現代宗教研究第36号 2002年03月 発行
死の臨床における一考察〜死に逝く人とその家族に対する心理的援助について〜
死の臨床における一考察
〜死に逝く人とその家族に対する心理的援助について〜
灘上智生
(現代宗教研究所研究員)
はじめに
ビハーラという言葉は、近年宗門において良く耳にするようになった。それは、楽しむ事、静かに留まる事、休養の場所、僧院や寺院を意味する。この言葉の意味からも、旧来寺院において、人々に対する精神及び身体を含めた全人間的救済が営まれていたことが類推される。
現在の仏教界は、葬儀や法要といった先祖供養中心の状況にあり、葬式仏教と批判されている。当然、葬式や法要は我々僧侶の重要な役目であり、檀信徒からのニーズもそこにあるといって良い。だが、先祖供養以外のものを提示してこなかった仏教側の問題も存在している事は否定できない。この様な現状を打ち破るべく、ビハーラ運動が展開されていると言って良いだろう。
今日の日本では、各地にホスピス病院が設立され、一般にも終末期医療における精神的ケアの必要性が言われるようになった。しかし、末期患者及びその家族に対する精神的援助はまだまだ十分とは言えない現状がある。宗門でも、末期患者とその家族に対する僧侶の取り組みの重要性が指摘され、「ビハーラ講座」と銘打って研修会も開催されている。私も、その講座を受講し、自分なりに勉強してきたが、それはまだお見舞いの域を出ないといった感がある。その為、現在の精神医学並びに心理学における死の臨床での取り組みを学び、一方で仏教の先師の臨終についての取り組みを調べる事により、より良い臨終を迎える為にはどのような事が必要かを考察したい。そして、それが今後のビハーラ活動の一助となればと考えている。
第一章 現代の死とその問題点
我々はこの世に生を受け、そして死んで逝く。人間の死亡率は一〇〇%である。人は一人では生きることが出来ず、集団を形成して生活する。そして、死ぬ時も一般には、近親者に看取られ逝くのである。その様な死の看取りは、人類の誕生以来続いてきたのであろう。近年、医学・医療の進歩は目覚しく、平均寿命も伸び、世界でもトップの長寿国となった。しかし、現代医学はただひたすらに救命・延命を重視し、死の看取りには大して注目もしなかった。その様な状況下、様々な問題が生じ、人々はそれに対し疑念を持ち、現代医学は反省を迫られることになった。以下詳しく現状を見てみたいと思う。
第一節 現代の死の特徴
(一)病院における死
死というものは、早い遅いの違いはあるが、我々に平等に訪れる。しかし、その死を取り巻く状況は、時代により変化している。我々の思考回路の中には、人が病んだらすぐ病院へ行くというステレオタイプが形成されてしまっているようである。昔の人は、自分の家の畳の上で亡くなることが多かったのであろう。現に、人に何処で死にたいかと聞くと、自分の家の畳の上で家族に看取られてと言うであろう。統計を見ると、戦後の昭和二五年では、九割の人が自分の家で亡くなっている。病院における死は、一割に満たない程度であった。それが平成九年では、八割の人が病院で亡くなり、自分の家の畳の上で死ねるのは二割程度の人しかいないのである。(1)
ではなぜ病院における死が、これほどまでに多くなったのであろうか。当然、病院数が増加し、誰でも病院にかかることが出来るようになった。また、医学の進歩により、治療技術や延命技術が発達し、人々の病院志向が生じたこともあろう。しかし一方では、家庭の核家族化などにより、重病人や末期患者を家族が看病できない状況になってしまっている。また、家族も大変な看病は病院に任せるという、家族の絆の希薄化が影響しているのではないか。
(二)孤独な死
右記でも述べたが、人に何処で死にたいかと聞くと大概、自分の家で家族に囲まれてと答えるであろう。しかし現実は、病院で一人寂しく、医療機器に囲まれて逝くことが結構多いようである。家族の面会も制限されることもあり、最期に家族に言っておきたいことがあっても伝えることが出来ず、遺された家族としても最期を看取れなかったという後悔の念が残ってしまうことになる。
なぜこの様なことになってしまうのであろうか。病院の中では、死はタブーであり、また医者にとっては、死は敗北である。従って、どうしても治っていく人たちの治療が優先され、死に瀕した人や医学的に治療が困難な人は、取り残され孤独な状態におかれてしまう。一方で、死に瀕した人たちには過度なる治療が施され、不必要な苦痛が強いられることとなってしまうため、彼等の家族も高度な医療のもとでは邪魔物とされ排除されるのではないだろうか。
(三)科学的な死
昔の臨終のステレオタイプといえば、畳の部屋の真ん中に布団が敷かれ、そこに寝ている病人の周りを家族や親しい人が取り囲み、お医者さんが「御臨終です」の一言をもって、周りの人が故人を惜しみ涙を流すというものであった。そこには死に逝く人と遺された人との交わりの中に、情緒的なコミュニケーションが存在したように思う。この様な場面を通して、人は死の厳粛さというものを心の中に刻み込んできたのである。
しかし、今ではこの様な体験のできることは少ない。病人は機械に繋がれて、すべてが医学的な数値によって判断される。家族は、病人を見守っているというより、機械の数値を見ている錯覚を覚え、大切な人が亡くなったという情緒的な悲しみよりも、心拍数がゼロになった、脳波がフラットになったから死んだのだという科学的な死しか味わうことができないのではないか。
(四)バーチャルな死
現代の人々は、現実の死を体験することが少なくなっている。ましてや息を引き取る臨終の場に居合わせたことなど滅多に無いであろう。一方で、テレビでは毎日多くの人が死ぬ。またテレビゲームの格闘物では、対戦相手の一方が死に、また生き返ったりする。いわばバーチャルな死を経験していることになる。このような虚像の世界における死に慣れ親しんだ若者たちが、死の厳粛さや命の尊さを学ぶことができるのか疑問である。若者の命を軽視した行動が目立つが、この様な現実の死を体験できない状況にも、原因があるのではないだろうか。
第二節 病院における死の問題点
前節では、現代の死の特徴を述べたが、中でも一番大きな特徴は、病院における死の増加である。現代では、病院は病気を治療する場所であると共に、死を迎える場所になっている。約八割の人が病院で死を迎えるのであるが、あまり病院で死んで良かったということは聞かない。対応のまずさなど負の面がよく新聞などで取り上げられている。ならば現代の病院は死に場所としてはあまりふさわしい場所ではないということになる。以下では、病院における死の問題点を考えてみたい。
(一)果てしない延命努力
病院には病人が自分の病を治そうと思って行くわけであるから、本来ならばできる限りの十分なる治療を受けることは、当然のことであるし、有り難い話である。しかし病人が余命幾ばくも無い末期の患者であれば話は別である。医者には、医療が迫り来る死を克服するかもしれないという期待があり、たとえ敗北が明らかであっても死を認めない姿勢こそが、死に逝く人への医者の義務であるというかの如くである。しかし末期患者に過度の治療を施すことは、彼等の病気の苦しみだけでなく、治療の副作用の苦しみも加わり、二重の苦しみを経験させることになる。死と闘うのは患者ではなく医者の役目となってしまったかのようである。
(二)精神的ケアの不足
病院は体の病気を治すことに重点がおかれ、従来精神的ケアは御座なりにされてきた感がある。人の心と体の間には密接な関係があることは明らかであり、医療には人間を全人的に捉える視点が必要である。確かに、お医者さんも看護婦さんも非常に忙しく、時間を取る事は困難であろう。病棟においては、回復可能な患者に時間を取られてしまい、末期の患者は孤独を感じ、不安や恐れを持って毎日を過ごす可能性がある。
(三)個の軽視
末期患者にとっては、病院は人生最後の場であり、人生の総決算の場であるから、その人らしさを尊重する事が非常に大切である。病院側にとっては、人が亡くなることは日常であるが、末期患者やその家族にとっては一度きりの非日常である。病院は大勢の患者を抱えているため、個性の尊重には限度があるが、できる限りの配慮をお願いしたい。
また医者と患者・家族との関係も権威主義的なパーターナリズム(家父長主義)で成立しており、治療が医者の独断に任される事が多く見られた。しかし近年この点に関しては、インフォームド・コンセントやカルテの公開などにより改善されつつある。この反面、患者側の自己決定の割合が多くなり、過度の責任やストレスを掛けてしまうマイナス部分もある事に注意しなければならない。
[引用文献]
(1)『臨床死生学事典』河野友信、平山正実編 日本評論社(二〇〇〇)七三頁〜七四頁
第二章 末期医療について
前章で、救命・延命中心の医療に対する現状とその問題点を見てきた。そしてこの様な状況下、日本では科学技術中心の医療の反省から、末期患者に全人的医療が施されるターミナルケアの研究が盛んになってきた。以下において、ターミナルケアではどのような事が行われているか概要を述べる。
第一節 末期医療とは
末期の患者には、死の直前まで高度な医療が施され、少しでも延命を図るのが普通であった。しかし末期医療においては、患者にインフォームド・コンセント(説明と同意)が分かりやすい言葉で行われ、それによって患者もその家族も現在の病状を十分に把握し、治療に関しても自己決定できるような、患者中心の医療が注目されるようになった。救命が不可能となれば、医師はキュア中心からケア中心の医療に移行する。この背景には、医師の死を敗北と考えタブー視する従来の概念からの脱却があると考えられる。患者の残された時間が痛みの無い平安な生活になり、人生の最後における自己実現が出来るように援助する事が医師には必要とされる。この様なケアが施される事により、患者と家族、患者と医療者、患者の家族と医療者の三者の関係は良好となり、互いに援助しあうことができる。この三者の関係は、患者を中心として形成され、患者の症状の緩和が大切であるが、末期患者を抱えた家族の悲嘆に対するグリーフワークも重要である。また医療者は絶えず大きなストレスにさらされており、いわゆる燃え尽き症候群(バーンアウト・シンドローム)に襲われる危険性があるので、これに対する援助も必要とされる。以下末期患者の症状の緩和を中心に要点をまとめる。
(一)精神的ケア
患者は死が近づくと、孤独・不安・落胆・抑鬱・怒り・悲嘆など精神的な苦痛を感じるようになる為、それらに対するケアが必要になる。ケアを行う為には、まず患者の側に腰を下ろして、患者の話を聞くことから始まる。患者に孤独を感じさせないようにする事が大切である。このことにより患者との信頼関係が築かれ、精神的苦痛に対しての対応が可能になる。末期患者の心理的プロセスとその援助については後に詳述する。
(二)身体的苦痛の緩和
末期患者にとっての最大の苦しみは痛みである。痛みを取り除く事により、身体的活動が可能になれば、患者その人なりの効力感が味わえ、精神的にも安定し、患者のQOL(命の質)を高める事ができる。
(三)社会的生活への援助
患者は入院が長くなるにつれ、社会的別離を受けることになる。日常生活から隔離させた状態で日々暮らす事は、社会的生活の充実度が低い事になる。人によっては、社会的な仕事のし残しがあり、心を残してしまう事になる。日常生活からあまりかけ離れないように環境を整え、患者が十分なケアを受ける事が出来るような援助が必要である。
(四)宗教的満足度
人は、死が近づいてきた時に、一体なぜ自分がこんな目に会わなければならないのか、と疑問を持つ。これは、いわば実存的疑問である。これは精神的苦悩を越えた魂の苦悩といえる。また、今迄の自分の人生を省みて、人生の意味や目的を問い直す事もある。この様な疑問に対して、どのように答えたら良いのであろうか。この様な場合、宗教的な援助が必要となる。患者に寄り添う宗教者が、自分の価値観を押し付けるのではなく、患者の声に十分耳を傾けることが必要とされる。
第二節 末期患者の心理と精神的ケア
前節で述べたように、ターミナルケアは、現代の高度に進歩した医学のアンチテーゼとして存在し、特に精神的ケアを重視していることがわかる。病人が死の告知を受けた時、どんな気持ちになり、その後の治療の過程では、どのような心理的変遷をたどるのであろうか。そして、その心理的変遷に対してどのような心理的ケアが可能であろうか。本来であれば、多くの臨床をこなし、経験をもとにして論じるのが筋であるが、現状では不可能な為、キュブラー・ロスの『死ぬ瞬間』を参考にまとめてみたい。
(一)キュブラー・ロスによる末期患者の心理プロセス
アメリカの精神科医キュブラー・ロスは、二〇〇名あまりの癌患者にインタビューを行い、その人たちが告知を受けてから死にいたるまでの心理的プロセスを五段階に分けている。以下、各段階の概略と精神的援助者(セラピスト)の可能なケアを述べる。
㈰否認
