現代宗教研究第36号 2002年03月 発行
教団研究セミナー インターネットの中の神々―二十一世紀の宗教空間―
教団研究セミナー
インターネットの中の神々
―二十一世紀の宗教空間―生駒孝彰
(龍谷大学教授)
只今、ご紹介いただきました生駒と申します。最初にお断りしておこうと思いますが、ご覧の通りの年令でありますから、実は機器に弱いんです。何故インターネットの中の神々という本を書いたかと申しますと、専門はアメリカの宗教、現代の日本宗教をやっておりまして、アメリカの宗教の情報を得る場合に、以前は現地に行って質問をして情報を集めていたんです。あるいは手紙を出してそして返ってきたのを元にして、論文を書いたり本を書いておりました。
ところが、たまたまある人がインターネットでそういう情報を集めた方がいいんじゃないかということを教えてくれました。それではということで始めましたところが、これが病み付きになってしまいまして、結果としてこういう本を書いたという次第であります。従いまして、後から質問の時間がとってありますけれども、あまり機器に関する質問はいただくと困りますので、これを最初にお断りしておきます。
今日は皆さん方にレジメを用意させていただきました。最初にしばらくの間、アメリカの宗教についてお話をして、そしてアメリカの宗教界がインターネットをどういうふうにして伝道に使っているかということをお話してみたいと考えております。恐らくそれの方が実際に日本におけるインターネット伝道の話をするよりも、皆さんのお役に立つのではなかろうかと思って最初に上げておきました。
最初にインターネット大国アメリカと書いておきましたが、実は今から十年ほど前の一九九〇年頃、インターネットというのはどちらかというと、かなり普及はしておりましたが、一般の人には近寄りがたい存在だったんです。ほとんど使われておりませんでした。大学であるとか研究所ではよく使われておりましたが、これを宗教界が使うというようなことはほとんど無かったんです。
ところがご承知の通り一九九三年、ワールドウェブが出てまいりました。インターネットのアドレスを見ますと、Wが三つ並んでおります。マウスをご存知ですか。あれを触るだけでいろんな情報が得られる。そして結果としてあれを触るだけで電話、ファックス、ラジオ、テレビ、あるいは新聞、雑誌、ありとあらゆることができるようになったのが一九九三年です。これは結果としてどういうことになったかというと、一対一で情報の交換、これは手紙の役割ですから、あるいはファックスや電話と同じように一対一の交信ができるんです。それと同時に一対数百、数千、数万ということが可能になったんです。これが一九九三年です。
そして次にヤフーというのが登場してきました。これは皆さんご存知ですね。これは検索のサービス会社の名前です。このヤフーを使うことによりまして、実に多くの情報が得られます。私はこのヤフーを主に使っております。他にいろいろありますけれども、ヤフーが最も一般的ですね。例えばインターネットのページが出てまいりまして、ヤフーのところを出します。そうして私は主に英文を使うんですが、英文で何か言葉を入れるわけです。そうしますと、たちどころに数百、場合によっては数千の情報が出てきます。
私は生命倫理と宗教という問題について関心を持っていますので、先週中絶という単語を入れました。これは英語でアボーションと言います。そうすると、アメリカの場合は大体数百から数千の情報が得られます。中でもアボーションと宗教という言葉を入れますと、宗教界が中絶をどう考えているかという情報は少なくとも数百は簡単に得られます。その中である特定の宗派がどう考えているかということを知ろうと思うと、例えばローマカトリックとアボーションというところをマウスでクリックしますと、たちどころに出てきます。これが英文のヤフーの状態です。
ところが残念なことに日本でもヤフーというのがあるんですが、中絶を入れて、同時に宗教を入れてもほとんど出てきません。出てくるのは、水子供養をしているお寺の名前だけです。生命倫理にとりまして人間の命はいつ始まるかというのは非常に大事なことなんです。ましてや中絶を認めるか認めないかということは、宗教にとって非常に大きな問題なんですが、水子供養をしているお寺のPRがせいぜい十ほど出てくる状態です。
