目をつむれり われ 【文3 三四頁】
 次の歌は岩手病院の同年の看護婦への初恋をうたったもの。
 十秒の碧きひかりの去りたれば かなしく われはまた窓に向く 【文3 四〇頁】
 その看護婦は脈を計るために十秒だけ賢治の手をにぎって去ることを読んだものという。余談になるが歌人福島泰樹は「十秒」は、改訂前のように「寸秒」でなければ感動は無いと述べている【『宮沢賢治と東京宇宙』三一頁 一九九六年日本放送出版協会刊】。
 次の歌は父政次郎との確執を詠んだもの。
 粘膜の 赤きぼろきれ のどにぶらさがれり かなしきいさかひを 父とまたする  【文3 四一頁】
 次は学校を出たが進学は許されず、就職もできない賢治の心境をうたったもの。
 職業なきを まことかなしく墓山の 麦の騒ぎを じつと聞きゐたれ 【文3 五〇頁】

     自然をうたったもの
 大半の短歌は自然を詠んだもの。時の経過につれて展開していく周囲の状況を観察して連作するこの方法は『春と修羅』に引き継がれる。
 花さける ねむの林のかはたれを からすの尾ばね?ぎつヽあるけり
 いづくよりか 烏の尾ばね 落ちきたりぬ ねむの林の たそがれを行けば
 いざよひの 月はつめたきくだものの 匂をはなちあらはれにけり
 四時に起きて 支度ができて 発ちたるに はやくすばるもいでてありけり
 黄なるあけがたのダリヤを盗らんとて くもにさびしき かほりを送る
 夜はあけぬ ふりさけ見れば 山山の 白くもに立つでんしんばしら
 清吉が 校長となりし 学校は 朝の黄雲に洗はれてあり 【文3 六四〜六五頁】
 この一連の短歌には「烏」「月」「すばる」「くも」「でんしんばしら」など、『春と修羅』や童話のなかであつかわれる重要なモチーフが、すでに現れている。

     動物をうたったもの
 ほふらるヽ 馬のはなしをしてありぬ 明き五月の病室にして 【文3 四〇頁】
 酒かすの くさるヽにほいを 車ひく 馬かなしげにじつと=cd=61ccぎたり 【文3 四二頁】
 これらの句に見られる、賢治が馬となって、世をを見ているような視点こそが、後の動物を主人公とする童話を生み出していく。

     月や星をうたったもの
 入院中、月をうたった連作には不気味な雰囲気がただよい、後の『春と修羅』の世界を予感させ、異様な不安が読み手に迫ってくる。賢治は『春と修羅』の中でも月をモチーフとしているが、月は大きな目をもって口をゆがめながら彼に語りかける生き物である。
 われひとり ねむられずねむられず まよなかの窓にかヽるは 焦げの月
 ゆがみひがみ 窓にかかれる こげの月 われひとりねむらず げにものがなし
 われ疾みて かく見るならず 弦月よ げに恐ろしきながけしきかな
 星もなく 赤き弦月たヾひとり 窓を落ち行くはたヾごとにあらず
 ちばしれる ゆみはりの月 わが窓に まよなかきたりて口をゆがむる
 月は夜の 梢に落ちて見えざれど その悪相はなほわれにあり
 鳥さへも いまは啼かねば ちばしれる かの一つ目はそらをさりしか 【文3 三七〜三八頁】
 次に星をうたったもの。
 げに馬鹿の うぐひすならずや 蠍座に いのりさへするいまごろなくは 【文3 五三頁】
 南天の 蠍よもしなれ 魔ものならば のちに血はとれまづ力欲し 【文3 五五頁】
 さそり座よ むかしはさこそいのりしが ふたヽびここにきらめかんとは 【文3 八二頁】
 蠍座は『銀河鉄道の夜』に描かれ、印象的。『春と修羅』にもしばしば登場する。蠍座に祈る賢治の姿がかいまみえる。

     神霊や妖怪をうたったもの
 次の歌には、彼を高熱から救った神霊への感謝の情がただよう。賢治は『春と修羅』でもこのような異界の神霊をしばしば描く。
 白樺の老樹の上に眉白きおきな住みつヽ熱しりぞきぬ 【文3 三五頁】
 次の歌は何を描写したものか。自己の心情を比喩あるいは象徴に託して描いたのでなく、賢治の場合は見たままを詠んでいる。このナメクジはなにか。
 入相の町のうしろを巨なる 銀のなめくじ過ぐることあり 【文3 七〇頁】
 たそがれの町のせなかをなめくじの銀の足がかつて這ひしことあり 【文3 七二頁】

     異界【超常体験】をうたったもの
 わがあたま ときどきわれに ことなれる つめたき天を見しむることあり 【文3 四七頁】
 これは板谷栄城が前掲『宮沢賢治、短歌のような』に引用して論じた短歌。近年、研究されるようになった臨死体験の折りにしばしば報告される体外離脱現象などの超常体験と似ている。次の二首は賢治の超常体験の報告書である。
 なつかしき 地球はいづこ いまははや ふせど仰げどありかもわかず
 そらに居て みどりのほのほかなしむと 地球のひとのしるやしらずや 【文3 五二〜五三頁】
 板谷栄城はこの短歌について「まるで故障して炎上中の宇宙衛星の乗組員の心境のような短歌であるから、「賢治のSF的なすばらしい発想だ」などと思うかもしれないが、賢治の場合は頭を使って思いついたり、苦心してひねり出したりしたアイデアではなく、実際に「みどりのほのほ」を幻想風景としてしばしば見ていたのである。」【前掲書五三頁】と述べる。賢治は彼のあるがままの体験を述べたのだが、読む人を困惑させたことは、連作「青びとのながれ」や後の心象スケッチ『春と修羅』収録の一部作品と同様であった。
      2 短歌と法華経との関係
 このように大正三年にうたわれた賢治の短歌を読んで気づくことは、いかなる年譜にも「秋、島地大等編『漢和対照 妙法蓮華経』を読みはげしく感動。」と記されてはいるものの、彼が法華経と出会った感動についてはふれていないことだ。このことに関して『宮沢賢治』の著者佐藤隆房も「賢治さんがまとめた短歌の総数は九百十四首でございますが、その大部分はこの時期に作られたものでございまして、そのうち特に仏教に深い関係のあると思われますものは余り多くみられません」【昭和十七年第一版昭和五十年第六版 冨山房刊 三二三頁】と語っている。これは一体どうしたことだろう。その理由を知るために、大正三年以降、彼が宗教【人】について詠んだ短歌を調べてみよう。
 大正四年
 逞しき麻のころもの僧来り 老師の文をわたしたりけり 【文3 七八頁】
 本堂の 高座に島地大等の ひとみに映る 黄なる薄明 【文3 七九頁】
 大正五年
 プジェー師よ いざさわやかに鐘うちて 春のあしたを 寂めまさずや 【文3 八六頁】
 プジェー師や さては浸礼教会の タッピング師に 絵など送らん 【文3 八七頁】
 いまはいざ 僧堂に入らん あかつきの、般若心経、夜の普門品 【文3 九七頁】
 風は樹を ゆすりて云ひぬ 「波羅羯諦」 あかいはみだれしけしのひとむら 【文3 九八頁】
 本堂に流れて入れる外光を多田先生はまぶしみ給ふ 【文3 一〇〇頁】
 そら青く 観音は織る ひかりのあや ひとには ちさき まひるのそねみ 【文3 一〇二頁】
 雪降れば 今さはみだれしくろひのき 菩薩のさまに枝垂れて立つ 【文3 一三三頁】
