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現代宗教研究第36号 2002年03月 発行

法華経と宮沢賢治の『春と修羅』(三)―「ソウイフモノ」とは何か―

   法華経と宮沢賢治の『春と修羅』(三)
=cd=ba52「サウイフモノ」とは何か=cd=ba52
三 原 正 資
(現代宗教研究所嘱託)
   はじめに
 『宮沢賢治殺人事件』【一九九七年 吉田司著 太田出版】のなかで、水俣に住んだ体験をもつ著者吉田司は、つぎのように述べて、賢治=聖者のイメ=cd=ba52ジをくつがえす。
  読者よ。「雨ニモマケズ」の詩にあるように、「デクノボートヨバレ」ることが彼の〈理想〉だったのではない。それは彼の〈現実〉だったのだ。「サウイフモノニワタシハナリタイ」んじゃなくて、実際「サウイフモノ」だったのだ。【前掲書 一九四頁】
  大正十五年の〈農耕自炊〉から始まった〈農民芸術〉の羅須地人協会時代ってのは、後世の私たちから見れば賢治の人生と精神が最も高揚したハイライトの時期だと思いがちだが、実際はその逆。その二年間ほど彼が無力で無能で、無用の長物に見えたことはない。【同 一九五頁】
 私がはじめて「雨ニモマケズ」にふれたのは、中学生の時である。教室にひびく担任の先生の独特の雰囲気をともなった朗読の声とともに、私の心に刻まれた賢治のイメ=cd=ba52ジは、吉田の言う聖者に近いものであった。ところが私たちはその詩の発する雰囲気に反発し、揶揄していた。だから、吉田のこのスキャンダラスな賢治論も、読んでそれほどの違和感はなかった。
 吉田は戦前の岩手日報の詩人・森荘已池の『山村食糧記録』を引用して、述べる。
  「昭和の御代とは思えぬ生活」と題されたこの県北農村の荒廃に、森は怒りを禁じ得ない。【略】そ〜した山村農民の絶望的な暮らしのちょっとこちら側の花巻で、その時われらが〈農民救済の菩薩〉宮沢賢治は、「芸術をもてあの灰色の労働を燃せ」【『農民芸術概論綱要』】とかなんとか、キイコキイコ蓄音機の手入れに余念がなかったのである=cd=ba52この「土でもかじる農民」と「蓄音機芸術」との目もくらむような落差!どこに農民芸術の「農民」があっただろう。あったのは、そう、賢治の「遊民」性だけだ。【同 四〇頁】
 確かに吉田の指摘の通りだろう。しかし、現在、宮沢賢治記念館同様、盛況を極めている倉敷の大原美術館が実業家・大原孫三郎によって創設されたのは昭和五年である。経済恐慌のまっただ中で、彼は周囲の反対をおしきって実行した【藤田慎一郎著『大原美術館と私』山陽新聞社刊】。賢治だけが例外ではなかった。
 私は、宮沢賢治が『銀河鉄道の夜』を始めとする透明感にあふれた華麗な童話や『春と修羅 第一集』「春と修羅 第二集」「春と修羅 第三集」等【『第一集』のみ生前出版された】におさめられた詩を読むことによろこびを感じる。たとえば、詩「おい けとばすな」【ちくま文庫宮沢賢治全集 以下文と表記 2 九四頁】の軽妙さはどうだ。
 おい/けとばすな/けとばすな/なあんだ たうとう/すっきりしたコチニールレッド/ぎっしり白い菌糸の網/こんな色彩の鮮明なものは/この森ぢゆうにあとはない/あゝムスカリン/おーい!/りんと引っぱれ!/りんと引っぱれったら!/山の上には雲のラムネ/つめたい雲のラムネが湧く
 ほかにも詩「バケツがのぼって」【文2 六四頁】のユ=cd=ba52モアからは『第一集』の佳品、詩「アンネリダ タンツエーリン」【文1 六三頁】を思い出す。じつは作品のかもす雰囲気と周囲の現実の恐ろしいほどの「落差」が賢治の仕事の源泉ではなかったのか。あたかも大原孫三郎が無名の田舎町にルネッサンスを夢見たように。本稿では、彼が羅須地人協会時代に創作した「春と修羅 第三集」を読み、彼の信仰した法華経との関係を探りたいと考えている。
   一、現実への接近
    1 変化した「春と修羅」の作風
 賢治の羅須地人協会時代とは、彼が県立花巻農学校勤務を辞めた直後の大正十五年四月から昭和三年八月初旬までの二年三ヶ月である。その頃の賢治の活動については「昼は自ら畑をたがやし、土曜日には子供たちを集めて童話を聞かせたりする。夏頃には「羅須地人協会」を設立して、以後、近隣の青年や篤農家たちに、農作に必要な化学や生物学、土壌学のほか、芸術概論などを講義したり、夜には演劇や音楽を一しょに練習する。また、精力的に近くの村々町々をまわり、あちこちに無料の肥料設計事務所を開いて、稲作指導や肥料の相談に応じた。」と述べられ【解説 文2 六七六頁】、そしてこの期間と「ほぼぴったりと重り合っているのが、「春と修羅 第三集」に対して作者の指定した「自大正十五年四月 至昭和三年七月」という期間なのである」【同 文2 六七八頁】。作品「春と修羅 第三集」は彼の協会時代の活動記録であり、『第一集』「第二集」と比べて「題材がきわだって生活的・現実的になっていることは、誰の目にもただちに見てとれる」【同 文2 六八二頁】といわれる。
 たとえば『第一集』の詩「真空溶媒」や詩「小岩井農場」に見られるかろやかな幻想や「第二集」の詩「山火」、詩「東の雲ははやくも蜜のいろに燃え」、そして詩「温かく含んだ南の風が」等に見られる奔放華麗な描写や仏教思想の直接的な表現は姿を消している。
 「第二集」の詩「温かく含んだ南の風が」と「第三集」の詩「白菜畑」の描写とを比較してみよう。題材は天の川と地上の川との違いはあるが、作風は随分異なる。
 …蛍は青くすきとほり/稲はざわざわ葉擦れする…/うしろではまた天の川の小さな爆発/たちまち百のちぎれた雲が/星のまばらな西寄りで/難陀竜家の家紋を織り【略】古生銀河の南のはじは/こんどは白い湯気を噴く【詩「温かく含んだ南の風が」 文1 三七二頁】
 川は爆発するやうな/不定な湯気をときどきあげ/燃えたり消えたりしつづけながら/どんどん針をながしてゐる/病んでゐても/あるいは死んでしまっても/残りのみんなに対しては/やっぱり川はつづけて流れるし/なんといふいゝことだらう【詩「白菜畑」文2 四八頁】