従って日本の宗教界はインターネットを使った伝道というか、社会問題に対する対応は非常に遅れている感じがします。いずれにいたしまてもこのヤフーの登場によりまして、アメリカの宗教界はインターネットを大々的に取り上げました。これが一九九五年ですから六年前です。これが伝道の武器として取り入れられるようになったのは、比較的新しいんです。
もっとも、アメリカはインターネットを巡る環境が日本とかなり違います。どういうふうに違うかというと、数百ドル、日本円にしますと数万円ですね、数百ドルのパソコンでいろんな情報を得ることができるんです。日本はそういうのは無理でしょうか。最近は少し安くなりましたけど。それからインターネット網の場合、最近は少し安くなりましたが、依然として有料です。ところがアメリカは基本的には電話料金と同じような状態でずか、ほとんど無料です。極端な話、インターネットはどこでもアメリカでは使えるようになっています。例えば薬局の店先で使うことができるんです。ご承知の通りホームレスが非常にアメリカ多いんです。ホームレスが今晩の食事をどうにかして手に入れようと思うと、薬局の店先に行ってインターネットで検索しますと、今日はどこどこで無料のランチが食べられますよとか、無料の宿泊ができますよというのが出てくるんです。そこまで普及しているのがアメリカのインターネットの状態です。
その結果、パソコンの普及率は非常に高い。どれぐらいかいうと、九五年は全世帯の約三〇%がパソコンを使用しているんです。そして九九年、一昨年が大体六〇%になっています。そしてそれを使って、インターネットで検索をして情報を得たり、あるいはEメールで交換をする人達が一週間にどれぐらい使うかというと、平均で週に九時間使っているんです。もっとも昨年はこれが一時間ぐらい落ちてきたとされています。日本はまだここまでにはなっていませんが、場合によってはアメリカと同じようになると思うんです。
どうして落ちたか分かりますか。今まで週に九時間も使っていた。九時間も使っていたというのは珍しかったからです。面白いから、とにかくいろんな情報が得られますから、特にポルノの情報はすごいのが出てきますから。ところが次から次へと情報を得て、そしてメールで交換をしておりますと、最初一、二年はいいんですけど、だんだん飽きてくるんです。それだけならいいんですが、職場に行ったらどうですか。朝から晩まで向かい合っている。そしてマウスでクリック、家に帰ってまたするというのは嫌になってくるんです。その結果、昨年はこれが七時間から八時間に落ちてきた。むしろ他のことをやりたいという人が増えてきたんです。
それから次に必ずやってくるのが、携帯電話でインターネットを使えるようになる点です。
アメリカの宗教界が心配しているのは、あの電話器のような小さな機器を伝道にどれだけ活用できるか、ということです。そういう時代が間もなくやってくるだろうということを心配しております。これがインターネット大国アメリカの状態ということです。
それから次にアメリカの宗教界というのは一体どういうのかということを、ちょっと時間をかけてお話をさせていただきたいと思います。アメリカの宗教はいろんな特徴があります。アメリカ人の八五%から八八%ぐらいがキリスト教の信者です。そして最近増えてきたのがイスラム教です。
しかし、やはり主流派はキリスト教ですから、キリスト教を中心にお話を進めていこうと思います。キリスト教はいろんな特徴を持っております。その第一の特徴はエヴァンジェリカリズム、これは何かというと、伝道主義です。これは非常に強いですね。とにかく自分達の宗教が世界で最も素晴らしい、と考えています。日本の伝統宗教の場合はどうでしょうか。皆さん方は日蓮宗が最も素晴らしいとお考えだと思いますけど、アメリカの宗派意識というのは基本的に非常に強いです。自分の宗教は世界一だから、一人でも多くの人に伝えるのは宗教家としての義務だという意識、これがエヴァンジェリカリズムです。
これがやや行き過ぎなのが民主主義です。民主主義はアメリカのバックボーンでありまして、一人でも世界中の人に伝えていこうというのがアメリカの考え方ですから、これを伝えるために時々危ないことをする。これがアメリカの基本的な態度ですね。これは結局宗教界の考え方からきていると言えると思うんです。