癌の告知を受けた時、人は自分に限って癌になどなるはずがない、それは何かの間違いだといった、否認の気持ちをもつと述べている。否認は、告知による患者の最初の反応であるショックから導かれ、不快な痛ましい事態に対する健康な対処法であるといえる。セラピストは、患者を理解し、慰め、精神的に助け、患者のニーズにのみ関心を払うようにする。その際、患者の要求を引き出し、患者の強さと弱さを知ろうと努める。患者がどの程度現実を直視する事を望んでいるかを判断する為、患者の露わな、あるいは秘匿されたコミュニケーション徴候を捜すようにする。(1)
㈪怒り
次に否認から怒りに患者の心は移っていく。自分や周囲の人に対して、なぜ自分が癌になどならなければいけないのか、他人ではなくなぜ自分がという怒りが生じるのである。この段階では、対処が難しい。患者の立場になって考え、怒りが何処から来るのかを考える。患者は、人から忘れられないようにしたいのである。何でもかんでも患者をおとなしくさせておこうという回避の態度は、死の直視からの防衛となってしまう。怒りにより、解放が得られ、鬱屈したものの放射により最後をよりよく受容できるようになる。その怒りを許容する事は大切であり、それは我々が恐れを抱かず、自己防衛的にならない時のみ可能である。(2)
㈫取り引き
怒りのプロセスを経て、患者は取り引きの段階に移る。特にキュブラー・ロスは、神との取り引きという事を言っている。自分が癌である事を認めざるをえない、死に至るかもしれない、しかし、もしこの病気が治り元気になったら一生教会へ行きますといった神様との取り引きをする段階がある。この段階では、患者の心の悩みを探り続け、患者の不合理な恐怖感、罰せられたい願望を解放してあげるようにする。(3)
㈬抑鬱
次に多くの癌患者は、抑鬱の段階に入る。なんとなく気分が落ち込み、食欲が無くなってきて、夜も眠れない、希望が持てない、口数も少なくなって誰とも話したくなくなってしまう。キュブラー・ロスはこの抑鬱の段階を、反応抑鬱と準備抑鬱に分けている。前者は、今迄出来ていた事が出来なくなった為に鬱病になることであり、後者は、死を迎える準備をする為の鬱状態と説明している。前者には、積極的な干渉が必要であるが、後者には、黙って側に掛けている事が大切であると述べている。(4)
㈭受容
最終的に多くの患者は、鬱状態を経て死を受容し、亡くなっていく。この時のコミュニケーションは言葉ではなく言外である。沈黙の時間こそ、死にかかった人の前にいても不快感を覚えない人にとっては、またと無い有意義なコミュニケーションの時間となり得る。また早すぎる放棄と受容の段階との識別の困難さと受容性を述べている。(5)
(二)日本の患者の心理
右記のキュブラー・ロスの研究は、アメリカ人を対象に為されたものであり、当然アメリカ人の国民性が反映されている。アメリカでは、殆どの癌患者に告知する為、日本とは異なった結果が出る可能性がある。日本の場合、まだ告知は一般化されていないのが現状である。以下、淀川キリスト教病院ホスピスの『ターミナルケアマニュアル』を参考に日本の末期患者の心理プロセスを述べる。(6)
日本の場合、病名がしっかり告げられていない状況の中で、多くの患者は治るかもしれないという「希望」を持って闘病生活を送る。しかしその希望に反して病状が悪化し、体力が低下する中、これはどうもおかしい、悪性のものではないだろうかという「疑念」が生じる。そしてこの疑いは必ず「不安」に結び付いていく。患者は病気に対する疑念や不安を抱えながら、ある患者は尋ねようとし、またある患者は尋ねずに悶々とした時を過ごすことになる。日本人の場合、尋ねる人が二〇%、尋ねない人が八〇%ぐらいとなるようである。そして尋ねた人は、医者や家族が的確な答えを返さない為に「いらだち」を覚えるようになり、次第に「鬱状態」に移行する。尋ねない人は、いらだちというプロセスを経ないで直接鬱状態に陥る。尋ねない理由としては、恐れ・否定・自制・遠慮・いたわり・受容・あきらめ・不信などがあり、時には全く疑念を抱かない場合もある。いずれにせよ、尋ねない理由を考慮してターミナルケアを進めていく事が重要である。この様な過程を経て、患者は死を迎えるが、死を目前にした患者の死に対する態度は、死を「受容」して亡くなる人と、「あきらめ」て亡くなる人に分けられる。受容とは、患者が自分の生命の終りを静かに見守っている状態である。そこには、死を積極的に受け入れる態度が見られ、看取る者にも温かさを感じさせ、患者と周囲の者との間に人間的連続性がある。そして、患者の死後、看取った者に、これで良かったのだという心の澄みを感じさせる。一方、あきらめとは絶望的な放棄といえる。そこには、現状に対する消極性が感じられ、看取る者にも冷たさを感じさせる。患者と看取る者の間には、コミュニケーションが取れないといった人間的非連続性を感じさせる。そして、患者の死後、看取った者にこれで良かったのだろうかという心の濁りを残す事になる。
(三)精神的アプローチ
右記のような心理的プロセスをたどる患者に対して、どのような精神的ケアが為されているのだろうか。淀川キリスト教病院ホスピスの『ターミナルケアマニュアル』に述べられている内容を参考に見てみたいと思う。(7)
㈰ベッドサイドに座り込む
患者のベッドサイドに立って話すことを避けるようにする。立っているということは、何時去ってしまうか分からず、患者は時間の保証が無い為落着かないので、座って、一定の時間はここにとどまる事を保証する。また座る事により、視線が水平になり、そこに患者とケアする側の立場が平等になる。患者を呼ぶ際は、名前で呼ぶようにし、対等の人格として接する事が不可欠である。
㈪傾聴し感情に焦点をあてる
傾聴とは、積極的に特別の関心を持って耳を傾ける事である。患者が本当に聞いて欲しい、つらい気持ちや悩みを、十分な時間を取って傾聴する事は、精神的な落ち着きを与える事になる。患者の言葉の背後にあるつらさ・苦しさ・悲しさなどの感情に気付き、それに対して「つらいですね」「苦しいですね」「悲しいですね」というように感情を言葉で表すようにする。その事により、患者は自分の気持ちを理解してくれるという気持ちを持つ事が出来、患者とケアをする人との間に信頼関係が生じる。
㈫安易な励ましを避ける
患者を安易に励ます事や、非現実的な事を保証する事は、コミュニケーションを断絶させることになりかねない。患者は、もっと弱音を聞いて欲しいと思っている事が多く、精神的ケアをする側にも弱音を聞ける余裕が必要である。
㈬理解的態度で接する
理解的態度とは、患者の言葉を精神的ケアをする側がこの様な理解で正しいだろうかともう一度問い返す態度である。具体的には患者の言葉をできるだけ忠実に、しかもあまり不自然でなく問い返すと良い。これにより会話は持続し、患者に会話をリードさせる事が出来る。
㈭共に闘う事を知らせる
実際の臨床の場では、どのような言葉を選ぶか重要である。病気の事を「共通の敵」「手強い相手」などと表現する事によって、医療者側が共に闘うという姿勢を患者に伝える事が出来る。
㈮病状の変化に対する布石をする
体力が衰えていく過程の中で、患者の不安が募っていく事が多い。この様な時期には、予想される体の弱りに対する布石をするのが良い場合がある。また予後を伝える事は、身辺整理の問題などで重要になるが、実際月単位前後の予後の告知は難しいため、今やっておかなければならない事は、早いうちにやっておくよう上手く勧める。
㈯質問の機会を与える
患者からの問いを通して、患者の疑問や悩みを聞き出す事が出来、良いコミュニケーションに繋がる。また医療者側では患者は理解していると思っていたことが、実際には理解されていなかった事が分かる場合もある。
㉀希望を支える
患者はどれほど弱っていても、また自分の病状を熟知している患者でさえも、回復への希望を持っている。精神的ケアをする側はその希望や期待が非現実的であっても、それを支える事が重要である。しかしその際、安易な励ましは避けるべきであり、その時の患者の気持ちや心に、一番寄り添うように心掛ける。
㈷非言語的コミュニケーションをはかる
手を握ったり、腕をさすったりといったスキンシップが患者を慰める事が多い。患者に対して明るく振る舞う事や、笑顔で接する事も重要である。患者の死が近くなり、言語的コミュニケーションが不可能となった時でも、医療者には患者のベッドサイドで共に時を過ごすケアが残されている。
以上の内容が、何かをするのではなく、そこに存在する事が大切であるという心強い言葉で結ばれている。内容によっては、精神的ケアを行う人というより、医療者が行う精神的援助も含まれているが、非常に参考になる内容が含まれている。
(四)患者の家族のケア
当然、末期患者に対する精神的ケアが第一であるが、それと同時にその家族に対する精神的ケアが施されなければ、十分とは言えない。以下、淀川キリスト教病院ホスピスの『ターミナルケアマニュアル』を参考に、家族はどのような悲しみを抱き、それに対してどのような援助が出来るのかを考えてみたい。
家族の経験する悲しみの一つに「予期悲嘆」がある。予期悲嘆とは、患者の死を予期して、実際に死が訪れる前に、死別した時のことを想定して悲しむ事である。あらかじめ悲しみ苦悩する事により、現実の死別に対する心の準備をする事になる。この時期は悲しいのは当然であり、悲しみを十分に表現して良いという事が十分伝わるような接し方をする必要がある。
この様な状況で、患者の死を家族が受容できるように援助する事は、難しい事である。患者の死を受容できるかどうかは、患者の年齢にも依るだろうし、それまでの患者と家族の関係にも大きく関係する。十分に患者の側に付き添ってもらうようにして、しっかりと現状を見てもらう必要がある。
遂に、臨終を迎える事になれば、十分に患者と家族との別れが出来るように配慮する事が大切である。またその後、家族の抱える大きな悲しみに「死別後の悲嘆」がある。多くの家族が愛する人を亡くした後、鬱状態を経験する事になる。鬱状態とは、気分が憂鬱になったり、夜眠れなくなったり、食欲が低下したり、物事に対する興味が無くなったりといった症状を示す。この家族の悲しみに対して、どのようなケアを施す事ができるのであろうか。
遺族の悲嘆のプロセスをたどると、まず患者が亡くなり遺族はショックを受ける。場合によっては、死ぬはずがない、死んだのを認めたくないといった否定の気持ちを抱く。その後、亡くなった患者や、周囲の人や、自分に対して、理不尽だと分かっていても、怒りを感じるようになる。また遺族は程度の差こそあれ、その死に対して何か自分は悪い事をしたと、自責の念を抱くようになる。以上の過程を経て、鬱状態に陥る事になる。悲しみのプロセスを全て典型的に経験する人はそう多くはないが、多かれ少なかれ、以上のような悲嘆を感じる事になる。
現在のホスピスでは、遺族のケアの重要性を認識して、ケアのプログラムが組織されているが、まだ十分な状態とは言えないようである。遺族が患者の死を受容し、悲しみから立ち直っていくのを援助する事が益々必要とされるのではないだろうか。
(五)末期医療の現状を踏まえて
右記において、末期医療の現状と末期医療において行われている精神的ケアについてを概観した。これまで、日本の医師は身体的疾患を持った患者に対して、精神的に支えるという事はなかった事を考えると、かなりの進歩といえる。しかし現在一般病棟では、「治療」という思想のもと運営が行われており、あくまでも死はタブーである。そしてそこにおける高度医療によっても救われない死すべき人が、ホスピスへ心の平安を求めにやってくるという構図が出来上がっているように思えてならない。
現代において、末期患者が精神的不安を感じる要因としては信仰心の希薄化や宗教の衰退があげられると思う。確かにホスピスの精神的ケアの中には、右記でも述べているように、宗教的満足を視野に入れた、魂の救済ともいえるようなケアが考えられている事は事実である。しかしそれはまだまだ満足のいくものではないようである。
平成十二年七月八日の朝日新聞に、『ホスピス満足度調査』という記事が掲載された。この調査は、全国ホスピス・緩和ケア病棟連絡協議会(会長・柏木哲夫大阪大学教授)が、患者の遺族を対象に平成十一年八月に実施したものである。全体としては九割の遺族が満足感を持っていると答えている。一方で、「入院待ち」「死亡後の交流」「宗教的援助」「辛い症状の緩和」「差額ベッド」などについてはやや不満傾向が示された。そのほか、「宗教的援助を得られる機会があったかどうか」の問いには、五七%が無回答であった。
この記事から読み取れる事は、遺族全体の九割が満足しているという事で、かなりの手厚い看護が為されている事が想像できる。しかし問題なのは、宗教的援助を得られる機会があったかという問いに対して五七%が無回答という事である。無回答という事は、宗教的援助が為されていないという事と同時に、宗教的援助はホスピスにおいて必要とされていない事を意味するのではないか。ここにおいて、ホスピスが提供しようとする全人間的ケアと、患者家族が望むケアとの間にギャップが生じているのである。患者の家族としては、もう助からない患者だから、痛みをなくして、手厚い看護で、安らかに逝ってくれればいいという思いが強いであろう。しかし、死ぬ本人からすれば、果たして宗教なくして本当に心の安心が得られているのであろうか。自分が死んだらどうなるという実存的疑問は生じないのであろうか。