 詩「温かく…」の創作日付は「一九二四、七、五」、詩「白菜畑」は前後の日付から一九二六年【大正十五年】の十月初旬と考えられる。二年余りしか経過していないのに、作風の変化は大きい。爆発する想像力は姿を消し、静かな諦念がただよう。
 次に「第二集」の詩「有明」と「第三集」の詩「金策」とを比べてみよう。
 そこにゆふべの盛岡が/アークライトの点綴や/また町なみの氷燈の列/ふく郁としてねむってゐる/滅びる最後の極楽鳥が/尾羽をひろげて息づくやうに/かうかうとしてねむってゐる/それこそここらの林や森や/野原の草をつぎつぎに食べ/代りに砂糖や木綿を出した【詩「有明」文1 三二六頁】
 青びかりする天弧のはてに/うつくしく町がうかんでいる/かあいさうなまちよ/金持とおもはれ/一文もなく/一文の収入もない/そしてうらまれる【詩「金策」文2 一一一頁】
 詩「金策」の町もおそらく盛岡と思われる。「極楽鳥」と讃えられた東北岩手の産業の中心地は多くの人から恨まれるかわいそうな町と表現され、奔放な修飾語もない。
 さらに『春と修羅 第一集』の有名な冒頭の詩「屈折率」と「第三集」の二番目に収録され、これもよく知られた詩「春」とを比較してみよう。
 七つ森のこつちのひとつが/水の中よりもつと明るく/そしてたいへん巨きいのに/わたくしはでこぼこ凍つたみちをふみ/このでこぼこの雪をふみ/向ふの縮れた亜鉛の雲へ/陰気な郵便脚夫のやうに/【またアラツデイン 洋燈とり】/急がなければならないのか【詩「屈折率」文1 二〇頁】
 陽が照って鳥が啼き/あちこちの楢の林も、/けむるとき/ぎちぎちと鳴る汚ない掌を、/おれはこれからもつことになる【詩「春」文2 二〇頁】
 詩「屈折率」は菩薩行の道を踏み出す賢治の決意を示したものである【日蓮宗現代宗教研究所編『現代宗教研究 第三四号』所収「法華経と宮沢賢治の『春と修羅』」二五六頁】。詩「春」も、羅須地人協会の活動にあたってまったく同じ賢治の決意を書き記したものと思われる。しかし、その手法はなんと異なることか。このような点から全集「解説」に「単なる手法のみならず、詩意識の変革への希求とも読みとれる。」【文2 六八四頁】と言われるのであろう。詩「屈折率」に対して、詩「春」は簡潔、描写は即物的である。それに「急がなければならないのか」という幾分及び腰の決意に比べて、「おれはこれからもつことになる」の表現は実に直截・明快である。
    2 変化の理由
 「春と修羅 第三集」の作風は、なぜ変化したのか。
 さて、この「第三集」の詩「うすく濁った浅葱の水が」では、賢治自身が彼の詩作方法、私たちの側から言うと彼の詩の鑑賞法を語っている。
 【略】そのいたゞきに/二すぢ翔ける/うるんだ雲のかたまりに/基督教徒だといふあの女の/サラーに属する女たちの/なにかふしぎなかんがへが/ぼんやりとしてうつってゐる/それは信仰と奸詐との/ふしぎな複合体とも見え/まことにそれは/山の啓示とも見え/畢竟かくれてゐたこっちの感じを/その雲をたよりに読むのである【文2 八一頁】
 この詩で彼は、超越者の啓示や自分では意識できない自分の考えを、現象に読みとるのだと語っている。
 さて、『第一集』や「第二集」の詩群は過剰とも見える修飾語と力強い幻想に満ち充ちている。賢治にとってその幻想は実在する異界がこの世界に浸透してくる現象であった。
 たとえば詩「小岩井農場」で彼は次のように記す。
 ユリアがわたくしの左を行く/ペムペルがわたくしの右にゐる【略】ユリアペムペルわたくしの遠いともだちよ/わたくしはずゐぶんしばらくぶりで/きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た/どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを/白亜系の頁岩の古い海岸にもとめただらう/《あんまりひどい幻想だ》【略】さあはつきり眼をあいてたれにも見え/明確に物理学の法則にしたがふ/これら実在の現象のなかから/あたらしくまつすぐに起て/【略】わたくしはかつきりみちをまがる【文1 九七頁】
 この異界についての詩の記述は、すでに述べた【『現代宗教研究 第三四号』所収「法華経と宮沢賢治の『春と修羅』二五四頁】ように「異空間の実在」【文10 四二三頁】を証明し、法華経の中心思想である「十界」や仏界である「宇宙意志」の実在をあらわすためであった。そして、賢治を苦しめた種々の「幻想」は法性すなわち妙法蓮華経の現れであると確信できたことが彼の法華経との出会いの本質であった【『現代宗教研究 第三五号』所収「法華経と宮沢賢治の『春と修羅』【二】一六六頁】。
 賢治が書簡で日蓮聖人の遺文の一節「万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体」【定七二五頁】を拠り所として主張したように、もし、彼の人生に生起する一切の出来事が法華経の現れであるとすると、彼はきびしい東北岩手の修羅の現実をひきうけて「あたらしくまつすぐに起」【前掲 詩「小岩井農場」】つことが、基本的には彼の法華経信仰の進むべき道であった。農学校の教職生活に終止符をうって始めた賢治の羅須地人協会の活動は深化した法華経信仰の現れである。「第三集」の詩「うすく濁った浅葱の水が」に「まことにそれは/山の啓示とも見え/畢竟かくれてゐたこっちの感じを/その雲をたよりに読むのである」と彼が述べたことは、生起する現象に法華経の真理の「啓示」を見出そうとしていると受け取るべきだろう。