自分の宗教が最高という意識が非常に強いので、当然のこととして伝道意欲が強い。とにかく一人でも多くの信者を作っていこうと。特に、アメリカはご承知の通り競争社会ですから、日本に対しまして自動車は何台にしろとかとよく言ってきますね。宗教界も同じです。どれだけ信者を作ったかということが、その宗派、あるいは牧師の価値になってくるわけです。これが伝道意欲ということです。
この伝道のためにはあらゆる手段を使っていくというのがアメリカのキリスト教の状態です。まず伝道の武器としてメディアを使うわけです。最初は文書伝道でした。十九世紀は文書伝道の全盛時代でありまして、例えば一八五〇年代アメリカでは雑誌が六百ぐらい刊行されたんです。その内なんと一八〇が宗教系の雑誌でした。これが十九世紀から二十世紀に入りましてもこの状態が続きました。活字による伝道が続きました。
次にやってまいりましたのはラジオ伝道です。特に一九二〇年代から一九四〇年代はラジオ伝道の全盛期でした。例えば、一九四三年アメリカのラジオ放送の二五%が宗教放送でした。中にはラジオ伝道師という人がおりまして、チャールス・ユグリという人ですが、この人の番組は毎回四千五百万人が聞いていたという状態です。ラジオ伝道は今でも盛んです。
ラジオ伝道の次に注目されたのが、テレビ伝道です。これが五十年代から八十年代の中頃、これは素晴らしい成果を上げました。日本ではテレビ伝道というのはほとんど無かったですね。無かったけれども、やはりテレビ伝道をやろうかということを考えられた教団はかなりあると思うんです。しかし、これは難しいと思いますね。テレビ伝道はお金がかかります。それとテレビ伝道でアメリカで成功したのは個人の伝道師です。個人の伝道師で魅力的な人がいなかったらいくらやっても駄目といわれています。これがアメリカではまだやっていますが、かなり下火になってきています。
そしてインターネット伝道の時代がやってきました。これについてはこれから触れていきます。私は右下の方にこういう資料を入れておきました。これは、一九九六年にワシンシトンDCにあります全米カトリック教会の本部に行ったのが縁で入手したものです。カトリック信者は全米で六千万人、一宗派として、最も信者数の多いのがカトリックです。アメリカはプロテスタントの国と言われておりますが、カトリックは六千万人も信者がいます。プロテスタントの中で一番信者が多いのが南バプテスト派という保守派のグループです。これが千六百万人ぐらい。
アメリカのカトリック教会もどんどん信者を増やしております。一番の理由は何だと思いますか。大体世界にカトリックの信者ははっきりしたところは分かりませんが、大体九億人ぐらいいます。信者数が多い理由は避妊・中絶を禁止しているからです。子供はどんどん生まれてきます。子供が生まれてきて、幼児期に洗礼をしますから、やはり子供の時からカトリック、そして七人、八人の子持ちです。当然信者は増えてきます。それともう一つは、カトリックの信者が一番多いのは中南米です。この中南米の人達はアメリカに移民として、どんどんやってきているんです。ヒスパニックと呼ばれています。彼らは元々カトリックですからアメリカにきてもカトリックで、その結果カトリックの信者が多いということになります。
このカトリックの本部に行き、伝道の武器と言いますか、メディアはどういうものを使っておりますかという質問をしましたのが一九九六年です。そうしますと、カトリックの本部の広報担当の司教さんが、「今全米的に調査をしている最中で、その報告が来年出るから出たら送ってあげましょう」と言ってくれたんです。調査では、代表的な教区の二百五十人の司教に質問状を送って、「これからの伝道のためにはどういうメディアが武器となるか」という質問をしたんです。その結果がこれです。
全米的な宗教テレビプログラムは伝道に効果があるかという質問に対して「ある」と答えた人は七一%、テレビ伝道の時代は終わったとされているのに、「ある」と言う。これはどうしてかというと、カトリックには二人の偉大なテレビ伝道師がいるからです。一人は一九五〇年代の人でフルトン・シーンという人です。最初のアメリカのテレビ伝道師と言われる人です。彼がブラウン管に登場するだけで何と町を走っている車の数が減ったというんです。みんな帰ってテレビを見て彼の話を聞いたようです。それから飲み屋に行っている人がお酒を飲んでいても、彼の姿がブラウン管に映りますと飲むのを止めたというほどだったようです。
