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現代宗教研究第36号 2002年03月 発行

律蔵経典群に見られる耆婆の治療法影

 研究ノート
   律藏経典群に見られる耆婆の治療法
影山教俊   
(現代宗教研究所嘱託)   
 ◆プロローグ
 二〇〇一年九月十一日、アメリカにて同時多発テロが勃発した。そして、同年十月八日、アメリカとNATO連合軍によって、アフガニスタンのテロリスト、オサマ・ビンラディンと、そのテロリストをかくまうタリバン政権への空爆が開始され、現在も空爆は激しさを増しながら続行され、それは軍事施設にとどまらず民間施設の誤爆へとエスカレートし、多くの民間人が犠牲になっている事実が報道されている。
 そして近ごろは、このような社会の問題ばかりではなく、臓器移植の問題、青少年問題などを含めて、現代の社会的な要請によって仏教者からの発言が多くなっている。しかし、その発言内容は仏教者としては、あまりにも観念的であることに危惧を覚える。
 たとえば臓器を提供することは菩薩行に通ずるなど、仏道修行の目的の何たるかを逸した意見がある。また戒と律との区別を曖昧にあいたまま、仏教には「不殺生の戒がありますので、皆さん、戦争に反対しましょう」と、しごく短絡的に結んでしまう事実なども挙げられる。これらは仏教者が、自分自身の切れば血の出る具体的な身体性をもって論を進めようとしないために生ずる問題であるといえる。
 たとえば対症療法として臓器移植を行なう現代医療は、死に対する生の医療であるのに対して、仏教の根本命題は六道輪廻からの解脱、お釈迦さまによって説かれた仏教という宗教の目的は、その一般的な理解では「抜苦与楽」にあることは周知の通りである。具体的には私たちが日常生活で行った「善因善果、悪因悪果」の報いによって、地獄界・餓鬼界・鬼畜界・修羅界・人界・天界の六道を、生まれ変わり死に変わりしながら輪廻するという、この苦悩からの救済(解脱)にある。仏教そのものは、当然の如くこの現世ばかりではなく死後の世界を大前提にしており、生死を越えたところにある。
 また不殺生戒は、命あるものは必ずその生命を維持するために他者を犠牲にするという絶対的な命題を前提にして、生命の尊さを知るために、敢えてそれを守ろうと修道するところに意義が求められる。そして、それは人類全体の理想的な目的ではあっても、現実社会の規範にはなりえない。ここに律としての規範が求められる所以がある。
 ところで、仏教者の観念的な発言がこのような矛盾をはらんでいても、仏教者自身が矛盾と感じない背景には、それらの発言が仏教者の生活の中に根づいていない事実を物語っている。飲んだことのない飲み物の味を分析しながら議論しているようなもので、飲んでしまえば議論することなくたちどころに分かる。
 そして、小生のこれまでの律蔵経典群に見られる治療の研究は、このような危機ともいえる事態を解決する手だてを求めて始まったといっても過言ではない。まさに仏教者の生活ぶりを伝える律蔵経典群には、仏教者の日常が克明に記述されている。今回は律蔵経典群に見られる著名な医師であった耆婆に焦点を合わせた。仏教教団にあって、耆婆の名声は釈尊の主治医として広く知れわたっており、日蓮遺文を「耆婆」のキーワードで検索すると、『開目鈔』『撰時鈔』をはじめ十七編があり、その中で私たちになじみの深い一文といえば『四信五品鈔』の「耆婆が妙薬誰か弁えて之を服せん」を挙げることができる。
 晩年の『中務左衛門尉殿御返事』(五十九才)や『治病大小権実違目』(六十一才)には、身体の病気について、「身体の要素には、地大・水大・火大・風大の四つがある。そして、地大の要素の病気に百一、水大の要素の病気に百一、火大の要素の病気に百一、風大の要素の病気に百一があり、四大で四百四の病気がある。この四百四の病気は身体の病気だから、耆婆や扁鵲などの名医にかかれば治らない病はない。しかし、人の心のむさぼり、いかり、おろか(貪・瞋・痴)の三毒の病は、法華経のお題目を唱えなければ癒されない(要旨)」という。
 このように日蓮聖人が耆婆を引用する場合、耆婆は身体の病を治すが、心の三毒の病はお題目でなければ癒されないと、法華経の功徳を具体化する。ここに観念的な仏教者の発言を具体化する手だてが見えている。
 ところで、このような耆婆の治療医学は仏教教団そのものの医学ではないが、インドにおいて西暦前の数世紀にわたって伝承されてきた治療医学を理解するためには、欠かせない資料でもある。この小論では、この数年間蓄積してきた律藏経典群に見られた仏教医学といえる知識を踏まえ、まずは律藏経典群に見られる耆婆の癒し、すなわち、その治療医学を概観し、それを『南伝大蔵経』と、インド古典医学書の『チャラカ・サンヒター』並びに『スシュルタ・サンヒター』によって理解して行くことにする。
 また、従来の文献学的な研究方法というものは、まずAという文献とBという文献に見られる語義の符合が第一であった。ところが、『毘奈耶薬事』などの文献に見られる医学的知識を理解する場合、それらは観念的な知識ではなく、実際に行われ培われてきた身体技法に支えられた知識であり、それは同様の地域で現在も伝承発展し、実践されている医学的知識である。そのため、その時代の古典的な医学知識と、現在も実践されている伝承医学の知識を比較することで、古典的な医学知識がより具体的に理解できるといえる。
 よってこの小論では、語義の一々に深くこだわらずに、そこに示される具体的な方法・技法を中心に論を進めたい。まず耆婆の生い立ちと医学への道について若干触れておきたい。
1 耆婆の生い立ちと、医学への道
 まず文献について、さきに日蓮聖人が「耆婆(ジーバカ、J=cd=ab33=cd=ab29vaka Komarabhacca)が妙薬」と示されたように、現存する律藏(Vinaya-pit ・kaw)経典の、とくにその『毘奈耶薬事』に相応する部分に病気の治療に関わる記述が多く見られることは知られていた。近年インド医学のアーユルヴェーダ(A=cd=ab29yur-veda)研究が進み、この律藏群の『毘奈耶薬事』に記述される医学的知識や、またそれの知識が初期のインド仏教僧院の医療施設で臨床応用され蓄積されて、インドの二大古典医学書である『チャラカ・サンヒター』(Charaka-Sam・hita=cd=ab29)や『スシュルタ・サンヒター』(Sus=cd=f087urta-Sam・hita=cd=ab29)へと発展したことが指摘されている。
 ところで、そのようなインド医学の源泉となった律藏経典群には、
