現代宗教研究第36号 2002年03月 発行
教化学研究 布教教化における女性教師、寺庭婦人の役割について
教化学研究
布教教化における女性教師、寺庭婦人の役割について
出 席 者 大島豊扇 伊藤美妙 池浦妙静 亀井妙禮
山田妙眞 舘岡妙宝 野澤朋世 高橋妙朋
齊藤妙誓 影山妙恵
現宗研所長 石川浩徳 現宗研主任 影山教俊
はじめに
影山主任 今日はお忙しい中を、それもまた全国からご参集いただきましてありがとうございます。この教化研究集会は毎回外部の方を講師にお招きして、ご講演を拝聴しております。しかし、今回は布教教化の現場で、とくに家庭をまもり、お寺をまもっている女性教師、そして寺庭婦人としての立場から、宗門の布教教化のあり方を討議していただきたいと思っております。
私は現代宗教研究所の主任に就任してまる二年の間、宗門行政の現場を見ておりまして、宗務院には全国からいろいろな問題が寄せられることを知り驚いております。驚くというより、このままでいいのかと危機感すら持っております。
それがどのような危機意識かといいますと、いま布教教化と言いながら、「ただお題目の輪を広めればよい」というような状態に陥って、実際には何を布教するかということが見えていない。お題目も栄養ドリンクやビタミン剤のように、飲まないよりは飲んだ方が良いというような、お題目をあってもなくともいいようはものと一緒くたにしているため、その布教教化の現場である寺院に信仰心が見えなくなっているということです。
実際に日蓮宗教師の宗教ばなれが問われたり、寺族や寺庭婦人が他宗教へと入信という事態が起きております。これは日蓮宗門そのものの問題であるという方もあるでしょうが、私はこれらはお寺の家庭問題に起因していると思っております。
場合によってはお寺の信仰が壊れ始めているために、家族の問題が表へと現れているとも考えられるのです。お寺自体が布教教化、日蓮聖人の教えを伝えるという大眼目を持ちながら、その布教教化を支える家庭が壊れようとしているように見えるのです。
家庭の問題を考えるとき、子供たちを切り口にして考えると、社会の問題がよく整理できます。社会的な問題はまず始めに弱者に反映するといいますから、反対に今の若い方々や子供たちの問題という切り口から見ると社会が見えてくるのです。
例えば戦後五十年を不登校という切り口で眺めてみますと、二〇年ほど前に不登校がずいぶんと問題になったために、いま不登校の子供さんは一見すると減っているように見えているのですが、それは錯覚なのです。実際には昭和五十七年の二三〇〇〇人から、平成九年度の一〇万人へと増加しております。また現在は少子化社会ですので毎年子供の数が減少しておりますから、不登校の人数を不登校率に直しますと、昭和五十七年〇・一二%、平成九年〇・八一%、不登校の数がおよそ七倍に増えていることが具体的にわかります。
この少子化の進む社会の中で、子供の絶対数が減っているにも関わらず不登校が増えている事実、絶対数の減少に反比例しているという事実、これは生物学の統計では異常な数値だといわれております。
また不登校の一〇万人という数え方にも問題があります。平成十一年度は一〇万人が一三万人にカウント数が増えているのです。どのような理由で増えたのか、文部省の不登校の扱いに問題があって、勉強嫌いを不登校に数えなかったというのです。この平成十一年の時に勉強嫌いも不登校に数えたので一三万人になりましたというのです。
ところが現実の問題として、いまおよそ一二〇〇万人の児童生徒の子供たちがいる中で、二割弱の約二〇〇万人ぐらいの不登校、ないしは不登校予備軍がいるという社会状況になっております。
子供の問題が社会問題として取りざたされるというのは、社会のひずみが一番の弱者へと影響しているわけですから、その弱者である子供を育てているお父さんやお母さんや、そのような家族や地域社会を含めて、とくに家庭における家族関係が非常に劣化している事実を浮き彫りにしているといえます。
ちなみに、家族の最小単位である夫婦を例に挙げますと、平成十年度に結婚したのはおよそ八〇万組で、同じ年の離婚は二五万組と戦後で最高だったといいます。また核家族化の問題、高齢化社会の問題などを加味すれば、いま日本の社会では家庭の家族関係が問題となっているのです。
そして、不登校の増加に加えて、昨今は未成年の殺人事件が取りざたされております。名古屋での一五才の少年による五四〇〇万円の恐喝事件、豊川では一七才の少年が六五才の女性を「殺してみたかった」と殺害、佐賀でも一七才少年が高速バスを乗っ取り「老人だから殺しても良い」と思い六八才女性を刺殺・・・。
マスコミの報道からの印象では、何か未成年者による殺人事件が増えているように思いがちですが、実際には未成年者による殺人事件の件数は、昭和二十六年と三十六年が共に最高で四四八人で、それ以降は減少傾向をたどり、平成に入ってからは一〇〇人前後を推移しているのです。
しかし、ここで問題となることは、殺人事件数ではなくその犯罪の動機なのです。終戦後まもなくは強盗殺人や暴行殺人など、その動機がハッキリしておりますが、近頃の事件の動機は「どうして殺してはいけないのですか?」「誰でもいいから殺したかった」「殺したらどうなるか試してみたかった」などと、耳を疑ってしまうような動機で殺人事件を起こしてしまう。ほんの一部の子供たちの事件であるというには、不登校の急増などを含めまして、社会的に何かが大きく狂い始めていると思うのは私だけでしょうか。
そして、先ほども前置きで述べましたように、いまこのような社会問題は、布教教化の現場であるお寺の家庭や寺族にも反映しはじめ、私は危機感を持って現状を見ております。とくにこの布教教化の現場の要になる家庭や家族の中心に位置しているのが、本日ここにお集まりいただいた女性教師であり、寺庭婦人の皆さんです。
こういった中で、女性教師ないし寺庭婦人が家庭や家族の中心にいらっしゃる皆さんが、この現状をどのように捉えたらよいのか、そしてどのような教化活動を展開したら今後の宗門の発展につながるのか、皆さんのご意見をきちんと討議していただきたいと思います。そのために少し今の問題になっているものを掘り下げて、これから三〇分ほど問題提起をさせていただきたいと思もいます。
問題提起
一 現代宗教の問題点について(宗教と社会の関わりから)
影 山 教 俊
(現代宗教研究所主任)
○なぜカルトに入信するのだろうか
この十年間ほど現宗研に関わりながら、自坊の「悩みごとカウンセリングルーム」などで、新新宗教などの入信問題で家族カウンセリングなどを行ってまいりました。今日はその現場で行った心理テストなどのデータを中心にお話してみたいと思います。とくに特にお話したいは、ほとんどの方は新宗教を研究する場合に、その教義の思想や組織の布教活動の実態について研究するのですが、昨今のオウム真理教をはじめ顕正会などの宗教の問題を考える場合に、その宗教へと入信する人たちの「心の形」に焦点を合わせて調査研究すると、彼らがなぜ入信したのかという理由がよく理解できるのです。
それはどうしてなのか。オウム真理教の犯罪性については、皆さんはずでにマスコミの報道でお分かりのことと思いますが、あれだけ悪い宗教というレッテルが貼られていても、名称をアレフと改名しても、そこに入信する方がいるわけです。
私たちの布教教化の現場から見れば、どうしてそんなに悪い宗教に「止めなさい」といわれていても、入信したいという理由がとうてい理解できない。私たちは日蓮宗に入信してもらいたいのに、入信どころか壇信徒と称する人以外はなかなかお話も聞いてくれない。それが悩みでみんな布教教化の勉強をするわけですけれど、布教教化の勉強によってお話の技術的には上手くなりますが、そこから先に進まないわけです。
ですから「何故そうなのか?」という理由、この理由を解決すれば一目瞭然わかるわけです。なぜ彼らがその宗教は「止めた方がいいよ」といわれても、そこに入信して行くのでしょうか。
ごく簡単にいってしまいますと、彼らは教義、教学を信じているから入信しているのではないのです。彼らにとってその宗教の組織は、自分の生まれ育った家庭より居心地がよいのです。お父さんや、お母さんや、場合によってはご主人や、奥さんといるよりそこに居心地の良い場所と感じているのです。家族といるよりそこにいた方が安心するという状況が、その宗教組織の中にあるということなのです。
この事実を具体的に理解するために、一つは宗教と社会の関わりといいますか、宗教の機能面、宗教の社会的な働きとは何かということ、現代社会にいま求められる宗教のありかた、いまお寺に求められる宗教とは何か、ということを宗教者の立場から理解する必要があります。
○信仰心の薄くなった私たち
このことを理解するためには、まず焦点を合わせておかなければならないことは、私たちの信仰心についてです。それは信仰心が篤いとか、薄いとかという議論ではなく。普段私たちが信仰を持っているといいながら、どこかその信仰について余裕があるということなのです。信仰心を持っているといいながら、宗教的に何か信仰について真剣になっていない自分のあり方を一回考えておかなければいけないということなのです。
なぜそのようなことに気づいたのかといいますと、ご存知の方もあるでしょうが、たまたま私は漢方医学とか、インドのアーユルヴェーダ医学だとか、仏教の持っていた医学についての研究をライフワークにしている関係で、東南アジアの仏教徒の方々とのお付き合いしますと、彼らは日本の仏教徒を見て「どうして日本の仏教徒は、六道輪廻を信じないのだろうか」と疑問に思っていることを知ったからなのです。
この六道輪廻について、私たちも言葉では「善因善果、悪因悪果」、因果応報の法則に従って、私たちが地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道を、生まれ変わり死に変わり、経めぐるという教えであることは知ってはいますが、実際には私たちは彼らがいうようには実感を持てませんから、信じていないといわれても反論できないはずです。
それこそ日蓮聖人のお言葉ではありませんが「現在あなたが苦しんでいるならな、過去の姿をふり返りなさい。原因はそこにあります。もし未来に幸せを招きたいのなら、現在を正しく生きなさい。いま幸福の種を撒くのです。」(『開目抄』要旨)と、彼らは日蓮聖人の時代に生きられた方々と、おそらく同様の心持ちで、因果応報、六道輪廻を信じているのしょう。
ですから極端なことをいいますと、東南アジアの仏教者は、僧侶は当然のこと仏教徒も割合に肉を食べません。自身の生活の中にある一線を引いて、戒律を守ろうとしております。戒律といいますと大仰になりますから、ある意味で日常生活に一線を引いて、肉などのをなるべく食べないようにしています。
その理由はといいますと、四足だとか魚とか、肉類をを食べることによって、その今生の生活の報いによいって、六道輪廻をしていくわけですから、悪い処へと堕ちるのが嫌だ、とくに地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪趣へと堕ちたくないというのです。彼らは仏教の根本命題である因果応報による六道輪廻という思想を、彼らにとっては思想ではなく、それを事実として信じているわけです。
どうも現代の私たちは、それを額面通りに受け止められないものがあります。ここに現代の宗教の問題点が潜んでいるように思うのです。
○生死が見えない私たち
人の行動には必ず意味があるものです。ですから当然のように、信仰するにも動機があるはずです。このように考えますと、現代人に信仰心が希薄化している背景には、いま信仰を持てない何らかの理由があるはずです。
東南アジアばかりではなく、日本であっても明治や大正時代の人たちは、現代よりずっと信仰心が篤かったはずです。実際に私たちの祖父母は、陰徳を積み、お百度を踏み、袖をふれ合わせた方々は他生のご縁であり、今生の生活にあっては後生を思う生き方をしていた事実に行きあたります。
それはなぜでしょうか。少し調べてみますと、大正時代にはおおよそ人生は四〇年、江戸時代にあっては人生は三〇年そこそこですから、人々の眼前には生死がハッキリと見えておりました。生死が身近にあればこそ、後生の行く末を案じる人々は強く信仰にすがり、安らかな臨終を願うなど、信仰心が篤くなる現実があったことがわかります。
実際に大正十年の平均余命は男性四一才、女性四二才(大正一〇年第一回国勢調査)でした。乳幼児も平均ではおおよそ一〇〇〇人生まれて一八〇人以上も亡くなり、東北や北陸では三〇〇人以上も、そして、生き残った子供たちも、疱瘡などの流行病で多く亡くなっておりました。
今では単なる祝節の行事となっております七五三のお祝いは、その時代にあっては、その年までは生き延びてもらいたいという親のせつなる祈りであり、その年までよく育ったというお祝いだったのです。
いま日本は世界で一番の長寿国で、平均余命女性八二才、男性七六才です。いま一〇〇〇人の子供が生まれますと、九九六人までが小学校へと入学する時代になっているのです。しかし、ついこの間まで大正時代でも、まさに生死が目の前にあった時代だったことはわかります。今から一五〇年ほど前の幕末の一〇〇万都市に生きる江戸庶民の生活はといえば、食事は費に二度があたりまえで、お米に雑穀を混ぜたご飯に、総菜として野菜の煮物が主で、月に一度ほど動物性の栄養としては目刺しが一、二匹ほど付いていればご馳走でした。その食生活では極端に栄養が不足して、病気の原因となり、この時代のお寺の過去帳を調べますと、その時代の未熟な医療も加わって、およそ死亡年齢の平均は、男性二八・七才、女性二八・六才であったといいます。(一九七三年須田圭三の論文)
また、横浜や長崎に入港する外国船から、インフルエンザが上陸すれば一日におよそ五〇キロの人の歩く速さで日本全国へと蔓莚し、一〇〇万人単位で死人が出たといいます。その当時の記録によりますと、江戸市中でも少なくとも三〇万人以上が死に、東京の浅草あたりの寺町では、棺桶を運ぶ荷車で交通渋滞が何日も続いたといいます。
ここまでお話してお気づきになられた方もあるでしょう。つまり、東南アジアの仏教徒たちの篤い信仰心の背景には、現在でも日本の明治、大正時代に見られた生老病死という現実苦がはっきり刻まれているということなのです。(厚生統計協会刊 『国民衛生の動向』一九九九年)
私たちは今、本当の自分の姿、生まれたら死ぬ存在であることが、見えなくなってしまった。こんなところに、現代の私たちの信仰心の希薄化の理由が見え隠れしていることに気づかれたと思います。
余談ですが、日本に在住なされているタイやスリランカの方々に、信仰心について時々お話しするのですが、「あなたの子供さんの時代になったら、きっと今の日本の人たちのように信仰心は希薄化しますよ」と申し上げますと、何ともいえない顔をなされます。
実際に日本に十年以上住んでいらっしゃる方々の子供さんは私たちと同じでご両親のように篤信家ではありません。これがまず一つの切り口といいますか、私たちの信仰心について一度は考えておかなければならない理由なのです。
○宗教者も信仰の希薄化の波にの呑まれた
このように宗教の思想がどうしたこうしたと、あまり難しいことをいわなくても、私たちの日常生活の中で味わっている現実苦、その違いを情緒性の変化という切り口で眺めてみて「なぜ私たちは信仰心が薄くなってしまったのか」その理由が理解できた同時に、その視点の大切さがお分かりいただけたと思います。
そして、ここでまず宗教者として自分自身を信仰心という、情緒的な視点から反省を込めながらお話しますと、現在、オウム真理教を始め多くの悪い宗教や、また宗教的な活動をしている自己啓発セミナーなどがはびこっている背景には、私たち既成の宗教教団が世間の人たちの不安とか、悲しいとか、痛いというような情緒的な思いを引き受けていない、難しくいえばその宗教的な機能を果たし得ていないためであるといえると思うのです。
たとえば、私たちが創価学会を批判するとしましょう。しかし、そこにはすでに矛盾が生じております。どうしてかといえば、創価学会のその背後には公称八〇〇万世帯といわれる創価学会船のこぎ手がおります。それだけのこぎ手がいるということは、その組織に、先ほどもいいましたが不安とか、悲しいとか、痛いというような情緒的な思いを引き受けてくれる人がいるということなのです。ある意味ではそこで宗教の機能が果たされているからこそ、人が集うのではないでしょうか。
