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現代宗教研究第35号 2001年03月 発行

近世信濃国における日蓮教団の展開―信濃国の不受不施について―

    近世信濃国における日蓮教団の展開
信濃国の不受不施について
作田光照   
 (現代宗教研究所所員)   
   一、はじめに
 文禄四年(一五九五)九月に豊臣秀吉は京都方広寺千僧供養会に際し、各宗派に出仕を命じた。しかし「彼の大佛供養は他宗の施なるゆえにこれを受ず」(1)として出仕を拒否した京都妙覚寺二一世仏性院日奥とそれに同調する法華宗の一派は以来、法華経未信・謗法の者の支援を受けず・施さず、卦建支配に包摂されない集団「不受不施派(不受派)」と呼ばれた。
 その後、江戸幕府が成立すると、幕府は、十五〜十六世紀の戦国時代における一揆による大規模な反体制運動の起因の一つとして、宗教が多分に関っていた経験から、仏教勢力をその権力下に置くため、朱印地を認めることにより教団の経済上、社会上の地位を保証しながら、幕藩体制下に組み込んでいった。そうした中で、妙覚寺日奥を中心とする不受不施派は、切支丹と共に公権に従わざる集団、邪宗門として次第に幕府権力からの弾圧をうけ、社会から阻害されていった。
 その反面で千僧供養会に出仕した京都本満寺系の日重・日乾・日遠等は、身延山久遠寺を中心に、法理上、王侯・公武を除外する体勢を作り上げ、権力と結びつきながら、封建社会で生き抜くための方策をうち出し受不施派(受派)と呼ばれた。
 その後、不受不施論争は大阪城対論、東都江戸城に移り常楽院日経の慶長法難等(2)を経て、寛永七年(一六三〇)身池対論が行われたが結果、身延方受派が勝訴し、敗訴した不受派の池上方六名は左のようにそれぞれ流罪となった。(3)
  ・池上・比企両山十六世 長遠院日樹 信濃国伊那郡飯田 脇坂安元預かり
  ・下総中山法華経寺十九世(隠居) 寂静院日賢 遠州横須賀井上河内守正利
  ・下総平賀本土寺十七世 了心院日弘 豆州戸田
  ・上総小西談所 守玄院日領(小湊前住十六世・小松原十三世)はじめ佐渡、のち奥州中村相馬藩池田次郎左右衛門尉直介(大膳亮義胤)
  ・下総中村談林第八世能化 遠寿院日充 奥州岩代平 内藤帯刀忠興
  ・碑文谷法華寺十一世 修禅院日進 信州上田 仙石越前守政俊
 しかし彼ら六名の流罪生活は後の寛文法難のように入牢することもなく、特に碑文谷日進は信州上田藩仙石政俊預かりとなりながら、現実的には信徒預かり(4)であったため、寛文法難以降の流罪、遠島に比べるとかなり緩やかなものであった。また、日樹・日充以外の四名には配所においてそれぞれ寺院が建立されていることでも明らかである。
 信濃国には池上日樹と碑文谷日進が流されており、以後、日樹・日進の影響下のもと、不受不施論争の渦中へと向かった。

   二、伊那郡 領法寺・隣政寺・光明寺
 寛永七年(一六三〇)四月、両山十六世長遠院日樹は敗訴後、その流罪地、伊那郡飯田郷、脇坂安元預かりとなった。同地では翌寛永八年(一六三一)に一年程の逗留で死去しており、その間、数通の書簡と本尊が遺されている(5)他、同地での日樹の教えが伝播した形跡は見られない。しかし、不受不施寺院である谷中感応寺末の寺が三ヶ寺存在していた。
 下伊那の領法寺・隣政寺・光明寺の三ヶ寺(6)がこれにあたり、延享元年(一七四四)成立の『伊那神社仏閣記』(7)では当時の宗旨を天台宗としながらも、縁起によると以前は法華宗で谷中感応寺末寺であったと記されている。
      市田郷 九ヶ村之内山吹領也、
    山吹
  一 天台宗 座光山     江戸谷中感応寺末山 領法寺