㈰大衆部の『摩訶僧祇律』巻二八
(東晋天竺三蔵仏陀跋羅、法賢共訳、四一六年〜四一八年)
㈪説一切有部の『十誦律』巻二六「医薬法」
(後秦北天竺三蔵弗若多羅、羅什共訳、四〇四年〜四〇九年)
㈫曇無徳部の『四分律』巻四二〜四三「薬=cd=61cf度」
(後秦北天竺三蔵仏陀耶舍、竺仏念共訳、四一〇年〜四一二年)
㈬沙弥塞部の『五分律』巻二二「薬法」
(宋=cd=61b7賓三蔵、仏陀什、竺道生共訳、四一八年〜四二三年)
㈭『根本説一切有部毘奈耶薬事』
(唐三蔵義浄訳、六九五年〜七一三年)
㈮南方上座部のヴィナヤに含まれる『南伝大蔵経』「大品」(Maha=cd=ab29-vagga)第六章
の六編が挙げられる。
 そして、この文献の中で耆婆の生い立ちと、医学への道に触れているものを挙げると、
・『四分律』巻第三九衣=cd=61cf度一*1
・『南伝大蔵経』第三巻 「大品」第八衣=cd=61cf度*2
の二つがあり、またこれら以外では
・『善見律毘婆沙』巻第一七(僧伽跋陀羅訳)*3が挙げられる。
 しかし、内容的にはほぼ同様の記述であり、『四分律』の要約を挙げる。
(要約)
 ある時、王舎城に婆羅跋提(Bha=cd=ab29lanat=cd=ab33=cd=ab29)という端正無比な童女がいた。その時、=cd=62bb沙王(頻婆舎羅王)の無畏王子が、その淫女と共に宿し懐妊した。月が満ちて一人の顔貌端正な男児を出産した。淫女の子は風習に随い、白衣を着せて巷中の道端に捨てられた。
 丁度、通りかかった王子一行は、人を使わして抱き上げ、無畏王子は子がなかったので、その赤子を連れて帰り、耆婆と名づけられて乳母によって育てられた。
 生長したとき王子は耆婆童子を呼び、王家に育ったとしても才技がなければ、ここで長く生活することは出来ないので、技術を学びなさいという。耆婆はその時代で医学が進んでいた得叉尸羅国(Taks・as=cd=aa72la=cd=ab29)へ往き、姓は阿提梨(A-ti-li)、字は賓迦羅(Pin-kia-lo)という名医に師事して医学を学ぶ。
 七年間懸命に学んだ後、師の試験を受ける。師は得叉尸羅国において広さ一由旬のなかで薬草にならないものを求めよという。耆婆はこの草木一切の物は、よく分別すれば薬にならないものはない、すべて薬になる物であるという。その答えを聞いた師は、耆婆を自分自身に次ぐ名医となったことを告げている。
(総括)
 これを総括すると、=cd=62bb沙王(頻婆舎羅王、マガダ国の王ビンビサーラ)の無畏王子は、菴婆羅婆利(A=cd=ab29mraマンゴー、pa=cd=ab29l乙女)と比べられる美しい乙女、婆羅跋提との間に、一子をもうける。それが耆婆である。その子は遊女の風習に随い、白衣を着せて巷中の道端に捨てられたという。耆婆の名前がそれを物語っている。耆婆(J=cd=ab33=cd=ab29vaka)は、「まだ生きていた」語根ji=cd=ab29v「生きる」からの派生語であり、そうして無畏王子が養育したところから、王子によって育てられた(Pa=cd=ab29li.Koma=cd=ab29ra bhacca、Skt.J=cd=ab33=cd=ab29vaka Kuma=cd=ab29ra bhr・t)と名付けられている。耆婆が=cd=62bb沙王の王子無畏の子であるか否かは別としても、その生い立ちが捨て子であり、拾われて王子に育てられとことは理解できる。またサンスクリットの単語は伝統的なインド医学・アーユルヴェーダでは、産科・小児科を指す名前であるという。*4
2 耆婆が治療した病気と病人について
 耆婆の治療物語は、このような生い立ちと医学習得の記述を経て始まる。そして、最初の記述は耆婆が治療をした病気の種類と、その病人の処遇が続く。文献的には、漢訳の『根本説一切有部毘奈耶薬事』のみにその記述が見られなかった。以下その要約を挙げる。
○漢訳文献
・『摩訶僧祇律』巻第二四 雑誦跋渠法を明すの二*5
(要約)
 ある病人は耆域(耆婆のこと=筆者注)に、五百両金と両張の綿布を代償として払うので治療してほしいと懇願した。耆域は、私は仏・比丘僧と、王と王の後宮夫人の二種の病人を治療するだけであると断る。すると病人は、難陀・優波難陀の房へとおもむき、耆域にことわられたことを伝えた。すると難陀は治療の条件として、五百両金と両張の絨毯の代償などはいらないが、髪を捨て、俗服を捨てて出家しなさいという。
 翌朝、病人は出家となり耆域のところで治療を受け薬が与えられた。そして、治療が終わると、耆域は両張の絨毯を施与し、「尊者、仏法の中で梵行を浄修したまえ」といった。すると病人はそれを受け取ると、出家をやめ、袈裟を脱ぎ捨て両張の絨毯を着て、巷中で「耆域医師は、私が五百両金と両張の絨毯を代償として払うといっても治療をせず、私が出家したのを見てから治療し、さらに綿布を施与された」とののしった。
 これを聞いた耆域はとても残念に思い、世尊に「その病人は私をだまして治療を受け、かえって私を辱めた。私は優婆塞だから、仏法をひろめるために治療をしている。今後は諸比丘をして、病人を教化(度)して出家させることはやめていただきたい」と申し上げた。
 その申し出によって、世尊は「今後は病人を出家させてはならない」といい、その病について、癬疥・黄爛・癩病・癰=cd=61e0・痔病・不禁・瘧病・謦嗽消盡・癲狂・熱病・風腫・腹腫など十二の名前を挙げ、薬を服していても病気が平復していない者には、出家させてはならないことになった。
 もし瘧病者ならば、三、四日の間に発作が起きなければ出家を与えても良い。また、病人には出家を与えてはいけないが、既に出家している者をあえて追放はしない。しかし、治療が目的で出家させ具足戒を授けた場合は、越毘尼罪であるという。この越毘尼罪とは、五衆罪の一で突吉羅(dukrta)の罪に相当するという。これらは共に軽い罪で懺悔すれば減罪するが、懺悔しなければ悪趣へと堕ちる諸過であるといい、またこの罪は善い行いを障礙するものであるという。
・『十誦律』巻第二一七 法中受具足戒法第一*6
(要約)
 耆婆薬師は、=cd=62bb沙王と仏比丘僧の二種の病人を治療するという。その理由について、=cd=62bb沙王を治療するのは衣食のためであり、仏比丘僧を治療するのは仏教を信じているからであり、自ら清浄になりたいからであるという。