また望んでも満足のいく宗教的援助が得られないというあきらめがあるのではないか。このことは直接我々宗教者への批判として跳ね返ってくることである。日本人は、生まれた時はお宮参りをし、結婚式は教会で行い、葬式には僧侶を呼ぶといった宗教にはこだわりの無い国民だと言われる。死については、お坊さんに聞きたいという気持ちがあっても、頼める知り合いの僧侶は居らず、一方で現状では牧師さんや神父さんが多く、キリスト教徒でもないのにわざわざお願いする事も憚られるのではないか。
また、死亡後の交流が求められているという事は、遺族の悲しみを癒す為の援助が必要とされていると考えられる。
この様な現状に対して、我々僧侶は患者とその家族に対して、どのような精神的ケアができるのであろうか。次の章ではその事について考えてみたい。
[引用文献]
(1)『死ぬ瞬間』キュブラー・ロス著 読売新聞社(一九七一)六五頁〜八二頁
(2)同書 八三頁〜一一三頁
(3)同書 一一五頁〜一二〇頁
(4)同書 一二一頁〜一四三頁
(5)同書 一四五頁〜一六九頁
(6)『ターミナルケアマニュアル』淀川キリスト教病院ホスピス編 最新医学社(一九九七) 一九八頁〜二〇〇頁
(7)同書 二〇三頁〜二〇七頁
第三章 『往生要集』に見る臨終行儀について
看病・看死・葬送といった一連の営みを定式化した臨終行儀は、死を迎える為の作法と言うことができる。日本における末期患者に対するケアは、平安時代の末期から盛んとなった臨終行儀思想に基づいており、現代で言えば死の準備教育にあたる。臨終行儀思想は、恵心僧都源信(九四二〜一〇一七)の『往生要集』の臨終の行儀がその始まりとされている。以下『往生要集』の概略を見ながら、源信の説く臨終行儀を詳述する。
第一節 『往生要集』について
『往生要集』は六道を輪廻する迷いを捨て、阿弥陀仏の極楽浄土に生まれる事を勧め、そのためには何が大切であるかを説いた著作である。本書の構成は㈰厭離穢土、㈪欣求浄土、㈫極楽証拠、㈬正修念仏、㈭助念方法、㈮別時念仏、㈯念仏利益、㉀念仏証拠、㈷往生諸業、㉂問答料簡の十章からなっている。本書の中心は念仏であり、それには仏の姿を観想する念仏と、仏の名前を称える念仏の二種を挙げ、前者を優位としている。また平生の念仏と共に、第六章の別時念仏では臨終の念仏を重視し、臨終の行儀を強調している。
臨終の行儀については、初めにその行儀を説明し、次にその観念を明らかにしている。初行儀としては、祇園精舎の西北の角、日光の没する所に病人を安置する無常院を造る。煩悩を生じる人は、自分の暮らしている房に置いてある衣鉢衆具を見て、これに執着してしまうので、あえて別所に行かせるのである。日没の姿に即して専心に法を念じる為に、その堂の中に一体の立像を置き、金箔をこれに塗り、表を西方に向ける。その像の右手は挙げ、左手の中には五綵の幡を繋ぎ、幡の脚は地に曳くようにする。病人は像の後ろに寝かせ、左手に幡の脚を握らせ、仏に従って浄土に往く想いを抱かせる。看病する人は香を焚き花を散らして病人の周囲を整え、もし屎尿・吐唾などがあれば随時取り除く。
善導和尚が言うには、行者等が病であろうとなかろうと、命が終ろうとする時は、念仏三昧の法によって心身を正しく整え、顔を西に向け、心は専ら集中して阿弥陀仏を観想し、心と口とを合わせて念仏の声を絶やすことなく、往生の想と、華台の聖衆が迎えに来てくれる想を起こすべきである。病人がもしこの様な姿を目の当たりに見たら、看病人に向かってこれを説き、看病人は聞いた通りにそれを記録する。また、病人がもし自ら語る事が出来ない時は、看病人が色々見たことを問う。もし罪相を説いたならば、傍らの人たちはそのために念仏し、共々に懺悔して必ず罪の消えるようにする。そしてもしその罪が消え、華台の聖衆が現れたならば、これも前に準じて記録する。また、行者等の眷属や六親が来て看病する時は、酒肉五辛などは食べてはならない。もしその様な人がいたら絶対病人の側に行ってはならない。病人は正念を失い、鬼神交乱して、狂死し、三悪道に堕ちるからである。願わくは行者等は良く自ら慎んで奉持し、共々に見仏の因縁を作るようにしたいものである
望む事の相を思い描く事は、その事が成就する事を助ける事が良く知られており、それはただ臨終の時ばかりでなく、平常の場合にあっても同様である。道綽和尚が言うには、各自がよろしく信心を起こして、かねて自ら念仏に勤め、善根を堅固にするべきである。仏陀が告げて言われたように、人は善行を積めば、死ぬ時に悪念がなく、それは樹の先の傾き倒れる時に必ず曲がっている方向に従うようなものである。もしひとたび死の瞬間が訪れると、色々な苦しみが身に集まり、もし念仏の習性がそれまでに身についていなければ、にわかに念仏を思い立っても、どうする事も出来ないであろう。各自は三人から五人の同士とあらかじめ約束を結び、臨終の時には互いに諌めあって、弥陀の名号を称え、極楽に生まれる事を願うようにする。
以上臨終の行事について要旨を述べてきた。浄土信仰では西方というかなり限定された方向性を持つ浄土観があり、それは太陽の沈む方角と一致し日本人の心にかなりリアリティを持つ形で刻まれてきたと言えるのではないか。金箔に塗られた仏像を西側に置く事により、その後方に寝ている病人は、日没時の温かい光で後光のさすように輝いた仏像を拝むことになる。また仏像の左手と病人の左手は五色の幡で繋がれており、病人からすれば仏様に西方浄土へ連れていってもらえるという安心感を得ることができるであろう。人は、自分ではどうにもならないような状況に置かれた時、人知を超えた存在に全てを任せるという事の大切さは、この多様化した現代社会においても大切な考えであると思う。
また、浄土へ往生する為には臨終の時ばかりでなく、平常の場合でも自ら念仏に勤め、善根を堅固にしなければならないことが説かれている。いくら立派な仏像を作り、偉い僧侶を読んで西方浄土に行こうとしても、病者の信仰がなっていなければ極楽に生まれることは困難なのである。志を同じくした同士とあらかじめ約束を結び、自分の往生も願うし相手の往生も願うということにより、臨終の時だけでない、平常の念仏が可能となるのであろう。人と人との関係が希薄になっている現代において、もう一度取り戻さなくてはならない大切なものを再確認させてくれる。
次に、臨終の勧念(臨終に念仏を勧めること)について述べている。親しい友や修行を共にする者の中で、志しある者は、仏教に従い人々を利する為に、また自らの良い功徳の結果、縁を結ぶ為に、病気になった当初から病床を訪れて、念仏を勧めるべきである。ただ、その勧め方は、それぞれの人の考えに任されて良いのであるが、今しばらく、私自身の為に勧める言葉を決めておく事にする。
あなたは年来、この世の望みを捨てて、ただ西方極楽に生まれるための行為である念仏だけを勤めてきた。今や既に病床に臥し、不安で恐れずにはいられない。まさに目を閉じ合掌して、一心に誓いを立てるべきである。仏の相好以外には、他の色を見てはならない。仏の教え以外に、他の事を説いてはならない。往生の事以外に、他の事を思ってはならない。この様にして、もしこの命が終わった後、宝蓮華の台の上に坐り、阿弥陀仏の後ろに従って、多くの菩薩達に囲まれて、十万億の仏の国土を過ぎる間も、またこの様にして、他の境界に心を向けてはならない。ただ極楽浄土世界の七つの宝で飾られた池の中に至って、初めて目をあげ合掌し、阿弥陀仏の尊いお姿を見て、深遠な仏の教えを聞き、多くの仏達の功徳の香をかぎ、教えや観想によるしみじみとした喜びの味を嘗め、多くの菩薩達に五体投地し、浄土からこの娑婆世界に戻り、人々に手をかす普賢菩薩の誓いを悟って行うべきである。
臨終行儀の中心の一つは、病人が死に臨んで不安に襲われ、どうすることも出来ない時に、安らかに息を引き取るためにはどうしたら良いかという、菩薩行という慈悲の心から出てきたものといえる。現代で言えばイメージ療法とでも言えるのではないだろうか。仏に見守られている中で息を引き取り、安心した気持ちで静かにこの世を去ることができるのである。
次に、今は大切な時であり、一心に聞き、一心に念ずべき十の事がある。一々の念ごとに疑心を生じてはならないと述べている。詳細な説明は浅学な私には困難であり、また細かな教義の内容を述べる事はこの論文の趣旨と外れてしまうため、要点だけを挙げ、その中で病人への看病に関わる記述を見てみたい。
㈰三宝を念じ、邪を翻して正に帰すべきである。
㈪一心に阿弥陀仏を念じて、この苦界を離れるべきである。
㈫まさに浄土を欣求すべきである。もし臨終の時、十遍阿弥陀仏を念じるならば、必ずかの安楽国に往生できる。
㈬浄土に往生しようと願うならば、そのための業を求めることが必要である。
㈭菩提心を発して阿弥陀仏を念じ、願わくは私にも一切の衆生に喜びを与える為に、今日決定して極楽に往生せしめ給え。南無阿弥陀仏との念を起こすべきである。
㈮今は専ら阿弥陀如来を念じて、往生浄土の修行を一層効果あらしむべきである。
㈯阿弥陀仏の一つの色相を念じて、心をその一点に集中させるべきである。
㉀大悲の光明は、常に十方世界の念仏の衆生を照らし、摂取して捨てることがなく、決定して来たりて照らすと知るべきである。
㈷大悲の願を疑ってはならない。もし病者の気力が次第に衰えてきた時には、仏は観音・勢至その他多くの菩薩と共に来られて宝蓮華を掲げ、あなたを引摂しようとしておられるというべきである。
㉂正しく臨終の時には、最期の心であり、臨終の一念は百年の業に勝っている。もしこの瞬間を過ぎると、次に生まれる処が定まるであろう。まさに一心に念仏して必ず西方の極楽に往生すべきであり、願わくは仏、決定して我を引摂したまえ。南無阿弥陀仏との念を起こすべきである。このように、病者の気色を見てその場合場合に従うべきであるが、ただ一事をもって最後の念とすべきで、多くの事を求めてはならない。言葉遣いや、振る舞いには殊に心を用い、病者の心を乱すような事があってはならない。
右記のような事が述べられ、どのような気持ちで念仏を称えれば、無事に極楽に往生するかが説かれているのである。この記述によりただ念仏を称えること以上に、イメージが湧き、臨終時における安心感が得られることになる。死後の安心までも考慮したケアは、現代では忘れ去られた癒しを与えるものとして、一考の価値があるのではないか。
第二節 臨終行儀の実践
源信の『往生要集』完成後、比叡山の横川の楞厳院などで、二十五三昧会という念仏三昧を実践する結社の運動が起こった。三界六道の苦しみから離脱する為に、二十五種の三昧を行い、六道で受けた苦しみから人々を救済すると同時に、自己も同行者も共に解脱する事を中心としたものであった。二十五三昧会は、源信が著わした『横川首楞厳院二十五三昧起請』をもとに念仏三昧が実践された。『横川首楞厳院二十五三昧起請』の概要を見ながら、臨終行儀の実践がどのようなものであったかを概説する。
この『横川首楞厳院二十五三昧起請』には、極楽往生を願う為に、今日から始めて、それぞれの寿命が尽きて息を引き取るまで行うべきである事が説かれている。以下その起請を列記し、病者への看取りに関する所があれば詳述する。
㈰毎月十五日の夜を期日と定めて不断念仏を修すべきこと。
㈪毎月十五日に、正午以後は念仏を行い、それ以前は法華経を講ずる事。
㈫十五日の夜に集まった人たちに中から、順序を定めて仏前に灯明を奉る事。
㈬光明真言で加持をした土砂で死者の遺骸を埋める事。
㈭この二十五三昧に結縁した人たちは、お互いに永く父母・兄弟のような気持ちでいなくてはならない。
㈮この二十五三昧に結縁した人々は、これを発願した後は、おのおの身業・口業・意業の三業を慎まなければならない。
㈯この二十五三昧の結縁衆の中に病人が出た時は、皆で心を配ってやらなければならない。
我々が病気に罹るような事になったら、まず親しい友人にその事を告げ、病気が更に進むような事があれば、これを童僕に告げ次のように頼むべきである。「私は既に重病を受け、もはや死ぬ事は確実です。あなたは、私が普段心に思っている事を悉く成し遂げて下さい。仏法を興そうという弘誓、罪障を懺悔しようとする善心、父母に孝養を尽くそうという忠誠心、施与を修行しようとする事、これらのことが、死に臨んで速やかに成し遂げなければならない事です。あなたが考えている事があったならば、私に話して下さい。普段思っている事、常々考えている事を残らず話し合いましょう。また、今より後の臨終の時まで、私に世間のつまらない話は聞かせないで下さい。私は、死後の煩悩を離れて清浄無垢の世界に生まれる事を願っているものです。どうか私を看病してくれる人は声を出して念仏して下さいと願うだけです。」
㉀この結衆の中に病人が出た時は、順序を決めて、互いに病人を看護したり見舞ってやったりしなければならない。