 はてしらぬ世界にけしのたねほども菩薩身をすてたまはざるなし 【文3 一三五頁】
 大正八年
 あはれ見よ青ぞら深く刻まれし大曼荼羅のしろきかヾやき
 須弥山の瑠璃のみそらに刻まれし大曼荼羅を仰ぐこの国
 はらからよいざもろともにかヾやきの大曼荼羅を須弥に刻まん 【文3 二二四頁】
 この他には、大正七年三月の成瀬金太郎あて葉書に「君を送り君を祈るの歌」として六首詠んでいる。次はその中の四首。
 あヽ海とそらとの碧のたヾなかに燃え給ふべし赤き経巻
 このみのりひろめん為にきみは今日とほき小島にわたりゆくなり
 あヽひととわれらとともにまことなるひかりを地にもむかへまつらん
 ねがはくは一天四海もろともにこの妙法に帰しまつらなん 【文9 七二頁】
 大正七年といえば、同年二月二日の父政次郎あての書簡【文9 六一頁】で、すでに熱い法華経信仰を語っている。この大正七年、八年の短歌に大正九年の国柱会入会に至る賢治の法華経信仰があらわれているのは当然である。
 では、法華経と出会った大正三年秋から大正六年頃までの賢治の信仰生活における法華経の位置はどういうものであったのだろうか。
 「略年譜」【前掲新潮日本文学アルバム『宮沢賢治』】によると賢治は明治三十九【一九〇六】年、十歳の夏、大沢温泉で開かれた父政次郎及び有志運営の夏期仏教講習会に参加している。講師は暁烏敏であった。翌年の講師は短歌「本堂に」にも名前の出てくる多田鼎であった。明治四十四年の講習会では島地大等の講話を聞いている。さらに大正四年八月には盛岡願教寺で住職島地大等の歎異抄法話を一週間聞いている。短歌「本堂の」はこの時のものであろう。三師はともに当時の浄土真宗の高名な僧侶であった。賢治は明治四十五年、十六歳のとき、父政次郎に「小生はすでに道を得候。歎異抄の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」【文9 二四頁】と手紙に書いている。賢治は幼少年期より、浄土真宗を基盤とした恵まれた宗教的環境の中で育ったといえよう。
 宮沢家とその信仰的環境の特色が次のように述べられている。
「政次郎は、商人として勤勉かつ積極的に家業に励む人だったばかりではなく、とりわけ宗教思想・信仰に於いてもつねに研鑽につとめる求道者でもあった。およそ、宮沢一族の始祖とされる藤井将監【一六九六没】が京都から花巻へ移ってきたとき、すでに開基以来三百年を経た由緒有る安浄寺の熱心な檀徒となって以来、浄土真宗の思想と信仰はすでに二百余年の間宮沢家を深々と浸していたのだが、宮沢政次郎はたんにそうした父祖以来の宗旨を受動的に守るのではなく、すでに若年から同信の有志を語らって研修会を組織し、夏期には講師を招いて合同講習会を開く熱心さであった。招かれた講師には、近角常観、多田鼎、暁烏敏らの名がある。この多田、暁烏は近代仏教の先覚者清沢満之門下の三羽烏に数えられた高弟であり、その活動に魅せられた高橋勘太郎は政次郎の法友として後に賢治をして『漢和対照 妙法蓮華経』に触れさせる重要なきっかけをもたらした人物である。この清沢門下の研鑽はたんに一仏教・一宗派にとどまらず、キリスト教古典からヘーゲルにまで及んだといわれる。宮沢賢治の宗教的資質と感受性の深さと奥行きの広さ、求心性と遠心性とをかねそなえた志向の遠因はこのあたりにすでに根ざしている。」【前掲新潮社刊『宮沢賢治』「幼少年時代」】
 このような環境に育った賢治は「逞しき」や「いまはいざ」の短歌にみられるようにしばしば参禅し、大正二年九月には曹洞宗報恩寺尾崎文英に指導を受けている。「頭を青々と剃り、丸坊主になる」とあることから、座禅に熱中したことがうかがえる。また「プジェー師よ」の短歌は彼のキリスト教への深い関わりを示し、大正四年には友人を誘って短歌にもその名前がでる盛岡教会のタッピング牧師のバイブル講義を聴きに行っている。
 このように、大正三年秋の法華経との出会いの後も、賢治は仏教各宗やキリスト教の門を訪れていて、法華経の影響は法華経提婆達多品をよんだ「はてしらぬ」の短歌にわずかに示されるだけである。もっとも、この短歌にうたわれる菩薩の捨身供養はのちの童話の主要な主題になっていくことから、かれの法華経観の傾向を示している。
 賢治の法華経との出会いについて「はじめは後輩であり、それから親友となり、逝いて畏友となった、賢治さんの思い出にもと」『宮沢賢治』を著した佐藤隆房は次のように語っている。「中学卒業の秋、賢治さんは家に蔵してあった、盛岡の願教寺の住持でかねて東洋大学の教授島地大等師の著された、「漢和対照妙法蓮華経」という本を見つけ出しました。一読してみて、「なぜか」とか、「どうして」とかいう理屈なぞは一つも考えられず、たヾ身内がゾーッとするくらいの感慨が起り、それこそふるえながら、憑かれたようにむさぼり読んで行きました。」【前掲『宮沢賢治』二四頁】。堀尾青史は『年譜宮沢賢治伝』【一九九一年中公文庫】で「当時出版されて家にあった島地大等編著の『漢和対照妙法蓮華経』【大正三年八月二十八日 東京神田錦町一丁目明治書院発行】を読み、異常な感動を受け、体のふるえを禁じ得なかった。」【六一頁】と述べている。『新宮澤賢治語彙辞典』【一九九九年東京書籍刊】は「一八歳の時、島地大等編の『漢和対照妙法蓮華経』【赤い経巻】を読んで深く感動し、生涯の一大転機となったと言われる。」【六九二頁】と控えめに表現している。それにもかかわらず短歌作品に劇的な法華経との出会いの痕跡がほとんど見られないのは、如何なる理由によるのだろうか。
 略年譜【前掲新潮社刊】によると賢治は大正五年三月修学旅行に行き、東京・京都・奈良の各農事試験場等を見学し、「京都で解散の後、友人数名と伊勢=cd=ba52蒲原=cd=ba52三島=cd=ba52箱根=cd=ba52東京を経て帰郷」【文9 三二頁】しているが、法華経と深い関係にある日蓮聖人の霊蹟のある身延や池上については何事も語っていない。これはこの時点の彼の法華経信仰の性格を物語っているのではなかろうか。
 大正五年四月四日付けの葉書では島地大等との交流について、「【旅行の帰りに】丁度汽車があなたの増田町を通るとき島地大等先生がひょっとうしろの客車から歩いて来られました。仙台の停車場で私は三時間半分睡り又半分泣いてゐました。宅へ帰ってやうやく雪のひかりに平常になったやうです。昨日大等さんのところへ行って来ました。」【文9 三三頁】と友人に書き送っている。この時賢治は「聖道門の修業者には私は余り弱いのです。」【同】と述べているので、島地大等に信仰上の悩みを打ち明けに行ったと思える。
 このようなことから、この時点の賢治の法華経信仰は「島地大等先生」の「赤い経巻」への信仰であり、日蓮聖人とその教学への信仰に入るにはいくらかの躊躇があったと推察できよう。大正九年国柱会入会時の信仰は、まだその姿をあらわしていない。このことは同五年八月の東京旅行の時点でも同じである。友人保阪嘉内に封緘葉書を送りその中に二十首の短歌を書き付けているが有名な「霧雨のニコライ堂の屋根ばかりなつかしきものはまたとあらざり」【文9 三八頁】等の短歌はあっても、法華経信仰に関わる事柄に言及したものはない。これはどうしたことか。