 詩「春」の手法がいかにも即物的なのは「たれにも見え/明確に物理学の法則にしたがふ/これら実在の現象のなかから/あたらしくまつすぐに起」【前掲 詩「小岩井農場」】った賢治が、東北岩手のきびしい「実在の現象」、日常のひとこまひとこまの現象の生起を法性の現れと観たからである。人は美にあこがれ醜を厭うものだが、見方を変えればすべては真理の「啓示」ではないか。今まで読んできた美しい自然、たとえば詩「春」の光る太陽、啼く鳥、ぼんやりとけむる美しい楢の林も、「ぎちぎちと鳴る 汚い掌」【詩「春」】という実在の現象も法性の現れと見てとったのである。詩の題材が生活的・現実的なのは、法華経信仰によって、彼が現実の「当体」、ありのままの生活に美醜を超えた信仰上の大きな意味、法性の「啓示」を見出したからである、と私は解釈する。
    3 「万法の当体」は真理の「啓示」
 賢治は労働のよろこび、つらさをありのままにスケッチする。なぜならば、すべては「法性」の現れ、真実の完璧な姿である。
  詩「井戸」で彼は労働のよろこびを謳う。
 こゝから草削をかついで行って/玉菜畑へ飛び込めば/宗教ではない体育でもない/何か仕事の推進力と風や陽ざしの混合物/熱く酸っぱい阿片のために/二時間半がたちまち過ぎる/そいつが醒めて/まはりが白い光の網で消されると/ぼくはこゝまで戻って来て/水をごくごく呑むのである【文2 二八頁】
 ここで「宗教」とは『農民芸術概論綱要』に「宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い【略】いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである」【文10 一九頁】と批判されている宗教である。この詩で「仕事の推進力」「風や陽ざしの混合物」と語られたものこそが、詩「あすこの田はねえ」で「雲からも風からも/透明な力が/そのこどもに/うつれ…」【文2 一一九頁】とうたわれた「透明なちから」であり、それが、賢治の法華経であった。ここで彼は労働の中に法華経が現れてくると語っている。何げない日常の動作である、かつぐ「草削」やごくごく飲む「水」のなんと美しいことか。ここには幻想や想像の入る隙はない。
 では、詩「同心町の夜あけがた」はどうだろう。
 同心町の夜あけがた/一列の淡い電燈/春めいた浅葱いろしたもやのなかから/ぼんやりけぶる東の空の/海泡石のこっちの方を/馬をひいてわたくしにならび/町をさしてあるきながら/程吉はまた横目でみる/わたくしのレアカーのなかの/青い雪菜が原因ならば/それは一種の嫉視であるが/乾いて軽く明日は消える/切りとってきた六本の/ヒアシンスの穂が原因ならば/それもなかばは嫉視であって/わたくしはそれを作らなければそれで済む/どんな奇怪な考が/わたくしにあるかをはかりかねて/さういふふうに見るならば/それは懼れて見るといふ/わたくしはもっと明らかに物を云ひ/あたり前にしばらく行動すれば/間もなくそれは消えるであらう/われわれ学校を出て来たもの/われわれ町に育ったもの/われわれ月給をとったことのあるもの/それ全体への疑ひや/漠然とした反感ならば/容易にこれは抜き得ない【文2 八七頁】
 吉田司はこの詩を引用して「趣味労働」「農民貴族の労働」【前掲『宮沢賢治殺人事件』四一頁】と揶揄し批判した。たしかに、程吉の嫉視が「軽く明日は消える」かどうか、疑問に思う。なぜ、賢治はこのような奇妙な心理状態を書きつづったのか。
 ここでふたたび友人保阪嘉内への書簡【前掲「法華経と宮沢賢治の『春と修羅』【二】一六六頁参照】を引用しておきたい。
 あなたなんて全体始めから無いものです。けれども又あるのでせう。退学になったり今この手紙を見たりして居ます。これは只妙法蓮華経です。妙法蓮華経が退校になりました妙法蓮華経が手紙を読みます…【「書簡五〇」 大正七年三月頃 文9 七八頁】
 実に一切は絶対であり無我であり、空であり無常でありませうが然もその中には数知らぬ流転の衆生を包含するのです。流転の中にはみじめな私の姿をもみます。本当はみじめではない。食を求めて差し出す乞食の手も実に不可思議の妙用であります。【文9 一二〇頁】
 だいたいこの詩「同心町の夜あけがた」の題材は、最も詩というものから遠い題材ではないか。しかし夜明け方の同心町を歩く賢治の脳裏には、かつて友人保阪へ宛てた手紙が去来していたのではないか。自分も、程吉も、レアカーも、雪菜も、嫉視も妙法蓮華経である。そのような確信がこの一場面を描写させていると思うのである。彼は自身の一連の心理と行動を離れたところから観察して「みじめな私の姿」を見ていたであろう。しかし本当はみじめではない、本体は「不可思議の妙用」である、法性であると信じていたと思われる。このような詩は、こうした宗教的確信がなければ、到底生まれなかったと思う。
   二、「野の師父」とは何か
 宮沢賢治が羅須地人協会で講義したといわれる「農民芸術概論綱要」には農民の理想像が「師父」という言葉で示されている。
 おれたちはみな農民である ずゐぶん忙しく仕事もつらい/もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい/われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった【略】曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた/そこには芸術も宗教もあった【同 一九頁】
 古谷綱武は『宮澤賢治』【角川文庫 昭和二十六年初版】中に「農民芸術概論」についての森惣一の解説を引用して、述べる。
 「私はこれを読むとき、著者が【略】はじめて妙法蓮華経をよみ只驚喜し身顫い戦けりといつたことを想起します。このときから農民芸術概論を書くまでに十年間たちます。そののち教職をしりぞき農耕自炊の生活に入つて、没年に至るまで八年間があります。これは著者の生涯を二つに大きくくぎる事項であります。この二つによつて私たちは著者の転換と飛躍を知ります。重大なことは、この青年期と壮年期では、リトマス試験紙を赤と青に染め分けられるような、傾向の差異であります。その遷移を農民芸術概論が大きく標示するのであります。【略】ここから著者は内包的なものから外延的なものに行動や思索を奔騰させるのであります。けれども著者はこの綱要は手稿し、己れ自身に宣言はしましたが、人や世には示すことをしませんでした」【古谷前掲書 二六頁】