 そのとき、悪重病の癩・癰・疽・癲・=cd=62bcに罹った多くの居士など在家の信徒がいた。しかし、彼らが百金銭乃至五百金銭の治療代を支払うといっても、耆婆は治療を断っている。そのため比丘たちが、病人に出家具足戒を与えた。比丘たちは病人のためにご飯を炊き、肉などの煮物(羹)、おかゆ(糜)などを作り、薬湯を煮て病人を看護し(漬治)、大小便器や唾液の器(唾壺)などの世話をしたために、諸事多忙となり誦経や坐禅をすることができなかった。また耆婆が病人の治療に追われ、=cd=62bb沙王の急な治療もできないほどであった。
 しかし、病人たちは病気が平癒すると、戒を捨てて家に帰ってしまった。世尊はこの事実によって、悪重病の癩・癰・疽・癲・=cd=62bcの病人に出家具足を与えてはならないといい、与えた場合は突吉羅罪になるといっている。
・『四分律』巻第三四 受戒=cd=61cf度の四*7
(要約)
 ある時、摩竭国界に癩・癰・白癩・乾=cd=62bc・癲狂の五種の病が流行った。病人たちは家の一切の財宝を持って耆婆に治療を求めたが、断られた。思いあまった病人たちは僧伽藍に集まり、「出家学道したいこと」を比丘に訴え、出家することになる。
 そのため仏比丘僧の治療にあたっていた耆婆は、彼らに吐下薬をはじめ、その病状に応じた羮などを与えて治療をした結果、病人は徐々に回復した。すると彼らは出家を捨てて、還俗してしまった。
 耆婆は衆僧の治療に追われ、王族方の治療に手が回らずにいた。世尊は今後、癩・癰・白癩・乾=cd=62bc・癲狂の五種の病人に出家のために具足戒を授けてはならないといった。
・『五分律』巻第一七 第三分の初、受戒法(下)*8
(要約)
 あるとき摩竭国人に、悪瘡・癰・白癩・半身枯・鬼著・赤斑・脂出の七種の重病が流行った。この重病は耆域によらなければ治らないものであったが、=cd=62bb沙王が宮内の王族と、比丘・比丘尼以外の治療を許さなかった。そのため比丘たちは、病人たちに出家具足戒を授けた。そのために比丘たちは病人の治療に追われ、修行がおろそかになってしまった。
 またある長者が、七種の病を患った。長者は家の一切の財宝を持って耆婆に治療を求めたが、断られた。思いあまった長者は「出家学道したいこと」を比丘に訴え、出家することになる。すると耆婆はその病人を七日で治してしまうが、宮内の王族まで治療の手が回らず、死人まで出てしまう。しかも治った長者は出家を捨て、還俗してしまう。
 そのために世尊は今後、重病人に出家のための具足戒を授けてはならないといった。
○『南伝大蔵経』第三巻 「大品」第一=cd=61cf度*9
(要約)
 ある時、摩竭国界に癩・癰・白癩・乾=cd=62bc・癲狂の五種の病が流行った。病人たちは家の一切の財宝を持って耆婆に治療を求めたが、断られた。思いあまった病人たちは僧伽藍に集まり、「出家学道したいこと」を比丘に訴え、出家することになる。
 そのため仏比丘僧の治療にあたっていた耆婆は、彼らに吐下薬をはじめ、その病状に応じた羮などを与えて治療をした結果、病人は徐々に回復した。すると彼らは出家を捨てて、還俗してしまった。
 耆婆は衆僧の治療に追われ、王族方の治療に手が回らずにいた。世尊は今後、癩・癰・白癩・乾=cd=62bc・癲狂の五種の病人に出家のための具足戒を授けてはならないといった。
○総括
 文献的には、『根本説一切有部毘奈耶薬事』には記述が見られない。また記述ある『摩訶僧祇律』では十二種類、『十誦律』と『四分律』と『南伝大蔵経』では五種類、『五分律』では七種類と、病気の種類と数に異同はあるものの、内容的には耆婆が王族のお抱え医師であったことがうかがえる。
 とくに『十誦律』で耆婆は、=cd=62bb沙王と仏比丘僧の二種の病人を治療するといい、その理由について、=cd=62bb沙王を治療するのは衣食のためであり、仏比丘僧を治療するのは仏教を信じているからであり、自ら清浄になりたいからであると述べている。
 これらのことは前節で触れた耆婆の生い立ち、=cd=62bb沙王・無畏王子・耆婆の関係からも理解できるものである。ただ印象的なことは、私たちの認識では、仏教教団では一般の民衆に対する医療・癒しを実践していたように思っていたが、実際には耆婆の医療は王族と教団内の僧侶に限定していたようである。それはその時代、多くの病人が治療してもらうために出家し具足戒を授け、耆婆の医療を受けて治ってしまうと、出家を捨てて還俗した者が多くいたことを物語っている。
 そのため、病人に出家具足戒を授けたものには、越毘尼罪、五衆罪の一で突吉羅[du.krta](懺悔すれば減罪する軽い罪ではあるが、懺悔しなければ悪趣へと堕ちる諸過であるといい、またこの罪は善い行いを障礙するもの)の罪に相当する戒法を設けて、教団の統制を図ったものと考えられる。
 ところで、このように病人の出家を禁止するような記述を、それは仏教の病人に対する差別であると考える人たちもいる。たとえば『摩訶僧祇律』では十二種類、『十誦律』と『四分律』と『南伝大蔵経』では五種類、『五分律』では七種類の病名が挙げられ、実際に病人の出家が禁止されている。
 それは被病者への差別のように見えるが、さきに挙げた理由でもわかるように、仏教教団の目的は病気の治療を目的としているわけではなく、出家具足戒をたもつ目的は、生死を越えた涅槃の楽を得て清浄になることにあることを、しっかりと認識しなければならない。この一点を見誤ると、それは差別のように見えてしまう。
3 頭の病気
 耆婆の頭の病気の治療に関する記述は、『四分律』と『南伝大蔵経』のみであった。以下その要約を挙げる。
○漢訳文献
・『四分律』巻第四十 衣=cd=61cf度二には次のような耆婆の二種の頭痛の治療に関する記述がある。
㈰*10(要約)
 婆伽陀城中の大長者の夫人が、十二年間頭痛で苦しんでいた。多くの医師に診てもらったが治すことが出来なかったという。耆婆はその治療として、好薬を酥と一緒に煮て、その酥を鼻の中に注ぎ、病人はその酥を口中から唾液と一緒に器へと流し出す。また治療に使った貴重な酥を唾液と分けて、灯明の脂に使った。
 その治療によって十二年も夫人を苦しめた頭痛は治ったという。これが耆婆最初の治療事例であるという。
㈪*11(要約)
 王舎城の長者が、やはり頭痛で苦しんでいた。彼を診た医師たちは、それぞれ七年後、六年後、五年後乃至一年後に、また七ヶ月後、六ヶ月後乃至一ヶ月後、また七日を過ぎて死に至るといい、うまく治療が出来ずにいた。
 治療を依頼された耆婆は、一度は断るが=cd=62bb沙王の口添えがあるので治療をすることになる。
 まず耆婆は長者に塩辛いもの(=cd=61d1食)を食べさせ、身体が水分を求める状態にしたところへ、酒を飲ませて深く酔わせ、その身体をベットに固定させ、長者の身内を集めたところで、鋭利な刃物で頭を破り頂骨を開いて、身内に者に指し示して「虫が頭の中に満ちている。これが頭痛の原因である」という。