 大正三年に法華経と出会った後、彼の法華経信仰は内面で静かに熟成し、国柱会田中智学に心酔したことから明確にその形を刻み、大正九年の国柱会入会によって一気に噴出したと考えざるを得ない。この場合法華経が果たした役割を次のように理解することができるだろう。すなわち、法華経は彼の鋭い感受性と幼少時より育んできた豊かな宗教的世界を総合する役割を果たしたのだ、と。大正九年の国柱会入会は彼を一気に高みへと飛躍させ、『春と修羅』そして『銀河鉄道の夜』に至る「宮沢賢治」を造型していく溶鉱炉の役割を果たしたのだ、と。あるいは、こうも言えるだろう。彼は自己のスタンディング・ボードを探していた、その時法華経が現れた、と。では、それは具体的にはどのようなものであったのか。 
    二、書簡に見られる「法華経との出会い」について
 『春と修羅』に見られる種々の特色が早くから短歌の中に姿をあらわし、賢治の宗教的情操が彼の恵まれた宗教的環境の中ですでに培われていたとすると、彼の「法華経との出会い」とは一体何を彼にもたらしたのであろうか。ここでは賢治の心の内面を率直に吐露した重要な資料である「書簡」を取りあげて、「法華経との出会い」とは、賢治にとっていかなる思想的経験であったのかをつまびらかにしたい。
      1 「法華経との出会い」とは何か
 賢治の書簡は明治四十三年から亡くなる昭和八年までの約五百通が全集には収められている。賢治の信仰は友人保阪嘉内にあてた書簡に率直に示されている。なかでも大正九年十二月二日付けの書簡【一七七】は、国柱会入会時の彼の熱狂的な信仰のありさまをよく示している。
 今度私は国柱会信行部に入会致しました。即ち最早私の身命は日蓮聖人の御物です。従って今や私は田中智学先生の御命令の中に丈あるのです。謹んで此事を御知らせ致し恭しくあなたの御帰正を祈り奉ります。【以下略】 【文9 二四二頁】
 しかし、私には、初期の父宮沢政次郎あての書簡の方が、より明瞭に賢治の法華経入信の経緯と理由を語っていると思われるので、大正七年、二十二歳の時の二通の政次郎あての書簡を中心に彼の「法華経との出会い」とは一体何であったのかを考えてみたい。
 大正四年盛岡高等農林学校に入学した賢治は大正七年三月卒業、四月から研究生になるという状況にあった。大正七年二月二日付けの書簡【四四】で彼はまず次のように述べる。
 毎度申し上げ候如く実は小生は今後二十年位父上の曾つての御勧めにより静に自分の心をも修習し経典をも広く拝読致し幾分なりとも皆人の又自分の幸福となる様、殊に父上母上又亡祖父様乃至は皆々様の御恩をも報じたしと考へ自らの及びもつかぬ事ながら誠に只今の如何なる時なるか吾等の真実の帰趣の何れなるやをも皆々様と共に知り得る様致したく存知只今の努力は皆之に基き候処小生の信仰浅きためか=cd=21fc々父上等にも相逆らひ誠に情無く存じ居り候。 【文9 六一頁】
 熱心、かつ自由で幅広い浄土真宗の宗教的環境にあったため、賢治は「自分の心をも修習し経典をも広く拝読致し」「吾等の真実の帰趣の何れなるや」を求めるようになったことが、この書簡にうかがえる。この辺の事情を示すエピソードを佐藤隆房は『宮沢賢治』【前掲冨山房刊】の中で紹介している。「家の宗旨などには一向おかまいなしに、賢治さんが法華経に熱心になってしまったので、今度は両親が心配しだし、ある時、高橋勘太郎氏が花巻に来られた時、賢治さんの父親は、「家の賢治は実に熱心な法華経信者になってしまったが、あれはあのままにさせて置いてさしつかえないものでしょうか。」と聞きました。ところが、この高橋氏もやはり真宗の信者でしたが「あれで一向さしつかえありませんな。」と笑いながら答えました。」【同二五頁】。自由で闊達な宗教的雰囲気がうかがえる。このような空気が賢治を生んだのである。
 亡祖父様いづれに御出でなされ様やも明かならず実は忽ちに出家をも致すべきの所只今は僧の身にては却て所説も聞かれざるの有様にて先づ一度は衣食の独立を要すと教へられ又斯く思ひて折角働く積りに御座候。繰り返し候へども元来小生の只今の信も思想も父上の範囲を出で申さず書籍とてもみな父上の読み候もののみを後にて拾ひ読み候のみに御座候。 【文9 六二頁】
 亡祖父様とは前年の大正六年九月十六日に死去した祖父喜助のことで、この喜助の霊魂がどこに行ったのかと疑問に思うことは、後に『春と修羅』第一集で妹トシの霊魂の行方を真剣に問題にしたことにつながる。注目したいのは「小生の只今の信も思想も父上の範囲を出で申さず」と述べていることで、「父上の範囲」をこえて「真実の帰趣」を求めたいという父と子との葛藤が示されていることである。
 報恩には直ちに出家して自らの出離の道をも明らめ恩を受けたる人々をも導き奉る事最大一なりとはいずれの宗とて教へられざるなき事に御座候。小生にとりては幸にも念仏の行者たる恩人のみにて敢てこの要もなく日本一同死してみな極楽に生まるヽかとも見え候へども斯てだも尚外国の人人総て之れ一度は父一度は母たる事誤なき人人はいづれに生れ候やましては私の信ずるごとくば今の時念仏して一人か生死を離るべきやと誠に身の置き処も無之次第に御座候 【文9 六三頁】
 浄土真宗への疑問を述べている箇所である。念仏で生死を離れることはできないと述べ、たとえ一人生死を離れても、他の多くの衆生はどのようになるのかと問題を提起している点に、他の書簡【七四 保阪あて】でも「私の家には一つの信仰が満ちてゐます。私はけれどもその信仰をあきたらず思ひます。」【文9 一一六頁】と述べていることと併せて、賢治が一番疑問を感じた点だろう。人間だけでなく、後の童話に示されるように苦悩する無数の動物をも救済する道を彼は求めたのである。
 続いて大正七年二月二十三日【四六】の父政次郎あての書簡を見てみよう。
 万事は十界百界の依て起る根源妙法蓮華経に御任せ下され度候。誠に幾分なりとも皆人の役にも立ち候身ならば空しく病痾にも侵されず義理なき戦に弾丸に当る事も有之間敷と奉存候。 【文9 六六頁】
 妙法蓮華経が全存在、衆生の根源であるという教えに賢治は救済の道を見出している。この一節は賢治の法華経体験の実体とも言うべきものを示している。続いて彼は述べる。
 【一躍十万八千里とか梵天の位とか様々の不思議にも朧気ながら近づき申し候 戦争とか病気とか学校も家も山も雪もみな均しき一心の現象に御座候。その戦争に行きて人を殺すと云ふ事も殺す者も殺さるヽ者も皆等しく法性に御座候起是法性起滅是法性滅といふ様の事たとへ【先日も屠殺場に参りて見申し候】、牛が頭を割られ咽喉を切られて苦しみ候へどもこの牛は元来少しも悩みなく喜びなく又輝き又消え全く不可思議なる様の事感じ申し候それが別段に何の役にたつかは存じ申さず候へども只然くのみ思はれ候 【文9 六七頁】