私たちはよく創価学会の教義は「このように誤りである」などと創価学会船の船頭批判をしますが、世間の人の情緒的な思いをあまり引き受けておりませんから、彼らのように日蓮船のこぎ手を作れずにいるわけです。
これでお分かりになったと思いますが、宗教というものは社会の人々の情緒的な思い、人々の不安感や危機感といった情緒性をきちんと引き受けない限り、広がってゆかないということです。
このような視点から私たちの信仰心を眺めますと、私たち自身がすでにこの信仰心の希薄化の波にどっぷりと呑まれていることに気づくはずです。そして、どうして私たち日蓮宗の信仰がなかなか広がらないのか、その理由の一つが見えるはずです。
もう二〇年ほど前になりますが、精神科医で有名なスイスのチューリヒ大学医学部教授のメダルト・ボス博士が書かれた『東洋の英知と西欧の心理療法』を読んだのですが、その本には戦後まもないヨーロッパ社会の心の荒廃と、キリスト教の信仰の問題について、示唆に富んだ指摘が書かれておりました。
内容的にはキリスト教のお坊さん方を批評した文章です。かいつまんでお話しますと、ボス博士は、戦後まもなくのヨーロッパでは、もうすでにキリスト教の福音が機能していなかったと指摘しているのです。
それはキリスト教の信仰を持っている方々が、家庭のことや家族の問題で悩んで精神的な苦境に陥ったときに、その悩みを引き受けてくれるはずの教会や牧師さんに助けを求めず、病院の医師やカウンセラーに助けを求めている事実がある。それはキリスト教の信仰が正しく伝わっていないためなので、仕方のないことであるといえる。しかし、信仰心を当然持っているはずの牧師さんや司祭さんが、自分自身が精神的な苦境に立たされたとき、やはりご信者と同じように、医学的な訓練をつんだ医師やカウンセラーに助けを求めている事実があるということは、そのキリスト教の信仰がすでに機能していない証拠であるといっているのです。
これはとっても由々しき事実である、大変なことであるとおっしゃっているのです。そして、インドの『バカボットギーター』という有名なお経文、日本でいえば法華経みたいなポピュラーなお経の言葉を引用して、「実践されていない教えは説くに値しない」ものである。自分が信仰して癒されていないものをどうして説けるんですか?と皮肉っぽく指摘しているのです。
いま私たちの信仰心をこのような視点から眺めますと、四〇年の前にボス博士が指摘した、宗教者自身の「信仰の希薄化」の波は、宗教者自身が自ら信仰している宗教によって「救われ、癒されていない」という事実によって、現代の日本宗教界へと波及していることが理解できると思います。
二 仏教という宗教の働きについて(宗教の機能とは)
○悩む方々は宗教に親和性をもっている
ここで仏教という宗教の働きについて考えてみたいと思います。いま実際に新宗教や新新宗教へと入信している方々は、どのような目的でそういう宗教に関わっているのか、その理由を突き止めれば、そこに宗教の働きが見えてくるはずです。ここにある宗教に入信した方が、その宗教のどのような働きによって入信したのかということを、数年かけて調査研究した資料がありますので、分析した数字を挙げながらお話してみたいと思うのです。
ところで、皆さんは、檀信徒の方に仏教って何ですか?と聞かれたら何とお答えしますか。布教研修所や信行道場に講師で出向したときに、同じ質問を「仏教とは何だと思いますか」と投げてみますと、答へがとても難しいのです。曰く「縁起の法則」「宇宙のあり方」「お釈迦さまの悟りの内容」などなど、堅い答へが返ってきます。
ところが、たまたま立正佼成会のメンバーが自坊へ来られた折りに、やはり同じ質問をすしましたら、立正佼成会のメンバーは非常にいい答えをするわけです。彼らは「仏教は人の苦を除くためにお釈迦さまが教えを説かれたのです」といいます。
つまり、新興宗教の方々はある意味では、そのように出来上がった答へを教わっておっしゃっているのでしょうが、そのあたりを納得してその宗教に関わっているということがわかります。
私たちが朝夕のお勤めの回向の中で一度は口にするはずの「抜苦与楽」(ばっくよらく)が示すように、仏教の教えは現実苦の解決にあるということは、お分かりだと思います。四門出遊の伝説が物語っているように、お釈迦さまは生老病死の四苦を恐れて出家し、悟りを開いたというけれども、その悟りは何かといえば、自分は苦楽ともに思い合わせて生死にこだわる恐怖を越えられた、ある種の宗教体験で精神構造が変わったといえます。その意味で仏教とは「楽になったお釈迦さまの楽になるための教えと、その方法」といえます。
また日蓮聖人の『立正安国論』には鎌倉市中に死骸がころがっている有様を書かれておりますが、あの『立正安国論』が幕府に奏上された前後の飢饉史を見ますと、正嘉・正元の大飢饉(一二五七〜一二五九)の三年間だけでも、当時の総人口おおよそ一三〇〇万人の内で一〇〇万人近くの餓死者が出たであろうといいます。日蓮聖人はそういう社会背景をつぶさに見て、社会の救済のために立ち上がられたわけで、その現実苦をどう解決するかということが目的になっているのことがわかります。
また精神医学の分野で筑波大学の名誉教授である小田晋先生に、「影山さんお寺さんというのは伝統文化で続いていると思う?」と聞かれたことがあります。小田先生は面白い先生で、精神科なんていうのはいやらしい仕事ので、本来は宗教家の仕事を分解して精神科がやっているだけの話だから、日本全国のお寺さんが一日一時間でも門を開いて、「悩む方のお話を聞きますよ」という状況を作ったら、精神科の受診率はおそらく半分に減るとおっしゃるのです。
つまり、何も言わなくていい、白衣を着て待っていると胡散臭いやつだとみんな思う。身体が病気の時には「先生、ここが具合が悪いから治してくれ」と言うけれども、「心が具合悪いから治せ」とは言わない。するとどうしてもそれはお寺の雰囲気の中で、お寺に行けば救われると思う。だからお寺というのは場合によったら地域社会の心の安全弁として、精神的な支えとして地域に機能していたのではないのか、というような言い方をなさります。
では小田先生がおっしゃるように、悩む方は本当にお寺へと足を運ぶものなのだろうか。お寺や僧侶が「地域社会の心の安全弁」として求められているのだろうか。ここにお寺の運営する悩みごと相談室に、悩みごとで相談に見えた方の、およそ十年間で五〇〇名におよぶ心理テストのデータがあります。そのデータを整理しますと、お寺に悩みごとで訪れた方々の七割近くが、病気ではないのですがけっこう神経的に疲れている(神経症領域)ことが確認できました。世間一般には神経質になっている方々のデータは、十人いたら三人強ぐらいがちょっと神経的に疲れている程度です。
お寺の悩みごと相談室に関わる方々の七割という数字はかなり大きい数字なのです。つまり場合によっては小田先生がおっしゃったように、人間というのは自分が弱ったときに、宗教的なものに関わって癒されたい、救われたいという本能的な欲求を持っているのではないかということが、数字的にも裏付けられているといえます。
いま世間ではいろいろな宗教が流行っておりますが、その宗教に入信したいと思っている人の心の裏側を開いてみますと、癒されたい救われたい、新しい自分に生まれ変わりたいという変身願望などを抱いている方が相当数いるのではないかと思います。
とくに今、全国のカルチャーセンターの講座、カウンセラーの養成講座がすごく多いのです。カウンセラーの養成講座が多いというのは、カウンセラーになりたい人がおおぜいいるということ、それは癒し手になりたい人がおおぜいいるということであり、その癒し手になりたいというのは、裏を返せば自分が癒されたいということなのです。
これと同じことを東京大学のある精神科の先生がおっしゃっております。とくに精神科の医者になる場合、内科でも、外科でも四年間は同じ勉強をして、四年過ぎてから自分にあった進路を選ぶそうです。その際に精神科の医者を選んだとき、その人の医者になる動機の中に、家庭的な心の問題を抱えていたか、大学に入ってから自分がやはり心理的に悩んだことがあったか、おおよそどちらかに関わっているといいます。
つまり、人を精神的に癒した救いたいと願う方々の心の裏側には、自分自身が癒されたい救われたい人たちが多いということなのです。いま社会全体が癒しの時代であるといわれるような、そんなふうに先ほどの七割という数字が読めてくるわけです。
○カルト宗教の背景に家庭問題が見える
いま悩む方々は宗教に親和性をもっていることをお話しましたが、悪い宗教へと入信してしまった子供さんは、家庭の中ですでにおぼれていて、救いを求めて近づいた宗教がカルト宗教であったということなのです。
カルト宗教の入信問題のプロセスは、まず入信した子供さんの親御さんや家族が、うちの子供をカルト宗教から脱会させてください、という訴えから始まります。まず本人がきて「私を脱会させてさい、何とかして下さい」ということはありません。必ず親御さんなり、家族の方がきて「うちの子供を何とかして下さい」というところから始まります。
本人はどっぷり浸っていますから、親御さんや家族といるよりもそこの場所がいいわけです。その子供さんを脱会させるためには、いろいろなケースもありますが、まず本人をつかまえて説得するのでなくて、逆に親御さんと子供さんの関係を改善させるようにすると、その宗教から脱会しろなどと説得しなくとも、徐々に家にいる時間が延びて、やがて家に帰ってくるわけです。そういうことが現実の事例で起きています。
データから数字を挙げます、近頃話題の顕正会に入信している子供さん十三人のお父さん、お母さんの心理テストをしたデータがあります。やはり子供さんが宗教に関わる以前から、家庭の中で親御さんの間で溺れていたということが、よくわかる数字が出てまいりました。どんなふうに溺れていたのかといいますと、数字的には次のようになります。
☆顕正会入信者の両親に対する心理テスト(東大式エゴグラム)の結果
実施数:入信者一三人の両親(二六人に実施)
・母親の母性性が高得点:一一人
・父親の母性性が高得点: 四人
・父親の父性性が高得点: 五人
おわかりのように、母性性が非常に大きい親御さんが二六人の中で一五人、もう一つは父親性が強いお父さんが五人です。簡単にいいますと、母性性が強いというのは高癒着、過干渉、子供の距離が近すぎていつも子供を抱えている状況です。父性性というのはいいか悪いかにこだわりやすい人です。普通の数字ではこんな高い数字は出てこないです。つまり、母性性が強すぎたり、父性性が強すぎる親御さん方の二〇人に見られる、過干渉、高癒着、是非にこだわる反応によって、入信した子供さんたちは、家庭の中で親御さんとの対人環境で生み出される緊張感に耐えきれずに、パニックになり挫折を経験し、家庭の中であっても不安定に孤立していたことがわかります。
卑近な例でいいますと、いま私には三歳の次男がおりますが、食事のとき何でも自分でやるといって聞きません。自分でお茶碗のご飯をスプーンですくって、自分の口に運んでいますが、まだぎこちないものですから、口に入る前にほとんどがこぼれてしまいますが、子供は一粒でも自分の口に入ったら満足します。やったという達成感が出ます。
しかし、お母さんから見れば、こぼさないように「ちゃんと食べてね」という心理が働きますが、子供は一粒のご飯でも口に入れば、達成感を込めて「ちゃんと食べた」といい、お母さんはそれとは違って、こぼさずに「ちゃんと食べてね」ということが大前提になっています。そうすると、子供が口に運んで達成感でやったーというときに、高癒着であればあるほど子供がこぼさないで食べることを期待しやすい。すると子供が達成感を持ったときに、そのこぼしたことを「だめじゃない」といってしまえば、子供の達成感という喜びは、お母さんに否定されることになり、自分の達成感はお母さんに嫌われるんだという否定感情が根付いてきますから、家庭の中に居場所を失ってゆき、結果的に家庭の中で溺れることになります。
そういった対人環境で不安定になった子供さんが顕正会に関わってゆく状況が見えてくるわけです。つまり、不安定であったが故に新宗教関係のものに飛びつきやすい。これはまた顕正会の入信問題ばかりでなく、オウム真理教の問題を含めて同じようなパターンです。
これでおわかりいただけたと思いますが、癒されたい救われたい人たちは、無意識のうちに宗教を求め近づいてくる、お寺が門戸を開き悩みを聞く姿勢を見せれば、ある意味ではお寺や僧侶が地域社会の「心の安全弁」として充分機能することができるのです。
三 現代社会に求められるお寺のあり方について
○お寺や僧侶が心の安全弁となるために
さてお寺や僧侶に求められている宗教の働きは、地域社会の心の安全弁であることがおわかりいただけたでしょうか。お寺や僧侶の仕事は悩みを抱える方々の心のより所なのです。この辺のことがなかなか理解されないために、今まで宗門では布教伝道といいますと日蓮宗の教義性を言葉によってうまく伝達することに力点が置かれておりました。日蓮聖人の鎌倉開教の事歴を見ましても、布教伝道することが地域社会の心の安全弁、悩む方の心のより所として機能していたことが明らかなのです。実際に布教伝道と称して、教義的なことを伝えても、それが現実の自分にとって生きたものでない限り何の役にも立たないわけです。
いま現在、ほとんどのお寺は葬儀法要のニーズに応えるように働いておりますが、世間一般では自分の居場所として、自分自身の不安の捨て所として、自分自身の何かを癒してくれる場所として、お寺や僧侶の宗教の働きを求めているのです。
しかし、伝統教団はその機能を果たそうとしないことが、問題なのです。極端なことをいいますと、今それをやらないがために、布教伝道の中心であるお寺や僧侶、寺族や寺庭が崩壊しつつあるのです。
ですから、冒頭にお話したように、僧侶が新宗教へと入信したり、寺族が関わってしまったりという事態になったりしているわけです。いま一番大事な信仰の部分、先ほどから繰り返しておりますが、人々が抱えている情緒的な思い、人々の不安感や危機感といった情緒性をきちんと引き受けない限り、宗教として機能しないということなのです。
ところが、私たちは僧侶は、悩みを抱える方々の言葉をどのように聞いたらよいのかその教育をまったく受けていない。言説布教によって教義的なものを伝達することはできるけれども、人の話を聞く訓練をしていない。人の話を聞くということは、ある意味では人の苦しい部分を自分の悩みとして共有することですから、自分自身が抱えている情緒的な思い、不安感や危機感といった情緒性を消化していないと、人の話は聞けないものです。
では人の話を聞くためには、どのようにしたらよいのでしょうか。私はいまお寺や僧侶に宗教としての信行が求められているのではないかと思うのです。お寺やお坊さんが地域社会の心の安全弁足りえるためには、私たち自身の心の安全弁を機能させて、自分自身の情緒的な不安感や危機感を解決することが当面の課題になってくると思います。
○日蓮宗門の伝道がつまずいている一つの理由
ここで私たちが悩みを抱える方々の話を聞くことが、なぜ苦手になったのか、その理由に目を向けますと、皆さん日蓮宗の教師手帳をお持ちになっていると思いますが、その中に私たちにとって大切なことが書いてあります。一ページに日蓮宗宗旨があります。日蓮宗という宗教法人の設立目的がここにあります。そては何かといいますと、「即身成仏と仏国土顕現を理想とする」とあります。現代的にいえば「個人の救済と社会の浄化」が日蓮宗の目的です。これが日蓮聖人の誓願なのです。これを実現するために、簡単にいえば、個人を救い社会を浄化するというのが立正安国論の誓願の基本にあるわけです。
ところが今、実際にはそれがそのように機能できていない大きな理由の一つとして考えられるのは、敗戦後に進駐軍が作った現在の宗教法人法にあるといえます。この法律は昭和二十六年に制定された法律で、日蓮宗は昭和二十七年四月からその宗教法人法に従って法人化されました。戦前の宗教法人と戦後の新宗教法人の一番大きな違いは、お寺の田畑寺領が消えたことにあります。