 耆婆は頭の中の虫を取り除き、酥蜜を頭の中に満たし、それから頭骨をふさぎ皮膚を縫合し、好薬を塗ったという。
○『南伝大蔵経』第三巻 「大品」第八衣=cd=61cf度*12
 『南伝大蔵経』には『四分律』と同様に、耆婆の二種の頭痛の治療に関する記述がある。
(要約)
㈰娑竭陀国の長者の婦人が、七年間も頭痛(s=cd=ab33=cd=ab29sa=cd=ab29ba=cd=ab29dha)を患っていた。耆婆は治療を請われ、その長者の婦人を観察して、用意させた一合の酥(sappi)を種々の薬草(na=cd=ab29na=cd=ab29bhaesajja)と共に煮た。そして、その薬草と共に煮た一合の酥を、床の上に仰向けに寝かせた婦人の鼻孔の中へと注いだ(natthukamma)。薬草で煮た酥は、鼻孔から口へと流れ出た。すると七年間治ることになかった頭痛は、その治療で治ってしまったという。
㈪王舎城の国の長者が、七年間も頭痛を患っていた。耆婆は治療を請われ、長者を七ヶ月間脇臥させ、次に長者を床に寝かせ、動かないように繋ぎ、頭皮を剥いで頭蓋骨の縫線を開いて、大小二匹の虫(dev pa=cd=ab29n ・.ake)を取りだし、頭蓋骨の縫線を縫合し、塗り薬を塗った。長者はその治療によって五七日にして治ってしまったという。
○古典医学書に見られる頭痛
・古典医学書の『チャラカ・サンヒター』第十七章「頭部の病気は何種類あるか[で始まる]章」と、『スシュルタ・サンヒター』補遺篇第二十五章「頭の病気を論ずる章」(s=cd=aa72iroroga-vijn=cd=f089a=cd=ab29n=cd=ab33=cd=ab29ya=cd=ab29dhya=cd=ab29ya)は、いずれも頭痛について「頭の病気」(s=cd=aa72iroroga)として章を設けて論じている。*13
(要約)
 まず『チャラカ・サンヒター』第十七章「頭部の病気は何種類あるか[で始まる]章」では、頭部の病気には五種類があり、病因論として三つの身体的な要素(dos・a)のバランスを基礎とする体液説理論から、一にヴァータ(va=cd=ab29ta、風大)の乱れ、二にピッタ(pitta、火大)の乱れ、三にカパ(kapha、水大)の乱れ、四に三つの組み合わせ(sannipa=cd=ab29ka)、五に頭部の汚染による寄生虫(kr・mi)の発生を挙げている。
 さらに『スシュルタ・サンヒター』補遺篇第二十五章「頭の病気を論ずる章」では、血液の汚染(raktaja)により、消耗症(k・ayaja)により、日転症(su=cd=ab29rya=cd=ab29varta、太陽の出没に伴う頭痛)、無量風(anantava=cd=ab29ta)、偏頭痛(ardha=cd=ab29vabhedaka)、側頭痛(s=cd=aa72an`khaka)の六種が加えられ、十一種類の頭痛の症状が挙げられ、また第二十六章「頭病駆除法」(s=cd=aa72iroroga-pratis ・edha)では、まず牛乳、酥、胡麻油、糖蜜などを用いる治療前の処置として、牛乳などの飲用により消化力を高める消化法(pachana)や、酥の飲用または胡麻油のマッサージにより毒素の排泄を促す油剤法(snehana)や、加熱して汗をかく発汗法(罨法、svedana)を行った後に、インド医学独特の治療法である催吐法(vamana)、瀉下法(virecana)、浣腸法(vasti)、経鼻法(灌鼻法、nasya)、瀉血法(rakta moksa)のパンチャカルマ(pan=cd=f089ca-karma)と呼ばれる五つの治療法などを挙げ、さらには燻烟法(煙の吸飲法、dhu=cd=ab29mam・ pa=cd=ab29tum)を挙げている。
 ・そして、この治療前の処置の中で、耆婆の頭痛の治療㈰に見られた経鼻法は、古典医学書に詳しく挙げられており、とくに『スシュルタ・サンヒター』では第四篇治療篇第四〇章「燻烟、嗅剤、及び含漱剤」(dhu=cd=ab29ma-nasya-kavalagraha-cikitsita) *14を設けている。
(要約)
 それを要約すると、経鼻法は治療前の処置の油剤法として、頭部に胡麻油などを塗りマッサージして浄化し、その後に患者は治療台に仰向けに寝て、施療者が真珠貝(s=cd=aa72ukt=cd=ab33=cd=ab29)の容器内に保存してある薬の入った温かい油脂(sneha)を金・銀・銅製などの器、あるいは真珠貝や綿布(picu)を使って鼻腔内に注入する。
○総括
 頭痛の記述がある『四分律』と『南伝大蔵経』に見られる頭痛の二種の治療について、㈰は共に薬草と煮た酥を鼻腔へと注ぐ経鼻法により治療を行っており、㈪は開頭手術により頭の中の虫を取り除くことにより治療を行っている。とくに『四分律』では開頭にあたって=cd=61d1食といって辛い食事を摂らせ、身体が水分を吸収しやすい状態にしてアルコールを摂取させ、深く酔わせ麻酔する技術が示されている。
 これはアルコールによる全身麻酔の開頭手術といえるものであり、また虫という表現は脳腫瘍をそのように表現したかもしれないといわれる。*15
 またこのような治療法について、インド古典医学書の知見によると、まず頭痛の原因として『チャラカ・サンヒター』第十七章「頭部の病気は何種類あるか[で始まる]章」には、病因論として三つの身体的な要素(dos ・a)のバランスを基礎とする体液説理論から、一にヴァータ(va=cd=ab29ta、風大)の乱れ、二にピッタ(pitta、火大)の乱れ、三にカパ(kapha、水大)の乱れ、四に三つの組み合わせ(sannipa=cd=ab29ka、地大)の乱れ、そして五に頭部の汚染による寄生虫の発生が挙げられている。
 そして、治療法としては、牛乳、酥、胡麻油、糖蜜などを用いる治療前の処置として、牛乳などの飲用により消化力を高める消化法や、酥の飲用または胡麻油のマッサージにより毒素の排泄を促す油剤法や、加熱して汗をかく発汗法を行った後に、インド医学独特の治療法である催吐法、瀉下法、浣腸法、経鼻法、瀉血法のパンチャカルマと呼ばれる五つの治療法などを挙げ、さらには燻烟法を挙げている。
 つまり、㈰の経鼻法による頭痛の治療については、『チャラカ・サンヒター』に見られた病因論として一にヴァータ(va=cd=ab29ta、風大)の乱れ、二にピッタ(pitta、火大)の乱れ、三にカパ(kapha、水大)の乱れ、四に三つの組み合わせ(sannipa=cd=ab29ka)の乱れによって生じた頭痛を治療する方法であるといえる。