 この「傾向の差異」が『春と修羅第一集』「第二集」と「第三集」の違いである。それは彼が心に描く人物像の違いとなる。
    1 『第一集』に描かれた人物像
 まず、『第一集』の詩「真空溶媒」を見ていただこう。銀杏並木をくぐって広い野原を歩く作者の目に一人の人物が現れる。
 地平線はしきりにゆすれ/むかふを鼻のあかい灰いろの紳士が/うまぐらゐあるまつ白な犬をつれて/あるいてゐることはじつに明らかだ/(やあこんにちは)/(いやいゝおてんきですな)/(どちらへごさんぽですか)【文1 五〇頁】
 立派な靴をはいた紳士は「金鎖」【同 五七頁】を所持し、犬を連れて散歩している。
 詩「小岩井農場」ではどうか。盛岡を過ぎ、とある停車場で作者は下車する。一足早く下りた人がいた。その人は、
 化学の並川さんによく肖たひとだ/あのオリーブのせびろなどは/そつくりおとなしい 農学士だ【文1 六八頁】
と、描写される。その人は待たせてあった馬車に乗る。
 黒塗りのすてきな馬車だ/光沢消しだ/馬も上等のハツクニー/このひとはかすかにうなづき/それからじぶんといふ小さな荷物を/載つけるといふ気軽なふうで/馬車にのぼつてこしかける【同 六九頁】
 その馬車は出発する。自分も乗りたいのに誘ってくれない。
 馬車はずんずん遠くなる/大きくゆれるしはねあがる/紳士もかろくはねあがる【同 七二頁】
 そして、作者は尊敬の念をこめてこの紳士を次のように描写する。
 このひとはもうよほど世間をわたり/いまは青ぐろいふちのやうなとこへ/すましてこしかけてゐるひとなのだ【同 七二頁】
 この二編の詩には、立派な靴をはき金鎖を身に付けて散歩する紳士と黒塗りの馬車に乗った紳士が登場する。作者は彼らにあこがれをいだいているかのようである。これらの人物が東北岩手の当時の支配階級に属することは言うまでもない。では、農民はどうか。
 詩「小岩井農場」では、作者は前方に現れる一人の農夫に汽車の時間を尋ねる。
 このひとはもう五十ぐらゐだ/(ちよつとお訊ぎ申しあんす)/盛岡行ぎ汽車なん時だべす)/(三時だべが)/ずゐぶん悲しい顔のひとだ/博物館の能面にも出てゐるし/どこかに鷹のきもちもある【略】この人はわたくしとはなすのを/なにか大へんはばかってゐる【文1 九二頁】
 これらの人物描写から作者すなわち賢治の社会的位置が明らかになる。彼は紳士に代表される支配階級と農夫との中間に生き、彼の目は支配階級に向いている。
 
    2 「第二集」に描かれた人物像
 『第一集』に比べて「第二集」には多彩な人物群が登場する。
 詩「空明と傷痍」には
 月賦で買った緑青いろの外套に/しめったルビーの火をともし/かすかな青いけむりをあげる」【文1 二八八頁】会社員風の男。
 次の詩には「きせるをくはえたり/日光に当ったりしてゐる/小屋葺替への村人」【同 二八九頁】が描かれ、詩「五輪峠」には「地主」が描かれる。
 宇部何だって?…/宇部興左衛門?…/ずゐぶん古い名前だな【略】それで毎日糸織を着て/ゐろりのへりできせるを叩いて/政治家きどりでゐるんだな【同 二九〇頁】
 大正から昭和にかけての会社員や地主がじつに生き生きと描かれている。
 詩「山火」には「酔って口口罵りながら」【同 三一六頁】帰ってくる村人たち。詩「鉄道線路と国道が」には「頬の赤いはだしの子ども」【同 三四五頁】、詩「薤露青」には「声のいゝ製糸場の工女」【同 三八九頁】、詩「氷質の冗談」【同 四五二頁】には学校の先生が描かれる。詩「今日もまたしやうがないな」には「泉沢だの藤原だの/太田へ帰る生徒」【同 四五九頁】が生き生きと描写される。楽しかった賢治の教師時代の一こまである。
 この「第二集」の中では詩「春」が美しい。
 空気がぬるみ/沼には鷺百合の花が咲いた/むすめたちは/みなつややかな黒髪をすべらかし/あたらしい紺のペッテイコートや/また春らしい水いろの上着/プラットフオームの陸橋の段のところでは/赤縞のずぼんをはいた老楽長が/そらこんな工合だというふうに/楽譜を読んできかせてゐるし/山脈はけむりになってほのかにながれ/鳥は燕麦のたねのやうに/いくかたまりもいくかたまりも過ぎ/青い蛇はきれいなはねをひろげて/そらのひかりをとんで行く/ワルツ第CZ号の列車は/まだ向ふのぷりぷり顫ふ地平線に/その白いかたちを見せてゐない【同 三九六頁】
 大正から昭和にかけての軽井沢辺りの光景としか見えない。当時の花巻に「春らしい水いろの上着」をきたむすめたちや「老楽長」がいたのであろうか。賢治が夢見たイ=cd=ba52ハトブの風景だったのだろうか。そして賢治の位置を象徴しているのは次の詩「硫黄いろした天球を」である。
 硫黄いろした天球を/煤けた雲がいくきれか翔け/肥料倉庫の亜鉛の屋根で/鳥がするどくひるがへる/最後に湿った真鍮を/二きれ投げて日は沈み/おもちゃのやうな小さな汽車は/教師や技手を四五人乗せて/東の青い古生山地に出発する/…大豆の玉負ふその人に/希臘古聖のすがたあり…/積まれて酸える枕木や/けむりのなかの赤いシグナル【文1 四七〇頁】
 これはいかにも賢治好みの用語に満ちた詩である。「教師や技手」と大豆を背負ったギリシャの「古聖」のような一老人との対比。「教師」である賢治は「古聖のすがた」に見入る。ここには「第三集」に現れる「野の師父」の原形がある。「師父」を求める賢治がここにはいる。そして同日【一九二五年四月二日】の詩「そのとき嫁いだ妹に云ふ」に、「野の師父」ということばが現れる。
 そのとき嫁いだ妹に云ふ/十三もある昴の星を/汗に眼を蝕まれ/あるいは五つや七つと数へ/或いは一つの雲と見る/老いた野原の師父たちのため/老いと病ひになげいては/その子と孫にあざけられ【以下略】【同 四七一頁】