 この部分は、なぜ賢治が法華経に感動し、日蓮聖人の教学を信仰するようになったかという法華経体験の実体を説明しているところだと思う。短歌に詠われる異界体験、賢治の愛する山や雪などの自然、嫌悪する戦争や病気、動物の屠殺など、すべての現象は自分の心の現れであり、法性すなわち妙法蓮華経の現れにほかならないという教えにふれて、彼は法華経とその教学に、世界の現象を説明し救済を約束する真理を発見したのであった。このことは、友人保阪嘉内あての書簡に繰り返しあらわれる。次に紹介する書簡【五〇】は退学処分になった友人保阪を、同じレトリックを使ってなぐさめたものである。
 保阪嘉内は退学になりました。けれども誰が退学になりましたか。【略】私は斯う思います。誰も退学になりません退学なんと云ふ事はどこにもありませんあなたなんて全体始めから無いものです。けれども又あるのでせう。退学になったり今この手紙を見たりして居ます。これは只妙法蓮華経です。妙法蓮華経が退校になりました妙法蓮華経が手紙を読みます… 【大正七年三月頃 文9 七八頁】
 保阪嘉内には次のような書簡【七六】も送っている。
 わが成仏の日は山川草木みな成仏する。山川草木すでに絶対の姿ならば我が対なく不可思議ならばそれでよさそうなものですがさうではありません。実は我は絶対不可思議超えたものであって更にその如何なるものと云ふ属性を与へ得ない。実に一切は絶対であり無我であり、空であり無常でありませうが然もその中には数知らぬ流転の衆生を包含するのです。流転の中にはみじめな私の姿をも見ます。本当はみじめではない。食を求めて差し出す乞食の手も実に不可思議の妙用であります。 【文9 一二〇頁】
 ところでこのいわゆる天台本覚思想と見られる思想を賢治は何から学んだのであろうか。田中智学の著作を通して、日蓮聖人の遺文からであろうか。おそらくそうであろう。しかし、賢治が長く私淑した島地大等は『天台教学史』を著わした天台教学の碩学である。案外、彼から賢治は日蓮聖人のことを聞き及び、天台本覚思想の一端を学んだのかもしれない。またこれらの書簡に賢治が縷々述べた思想は、おそらく『一生成仏鈔』や『諸法実相鈔』などの日蓮聖人遺文からの引用であると思われる。ただ、彼が遺文を抜粋した『摂折御文 僧俗御判』【文1〇所収】にはこれらの引用は見あたらない。
      2 賢治の感動した日蓮聖人遺文
 『宮沢賢治の世界展』図録【原 子朗監修 一九九五年朝日新聞社刊】によると、賢治は盛岡高等農林学校時代から日蓮聖人遺文を座右の書としていたと見られる。「図録」の写真によると、それは霊艮閣版『日蓮聖人遺文』【明治三十七年 加藤文雅編】である。賢治の在校は大正四年から九年までであり、大正七年には父政次郎に自身の法華信仰について語る書簡【前掲四四】を送っていることから、大正四年から六年までのある時期に日蓮聖人遺文にふれたと考えられる。いつのことだろうか。
 前に紹介したように大正五年の短歌「はてしらぬ世界にけしのたねほども菩薩身をすてたまはざるなし」は法華経提婆達多品を詠んだものである。この短歌を日蓮聖人遺文の『戒体即身成仏義』の一節と対照すると興味深いものがある。「法華経の悟と申は、此国土と我等が身と釈迦如来の御舎利と一つと知る也。経に云く三千大千世界を観るに乃至芥子の如き許も是れ菩薩にして身命を捨てたまふ処に非ること有ること無し。」【定一四頁】という一節は賢治の愛読した霊艮閣版遺文でも昭和定本遺文と同様巻頭に置かれていることから、賢治はこの遺文を読み、感動して、大正五年に短歌「はてしらぬ」を詠んだ可能性があるわけである。
 さて、『一生成仏鈔』と『諸法実相鈔』は霊艮閣版に収められている。父政次郎あての書簡及び保阪嘉内あての書簡の教えに該当する部分を列挙してみよう。
 夫無始の生死を留めて、此度決定して無上菩提を証せんと思はば、すべからく衆生本有の妙理を観ずべし。衆生本有の妙理とは妙法蓮華経是也。故に妙法蓮華経と唱へたてまつれば、衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり。文理真正の経王なれば文字即実相也。実相即妙法也。唯所詮一心法界の旨を説き顕すを妙法と名づく。故に此経を諸仏の智恵とは云ふなり。一心法界の旨とは十界三千の依正色心・非情草木・虚空刹土いづれも除かず、ちりも残らず、一念の心に収めて、此一念の心法界に遍満するを指て万法とは云ふなり。 【『一生成仏鈔』定四二頁】
 問て云く 法華経の第一方便品に云く 諸法実相乃至本末究竟等云云。此経文の意如何。 答えて云く 下も地獄より上み仏界までの十界の依正の当体、悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文也。 【『諸法実相鈔』定七二三頁】
 諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ。実相と云ふは妙法蓮華経の異名也。諸法は妙法蓮華経と云ふ事也。地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相也。餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず。仏は仏のすがた、凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体也と云ふ事を諸法実相とは申す也。 【同 定七二五頁】
 父政次郎あての書簡【四六】や友人保阪あての書簡【五〇】に記された「十界百界の依て起る根源妙法蓮華経」「戦争とか病気とか学校も家も山も雪もみな均しき一心の現象に御座候。」「殺す者も殺さるヽ者も皆等しく法性に御座候」「妙法蓮華経が退校になりました 妙法蓮華経が手紙を読みます」「食を求めて差し出す乞食の手も実に不可思議の妙用であります。」等の考え方を、彼はこれら日蓮聖人遺文の一念三千の思想に学んだと考えてよいだろう。そしてこれらの書簡から、世界の一切の現象は、たとえ戦争や地獄でさえも妙法蓮華経の仏の姿であるという当体全是の思想が宮沢賢治に強い衝撃を与えたことがうかがえるのである。これが大正三年の「法華経との出会い」から大正九年の国柱会入会に至る間に次第に成熟していった賢治の宗教的経験の内容であったのではなかろうか。この思想的立場に立ってはじめて賢治は、彼の鋭い感性が感知する異様な世界へ立ち向かう用意が出来たと思われる。
 大正九年、上京した賢治は国柱会に入会するが、翌年帰郷し、その年の末には花巻農学校教諭に就任し、翌大正十一年から『春と修羅』第一集を書き始める。そして十三年には第二集に着手するのである。この間、友人保阪との決別、妹トシの死、そして東北岩手の重い現実が彼を襲う。この間法華経信仰はその作品といかに関わっているのかを軸として、『春と修羅』第二集を読み解くこととする。