それまでお寺というのは経済的にはその寺領によって安定しておりました。その経済的な安定に準じて、僧侶は勉強したり、時間を作り修行に出かけたり、比較的に葬儀法要ということに無頓着でいられた、それでお寺や僧侶が機能していたのです。
ところが、昭和二十六年以降、二十七年からきっちりとそこで線がひけてしまいました。これが何を物語っているか。簡単にいえば檀信徒の顧客化です。今まで宗教的意義づけの上にあった檀信徒が、お客様として管理してお寺が成り立っていく。檀信徒をあてにしなければお寺が動かないわけですから、地域に根付けば根付くほどお客には文句はいえない。
それは私は個人が問題なのではなくて、現在の宗教法人日蓮宗という組織が、顧客対応型、つまり戦後五十年の間、葬儀法要対応型の教育制度をひいて、それに対応できるような僧侶づくりや、寺院運営を行ってきたのです。その結果、そこで起きていることは、皆さんも信行道場の修了者ですから、そこで受けた教育は何かといえば、葬儀法要のやり方、法式作法を中心としたカリキュラムでしたね。お通夜に見合うようなお説教の内容、所作を習うのであって、ですから、急に「私の心の悩みを聞いてください」といわれても、「うちは生き物は扱えません」という状況になってしまうのです。
これは個人的な問題ではないのです。今までそういう教育を受けて現在まできているわけなので、それは仕方のないことなのです。実際の経営基盤がそういう状況になっているので、お客としての檀信徒をまず主にして動かしていかなければいけない状況になっている。
実際に戦後二〇年ほどどの宗派の寺院も経済基盤を失ったのですから、大変に困窮して時期だったそうです。その状態から寺檀関係を改善しつつ、高度経済の成長期にかけて葬儀法要対応型の寺院運営をすることで、やっと経済的にも安定してきたといいます。
ところが、その好景気のように思えたバブル経済がはじけて、社会的な不安感、危機感が高まるに従って、お寺や僧侶が地域社会の心の安全弁として求められているのに、お寺や僧侶がそれに応えられないことがクローズアップされている。お寺や僧侶が応えてくれないので、新宗教や、新新宗教へと入信してゆく。カルト宗教の問題もこの辺に答えがあるように思います。
○信行生活の徹底が心の安全弁を開く
一般社会の方々がそういう心の安全弁へ駆け込もうと思うけれども、心の安全弁が機能しない。そして機能しないと同時に、心の安全弁になるべきお寺、僧侶が心の安全弁を日蓮宗ではなく別のどこかに求めなければならない状況になっています。
つまり悩む人の話が聞けるように、僧侶自身が癒される環境を自分だちが作っていかなければならない。お説教というのは覚えておけばできるわけですが、生きている人を扱うということは自分自身の対応、自分が自分の信仰によって癒される、楽チンになっている、お経を読んでお題目をちゃんと唱えるという、もともと僧侶がやっていたことを真剣にしていれば、自分自身を客観的に見ることができるようになる。僧侶が自分で悩んでいても、その悩む自分を離れてお経を読み、お題目を唱えているわけですから、結果的に当然のこと人の話も聞けるような状況になってくるのです。
つまり信行生活の更なる充実がいま求められているのです。悩みを解決するといいますと、何かカウンセラーや、心理学者の一手販売のように聞こえますが、お経を読みお題目を唱えるなどの信行生活を行動科学的に評価しますと、悩みなどの心の問題が解決する次の三つプロセスが働いております。
有名な「七仏通戒偈」を例にひいてお話しますと、まずこの通戒偈を簡単に説明しますと、
悪いことはしないように(諸悪莫作)
善いことは進んで行いましょう(諸善奉行)
そのように実践しますと自ずと意が浄まります(自浄其意)
これが仏さまの教えです(是諸仏教)
というようになります。これを三つのプロセスに従って理解しますと、
㈰「自浄其意」の獲得
これは一種の宗教体験の獲得で、この体験を通じて初めて修行が修行になって、心が浄化されるのです。これを専門的には変性意識状態(Alterd State of Consciousness)と呼びますが、この心と体の状態が誘導されて始めて教説が心に根付くのです。
㈪「諸悪莫作」の実践
これは日常の生活の中で悪事を行わないいという戒め、これを通じて人格の完成をはかるのです。
㈫「諸善奉行」の実践
これは皆のためになろう、善いことを進んでしようとする社会の浄化活動です。
この三つのプロセスはとくに㈪の止悪を通じた人格の完成「諸悪莫作の実践」と、㈫の勧善を通じた人格の完成「諸善奉行の実践」、そして理想としての「教えレベル」を身に付けるには、㈰の宗教体験の獲得(変性意識状態の誘導)によって、宗教者自身が厭なことを受け入れられる安定した心の状態を誘導し「自浄其意の獲得」が必要になるのです。
これがお経を読むことであったり、お題目をお唱えすることであったり、信行生活の徹底につながるのです。それについて日蓮聖人は「信仰を持つということは、そこに戒体として日常生活でに実践が備わらなければならない。」(『戒体即身成仏義』 宗祖二一才 於清澄)というのです。
つまりお題目をお唱えするが故に、日常生活に「悪いことは止め、善ことは勧めて行う(止悪勧善)」の姿(戒体の発得)が見えなければならないというのです。
続けて日蓮聖人は、私たちが発得する戒体について「末法の私たちが守るべき五戒は、法華経の文『今この三界は皆これ我が有なり。その中の衆生はことごとく吾が子なり。しかも今このところは諸の患難多し。ただ我れ一人のみ能く救護をなす。』の戒です。
具体的に申し上げますと、私たちはお釈迦さまの子どもとして、お釈迦さまの素晴らしい全ての振る舞いが備わっております。ですから、お釈迦さまの素晴らしい振る舞いのほんの一分でも、真似ることはできるで出来るはずです。これが私たちの持つべき戒体です。」(『戒体即身成仏義』)と具体的に指示されております
何か問題提起が多方面にわたりましたが、これらの現実をふまえまして皆さまに討議していただきたいと思います。
石川所長 どうも皆さんご苦労様でございます。今日の趣旨につきましては主任の影山からお話があったと思いますが、私、用がありまして能登へと行っておりまして、飛行機に飛び乗って予定通りこちらにつきました。今日の趣旨とは違いますけれども、能登の妙成寺というお寺は日蓮聖人の孫弟子でいらっしゃる日像上人が開かれたお寺なんです。それこそ大聖人がお亡くなられた直後に建てられたお寺でございますから、歴史の深いお寺です。全国には身延山を総本山として五十五の本山がありますけれども、その中でも非常に歴史もあり、そして文化的にも非常に重要なお寺、そこに前の総長でありました永井日祥師が住職をされています。そんなことで今日は朝から参加できなかったんですけど、いずれにいたしましても、今、ご承知の通り法華系の新宗教というのが非常に増えておりますが、その中でも先鋭的な宗教、具体的に顕正会というのが相当伸びてきております。
先日も埼玉の大宮にある顕正会の本部を見てまいりましたけれども、大変な勢いでどんどんと会員を増やしております。どういうわけか新潟、石川、あちらの方に顕正会の会員が増えてきているということで、お寺さんは軒並みに顕正会の訪問を受けて問答をしかけられたり何かしているという状況です。
またお話があったかどうかは知りませんが、つい先日は池上本門寺へ若い顕正会の会員がやってきました。そうした中で私ども、ただ伝統の上に手をこまねいているのではなくて、やはり日常の布教教化が非常に大事なことだと。しかもそれが正統を引く日蓮宗の教師がその気になっていなければならない。
この度は皆さん方、こうした形のものにはじめて出席なされるかと思いますが、少なくとも日頃から精進するという気持ちを決して忘れてはならない。自分のお寺だけではなくて、やはり地域、あるいはさらに宗門全体、もうそれこそ間違った教えに惑わされないためにも有縁無縁の方々、要するに信徒でない未信徒の方々をも含めて教化、というふうに思いますが、そういう意味合いにおきましても、今日のような研修会が大事ではないか。そんなことから主任にお話をしまして、是非とも皆さん方の熱意を集めていって意識を盛り上げていただいたらどうかということです。どうぞ皆さん、しっかりとお勉強いただきたいとお願いいたしまして、ご挨拶を終わりたいと思います。
討 議
主 任(影山教俊) ……その基本がお経を読んだりするという行につながってくる。そういうことがちゃんとできていないと先に進まないということを伝える方法もあります。こういったことについて皆さんどんなふうにお考えになっていらっしゃるのか。座長さんを選出して少し交通整理をしながらお話をしていただきたい。私は特別に入りませんので、オブザーバーでそちらに座って聞かせていただきますので、よろしくお願いいたします。年令の順というわけではありませんが、大島さんいいですか。
大 島 よろしくお願いします。いたらないと思いますが、あまり堅苦しくならないで、先ほど影山主任の方からお話のありました寺族自体の信仰の無さの問題と、それからお寺が癒しと心の安全弁としての機能を果たしていないのではないかというような問題提起、その二点が主なことだと思うんですけど、皆様の考えてらっしゃることをご自由に意見を述べていただくというようなことで、前向きに話し合っていきたいと思います。
影山主任のお話の中から、やはり寺族自体の信仰の無さ、それから寺庭婦人の問題が挙げられていたんですけど、まず、実際私が知っているところではこんなふうだというような現状を話し合いしたいと思います。
寺庭婦人の問題というのは先ほど主任のお話の中で、あるお寺の奥さんのお話しがありましたけれども、何かそこでバリバリとやりたいと思ってお嫁に来たのに「単に下働きみたいな形で」という不満をお話しなさいましたけれども、寺庭婦人の位置付けというのは非常に難しくて、今寺庭婦人会という結成がいろいろなされていますけれども、本来、寺庭婦人があまり対外的な活動で出て歩くようになると、お寺の住職は誰なんだというところに一つの大きな疑問がありますし、寺庭婦人自体が宗教の教育を受けた人とか、信仰に深く根ざしている人が必ずしもお寺のお嫁さんになっているとは限らなくて、たまたまご縁があってお嫁さんにきたということであると、寺庭婦人の信仰ということが非常に問題になってきますし、むしろ対外的なボランティア活動とかということよりは、寺庭婦人自体の研修する機会を、あまり遠くまで出かけなくても受ける事ができるようにし、その中で本当に日蓮宗の信仰というのは何なのか、それをまず寺庭婦人自体も学ばなければ、子供の教育もできないし、住職に対しての、あるいはご本尊様に対してのご給仕ができていかないのではないかと考えております。
その辺について寺族自体の問題、そんなことも踏まえていかがでしょうか。実際、お寺の中というのは影山主任のお話では女性がお寺の中で中心になっていくだろうから、女性の意識についても考えていくべきというご意見だと思うんですけれども、その辺についてはどうお考えですか。
齊 藤 私の個人的な考えでいいますと、お寺の中での奥様の立場は重要な位置にあると思うんです。住職だと話しずらいと思う時でも、お寺の奥様にだったら「こうなんですけどね」という形で気軽に話しやすいという面からみると、お寺の中で一番相談しやすい相手というのはお寺の奥様じゃないかと思います。それが日常的なことにせよ、信仰の面に関わるにせよ、いろんな問題を一番相談しやすい相手は住職ではなくて、むしろ奥様の方にあるのではないか。確かに奥様がいらしても忙しくてお寺の行事でいろいろ走り回ってらっしゃる。本当はお寺の奥様というのはどこのお寺を見ても本当に大変だなと思います。私達がいろんなお寺にお手伝いに行っても、住職は本堂のことだけしていればいいけれども、お寺の奥様の方が却って全体的な面をお掃除から何から、お給仕する、檀家さんの接待から何から全てそれを取り仕切ってしてらっしゃるという面では、お寺の奥様ほどすごい力を持った人はいないんですよね。
ですから、そういった忙しい仕事をされながら、合間を見て信者さん、もしくは檀家さんの個人的な相談に乗ってあげられ易いのもやはり奥様の方が有利だと思います。だから、お寺の奥様というのは本当にスーパースターだろうと思うんです。むしろ住職よりも考え方によってはいろんな意味で母親的な意味合いを強く持っていないと、大きな懐を持っていないと相談には乗りにくいし、だからといって相談ばかりに乗っていてもお寺のいろんな家事、作務が途絶えるわけですから、そこら辺を本当にうまくやってらっしゃるお寺の奥様というのは私は頭が下がります。
現実に私は最近まで九州の方におりましたから、自分が身近に知ったところで限られてはいますが、割とそういう何でも上手にこなされるスーパースターみたいなお寺の奥様が多いですね。だから、それは逆に教師よりも奥様の持つ割合というか、役割というのは逆にものすごく大変な力ではないかと思っています。だから現実には一番奥様が大変だろうと思うんです。
大 島 齊藤さんの方から現実には奥さんが一番活躍しているし、相談にも乗っていただく立場だからというようなお話でしたけれども、先ほどの影山主任のお話と重ね合わせますと、それが崩れてきているというところがやはり問題提起の一つだったと思うんです。それで今、斉藤さんがおっしゃったようなスーパースター的な奥様、本当に現実に実動していて檀信徒の相談にも乗っている、それだと問題は何も起こらないわけです。ところがそういうふうな寺庭婦人ではない人が多くなってきているというか、自分自身が別なところに信仰を求めていってしまえば、お寺はやはりそれだけ大切な立場だから崩れていってしまうのではないか。それを防ぐにはどうしていったらいいのかというところが一番問題なのかと思うんですけれども。
影 山 私は今、自分のお寺で忙しくて掃除もできないぐらいの状態であるのが実際なんです。どうしてかというと、カウンセリングの電話を受けているのが多い時で四時間ぐらいです。そうすると、掃除をして子供の面倒もみて、お上人様の手伝いということになると、自分や自分の子供達、家族というものに対する目の向け方がおろそかになり、外の方に向ける(檀家さんから見た目)にとらわれすぎて、自分の家の内面的な安心感や、ほっとすること、そういうことが無くなってきてしまっています。「本当はご本尊様の前に座った時にほっとするわ」と思われるでしょうが、外から来た人はほっとしていると思いますしそういう場所ですが、寺の中にいる人は時間に追われている中で、「はいそうですか」と聞いている状態でいます。だんだん追い詰められてストレスになっていくのではないかと思います。ただ、娘に「お母さん、いらいらした時どうするの」ときかれて、「思いきりお経あげる」と言って笑われましたが、やはり私にとっては、ご本尊様のところに行って思い切りお経を上げること、それで何か発散して、受け止めてもらえる大きいものを持っているから、どこかで安心できる部分もあります。外ばかりに目を向けすぎて、内面的な自分の家族や家の仕事の方をどんどん削っていっていたりすると、自分の家と社会的な面との切り離しができなくなっているから、そういった問題が起こってきているのではないかと思います。
私は大変怠慢で申し訳ないんですが、一週間に一回ご奉仕の日を作っていただいて、お弟子さんの方に本堂から何から隅々まで全部掃除していただくということで、普段は簡単に済ませていただいている状態でおります。「皆さんの本堂だからいつ来てお経を上げてもいいです」と言っているので、寺族だけがしなければいけないというのではなくて、みんなでお掃除しましょうというふうになるべくしていって手分けしています。お寺の仕事があまり負担になって外にばかり目がいくようだったら、やはりお手伝いをして下さるお弟子さんなり、ご信者の方で奉仕をして下さる方を少しずつ作っていくということが必要になり、その方達の修行にもなるのです。みんなが入って来やすい本堂だったり、ご祈祷所になったりというふうな場所をつくることが大事なんじゃないかと思っています。