  古・来・法・華・宗・に而、山吹之領主座光寺喜慶為菩提所開基す、不受不施御改并に元禄四年悲田院御改に而、元禄九丙年より天台宗に改る、
    駒場田沢入
  一 天台宗 普門山     江戸谷中感応寺末山 隣政寺 俗呼而山ノ寺と云、
  此山古跡に而奥の院に戒壇有、日蓮聖人之直書等数々有、不・受・不・施・悲・田・院・御・改・前・は・法・花・宗・、元禄九丙年より天台宗に改宗す、
  観音堂  伊那順礼三十二番
    新田町
  一 天台宗         江戸谷中感応寺末山 光明寺
  初・は・法・花・宗・也・、元・禄・之・改・に・天・台・に・改・宗・す・、前之寺地は町之北之方に有、元禄年中大仏堂へ寺を引移す、寺中に大仏有、是は松下年来寺之住僧空誉上人之作に而一宇建立す、後に光明寺を引移し境内一つに成、古之寺地ともに光明寺控と成、当寺本尊観音古仏に而石之唐櫃に安置す、(傍点筆者)
 これによると、光明寺の「元禄之改」め、すなわち領法寺、隣政寺の文中、元禄四年の「不受不施悲田院御改」めがこれあたり、光明寺は同年に、隣政寺・領法寺は元禄九年に天台宗に改宗している。したがって『伊那神社仏閣記』以降、延亨二年(一七四五)作成の「延享の末寺帳」へは法華宗寺院としての記載は無く、次の「天明の末寺帳」(天台宗のものは、天明六年(一七八六)前後の作成)には、三ヶ寺とも天台宗の欄に「武州谷中感応寺末」と記載されている。その本寺である感応寺、碑文谷法華寺は同じ「天明の末寺帳」の「府内天台宗」(8)以下に、
               豊島郡谷中
  一 御朱印高三拾八石餘 長耀山 院家寺 感應寺
       寺中八ヶ寺
       末・寺・三・ヶ・寺・ 信・州・ニ・有・之・
  (中略)
             荏原郡馬込領碑文谷
  一 御朱印高拾九石 妙光山吉祥院 法華寺
       寺中八ヶ寺 内七ヶ寺廃寺
       末寺 壹ヶ寺(傍点筆者)
とある。感応寺の「末寺三ヶ寺 信州ニ有之」とは、この隣政寺・領法寺・光明寺にあたる。
 元禄四年(一六九一)四月二八日に悲田禁止となり碑文谷法華寺、谷中感応寺と小湊誕生寺は、受派へ転派することを余儀なくされ、久遠寺の支配下となった(9)。
  又日蓮宗悲田派小湊誕生寺。碑文谷法華寺。谷中感應寺。受不施派久遠寺日脱。本門寺日玄。妙法華寺日宗。妙光寺日殷。弘法寺日榮。本土寺日信。瑞輪寺日孝。善立寺日勇。宗延寺日典。承教寺日随。朗惺寺日立等をめして。裁詞を令せらる。その文にいふ。誕生。小湊。法華。感應三寺。先年證状さゝげしに。今に猶不受不施の邪義を建て。悲田宗と號しこれをひろむるよし。いとひが事なり。今より後悲田派不受不施を革め。受不施なりとも。又は他宗に歸するとも。そは心の儘たるべし。今より後悲田派かたく停禁せらるればおごそかに改むべし。もし違犯せば曲事たるべしとなり。」又久遠。本門寺等に令し下さるゝは。誕生。法華。感應寺事。先年證状呈せしに。今に其邪義宣説し。いとひが事なれば。今より後悲田派堅く停禁せらる。もし彼末寺等改革せざる徒あらば。査=cd=22ceして聞え上べしとなり。」又か・の・三・寺・は・天・台・の・隷・下・たるべしと仰下さる。(傍点筆者)
 この書状によると、悲田の頭寺である小湊誕生寺、碑文谷法華寺、谷中感應寺は不受不施悲田宗を改め天台宗に改宗、並びに「もし彼末寺等改革せざる徒あらば」と、その末寺を含める幕府の厳達であった。しかし、天台宗への改宗については身延二八世日奠が同年四月三十日付けの書状(10)で、
           覚