 長年の労働によって眼を痛めた「師父」は十三もの星の集合体であるスバルのうちの半分も見分けることもできないで、自らの老いと病を悲しみ、子や孫にはあざ笑われている…と賢治は記す。それは師父とはいえ、一人の苦悩に満ちた老人の姿である。
    3 「第三集」に描かれた人物像
 「第三集」に登場する人物群は二層に分かれている。第一の層は「県会議員」【文2 二九頁】・「学士」【同 五三頁】・「写真師」【同 五四頁】・「教授」「博士」「男爵」【同 五六頁】・「村長」【同 九七頁】・「県技師」【同 一〇五頁】等の当時の社会の上層階級に属する人物群である。第二の層は「顔のむくんだ子」【同 三九頁】・「年より」【同 五一頁】・「雑役人夫」【同 六二頁】・「屋台店の主人」【同 八九頁】等の社会の下層に属する人物群である。では、賢治はどちらに属しているのか。
 「ぎちぎちと鳴る 汚い掌」【文2 二〇頁】を持つことになる彼は当然、第二層に属するはずだが、詩「道べの粗朶に」に「そっちはさっきするどく斜視し/あるいは嘲けりことばを避けた/陰気な幾十の部落なのに」【同 二四頁】と述べ、またすでに紹介した詩「同心町の夜あけがた」に「われわれ学校を出てきたもの/われわれ町に育ったもの/われわれ月給をとったことのあるもの/それ全体への疑ひや/漠然とした反感」【同 八八頁】とあるところから、賢治は第二層の人たちから忌避されていたことは疑いえない。
 そして詩「実験室小景」【文2 五六頁】や
 わたくしがかつてあなたがたと/この方室に卓を並べてゐましたころ、/たとへば今日のやうな明るくしづかなひるすぎに/…窓にはゆらぐアカシヤの枝…/ちがった思想やちがったなりで/誰かが訪ねて来ましたときは/わたくしどもはたゞ何げなく眼をも見合わせ/またあるかなし何ともしらず表情し合ひもしたのでしたが」【同 一一三頁】
と楽しかった教師時代を回想する詩「僚友」には、社会の上層に対する彼の屈折した心理が表現されている。
 このように社会的階層のどこにも居場所のない賢治が、「これからの本当の勉強はねえ/テニスをしながら商売の先生から/義理で教はることでないんだ」【文2 一一八頁】と述べ、志向した理想像が「野の師父」である。
    4 「野の師父」
 「野の師父」について、古谷綱武は「農民芸術概論のなかに祈りをこめた脱皮新生の言葉は、ここにいたって悠久の肉化をとらえ、不変の光芒にかがやいている」【前掲『宮澤賢治』七四頁】と述べ、「不朽の詩」【同 七九頁】であると評価している。では、その詩の全文を引用しよう。
 倒れた稲や萱穂の間/白びかりする水をわたって/この雷と雲とのなかに/師父よあなたを訪ねて来れば/あなたは縁に正しく座して/空と原とのけはひをきいてゐられます/日日に日の出と日の入に/小山のやうに草を刈り/冬も手織の麻を着て/七十年が過ぎ去れば/あなたのせなは松より円く/あなたの指はかじかまり/あなたの額は雨や日や/あらゆる辛苦の図式を刻み/あなたの瞳は洞よりうつろ/この野とそらのあらゆる相は/あなたのなかに複本をもち/それらの変化の方向や/その作物への影響は/たとへば風のことばのやうに/あなたののどにつぶやかれます/しかもあなたのおももちの/今日は何たる明るさでせう/豊かな稔りを願へるままに/二千の施肥の設計を終へ/その稲いまやみな穂を抽いて/花をも開くこの日ごろ/四日つゞいた烈しい雨と/今朝からのこの雷雨のために/あちこち倒れもしましたが/なほもし明日或は明後/日をさへ見ればみな起きあがり/恐らく所期の結果も得ます/さうでなければ村々は/今年もまた暗い冬を再び迎へるのです/この雷と雨との音に/物を云ふことの甲斐なさに/わたくしは黙して立つばかり/松や楊の林には/幾すぢ雲の尾がなびき/幾層のつゝみの水は/灰いろをしてあふれてゐます/しかもあなたのおももちの/その不安ない明るさは/一昨年の夏ひでりのそらを/見上げたあなたのけはひもなく/わたしはいま自信に満ちて/ふたゝび村をめぐらうとします/わたくしが去らうとして/一瞬あなたの額の上に/不定な雲がうかび出て/ふたゝび明るく晴れるのは/それが何かを推せんとして/恐らく百の種類を数へ/思ひを尽してつひに知り得ぬものでありますが/師父よもしやそのことが/口耳の学をわづかに修め/鳥のごとくに軽佻な/わたくしに関することでありますならば/師父よあなたの目力をつくし/あなたの聴力のかぎりをもって/わたくしのまなこを正視し/わたくしの呼吸をお聞き下さい/古い白麻の洋服を着て/やぶけた絹張の洋傘はもちながら/尚わたくしは/諸仏菩薩の護念によって/あなたが朝ごと誦せられる/かの法華経の寿量の品を/命をもって守らうとするものであります/それでは師父よ/何たる天鼓の轟きでせう/何たる光の浄化でせう/わたくしは黙して/あなたに別の礼をばします【文2 一二〇頁】
 この詩について、浅野晃は「七十歳をすぎた老農、つまり野の師父は、賢治を元気づけ、勇気づけ、あらたな奮闘へと赴かしむるのです。もっとも、このような師父が、じっさいにいたかどうかということは、この場合、どうでもよいことであります。賢治は【略】泰然として最善をつくす長老をまぶたに描き、それによって、おそらく自分を元気づけていたのです。」【一九六五年教育新潮社『雨ニモマケズ』一七九頁】と述べて、具体的なモデルはいないことを示唆している。しかし詩集を読むと複数の具体的なモデルがいたのではないかと考えられる。例えばすでに紹介した「第二集」の詩「硫黄いろした天球を」【文1 四七〇頁】や詩「そのとき嫁いだ妹に云ふ」【同 四七一頁】に、それぞれ「大豆の玉負ふその人に/希臘古聖のすがたあり」「老いた野原の師父たちのため」と読まれている師父は具体的人物である。
 では、「第三集」ではどうだろうか。次のような例が見られる。
 ひるになったので/枯れたよもぎの茎のなかに/長いすねを抱くやうに座って/一ぷくけむりを吹きながら/こっちの方を見てゐるやうす/七十にもなって丈六尺に近く/うづまいてまっ白な髪や鬚は/まづはむかしの大木彫が/日向へ迷って出て来たやう」【詩「午」文2 八四頁】