ただ、寺と寺庭というのでしょうか、住職の家族の生活が近いので、プライバシーがなくなって何もかもオープンになってしまう部分があります。うまくどこかで線を引いていく形をつくることが、外へ向ける目と家族第一の目をつくる上で大切なことだと思います。
大 島 今、影山上人の方から具体的な例として、やはりこれはご自分が女性教師でもあり、また寺庭婦人でもあるという立場で、実際やってみないとわからない人の貴重なご意見だったと思うんです。私達もみんな男のお上人方と一番違うところは、男の方というのは全部回りは奥さんがやって下さっていて、お経を上げるとか外回りのところだけをやればいいという部分がありますけれども、本当に影山上人がおっしゃったように、家事全般からお掃除から相談事からお経からって本当に大変だと思うんです。そういう点で精神的な面で自分自身のストレスが溜まっていく。それを今度、少しでも肉体労働、日常のこまごましたお掃除とかを檀信徒の方に手伝っていただく方法というのを考えているというようなことだったんですけど、そういう実際にあたって、こういう大変なところはこんなふうにしているというようなことがありましたらいかがでしょうか。
高 橋 私はずっと独身ですからそういうのが判らないのですが、唯、私が僧侶の修行をしましたところは大多喜南無道場と申しまして誰でもお寺に来てお寺の生活ができる道場となっていますから、掃除は、師匠も皆一緒に全員で行います。結構広いんですがそんなに時間はかからないんです。
確かに今、おっしゃていたような雪などで手がかかってくる時には檀家の人達が来ますし、それから老人クラブの人が草むしりに来るとか檀家の人達がやってくるとかしますので私はお掃除が嫌いですけど、そんな苦痛を感じず規則正しい生活を十年ちょっと過ごすことが出来ました。
それからもう一つ、女性の利点というものでしょうか、そういうものを感じている事があります。
悩みを持っている人は、自分が何を悩んでいるのか良く判らない未消化の状態の人が多いものです。そういう時は女性には話し易いのか愚痴を混ぜた感じで話しかけてくる事が多いのです。
それから私、今受け付け係をしていますが、受付場所が幾つもある本山で、私がいる受付は、寺務所にある受付から離れていまして、寺務所の方は格式張っていて、何となく行きにくい、気楽な感じで行きにくい、そんな気持ちの人も、多く立ち寄るという受付にいます。そのせいか悩みを抱えどうしようと困っている人も良くやってきます。私は非住職でお寺を持っていないので身の上相談をやれる良いチャンスと張り切っていました。相談を受けながら四、五年経ちましたが、迷っている人、不安を抱いている人達がいかに多いか、という事です。お寺が、ふらっと行って相談にのってもらえる場所、唱題行をしたかったらいつでも行けて、随時、指導にあたってくれる僧侶がいる。そういう場所になったら良いと思いました。
それから受付で質問を受けていて、言葉というものがいかに誤解を招き限界があるかという事を痛感しました。例えば、ご夫婦で息子さんの事で悩みを打ち明けてきた時なのですが、旦那さんの方が主に話しをするから、ご主人から伝わってくるものでご主人に合った感じで答えていくと横に居る奥さんがトンチンカンな相槌を打ってくるのです。私の言葉尻をとらえまるで違う風に解してしまうのです。私の力不足を痛感しました。言葉というものがいかに誤解を招き易く、伝えていくものに限界があるかという事を知らされました。私自身が心の中をお題目で一杯にして応対した時、伝えたいこちらの姿勢を誤解なくちゃんと受け取って行ってくれる事が解りました。
これともう一つ、受け付けをしていて大勢の人々に接して感じた事は、初歩的宗教教育というものがなされていなくて信仰というのが自分自身の魂を成長させるものなのだという基本的な事が解らなく「占い」か何かと同じ様に「右へ行ったら良いでしょうか」「左へ行ったら良いでしょうか」と、人に帰依しようとする低次元なものを求めている人が大勢いるということが判りました。
大 島 今、高橋上人の方からいろんな日常のことを檀信徒の力をなるべく借りるというふうなご意見、さっきの影山上人の意見を受けたような形で、さらにそういうことを強調なさいましたけれども、やはりそれは檀信徒と信頼関係がないと、「手伝って下さい」と言ってもすぐに飛んできてくれる人が、信頼関係があってお寺のために奉公しますという方ができていないとなかなか駆け付けてくれる人もいないお寺もあります。ですから、やはりそこは教化の大切さというんですか、檀信徒への教化が十分なされていれば、それだけお寺に対しての、というかご本尊様に対してのご奉公という形で来てくれる。それもやはり日頃の住職をはじめ寺庭婦人の教化の努力が必要なのかなという気がします。
それで女性だから話しやすい、女性は本来母性ということで何となくお上人はもったいなさすぎてというか、偉すぎて話しにくいけれども、奥さんだったらとか尼僧さんだったら話しやすいというような気持ちというのは檀信徒の方にあると思うんです。そういうふうな形で、やはり女性の活躍していく場というのは必ずしも陽の当たる衣を着てということではなくて、本当に心の安全弁という形でみんなの相談事に乗っていくという方面で活躍していく場ということをこれからの女性教師、あるいは寺庭婦人が考えていかなければいけないんだろうなというふうに思います。
実際、寺庭婦人の問題というのは話せば尽きないことだと思いますし、具体的に何も知らない寺庭婦人が信仰に入っていくにはどうしていったらいいのか。そこの部分をやはりある程度考えていかなければ、よほどご住職が自分の奥さんなり、娘さんなりを教化していった場合は別ですけれども、ぽんとお嫁にきてそれだけ深い信仰になれるかどうかというところはやはり難しいという点もあると思うんです。そんなことで実際、お寺でやってらっしゃってどうでしょうか。
伊 藤 私はかつて寺庭婦人でしたので、寺庭婦人の立場からお話させて頂きます。先ほど影山先生がお話されました、お寺にお嫁に来て自分が思い描いていたお寺とは全然違っていた、それで新興宗教の道に入ってしまったと言うお嫁さんのお話がありましたが、その気持ちが解ります。私も、普通のサラリーマンの娘でしたから、全くお寺の生活は解りませんでした。前住職であった義父が、檀家だった私の家に月参りにいらした時、「お寺と言っても何の心配もないですよ。お寺の事は役僧がやりますし、お寺と自宅とは別にします。サラリーマンの奥さんと変わりませんから、是非に来て欲しい。」と言われました。ところが実際来てみると、全然違いましたね。お寺と言うところがこんなに忙しい処とは思いませんでした。毎日月忌参りはあるし、月に一度は行事があるし、いつも仕事に追われていました。経理から事務的なこと一切、掃除、育児、夫である住職の世話、忙しい時には檀家廻りもしました。何から何まですべてやっていました。お寺のことは何一つ解らないで来ましたので、一つ一つ姑や住職に聞いて覚えていきましたけど大変でした。お寺の運営の方法は教えてもらいながら、徐々に覚えていきましたが、信仰についての理解や教化ではありませんでした。その部分は、自分で努力しなければならない事もあるでしょうけど、全く信仰や教えをわからないものには、何から学べば良いかすら解らないし、どうすれば良いのか全く検討も付かないのです。それにやらなければならない事が多くて、学ぶ時間もない状態でした。私の処では二十年前に寺庭婦人会が発足して、私が事務局をしました。まだ出来たばかりで手探りの状態で、出席する方も少なかったですし、年に一回の親睦会と研修会でしたけど、何を研修したらよいのか解らないので、住職の方々に聞いて内容を決めたりしていたので、マニュアルに沿ってと言うか、寺庭婦人が実際に必要な事や知りたい事ではなかった様に思います。自分の悩みやお寺の運営の方法で、他の寺院ではどうしているのかなど気軽に相談できる雰囲気ではなかったです。今は寺庭婦人会も活発になって来ているのかも知れませんが、その時は寺庭婦人が、自分が抱ええている悩みや困っている事など実際に役立つ勉強会があると良いと思いました。お寺の奥さんと言う立場にいると、悩みが有っても檀家の方には話せないし、他の寺庭婦人の方との繋がりもあまりないし、一人で抱え込んでしまう事が多いと思います。横の繋がりがもっと持てると良いと思います。
それと私が痛感したことは、日蓮宗に於いて寺庭婦人の立場を守ってくれるものが全く無いという事です。夫である住職が急死した時は、子供がまだ幼かったものですから後継者を決めていませんでした。その時初めて知ったのですが、後継者が決っていない場合は干与人が選定し、総代さんの同意を得て決めると日蓮宗の規定で決められているのだそうです。今まで一生懸命にお寺に尽くしてきた寺庭婦人を守ってくれる何ものも無いし、意見を言える場も与えられていないのです。今までお寺を維持運営するにあたっては何の力も貸してくださった事の無い方が、その時だけお寺にやって来て、その人の一存で全てが決まってしまうと言う事は、一般の社会から見たら理解できない事ですし、ありえない事です。役僧さんを何人も置いておられる大きなお寺は別かも知れませんが、ほとんどのお寺では、寺庭婦人の方が何役もこなして頑張っておられるのではないでしょうか。住職に何かあった時、寺庭婦人がたとえば「後任はこの人に決まりましたから、お寺を出て行ってください。」と言われても従わざるを得ない存在であると言うのはおかしいのではないかと思います。私もその時、寺庭婦人はお寺にとって体の良いお手伝いさんでしかないのだと思いました。もう少し宗門としても、寺庭婦人の立場を確立しても良いのではないでしょうか。お寺では寺庭婦人の存在と言うのは大きな位置を示していると思います、また法器養成にいたっては、重要な立場です。寺庭婦人が安心してお寺の仕事やお祖師様のお給仕が出来るような宗制を作っていただきたいと思います。お寺と言うのは、住職だけでなく寺族、特に寺庭婦人が信仰をもとに信頼し合い協力して、檀信徒へ教化に当たっていかなければ良くならないと思います。
大 島 今、すごく貴重なご意見というか、実体験に基づいた伊藤上人のお話だったんですけれども、まずやはり寺庭婦人というのは非常に大切な存在なんだけれども、やはり自分自身のストレスがどんどん自分に溜まっていく。それを人には言えません。檀家さんにこぼすわけにはいかなくて、そうかといって、確かにご主人も忙しい。お互いに同等の立場で悩みを聞き合うというような家庭として理想的に成り立っているところは別ですけれども、やはりお互い日常、本当に大きいお寺になればなるほど日常茶飯事忙しく駆け回らなければいけなくて、自分の心の安らぎは得られないんですね。
やはりそういう時に自分を支えてくれるのは何かと言ったら、お経を読むとかそういうことで自分を支えてきたと私自身も思うんです。辛いことは他には言えないけど、ご本尊様だけはわかってくださるというような形でやってきているんだと思うんです。やはり寺庭婦人会というもののあり方があるんですけれども、さっきおっしゃったようなマニュアルに則ってというようなことでもあると思いますし、現実に寺庭婦人会に出てこれるような方というのは、本当に実際お寺のことなんかあまり自分がやらなくてもいいような、左団扇のところの方とかが多くて、言葉を悪くすれば有閑マダムの集まりみたいになりかねないような場合があるんです。
そんなことよりも寺庭婦人会で必要なことというのは、もっと本当に今、私がお寺のこういうことをやっていて大変なんだけど、そっちのお寺はどうですか?というような情報交換と、それからそれで自分も私だけがやっているのではないという安心を得られることと、そしてその会に対して誰か指導者をお呼びしてというか、励まして導いてくれる講師の人、自分自身も教化され、そしてまた自分自身が檀信徒に教化していく寺庭婦人であるための集まりであって欲しいと私は思うんです。
現在の寺庭婦人会のあり方というのがピントがずれているのではないか。現実に則していなくて、本当に子供を抱えたり、家事に追われたりして、そんな会に出席できない寺庭婦人がいるんです。そういう人こそお寺を担って頑張っている人なのに、そういう人達に対する精神的なフォロー、それから知識的なもの、実際お上人に何かあった時の立場の保証といいますか、それをやはり今後、もう少し宗門で考えていっていただきたいと思います。そういうことに関してはやはり現宗研の主任さん、所長さんを通して出していただきたいというのが私の考えですけど、いかがですか。
そういうことで寺庭婦人の現実の大変さ、そしてそれに対する教化の方法と、それから身分の保証も、身分の保証というのは寺庭婦人がお上人と同じく肩を並べて衣を着ろとか、人の上に立てとかということではなくて、やはり何かあった時に生活が、例えば庫裡を改築するとかお堂を建てるといった時に寺庭婦人も自分の持っていたへそくりを出したりとかして建てます。そうすると、それもお上人が亡くなってしまえば先ほどの伊藤上人の話ではないですけど。
伊 藤 本当に万が一ということが、突然有り得ることですから。そういう時ってすごく不安になります。また、寺庭婦人の方に聞いた事ですが、ある会合の宴会の席で、若い寺庭婦人の方が酔って周りの席の人達にお姑さんとの間の悩みを話されていたと聞きました。お寺というのは夫の両親と住むことが多いですよね。若いお嫁さんにすると姑さんとの関係は結構大変なことです。その事で悩んでいる気持ちを聞いてもらえる場、相談できる場が無いのです。自分の心の中に悩みを抱えて苦しんでいる時は、心に余裕も無いので、檀家さんに対してもなかなか優しくなれないものです。でも檀家さん方は、お寺の奥さんと言うのは、いつでも悩みを聞いてくれて、頼れて、優しい存在であると思っています。そこに寺庭婦人の苦しさがあると思います。寺庭婦人自身の心のケアができるようなそんな場所と機会が有ると良い思います。
大 島 やはりそれは既成の寺庭婦人会というのではなくもう少し、それを母体にしてもいいですからね。
伊 藤 少し若い方が大勢出てくれれば変わってもいくのかなと思います。
大 島 悩みとストレスが若い奥さんにはあると思うし、そして結局そういうのを檀家さんには見せられないんですよね。信仰しているお寺の家の中がもめていて私達に何えらそうなことを言えるのということだと思うんです。
伊 藤 檀家さんの前では本当に何事もないかのように振舞わなければならない事が多いです。
大 島 そういう知識、心、それから経営のそういう知識、それから信仰的なものを含めたお互いの情報交換や、そこで寺庭婦人自体が癒される場所も必要です。それからあとはやはりその寺庭婦人自体が本当に信仰を持って、信仰で救われていくような自分に努力していかなくちゃいけないということもあると思います。
高 橋 寺庭婦人会とか、そういう会にそういうものを求めても駄目で、ストレスとかケアは本人自身の行学以外には何もないと思います。
自分の状況を変えてゆくには、読経、唱題行で自分自身を見つめて、より深く自分を知っていく事しかないのだから、もし、寺庭婦人会で何かやるとしたら皆で集まって一日中唱題行をするとか読経をやるとか読誦会をコツコツやり続ける事しかないと思います。
檀信徒に接して相談を受ける寺庭婦人は行学をどんどん積極的にやるべきだと思います。檀信徒に接して相談を聞く寺庭婦人はご主人も奥さんが行学に励む事に協力し、読経の時間や勉強の時間を出来るようにしてあげるべきだと思います。相談を受ける寺庭婦人は、大学の授業が無料で聴けるようになるとか、というケアが出来たら良いと思います。
出かける事が出来ない人の為に立正大学にも通信教育が出来たりしたら良いと思います。
亀 井 だから寺庭婦人も信行道場へ行くべし。
伊 藤 教師になるために色々勉強しましたが、そのお陰でずいぶん仏教の事や日蓮宗の教えについて知る事ができました。それから信仰が深まり、自分で悩みを解決する方法や考え方の切り替えの仕方を学ぶ事が出来、私は教師になって良かったと思っています。
亀 井 だから悩んだ方が教師になるとわかるじゃないですか。そういう苦があって仏様に救われるということが。