  一、誕生寺、法花寺、感応寺事、此度悲田不受不施御停止被レ遊候付他宗ニ罷成候事不レ及二是非一候、就レ夫寺之義ハ根本法花之旧地ニ而御座候処今更寺茂他宗ニ成候得者為二宗旨之一迷惑義爾奉レ存候、其上誕生寺と申寺ハ日蓮出生之地ニ而御座候、依レ之寺号茂誕生寺と申候、日蓮已来四百余年相続仕候霊地ニ而御座候故若他宗寺ニ成候ハヽ忽一宗之輩歎可レ申候、其上以ニ此例一諸寺之旧跡後々ハ混乱可レ仕事と奉レ存候、仮令出家ハ一分ニ改宗仕候共寺之儀ハ法花之寺院ニ成候様ニ偏奉レ願候、
  一、六拾三年已前以二台徳院様大猷院様上意一酒井讃岐之守殿永井信濃守殿 仰渡之趣ハ此度不受不施御制禁之諸寺院京都妙覚寺は身延隠居日乾ニ被レ下、池上本門寺ハ身延隠居日遠ニ被レ下、此外平賀、小湊、碑文谷等御追罸之諸寺院之住持職ハ向後従二身延一可二申付一旨被二仰渡一候、依二比例一弐拾七年已前、厳有院様不受不施御制禁之節も其寺方を身延=cd=71da支配仕候ニ罷成候事右 御三大之通ニ被二 仰付一被レ下候ハヽ別而難レ有可レ奉レ存候、
  一、六拾三年已前弐拾七年已前之通誕生寺等之三ヶ寺ハ此方=cd=71da取扱仕候寺ニ而御座候、依レ之帰伏状之義御書出被レ遊、従二 御公儀一身延日奠江被二下置一候事、尤六拾三年以前落着之時誕生寺衆徒中起請文等此方江越候而納置申候事、
  一、碑文谷法花寺、開山中老日源上人遷化以後三百七拾余年、寺領拾九石、
  一、谷中感応寺、開山日源上人、寺領三拾八石、当寺祖師之霊像之事都鄙爾隠レ無二御座一候、
      未夘月卅日                       身 延久 遠 寺
と、先例の妙覚寺・本門寺のときのように改宗せず受派に改派し、身延の支配下にして欲しいと申し出ている。更にこれを承けて碑文谷法華寺は、その末寺に対して(11)
  此度以二 御上意一改宗就被二仰付一候、末寺一同受不施ニ奉レ願候、何茂於二御同心一者可レ被レ加二判形一候、以上、
       五月二日                        碑 文 谷
                                    法 華 寺
                                    寺   中 判
と、「碑文谷回状」にあり、受派になるよう末寺に同心を求めた。谷中感応寺は碑文谷法華寺の末寺であり、その孫末寺である信州の領法寺・隣政寺・光明寺・も「末寺一同受不施」になるようこの達しがあったであろう。これが先の光明寺の「元禄之改」めにあたると思われるが、三ヶ寺は改派ではなく天台宗に改宗している。
 四月二八日の「常憲院殿御實記」では碑文谷、谷中、小湊は天台宗に改宗するよう迫られたが、三〇日付け身延日奠の書状では、悲田邪義の寺であるが根本は法華の旧地であり、格別誕生寺は日蓮出生の寺なので天台宗に改宗するのではなく受派へ改派し、身延末となることを願い出た。その結果、(12)
      さし上げ申一札の事
  こんとひでんふじゆふせ御ちようじに付、拙僧ども義天台に改宗仕べきのよし願ひやうぢやう所におゐて申上候ところ、三が寺の義ぐわんらいほつけの寺地に候間寺は日れんしうに御つけあそばさるべく候、しかしながらせつそうどもじゆふせにまかりなるべく候ハゞこのまゝさしおかるべく候間、れうけんつかまつり可二申上一のむねかさねてこれを仰わたさるゝ御慈悲のだん有がたくぞんじたてまつり、そうだんの上じ・ゆ・ふ・せ・に・改・派・仕べく候、しかれども末寺に罷なり候へば寺のかくかろくなり可レ申義なげかしく存たてまつり候間、じゆふせのふれしたに仰付られ下され候ようにねがひたてまつり候、これによつてきやうこう身のぶ久遠寺しはいしたにまかりなり、後住の義ハ永々久遠寺=cd=71da住持申付候やうにおほせわたされちようでう有かたくかしこまりたてまつり候、しかる上はめん=cd=d826=cd=d969ふれしたならびに末寺のともがらゑめい=cd=d826=cd=d969に誓詞いたさせ、ながく違犯つかまつらざるやうに可二申付一候、まん一いはいのやからこれあるにおいてはきつと可二申上一候、もしみぎのおもむきいさゝかあひそむき候ハゞなにやうのぢうくわにもおほせ付らるべく候、よつて後証のためくだんのことし、