黄昏時になったら、皆うちそろって病人の所に行き、共に念仏を称えて、その声を病人に聞かせる。これをお互いが丁重に行っていれば、極楽に生まれ変わる事ができる。病人を看護するのは、ちょうど父母に使えるような気持ちでやらなければならない。二日を一番として、二人が宿直をして病人を看護し、その間は何時も念仏を称え、往生の業を勧めなければならない。二人で宿直するのは、一人は何時も病人の傍らにいて、その容態を見て、急変したらすぐにもう一人に知らせる為である。よく看護して、病状を見てやりなさい。怠けてはいけない。またその間は横になってもいけない。
㈷房舎一宇を建立してこれを往生院と名付けて、これに病人を移す事。
阿弥陀如来を安置し、結縁衆一同の終焉の所とする。また、病人が臨終に及んで三愛(眷族・家財に対する境界愛、自分の身に対する自体愛、当来の生所に対する当生愛)を起こすことがないように、その手立てを考える。そして、方角・日時の吉凶を論じず、皆ここに移して、それらの人々を養う。また、浄土の説にいうように、仏像を西に向け病人はその後ろに従わせ、仏像の右手のうちに五色の幡を結び、これを病人の左手に持たせ、ちょうど仏に従って往生する思いをさせる。焼香や散華は病人を荘厳するものであり、調味・撰食は病人を養う為のものである。さらに、一個の棺を置いて、火葬の為に備えておく。
㉂景色の良い所に安養廟と名付ける一画を設け、卒塔婆一基を建てて、一同の墓所と定める事。
㉃我々の仲間の内に死者が出た時は、葬儀を行って念仏を称えなければならない。
㈹起請の趣旨によらず、怠りなまける人を、我々の仲間から外さなくてはならない。
この様な二十五三昧会の実践は、志を同じくして集まった結縁衆が、互いに助け合って念仏し、阿弥陀如来にお任せすることの大切さを弘めようとしたといえる。修行者といえども、一人では心細く修行を継続することは困難であろうが、大勢で助け合うことによって心の平静を保ち修行に集中できると感じていたであろう。
また看病・看死と葬送が連動しており、生と死の境界を越えた魂の救済が為されているといえる。
今日高齢社会となり、如何に幸せな死を迎えるかが重要な問題となっている。今から約千年前に信仰を基にし看取りが行われていたことは、現代社会に対しては先駆的な意義を持ち、我々が模範とすべき形が存在したことは驚きである。
まさに日本のホスピスの源流とも言える。だが疑問が無いわけではない。実際の所、死に瀕した病者に対して、念仏を称え極楽往生を願うという消極的で不安定な方法が中心となっていて大丈夫なのであろうか。この世はもうあきらめて、来世の極楽世界を願うという方法では、来世観の欠如した現代人に通用するのだろうか。また人は何時どのようなことで死を迎えるかわからず、臨終時に仏様が迎えに来てくれるような徳を積んだ人は少ないのではないだろうかと思ってしまう。
第四章 『千代見草』に見る臨終の心得
前章では、『往生要集』を中心に臨終行儀を見てきたわけであるが、その臨終行儀が、どう社会に浸透するかが問題である。歴史的に見るとその後、臨終行儀は浄土教のみならず、日本仏教の諸宗派で行われ、臨終行儀が受け継がれていった。それでは次に日蓮宗の臨終行儀のテキストである『千代見草』を参考に本宗の臨終の心得を見てみたい。
日遠上人(一五七二〜一六四二)の著作とされている『千代見草』を参考に江戸時代ではどのような臨終の迎えかたをしていたのかを調べ、現代の技術偏重の医療に足りないものを考えていきたい。まず、『千代見草』には、どのような事が書かれているのか要旨を記述しながら多少の感想を述べたいと思う。
第一節 『千代見草』の要旨
【千代見草上巻】
(序)
今も昔も、人の身の上に起こる死には、知り得た顔をしていながら、いざ自分の身に降りかかるものであることを心得ていないのが常であるので、臨終の導きとなる経論、遺文、古人の言葉を書き集めて千代見草と名付けたという執筆の理由が述べられている。 これは現代の死生学にも通じるものであり、いつの時代でも三人称でない一人称・二人称の死は大きな問題だった事が伺える。
(一)世の無常と臨終の用意の必要性
宗祖日蓮聖人は「先づ臨終の事をならふて後に他の事をならふべし」と述べられている。大方の人は、年を取らなければ死なないと思っている。速やかにすべきである臨終の用意を後回しにするのは誤りであり、このまま三途の川へ行けば人となることは出来ない。人々の現状は悪道に落ちる支度に余念がなく仏になることは出来ない。人は無常を心に思っていない為に真剣に修行をしないのである。心を専一にして南無妙法蓮華経と自分でも唱え、他の人にも勧める事が大切であることが述べられている。
現代社会では死は隠すものであり、あたかも自分の命は永遠であるという錯覚に陥る。しかし我々の死亡率は一〇〇%であり、死は老若に関わらず突然訪れるのである。そのことを肝に銘じて、自分が臨終を迎える為の準備をしておかなければならないのである。その準備こそが、臨終を迎えた時の自らの心の安定や家族の安心にも繋がるのではないだろうか。
(二)臨終の用意としての十種の心の大きな歪みを直す方法
人は何時も善い事を行い、臨終の事を心にかけていれば死ぬ時に悪念を抱くことがない。そのためには常々心が歪まないように育てる事が大切である。まず十種類の心の大きな歪みを直す事が必要である。
㈰殺生
慈悲心が無い為、虫を無闇に殺すが、自分のみに当てはめて考えると、世の中に死ぬ事ほど恐ろしい事はなく、命はどんな宝より尊いのである。父母兄弟を殺した人が居ても殺し返す事をしてはいけない。復讐はその報いを永久に続けることになり、命を殺す事は、地獄に堕ちてしまい取り返しがつかない。虫を殺す事を小罪と軽く見てはいけない。知らぬ内に殺してしまっても懺悔の心を起こして罪の障りが無くなるようにお題目を唱える。
㈪盗み
たとえ僅かな物であってもことわりが無ければ盗みである。菩薩はどんなに小さなものであっても、人に役立つ物を盗み取る事は、大罪である為、決してしない。
㈫邪婬
苦しみの根、一切の悪業の本であり、老いたるも若きも、智あるも愚かなるも変わるところが無い。邪婬を止めずに仏教修行しても仏になることは出来ない。
㈬妄語
自分の利益の為に、偽ったり人に損をさせたりといった事は悪道に永遠に堕ちる事であり慎むべきである。
㈭大酒を飲む事
自らも飲まず、人にも強いて飲ませるべきではない。常に大酒を飲む人は心気ままになり思っている事も実行できず、好んで行う事も乱れ、やらなければならない事も怠り、常に乱れる心である為、臨終の時にも心が乱れやすくなる。
㈮説四衆過悪罪
在家・出家の悪事を知らない人に語る事。自らも語らず、他人に語らせるべきではない。人の善は誉め、悪は覆い隠すべきである。
㈯自讃毀他
自分の小善を誉める為に人の大善を謗る事。仏法では人の悪事を自分の身に受け、良き事は人に与える事を習いとする。
㉀慳貪
一、財慳貪 人に物を与える事を惜しみ、自らの為に用いる事も惜しむ。
二、法慳貪 自分の知っている仏法を惜しんで、説き広めない。
三、家慳貪 自分のしている職業を人がするのを快く思わない。
四、住処慳貪 自分が居たいという場所に、他人が居る事を嫌う。
五、讃歎慳貪 自分よりも他人の方が優れているのを不本意に思い、人の善を誉めない事。
㈷瞋恚
叩かれたり、悪口を言われたり、謗られたり、辱めを受けても、堪え忍ぶ事が仏法である。相手が後悔して謝っているのに怒って許さない人は、いくら善い事をし功徳を積んでも、意味が無く悪道に堕ちてしまう。怒りを堪え忍べば、心は和らぎ、国土も清らかになる。打たれるのはかつて打ったゆえ、憎まれるのはかつて私が憎んだ為の報いと思えば恨む事も無い。憎い人も良く考えれば私にとって善き指導者である。この様な人がこの世にいなければ忍辱の修行は出来なかったのである。
㉂誹謗三宝
仏・法・僧を謗る事は最も罪の重い事である。仏を言葉で謗らなくても、後生をこだわりすぎる有様を見ると、仏を侮っているのと同じ事である。
以上十種の心の歪みを常に心がけて直さなければ、三悪道に堕ちるのであると述べている。
我々は普通、末期のケアを考える場合、当然人が病み、死が近づいてくるという事を前提としている。しかし死は、生の延長線上に有り、満たされた生無くして、満足の行く臨終は迎える事が出来ないのは当然である。日頃の生活を如何に送るかという事の重要性を再確認しなければならない。
(三)唱題一遍で成仏できるのか
ただ一遍、南無妙法蓮華経と唱えて成仏する事は本当である。法華経の一句一偈を聞いて、一念でも随喜すれば仏になる。釈尊の子供である、題目を唱える法華経の修行者が信心が弱く、法華経の修行、慈悲を疎かにして、悪業を行うのは有り得ない事である。前世の功徳にて、富貴に生まれた人が堂塔を建立し、僧侶に供養しても、信心が弱ければ意味が無い。如何に身分が低い者でも志が高ければ成仏は疑いないと述べられている。
(四)臨終の一念の大切さ
仏になることは決して難しいことではない。しかし、仏法は今生で初めて聞く教えであるから未だ十分に心に染み込んでいない。諸々の苦の原因は貪欲であり、中でも婬欲こそが根本原因である。儚い命を仏法に捧げると常に思っていなければ、臨終の時に今が最後であると思うと、命も惜しくなり、妻子に名残も尽きなくなる。過去の遠い昔から生まれ変わり死に変りし、貪・瞋・痴の三毒に浸ってしまっている。貪欲のゆえに妻の為に命を捨て、瞋恚のゆえに僅かな怒りの為に身を滅ぼし、愚痴のゆえに子の為に身代わりになるなど、迷いのゆえに惜しげもなく命を捨ててきたのに、未だ仏法の為には、命を惜しんで捧げようとしないから迷いの凡夫のままでいる。後生を願うのならば、心が三毒に染まるのを避け、仏法以外の物には心を閉ざし、浮世のことは心に入れず仏身となるまで題目を忘れないように、手に念珠を離さずただお題目を唱えるべきである。
臨終の時の一念により、来世の善悪が決まるので、その際の心掛けが大切になってくる。どの様にすれば臨終の一念を正念に保つことができるのかというと、二種類の多念の心掛けが大切である。
第一の心掛けは、三宝諸天に向かい、全ての思いを捨て、法華経を読み、題目を唱える。そして自分の死期を知り、臨終を正念に導く僧侶に会い、菩提に至ることが出来るように祈ることである。後世を思い願う人は、自分のことは言うに及ばず、子孫の行く末のことや、手足の息災のことなど祈るべきではなく、臨終正念の祈りに専念すべきである。
第二の心掛けは、常日頃から自分の臨終は今だと思って題目を唱える。そうすれば、三宝の擁護と一体となって、臨終が正念で成仏でき、貪欲・瞋恚も起こらない。
今が最後の時と何時も思っていることは出来なくても、いつ死期が来たとしても驚かないように身を修め用意しておくべきである。死んだ後、誰かに上げたいと思っている物があれば、生前に上げるべきで、臨終の時になって、ああしよう、こうしようというのは臨終の大きな障りになる。
死んで財を残すことは智者のすることではない。やたらと物を残し、後で争いになったりすることも見苦しい。朝夕どうしてもなくてはならない物だけはあっても良い。それ以外は何も持たないことが望ましいと述べられている。
臨終の際は今生はもう此れ迄と思うので、色々なことが心配になり、かえって心が乱れてしまい死への恐怖が増してしまうのではないか。色々考えるのを止め、集中しお題目を唱えることが心を落ち着けることに繋がるのである。心を乱す要因として挙げられている内容も興味深い。財産分与の件などで遺族がもめたなどということはよく聞くが、死に逝く者として、臨終の用意が自分の為だけでなく、家族の為にもなるという例である。
(五)臨終の心得について
死期が近いと知ったら、沐浴をして身を清め、新しい衣服を着ること。そして本尊をかけ、灯明を付けて、香をたき、数回鈴を鳴らし、心を鎮め、大勇猛の信心を持ち題目を唱えるようにする。常に仏法を信じる人で、生を厭い、死を願う人は多いが、その様な人もあと僅かの命となれば物事に名残惜しくなり、死という字を嫌うようになる。看病人がお題目を唱えるように勧めても、病人が嫌だと首を横に振れば、親類等も気が弱っているのだとお題目を勧めるのを止める。自ずから菩提心が薄くなり輪廻の妄執が強くなり空しく終わることが多い。題目を唱えて気が弱り一日二日早く死んだとしても、本意と思って前々から題目を唱えるように勧めるべきである。患者自身も死期が近くなると、是非とも唱えたいと思っていても、断末魔の苦しみに邪魔されて忘れてしまう。そのため看病人が脇からお題目を唱えるように勧めるのが良い。死期は思いがけず急に来るものであるから、在家の信仰者は周りの人に題目を勧めてくれるように常々頼んでおくべきである。誰と言わず題目を勧めてくれる人が臨終の導師であると述べられている。
死期が近いと知ったら、沐浴をして身を清め、新しい衣服を着るとある。現代医学の進歩により、本来自分で分かったはずの死期というものが、分かり難くなっているのではないか。高度な医療は患者の心の平静を乱すことにもなる。沐浴をし、さっぱりとして新しい衣服を着ることは、気分をすがすがしいものにする。
病苦に責められている人は気弱になってしまうものである。その人に対して、脇より声をかけることは、病人の心を支えることになり、現代の末期患者に対する精神的ケアにも見られることである。
(六)臨終には何を念ずべきか