    三、『春と修羅』第二集を読む
 第二集の「序」に、「この一巻は\わたくしが岩手県花巻の\農学校につとめて居りました四年のうちの\終わりの二年の手記から集めたものでございます」【以下、詩の改行を\で示す】と記され、また各詩篇の末尾に制作年月日が記されていることから、大正十三年、十四年にこの第二集の原形が創られたことは疑いがない。しかし実際には「「春と修羅」第二集として私たちがよんでいるもののうち、少なくとも半分ばかりのものが、賢治の昭和三年の発病以後における手入れによって成立した形をしめしている」【文1 解説 七四一頁】と考えられている。すなわち第二集は大正十三年・十四年の時点の賢治の考え方を忠実に反映しているわけではない。全集に収められている異稿を読むと分かるように、先駆形と最終稿とでは内容がことなる場合があることを了解しておく必要がある。
 最初に述べておきたいことは、『春と修羅』は詩としての魅力に輝く詩集だということ。たとえば第二集巻頭の「空明と傷痍」【文1 二八七頁】は、なんとかピアノを購入したいものと、たばこをくわえて考え込む友人の姿を「月賦で買った緑青いろの外套に\しめったルビーの火をともし\かすかな青いけむりをあげる\一つの焦慮の工場に過ぎぬ」とユーモアたっぷりに描いた洒落た作品である。しかもその洒落た叙述の中に、五字落として「…ところがおれのてのひらからは\血がまっ青に垂れている…」と深刻なもうひとつの現実を重ねてえがいている点に、複眼的視点で別の現実を描いた同時代のキュビスム絵画の手法と同じように、心象という重層的でとらえがたい経験の総体を描こうとした賢治の意欲を見ることができる。詩「発電所」【文1 四七四頁】、詩「国立公園候補地に関する意見」【文1 四九九頁】、詩「岩手軽便鉄道 七月【ジャズ】」【文1 五一六頁】等にみられるユーモアあふれる詩は魅惑的である。しかし本稿では賢治の法華経信仰との関わりを切り口として、この第二集を読むことにしたい。
      1 詩と信仰の表現について
 第二集の二番目の詩「湧水を呑もうとして」の全文は、つぎの通りである
 湧水を呑もうとして\犬の毛皮の手袋などを泥に落とし\あわててぴちゃぴちゃ\きれいなcressの波で洗ったりするものだから\きせるをくはへたり\日光に当ったりしてゐる\小屋葺替への村人たちが嗤ふのだ 【文1 二八九頁】
 ところがこの詩の異稿【先駆形】には、この行に続いてつぎの四行の詩がある。「ところがおれは\この春の青いクレッスを\すきとほった水の像といっしょに\大曼陀羅に捧げよう」 この部分を出したら詩にならないと考えたと思われる。
 詩「山火」ではどうだろうか。彼の法華経信仰と実際の詩作とのつながり具合を、じつに賢治らしい言葉を駆使した魅惑的な詩「山火」に探ってみよう。上段の詩が最終稿【決定稿】、下段は先駆形である。
  詩「山火」【最終稿】【文1三一六頁】    詩「山火」【先駆形】【文1五八二頁】
血紅の火が                血紅の火が
ぼんやり尾根をすべったり         氷河のやうにぼんやり尾根をすべったり
またまっ黒ないたヾきで          またまっ黒ないただきで  
奇怪な王冠のかたちをつくり        奇怪な王冠のかたちをつくり
焔の舌を吐いたりすれば          焔の舌を吐いたりする
瑪瑙の針はしげく流れ            …夜の微塵はしげく降り
陰気な柳の髪もみだれる            ひばやねずこの髪もみだれる…
 …けたたましくも吠え立つ犬と      あるいはコロナや花さふらんの形にかはる
  泥灰岩の崖のさびしい反射…      その恐ろしい巨きな闇の華の下
或いはコロナや破けた肺のかたちに変る   犬の叫びが
この恐ろしい巨きな夜の華の下       崖や林にあやしくこだまするなかを
【夫子夫子あなたのお目も 血に染みました】ひとびとは雲に懺悔の灰をとり
酔って口口罵りながら           四句誓願をはるかな雷のひびきに和して
村びとたちが帰ってくる          この夜をひと夜
                     まだ世に出でぬその童子なる菩薩をたずね
                     しずかに峡をわたって行く       
 注目して頂きたいのは、最終稿の終わり二行分【酔って口口罵りながら\村びとたちが帰ってくる】が、先駆形では終わり五行分「ひとびとは雲に懺悔の灰をとり\四句誓願をはるかな雷のひびきに和して\この夜をひと夜\まだ世に出でぬその童子なる菩薩をたづね\しづかに峡をわたって行く」に該当することである。
 先駆形では、恐ろしいほど不気味にこの世界を描写して、続いてこのような絶望的な世界に救いをもたらす菩薩の出現を暗示している。ところが最終稿では、そのように不気味なこの世界の夜の暗闇から聞こえてくるのは、酔って騒ぐ村人達の声である。
 両者の表現の意味するところは正反対である。賢治がこの詩において、キリストの誕生を訪ねて歩く東方三博士を連想させる先駆形を変更した理由は何か。先駆形の場合いかにも「ありがたそう」ではあっても、詩としては平凡になるためからかもしれない。また両者を比べて、賢治が法華経信仰を捨てたために最終稿の形になったのだと判断する人もいるかもしれない。しかし私は、父政次郎あての書簡に見られる日蓮聖人の『諸法実相鈔』の教示に基づく賢治の信仰が、この詩の表現を変更させた理由だと思う。前述の『諸法実相鈔』に述べられている「実相と云ふは妙法蓮華経の異名也。諸法は妙法蓮華経と云ふ事也。地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相也。【略】仏は仏のすがた、凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体」【定七二五頁】という信仰に立ってはじめて、彼の感知する異様な世界や、夫子【孔子のこと】でさえも苦悩するであろうきびしい東北岩手の現実に立ち向かう心が生まれ、「酔って口口罵りながら\村びとたちが帰ってくる」という現実を受け止めることができたのである。それにしてもこの最終稿の表現からは、酔って罵りながら帰ってくる村人たちへの賢治の共感さえ感じ取れる。
      2 自己とは何か
 第二集の三番目に詩「五輪峠」がある。賢治は五輪峠にさしかかった。古い五輪塔がしょんぼり立っている。それを見て彼は仏教の存在観に思いをこらし、現在の物理学の考え方と少しも変わらないとつぶやいて、次のように記す。
 これはおれだと思ってゐた\さふいふやうな現象が\ぽかっと万一起るとする\そこにはやっぱり類似のやつが\これがおれだとおもってゐる\それがたくさんあるとする\互ひにおれはおれだといふ\互ひにあれは雲だといふ\互ひにこれは土だといふ\さういふことはなくはない\そこには別の五輪の塔だ 【文1 二九〇頁】