                            や  中
                              かんおう寺 日れう いんはんかきはん
      元禄四年未五月三日             ひもんや
                              ほ つ け寺 日ふ いんはんかきはん
                            小ミなと
                              たんじやう寺 日ゑい いんはんかきはん
   じしや
    御 奉 行 所(傍点筆者)
と、天台への改宗ではなく、身延支配の受派に転派することを寺社奉行に提出した。ここにおいて文上では悲田派は社会から消滅した。
 飯田藩では翌年から、領内の不受不施派追及が厳しくなり、元禄五年(一六九二)の正月晦日付け「領内寺社切支丹宗門改起請証文」(13)では、冒頭に「拙僧共寺領・社領・寺内・門前等至迄、切死丹宗門并法花不受不施之宗門勿論悲田宗ニ而茂壱人も無御座候、」とし、前年の元禄四年悲田禁止の余波を承け、切死丹・法花不受不施・悲田宗無き旨を領内の寺社が書き上げ、明記されていくことになった。
 元禄十一年(一六九八)十一月には、再び御制禁の悲田派を保っていることが発覚し、碑文谷日附、谷中日遼等が流罪となった。(14)
  十二日碑文谷法花寺日附。谷中感應寺日遼。前住日鐃。三田大乗寺日衷。中道寺日善。千駄が谷寂光寺日祥。房州小港誕生寺中境妙院日照。同州成川妙耀寺日進御流に處せらる。こは八年前悲田宗派禁制ありし時證状をさゝげながら。このたび妙榮寺妙月に同意して。改派せしによてなり。妙月は亡命せしにより物色して捜索せらる。
 これを期に法華寺、感応寺は天台宗に改宗(15)することとなる。しかし誕生寺は日蓮出生の寺なので改宗は逃れ、受派となった。
 また、下伊那白川領では嘉永四年(一八五一)六月の「信州領分宗旨別人数目録」(16)で、領内の総人数、男女、寺社数僧・俗・女内訳、僧・俗、女の項目に分け人数を記し、「宗旨訳」では「百四拾九人 受不施日蓮宗」とあり、「不受不施派」を措定した取り締まりが強化されていた。その他、このような「宗旨人別帳」的体裁をとり、切支丹並びに不受不施を禁じている例として、天保十四年(一八四三)に南信近藤知行所(17)でも行われており、同年二月付けの諏訪上社領の「神之原村宗門人別帳」(18)では「一切支丹宗門并悲田宗御改之儀者毎年之通村中男女、其外出家・社人・山伏・行人等ニ至迄壱人茂不残吟味仕候所、御法度之宗門之者者、勿論、親族・ころび之末孫ニ而茂無御座候」と天保十四年前後でも毎年吟味を行い各領内でかなり厳しい取り締まりがなされていた。
 このようにして、下伊那の不受不施寺院は、不受不施としての存続を絶たれ天台宗に改宗した。その後も下伊那では不受不施の追及が厳しく、天保年間まで切支丹と共に邪宗門として処罰の対象とされている。受派に改派する寺院の多いなか、改宗の措置を下されたことは、感応寺の末寺ということもあろうが、同地における不受不施思想、悲田派の包囲網を考えるに、この三ヶ寺は不受不施の姿勢が強固であったゆえんであろう。

   三、諏訪郡、宣妙山高国寺
 身池対論には列座しなかったが、日樹等と法理一味に申し合わせたので同罪であると主張し、自ら追放に加わった小湊誕生寺十八世可観院日延は、伊勢国一柳監物殿直盛への預かり(19)となり、まもなく筑前に赴いている。諏訪郡高国寺の開山観誠院日長は対論から四年後の寛永十一年(一六三四)三月上旬に筑前の日延を訪ね本尊(20)を賜っている。