前々から法華経を読み、要句を唱え、お釈迦様や日蓮聖人に寂光浄土へ引導して下さいと偏えに頼むべきである。死期が近くなると、断末魔の苦しみに迷惑し、是非を弁えることが出来なくなるので、如何なる人も大勇猛の信心で題目を唱えることが中心となる。臨終に南無妙法蓮華経と唱えれば速やかに成仏するのであると述べられている。
(七)臨終の時に飾る御本尊について
臨終の本尊には何の仏を崇めるべきかというと、それはただ題目に尽きる。心の本尊である南無妙法蓮華経を崇めるべきである。
臨終に仏像を拝めば信心も一層起こり良い様に見えるが、日蓮宗ではそれは本意でない。仏像に心を掛ければ、人々は仏像の金箔の色に目が行き、貪着の思いが生じる。仏像を見て、仏というものは見栄えが良く、美しい格好をして、楽そうで自分もそうなりたいと思う心で命が終れば、貪欲の心であり悪い事である。題目は楽とも苦とも、良いとも悪いとも、分別思案できず、諸々の仏も本尊に崇めている為、これに優るものはないと述べられている。
仏教では人間の苦しみは執着から生じるとする。貪りの心を戒めているのである。現代社会で、貪りの心を押さえるのには、限度があるであろうが、絶えず心がけなければならないことである。
【千代見草下巻】
(八)看病の功徳について
真面目な心でひたすら後世の安らかなことを思う人は、病人を看病すべきである。修行の道は様々な道があるが看病ほどの功徳はないと思われる。一方、それによって大きな罪になるのもまた看病である。病が早く治るのも、治る病が悪くなるのも、看病人の心にかかっている。死ぬ人が仏になるのも悪道に堕ちるのも、看病人の働きにかかっており、この一大事に心を集中して看病すればこれに優る善根はこの世には無いと思う。
庶民の有り様は、自分の父母が病気なのに看病慣れしている女性に病人を預け、父母の痛いのも痒いのも知らないでいる。看病を請け負った人は、貪欲から欲得の上でする看病の為、後生や明日も考えず、病人さえ好きだといえば好物のものを与え、毒になるものさえも隠れて与え、良薬が苦いと病人が言えば与えなかったりするので、治る病気も長引いてしまう。死に逝く人は気も弱り、頼りなく、人懐かしい風情となるので、看病人が孫子に優しい言葉を語り掛け、着る物や道具を引き出して、これは誰に上げるのかと自分の欲を引き合いに出して催促するのも嫌なことである。病人は、それによって思い乱れ、菩提心を忘れ、うつらうつらと妄念のみで、臨終を迎えるのは不本意である。
父母の場合でさえこうであるから、使用人ともなれば、病気であることも知らず苦しんでいるのに働かせ、病気が重くなれば、実家に返したりするといった、慈悲も無ければ主従の頼みもない有り様である。
病気であれば誰でも看病するのが嫌かというとそうではなく、吾が子の病気の時は、膝の上に抱きかかえ、脇目も振らず見守り、苦しむ時は子に代わって苦しみを受けたいと思う。それほど子を思うのは、自分の産んだ子であるからならば、自分を生み育ててくれた父母の病気は猶悲しいはずなのに、他人に任せて病状も知らず、まして他人の病気については知らない振りをして尋ねもしない、その様な人の心は誠に嫌な物である。父母、師匠、主君が病気になったら、治す方法は習うことが出来なくても、自らの手で看病すべきである。自ら看病できない家や、また看病されることを嫌う病人もいる。その様な時は、その人のことを束の間も忘れないことである。
善生経には、看病人の持っている財物を看病に使うのを嫌がってはならない。財産が尽きてなくなれば、人からもらって看病すべきである。求めても誰もくれない場合は、三宝の物を借りて用いるべきである。病気が回復し看病が終わったら、十倍にして返し奉ることであると説かれている。
五百問事には、病人の物を病人の為に使う時でも、病人に了解を得て使うべきである。病人の了解無く使ってはならない。もし使ったのであれば、弁償すべきである。返さないことは重罪であると説かれている。
増一阿含経には看病の仕方によっては、早く治る病も長引き、治るはずの病で死ぬこともある。功徳はなく、かえって大罪となる看病の仕方には六種類ある。
㈰薬が合っているかどうか考えずに用いる。
㈪病気の看病に退屈し、物事は成行き次第と思い、無精になる。
㈫僅かなことでも腹を立て、良く居眠りをする。
㈬衣服・食べ物・金銀がほしい為に看病する。
㈭食べて良い物と悪い物、食べさせて良い時と悪い時の案配を良く吟味せず食物を与える。
㈮病人と仲良くせず、話しもせず、心を慰めもしない。
以上の六つの事は心に込めて、慈悲の心で看病すれば、罪にはならない。大方は貪欲が理由で看病する為、この罪を逃れにくいと説かれている。
看病が悪い為、非法の死となることは不本意なことである。今の世の死ぬ人の様子を見ると、七〜八割は非法の死である。
九横経には、仏が比丘に、人が命が尽きない内に横死することには九つの因縁があると告げられたと説かれている。
㈰口に合えば毒の食べ物も貪り食い、薬を嫌う。
㈪食物の分量も弁えず、沢山食べる。
㈫食物の性質を知らず、日頃食べ慣れない物を食べる。
㈬食べて間も無く消化されていないのにまた食べる。
㈭大小便を無理に我慢する。
㈮五戒を守らない。
人を殺し、盗みをし、嘘をついて人に迷惑を掛ければ、公の法律で罰せられて死ぬことになる。邪淫と大酒は病気になって死ぬこともあるし、法律で罰せられることもある。
㈯悪知識(邪悪の法を説く者)に近づく。
体の頑強な人、大酒を飲む人、勇猛盛んな人、無分別な人に常に近づいていると、病気になった時、慈悲心の無い非法な看病を受けて死にいたる。
㉀入里不時
日が暮れて遠くへ出かけたり、朝早くや夜更けに出歩く。
㈷避けるべきことを、避けない。
危険なものに避けて近づかないようにすべきが、近づいて死ぬことを横死という。
できるだけ行いを十分に慎み、定業として与えられた命を息災に暮らす様にすべきである。上記の九つの因縁を慎まないで非法の死となるとしても自分のしたことであるから、悔いても仕方ないことであると説かれている。
四分律には看病して大きな功徳を得る五つの方法が説かれている。
㈰病人の食べ物について、食べてはいけない物と食べるべき物、好きな物と嫌いな物、口に合うものと合わないもの、食べるように勧めるべき時と勧めてはいけない時を良く考える。
㈪病人の大小便、膿、血、痰、唾を不潔に思わず、嫌がることもない。
㈫慈悲心から看病するのであって、衣服や食べ物などを得る為にしてはならない。
㈬薬が合っているかどうかを考え、薬を用いる時や煎じ方が薄すぎず濃すぎないように念を入れる。
㈭病人の心をゆっくりと菩提心に移すように、機会を見ながら勧めるべきである。仮にも執着するような事を語るべきではない。病人が語ったとしても、それを聞き終わって何事も夢の世の覚める束の間の事であるから、皆虚しい事であると教えるべきである。もし死に臨むまで、貪着の妄念を抱いて終るとすれば、それは看病人の罪である。死が間近の病気であれば、静かな所へ移し、看病すべきである。この世を避ける心を生じ、無常を弁え、菩提心を起こし、散乱しない信心を持つ為である。平素から住んでいる自宅では妻子や家族親戚の声が聞こえ、心に名残惜しいという気持ちが生じ、常に心を留めていた衣類や道具に心が動かされ、あれこれ思い正念が乱されてしまう。他所へ出る事の出来ない人は、屏風障子で囲み、本尊を掛け、香華灯明を供養し、普段住む家でないようにこしらえ、正念になるように勧めるべきである。これは仏の教えであるから、良く守って看病しなければならないと述べられている。
看病をする事は、大きな功徳を積む事になることが述べられているが、一方で、邪な考えを持って看病する事は大きな罪になるという事が説かれている。末期患者のケアに関わる人への重要なる問いかけとなる。なぜあなたは、末期患者のケアに関わっているのか?関わりたいのか?もし私がそう問われたら何と答えるだろうか。僧侶だからか?困っている人、苦しんでいる人をただ純粋に助けたいからか?他人から尊敬されたいからか?他人から認められたいからか?全てを否定も肯定も出来ない自分がいる事は確かである。ただ言えるのは、その行いにより一人の苦しんでいる人が癒され、安らかな最期を迎えられる事が重要である。
またこの文章の内容から推察すると、親の面倒を見たくないのは今も昔も変わらない事のようである。しかしここにもある様に、自分が子供を思う気持ちと同じくらい、親は自分の事を思い育ててくれたという当たり前の事に気付かなければならない。幼い頃の記憶は残っていないという事は言い訳にならない。
善生経・五百問事には、看病するのに、自分の財物を使うのを惜しんではならない事が説かれている。普通、看病してあげるのだから、お金や物は看病される方が提供すべきだと思うのが一般的であろう。ここでは、看病してやっているという気持ちを戒めているのである。病人に対しては、看病させて頂くという謙虚な心が必要であり、それがまたケアを成功させる秘訣ではないか。
増一阿含経には、看病する時にしてはならない事が説かれている。いずれも、疲れていたり、虫の居所が悪かったりすると陥り易い事であるから、注意しなければならない。欲の為に看病する事など以ての外であり、慈悲の心を持って看病する事が大切である。
四分律には、増一阿含経とは反対により良い看病の仕方が説かれている。ここには、平素から住んでいる自宅では妻子の声や家族親戚の声が聞こえ心に名残惜しい気持ちが生じ正念が乱れてしまうとある。しかし、現在殆どの人が病院でなくなる中、家の畳の上で死ねたら本望だとの言葉を耳にする。実際の病室で、多くの機械に繋がれて家族とも会えず一人寂しく逝く事は決して人一人の最後としてはふさわしいものではない。愛しい人の声を聞き心が乱れない為には、あらかじめ十分にその人たちと看病を通して関わっている事が必要となる。
(九)看病の心得について
〈一〉家を離れないようにする事
父母や妻の病を自分で看病する人は、死が近くなった時には、如何に孝順の心から身近を離れ難くても、僧侶や俗人であっても臨終の志ある人に看病を頼んで、家を離れないようにするべきである。これこそ最大の孝順である。
〈二〉恩愛執着の気持ちを絶つ
病人が妻子に会いたいと言うならば、いかにも静かに道理をもって次のように勧めるべきである。誠に昔から六道を輪廻し、終らないのはなぜか。それは恩愛執着のためである。よくよく考えれば、過去の世でも妻子がいたであろうに、凡夫の浅ましさゆえ、生を隔て姿形が変わってしまえば、お互いそうであったとは知る由も無い。親子の関係も同じである。人の一生は積み重ねた業により別れ別れになってしまう。この様な時に妻子を見ればかえって愛しさが募り、語れば名残惜しくなり、その執着に引かれて三途の川に落ちて苦を受ける事になる。受け難い人間の身を受け、会い難い仏法に出会い、悟るも迷うも、妻子への恩愛執着の念を翻す事が出来るかどうかである。翻す事ができなければ、夏の虫が灯火の赤い火を好んで飛び込むようなものである。法華経の行者であれば、自分の命を惜しまないのであるから、妻子への思いを絶つ事は簡単な事である。妻との語らいや、子との契りは夢であるから、本当の悟りに目覚める間の慰めには、南無妙法蓮華経と唱える事を勧めるべきであると述べられている。
本文では妻子への思いを断つ必要性が述べられているが、これは非常に困難な事である。諸々の執着を離れる事が理想であるが、臨終の時の妻子への愛しさは、まず絶つ事は出来ないであろう。ならば妻子と病人がお互いに感謝し合えるような関係を作り上げ、共に死後の安心を願ってお題目を唱えるように勧めるのが良いのではないか。仮に、病人がその様な境地に達し妻子とは離れて臨終を迎えたとしても、遺された妻子は死に目に会えなかった後悔が何時までも癒えずに苦しむ事になるのではないか。
〈三〉病人の心を良く理解する
毘尼母論には、病人が看病人の言う事を聞かず、また看病人が病人の心と合わなければ二人とも罪になると説かれている。したがって看病人は病人の腹を立てることをしたり言ったりしてはならない。寝起きや寝返りにも身をもって心を込めて労るべきである。手荒く扱えば、身を傷め、怒りの心を起こしてしまう。全てにおいて慈悲心を持って行えば、病人の気持ちに違わないものである。臨終が近くなったのなら、日頃気に入らない人には会わせないようにすべきである。孫子の悪い行いにより勘当している場合など、この時に許しを与えさせる事があるが、その事を言い出して強く怒るようであれば対面させてはならない。日頃憎んでいる人を見れば、生じなくていい怒りが起こり、後生の大毒になる。その怒りが止まずに命が終われば、今迄の無量の善根も焼き失って、虎・狼・毒蛇などに生まれ変わってしまう。
また、病人の心を良く見て、物事に対し悪い心が生じないように、看病人は対応すべきである。日頃から心を留めていた財宝・道具・衣類などは全部箱の中に納めて、病人の目に触れないようにする。何事も貪着しないように扱わなければならない。病人が何かを思い出して貪着するようであれば、仏像・経巻・大曼荼羅を拝ませて気を紛らわせ、その気持ちは全て夢や偽り事であり一切諸法の実相が現実の真実であるとお題目を勧めるべきであると述べられている。