 また、このような症例は現代の医学的な知見では慢性副鼻腔炎(蓄膿症)であるといわれる。*16
㈪の開頭手術による頭痛の治療については、『チャラカ・サンヒター』に見られた病因論としては五の頭部の汚染による寄生虫の発生が挙げられているが、その治療法として、開頭手術などは示されていない。牛乳などの飲用により消化力を高める消化法や、酥の飲用または胡麻油のマッサージにより毒素の排泄を促す油剤法や、加熱して汗をかく発汗法を行った後に、インド医学独特の治療法である催吐法、瀉下法、浣腸法、経鼻法、瀉血法のパンチャカルマと呼ばれる五つの治療法などを挙げ、さらには燻烟法を挙げているのみで、開頭手術という方法は見られない。
 ところで、このような仏典に見られる開頭手術は、考古学的な資料として、開頭された形跡のある頭蓋骨標本がカシミール、ブルザホム(Burzahom)の新石器時代の発掘地から発見されている。それは炭素十四同定法による調査では紀元前一八〇〇年頃と推定され、また西北パキスタンのティマルガウハ(Timardarha)で発見された頭蓋骨標本では紀元前九〇〇年頃から紀元前六〇〇年頃と推定されている。
 このような事実は、開頭手術が宗教的・呪術的な手段として、北インドおよびチベットの一部の治療師によって行われていたことを示しており、場合によってはそのようなことが神格化された耆婆の名前で仏典に残されたと考えられるという。*17
 また、このような開頭手術の記述がインド古典医学にないことは、古代インドには複数の異なった伝承医術が併存していたことを物語るともいう。*18
4 痔の病気
 耆婆の痔病に関する記述は、『十誦律』『四分律』と『南伝大蔵経』に見られる。以下その要約を挙げる。
○漢訳文献
・『十誦律』巻第四八 増一法中一法 *19
(要約)
 ある比丘が痔を患う。耆婆は鋭利な刃物による手術を勧めるが、世尊はそれを許さない。指の爪で=cd=62beえることは許すが、断つことはいけないという。葦や竹のへらで(=cd=62bd竹・籤竹)割ることは許すが、断つことはいけないという。
 ただし屏処ならは鋭利な刃物による手術を許すと、耆婆の強い勧めもあって条件を付けて手術を認めている。
・『四分律』巻第四〇 衣=cd=61cf度二*20
(要約)
 瓶沙王は大便道を患ったため、出血して衣服を汚してしまった。王宮の侍女たちは、王に生理が始まったとあざ笑った。王は思いあまって耆婆に治療を依頼する。耆婆は痔が最近のものであるかないかを問診してから、鉄の浴槽にお湯を入れ、王をそのお湯の中にねかせ、呪文を唱えながらお湯を注いだ。すると王は眠ってしまった。
 その間に耆婆は鋭利な刃物で痔の手術をして、瘡を洗浄して、好薬を塗って治療し、その後にまた浴槽に水をはり、王をねかせ、呪文を唱え水を注いで目を覚まさせたという。
○『南伝大蔵経』第三巻 「大品」第八衣=cd=61cf度*21
(要約)
 摩竭陀国の洗尼瓶沙王が痔瘻(bhagandala)を患って、衣服が出血で汚れるほどであったという。耆婆は治療を請われ、指の爪に薬を付けて塗り、王の痔瘻は一度塗っただけで治ってしまったという。
○古典医学書に見える痔疾
 痔疾の処方について、古典医学書の『スシュルタ・サンヒター』には、第二篇病理篇第四章「痔疾の病理」(bhagandara=cd=ab29n・a=cd=ab29m-nida=cd=ab29na)と第四篇治療篇第八章「痔瘻治療法」(bhagandara-cikitsita)*22の二つの章に痔病の原因と治療法が記述されている。
 また第四篇治療篇第九章「皮膚病治療法」(kus ・t・ha-cikitsita)*23には、二種の傷の治療法の中に痔疾が記述されている。
(要約)
 痔(bhagandara)は出来物(pid ・aka=cd=ab29)が化膿したものである、と定義されている。そして外科的な手術が治療の中心であり、また火(agni)や、腐蝕製剤(ks ・a=cd=ab29ra)による焼灼と腐蝕を処方している。また手術後の開放した傷には、種々の薬を混ぜた胡麻油が処方されている。
 また内臓の不調によって生じたもの、外傷などによって生じたものなど、二種の傷(dvivran・a)への処方が示されているが、それはそのまま痔瘻にも適応されており、灌腸、切開手術、腐蝕製剤の使用、瀉血などの治療法を挙げている。
○総括
 痔の記述のあるものは『十誦律』『四分律』『南伝大蔵経』である。その特徴を示すと、
・『十誦律』では屏処ならば鋭利な刃物による手術の治療
・『四分律』では鉄の浴槽にお湯をはり、瓶沙王をそのお湯の中にねかせ、呪文を唱えながらお湯を注ぎ、瓶沙王を眠らす催眠による鋭利な刃物の手術の治療
・『南伝大蔵経』では指の爪に薬を付けて塗る、塗り薬による治療
を挙げることができる。
 このような仏教文献に見られる痔の治療法は、そのほとんどが古典医学書の中に散見できる。しかし、痔の手術は集団生活をする上では不都合な処方であり、秘所を他者に見せることを含めて、手術の予後に長く注意しなければならなため、強く戒められていたことがわかる。
 また、そのような状況にあっても仏教文献にその痔の手術の記述が見られるということは、禁止される以前の初期教団の中で痔疾に対する手術など、民間の伝承医術は行われており、それが古典医学書へと受け継がれていったとも考えられる。
 ところで、『四分律』に見られる手術前の催眠法は、一種のリラクゼーションを応用した他者催眠法であるといわれている。*24
 またさきに挙げたように、インド古典医学の中には酥の飲用もしくは胡麻油のマッサージにより毒素の排泄を促す油剤法(snehana)や、加熱して汗をかく発汗法(罨法、svedana)がある。そして、このような療法の一つにシロダーラ(オイルマッサージの一種、s=cd=aa72rodha=cd=ab29ra)と呼ばれ、温かい胡麻油を全身に塗ってから、温められたベットに寝て、額の眉間のところにその温かい胡麻油を注ぐ療法があり、これはその効果から脳の洗濯(brain wash)と呼ばれほど深いリラクゼーションを誘導する。
 耆婆が瓶沙王に用いた一種の催眠法は、このような方法であったとも考えられる。
5 腸のもつれ(腸結)
 耆婆の腸のもつれに関する記述は、『四分律』と『南伝大蔵経』のみに見られる。以下、その要約を挙げる。
○漢訳文献
・『四分律』巻第四〇 衣=cd=61cf度二*25
(要約)