 そしていったいおれのたづねて行くさきは/地べたについた北のけはしい雨雲だ、/こゝの野原の土から生えて/こゝの野原の光と風と土とにまぶれ/老いて盲ひた大先達は/なかばは苔に埋もれて/そこでしづかにこの雨を聴く【詩「二時がこんなに暗いのは」 文2 一三〇頁】
 今日の二人の先達は/この国の古い神々の/その二はしらのすがたをつくる/今日は日のなかでしばし高雅の神であり/あしたは青い山羊となり/あるとき歪んだ修羅となる/しかもいま/松は風に鳴り、/その針は陽にそよぐとき/その十字路のわかれの場所で/衷心この人を礼拝する/何がそのことをさまたげようか【詩「台地」文2 一三六頁】
 これらの詩に「野の師父」の風格がただよう。ちなみに『宮澤賢治入門』【昭和四十九年十字屋書店】の著者佐藤勝治は「古い師父たち 農民の明るい生き方を求めた人々には萩生徂来・安藤昌益・石川理喜之助その他多くの先人たちがあるが、賢治と直接接触のあった大森堅弥・横井時敬・玉利喜造などもあげられよう。【川原二左衛門「宮沢賢治と農本思想】」【一二三頁】と具体的な人物を挙げている。
 賢治の詩に登場する師父は名もない土着の老人である。師父はときに「法華経の寿量の品を」【詩「野の師父」】読誦する人であり、また大豆を背負った農夫【詩「硫黄いろした天球を」】である。子供や孫にも嘲られる年寄り【詩「そのとき嫁いだ妹に云ふ」】であり、また七十歳をこえてまっ白な髪や髭をたくわえ、商売気のある堂々とした老人【詩「午」】であるときもある。また、目が不自由でひっそりと暮らしている老人【詩「二時がこんなに暗いのは」】でもあり、あるいは「高雅な神」【詩「台地」】のような老人であるときもある。賢治はいろいろな老農を訪ね歩き、名もない老いた人の中に「師父」と仰ぐ人格を見出したのである。彼らはこの国の「古い神々」【詩「台地」】のようであったが、さりとて「あしたは青い山羊となり/あるとき歪んだ修羅となる」【同】普通の人物であった。しかし賢治はこのような老農の中に宗教的人格を発見して、「十字路のわかれの場所で/衷心この人を礼拝する」【同】と心の中で自分に語りかける。彼は老農に聖性を見ることを、「何がそのことをさまたげようか」【同】と言う。
 「第三集」のはじめの詩「春」では「ぎちぎちと鳴る 汚ない掌」【文2 二〇頁】を法性の現れと観て聖性を感じた彼は、老農に聖性を見出したのである。そして、これら一連の師父を読んだ詩は「雨ニモマケズ」へとつながっていく。
    5 詩「野の師父」から「雨ニモマケズ」へ
 最初に「雨ニモマケズ」の全文を掲載して、詩「野の師父」をはじめ一連の「師父」の詩と比較しよう。
 雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ夏ノ暑サニ/モマケヌ/丈夫ナカラダヲ/モチ/慾ハナク/決シテ瞋ラズ/イツモシヅカニワラツテ/ヰル/一日ニ玄米四合ト/味噌ト少シノ/野菜ヲタベ/アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ/入レズニ/ヨク/ミキキシ/ワカリ/ソシテ/ワスレズ/野原ノ松ノ林ノ蔭ノ/小サナ萱ブキノ/小屋ニヰテ/東ニ病気ノコドモ/アレバ/行ッテ看病シテ/ヤリ/西ニツカレタ/母アレバ/行ッテソノ/稲ノ束ヲ/負ヒ/南ニ/死ニサウナ人/アレバ/行ッテ/コハガラナクテモ/イゝ/トイヒ/北ニケンクワヤ/ソショウガ/アレバ/ツマラナイカラ/ヤメロトイヒ/ヒドリノトキハ/ナミダヲナガシ/サムサノナツハ/オロオロアルキ/ミンナニ/デクノボート/ヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ/サウイフ/モノニ/ワタシハ/ナリタイ/南無無辺行菩薩/南無上行菩薩/南無多宝如来/南無妙法蓮華経/南無釈迦牟尼仏/南無浄行菩薩/南無安立行菩薩【「雨ニモマケズ手帳」文10 五〇頁】
 「雨ニモマケズ」と詩「野の師父」及び詩「二時がこんなに暗いのは」を比べよう。
 冒頭の「雨ニモマケズ/風ニモマケズ…」と「倒れた稲や萱穂の間/白びかりする水をわたって/この雷と雲とのなかに/師父よあなたを訪ねて来れば」【文2 一二〇頁】「二時がこんなに暗いのは/時計も雨でいっぱいなのか/本街道をはなれてからは/みちは烈しく倒れた稲や【略】そしていったいおれのたずねて行くさきは/地べたについた北のけはしい雨雲だ」【同 一三〇頁】を比べると、そこには共通した描写が見られる。これらの詩はすべて稲の状態を心配した賢治の行動から生まれている。
 「アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ/入レズニ/ヨク/ミキキシ/ワカリ/ソシテ/ワスレズ」とは具体的にはどういう事なのか。じつはその答えは詩「野の師父」の一節にある。「この野とそらのあらゆる相は/あなたのなかに複本をもち/それらの変化の方向や/その作物への影響は/たとへば風のことばのように/あなたののどにつぶやかれます」【同 一二一頁】 「ミキキシ/ワカ」っていることは、具体的には稲の生育に影響を与える天候等の事柄である。自然を理解するためには「ジブンヲカンジョウニ/入レ」てはならない、そうすれば師父のようにいつかは「風のことばのように」自然の真実が呟かれるだろうと彼は考える。
 「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ/小サナ萱ブキノ/小屋ニヰテ…」はどうだろう。詩「野の師父」の「あなたは縁に正しく座して/空と原とのけはひをきいてゐられます」【同 一二〇頁】や「松や楊の林には…」【同 一二二頁】、そして詩「二時がこんなに暗いのは」の「野原の土から生えて…」【同 一三〇頁】等の一節には共通する雰囲気が漂う。