もう一人は、マザー・アンジェリカという尼僧で、今活躍中です。現在でも数千万の人達が、しかも宗派を越えて見ているのがマザー・アンジェリカの番組です。いかにも優しい感じで、やや保守的な内容ですが、社会問題についてキリスト教の立場から解説をしています。
二人とも、個人の魅力なのです。個人の魅力が無かったらテレビ伝道は成功しないんです。日本でもたけしの番組とか、さんまだったら何でも見るという人が意外と多いですね。あれは個人の魅力で番組が作られていますね。テレビ伝道もそうなんです。
そういう意味におきましてカトリック教会は全米的な宗教プログラムというのは、この二人のことを考えて依然として効果があるとしています。しかもあまりお金がかかない。何故かというと、三十分の番組なんですが、二人の場合はブラウン管の中で語るだけです。お金は要らないんです。ところが個人の魅力で語るためにみんな聞きたいんです。こうでなければテレビ伝道は、なかなかうまくいかないということです。
さて、ラジオの伝道ですが、効果があるかと聞くと「ある」という人が多いんです。これはアメリカは日本と違い、ラジオ局が恐らく数千から数万はあるでしょう。日本のラジオ局は中に入りますと、恐らく仕事をしている人は少ないところで十数人から二十人はいるでしょう。アメリカのラジオ放送局は中に入っても誰もいないようなところがあるんです。朝から晩までただテープを流しているだけのラジオ局というのが意外と多いんです。そういうふうにしてラジオ局は簡単にできます。しかも車社会ですから車を運転しながら聞くとか、あるいは台所仕事をしながら聞くというので、依然としてラジオ伝道というのは効果があるとなっています。
次に活字です。新聞は伝道に効果があるか、「ある」と答えた人は少ないです。やはりアメリカの場合は日本とよく似ておりまして、文字離れがだんだん増えてきています。従って、かなりいいことを書いて活字として新聞、雑誌に出してもなかなか読んでくれなくなっているのです。
そしてコンピュータによる伝道が効果があるかというのは、これはまさにインターネット伝道ということです。これが六六年の調査ですから、まだ始まったばかりです。こういう状態がアメリカのエヴァンジェリカリズム、そしてメディアの利用による伝道という状態です。
なお次に一つ上げておきましたのが、社会における宗教ということです。これは個人のアイデンティティーと関係があります。大体において民族と宗教との関係というのは、かなりはっきりしています。最近はかなり崩れてきましたが、例えばあなたはどこの教会に行っていますかと聞くことで、その人のものの考え方、あるいは民族的なバックグラウンドというのが大体わかるんです。従って、自分のアイデンティティーとして宗教を考える人が意外と多いんです。
それと自分の宗教に対して誇りを持っています。これはアメリカ人の一つの特徴です。ところでイスラム教の人達はそれは更にはっきりしているようです。例えばAというイスラム教徒の人がおります。この人がどういう人かと言いますと、サウジの人です。メッカに住んでいます。教員にしましょうか。そして子供が五人います。この人が日本にやってまいります。あなたはどういう人ですかと質問をします。恐らくサウジアラビアからきました。その次にこの人のアイデンティティーとして何があげられるかというとイスラム教徒である。という点です。
日本はどうですか、例えば私は京都からまいりました。銀行に勤めております、子供が五人おります。そして浄土真宗の家に生まれました。この人が東京にやって来まして、私は浄土真宗です、と口から出ることはほとんどありません。イスラム教徒ほどではないものの、アメリカ人は大体において自分の宗教に対して誇りを持っています。
次に宗教家の社会的地位ですが、日本と違いまして、宗教家に対する期待は非常に大きいです。また常に宗教家が注目されています。アメリカでは、いろいろな調査機関がほとんど毎年あなたが最も尊敬する人、あるいは機関はどういうものですかという調査をします。その時に必ず一位から三位の間に教会が出てきます。これは日本では残念ながらこういうことはありません。それから必ず宗教家の名前が一位から三位の中に入ってくるんです。