 拘=cd=61eb弥国の長者の息子が、輪の上に乗って遊んでいるとき、腸腹内で腸が捻れてしまった。耆婆は、瓶沙王の口利きで治療する。耆婆は鋭利な刃物で腹部を開腹し、集まっていた両親や身内に腸の捻れているさまを示した。そして、これは死ぬほどのものではないといい、その捻れた腸をもとに戻し、腹部を縫い合わせ好薬を塗って治療した。
○『南伝大蔵経』第三巻 「大品」第八衣建度*26
(要約)
・波羅奈国の長者の子供が、輪の上で遊んでいて腸腹内で結し(腸がもつれ)(anatagan・t・ha=cd=ab29ba=cd=ab29dha、var.antagan・d・a=cd=ab29ba=cd=ab29dha)てしまい、お粥を食べても消化不良をおこして、さらに大小便も通じなくなってしまった。そのために子供は痩せて麁醜して色悪く、次第に黄ばんで身体の血管が露になってきたという。耆婆は治療を請われ、子供の腸の結処を開腹し、結処を解いて本の処へと還復し、腹の皮を縫い合わせ塗り薬(a=cd=ab29lepa)を塗った。その後間もなく子供は治ったという。
○インド古典医学書
 インド医学書で、腸のもつれというような具体的な名称はないが、『スシュルタ・サンヒター』第二篇病理篇第一二章「陰嚢腫・軟性下疳・象皮病」(Vr・ddh=cd=ab33=cd=ab29j-upadan=cd=aa72s=cd=aa72a=cd=ab29S=cd=aa72l=cd=ab33=cd=ab29pada)と、『スシュルタ・サンヒター』第四篇治療篇第二章「外傷性瘡瘍治療法」(Sadhyovarna-cikitsita)*27の二章に、それに近い幾つかの症例を挙げている。
(要約)
・内臓性陰嚢腫(antra vr・iddh=cd=ab33=cd=ab29、ヘルニア)とは、重い荷物を運ぶ人や、強い人と格闘したり、また樹木より転落したりすることで、また普段しない特殊なことをすることによって、ヴァータ(体風素)が増大し、変調し、大腸および小腸の一部が下降して、結節した状態になる。
・内臓が露出しても傷ついていなければ、優しく腹腔内に戻して、本来の位置に置くべきである。またある説では黒蟻に咬ませ頭だけ残し、牛乳にて草のくずや血液や塵を洗い落とし、精製バター(酥)を塗って、指の爪を浄めた手で、腹腔内に戻すべきである。
○総括
 腸のもつれが記述されているのは、「四分律」と『南伝大蔵経』である。いずれも同様に、腸が腹内でもつれた。それを耆婆が、開腹手術によって治療している。インド古典医学書にはこのような具体的な事例は見られないものの、類似する治療は開腹と縫合、それに伴うなど消毒のための酥や牛乳の使用などを含めて、上述ばかりではなく多く散見でき、耆婆の治療法がどのようなものであったのか、おおよそ理解できる。
6 病的な蒼白(黄だん)
 耆婆の病的な蒼白に関する記述は、前述のように『四分律』と『南伝大蔵経』のみに見られる。以下その要約を挙げる。
○漢訳文献
『四分律』巻第四〇 衣=cd=61cf度二*28
(要約)
 尉禅国王波羅殊提が十二年もの間、常に頭痛を患ったという。耆婆はおもむいて、その症状を聞くといろいろな病状で苦しんでいるという。王は始めから、治療には酥を使わないでくれという。しかし、耆婆はこっそりと酥を煮て薬を作り、その酥を水のように細工をした。
 そして王に=cd=61d1食をさせ、身体が水分を求めるようにして、酥を与える。そうして阿摩勒果を調合し、それによって病を治したという。
○『南伝大蔵経』第三巻 「大品」第八衣=cd=61cf度*29
(要約)
 波羅殊提王が黄だん(病的蒼白、Pa=cd=ab29li.pan・d・uroga)を患ったという。耆婆は治療のために、酥(sappi)を、渋の色があり、香りがあり、味のある薬草(kasa=cd=ab29va)と一緒に煮て、それを王に飲ませた。王は渋の薬草で煮た酥を飲んで、消化するときに吐いた。
 さらに阿摩勒果を半分ほど食べ、その後に水を飲んで下痢をさせたところ、すぐに癒えたという。
○古典医学に見られ風病(黄疸)
 風病(黄疸)について、古典医学書では『スシュルタ・サンヒター』補遺篇第四十四章「黄疸除去法」(pa=cd=ab29n・d・ uroga-pratis ・edha)*30の一章が当てられており、それは体液説に基づいたピッタ(pitta、火大)、カパ(kapha、水大)、ヴァータ(va=cd=ab29ta、風大)、三つの組合せ(sannipa=cd=ab29ka、地大)の四つに分類されている。
(要約)
 黄だん(風病)の処方としては、排泄作用を促し浄化する治療法と、酥または牛の尿と三果薬(tri-phala=cd=ab29)を混ぜて煮た煎薬による治療法を挙げている。
○総括
 黄だんの記述は、『四分律』と『南伝大蔵経』のみである。とくに『四分律』では、十二年もの長い間の頭痛という記述で、黄だんとの記述はない。しかし、その症状はいろいろな様相を示しており、酥と阿摩勒果を調合して、その病が治ったということは、インド古典医学書のように、黄だんの処方そのもの、呵梨勒など三果(呵薬梨勒・阿摩勒・鞁醯勒)に相応する処方であり、その黄だんの症状で頭痛が記述されているといえる。
 また『南伝大蔵経』では渋の薬草で煮た酥を飲んで吐き、さらに阿摩勒果を半分ほど食べ、その後に水を飲んで下痢をさせたところ、すぐに癒えたという。これによって耆婆の治療が、インド古典医学書に見られる治療法とほぼ同様のものであることがわかる。
 またこの黄だんについて、律蔵経典群では耆婆の治療以外にも多くの記述が見られる。黄だんは漢訳文献では風病と記述され、その処方を見ると『摩訶僧祇律』では呵梨勒、『十誦律』では三果薬(呵梨勒・阿摩勒・鞁醯勒)、『四分律』では三つの果薬(薑、椒、畢抜)を挙げている。また『南伝大蔵経』の黄だんでは、牛尿を混ぜた呵利勒、鞁醯勒、阿摩勒の三果薬(myrobalan)などが挙げられ、耆婆の処方とほぼ同じであることが分かる。*31
 つまり、仏教文献に見られた黄だんの処方、耆婆の処方、古典医学書の処方は共通しており、これによって初期の仏教教団の医療と古典医学の源泉が同じところにあるといえる。
7 身体の不調(悪い体液でみたされた身体)
 耆婆の身体の不調に関する記述は、『摩訶僧祇律』と『根本説一切有部毘奈耶薬事』に見られない。以下、その要約を挙げる。
○漢訳文献
・『十誦律』巻第二六 七法中衣法第七上*32
(要約)