 「ヒドリノトキハ/ナミダヲナガシ…」【「雨ニモマケズ手帳」の註=cd=ba52文10 五〇頁=cd=ba52には「ヒドリ」は「ヒデリ」の誤記とある】は詩「野の師父」の「この雷と雨との音に/物を云ふことの甲斐なさに/わたくしは黙して立つばかり」【同 一二二頁】「一昨年の夏ひでりのそらを/見上げたあなたのけはひもなく」【同 一二二頁】に照応する。
 「ミンナニ/デクノボート/ヨバレ」は「第二集」の詩「そのとき嫁いだ妹に云ふ」【文1 四七一頁】に「老いた野原の師父たちのため/老いと病ひになげいては/その子と孫にあざけられ」と生々しく読まれている。
 「南無妙法蓮華経…」は詩「野の師父」の「それでは師父よ/何たる天鼓の轟きでせう/何たる光の浄化でせう/わたくしは黙して/あなたに別の礼をばします」【文2 一二四頁】や、詩「台地」の「松は風に鳴り、/その針は陽にそよぐとき/その十字路のわかれの場所で/衷心この人を礼拝する」【文2 一三六頁】が、それに当たる。
 このように「雨ニモマケズ」と詩「野の師父」とは多くの点で呼応していることから、「サウイフ/モノ」とは「野の師父」を指していると思われる。吉田の言うように、「ナリタイ」と思わなくても、彼はすでに「デクノボー」であったという一面もあるだろう。だが賢治は「デクノボー」の中に「野の師父」を仰ぎ見たのである。この観点から言うと、「デクノボー」は彼にとって真に聖性を有するものであり、法華経によって開示された「法性」の顕現であった。法華経の信仰の立場から「サウイフ/モノニ/ワタシハ/ナリタイ」と願望したのである。
 吉田は宮沢家と縁のあった母と一緒に花巻の「宮沢賢治記念館」を訪れたときのことを、『宮澤賢治殺人事件』に次のように描いている。
  すると母は、「こんな立派な記念館で飾りたくられている賢治は、もう二度と見たくない」「お前一人で見てこい」と、ド〜シテモ記念館の内に入ろうとしないのである。入り口のベンチに腰をおろし煙草をくゆらしながら、「ここにいるのは、宮澤賢治じゃないもの。世界的な偉人だなんて、そら、きっと清六さん【賢治の弟】が作った宮澤賢治だろ。本当の賢治は、誰からも評価されない、無名の哀しい人だったもの…」【前掲書 一一頁】
 今年【平成十三年】六月十二日九十七歳で死去した宮澤清六が吉田の母コトに次のように語ったという。
 「賢治の本でも何でも、もう自分らの頭の上を飛んで歩いて、どーにもなりませんよ。自分らの手の届かないところに行ってしまった…」【同 三一頁】
 賢治自身、世に言われる意味での聖者、偉人ではなかったことを自覚していたのではなかったのか。例えば詩「同心町の夜あけがた」に、「馬をひいてわたくしにならび/町をさしてあるきながら/程吉はまた横眼でみる/わたくしのレアカーのなかの/青い雪菜が原因ならば/それは一種の嫉視であるが…【文2 八七頁】と自己の醜い心の動きをスケッチしている。私はこのような賢治が好きである。また彼自身、そのようなものを含んだ聖性を目指したといえよう。分銅惇作はこの点を次のように述べる。
  名もない一介の老農夫の姿に「野の師父」のおもかげを認めて、作者は敬虔な感情を寄せ、「口耳の学をわづかに修め鳥のごとくに軽佻な」と、みずからの体験の未熟さを恥じていますが、【略】作者は、実践を通じて自己完成を求める切実な願望をのべているのです。【一九九三年新装版『宮沢賢治の文学と法華経』水書房 二〇七頁】
 このように一見聖者とは見えない人物に、彼は聖なるものを発見するのだが、これはすべての現象を真理の現れと観る彼の法華経信仰によると見るべきで、最も大きな影響を及ぼしたのは法華経常不軽菩薩品であろう。これらのことに関しては分銅惇作の前掲書【同 第三章宮沢賢治の思想と法華経】に詳しい。
    6 常不軽菩薩
 デクノボーと常不軽菩薩との関わりについてはすでに多くの研究者が指摘している。ここで私は「雨ニモマケズ」手帳の一節と詩「道べの粗朶に」との深い関わりの可能性を述べておきたい。
 あるひは瓦石さてはまた/刀杖もって追れども/見よその四衆〈のなかにして〉/に具はれる/仏性なべて/拝をなす/不軽菩薩【文10 六八頁】
 菩薩四の衆を礼すれば/〈あるひは瓦石〉/衆はいかりて罵るや/この無智の比丘いづち/より/来りてわれを礼するや/我にもあらず/衆ならず/法界にこそ立ちまして/たゞ法界ぞ法界を/礼すと拝をなし給ふ【同 六九頁】
 法界 礼拝スルナリ/法界【同 七四頁】
 この中の「衆はいかりて罵るや」という一節を読むと、私は賢治と農民との間にあった軋轢を想起しないわけにはいかない。次の詩「道べの粗朶に」も賢治と農民との複雑な関係を暗示している。
 道べの粗朶に/何かなし立ちよってさはり/け白い風にふり向けば/あちこち暗い家ぐねの杜と/花咲いたまゝいちめん倒れ/黒雲に映える雨の稲/そっちはさっきするどく斜視し/あるいは嘲けりことばを避けた/陰気な幾十の部落なのに/何がこんなにおろかしく/私の胸を鳴らすのだらう/今朝このみちをひとすぢいだいたのぞみも消え/いまはわづかに白くひらける東のそらも/たゞそれだけのことであるのに/なほもはげしく/いかにも立派な根拠か何かありさうに/胸の鳴るのはどうしてだらう/野原のはてで荷馬車は小く/ひとはほそぼそ尖ってけむる【文2 二四頁】
 この詩の最初の六行と終わりの二行の風景描写の見事さ。その自然の中に農民との軋轢をかかえて立ちつくす賢治の孤独な姿が浮かび上がる。しかも彼は暗い心の一方では、よろこびに胸が高鳴るという不可解な体験を書き記している。彼は農民の嘲りを聞きながら、常不軽菩薩も同じ体験をしたと思い、喜びを感じたのではなかろうか。
 「我にもあらず/衆ならず/法界にこそ立ちまして/たゞ法界ぞ法界を/礼すと拝をなし給ふ」の一節は、友人保阪への手紙の「これは只妙法蓮華経です。妙法蓮華経が退校になりました妙法蓮華経が手紙を読みます…」【文9 七八頁】「流転の中にはみじめな私の姿をもみます。本当はみじめではない。食を求めて差し出す乞食の手も実に不可思議の妙用であります。」【同 一二〇頁】と同一の思想・信仰である。