  如三世諸佛法之儀式 寛永十一年甲戌暦三月上旬吉日
   南無无邊行=cd=61e6     正像末弘未法皆成佛之
         大日天王
   南無上行菩薩大梵天王  提婆達多  大印文也、
         身子尊者
         文殊大=cd=61e6
   南無多寶如耒     鬼子母神十羅刹女
  南無妙法蓮華経     日蓮大=cd=61e6  小續日家聖人 日延(花押)
   南無釈迦牟尼佛 普賢大=cd=61e6  天照大神八幡大
           目蓮尊者
   南無浄行菩薩        大阿修羅王
          帝釈天王
   南無安立行=cd=61e6 大月天王  為・本・末・契・約・、授・与・之・者・也・、      歡成坊日長筑前下向時書之
  我今亦如是説无分別法  信州諏訪郡宣妙山高国寺常住(傍点筆者)
 この本尊には、「為本末契約、授与之者也」と本末の契りを結ぶ為に「観成坊日長筑前下向時書之」とあり、これにより高国寺は小湊誕生寺の末寺となった。身池対論で久遠寺が勝訴し、日蓮教団の潮流が受不施の宗勢に傾きつつある時期に久遠寺の隣国、信濃国でさえも久遠寺方の受派へは同ぜず、不受不施の姿勢を保っていることは注目される。
 この本末契約本尊授与の前年、寛永十年(一六三三)には「寛永の末寺帳」が作成されたが、碑文谷法華寺は久遠寺末ではなく配下寺院として法華宗の帳に記載され、その末寺の把握まではされていない。ゆえに高国寺他、信濃国の谷中感応寺・碑文谷法華寺の末寺の(不受不施の)寺院は一ヶ寺も記載されておらず、「寛永の末寺帳」書き上げ以降に信濃の不受不施寺院は転派・改宗したので、「延享の末寺帳」では久遠寺の末寺に記載されている。ゆえに「末寺帳」で見る限り信濃国の不受不施寺院は、筑摩郡の誕生寺末の妙光寺のみで他は確認できないのである。
 寛文五年(一六六五)の「真志野郷宗門改帳」(21)には、高国寺檀家の九兵衛が同寺の檀家に相違ない旨を奉行所に伝えている。
      高国寺檀那=cd=71ee                              =cd=71ee 九 兵 衛 =cd=71ee
  一従江戸御条目之趣拝見仕候、宗門改ニ付而、拙僧旦那壱人ハ代々法花宗門ニ而御座候、随分吟味仕御帳載申候、殊跡々も度々御改御座候得者、拙僧旦那之内不審成者無之候、自然此上吉利支丹宗門与、申者御座候者、何時も罷出急度申分可仕候、扨又旦那之内審成者御座候者、早速可申上候、為後日如此御座候、以上
    寛文五年                                法華宗高 国 寺 印
     乙巳二月廿八日
    宗門御改
       奉 行 所
 この書状は、真志野郷の寺院が江戸からの御条目の宗門改めに付き、檀家数をすべて書き上げ、寺家の印判が捺されている。同年同じく二月二八日付けで「五人組帳」も共に提出されている。文中にあるように、禁制の対照は吉利支丹宗門で法華宗の不受不施派とは明記されていない。高国寺は自らではあるが身池対論の流罪僧日延に末寺契約をした不受不施の寺院であるのに、その旨は吟味されていないことになる。先の下伊那の不受不施摘発を考えると、同じ信濃国でも地域によってその対応に格差が見てとれる。
 先の高国寺の本寺、誕生寺も連名している元禄四年(一六九一)五月三日の書状で「しかる上はめん=cd=d826=cd=d969ふれしたならびに末寺のともがらゑめい=cd=d826=cd=d969に誓詞いたさせ」とあるが、文中にある「誓詞」を同年五月二七日(22)に碑文谷法華寺に送っている。