 世尊が身体を冷湿し、下薬(吐瀉薬、virecana)を飲みたいという。耆婆は青蓮華などの薬草(優鉢羅華、uppala)を燻じて、世尊にこの優鉢羅華の薫香を嗅ぎ、お湯を飲みながら下痢をさせた。症状が落ち着いたところで、随病薬を飲食して、軟らかいご飯、お粥、肉類などの羮をいただき、体力を戻して本復したという。
・『四分律』巻第四〇 衣=cd=61cf度二*33
(要約)
 あるとき世尊は、水を患う(下痢をした)。耆婆は三把の優鉢花に薬草を燻じて、世尊はお湯を飲みながら下痢をして、最後におなら(下風)がでた。症状が落ち着いたところで、野鳥の肉の羮などをいただき体力を戻したという。
・『五分律』巻第二〇第三分の五、衣法(上)*34
(要約)
 世尊が少し患い、吐下薬を飲みたいという。耆婆は三把の優鉢羅華を燻じて世尊に捧げた。世尊はお湯を飲みながら下痢をして、症状が落ち着いたところで、栴檀と野菜や肉の羮をいただき、体力を戻したという。
○『南伝大蔵経』第三巻「大品」第八衣=cd=61cf度*35
(要約)
 世尊は数日間身体を冷濕においたために、体調が不良(ka=cd=ab29ya dos ・a-bhisanna)となった。耆婆が治療を請われ、三把の優鉢花に種々の薬を混ぜ、世尊にその臭いを嗅ぐこと(upasin ・ghatu)で、三十回の下痢をもようさせ、その後に沐浴(naha=cd=ab29ta)をして薬湯を与えたという。世尊は、身体が回復するまで液食をひかえたという。
○インド古典医学書
 この身体の不調に関して『スシュルタ・サンヒター』第一篇総説篇第四十三章「吐下剤の製法を論ずる」(Vamana-dravya-vikapla-vijn=cd=f089n=cd=ab33=cd=ab29ya-madha=cd=ab29yam)と『スシュルタ・サンヒター』第一篇総説篇第四十四章「下剤の製法を論ずる」(Virechna-dravya-vikapla-vijn=cd=f089n=cd=ab33=cd=ab29ya madha=cd=ab29yam)*36に、仏教文献と同様の治療法を挙げている。
(要約)
・催吐性ある木の実(madana)、あるいはトカドヘチマ(kr・taveddhana)の種を粉末にして、これを念入りに煎じて催吐剤として、大きな蓮華の花などにそれをふりかける。患者はその花の香りを嗅ぎ、粉を吸い込み吐瀉する。これは体液の変調(anavabadha-dos ・a)した人に適している。
・サプラー(saptala=cd=ab29)、シャンキニー(s=cd=aa72an ・khin=cd=ab33=cd=ab29)、カラシナ(dant=cd=ab33=cd=ab29)、フウセンアサガオ(trivr・t)、ナンバンサイカチ(a=cd=ab29rogvadha)の粉を、牝牛の尿とキリンカク(snuh=cd=ab33=cd=ab29)に各々一週間ひたした後、美しく飾った花の冠にまいて、その香りを嗅ぐ。またこの粉末をまき散らした着物を着てもよい。感じやすい人の腸には、これで瀉下の効果があるという。
○総括
 世尊の体調不良に関する記述は、『摩訶僧祇律』『根本説一切有部毘奈耶薬事』には見られないが、記述のあるものは『南伝大蔵経』を含めてほとんど同じである。加えてインド古典医学書『スシュルタ・サンヒター』に見られるように、催吐性のある薬草や煎じ薬を、蓮華の花などにふりかけたりする治療法がほとんど同じように示されている。
 これによって先ほどと同じように、初期の仏教教団の医療と古典医学の源泉が同じところにあるとも考えられる。
 ◆エピローグ
 以上をまとめると、1「耆婆の生い立ちと、医学への道」では、漢訳文献では耆婆はマガダ国王=cd=62bb沙王(頻婆舎羅王)の王子無畏と、遊女の婆羅跋提との間に生まれた。成長してから、耆婆はその時代で医学が進んでいた得叉尸羅国へ往き、姓は阿提梨(A-ti-li)、字は賓迦羅(Pin-kia-lo)という名医に師事し、七年間懸命に学んだ結果、師の後継者として地位を得るほどになった。そして、耆婆の治療物語はここから始まった。
 2「耆婆が治療した病気と病人について」では、耆婆が治療したと思われる病気が、五種類、七種類、十二種類と異同はあるものの、おおよそ耆婆が王族のお抱え医師であり、仏教教団に帰依していたことがうかがえる。とくに『十誦律』で耆婆は、自分は王族と比丘僧の二種の病人を治療する者であるといい切っている。
 そのため一般人が耆婆の治療を受けるために出家し、耆婆の医療を受けて治ってしまうと還俗した者が出たために、病人の出家に対して越毘尼罪などの戒法を設けて、教団の統制を図っている。
 3「頭の病気」には、耆婆の頭痛に対する二種類の治療法が示されている。一つは薬草と煮た酥を鼻腔へと注ぐ経鼻法、二つには開頭手術による頭中の虫の駆除が示されている。とくに『四分律』では、開頭にあたってアルコールの摂取による酩酊を利用した麻酔の技術が示されている。
 そして、このような治療法に関するインド古典医学書の知見には、始めの経鼻法による頭痛の治療については、『チャラカ・サンヒター』には全く同様の治療法が示されている。また、開頭手術による治療については、『チャラカ・サンヒター』に頭部の汚染による寄生虫の発生は示されてはいるが、開頭手術などは示されていない。しかし、インド古代医学には幾つかの異なった伝承医学があり、インド古典医学書に収録されなかったものが、耆婆の名前で仏典に記述されたのではないかと考えられる。
 4「痔の病気」では、耆婆の痔に対する治療として、塗薬や屏処における手術が示されている。このような仏教文献に見られる痔の治療法は、そのほとんどが古典医学書の中に散見できる。
 また『四分律』では手術前にお湯の中に浸かって行う催眠療法が示されているが、インド古典医学には、お湯ではなく胡麻油のマッサージ、シロダーラと呼ばれる療法による深いリラクゼーション法が示されている。
 5「腸のもつれ」(腸結)では、耆婆によって腸が腹内でもつれた子供への開腹手術が示されている。インド古典医学書には開腹手術の事例は見られないものの、類似する治療は、開腹と縫合、それに伴う消毒のための酥や牛乳などの使用は示されている。
 6「病的な蒼白」(黄だん)では、耆婆は酥と阿摩勒果を調合し、薬効食による処方をしている。インド古典医学書には、より具体的に黄だんの処方、酥によって調合した呵梨勒など三果(呵薬梨勒・阿摩勒・鞁醯勒)薬による処方が示されている。このことから、初期の仏教教団の医療と古典医学書の源泉が同じところにあることが考えられた。