 何故賢治はスケッチし続けて、膨大な詩群を生み出したのだろうか。彼には、自己の内面や他人の面もち、そして自然の光景を描写することはとりもなおさず法界、すなわち仏国土を記録していくことだという思いがあったのではなかろうか。怒り罵る人々を礼拝しつづけた常不軽菩薩の姿に仏国土を浄める姿を観たように、彼には自分の行いが仏国土を現していくものというひそかな自負があったのではなかろうか。この意味から「春と修羅」の膨大な詩群は彼の法華経信仰を表現したものと見ることができるだろう。
   おわりに=cd=ba52文明への危惧と死=cd=ba52
 「春と修羅 第三集」には、詩「おい けとばすな」【文2 九四頁】、詩「蛇踊」【同 二六頁】、詩「バケツがのぼって」【同 六四頁】などの軽妙な詩や第二集の文明賛歌とも言うべき詩「発電所」とは対照的な実に暗い印象がただよう詩「はるかな作業」等がある。
 黒いけむりをわづかにあげる/瓦工場のうしろの台に/冴え冴えとしてまたひゞき/ここの畑できいてゐれば/楽しく明るさうなその仕事だけれども/晩にはそこから忠一が/つかれて憤って帰ってくる【同 四一頁】
 賢治にあと十数年の寿命が与えられていたならば、どのような詩を創ったことだろう。詩「燕麦の種子をこぼせば」で彼は記す。 
 二人は憎悪のまなこして/岸のはたけや藪を見ながら/身構へをして立ってゐる/…あれらの憎悪のひとみから/あらたな文化がうまれるのか…【文2 七〇頁】
 これら文明への疑念や人間への不信を表明した詩は「第三集」詩作の末期にあたる昭和三年六月に詠まれた「三原三部」や「東京」へと引き継がれていく。
 「東京」を読むと、私は同時代の画家長谷川利行【一八九一〜一九四〇】の絵を思い浮かべる。長谷川は、賢治が「東京」を書いた昭和三年に代表作油彩「汽罐車庫」「浅草停車場」「地下鉄道」等を描いた。「地下鉄道」は昭和二年の暮れに日本初の地下鉄が上野と浅草との間を走ったが、その浅草改札口付近を描いたもので、戦前の東京の繁栄が伝わってくる。いくらかの疲れた空気をともないながら。賢治の「東京」も同じ空気を伝えてくれる。たとえば詩「神田の夜」を読むと利行の絵「浅草停車場」の情景を見るようだ。
 十二時過ぎれば稲びかり/労れた電車は結束をして/遠くの車庫に帰ってしまひ/雲の向ふであるいははるかな南の方で/口に巨きなラッパをあてた/グッタペルカのライオンが/ビールが四樽売れたと吠える/…赤い牡丹の更紗染/冴え冴え燃えるネオン燈/白鳥の頸睡蓮の火/雲にはるかな希望をのせて/いまふくよかにねむる少年…【文3 四二一頁】
 「疾中」としてまとめられた詩編は、昭和三年から四年にかけて病床で記されたとされている。六年ほど前の大正十一年に妹トシの死を描いた『春と修羅第一集』の詩編は、死を描きながらも奔放な想像力によって華麗な印象を与えるものであった。ところが彼が自己の死に直面して記したこれらの詩篇は信仰に由来する透明な諦観をただよわせながら、同時に一抹の暗さを帯びている。詩「そしてわたくしはまもなくしぬのだろう」には彼の生涯の疑問と煩悶が読まれている。
 そしてわたくしはまもなく死ぬのだろう/わたくしといふのはいったい何だ/何べん考へなほし読みあさり/さうともきゝかうも教へられても/結局まだはっきりしてゐない/わたくしといふのは【以下空白】【同 五四二頁】
 そして最後には次のような諦念が綴られる。「わたくしといふのは」法華経の現れなのだ、これが賢治の確信であった。
 帰命妙法蓮華経/生もこれ妙法の生/死もこれ妙法の死/今身より仏身に至るまでよく持ち奉る【同 五四四頁】
 同じ法華経を信奉する私の立場から言うと、賢治は近代日本の文学者として、「法華経」の思想そのものと格闘した作品として見るべきものと考える。
 賢治とほぼ同時代人の中原中也【一九〇七=cd=ba52一九三八】は賢治からも影響を受けた詩人である。中也には「心象」という詩や「永訣の秋」という題の詩編もある。もちろん詩風は異なるが、私は賢治の詩「三原 第三部」の「海があんまりかなしいひすゐのいろなのに/そらにやさしい紫いろで/苹果の果肉のやうな雲もうかびます」【文3 三九八頁】の一節を読んだときには、中也の詩と似ていると思った。逆に中也の詩「帰郷」の一節「あゝ おまへはなにをして来たのだと…/吹き来る風が私に云ふ」【岩波文庫『中原中也詩集』三九頁】は賢治を想起させる。
 中也の詩「臨終」の一節「しかはあれ この魂はいかにとなるか?/うすらぎて 空となるか」【同 二七頁】や詩「骨」の一節「霊魂はあとに残って、/また骨の処にやつて来て、/見てゐるのかしら?」【同 一九五頁】などから、中也もまた、賢治同様死について思いめぐらせたことがわかる。その中也は詩の中で「神よ私をお憐れみ下さい!」【同 三一七頁】と呼びかけていた。
 今後は賢治の詩を中也やあるいは他の同時代人と比較することによって、その宗教性の内容をより明確にしたい。その作業によって「春と修羅」の詩篇に表現された法華経信仰は、今日の私たちにより新たなものとしてよみがえってくるのではなかろうか。
 終わりに、あまりにもせつない心情を読んだ「疾中」のなかの詩「風がおもてで呼んでゐる」【文2 五三四頁】を引用しておきたい。
 風がおもてで呼んでゐる/「さあ起きて/赤いシャツと/いつものぼろぼろの外套を着て/早くおもてへ出て来るんだ」と/風が交々叫んでゐる/「おれたちはみな/おまへの出るのを迎へるために/おまへのすきなみぞれの粒を/横ぞっぽうに飛ばしてゐる/おまへも早く飛び出して来て/あすこの稜ある巌の上/葉のない黒い林のなかで/うつくしいソプラノをもった/おれたちのなかのひとりと/約束通り結婚しろ」と/繰り返し繰り返し/風がおもてで叫んでゐる
 風の声にこたえて、私たちみんなの中の元気な「賢治」はおもてへ飛び出していくときではなかろうか。
※本稿は第五十四回日蓮宗教学研究発表大会で発表した原稿に加筆したものである。

 

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