 この詩で彼は、自己というのは「これがおれだとおもって」存在しているだけではないかと考えているようだ。最終稿のこの部分は、次の異稿【先駆形B】の方がはるかにわかりやすい。
 わたくしであり彼であり\雲であり岩であるのは\たヾ因縁であるといふ\そこで畢竟世界はたヾ\因縁があるだけだといふ\雪の一つぶ一つぶの\質も形も進度も位置も\時間もみな因縁自体であると\さう考へると\なんだか心がぼおとなる 【文1 五七二頁】
 この先駆形Bにたいして、最終稿がはるかにわかりにくいのは賢治が詩的表現を優先したためだろう。ところでこの先駆形には、盛岡高等農林時代の参禅をはじめとする彼の仏教遍歴が反映していると考えられるとともに、「万事は十界百界依て起る根源妙法蓮華経」【政次郎あて書簡四六】や「皆等しく法性」【同】という日蓮聖人遺文に基づく思惟を見ることもできる。またすでに引用した保阪あて書簡【五〇】「あなたなんて全体始めから無いものです」【文9 七九頁】が思い起こされる。
 詩「晴天恣意」も五輪塔を主題に書かれているが、斉藤文一はこの五輪塔に法華経見宝塔品の多宝塔を想起すると述べている【『宮沢賢治星の図誌』一九八八年平凡社刊 一九八頁】。
 賢治は自己とは因縁であり、法性であり、妙法蓮華経であると考えていたのである。詩「いま来た角に」の「すももが熟して落ちるやうに\おれも鉛筆をぽろっと落とし\だまって風に溶けてしまはう\このういきゃうのかをりがそれだ」【文1 三二四頁】や詩「林学生」の「ああこの風はすなはちぼく」【文1 三六七頁】の表現にも同様の思惟を見ることが出来る。
      3 この世界は何か
 宮沢賢治は、第一章で述べたように法華経入信以前の短歌の時代から「異界」や「他界」への関心をもっていた。いわば彼の意識はその別世界への通路であり、「異空間の実在の証明」【「思索メモ」 文10 四二三頁 日蓮宗現代宗教研究所刊『現代宗教研究三四号所収拙稿』参照】は『春と修羅』の主題であり、彼の生涯の関心事だった。ところが、この世界こそが究極の浄土という事が彼の信仰した日蓮教学の根本命題でもあった。そこでこの矛盾した主題の追求が彼の生涯の仕事であり、作品のモチーフであったと考えられる。
 彼は宇宙の彼方の、あるいはすぐそこにあるが見えない異界を終生追求するとともに、彼の生活した現実の場所を「イーハトブ」として愛した。この名の初出は『春と修羅』第一集の詩「イーハトブの氷霧」に見られ、イーハトブ童話『注文の多い料理店』の「広告ちらし」に「ドリームランドとしての日本岩手県である」と自ら述べている【前掲『新宮沢賢治語彙辞典』五九頁】。賢治の詩は美しい自然を詠んだものが多いが、それはイーハトブ、この世を仏の在す世界と考える法華経の浄土を意味するものと言える。
 大正十三年四月十九日夕刻から二十日明け方にかけて読んだ五編の詩はとくに心に残る。次の詩はその中の詩「有明」の全文である。
 あけがたになり\風のモナドがひしめき\東もけむりだしたので\月は崇厳なパンの木の実にかはり\その香気もまたよく凍らされて\はなやかに錫いろのそらにかヽれば\白い横雲の上には\ほろびた古い山彙の像が\ねずみいろしてねむたくうかび\ふたたび老いた北上川は\それみづからの青くかすんだ野原のなかで\支流を納めてわづかにひかり\そこにゆふべの盛岡が\アークライトの点綴や\また町なみの氷燈の列\ふく郁としてねむってゐる\滅びる最後の極楽鳥が\尾羽をひろげて息づくやうに\かうかうとしてねむってゐる\それこそここらの林や森や\野原の草をつぎつぎに食べ\代りに砂糖や木綿を出した\やさしい化性の鳥であるが\しかも変らぬ一つの愛を\わたしはそこに誓はうとする\やぶうぐひすがしきりになき\のこりの雪があえかにひかる 【文1 三二六頁】
 この詩には彼が育った大地や盛岡の街への愛情があふれ、「林や森や野原の草をつぎつぎに食べ\代りに砂糖や木綿を出した」と岩手の産業の中心地盛岡を美しく形容する。彼はこの街が農民から富を収奪することがないことを、この地に「極楽鳥」が舞うことを願い、「変らぬ一つの愛を\わたしはそこに誓はうとする」と語る。これは「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」【文1 一九五頁『春と修羅』第一集詩「オホーツク挽歌」】であり、この地を浄土とするための菩薩行の誓いに他ならない。
 また詩「山の晨明に関する童話風の構想」はグリム童話のお菓子の家を連想させる描写に続いて、「蒼く湛へるイーハトーボのこどもたち\みんなでいっしょにこの天上の\飾られた食卓に着こうではないか」【文1 五三三頁】と、この岩手の山地こそ天上世界であると讃えている。
 しかし同時に、彼はそこに修羅の世界を見ているのである。例えば詩「北上山地の春」の最後の三行、「しかもわたくしは\このかヾやかな石竹いろの時候を\第何ばん目の辛酸の春に数へたらいヽか」【文1 三三三頁】の飢饉の予感にふるえる彼の姿は痛ましい。また詩「住居」の最後の二行「ひるもはだしで酒を呑み\眼をうるませたとしよりたち」【文1 五三七頁】には、彼の絶望感さえうかがえる。
 しかしそこで「万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体」という日蓮聖人のことばが彼を支えたにちがいない。後に『銀河鉄道の夜』で賢治はキリスト者に言う、「天上へなんか行かなくたっていヽぢやないか。ぼくたちこヽで天上よりももっといヽとこをこさへなけあいけないって僕の先生が云ったよ。」【文7 二八九頁】と。この世界がイーハトブであると語る彼の作品には日蓮聖人の娑婆即寂光・立正安国の思想が息づいている。
 第一集の詩「春と修羅」では、「二重の風景」ということばに着目して、賢治における娑婆即寂光という法華経の仏国土観を論じたが【前掲『現代宗教研究』三四号二五七頁】、この第二集ではどうだろうか。例えば詩「亜細亜学者の散策」に、彼は書きとめる。
 気圧が高くなったので\地平の青い膨らみが\徐々に平位に復して来た\蓋し国土の質たるや\剛に過ぐるを尊ばず\地面が踏みに従って\小さい歪みをなすことは\天竺乃至西域の\永い夢想であったのである\【略】日が青山に落ちようとして\麦が古金に熟するとする\わたしが名指す古金とは\今日世上一般の\暗い黄いろなものでなく\竜樹菩薩の大論に\わづかに暗示されたるもの\すなはちその徳はなはだ高く\その相はるかに旺んであって\むしろquick goldともなすべき\わくわくたるそれを云ふのである\水はいつでも水であって\一気圧下に零度で凍り\摂氏四度の水銀は\比重十三ポイント六なるごとき\さうした式の考へ方は\現代科学の域内にても\俗説たるを免れぬ 【文1 三六八頁】
 水はいつでも水ではない、日蓮聖人が「餓鬼は恒河を火と見る」【定九一二頁】と教えるように、古金色に熟した麦畑は黄金色の仏国土である、イーハトブであると、賢治は考えている。