 7「身体の不調」(悪い体液でみたされた身体)では、耆婆は世尊の体調不良に対して催下性のある煎じ薬につけた蓮華の花の匂いをかがせて、お湯を飲みながら下痢をさせ、下痢によって体内の毒素を排出し、その後にお粥や野菜や野鳥などを煮た物(羮)を食べる治療をしている。これは、インド古典医学書『スシュルタ・サンヒター』と全く同様の療法である。
 ところで、このような耆婆の治療事例は律蔵経典群の全体に占める割合は、現在まで考察した律蔵経典群に見られた医療技術の事例おおよそ三〇例に対して、今回の耆婆の事例はわずかに五例だけである。そして、この耆婆の治療が、インド古典医学書に見られる治療法とほぼ同じような療法であるところから、初期の仏教教団の医療と古典医学の源泉が同じところにあると考えられる。
 またこのように耆婆によって伝えられた古代インドの伝承医学は、仏教教団にそのまま受容されたのではなく、釈尊の目によって厳密に検討され、それに与奪が行われている。出家者の修道生活を重んずるために、また出家の目的が生死を越えるところにあるため、2の「耆婆が治療した病気と病人について」では病人の出家を禁じている。4の「痔の病気」では、痔の手術を行う場合には必ず屏処で行うべしと条件をつけて認めている。釈尊は、耆婆の治療をそのまま容認はしていない。
 仏教は仏教の目的に添って、その時代の伝承医学の中から、僧侶の修道生活に支障のないように、伝承医学を受容してきたということである。つまり、このような仏教教団の伝承医学に対する受容形態に随うならば、死に対する生の医療である現代医学をそのまま受容してはならないことを意味する事実であるといえる。
 ここに来たって現代の仏教者が、切れば血の出る身体性を喪失している理由が見えている。仏教という宗教の目的を見失っているために世間法になじみ、世間法から仏教を語ってしまうのではないだろうか。2の「耆婆が治療した病気と病人について」で論じたように、病人の出家を禁じたのは差別ではなく、出家の目的(生死を越える)を達成するためであった。
 仏教者が、切れば血の出る身体を獲得するためには、まず仏教者の根本目的である生死を越えるための修道生活の徹底が、いま求められているのではないか。
=cd=b821脚注=cd=b926
*1 大正二二 八五〇C:爾時世尊在王舎城。時毘舎離有婬女。〜八五一B:國面一由旬求覓諸草有非是藥者持来。
*2 『南伝大蔵経』第三巻 四七二頁〜四七五頁
*3 大正二四 七九三C:王舎城有一童女。字婆羅跋提。端正無比。〜七九四A:辭師還去。於其中路。爲飢渇故。
*4 K・G・ジスク『古代インドの苦行と癒し』時空出版一九九三年 七六頁〜八一頁、以下『古代インドの苦行と癒し』と略称
*5 大正二二 四二〇B:爾時有病人。至耆域醫所作是言。〜四二〇C:度出家受具足者。越比尼罪。是名病外道者。
*6 大正二三 一五二B:佛在王舎城。是時耆婆藥師。治二種人。〜一五二C:不得與出家。若與出家。得突吉羅罪。
*7 大正二二 八〇八C:堪忍如上衆事。爾時摩竭國界五種病出。〜八〇九A:若度者當如法治。爾時佛在羅閲城。
*8 大正二二 一一六A四:爾時摩竭國人得七種重病。舉身惡瘡癰白癩半身枯鬼著赤斑脂出。〜同一一六A二九:重病人。亦如上説。
*9 『南伝大蔵経』第三巻 一二〇頁〜一二三頁
*10 大正二二 八五一B:次復有汝。時耆婆自念。我今先當治誰。〜八五一C:此時耆婆童子最初治病
*11 大正二二 八五二B:爾時王舎城有長者。常患頭痛。無有醫能治者。〜八五二C:此是耆婆第三治病。
*12 『南伝大蔵経』第三巻 四七五頁〜四八二頁
*13 ・『チャラカ・サンヒター』矢野道夫訳 世界の名著『インド医学概論』一一六頁〜一一八頁 一三二頁〜一三三頁 朝日出版社 一九八八年 以下『チャラカ・サンヒター』と略称
   ・『スシュルタ・サンヒター』大地原誠玄訳『スシュルタ本集』補遺篇二五ー一一四頁〜二六ー一二四頁 アーユル・ヴェーダ研究会刊 一九七一年 以下『スシュルタ・サンヒター』と略称
*14 『スシュルタ・サンヒター』補遺篇四〇ー一二八頁〜一九六頁
*15 川田洋一『仏教医学物語』上 四〇頁 一九八七年 第三文明社 レグルス文庫一七三、以下『仏教医学物語』と略称
*16 『仏教医学物語』上 二一頁
*17 『古代インドの苦行と癒し』八二頁
*18    同         一七五頁〜一七六頁
*19 大正二二 三四七A:佛先説不得食生肉血。〜三四七B:割又不能斷。是事白佛。佛言。應屏處刀割。
*20 大正二二 八五二A:爾時瓶沙王。患大便道中血出。〜八五二B:丘僧宮内人。此是耆婆童子第二治病也
*21 『南伝大蔵経』第三巻 四七八頁〜四七九頁
*22 『スシュルタ・サンヒター』第二篇 病理篇 第四章 三ー二四頁〜五ー三〇頁
     同         第四篇 治療篇 第八章 八ー一〇四頁〜九ー一一三頁
*23   同         第四篇 治療篇 第九章 九ー一一三頁〜一〇ー一三二頁
*24 『仏教医学物語』上 二四頁〜二五頁
*25 大正二二 八五二C:爾時拘=cd=61eb彌國。有長者子。〜八五三A:與四十萬兩金。是耆婆童子。第四治病。
*26 『南伝大蔵経』第三巻 四八二頁〜四八三頁
*27 『スシュルタ・サンヒター』病理篇一二ー六八頁〜六九頁
     同          治療篇 二ー三三頁〜三四頁
*28 大正二二 八五三A:爾時尉禪國王。波羅殊提。〜八五三B:價衣價直半國。語耆婆言。汝不肯来。今與汝此衣以用相報。此是耆婆第五治病。
*29 『南伝大蔵経』第三巻 四八四頁〜四八七頁
*30 『スシュルタ・サンヒター』補遺篇第四十四章 四四ー一三〇頁〜四五ー一三七頁
*31 影山教俊「律蔵経典群に見える仏教医学について」日蓮宗現代宗教研究所刊『現代宗教研究』第三四 一一九頁〜一二一頁 所収
*32 大正二三 一九四B:佛在王舎城。佛身冷濕須服下藥。〜一九四C:從今日若比丘欲著槃藪衣聽著。若欲著居士施衣亦聽著
*33 大正二二 八五三B:爾時世尊患水。語阿難言。我患水欲得除去。〜八五四C:爾時耆婆童子。瞻視世尊病。煮吐下湯藥及野鳥肉得差。是爲耆婆童子第六治
*34 大正二二 一三四A:爾時世尊身小有患。語阿難言。〜一三四B:欲心便行不淨。以是白佛。佛言。不應先從足觀。
*35 『南伝大蔵経』第三巻四八七頁〜四八九頁
*36 『スシュルタ・サンヒター』第一篇 四十三ー三〇四頁〜三〇六頁
      同         第一篇 四十四ー三二二頁〜三二四頁
※この小論は平成十三年度日蓮宗教学発表大会で発表した原稿を整理加筆したものです。

 

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