  此度悲田不受不施御停止ニ付則受不施改派仕候、永々不可有相違候、若於違犯者日本国中大小神祇並大乗妙典殊者卅番神之於罸可罷蒙者也、依而起請文如件、
     元禄四年辛未五月二十七日
                                   信 州 高 国 寺 日 逞 花押 血判
      本  寺
       碑 文 谷 法 華 寺       
 佐久郡の妙法山実大寺、法清山尊立寺もこれに同じ、悲田不受不施から受派となって久遠寺末に編入されたとされる。元禄四年は四月に悲田新義停止となり、七月には不受不施僧の大検挙(23)が行われ、
  十二日日蓮宗悲田派の輩廿六人は八丈島。廿三人は大島。八人は三宅島。五人は新島。七人は神津島に御流せらる。
と、約七〇名に及ぶ流罪者を出した。元禄四年の悲田新義停止以降に、この高国寺の受不施誓状の他、全国多くの寺院が受派となる起請文を寺社奉行や身延山久遠寺等に提出(24)している。寛文五年の朱印地を受けることによる、形式上の受不施転派(実際は悲田不受不施義の唱導)が発覚したので、幕府は不受不施、悲田派の完全撲滅を図り手厳しい報復措置をとった。
 元禄の悲田壊滅以降、諏訪郡の高国寺、佐久郡の実大寺、尊立寺は身延末に組み込まれ受派に転派(25)することで寺院の存命を保つ道を選ばざるを得なかった。
   四、結び
 文禄の千僧供養会出仕問題、そして寛永の身池対論を期に、教団は社会の中にある仏教教団を意識せざるを得なくなった。王侯除外の「受派」が教団のイニシアティブを握りつつある中、より純粋に日蓮仏教を追及しようとする不受不施思想を持つ多くの者は、祖師以来の宗義の制法を遵守している自覚から、法華宗内の受派勢力と時の国家権力を退けた。しかし、教団内でも大勢を占めていたはずの不受不施思想は、対内的には久遠寺を中心とする「受派」勢力であり、対外的には幕府が、「不受不施」退治の共通の利害のもとに、不受不施寺院への寺請けの禁止、不受不施僧の摘発、断罪をおこない、江戸幕府統治下の社会から締め出した。
 その過程で、不受不施の中心寺院であった、谷中感応寺と本寺碑文谷法華寺は共に元禄十一年(一六九一)十一月、幕府によって天台宗に改宗することを余儀なくされ、信濃国においてもその末寺が不受不施論争のまっただ中にあったことが理解できよう。
 寛永七年(一六三〇)の身池対論における不受派の棟梁池上日樹は南信下伊那飯田に居したが、在地における影響力を及ぼす暇もなく翌年五月十九日に遷化してしまい、由緒ある草庵・寺院すら後世には伝えられていない。しかし、その法派は谷中感応寺末の三ヶ寺の事跡を明らかにすることによって、池上日樹の不受不施思想は、弟子たちによって脈々とうけつがれていたことが理解できるであろう。
 一方、諏訪郡の高国寺も堅固に不受不施を貫いた寺院であったが、伊那郡と諏訪郡では、領主の不受不施措置に対する差違が見られた。その理由の一つに、日樹の配流地伊那郡での不受勢力拡張による反体制運動の萠芽を恐れたのではなかろうか。不安要素を事前に摘み取る為に追及は厳しく行われた。また、信濃全域で共通していることは、切支丹追討が峻刻であった。文禄元年(一五九二)に飯田城主となった京極高知はキリシタン大名であり、「宗門人別帳」に「不受不施・悲田」の文字が無くなっても、「バテレン・イルマン・キリシタン」の追及は近代まで続いた。
 信濃国は寛永期に不受不施僧が二名流された稀な地であり、これを期として不受不施思想が顕在化した。そして日樹の伊那、日進の上田を中心に悲田派寺院が形成されていったといえよう。その反面、北信地域に不受不施寺院は全く存在していない。
 今後はもう一方の流罪僧の地、日進が三十数年に渡り蟄居した上田、中信地域の不受不施寺院の考察を領主仙石氏との関係を交え、信濃国における不受不施派の動向を明らかにしていきたい。