大 島 絵に描いた餅じゃなくて実感が伴うというか。ただ、お寺の奥さんになったからといって、それでいいということでもないし、本当にお寺は奥さんで決まるというように、お寺の奥さんで、本当に一生懸命やってらっしゃる方もいるし、お寺の奥さんの座にあぐらをかいて、何か間違った方向にお寺が困った方向にいって檀家さん達が「うちの奥さん困った」と言っているお寺も実際ありますから、そういう点では最低限の行学の基礎を寺庭婦人にも与えて欲しい。
齊 藤 それと寺庭婦人だけじゃなくて、女性教師も同じ女性の立場からしてそうなんです。お坊さんという特殊な世界、この道はやはり男性のお上人しか表舞台に立てないですね。女性がいくら資格をとっても法要の座になかなか座れないという現実があります。元、私がいた東公園の銅像様なんかでも女性が出るということは本当に稀なんです。たまたま出れると結局、知堂とかそういった形で配役には加われるんですけれども、私が四年間銅像様にいる間に、去年のお会式の時なんかは女性も出れたんです。だから私は四年間銅像様にいてお給仕をずっとさせていただいて、とにかく自分が一つの先駆けになれればいいなと思いました。尼僧さんで結局事務所の方に入った例が今まで無かったんです。私はたまたまいいご縁をいただいたから銅像様にお給仕をすることができましたけれど、ああいう大きなお寺で自分がやっていけるのだろうかという不安があったんですけど、とにかくやってみようと思って一生懸命お掃除から何から本当に人の足元から拭くようなことからやりました。男性教師と同じようにやるのと、それから裏方に回ってやるのと両方、いわゆる寺庭婦人の役目も両方持っていたんです。その様な事を自分の中でどうコントロールしてどう比重を移していくかという事をものすごく自分で悩みました。
だけど、一番に主体を置くのは何かと考えた時に、やはり檀信徒の方に主体を置くべきだと思ったんです。檀信徒の方がまず困らないように、気持ちよく本堂に入っていただくように、気持ちよくお寺に来て「今日はお寺にきて良かった」と安心して帰ってもらうことをまず第一にしました。その時にやはりどうしても縁の下の力持ち、寺庭婦人と同じような役割、立場があるんです。
だからその時に自分達が何をしていかなければならないかということ、まず檀信徒の方に一番にお給仕するということ、お給仕の基本が、それまでは仏様に対してのお給仕と思っていましたが、それだけではなく、檀信徒の方に対するお給仕というのがいかに大事かということを学べたと思うんです。これこそが本当のお給仕だと、檀信徒の方が困って、例えば救急車で運ばれるとか怪我したとか、何かがあった時に、即座に手当てや応急措置ができるかできないかによって、お寺のあり方というのは印象が変わってくると思うんです。
それを一番即座にできるのは女性なんです。女性の持つ母性というか、そういったものが男性教師より大きいんです。その時に男性教師というのは表面的には大きな目で確かに見られます。でも表面的なことだけでその下に隠れた部分というのはやはり見られないです。表舞台に立つのは自分達だけなんです。だから女性教師がどこにいっても下に見られているように勘違いされるわけです。でも私は逆に、四年間お給仕させていただいた間に、これこそが女性の底力だというようなのを自分の中で見つけられたような気がするんです。
これこそが男性が気付かないところなんだ、これこそが縁の下の力持ちだ、この縁の下の力持ちが無かったらこの大きな法要だってできないんだって思ったんです。自分の中でそれが逆に喜びに変わった時、影の部分がいなかったらどうなるのかと自分が思いついた時に、これこそが女性の底力だというのを確信しました。だから、寺庭婦人の方もそこだと思うんです。
大 島 今のそういう考えというのは齊藤上人の信仰に基づいたというか、実践の中で考えの切り替えというか、一つものの見方を変えてみれば自分も救われるということですよね。寺庭婦人も、ものの見方を変えてみれば自分も救われるということですよね。寺庭婦人もそういうことを学ぶことによって、自分の気持ちの持ちようというか、行学にすがって自分を変えて救われていくという、やはりそこに本当の信仰があって続いていくという形になっていくんだと思うんです。そうすれば、先ほどの問題提起のような寺族自体が崩壊して他宗教に走っていくというようなこともないと思うんです。
やはり、そういう意味では寺庭婦人に対する何らかの勉強する場、本当に悩みを解決するための勉強する場というものを是非考えていっていただきたいということですね。それに基づいて、さらに自分でどんどん勉強する人は勉強していくだろうし、自分の実際抱えている檀信徒とともに、また寺族とともに寺庭婦人も成長し、檀信徒のためになっていけるし、自分のストレスも解消していける信仰を持っていくことができるというのが理想的な前向きなことですよね。
そんなことで寺族自体の宗教の無さというか、欠落というか、そういうことはそんなふうなことでまとめというか、そういう方向で宗門の方にアピールしていきたいと思います。
もう一つとても大切な、これは寺庭婦人とか女の人ということに関わり無く、本来お寺の癒しとしての機能といいますか、それについてお寺は先ほど影山主任のご説明の時にありましたように、組織仏教に時代の流れでいってしまって、本来の癒しの部分というのが欠落してしまった。そういう意味で他宗、新興宗教に走る人達が多くなって、既成仏教の怠慢さというか、本来のあるべき姿が失われて、心の安全弁というのが欠落してしまったのではないかというような問題提起があったと思うんです。それについての現状と、どんなふうにそれに対して考えるかということで、野澤さんいかがですか。
野 澤 青年層の主張コンクールの原稿は、内容が自分でも薄くて納得いかないまま出してしまったので、まだまだ補足したい部分が残っていたんですけれども、具体例が挙げられてなかったんです。僧侶の堅苦しいイメージ、とっつきにくいイメージ、えらそうなイメージを取り払って、もっと気軽に世間話や相談事をもちかけてもらえるような僧侶を目指したいということで締めたんですけれども、どうやったら堅苦しいイメージがとれるか、とっつきにくいイメージがとれるか、自分が偉そうにしていたら、偉そうだと思っていないからわからない筈なんです。それを自分で気付くか、回りが気付かせるかして変えていかなければならない現状があるなというのを思ったんですけれども、この中でも書いたんですけど、教師もみんなと悩み、苦しみは同じだという考えなんです。決して悟った存在じゃないじゃないですか。何にも悟っていないのに、何でえらそうに説法ができるのかと悩んだ時期があって、たとえ日蓮聖人がおっしゃっているからと言っても、自分ができていないことを人に言うのはものすごく心苦しい時期が研修所の中でも続いたんです。
でもある日気付いたのが、法話の練習をしていて仲間達に講評しなければいけない。自分ができていないところも講評しなければならない。感情がこもっていないだとか、厳しい批判をしなければいけない時に、自分もできていないのにと思いながら言わなければいけない同じ自分がいた時に、これはお互いのためだったんだと、相手に言わせてもらうことで自分も一緒に戒められて自分もこういうところに気を付けなければいけない。言ったからには責任があるから自分も頑張らなくてはいけない。それを認識させてもらっているのが僧侶であり、だから説いているつもりで自分が説かれている。その存在に気付いた時にものすごく法話をするのが楽になった。
だから決して私が完璧だからこういう話をするんじゃないですよ。言い訳がましいけどそういうふうに前置きをして、私もできないですけども、みんなで頑張ろうと言っているのが法華経じゃないですか。だから、先ほど寺庭婦人のお話の中で嫁、姑の問題とか、回りに言えないとか、私も嫁の立場になった事もないし、実際家庭の中での厳しさをまだまだわからないから口出しできる範囲じゃないとは思うんですけれども、やはりその中で生活していかなければいけないからものすごく苦しい部分もあると思うんです。でも、そこで仮面をかぶってできる自分を演じて檀信徒と接したところで何が伝わるのか、だったら自分の弱みも見せて、自分も悩んでいるんだ、同じことで悩んでいるんだ。じゃどうしようかと一緒に考えていける存在として私は今頑張っていこうと決心しているんです。
だからわざわざ自分の恥を晒すようなことを言えとかそういうのではなくて、やはり同じ人間なんだという自覚が必要だと思います
齊 藤 同じ目線ということですよね。
野 澤 そうですね。それで感じ取ることも同じだし、涙するところ、怒りを覚えるところやはり同じだけれども、それをどうしていったらいいんだろうというのを紐解いて一緒に考えていく。だから上の立場に立つのでなく引っ張っていく、そういう存在でありたいなと思っております。
大 島 そうですね、やはり上下関係で捉えると、それは辛くなるし、苦しいし、無理があるし、先ほど齊藤上人がおっしゃったように檀信徒に対するお給仕とか、それから同じ目線、そういうようなことで、さっき伊藤上人がおっしゃった見せられないというのはちょっと違うんですよね、ニュアンスがね。だからって、自分の弱みを檀信徒に絶対に言わないかというと、そういうことではまた無いんですけれど。ただ法華経の中にも完全じゃないものも法を説く権利はあるというようなことがあったと思うんです。
齊 藤 お話をするというのは、実際は相手に(話をする対象に)向かってしているのではなくて、これは自分に言い聞かせているんだよという気持ちでしていると思うんです。人に話をするのではなくて、説くという形ではなくて、自分に言い聞かせたいんだと、もしくは言い聞かせているつもり、もしくは自分の中にそれが理屈としてはあってもそれを心で納得するために自分に言い聞かせるということがあると思うんです。私もいろんな人にお話をする時に、「何もこういうことはあなたに話しているんじゃないのよ、私自身もこう思っているから自分にも言い聞かせるために話しているのよ」というのを、やはりどこかで入れるんです。それはあくまでも話す人、例えば先生と生徒みたいな対象ではなくて、そこでお互い様という関係が生まれるんじゃないか。結局、単に上下関係とか、例えば教えを説く者、説かれる者という関係ではなくて、お互い様なんです、合掌ということはお互いに拝み合いましょうということでしょう。それと同じような気持ちでお話、私はそういうふうに受け取っているんですけど。
大 島 さっき野澤上人がちらっとおっしゃった、相談に行きたいと思っても行けないような雰囲気、堅苦しくて行けないような。私やはりお寺が癒しの場に本当になるためにはまず第一にそこも大切、敷居が高くて行けないとか、行ってもきっとそんな馬鹿なことを考えるんじゃないと言われるんじゃないかとか、その雰囲気ができてないというか、どうしたらお寺は気安く相談に来れる場になるのかというところが、やはりまず癒しの第一歩かなというような、それにはやはり今、いろいろ出た意見のように上から下に対する教えの下ろしじゃなくて、同一の立場でいるという開いた形が自然に漂ってくるようなお寺のあり方というんですか、そういうものを檀信徒に伝えるような雰囲気作りが必要なのかなと思うんですけど、その辺はどうでしょうか。
高 橋 上とか下とか他人と自己とか分離出来ないものを分離して考えていると思います。
思いやりをもって同悲(体験を共にした思い)の心でいきたいと言ってらっしゃるけど、確かに上とか下はありませんがこれも分離出来ない自己と他者を分離している残り滓があると思います。
大勢集まった人々の前で法話をしている時に時々あることなのですが、話している最中に食い入る様に一生懸命聴いている人の目に気が付きその人の方を向いて話していると自分では話しをする予定ではなかった話しをどんどん話させられてしまっているという事があります。
これは食い入る様に聴いていた人が私から引き出していったんだと思うんです。
そこには教えを導く人、導かれる人の区別はありません、ましてや、他者と自己の分離等ありません。起きていること自体全て、意味があって起きているんだし、起こるべくして起きていることだし、受け付けで大先輩のお上人と二人で並んでいる時、身の上相談を隣のお上人ではなく駆け出しの私の方にしてくる人がいます。
それは、尼僧だから話し易いというのではありませんでした。この時は、私の欠点と同じものを持った人が目の前に来たのです。隣のお上人のところへ行く筈がありません。私の因縁で目の前に来たのです。
起こってくる出来事は、上と下とか、他者と自己とか同悲だとかではなく、そんなもの取っ払って自分の内省性が問われているんだという心でお題目を唱えた時、今まで気付かなかった自分に気付かされてくると思うんです。
同悲ではなく、自分が問われているんだという感じでとらえた時、本当に伝えなければならないものを相手に多く伝える事が出来るし、自分にも本当の癒しがくると思います。
大 島 そういう考えに至るまでの、みんながみんな高橋上人のように考えられるかといったら、なかなかそこまで。全てが起こるべくして、この世に無駄なものは一つもないと言われるように、それも全部自分の因縁、あるいはご本仏の導きによって出会わされたものだというふうに考えられる人がどれだけいるかということです、問題は。そこまでの信仰の深さになっていない寺族がほとんどでしょう。
伊 藤 お寺の奥さんになる人が必ずしも信仰を持っている人や、自分から求めて来た人ばかりじゃないと思います。恋愛をしてとか、お見合いでお寺に嫁いだ場合に、どうやって自分の心の悩みを解決していけばいいか解らなくて、苦しむ人もいると思います。最初から高橋上人と同じように強い信仰心を持たれている人は、問題は起きないのではないでしょうか。
影 山 多分悩んだ時って、誰も回りはそれを知らない。本当はすぐそこに、わかる筈のところに自分達がいるのに、灯台下暗しの状態でわからないんです。お寺にいるがために聞けないんです。近くにいるために忙しいだろうとか、きっと答えてもらえないだろうとか、わかること言ってもらえないだろうとか考えてしまって、自分はだったらどうすればいいか、こうすればいいことがわかっているのにできない方に絡まれている状態というのか。答えが目の前に掲げられている中にいるのにも関わらずこれがすっとここに来ないのです。お寺にいるためにそうなっていると思うんです。その時にそれをこっちですよ、これをしましょうという何か明かりみたいなものを掲げてくれて、迷った時に寺庭婦人だけが尋ねられるそういう機関みたいな明かりみたいなものを掲げて欲しいです。
高 橋 住職さんは朝のお勤めはするが、寺庭婦人は台所か何かで忙しい思いをしている。法話があっても聞く暇がない。そして、檀信徒の人達に接し愚痴や悩みをきかされ答えなければならない夫であるお上人は、寺庭婦人がお経や教学を学ぶ事への理解や協力がない。
大 島 (同じ女性教師でも)その立場が本当に教師のみで来た人と、妻であり母であり教師であるという人と、やはりそういう意味で微妙に違うと思うんです。純粋に言えば今、高橋上人がおっしゃったように寺庭婦人も、もちろん一緒に朝のお勤めもした方がよいと思いますが、時間に余裕がないのが現状です。
伊 藤 女性教師になって思ったことは、やはり本当に教師になるのであれば家庭を持ってはいけないと。
高 橋 きっかけは何かというと、お経を自分で上げた時にストレスに対してふっと気付きが起きたりすることがありますよね。何かそういうのを与えていくようにご主人も認識が、朝が無理なら昼間、時間をつくってやるとか。
亀 井 そういうようなのは社会でもやはり夫婦関係は同じじゃないですか。
影 山 でもお互いに言えなくなってしまって、きっかけが無くなってしまって、言うと喧嘩になりそうだという状態で、だんだんお互いが忙しくて辛くなってくると、寺庭婦人だってどこかにきっかけが欲しい。
お経を読んで、そのお経を読んだら自分の心に感じるものって、そこまで至るまでのきっかけが欲しいんです。
高 橋 道を歩いている時でも、家事をしながらでも、声を出さず心の中だけでも良いから、一歩前を照らし給え、という思いでお題目を唱え続けられたら。
齊 藤 それはお坊さんの立場だからそれが考えることができるんです。私もだから檀家さんとか信者さんにお話するのは、何もお仏壇の前に座ってとか、お寺に来なくても、お茶碗洗いながらでもお題目唱えてください、私の心も一緒に洗ってくださいという気持ちで毎日過ごせたら、何も仏壇に向かってお題目を上げる必要はないと言うんです。