      4 空は曼荼羅
 短歌に詠われた月は「焦げの月」「ゆがみひがみ」「赤き」「ちばしれる」「口をゆがむる」「悪相」「一つ目」【文3 三七〜三八頁】と不気味な形容で語られる。ところが詩「東の雲ははやくも蜜のいろに燃え」では月は月天子として詠われている。
 【略】あなたの御座の運行は\公式にしたがってたがはぬを知って\しかもあなたが一つのかんばしい意志であり\われらに答へまたはたらきかける\巨きなあやしい生物であること\そのことはいましわたくしの胸を\あやしくあらたに湧きたヽせます\あヽあかつき近くの雲が凍れば凍るほど\そこらが明るくなればなるほど\あらたにあなたがお吐きになる\エステルの香は雲にみちます\おヽ天子\あなたはいまにはかにくらくなられます 【文1 三二八頁】
 この大きな変化は、日蓮聖人が月を月天子として敬われていたことの影響であろうか。斉藤文一はこの詩について『宮沢賢治星の図誌』で「法華経序品には「三光天子」が見えている。すなわち名月天子【月】、普香天子【星】、宝光天子【太陽】である。しかるに賢治はこの詩で普香天子を月の意味で書いている。」【前掲一九〇頁】と解説している。もっとも、不吉な月の描写が無いわけではない。「乱れた鉛の雲の間に\ひどく痛んで月の死骸があらはれる」【文1 四一九頁】また「おヽ月の座の雲の銀\巨きな喪服のやうにも見える」【文1 四七八頁】という表現が見られる。
 賢治にとって月が月天子であれば、一面星のまたたく夜空は曼荼羅にほかならない。詩「温かく含んだ南の風が」の一節を次に紹介しよう。
 天の川の見掛けの燃えを原因した\高みの風の一列は\射手のこっちで一つの邪気をそらにはく\それのみならず蠍座あたり\西蔵魔神の布呂に似た黒い思想があって\南斗のへんに吸ひついて\そこらの星をかくすのだ\けれども悪魔といふやつは\天や鬼神とおんなじやうに\どんなに力が強くても\やっぱり流転のものだから\やっぱりあんなに\やっぱりあんなに\どんどん風に溶される\星はもうそのやさしい面影を恢復し\そらはふたヽび古代意慾の曼陀羅になる\【略】\うしろではまた天の川の小さな爆発\たちまち百のちぎれた雲が\星のまばらな西寄りで\難陀竜家の家紋を織り\天をよそほふ鬼の族は\ふたヽび蠍の大火ををかす\…蛙の族はまた軋り\大梵天ははるかにわらふ…【文1 三七二頁】
 『新宮澤賢治語彙辞典』はこの詩をとりあげて、胎蔵界曼荼羅の諸尊の名があることから「賢治が夏の夜空を胎蔵界曼荼羅にあてはめて詩作していることがわかる。」【六七七頁】と述べている。しかし私は『銀河鉄道の夜』に描かれた銀河宇宙や星座図を日蓮聖人の大曼荼羅の隠喩と見たことから【前掲『現代宗教研究』第三十一号所収「法華経と銀河鉄道の夜」一五六頁】、賢治は夏の夜空に自己の信仰する大曼荼羅を見ていたと考えたい。詩作ゆえに真言宗の曼荼羅の用語を用いたのではないのか。日蓮聖人の大曼荼羅に勧請されている第六天魔王【この詩の「悪魔」か】や大梵天王もこの詩に見られるのである。そうだとすると彼は、大曼荼羅をダイナミックに善と悪との戦いの世界ととらえていたことが読みとれる。詩「鉱染とネクタイ」【文1 五一二頁】にもこの「古代意慾の曼荼羅」という表現が見られる。
 さらに賢治は、仏の世界を星空に探す。次は詩「北いっぱいの星ぞらに」の一節である。
 この清澄な昧爽ちかく\あヽ東方の普賢菩薩よ\微かに神威を垂れ給ひ\曾つて説かれし華厳のなか\仏界形円きもの\形花台の如きもの\覚者の意志に住するもの\衆生の業にしたがふもの\この星ぞらに指し給へ【文1 三九一頁】
 この部分はこの詩の異稿【先駆形A】では次のようになっている。「頭のまはりを円くそり\鼠いろした粗布を着た\坊主らのいふ神だの天が\いったいどこにあるかと云って\うかつに皮肉な天文学者が\望遠鏡をぐるぐるさせるその天だ\するとこんどは信仰のある科学者が\どこかの星の上あたりに\その天を見附ようとして\やっぱり眼鏡をぐるぐるまはす\さういふ風な明るい空だ\しかも三十三天は\やっぱりそこにたしかにあって\木もあれば風も吹いてゐる\天人たちの恋は\相見てゑん然としてわらってやみ\食も多くは精緻であって\香気となって毛孔から発する\間違ひもなく\天使もあれば神もある\たヾその神が\あるとき最高唯一と見え\あるとき一つの段階とわかる\さういふことかもわからない\それら三十三天は\所感の外ではあるけれども\やっぱりそこに連亙し\恐らく人の世界のこんな静な晩は\修羅も襲って来ないのだろう」【文1 六二〇頁】 ここでは星空を見て、賢治は実在すると信じている天上界の行方を考えている。
 また異稿【先駆形B】【文1 六二二頁】では次のようになっている。「誤ってかあるいはほんとうにか\銀河のそとと見なされた\星雲の数はどれだろう\普賢菩薩が華厳で説く\もろもろの仏界のふしぎなかたち\あるいは花台のかたちをなし\あるいは円くあるいはたひら\それはあるいはその刹那の\覚者の意志により住し\あるいは衆生の業により\あるいは因縁により住すると\それのどれかが星雲で\こヽからやはり見えるだろうか\しかももしたヾ天や餓鬼\これらの国土をもとめるならば\そんなに遠いことでない」
 ここでは当時次第に明らかになってきた銀河系以外の星雲に、賢治が仏界の存在の可能性を考えていたことがうかがえる。このように賢治は夜空を見上げながら、そこに仏教的世界観の教える世界の存在を確信していたことが、これらの詩から明らかであろう。鈴木健司は『幻想空間の構造』【一九九四年蒼丘書林刊二四一頁】で次のように述べている。「周知のように賢治の宇宙観の特徴は、科学的宇宙観と仏教的宇宙観との融合にある。【略】賢治には科学の発展が必ず仏教宇宙の証明に帰着するという確信があった。おそらく賢治は天界を太陽系に、仏界を銀河系にそれぞれ対応させた宇宙観をつくりあげることによって、仏教的宇宙観と科学的宇宙観の融合を果たしていたのである。」
 詩「異途への出発」と詩「暁穹への嫉妬」の一節を見ていただきたい。
 月の惑みと\巨きな雪の盤とのなかに\あてなくひとり下り立てば\あしもとは軋り\寒冷でまっくろな空虚は\がらんと額に臨んでゐる 【文1 四四三頁】
 薔薇輝石や雪のエッセンスを集めて\ひかりけだかくかヾやきながら\その清麗なサフアイア風の惑星を\溶かそうとするあけがたのそら 【文1 四四五頁】
 まるで異星人が地球に下り立ったような印象を受ける。賢治はこの地球を宇宙の星星の一つと実感していたのではなかろうか。これはこの世をイーハトブと考えること、すなわち日蓮教学で言う娑婆を本仏の在す浄土・本土と見ることと矛盾しているようだが、賢治は常に「二重の風景」を見ていたのである。法華経の浄土は地獄の実相、凡夫の実相と併存しているのである。
      5 神・霊の存在