 註
(1)『宗義制法論』三六九頁。(『萬代亀鏡録』所収)
(2)辻善之助著『日本仏教史』では、慶長法難についてその後の不受不施問題へ幕府の措置を考える上で参考にすべきであり、「不受不施前記」と位置づけている。また、天文法難、安土宗論は法論に端を発っしており論争がその原因となっている。身池対論も法論が一因であり、日奥は流罪赦免後の元和九年に「妙覚寺法度」を制定し「問答致すべからず」とし(『万代亀鏡録』巻五〜巻八所収、五四頁)向後の法論を戒めている。
(3)『徳川實紀』四七九〜四八〇頁。(『新訂増補国史大系』第三九巻所収)、宮崎英修『不受不施派の源流と展開』四二二頁等、参照。
(4)影山堯雄「不受不施の法難並びに流僧の生活について」(『大崎学報』第一〇五号所収)
(5)『長源寺誌』によると、本尊が四幅あり授与者銘のあるものは三幅でいずれも在家者に授けている。他博多の妙典寺に「寛永七疾午五月十六日信州伊奈郡飯田書之五十七 歳日樹」と銘記されたものがある。
(6)拙稿「信濃国における日蓮教団の展開」(『現代宗教研究』第三四号所収)参照。
(7)『新編信濃史料叢書』第十四巻、所収。
(8)『江戸幕府寺院本末寺帳集成』雄山閣、上巻所収、七七二頁。
(9)『徳川実紀』第六巻一〇八〜一〇九頁。(『新訂増補国史大系』第四三巻所収)
(10)『日蓮宗宗学全書』(以下宗全と略記す)第二一巻所収、三三五〜三三六頁。
(11)『宗全』二一巻、三三三頁。
(12)『宗全』二一巻、三三四頁。
(13)『長野県史』近世史料編 第四巻(二)南信地方一〇四〜一〇五頁。
(14)『徳川實紀』第六巻、三五〇頁。(『新訂増補国史大系』第四三巻所収)
(15)『遺滴新目録』四八八頁。(日蓮宗不受不施派研究所編『不受不施史料』第五巻所収)
(16)『長野県史』近世史料編 第四巻(二)南信地方、五一八〜五二〇頁。
(17)『長野県史』近世史料編 第四巻(一)南信地方、六五〇頁。
(18)『長野県史』近世史料編 第三巻 諏訪地方、一〇六三〜一〇六四頁。
(19)『宗全』二一巻所収、「日樹書状」寛永七年五月十五日、九〜十頁、日延の配所替えについて宮崎英修著『禁制不受不施派の研究』二三〜二六頁。また日延について、立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史上』五六三〜五六四頁によると、日延は加藤清正が文禄元年(一五九二)朝鮮出兵の際に会寧にて李王宣祖の長子臨海の子であるとしている。
(20)「高国寺文書」(『信濃史料』第二六巻三三一〜三三二頁所収)
(21)『長野県史』所収、近世史料編 第三巻 南信地方、二一二頁〜二二二頁。
(22)今井真樹「高国寺と不受不施」、(『信濃㈼』四〇頁所収)。山梨県教育委員会編『身延山久遠寺「身延文庫」所蔵絵画目録=cd=ba52身延山久遠寺総合調査報告=cd=ba52』七三頁の一九八七番がこれにあたる。『長野県史』通史編 第四巻 近世、一三七八〜三七九頁。
(23)『徳川實紀』一一三頁。(『新訂増補国史大系』第四三巻所収)
(24)山梨県教育委員会編『身延山久遠寺「身延文庫」所蔵絵画目録−身延山久遠寺総合調査報告−』七三頁〜
(25)『牧野康重新知郷村引渡証文』(『長野県史』近世史料編 第一巻(一) 東信地方所収)は元禄十六年(一七〇三)六月の書状で、実大寺、尊立寺は「一、身延久遠寺末寺 法花宗」とあり既に受派に改派している。

※本稿は第五三回日蓮宗教学発表大会で発表した原稿に加筆したものである。

 

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