池 浦 そういうことができるのではあれば、寺族が他の宗教に走ることはないと思うんです。そこに行くまでにどうしたらいいか、そうはいかないからこそ……。お見合いとかでお寺に入る人はいますけれども、その時点でお寺はどういうものなのか、人を導いたりするものだというところで、自覚した上で結婚して、そしてその中でも指導していくのはお上人だと思うんです。
私はお寺に三人娘の真ん中で生まれて男がいなかったものですから、全部嫁いだんです。嫁いだんですけど、私は子供を連れて戻りました。それまでは日蓮聖人の教えを何も知らなかったんです。それで私には男の子もいましたので、この子が小さい時にお寺の跡を継ぎますと言ったんです。その時点で父を見ながら何かお手伝いできるものを捜しました。ある会で日蓮聖人の教えの素晴らしさを知ったんです。
お寺に生まれてもどこに生まれても教わらなければわからない。教えを知った時にこれは絶対に皆さんに教えたい。専門的に教化していきたいと感じた時に、自分の与えられた立場でやっていくことが価値あることだと思うんです。それが住職も母も全部私に任せたいというか退くんです、何でも頼ってくるんです。そうするとやはりストレスが溜まりますし、本当の所どこにそれをぶつけたらいいんだろうと思ったりもします。でも、私には相談に乗ってくれる近隣のお上人や友人がいてくれて、もちろんこちらも立ててくれて導いてくださったと思うんですけど、そういうところでお寺の規模によっても違うし、悩みながらいくことが人をまた苦しみから救っていけるのかなと思いながら、それでも私は毎日悩んでおりますけれども。
私自身思うのは、信仰体験が足りないんです。苦労が足りないといいますか、そういう意味でもっともっと本当の信仰体験というのをしていきたいなと。
大 島 今の池浦上人の話でもさっきから伊藤上人がおっしゃっているように、何も教わらなければわからないわけです。私も池浦さんと同じようにお寺の娘でしたけれども、子供の時には何もわかりませんでした。大学も全然宗門じゃない大学に行ったものですから、この道に入っていろんなことを教わって、そういう教えを受けることによって自分の実際の生活の中で思い当たってくることがあるというんですか、現象が起きてくる。そういうことで自分の信仰というのはどんどん深まっていくんですけど、やはりまず一番はじめのきっかけがないと、教えてくれる機関がないと大聖人の教えにしても、法華経の教えにしてもわからないで終わってしまう。ただ、お題目を唱えるだけで教師や寺庭婦人はそれでいいのかというところも行学の二道と言われているんですから、やはり行だけでも駄目だし、学だけでも駄目だと思うしね。
池 浦 『お題目』って何なのか、理屈や言葉の意味ではなく、確固たるものが、信じきれるものが…。
そこが信仰体験の不足だと思います。
ある時、私は、娘と本堂の仏具をからぶきをしていたのですが、ほんの一言、「仏様が喜んでいるね。」と言ったのです。何年か後、「仏様が見ているから悪いことは出来ないね。」と言ったのです。
この子は、私が言ったことを心に止めていたのだと驚きました。小さいころの親子のこんなふれあいの中で、仏様のお手伝いが出来、又、そのことが、人と人がふれあうお寺というものの役割、仏様の教えに導いて行くための、お手伝いのできる場所であることを、我が子にも気づかせることであるのではないかと思うのです…。四角四面のものではなくて、ちょっとした触れ合いの中でもできるのかなと思います。
大 島 そういうきっかけを与えてくれるものが何か、というところに落ち着くんだと思うんですけどね。
皆さんだってそれぞれ立場が違って、その中でやっぱり精一杯やっていらっしゃると思うんです。だから、本当に上に立ってばっとやらなければいけない立場の方もいらっしゃるだろうし、ずっと縁の下の力持ちで頑張っていかなくてはいけない方もいらっしゃるだろうし、お互いに同等でやっていかれる方もいらっしゃるだろうし、自分の因縁というかある大きな流れの中に置かれた自分という中で、与えられた縁の中で一生懸命やっていくということでいいんじゃないかと思うんです。
時間が迫ってきましたので、癒しのことについてですけれども、お寺が本来癒しとして機能していくということで、それに対するお考えを。
山 田 先ほどからずっとお話を伺ってて、その都度その都度いろいろ考えていましたが、私は平成六年の一月に得度したのですが、それまで小学校の教員をしていました。同じ教師という名前がついているんですけれども、皆さんからは「ずいぶん違った内容の仕事になって大変ですね」ということを言われるんです。でも同じだと、人との付き合いということでは全く同じなんです。すごく似ています。確かに亡くなった人に引導するのもあるんだけれども、でも実際問題は人との付き合いの方が大きいんだな。ちょうど私には合っているなというのが日々生活の中で思うところで。
ただ、去年の三月三十一日にメニエール症候群になってしまったんです。突然目の前がグルグルになったのですが、疲労とストレスが原因だったんです。これは二度とやりたくないなと思いました。その時仕事が重なって忙しかったんだけれども、結局小学校の教員をしていて、突然実家である寺に戻って、主人も子供も引き連れていったので。私としては多分、夫や子供を巻き込んでしまったなという思いがあったんだろうなと思います。父が具合悪くなって、あと三年ぐらいかなと言われた時に、自分がと思ってのことだったので、家族にとってみれば一体どうしたことだということで、ただ息子は小学校の教員を辞めると言ったら喜んだらしいんです。ところが単身赴任の状態もあったので、息子が小学校四年生の時に私がお坊さんになるということがわかって、「あ、そう」というぐらいだったのが、状況がだんだんわかってきて、自分がどういう立場に置かれたのかということに気がついてきて、将来どうしようということを考えなくてはならないみたいです。
そんな中で家族を巻き込んでしまったという遠慮があったのかと思いますが、それが爆発しまして、主人に「こんなになったのはあなたのせいよ」などと大いにわがままを言って、それまでも結構分担はしてもらっていたんだけれども、できないというのを言ってみました。それで結局、話し合いが足りなかったかなというのが結論だったんですね。それで、こんなことで今私は困っているのよということをどんどん言う。それが家族、夫婦なら話し合いをいっぱいするということだなと。私は今、朝四時半に起きるから十時には寝るんです。そうすると、主人や子供はコンピュータゲームに勤しみますので夜中ずっと起きているんです。本当に会話が少なかった中でできるだけ話をすることに心がけて、何とか今まで一年間目を回さずに済んでいるんですけれども。
齊 藤 多分、お寺の家族の人とかお上人さんもそうですけど、多分皆さん我慢強いと思うんです。みんながそれぞれが根性を持ってらっしゃる方が多いから我慢強くて、それで自分の中で耐え切れなくてそんなふうに体に現れてくると思うんです。自分もそうだと思い当たるところがあると思うんです。だから、そんな時にお釈迦様は中道というのを説かれたわけです。そこで囚われない心というのを自分の中で自由に開放してあげなければいけないです。あんまり頑張りすぎて強く引っ張りすぎた糸は必ず切れますよ。だから適当な緊張度合いでいきましょうねというのがお釈迦様の教えじゃないですか。そういったことをついつい、中にいるから逆に忘れるんじゃないかと思います。自分達が内側にいるから、他の人を教化しなければいけない内側にいるからこそ、ついつい自分を、皆さん頑張り屋で頑張ろうとばかりしている人が多いからそういうことが起こると思います。
大 島 お互いにわがままを言うということで協力してもらわなければ、結局はお上人が奥さんの協力が得られなければ無理だというのと同じで、女の方の教師はやはりご主人に協力してもらわないといけないわけですよね。
山 田 四時半に起きて六時五十分に家族を起すまでの間に本堂のお勤めと、最初の内、本堂のお勤めにお経を全部一回読もうと思ったけどできないんです。自分の考えたお経のメニューが終わらないのはいらつくんですよね。それで六時になると忙しくて外回りやめたんです。それで土、日は子供達の学校が休みなので、その時は一時間は寝坊することにしたんです。それで五時半ないし六時からやれば外が明るくなるので、無理しないことにして。
齊 藤 逆に大本山とかでお給仕していらしゃる方は打ち明ける人がいないと思うんです。ご主人に話すわけでもない、私も同じような立場だったから、一人でやはりお寺のためにと思って一生懸命頑張っていても、主人がいる人は主人に言えるんです。だけど言えない立場の人もいるんです。それはやはり自分の中でいかに消化していくかというのが、私はこれは自分の修行だと思って。
舘 岡 ここにいらっしゃる方は違うと思うんですけど、お寺さんを見ていますと祈りの姿が見えないんです。ですから、私がもし癒されたいと思ってお寺を選ぶとしたら、そこのお寺のご住職はそのお寺の象徴なわけですから、精神性が非常に高いご住職を選んで、そういう方に是非法話をしていただきたい。そのためにはそういう目を持たなくてはいけない。私自身の精神性を高めることによって、そういうお寺に近づけると思います。
大 島 今の舘岡上人のご発言というのは非常に癒しのことに関して重要な発言だと思うんです。結局今のお寺の現状がほとんどがそれじゃないかということだと思うんです。お寺に行って癒されたいと思うところがないわけでしょう。
亀 井 そういうのって自分にしかないのじゃないかと思う。自分の中に自分が仏性を持っているということで、自分で磨くしかない。
舘 岡 そのお寺に尊敬できるようなお坊さんがいらっしゃると一生懸命頑張らなくちゃと思いますよね。そういう方の姿を見るだけで心が洗われます。
齊 藤 でも舘岡上人をお手本になさっている方はいっぱいいるんですよ。やはり本山にお勤めなさっている尼僧さんがいらっしゃるということで見てらっしゃる。本当に清まった気持ちになるとおっしゃっている方もいるので。大本山にお勤めなさっている姿だけで教化なさっているところもあります。
大 島 檀信徒というか一般の人達というか、お寺に求めるものが結局は求めようと思っても、今おっしゃったようにこれじゃ救われないなというようなことで新興宗教に走っていってしまうのが現状だと思うんです。そういう場合に本当に一般の檀信徒の人達に対しての癒しの場になるためのお寺、それを目指していくには一体どんなふうなことをしていったらいいのかということだと思うんですけれどもその辺どうですか。
野 澤 その問題ですごく難しいと思っているのが、新宗教とかは人を集めたいがために、どんな人でも受け入れるじゃないですか。お金も欲しいし、一人でも多くの人を集めたいという気持ちがありますから、どんな手段を使ってでも集めていく。例えば全く知らない人がきても扉を開ければそこで暖かく迎えてくれる人達がいる。「何の用ですか」と、まず言われることないですよね。お寺さんに行くと、こわい顔をしてお坊さんが出てきて「何ですか」と。見たことない人をまずこっちが警戒するじゃないですか。どろぼうもいますし、うちも実際本堂が被害に何度もあって、窓ガラスを割られたり、ご本尊をとられそうになったことが何度もあるので、そういうことにものすごくピリピリしているんです。だから開けっ放しにしておくなんてとんでもない。でも、体質的にはいつでも誰でも本堂に上がって好きなようにして、影山上人がおっしゃっていたいつでもお経が上げられるような本堂、いつでもこちらも対応できるようなお寺を目指したいんですけれども、やはり今の時代を考えた時に、それが一〇〇%のお寺でできるとは言い切れない状況がまずあるのが事実です。
全く知らない人が来た時に「どうぞ」と言って、お茶の間に上げてお茶を入れて話を聞くということだけでも、こちらに構え、それだけのものがある人はできるだろうし、でも私はまだ自身がないし、絶対今は無理だと。カルトとかもいろいろ本を読みますけど、自分にはまだ扱えない問題だと思うので、とにかくいろんな情報を集めて今は勉強するしかないなと。それでやはり本だけじゃ駄目だから徐々に実践的にもっていかなければいけないというのはわかるんですけれども、お坊さんにしろ、寺庭婦人にしろ格差というか、知っている人は何でも知ってらっしゃるし、知らない人は全然わからない。だから日蓮宗門全体でこうしようといったところで、みんながそれに合わせてどうにかするというのは、ものすごく難しいかなという気がするんです。
齊 藤 昔みたいな駆け込み寺的な要素が確かにないですね。そういったものを復活させないといけないと思います。何かがあった時にとにかくお寺に行けばなんとかなるというふうに檀家さんが思えるようなお寺、それが理想的なのかな。
影 山 今、私のお寺では、カウンセリングをしていますが、「かけ込み寺」を作りたいと住職に言っています。例えば、「家から出られない」とか、「遠くまで行けない」、(私共のお寺は房総の先端なので。)「とにかくうちまで来てくれれば何とかしてあげられる」と言うんです。近かったら私が行って背中さすってあげたり何でもしてあげられるんですけど、具合が悪くて、気持ちが悪くて、ご飯も食べられないし、眠れないとか、そういう強迫観念みたいな状態の人や、「薬も飲みたくない」、「嫌だ」という状態で電話だけかけてくる人が結構いるんです。
私も自分と縁のあった人しか救えない。十人いたら一人ぐらいずつしか関わっていかれない状況があります。例えば全国に、そういった場所があれば「近くにそういうところがあるから尋ねてごらん」と言えるんです。私のお寺には東京から来る人もいますし、埼玉から来る人もいるんですけれども、来れる人はまだいい方なんです。来れなくなっている人、電話だけではどうしようもできないような人、お題目をあげなさいと言っても、お題目の意味もわからなかったりとか、もしくは小さい頃から親に連れられていろんな拝み屋さんとか占いのところに連れて行かれては何十万円包んだとかという体験をいっぱい持っている人には、むやみに宗教の話はできない。そういう遠回しに宗教嫌いという人、カルトっぽいものにいくつも関わってカルトのはしごみたいなものをしている人が電話をかけてくることが多いんです。
だからそういうカルトや拝み屋と同じだと思われたくない、そうではない、違うということを、示しながら、そうではなくて仏様の教えで救われるということを伝える、救われる方法が宗教であるよということを伝えなくてはいけないということに持っていきたいのです。そこまでもっていくまで信頼関係を作っていく過程をつくることができる場所があれば……と思うことが一つ。また、「旦那さんが浮気してしまって家にいられない」とか、「家から出たい」とか、「子供連れているから働くところがない」とか、そういう相談が結構あるんです。女性にしかわからないつらさをわかってあげて、気持ちが落ち着くまではお給仕させていただけるような形のところができないかなと思っています。
ところが、相談を受ける人がやはりある程度受け止められる立場を持っていなければ返って不安を抱かせてしまいますから、女性教師という器の方々で受け入れの場所ができると良いと思います。
今、インターネットでも駆け込み寺という相談窓口を作ってもらうようにしています。
大 島 私は日蓮宗の僧侶だから、それからまるきり離れたところでやりなさいというのは私は納得できないと思うんです。
影 山 もちろん日蓮宗のお給仕みたいな形でしていってもらう中でできることです。社会復帰というより精神的に外と接触できない状態にまでなっている人がすごく多いんです。そういうようなものをどこかで救っていくような機関、場所、癒しの場みたいなものを作れないかなぁと思います。
齊 藤 地方では何箇所かあるんです。そういう駆け込み寺的なそういうボランティア施設をしているところが。ただそれはあくまでも民間だけの施設であって、そういうのと宗教に私達が携わっているものが合同したような、自分達だけでは多分できないと思います。そういう民間との連帯によって可能になる。