ここでは、病人の心を良く理解し、怒りを生じさせないようにする事、そして物に貪着させないようにする事の大切さが説かれている。心身のコミュニケーションは慈悲心を持って行う事が大切とある。慈悲心とはどんな心であろうか。慈悲は元来他者に利益や安楽を与える慈しみを意味する慈と、他者の苦に同情し、これを救済しようという思いやりを表す悲の両語を併挙したものである。意味を考えると、病人の看護には必要な気持ちであるといえる。
〈四〉末期には薬を与えないようにする
病気の状態が次第に悪くなれば、医師も薬を止め、誰が見ても死ぬ病であれば薬は用いるべきではない。薬には病を治す効能があるが、病が死病であれば、病と薬が闘い合い、必ず苦しみ悶えてしまい、正念が乱れてしまう。薬を用いなければ、薬が病に逆らうことがない為、自然に衰え、心静かな状態で最期を迎えるものである。この様な時は、病人の為を思うのではなく、外聞のみを思うので、医師にしても本気で病人を助けようとしないものである。医師に診てもらうとしても、看病人の心得としては、薬を病人に与えないようにすべきであると述べられている。
現代の医学でも、尊厳死が徐々に受け入れられてきているようであるが、上記の指摘は現代に通じるものである。末期の患者に高度な医療を施す事は、患者や家族を金銭的にも、精神的にも圧迫している現状がある。理想は自然に衰え、心静かな状態で最期を迎える事である。しかし、事はそう簡単ではなく、医師側としても、医学を生業としている一面がある。また、患者の家族が高度な医療を望む場合や、世間を意識した行動に出ざるをえないケースもあるだろう。ここで考えなければいけないのは、あくまでも病人中心の治療とケアである。医師側も十分な情報を開示し、家族もどうするのが患者本人にとって一番良いのかを考える必要がある。そして何よりも、患者本人がどうしてもらいたいかという事を尊重すべきであろう。この様な複雑な関係性の中で関わる僧侶は、コーディネーター的役割ができるのではないか。
〈五〉お酒の用い方
内部に熱の篭る病人は、同種のものが自然に寄り集まる道理から、普段お酒を飲まない人でも、お酒を好むものである。その場合、少しずつ用いるべきである。内熱が強く、酒の熱が加わり、熱が強くなるが、ひとりでに熱が冷める事もある。口や舌などが内熱で切れてしまっている場合にも、酒は良いもので、このまま用いるべきである。分別功徳論には、仏の言う、飲酒戒は病人には当てはまらない。酒を薬としては与えて良いと説かれている。酒を好む病人には、少しずつ用いるべきである。用いてみても何の効果も無ければ、無用である。特に臨終近くなったら、一滴も与えてはならない。身体が弱っていたら、酒少量でも酔ってしまい、心が乱れ易いものである。もし酔ったまま最期を迎えれば、看病人の大罪である。その場合、酒は薬にはならない為、必ず禁止すべきである。
〈六〉風熱の治療に葱を用いる事
頭痛を伴う発熱を押さえるには、葱の白根を薬に入れて煎じ用いる。毘尼母論に舎利弗が風熱を煩い、薬に葱を入れる事を、仏は許可したと説かれている。汁や調味料としては五辛(葱、らっきょう、韮、にんにく、はじかみ)は全て用いてはならない。首楞厳経には、五辛を煮て食べれば婬欲を起こし、生で食べれば怒りを増す。諸菩薩や諸天は臭い穢れたものを嫌い、それを捨て去る。
〈七〉魚鳥の肉を食べる事
魚・鳥の肉を食べる事は、小乗経では、病の比丘に薬として食べる場合許可している。小乗は自己独りの煩悩を滅尽して、真理に到る事を目標とし、衆生を救う事をしない為、許されるが、諸大乗経では仮にも許されない。なぜならば大乗の菩薩は慈悲深く、道を歩く時に草さえ踏まない。ましてや衆生の血肉を食べる事などかつて無かった。たとえ命を失っても、肉を食べる事はない。
死ぬ病がひどくなった人が肉を食べるならば回復するという人がいても、命に代えては食べないだろう。なぜならば、肉を食べる人は慈悲心を失うと諸大乗経で説かれており、たとえ成仏しても慈悲の無い仏であれば衆生に利益を与える事も出来ず、真実の成仏ではない道理であるから、在家の人も大病を患ったら前もって肉を嫌うべきである。魚や鳥の肉を食べなければ体が弱くなるというが、病身は弱いものであるから、強い肉を食べれば身を養う事にはならず、病をひどくしてしまう。殊に臨終近くなれば、家の中にも肉を持ち込むべきではない。
〈八〉飲食物について
病人が色々な飲み物や食べ物を好み、欲しいと願うだろうが、病に悪い物であれば、恨みを言われても、病人に与えてはならないのが常識である。死が近いと見えるならば、与えても良い。殊に、長患いでは薬も効かず、禁物もたいして影響はない。影響があったとしても、苦しくはないであろう。もし飲み物や食べ物を欲しがる思いで死んでは残念な事である。
上記の〈五〉〜〈八〉は、食生活にまつわる諸々の事が述べられている。いずれも、体に負担のかかる物は避け、臨終を落ち着いた気持ちで迎える事が出来るようにとの配慮である。仏教では肉食・飲酒は戒律で禁止とされるが、これは修行により形成される清浄な心を、煩悩で曇らせない為の方法ということができる。
〈九〉病床における歌
病が長く続き、雨の日など慰めようと、とても良い声をした目の見えない法師に歌を歌わせる事は道理に合わない事である。仏は歌の罪を説かれている。歌う人、それを聞く人にとっても、歌は愛欲を起こし寂しい時に邪悪な思想や妄念を起こすもとであると戒めている。しかし、味気なく、しみじみとした所が少ないもの、人を辱めないものであれば聞いても良いと説かれている。
近年、臨床の世界では音楽療法が注目されている。またヒーリングミュージックなるジャンルのCDも店頭に沢山並んでいる。癌の末期患者にクラシックを聞かせたら、癌細胞が縮小したとのニュースも報道されている。いずれも、心が落ち着くようなものが多いようである。これを見るに、音楽の心身への好影響は多少なりともありそうである。心と体は別々のものではなく、相依相関関係に有り、心が落ち着き、癒されれば身体の方にも良い影響が出る。
〈一〇〉病床における語り
長い夜に慰めに昔話をするのにも、物寂しい事を語ってはならない。病人の気の弱っている時に聞いて、心の痛みとなってしまうからである。世の中の無常さを書いているものは、菩提の寄る辺となる為聞くべきである。十誦律には、看病人は病人の一生で行った善い事の功徳を数え上げ誉めてあげるようにすべきことが説かれている。誉められれば、善心は進むものである。僅かな功徳であると軽視し、謗ってはならない。謗れば善心は後退してしまう。善事による功徳がある人ならば、後生は頼もしい事であると善心を引き立てて勧めるべきである。本当に善事の少ない人には貧女が供養した一灯の功徳を語って信心を勧めるべきである。愚痴無智の我々であるから成仏は出来ないのではないかと病人が後生を疑うのであれば、法華経を読み書くことをしたとしても、信心のない人は仏になることは出来ないのと同じである事を伝えるべきである。年若き女性など、仏や法を知らずに思いもよらず病にかかり、身を恨み後生は酷いものだと思っているならば、安心するように勧めるべきである。法華経において即身成仏する竜女は、僅かな間の菩提心で成仏を遂げたのである。法華経以外の諸経の心は、説く人も聞く人も長い間を掛けなければ成仏する事は出来ないのであるが、経法の中の王である法華経の有難さは僅かな間の菩提心で竜女を成仏させた経力である。この様な不思議な経力は、百年の修行の功徳より優れている。臨終の一念に、しっかりと信じてお題目を唱えるべきことを述べている。
死期の近い患者に対して自分の人生を語ってもらうのはとても良い事だと思う。それは、自分の人生の整理にもなり、一方では家族には患者という人間を理解するとても重要な経験となるであろう。相手が亡くなってから、あれを聞いておけばよかったと言う事が良くあるようである。実際に死が近くなってくると、どう声を掛けて良いかわからなくなってしまい、コミュニケーションが取り難くなることがよくあるようである。その時は、患者の一生を辿る形で話を進めていくのも良いと思う。
〈十一〉臨終の勤めについて
病人がまだしっかりしている時から、臨終の時の勤めを毎日一回ずつ行うべきである。前もって勤めていれば、人から縁起が悪いとは思われない。まさに臨終の時、慌てず慣れていて良い事である。本尊を東側にかけ、机に法華経を置き、香・華・灯明を供養し、病人を抱き起こして、手水を使って手を洗い、物に寄り掛からせて、本尊に向かって合掌させ、看病人は鈴を数回鳴らして、正念を鎮めて、法華経を読み始めるようにする。お経は静かに読んで、お題目を病人が退屈しない程度に一緒に唱える。病人がくたびれ、寝起きが困難であれば、北枕にして本尊に向かうように西向きに寝かせる。これは釈尊の入滅の儀式である。東は発心の方向、南は修行の方向なので、足は修行の方向を向ける。西は菩提の方向のため顔を向け、北は涅槃の方向であり、涅槃は空理(因縁所生の万法が実体無くまた自性が無い事)を表すので、天を象る頭は北に向ける。しかしこれは一応の表示であり、お題目を唱えればどの方向を向いていても良いのである。本来東西も無く向く方角が寂光浄土である。身動きが出来るのならば、少しでも勤めた方が良い。回向は偏に三宝を信じる事である。特に臨終の時には、ただ南無妙法蓮華経とのみ唱えるべきである。
〈十二〉香の供養と下の世話
金銭的に余裕があるのならば、沈香・伽羅・名香などを買い、供養すべきである。三宝の来られる時であるから清めにもなり、また香りが病人の鼻に入れば心が静まる。それらを買う余裕の無い人であれば、しきみの香りでも良く、魚や鳥を焼いたり煮たりした臭いにおいを室内に入れてはならない。そうしなければ、三宝が去り、悪鬼が呼ばれて来てしまう。
臨終のお勤め中に、三宝がおいでになっているのならば、病人が大小便で汚くなれば、その臨終の勤めを辞めるべきかどうか。病人が大小便で汚れても少しも気にする必要はない。ただ怠らずに、臨終の勤めを行うべきである。もともと穢悪が充満した国土であり、清浄な物は一つも無いので、仏は大して大小便を嫌とは思わないのである。仏が嫌うのは、人の心の穢れである。心を込めて、心の穢れを澄ませば仏は来られるのである。臨終の時の苦しみに代えて、一念に信ずる人を大小便の穢れによりどうして見捨てる事などあろうか。しかし大小便の穢れを、病人に気にしないといってそのままにしておくのは、看病人の罪となる。三宝まで汚す為、大罪であると説かれている。
人は、元は体の一部であっても体から離れれば汚く汚れたものであると思ってしまう思考回路を持っているらしい。本来自分の体の一部だったのだから、汚いはずが無いのであるが。老人介護の際に、下の世話は大きな問題である。現在、負担を軽減しようと、成人用紙おむつや、飲むと便の匂いが消える薬等が世間に出回っている。また一方では神経症並みのきれい好きによる抗菌グッヅブームもある。
私も子供のオムツ換えをしたが、自分の子の大小便はあまり汚いと思わないのである。しかし、自分の両親の下の世話と考えると気が進まないのが本心である。(ちなみに両親はピンピンしています。)自分が幼い頃には散々下の世話をしてもらったくせに、情けない話である。この様な時は、相手の立場になって考える、と言う事が大切である。何も好き好んで、自分の子供に下の世話をしてくれという親はいないだろう。恥を忍んで、やってもらっているに違いない。その様な気持ちを汲み取り、接するべきである。
〈十三〉未来の有様を見る
病人が弱り、臨終が近くなり、夢でもないのに目の前に未来の有り様を見る事がある。華厳経法界品には、臨終の前に業によって未来に受ける報いの有様が見える事がある。以前に悪業を積んだ人は、地獄・餓鬼・畜生の色々の苦しみの有様を見る。以前に善業を積んだ人は、心も言葉も及ばぬ程の美しい有様を目の当たりに見ると説かれている。
誰でもという事ではないが、この様な事を見る人がいる。良い有様を見る時でも悪い有様を見る時でも何れであっても、偏えにお題目を唱えるように勧めるべきである。いい加減にしておいてはいけない。悪い有様を見る人も、正念にお題目を唱えて終るのであれば悪道を免れる。良い有様を見る人は、天上に生まれるべき所を、更に勧めて正念にお題目を唱え最期を迎えるならば、成仏は容易になるであろう。
これは現代で言えば、臨死体験であろう。今生の自分の行いの総決算が、未来の有様として眼前に現れるとはなんとも解り易いものである。柔和な顔でお亡くなりになられた方は、おそらく多くの善業を積んできたのであろう。その様なお顔は、遺族を慰めるものである。
〈十四〉お見舞の心得
看病人でも見舞いの人でも、室内に入る時は、まず戸の外で少し気を鎮めてから入り、病人の側に寄っても、気を鎮め、病人の弱っている気に自分の気を十分に移してから、ものを言うべきである。外の気のままですぐにものを言えば、病人に相応せず、悪い結果を生む。一般に病人の側には、三〜五人より多くては騒がしくなり、悪い。見舞い人を全員病室内に入れるような事を避け、また一人一人と話す事も避けるべきである。
〈十五〉臨終の大きな障害
常に臨終正念を祈り、心がける人は多いが、正念に題目を唱え最期を迎える人は少ない。多くは障害にあって取り乱してしまう。臨終の際の大きな障害には三種類ある。