 短歌作品でも、『春と修羅』第一集においても、賢治は異界の神・霊の存在を語っている。彼には天賦の宗教的能力が備わっていたのであろうか。この第二集からその例を挙げると、
 赭神の小さなgoblinが\そこに座ってやすんでゐます
 この国にむかしから棲んでゐる\三本鍬をかついだ巨きな人が\にがにが笑ってじっとながめ\それからびっこをひきながら\線路をこっちへよこぎって\いきなりぽっかりなくなりますと 【ゴブリンとは悪鬼。意地悪い森のこびと】【前掲新語彙辞典】【詩「鉄道線路と国道が」 文1 三四五頁】
 沼の面にはひとりのアイヌものぞいている 【詩「日はトパーズのかけらをそヽぎ」文1 三四八頁】
 黒い麻のころもを着た\六人のたくましい僧たちと\わたくしは山の平に立ってゐる 【詩「比叡【幻聴】」 文1 三六一頁】
 南に向いた銅いろの上半身\髪はちヾれて風にみだれる\印度の力士といふ風だ\それはその巨きな杉の樹神だらうか\あるいは風のひとりだらうか 【詩「風と杉」 文1 四〇四頁】 
 賢治の霊を感じる能力のすさまじさを示す詩「塚と風」を次に挙げよう。この詩には「わたくしに関して一つの塚とこヽを通過する風とがあるときこんなやうな存在であることを示した」という前書きがついている。
 この人あくすぐらへであのだもなす\たれかが右の方で云ふ\髪を逆立てた印度の力士ふうのものが\口をゆがめ眼をいからせて\一生けんめいとられた腕をもぎはなし\東に走って行かうとする\その肩や胸には赤い斑点がある\後光もあれば鏡もあり\青いそらには瓔珞もきらめく\子どもに乳をやる女\その右乳ぶさあまり大きく角だって\いちめん赤い痘瘡がある\掌のなかばから切られた指\これはやっぱりこの塚のだらうか\わたくしのではない\柳沢さんのでなくてまづ好がった\袴をはいた烏天狗だ\や、西行\上…見…る…に…は…及…ば…な…い…\や…っ…ぱ…り…下…見…る…の…だ\呟くやうな水のこぼこぼ鳴るやうな\私の考と阿部孝の考とを\ちやうど神楽の剣舞のやうに\対照的に双方から合せて\そのかっぽれ 学校へ来んかなと云ったのだ\こどもが二人母にだかれてねむってゐる\いぢめてやりたい\いぢめてやりたい\いぢめてやりたい\誰かが泣いて云ひながら行きすぎる 【文1 四〇六頁】
 次の詩の一節は神霊の声というべきか。
 祀られざるも神には神の身土があると\老いて呟くそれは誰だ 【詩「産業組合青年会」 全1 四二一頁】 
 次は二人のたくましい僧侶の霊と遭遇した経験を描く詩「河原坊」。
 叫んでいるな\【南無阿弥陀仏】\【南無阿弥陀仏】\【南無阿弥陀仏】\何といふふしぎな念仏のしやうだ\まるで突貫するやうだ\もうわたくしを過ぎてゐる\あヽ見える\二人のはだしの逞しい若い坊さんだ\黒の衣の袖を扛げ\黄金で唐草模様をつけた\神輿を一本の棒にぶらさげて\川下の方へかるがるかついで行く\誰かを送った帰りだな\声が山谷にこだまして\いまや私はやっと自由になって\眼をひらく 【文1 五二六頁】
 また詩「日はトパーズのかけらをそヽぎ」の異稿【先駆形】に賢治は次のような考えを書きとめている。
 一本の緑天鵞絨の杉の古木が\南の風に奇矯な枝をそよがせてゐる\その狂ほしい塊りや房の造形は\表面立地や樹の変質によるけれども\またそこに棲む古い鬼神の気癖を稟けて\三つ並んだ樹陰の赤い石塚と共に\いまわれわれの所感を外れた\古い宙宇の投影である\【略】おほよそこのやうに巨大で黒緑な\そんな樹神の集りを考へるなら\わたくしは花巻一方里のあひだに\その七箇所を数へ得る 【文1 五九八頁】
 賢治はこれらの経験や現象を「しかももしたヾ天や餓鬼\これらの国土をもとめるならば\そんなに遠いことではない」【詩「北いっぱいの星ぞらに」異稿 文1 六二二頁】と記しているように、十界の内のいろいろな異界の出現と考えていたのである。
 板谷栄城は『素顔の宮沢賢治』【一九九二年平凡社刊】の中に次のような「賢治らしいエピソード」を紹介している。
 今日は君たちに幽霊の話をしよう。実は昨夜死んだトシ子がおれを訪ねてきたんだ。しばらく蚊帳の中で話をし、「迷いごとがあったらいつでも訪ねてこい」といって、仏壇の前に連れて行き、法華経を唱えてやった。そして玄関を開け、支えるようにして帰してやったんだが、すぐそばに寝ていた父にも母にも、おれの姿しか見えなかったらしい。 【二一一頁】
 このエピソードは神霊や異界の出現を書きとめた『春と修羅』の作者にふさわしく、賢治は霊能者、悪魔払い師の一面をもっていたと言える。この理由から島地大等を中心とする花巻の浄土真宗から離れていったのかもしれない。
 昭和六年八月の「草野心平あて 下書」【三八三】で、草野心平の『春と修羅』への高い評価に答えてやや自嘲気味に、「尤も古典と云へば云へないでもない。これ位進んだ世界の中で中世的の世界観と社会意識をもって全著を一貫してゐる意味に於てである。」【文9 四八四頁】と述べているのは、賢治自身、このことを自覚していたためと思われる。
 しかしまた、「既成宗教の垢を抜きて一丸としたる大宗教」を考えていた中館武左衛門に対して、「但し昨年満州事変以来東北地方殊に青森県より宮城県に亘りて憑霊現象に属すると思はるヽ新迷信宗教の名を以て旗を挙げたるもの枚挙に暇なき」【昭和七年六月 中館あて下書 文9 五二五頁】と忠告しているのは、賢治がこのような自己の一面を冷静に見ていたことを物語っている。「近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい」【「農民芸術概論綱要」 文10 一八頁】と彼自身述べているように、彼は実に多面的な人間であったのである。                 
   おわりに
 今、二十世紀最後の年に今世紀を振り返ると、この百年の人の営みは文化・芸術・宗教の各分野において豊饒な時代であったと思われる。宮沢賢治【一八九六〜一九三三】が『春と修羅』を書き始めた一九二十年代には、例えば絵画の分野ではピカソが活躍を始め、パリへとおもむいた藤田嗣治は彼と交流を深めていた頃であった。賢治が短歌を離れて『春と修羅』で試みた複雑な詩の形式はピカソたちのキュビスムと無関係であったとは思えない。同時代に生きることは、ユングの唱えたシンクロシニティの主張のように現実の捉え方を無意識のうちに共有したのではなかろうか。また賢治が書簡において父宮沢政次郎や友人保阪嘉内へ鼓吹した信仰は、私に江戸時代末期の優陀那院日輝の『一念三千論』の中の第十章の叙述を連想させる。こう考えると宮沢賢治といえども過去の歴史そして現在の世界との連続の中でその希有の才能を発揮させたといえよう。さて、私どもは二十一世紀において法華経をどのようなものとしてとらえていくのだろうか。これまでの歴史上の人びとのように悪戦苦闘する以外の方策はなさそうであるが、将来の人々が探求するに値する果実をはたして残せるのだろうか。

 ※本稿は第五十三回日蓮宗教学研究発表大会で発表した原稿に加筆したものである。

 

PDF版をダウンロードする