影 山 民間では癒されないと思うんです。そこまでいってしまった人達は、やはり宗教というのはそういうところで大事なんだと思うし、逆にだから自分がそれで救われたから今度みなさんにお返ししていこうという形をつなげていくような形にできればいいと思っているんです。野澤上人がどろぼうに何回も入られたということですが、うちのお寺はすごく小さいのでどろぼうに入られることはないんですけど、本堂に鍵をつけた時に破られました。何にもないんですけど、鍵をつけたら破るんです。だからといって賽銭箱の中を荒らされたわけじゃないんですけど。お寺ってお金持ちだと思われていたりとか、お金があると思われているとか、他所の商業の対象になっていると思いませんか。何かできるとすぐお寺に売るにくるとか、すぐに売りつけたがる営業の人が多いようです。
大 島 いろんなお寺があると思いますけど、車もすごくいい車に乗っていたり、お付き合いの金額が違うところがある。
影 山 そういうところでそういうふうに思われがちになっているのは嫌だし、宗教家だからこそもっと質素にするべきではないのかというのが、着物も着なくなってしまった日本人みたいなもので、食べるものもお肉はどんどん食べれば一般の人と変わらないし、それをまわりの人が見ていることも気が付かないし、普通の人になりきってしまっている。そういうところからも少しずつ改善していかなければいけないのではないかと思います。
大 島 これって癒しの根本的な問題ですよね。結局、教師の資質が経済基盤の安定したところにあぐらをかいてお葬式でいくらお金が入ってくるというところで安心して、自分達の生活を守ろうとしたところでもうそれでいいんです、お寺を経営していくには。だけど、お寺に本来求めているものはそういうことじゃなくて、もっと悩みを聞いて欲しいとか、何か苦しみから救って欲しい、導いて欲しいということを悩んでいる人は望んでいるんだし、それをしない教師の資質というのが、多分、今影山さんのおっしゃったようなことが原因というか、そういうところに原因があるのかと思うんです。
やはり心ある人達、特に尼僧さんは純粋だと思うんです。男性教師と比べて、出家の動機も純粋な方も多いし、たまたまご主人が亡くなったとか家の都合でとなっても、女の人って割に生活云々よりももっと信仰的に教義とかそういうものにひかれていって、自分の納得いくものを求めていくことが多いように思うんです。そういう意味では女性教師は割合癒しということに対して、また宗門の表に出るのは男で女は下働きというようなところがあるから、むしろ相談に乗ってあげるというような役回りになっていくのかなと思うんですけど、やはり男のお上人方の意識の中にはそんなこと時間もかかるし面倒臭いというところが一番お寺が閉鎖されていく原因だと思うんです。
もっとそういう意味では癒しのために、前に……先生が教師は心の町医者というような形で心のケアをしていかなくてはいけない、それが使命だというようなことをおっしゃいましたけれども、そういうような意識をみんながもっていくような教師自体が目覚めなければいけない必要性がすごくあると思うんです。具体的にそれがどういう形でというか、駆け込み寺も最終的には必要なんでしょうけど、実際日常の各お寺でそこまでというところはなかなかいけなくて、最低自分の抱えているというか、お寺に出入りしている檀家さんの日常の相談事に乗るというところが一番第一歩の癒しの場という現実性のあるところだと思うんです。それがだんだん発展していけば横のつながりでそういうところまで目指していけるというようなことだと思うんですけど、まずそれには教師の意識が変わらなければいけないのではないか。癒しをもっと本来の教師の使命だと思うところが無ければそれは望めないことではないかと思うんですけど、その点はどうですか。
伊 藤 最近、危機感を持つことがあるのです。今は檀家制度の名残があって檀家さんは自分の家が代々日蓮宗だったら日蓮宗を継いでいってくれましたが、でも現代のように宗教が自由になった今、必ずしも次の世代の人が日蓮宗を継ぐという事ではありません。いろんな宗教を自分で選べるようになってきています。そういう時代である今、宗門自体が今までのような在り方、法事をやってお葬式をやることがお寺さんとしての仕事と役割と思っていたら、だんだん檀家の人は離れていって数が少なくなって来ると思います。もうすでにその傾向にあると思いますし、今がその分岐点のような気がします。ですから今、日蓮宗全体で方向性を本当に真剣に検討して変えていかなければいけないところにきていると思うのですが、割と考えていない方が多いので将来どうなるのかと思っています。
齊 藤 私自身も伊藤さんが今おっしゃったので自分が普段考えていることがあるんです。というのはお寺に相談にきたり、もしくはお寺に縁がある方というのは既に半分は救われていると思うんです。そういう縁がない方、むしろ未信の方に対していかに自分達が社会に対してアピールしていくか。本当に迷っている人は社会にいっぱいいるんです。お寺に縁がない人、お寺に来れない人、お寺と関わりを持っていない人がたくさんいるんです。そういう社会の中で実際に日蓮宗の宗門がどういう教化の仕方をしているかというと、全然していないと思います。極端な言い方だと思うんですけど、未信の方に対してもっと社会に働きかけをしている活動というのが見えないような気がするんです。
その中で私が縁があって「南無の会」に関わりを持って、いろんな宗派に囚われずにまず仏教というものが生活の中に根ざしているものかどうかということから、私自身が気付きはじめたんです。日蓮宗だけに囚われずに、まずいろんな宗派を超えて仏教という仏様の教えがいかに現代の社会に浸透しているだろうか。その時に南無の会に自分が参加しながら聞く立場で、皆さんと同じ立場になってそれを捉えてみようと思ったんです。根底の社会一般に対しての働きかけをもっと宗門の方で本気で考えないと、新興宗教に入っている人は救えないですよ。檀信徒ばかりに働きかけてももっと一般の社会に仏様の教えが浸透していないといろんな事件が解決しません。
私自身の個人的な見解ですが、童話とか昔話とかそういったものを私達は子供の時に聞いてきています。だけど今そういう童話とか昔話とか、そういう情操教育が欠けていると思うんです。実際に私がまだ子供を持った経験もないし、子供を育てた経験もないですから、一概にはいえないと思いますけど、童話の中に仏様の心がいっぱい入っているんです。私が思っているのは、何かそういう布教の一つの方法論としてお寺に話してもいいし、いろんな幼稚園、保育所、学校といったところに働きかけることができて、衣姿のままで堂々と日蓮宗の教師ですけど、こういう話をしていますよということが言えるようになれたらいいと思っているんです。
まだ自分の中で自分がどういうふうに布教していったらいいのか悩んでいる時に、今やっとそういったことからはじめたらいいのではないかと気がつきはじめたところなので、まだ今からいろいろ勉強していかなければいけない、またいろんな問題も起きてくると思うんですけど、そういう観点からでももっと社会に対して、一般の未信徒に対して、働きかけをする必要があると思います。悩んでいる人は社会にいっぱいいるんです。だからこそ新興宗教が流行るわけですから、そういった働きかけみたいのをみんなで考えていかなくてはいけない。伊藤さんの意見とある程度共通すると思いますが。
大 島 確かに宗門の未信徒への働きかけというのは具体的にはないですよね。新しくお題目を唱えさせるための努力というのは果たしてどのぐらいしているのかという疑問は前から思っていますし、確かに今、若い人達の宗教離れというんですか、お葬式自体の形態が散骨とか墓は要らない。実際お墓自体が無くなっていくのがありありと分かっているお墓というのがいくらもあるんです。だからそういう意味で、形式に囚われたというか、今までの檀家制度の上にあぐらをかいていたんではお寺は先細りになっていくというお上人の話は本当に私も実感しています。そういう意味で、今齊藤上人がおっしゃったような衣を着たままで保育所を回れたらいいなとか、そういうような特に子供を、さっき一番はじめに影山主任がおっしゃったような十七才問題というのは、幼児の時に仏心が植えられていないということが、やはり私達信仰するものにとっては一番大きな問題かな。ですからやはり衣を着たままの姿で、女性なら特にそういうことができるのかなと私も思ってはいます。
だから、これからはそういうことを目指して、宗門の既成の形に囚われないで、本当に現場に働きかけられる力を連絡取り合ってやっていけたらいいなと思います。
高 橋 本当の信仰というのは困っている人の中から主体的に出てきたところから育ったというのはとても大きいと思うんです。だからそういう意味で、みんなどこのお寺も檀家だけでなく、誰でもきて相談乗ってくださいという間口をしていないというところが多いですよね。しているところは珍しい。じゃなくて全員しなきゃいけないと思います。その時には確かにこわい思いはありますよね。
主 任 私が一番こわいと思っているのは、お坊さんが自分のテリトリーで話をしないことです。臓器移植の問題にしてもすぐ医学の方に話がいってしまって、宗教家としての、例えば仏教の根本命題は六道輪廻からの解脱ですから、当然のこと生まれ変わりを前提にしているわけです。ですから、今救うとか救わないとかの問題じゃないわけです。命が助かるかどうかの部分で議論してしまって、それは来世があるとかないとか、今の合理主義に合わない部分があるんです。それはどうも迷信の世界だから、お坊さんは知っててみないようにしている。そしてその中で宗教をしようとするからどうしても説教中心の教義の伝達の部分しか残らないわけです。本来ならばお坊さんの仕事は、世間的には不合理に見えますがこの根本的なところから話をすることではないか思うんです。
ところで、この輪廻について宗教家ではなく大学の先生が、生きがい論ということで心理学の立場から輪廻の話をしている先生がおります。人は生まれ変わり死に変わりする、人生は一回生ではない、不幸な人生を歩んでいても、どのような病気で亡くなっても、それは前世であなたが選んだ修行のプログラムだから、そのプログラムを実践することに、この世に生まれた意味があるなどと輪廻を説いて、いま医療機関での講演がひっぱりだこになっております。
その先生を今度は坊さんが講演会にお呼びして、その輪廻の話を聞いてその輪廻についての生きがい論を学ぼうとしております。考えてみますと、輪廻のことは宗教家、とくに仏教者の一手販売であるはずなのに、それでは立場が逆ではないかと思うのですが、そう感じない。一般の人に宗教者が輪廻の話を聞くということに違和感を感じないという。
これは今お坊さんが自分の立っている場所、何のための坊さんであるのかという一番元の部分を忘れてしまっていると思うのです。檀信徒を教化していると思うけれども、檀信徒は教化できていない。簡単にいうと、檀家さん方の葬儀法要の求めに応じているだけですから。ですから今、宗門で行っております統一信行や護法大会なども、その地域でお檀家さんを何人か出してくださいというような人数あわせのようなことですから、あれは教化でも何でもないはずです。この辺のところをしっかりと考えて、その部分をすっきりするにはどうしたらいいか。
今日の話の中で気付いてもらいたいのは、教化する教化されるということは、溺れている人を助け上げることに似ていると思います。溺れている人に手をさしのべて、引っ張りあげる資質があるかないかの問題なので、それは檀信徒の教化においても同じことで、お寺やお坊さんの位置づけというものが、人の生き死にという非日常性の中にあった頃は、檀信徒方は自分たちで処理できない問題を、葬儀ばかりではなく、人生を生きるための現実苦を解決するためにお寺とうまく関わったけれど、今はお寺やお坊さんにそういう位置づけがなくなり、それが崩れはじめている。このところが非常に問題だと思うのです。
亀 井 私は乱暴な言い方だけど、壊れてしまうものは壊れてしまえばいいと思う。本物だけが残れば。
主 任 そのために本物になる方法をもう少し討議していただきたいと思います。極端なことをいうと、営業成績だけだったら創価学会がダントツに教線を延ばしております。
高 橋 それだけ相談にたくさんの人がのっているわけでしょう。一人が一人にあたっているから。
主 任 真似しようとしても真似できない部分があるわけです。真似をしないで自分が作っていかなければいけない部分というのは、与えられた一つの宗教としての線があると思う。その線は信行の徹底だと思うんです。たとえば、いまお坊さんであっても背広とネクタイで出掛けますが、お坊さんが着物を着なくなったということは本堂で着る法衣がユニホームになったんです。そういうような現状を現実に見ておりまして、これを何とかするためには、お坊さんが僧形を嫌う状況を何とかするためには、私はお坊さんの信行を徹底させることではないかと思っております。とくにその信行ということを比較的強く言うようにしています。
伊 藤 信行も大事ですけど、お坊さんとしての基本的な知識というか、漢方などの食事療法みたいなこともきちんと、日蓮聖人の教えだけじゃなくて、仏教は全体的なものなんだから全てをオールマイティで答えられるような、女性教師はそういうフォローアップができる人達であれば食事も仏教の本に書いてあるわけですから。基礎的な学習というのをもっとつけるべきじゃないかと思います。
主 任 宗教学からいいますと、近代合理主義が進んでゆくと宗教から不合理な部分、因縁や祟りや障りなどのシャーマニズムやアニミズムなどの不合理なものは消えていくという理論があります。ところが現実に今の新宗教のほとんどはシャーマニズムやアニミズムに支えられた呪術性を持っております。祈祷はある、前世はある、来世はあると言って入信者が増えている。
ところが、いま我々が受けた教育というのは近代合理主義の教育ですから、この法則から理解すれば正しく答えが出るように枠組みが作ってある。ですから、あの世の話とか来世の話という答えの出ないことは迷信であるというように感じてしまう。でも現実に今はそれを求めている人達が多い。漢方医学にしてもいまはだいぶ医療制度の中で評価されておりますが、その漢方医学の理論の背景にあるのは陰陽五行説の気学です。漢方医学は全部の気学をベースにしてものを考えています。いま明治以降禁止されていた、迷信扱いされた漢方医学などが厚生省の保健医療の枠の中に入ったということは、合理主義からは不合理で迷信扱いされたものが評価されたということであり、また今まで迷信扱いされてきた宗教の呪術性も、私たちは憶することなく口にすべきことだと思います。
とくに漢方医学の基礎である陰陽五行説の気学は、天台の止観関係の書籍や、日蓮聖人のご遺文を理解するためには当然知っていなければならないこと、その当時の科学的知識として、そういった現実の知識はお坊さんの教育制度の中に入れていかなければいけないことです。その辺を踏まえながらもう少し、言いたいことを言い尽くしていただいて。
大 島 今影山主任のおっしゃった信行の徹底ということですけど、信行の徹底の前に未信徒の教化がないと。信行の徹底に行くまでの人を集めることがまず先決なのか。それにはやはり打ってでないと。
齊 藤 社会にもっといろんな形で打って出る、社会に向けて発信するということでしょう。私が特に思うのは、宗教教育というのが学校で全然なされていない。それは言うなればタブーの問題とされていると思うんです。もっと本当はそういう宗教教育、もしくはそれにならないまでも情操教育が根底にないと、宗教的なものに関われないんです。まず情操教育が子供の間にきちんと徹底していないと、仏様の優しさもわからない、仏様の厳しさはなおわからない。だからそういったことをもっと何とか女性の立場で何か突破口を開きたいなという気持ちがものすごく私自身の中にあるんです。
今、私自身も子供も育てていないし、未経験でこんなことをいうと僭越だと思うんですが、童話とか昔話を読み返してみて、この中に仏様の教えがあるということをもっとアピールしないといけないんじゃないか。童話の根底に流れているものは人間の持つ優しさといったものに気が付きなさいというお話がいっぱいあるんです。それはやはりお母さんの優しさで伝えられると思うし、女性の優しさで伝わりやすいと思うんです。