㈰断末魔の苦しみ
㈪魔の障り
㈫妻子の嘆く声
この三種類の障りは看病人の働きにより、どれも避ける事ができる為、大慈悲心を起こして避けるようにすべきである。
㈰断末魔について
断末魔とは中国の言葉であり、臨終の時に身の内に剣の様な風が生じて、骨・肉の間を吹き刺し、引き離す事が出来ない痛みである。正法念経には、千本の槍を持って一度に身を付く苦しみは耐え難いが、その痛みは断末魔の苦しみの十六分の一にも及ばない。常に善業を行う人は、断末魔の苦しみは少ないと説かれている。顕宗論には、人を謗り、罰を与え、人の心を悩ました人は、断末魔の苦しみはとても強いと説かれている。
大部分の人の最期は、断末魔の苦しみに取り乱し、日頃心掛けていた題目も忘れてしまう。この時に看病人が題目を勧めるのが大切である。題目の間に鈴を鳴らし、頻りに高声に唱えるべきである。鈴の音により正念になるものである。心して、病人の身に荒く当たってはいけない。僅かに触っても凄い痛みなのである。またこの苦しみを、少しも感じずに息絶える人もいる。この場合、息絶えた後に、内心で苦しむのである。苦しみが少しも無く亡くなった人には、一層心を込めて対応し、顔に着物を掛けて隠す事をしてはならない。薄い絹を掛けて傷まないように計らい扱うべきである。くれぐれも、十二〜十四時間は動かしてはならない。長く置けば、手足が竦むので折り曲げてはならない。全身が残らず冷え、魂が去った後に、手足が竦んでいれば打ち折ったとしても苦しさは感じない。魂が去らない内に、手荒く扱えば心が痛んで怒りを起こし、悪道に入ってしまう。
㈪魔の障りについて
今迄しっかりと題目を唱えていた病人が、気がうっとりとなって、前後もわからなくなり、是非も弁えなくなってしまう。これは、常に臨終の事を心掛け、以前より覚悟をし、是非にと一念に思いを掛けた人は、魔の障りでなければその様にはならない。以前より覚悟を良くし、正念を持った病人には、この気遣いを専ら行うべきである。陀羅尼神呪を繰り返し、魔を降伏する慈悲勇猛な僧を二人頼むべきである。一人は祈念、もう一人は題目を絶え間無く唱えるようにする。室内には四〜五人が適当である。大人数となれば騒がしく良くない。どれだけ親しい人であっても、臨終の際、魚・鳥・五辛を食べ、酒を飲んだ人を室内に入れてはならない。その人から便りを得て悪鬼が入り、障りを行う。恨みなどが残っている死霊が弔を受けたく思い集まり、正念を乱す事もある。その様な思い当たりがあるならば、先ず弔いの経を一度読んで、霊魂には必ず弔う事を約束してから祈念すべきである。そうすれば、ただちに正念になるであろう。魔性と思ったら室内には、女性は入れてはならない。女性がいたのなら、どんなに祈っても効果が無いのである。祈念の僧侶の志さえ強ければ、魔性を受けた病人が正念を取り戻す。病人の枕元には、良く砥いだ鏡を置く。悪鬼は、鏡に姿が写るのを嫌がって立ち去るものである。名香・伽羅を沢山焚くようにする。
㈫妻子の嘆く声について
年を取った親、幼い子、妻をあらかじめ他所へ必ず移すべきである。以前から大事な時と理解していても、臨終の時には悲しい為、声を出さずに泣く事が出来ず、声をあげて泣いてしまう。この時は、どうしても制止できないものである。嘆く声が病人の耳に入れば、今限りの名残であるから、心が移り正念が乱れてしまう。今無常の嵐の追い風のもと、題目の船に乗り、生死の海を信心の力で押し渡そうと思うのなら、まず船を繋いでいる綱を切るべきである。綱とは、年老いた親、妻子である。今の一大事である一念を綱で繋がれてしまえば、船は出航する事は出来ない。父母妻子の恩愛の情を切ろうとするのであれば、それらの恨みはどれくらいかと思い、綱を解かない事はないであろう。解かずに時間が経ち、この時に船が出なければ、後悔してもしようがない事になる。とにかく、無理にでも切り離すべきである。一大事の時であれば、僅かな事に関わってはいられないのである。
まず断末魔の苦しみについてであるが、人間というのは痛さに弱い。どんなに温厚な人でもどこか痛ければ、苛々するし、怒りっぽくもなる。特に末期の痛みは尋常ではないだろうから、痛みがあったのでは安らかな最期など迎えられるはずも無く、精神的なケアなど不可能に近い。しかし現代ではペインコントロールが可能となり、末期における痛みも軽減できるようになって来た。痛みが無いので、色々な事を考えたり、したりする事が出来、家族とのコミュニケーションも取る事が出来る。
また臨終の際には、病人から父母妻子を遠ざけると説かれている。彼等の泣き声や思いが病人の正念を乱し、成仏を困難にするとの事である。しかし実際考えると、大切な家族に囲まれて亡くなるのが良い様に思う。家族には十分なインフォームド・コンセントを行い、心のけじめを出来る範囲で付けてもらい、皆で病人の成仏を祈った方が良いのではないか。船の喩えを用いれば、船を岸と繋いでいる綱を無理に切り離すのではなく、鈴という汽笛を鳴らし、僧侶という船員が綱を外し、皆でお題目という紙テープや紙ふぶきを投げ、感謝を込めて送り出す事が理想ではないか。
〈十六〉題目を唱えるように勧める
常に仏法を信じ、臨終を心掛ける人は、たとえ看病人が勧めなくても、以前から用意してある為、臨終正念を保って成仏するものである。我が身を犠牲にして看病しなければならないのは、常に後生の心掛けもなく、一生貪欲の心を持ち悪業を積んで暮らした人の臨終である。もし看病人の臨終の勧めによって、臨終の時に正念に題目を唱え最期を迎える事ができ、悪道に堕ちる人を引き返させ仏になることが出来るのであれば、一生懸命お題目を唱えるように勧めるべきである。
〈十七〉臨終の近い事を知る
心静かに正念している病人に、度々心を掛け、病人の息遣いと自分の息を合わせて判断すべきである。息遣いに違いがあれば、臨終が近いと知るべきである。大曼荼羅を手に渡し、しっかりと持たせ、鈴をしばらくの間鳴らし、正念となるように心を鎮め、題目を病人の息に合わせて速からず遅からず唱える。題目の間に、鈴を鳴らすようにする。
〈十八〉喉を潤す
臨終が近くなれば、喉が渇くものである。紙を水に浸して何度か口に絞り入れ、喉を潤す。くれぐれも色々な人が水を飲ませる事のないようにする。病人に名前を聞かせる事は避けるべきである。
〈十九〉息が絶えた後、耳へお題目を唱え入れる
病人の息が苦しいのであれば、題目を一遍唱えるのを三句にも四句にも区切って、病人の息に合わせて唱えるようにする。息が絶えた後、二時間ばかり耳へお題目を唱え入れるようにする。表面的には死んだように見えても、深い部分には心がある。魂が去る途中、魂は死体の近くにいる。自我偈やお題目を絶え間なく、人は代わっても良いので読むようにする。息が絶えているか知りたければ、真綿をむしって鼻にあてる。息が絶えたとしても、二〜四時間は妻子を室内に入れないようにする。
医学の進歩の結果、聴覚を司る視床下部が、脳の中で一番最後まで機能している事が解ってきた。そうであるならば臨終を迎えたとしても、聴覚は働いている可能性はあり、臨終正念を保つ為に臨終後も読経などをする事は必要であろう。しかし現実を考えると、病院で亡くなった場合は、その様な時間を取る事は出来ないであろう。あと、注意しなければいけないのが、亡くなったらすぐに遺産相続の話や故人の悪口を言うのは慎まなければならない。
〈二十〉お題目を唱える事が出来ない人に
痰などがひどくて題目を唱える事が出来ない病人には、息遣いに従って、口に題目を唱え入れるようにする。息が絶えてしまったら、耳に唱え入れるようにする。また正念が乱れて息絶えた人には、慈悲心を持って口と耳に唱え入れ、遺体に唱え掛け、法華経を沢山読むようにする。魂が遺体の近くを去る事が出来ないようであっても、法華経・題目の声を聞いて、悪道に行く人も中陰で良い状態に変わって、善処に生まれるであろう。そして亡くなってから、十〜十二時間は遺体を葬ってはならない。十二時間が過ぎたら、沐浴入棺するようにする。
〈二十一〉故人の未来の善悪を知る
顔色の白いのは善処へ、黒いのは悪道へ行く。瑜伽論には、常に良い事を行った人で、足から冷たくなり、臍より上は温かい状態で息絶えた人は、人間に生まれる。足から冷たくなって、頭が温かい状態で息絶えた人は、天上に生まれる。常に悪業を積んだ人は、頭より段々冷たくなり、腰に熱がある状態で息絶えれば、餓鬼界に生まれる。頭から冷たくなり、膝から足の裏まで熱のある状態で息絶えた人は地獄に堕ちる。仏になる人は、胸や頭が皆温かいと説かれている。
〈二十二〉葬送について
葬送には、四つの方法がある。
㈰水葬
川へ流し、魚や亀などの餌になる。海辺の人は海へ流す事がある。
㈪火葬
五分律には、火葬は石の上に遺体を置いて焼くようにする。土の上で焼けば、土の中にいる虫が痛い思いをする。遺体の大半は土の中に埋める。特に夏は、虫を焼き殺してしまうので、火葬をさけるようにすると説かれている。
四分律には、仏と転輪聖王は必ず火葬にし、他の人は四通りの葬送の中から選ぶようにすると説かれている。
㈫土葬
この方法は速く遺体が朽ちるので良いと言われる。今の世に風熱の病で死んだ人は必ず土の中に埋め、火葬は避ける。これは愚かな事である。その避ける理由は、風に火を付ければ火は蔓延する。葬送の火が蔓延すれば、その家の人々は危険であるという事らしい。たとえ水葬にして風熱を消しても、遺族は皆危険であるのに、土に埋めれば安全と思うのは不確実な事である。
㈬林葬
野山の林に葬って、鳥獣の餌として与える。
以上四種の葬送の中では、水葬と林葬は魚・鳥・獣の飢えを養う為、功徳は広大である。しかし父母の遺体を孝行な子供の気持ちとしては、そうはできない。出家の遺体は、林葬にするようにと遺言すべきである。どれほどの功徳があるといっても、師匠の遺体を弟子の気持ちとしては、そうはできない。もし遺言であれば、林葬にすべきである。見苦しい人は、遺体にまで貪愛を残し、痩せ狼の飢えを救わず、惜しい遺体に薪を使い、臭い煙を慎まず、火葬にしたがるものである。その様な人は、水葬・林葬は不吉であると思うのであろう。過去の業因が拙く、死んでからの乞食行は、思いのほか功徳を得る身であり羨ましい事である。
〈二十三〉中陰について
人が亡くなり四十九日間を中陰といい、僧侶に食事を出し、供養し、法華経を読み、梵唄を唱えることを、七日毎に行う事をいい加減にしてはならない。中陰とは、現在と未来との中間の五陰のことである。未来の生を受けるまでの間に、身に似た一つの相を起こして、魂を伝えて漂っている。人間や天上界の人の目には見えないのである。中陰経には、中有は命が七日毎に決定すると説いている。中有の命は死が七日ごとである。初めの七日目に死んで、まだ未来の生が定まらなければ、そのまま中有の相が生じる。二番目の七日目に中有の命が死んで、まだ未来の生が決まらなければ、そのまま中有の相が生じる。遅くても七番目の七日目には中有の命が死んで未来の生が決定する。また機根や業によっては、この業の中有が終わっても、余りの業が中有を起こし、終わらない事もある。極悪・極善には中有はないと説かれている。極善人は死ぬとそのまま善処に生じ、極悪人は死ぬとすぐに悪道に堕ちる為、中有が無い。中有は良い事もし悪業も積んでいる人にある。七日毎の追善が効き、もともとの善事が備わる助けとなり、悪道へ生まれるべき人を中有から改善し善処に生まれさせる。したがって世の中の人は、多く善事を営み悪業を止めなければ必ず中有があると思うべきである。このごろの中有の弔いを見ると、初七日、二七日は悲しい為十分に勤め、三七日より悲しみと共に弔いも少しさめ、四七日には万事を略し、五七日には忌を明け、六七日は日数も忘れてしまう。父母・師匠・主君の中陰はわずか七度のことであるから、必ず十分に勤めるべきである。
人が亡くなってから四十九日間は、場所にもよるが、家には御遺骨があり遺族が一番故人の死というものを実感する時ではないだろうか。遺族の悲しみに対するケアが注目されてきているが、これは元々僧侶が担っていたものであった。七日毎に家を訪れ、御遺骨を前にしてお経をあげる事によって故人の成仏を祈り、遺族と話をする事は遺族へのグリーフ・ケアになっていたはずである。ところが、現在では残念ながら七日毎のお経は簡略化される傾向にある。現状このシステムを復活させるのは、物理的に困難であるが、七日毎に位牌を持って、お寺にお参りに来てもらうというのは可能だと思う。そこで、一緒にお経を唱え故人の冥福を祈り、世間話や故人の話、仏教の話などカウンセリング技術を習得した僧侶が話の相手をすれば、遺族の心の癒しに繋がるのではないだろうか。ここで、なぜカウンセリング技術という事が必要かというと、僧侶の話は説教になりやすく、何々すべきであるという口調になりやすい。話すのは好きであるが、相手の話を十分聞くという事が苦手の人が多いように思う。そこの所を自覚しないと、現代ではなかなか人との本当のコミュニケーションは困難となると思う。
(あとがき)
世の中で聞いたものを物知り顔で、長くかき集め二巻になったので、読むにはじれったいが、これは知っている人の為ではない。この様な事は、知らない人には、上巻は上求菩提、下巻は下化衆生の手だてになるかと書いたものである。