伊 藤 公立ではできないと思いますが、私立では結構宗教の時間を設けているところがあります。死についてとか、色々と宗教のことを教えています。教えると子供達も関心を持ってくれるし、意外と興味を持ってくれるようです。今までは教えないから興味も持たないし、関心も持たないのだと思います。女性だから出来る事のひとつに、子供を育てる事があります。齊藤上人さんがおっしゃったように子供達に仏様の教えを伝える、身近な事を通して小さい時から仏心を植え付け、育てていくということは女性教師や寺庭婦人が得意とするところですし、活躍できる分野ではないでしょうか。子供を育てると言う事は、お寺は世襲制でなく師資相承であると言っても、現実にはお寺を担っていくであろう後継者の育成と言う事にも繋がります。そういう意味では、寺庭婦人や女性教師は宗門にとっても重要な存在であると思います。これから女性教師や寺庭婦人がもっと色々な分野で活躍できるようになると宗門も今まで以上に活性化されるのではないでしょうか。
齊 藤 お寺で保育所とか保育園を持っているところがあるじゃないですか。そういったところは生かせるんですけど、普通の一般の寺院でもそういう社会的に働きかけることというのは大事じゃないかと思ったんです。私のきっかけになったのはジェイピックという出版関係がしている「読みきかせ講習会」を去年から全国各地でやり始めたんです。それの講習会に行ったんです。それまで私は自分の中の先入観で童話とかそういったものは子供に聞かせるものだと意識があったんです。でも自分が実際に行って感じたことはこれは子供のためだけのものじゃない、大人だって十分癒せると思ったんです。それが何故癒せるのかと考えていろんな本を読んだ時に、童話とか昔話の中に教えとしてあるのは仏様の心と一緒なんです。人間の優しさをいかに思い出すか、優しい気持ちをいかに持ち続けることができるかとか、人に対していかに優しくなれるかとか、そういったことを童話の中に説いているんです。そういったものをもっと皆さんに気付いてもらって、子供のための童話じゃない、大人自身も癒される必要もあるし、読んであげている本人自身もそれで癒されるんです。だから子供さんがいらっしゃる家庭ではそれを実行してみられるといろんなことが変わってくるのではないかと思いますし、それとそういう働きかけを保育園、保育所、もしくは学校に働きかけることをしたいというのが私の願いでもあるし、夢でもあるんです。だから、それをただ単に願いとか夢じゃなくて、実現していきたいと思います。
大 島 一人の力じゃなかなか大変だけど、横のつながりをもって地域ごとに。
齊 藤 そうすることによって、自然に仏様の教えをみんなに浸透させていくことができたら、いろんな事件が長い年月をかけてでもいいから、その活動を続けることによって、青少年の心が癒されてくるといろんな犯罪も少なくなるとそう思います。
高 橋 そういうふうにしないお母さんもいるわけです。
齊 藤 だからそういうお母さんにも働きかけていって、その自分の子供に読んであげましょうと話していくような、そればかりではありませんが、そういうような組織の必要性を感じます。
大 島 組織は必要ですね。
主 任 あまり大きなことは言えないんですが、宗門的には難しいことがあって、私は自分の枠組みの中でネットワークでつなげて動きをとりたいなというようなところもあるんです。それをしていかないと対社会的に全然進まないでしょう。
大 島 現場の人が実際動き出した方がいいでしょうね。
伊 藤 宗門に求めることも大事なのですけど、でも先ほどお聞きしましたらあまり期待できそうもないということなので、やはり私達が少しずつ小さな力でもいいから実践していくことじゃないでしょうか。今日このような話し合いの機会を得る事が出来たのですから、自分の地域に帰った時に周りの尼僧さん達にも話して協力してもらい、身近なところから少しずつ活動していく事が大切ではないかと思います。また、女性教師の中には私のように寺庭婦人だったかたもおりますし、現在寺庭婦人であり女性教師である方もおります。その方々は両方の面を経験している訳ですから、若い寺庭婦人の方々の相談相手になれると思います。これからは寺庭婦人会との繋がりも持ちながら、活動していく事も良いのではないでしょうか。そして活動が見えてきたら宗門の方でも動いてくれるのではないかと思います。
大 島 だから原則的にはこういうものをやっていこうという、絵本を読むとかいろいろあると思うんですけど、そういう具体的な中でいくつか自分達ができることですぐにできやすいことを地域の仲間と組んでまず動いていくことが大切なんじゃないかしら。そしてここに集まった人達が情報交換して、そしてだんだんネットワークでつながっていくと思うのね。大げさなものを考えていたら絶対できないと思うし、そうやらないと現場は動いてくれないと思います。
主 任 ここでだいぶ時間も過ぎてきておりますので、大島上人に総括として全体のお話しを頂いて、まだ言い残したことがある方には意を尽くしていただき、この方向で取りまとめたいと思いますので宜しくお願いします。
大 島 討議しておりまして改めて思うことは、一つには寺庭婦人の教育機関の必要性です。また、それと同時に寺庭婦人同士が心の悩みを話し合える横のつながりをもてる場の必要性。(現在の既成の寺庭婦人会のようなものでなく。)それから住職死後の寺庭婦人の立場の保護についても宗門で何らかの対策を立てて頂きたいということです。
やはり、寺庭婦人自身が、お寺を単に一つの職業としか考えてくれないような状態では、お寺も本当の意味での癒しの場には成り得ないし、内部崩壊を招く結果となっていくでしょう。寺庭婦人自身が正しい大聖人の教えを身につけお題目の意味、ありがたさを知ること等により深い信仰心に根ざしたお給仕ができ、檀信徒の教化もしていけるのだと思っております。そして本当にどこへも出られず、奮闘している寺庭婦人の横の連絡・情報交換の手段を何か考えて頂きたい。それによって、大変なのは自分だけではないという共感と励ましを得られると思います。
そして、伊藤上人の実例のように住職を失った後の寺庭婦人の人権がいかに無視されているのが現状であるか。それに対して、宗門で何か保護策を考えて頂きたいと思います。
二、現在の葬儀・法事中心で安住しているお寺の多い宗門の現実に対して、本来お寺に求められる癒しの機能が活性化するにはどうしたらよいかという事を真剣に考えていかなくてはいけないということです。
お題目総弘通運動とは、やはり未信徒に一人でも多く、お題目を唱える心になってもらわなくては本当の意味がないと思うのです。それには、今回討議されたように、女性教師が横の連携をとりながら、自分の周りの子供やその母親を対象に佛の優しさを説いていこうという草の根運動的な活動を展開していく必要があると痛切に感じます。
また布教の仕方は様々にあると思いますが、女性の特質である、母性を活かした優しさ柔らかさで、未信徒の人達の教化に当たっていくのが、これからの女性教師の使命のように思えてなりません。
私は、その意思確認と現状把握と連帯結果のために立教開宗七五〇年の正当にあたる平成十四年に、今回の十名の女性教師が発起人となって、全国の女性教師に呼びかけ、女性教師の大会を是非開きたいと考えております。組織に捕らわれず、個人の自由意志のもとに参加し、これからの未信徒への布教活動を誓い合い、また現状の活動を報告し合う連絡会議のようなものになっていったらよいと望んでおります。例え少数であっても実践していき、呼びかけていけば少しずつ輪が広がっていくのではないかと思うし、それこそが、大聖人がお題目を唱えられた心に叶うことではないかと考えます。
勿論、お寺において悩みを抱く人々の心を癒し、少しでも悩みを軽くしてあげる活動はとても大切なことです。おろそかにはできません。現存している寺院が門戸を開いて、悩める人々の心を癒していく場になっていくことは本当に大切なことだと考えております。
池 浦 いま拙寺では、実動出来るのが私だけです。全てが私の肩にかかっています。住職夫婦は殆ど動けず事務、外回り、対外的なもの掃除など外に人はいません。狭い見解だけで終わっています。
また影山上人の最後の「相手を責めるのではなく、今やれることを−」の言葉が心に残っています。有り難い言葉でした。そして、勉強不足を痛感した言葉でした。
多く語るとその中に問題が沢山はき出されることが判り、皆様と語り合うにはもっとレベルを上げなければ、自坊を守りながらでも、もっともっと外に眼を向け、勉強しなければと痛感した次第です。女性でなければ気のつかないこと、女性だから気のつくこと、あるかと思いますが、何のコメントも出来ないことをお許し下さい。
亀 井 お寺もこの社会の中にあるのだから、同じ人間なのだから、社会の、人間の様々な問題を持っていて、当然だと思う。まして末法なのだから、白法隠没・法滅尽の世なのだから。それでも、それだからこそ、私たちは頑張らねばならない。
なぜなら、私たちは法華経を知っているのだから。私たちが佛飯を頂いて、生かされているのは、それが為だから。一人でも多くの人に法華経を説き、仏の子であることを知らしめて、この世が仏国土となるのだという本仏と日蓮聖人の教えを実現せんが為だからです。しかし、その道は途方もなく大きく、何から手をつけたらよいのかわからない程ですが、心の芯にこの大理想が無ければ何もできはしない。そしてそれを強く持って、ずっと持ち続けること。あきらめないこと。やめないこと。お題目総弘通運動が終わりました云々という方がおりますが、それは何かおかしい。ずっとお題目総弘通運動ではないか。まず自分自身が、正しい心で、正しく見て、正しく思い、考え、努め、正しく話し正しい行動をとり正しく生きるという八正道を目指す。それを、日常の言動に於いて表すしかない。
顕正会のいう国立戒壇が、日蓮聖人の御遺命などと思わない。本当の本門の戒壇とはどこにあるのか、それは法華経を持つ人の内にあるのではないか。よく法華経を持つということだけがたった一つの戒ではないのだろうか。
=cd=b861永遠の未完成こそが完成』と宮沢賢治は言った。ならば、法華経による成仏国土を目指すことが、立正安国そのものではないのか。その夢・理想をもたなくては、生かされている意味がないように思えます。
そんなことは無理だと尻込みするのなら、お寺もお坊さんも寺庭婦人もさっさとやめてしまえばよいように思います。そしてもっとやる気のある人がやる。お寺の子であるかどうかということは関係ない。それが法器養成ではないか。真に法華経にめぐり会えた人は、もうずっと昔−お釈迦様のお説法当時、法華経を聴いて、私が末法に法華経を広めますと約束をしたのだから、それが誓願ではないのか。
女性教師・寺庭婦人の役割といっても、「中央教研会議」の時にも感じたことですが、男性も女性もないのではないのか。
御祖師様は如何なる状況にあっても常にプラス指向だった。正論を貫かれた。現代の混迷の世の中にこそ法華経が求められている。法華経・迹門の七喩に人生が表されている。『癒し』に留まらない、本物の、人として生きる意味・喜びがあるのではないのか。
山 田 とにかく今寺族が悩んでいるらしいこと、しかも厳しい現実にあることは、判りました。自分でも一種の精神病になった経験から抱えた問題が一人で解決できなくなったら、とても宗教活動どころではないだろうことが判ります。その為に相談できる人、場所があれば救われるかもしれないとも。しかし、実際そのような場所はどうつくればよいか。本当に同じ仕事の仲間の所へ相談するのか等疑問も多くあります。また、女性教師寺庭婦人会の全国組織等作ったり(寺庭婦人会は存在しているのでしたか?)というのもあまり積極的にはなれません。できるだけお上人方(男僧さん)とご一緒に考えていけるような会であればいいなと思っています。また現在寺庭婦人会には、女性の住職は(一般女性教師は?)会員になれない規則のようですが、これは、女性なり入れる会にしたいと思いますし、現在私は、入れてもらっています。
寺族は住職が遷化の後、寺を出なければならない等将来の不安についても考えなければならないことです。もちろんまだまだ沢山の課題がありますが、もっともっと時間をかけて、話し合いできそうなことから実践していきたいと思います。
齊 藤 これからも問い続けなければならない「女性教師の役割」なのですが、いろんな方とお会いして、話しをしたり活動内容を聞いたりして、お寺の法務のかたわら、地域住民の方と親しくなり、その中に交わっていけたらいいなと思っています。
また私のいる妙寿寺は割合に相談事が多く、信者さん方が頻繁に本堂に上がってきて勝手にお参りしていくこともある。住職に相談していくこともある。割合に檀信徒の方々とは密に接しております。これは檀家が少ないので、ゆっくりと相談にのってあげられるので理想に近い状態のような気がします。そういう良い面をしっかりと引き継いでいきたいと思っています。
それと、女性の持つ特性、母性は布教する上での重要なキーポイントになると思っています。それを活かすか、活かせないかは、個人個人の考え方次第で、その母性を最大限に活用する方法を考えることが大事だと思っています。
影 山 いま日蓮宗教師の約一割を占めている女性教師は、実際あまり活動の場を与えられずに、男性教師と違う動きをしています。なかには補教信行道場を出ても、普通の生活に戻ってしまう人もあるらしいと聞き、少し残念にも思います。
私のお寺では相談室を開設しておりますが、宗派を問わずいろいろな方がいらっしゃいます。その中で細かいところの相談や、お寺に通って来られる方の心配などは女性の方が気がつきやすく、話しやすい点では住職一人よりは、手伝いができて良かったと思っています。
このとき必要なことは、どんなに住職の手伝いでも外から来る人は、お寺の人に対して何らかの救いを求めていたり、お寺の人の安心を感じたりしに来ている訳ですから、一般の教養、これは僧侶としての教養だと思うのですが、気学や暦の見方、漢方などのこと、また諸事の作法などについて知っている必要があると思います。
今は大工さんもお寺に聞きに来ることは少なくなりましたが、家の水廻りの方位など昔からの言い伝えによるものは、そんなものは迷信だからと安易に考えてはいけないし、こういうもので体調をくずす人が結構いることを忘れてはならないし、そういう事を人々に伝えるためにも、私達がいるということを見直すべきだと思います。
また、今のお寺は檀家のみに門を開く形であって、一般の人が入っていけるのは拝観をしているお寺だけで、そんなところも何か尋ねるにはちょっと尋ねにくい。また宗教の話しや、心の悩みを口にするには、場違いな感じがするのではないでしょうか。
私達が葬儀法要だけをする僧侶ではなく、生きている人のための僧侶にならなくてはいけないと思います。そのためにも多くの体験をして、悩みを抱える人に安心を感じてもらえる、生きた布教をしていくようにするべきだと思います。
現代は、パソコンを通じたネットワークの時代です。お寺という安心の扉をもっと広い形で開いていくこと、そのためには人の話を聞く女性の相談者を各地で作ることが必要だと思います。
子育てで幼児を殺してしまう親や親を殺してしまう子、弱った者を何人かで殴り殺してしまう若者たちは、何にも思っていないのでしょうか。淋しかったり、むなしかったりしてもまわりが忙しく、まじめに生きることがバカげているように思ってしまうような、聞いてもらえない人が増えているように思います。
どのような形にするかは、今は具体的には思いつきませんが、夫の浮気や姑とのトラブルで子供を抱えて途方に暮れている女性も多くいます。そこで「そうだね」と言ってあげるだけで余裕ができるのなら、私達女性教師にはそれができるのではないかと思います。
相談を受けるためには、そのための知識や方法を知る必要があると思いますが、私達の仲間で学んでみる方向で始めてみてはどうかと思います。
※本稿は平成十三年二月十五日、東京都大田区池上本門寺朗子会館にて開催された第三五回教化学研究集会での討議を筆録したのもです。尚、影山主任は同年八月十日に退任されていますが、本会議の開催時は主任でしたので、そのまま明記しました。