第二節 『千代見草』についてのまとめ
前節において、『千代見草』の内容を細かく見てきたわけであるが、この著作は、近世日蓮教団の中にあって、一般民衆を対象に、彼らが実践すべき法華信仰の修行内容を事細かにわかりやすく説いた、実践的なテキストと言うことができる。
上下二巻に分かれており、上巻では臨終正念の意義やそれに至るための心得や具体的方法が説かれている。中でも、臨終の用意として心の大きな歪みを直す十種の方法は、我々に重要な示唆を与えてくれる。いくら臨終近くになってじたばたしても、生きてきたようにしか死ねないという、あたりまえなことを気付かしてくれる。臨終における精神的なケアに目がいってしまい、日頃の信行の重要性を忘れてしまう危険性がある事に注意しなければならない。
下巻では看病を施す立場から、病者に対する看病の功徳、心得を実践的な場面に即して事細かな教示がなされている。看病についての内容は、高齢社会を迎えた現代において、示唆に富んだものになっている。臨終行儀のみならず、介護に対する心得としても重要である。当時としては医学が未発達なのもあるが、僧侶が全人的な救いを施していた事が分かる。僧侶の持っていた善智識は、それぞれ諸々の専門職に還元され、発達していった。そして僧侶には、死者の弔いのみが残った現状がある。しかしその一方で、人間を包括的に見るという視点が薄れてしまい、様々な問題が生じてきているともいえる。人が必ず経験する死や病や看病といったことについて詳述されている『千代見草』は、仏教は本来、生きている人の為の教えである事を人々に説く為の恰好の著作である。
第五章 考察
第一章においては、現代の死についての特徴を挙げた。約八割の人が病院においての死を迎えるという現状において、病院における死の問題点を考えた。第二章では、現代の高度な科学技術を使った高度先端医療に欠落した、精神的ケアを含めた全人間的医療としての末期医療の現状を探り、ホスピスにおいて行われている精神的ケアのマニュアルを略述した。現代における仏教による臨終行儀の可能性を探る為、第三章では『往生要集』を、第四章では『千代見草』をもとに、両著作の内容を詳述し、その当時行われていた事が現代にどうフィードバックできるかを考えた。『往生要集』は九八五年、『千代見草』は一七一〇年に著述され、両著作には七〇〇年以上もの時の隔たりがあり、また基とする教義に違いがあり、一概に内容を比較出来るものではないであろう。しかし、両著作を比較する事により、七〇〇年もの間脈々と保たれてきた、仏教における臨終末期患者に対するケアを探る事ができる。そして、その仏教的ケアが現代のホスピスにおけるケアと比較する事で、どのようなケアが現代に引き継がれているかを見てみたいと思う。キリスト教の教えをもとにしているホスピスであるが、当然日本における文化や習慣などを吸収する事によって形成されている為、その試みも無駄にはならないだろう。結果として、どのようなケアが失われ、現代においてどのようなケアが必要かを考えてみたい。
第一節 『往生要集』と『千代見草』との比較
両著作の内容の基礎となる教義の違いのためもあろうが、『往生要集』では、六道を輪廻する迷いを捨てて、阿弥陀仏の極楽浄土に生まれる為に、念仏を唱える事の重要性が繰り返し説かれている。一方『千代見草』では、成仏するためにお題目を唱える事の重要性と共に、臨終の用意としての十種の心の大きな歪みを直す方法といった、日頃の生活における注意点についても詳述している。阿弥陀信仰といった来世中心の考え方と、法華信仰といった現世中心の考え方の特徴がよく出ている。また『往生要集』が出家者を対象者として書かれたのに対して、『千代見草』は、在家信者の為に書かれた違いも理由にあげられる。細かな両著作の相違点は各章における記述にあたって頂くとして、以下両著作の臨終行儀の類似点を見てみたいと思う。
『往生要集』では、初行儀として病人を安置する無常院を造る。煩悩を生じる人は、自分の暮らしている房に置いてある衣鉢衆具を見て、これに執着してしまうので、あえて別所に行かせる事が書かれている。『千代見草』でも、看病の功徳についての部分で、死が間近に迫ったら、静かな所に移し、看病する事が述べられている。平素から住んでいる自宅では妻子や家族親戚の声が聞こえ、心に名残惜しい気持ちが生じ、常に心を留めていた衣類や道具に心が動かされ、あれこれ思い正念が乱されてしまうためとある。両著作とも、臨終を迎えるに当たり、執着が生じ心が乱れないように、別所に患者を移す配慮が述べられている。
臨終において手を合わせる対象として、『往生要集』では金箔を塗った立像を、『千代見草』では心の本尊である南無妙法蓮華経をあげている。ここで興味深い事に『千代見草』において、臨終に仏像を拝む事に対する批判が述べられている。仏像の金箔の色に人々の目が行き、貪着の思いが生じるという理由が挙げられているが、このことから『千代見草』が著述された江戸時代に、仏像を臨終に飾る事が行われており、『往生要集』の内容が世間一般にも広がっていた事が推測される。その教えを相対化する試みとして、法華経的立場から『千代見草』は書かれたのではないだろうか。
看病人の心得として両著作とも、香を焚いてその場を清め、下の世話をしてあげる事が説かれている。患者を清潔に保ち、清々しい気分にしてあげる事はその当時から基本とされていた事が解る。また、看病の時には、肉・五辛を食べたり酒を飲んだ人を病人の側には近づけてはならず、当然看病人もその様なものを食べたりしてはならない。そうしなければ、病人は心を乱し、悪鬼が入り障りとなってしまうといった事を理由に挙げている。
臨終を迎える時に見る想(イメージ)について、両著作とも論じている。『往生要集』は、心を専ら集中して阿弥陀仏を観想し、念仏を絶やすことなく、往生の想と華台の聖衆が迎えに来てくれる想を起こすべきだと論じている。『千代見草』では、臨終が近くなると、夢でもないのに目の前に未来の有様を見る事があり、それが良きにつけ悪しきにつけ、お題目を唱える事が悪道を免れ成仏を容易にする事が述べられている。『千代見草』では『往生要集』のように、自発的に理想とすべき想を思い描く事は求められていないが、両著作とも死後の安心の為に、イメージを上手に使っている事が読み取れる。
平素からの念仏・お題目は当然として、臨終が近くなり病人が唱えようとしても思うようにならない状態になれば、看病人や周囲の人が、病人にも勧め、自らも唱えるようにするという事が述べられている。病人と看病人の信仰を通した相関関係の中で、病人も看病人も癒されていくのであろう。
以上、『往生要集』と『千代見草』を比較し、それらの類似点を見てきたわけであるが、雑駁な言い方をしてしまえば、『往生要集』の臨終行儀の部分を、法華経の教えをもとに信者向けに書き直したものが『千代見草』と言えるのではないか。『往生要集』の患者に対するケアの部分は、ほとんど『千代見草』に含まれており、両著作の比較は、『往生要集』の記述内容が『千代見草』にも出ているかを探す作業でもあった。これは、臨終行儀が『往生要集』から始まり、それは日本仏教諸宗派でも行われ、その内容が受け継がれていった事からも理解できる。次節では、『千代見草』と現代のホスピスで行われているケアを比較し、どんなケアが現代に継承され、また何が現代に足りないかを考えてみたい。
第二節 『千代見草』による看病と現代の末期患者のケアの比較
現代のホスピスにおいては、患者に対するケアとして精神的ケアが重要視され、身体症状のコントロールのみならず、精神的に支える取り組みが為されている。そのノウハウとして、ベッドサイドに座り込み視線を水平にする事によって、患者とケアする側の立場を平等にするというポイントが挙げられている。『千代見草』においては、病人は看病人によって看病され、信仰的にも導きを受ける事になり、より成仏に近くなる。一方看病人も、看病する事によって功徳を積む事が出来るので、お互いに善根を獲得できるのである。このことによってお互いの立場を超越した、信仰における平等性が可能となる。
また、精神的ケアにおいては、傾聴し感情に焦点を当て、理解的態度で接するが大切である。『千代見草』においても、看病人は病人の心をよく理解しなければならないとの記述が見られる。病人が看病人の言う事を聞かず、看病人と病人の心が合わなければ、両者とも罪になる事が述べられている。看病とはそれぐらい真剣な気持ちで行うべきであり、病人の為だけでなく、自分の為でもある事を教えてくれる。
今やっておかなければならない事は早いうちにやっておくように上手に勧めると言った記述は、両者に見られる。当然後悔しないようにという事であろうが、『千代見草』においては、臨終の時になってああしようこうしようというのは、臨終の大きな障りとなることが述べられており、臨終末期において、心の安定が如何に大切かがわかる。
ホスピスにおける精神的ケアは、患者の背負ってきた歴史を踏まえ、人間的理解に基づいた対応を取っている。『千代見草』においては、信仰を通して死後の安心を与えることによって、精神的ケアを施している。現代のケアにおいては、あくまでも患者の今迄の人生という過去に向けての視座であるのに対し、『千代見草』では、成仏という未来に向けてのまなざしが存在している。信仰によって、死はあくまでも人生の通過点であるといった、死の相対化によって、本当の精神的ケアが可能になるのではないか。これが、末期医療の大きな特徴の一つである、宗教的満足度に繋がるのである。しかし宗教的満足と一口に言っても、臨終末期の僅かな時間において獲得するのは大変困難であり、やはりこれは『千代見草』に見るように、日頃からの精進によって可能ならしめるものであろう。
今後私がすべき事といえば、日頃僧侶として、生と死を真剣に語る事により、その教えを聞いた人がより良い人生を送れるように、また布教活動において真の信頼関係を築き、臨終において必要とされるような僧侶になるために努力するしかない。
おわりに
研究を始めた当初の気持ちとしては、臨終末期の患者に僧侶として関わる為にどのような事をすれば良いかを考える為に、現代医学や心理学で行われている取り組みのノウハウを調べ、それを参考にし、どうにか仏教的にリメイクできないかと考えていた。しかし、その気持ちが徐々に変化していった。医者やカウンセラーの真似をするのではなく、僧侶として仏教を基本とした取り組みという、改めて考えれば至極当然な方向に視点が移っていた。日頃、仏教は生きている人の為に説かれた教えで、現代の我々にも十分通用するなどと言っておきながら、一方で仏教は棚に上げ、現在実際にホスピスにおいて行われているケアを、僧侶という名前で行うことで良しとする安直な思いであった事を反省している。僧侶でなければ出来ないケアを考える事が、今我々には必要なのである。今回の研究において、先師がどのような取り組みを行ってきたかという事の一端に触れる事ができた。この様な機会でなければ、『往生要集』や『千代見草』といった先師の著述を真剣に読む事も無かったであろう。両著作とも信仰者対象に書かれたものであり、現代の人々にそのまま使えるというものではない。しかし人が死に直面した時、正面から死に向き合って話が出来るのは我々僧侶を含めた宗教者であろう。先師の貴重な取り組みを、現代において取り戻さなければならない。
なお、両著作とも、患者に対する援助が中心であり、家族に対する援助に対しては殆ど論じられておらず、考察も患者に対する援助に終始する結果となった。家族に対するケアの必要なことは明らかであり、それに対する考察は今後の課題としたい。
〔参考文献〕
第一章
『死を看取る』アルフォンス・デーケン編集 メヂカルフレンド社(一九八六)
『死とどう向き合うか』アルフォンス・デーケン著 NHK出版(一九九六)
『死を看取る医学』柏木哲夫著 日本放送出版協会(一九九七)
『臨床死生学事典』河野友信、平山正実編 日本評論社(二〇〇〇)
『現代のエスプリ三七八ターミナルケアの周辺』河野友信編 至文堂(一九九九)
『死の臨床』河野博臣著 医学書院(一九八九)
『死生学とはなにか』平山正実著 日本評論社(一九九一)
第二章
『ターミナル・ケアのための心身医学』河野友信編 朝倉書房(一九九一)
『死にゆく人への援助』キャサリン・レイ著 雲母書房(二〇〇〇)
『死ぬ瞬間』キュブラー・ロス著 読売新聞社(一九七一)
『死ぬ瞬間の対話』キュブラー・ロス著 読売新聞社(一九七五)
『精神分析的心理療法の手引き』鑪幹八郎監修 誠信書房(一九九八)
『心理療法のできることとできないこと』鍋田恭子、福島哲夫編 日本評論社(一九九九)
『病院の心理臨床』山中康裕、馬場礼子編集 金子書房(一九九八)
『ターミナルケアマニュアル』淀川キリスト教病院ホスピス編 最新医学社(一九九七)
第三章
『源信』川崎庸之編集 中央公論社(一九八三)
『往生要集』中村元 岩波書店(一九八三)
『往生要集』石上善應 NHK出版(一九九八)
『葬祭仏教』伊藤唯真、藤井正雄編 ノンブル社(一九九七)
『仏教とビハーラ運動』田代俊孝 法蔵館(一九九九)
第四章
『近世仏教の思想』柏原祐泉、藤井学 岩波書店(一九七三)