それから一つのコミュニティの中で、例えばPTAの会合がありますね。その時に必ず聖職者が呼ばれるんです。子供がいなくても呼ばれる。何故かというと、PTAの集まりというのは地域社会にとって非常に大事ですから、その大切な会合に宗教家の声を聞きたい。これも日本には無いですね。
ただ、こういう社会ですから宗教家に対する目というのは非常に厳しい。期待されているのと同時に厳しい。ちょっと脱線しますが、例えばアメリカには信者数が十万人以上の教会が六十ぐらいあるんです。その六十の教会の中で駐在の牧師がどうして決められるかということを説明しましょう。本部から直接教会に送る宗派もあります。しかし、たった三つしかないのです。残りの宗派はどうするかというと、例えばここにある教会があります。この教会が駐在牧師がいないということになりますと、信者の人達が集まって、駐在牧師選考委員会というのを作るんです。そして公募をします。自分の宗派の新聞を使ったり、あるいはクリスチャン・センチュリーとかクリスチャンテー・トゥディーという宗教系の雑誌、新聞に公募します。○○教会の駐在の牧師を募集しております。条件はこうです。最初に来るのは年俸です。いくら出します。住宅を提供します、いろんな条件を出して公募します。
そして、公募した結果、希望者がたくさんありますと、例えば五十人ぐらいおりますと、まず履歴書と書類で十人ぐらいに絞るんです。そして残りの十人を面接で決めていきます。そして三人に絞ります。そしてその三人を三日かけて調査します。一日ごとに一人の牧師を呼んで説教させるんです。それで信者が採点をして、一番得点がいいものが選ばれるのです。こういうことをやるんです。
だから、駐在牧師の選び方という本がたくさん出ております。年俸がよくて、牧師に対する住宅であるとか、あるいは伝統がある教会には希望者が殺到します。
人気のない牧師はどういうのだと思いますか。まず女性の牧師です。アメリカは男女平等とお考えでしょうけど、女性の牧師は差別を受けています。それとこれは日本ではちょっと考えられませんが、同性愛の牧師なんです。大体アメリカは同性愛の比率が一〇%と、同性愛だということを発表しなかったら後でわかると大変なことになります。それから離婚をした牧師です。
実は、女性の牧師への対応が非常に難しくなっています。何故かというと、有名な神学校でのマスターコースの学生はほとんど女性なんです。男の方が入れないのです。女性が有名な神学校のマスターコースに行く。そして卒業して駐在牧師になろうと思ったら難しいんです。
とにかく選びます。選びますと、先ほど言いましたような年俸、日本円にしますと例えば、最初の年は六百万円、一年間経ちますと七百万円に上げるとしましょう。ところが七百万円に上げる時に再び選考委員会が出てきまして、一年間どれだけの仕事をしたか全部チェックをします。六十点以上だと上げる。それよりも悪いと上げない、といった具合です。どういう基準で決めるかというと、新しい信者を何人連れたきたというのが一番のポイントです。
それともう一つは一年間の日曜日毎のお説教の内容でチェックするんです。従いまして、キリスト教の牧師は、特にアメリカの場合は日曜日毎にお説教をします。これにかなりの神経を使うようです。下手なお説教をしますと次の年の年俸に影響が出てくるのです。
それと新しい人を連れてくるためにどうするかというと、とにかく信者に対してのサービスは徹底しています。私はアメリカに行くと日曜日に教会に行くんです。日本と一番大きな違いは牧師がお説教をして終わりますと、一番最初に牧師が出口に走っていきます。そして信者の総代さんと二人で並んで、出てくる人一人ひとりと握手するのです。それで例えばいつもおじいちゃんとおばあちゃんがお参りしていて、たまたまおばあちゃんがその日に来ていないと、「おばあちゃんはどうしましたか」「実は腰を痛めて入院しています」というと、その日の内に病院へ見舞いに行きます。徹底してそういうことをやります。そんな活動を全部記録しておいて委員会に提出します。これだけの仕事をしたら六百万円を七百万円にしようかとなるわけです。
これを私は本に書きました。ところがそれに興味を持ったのは日本では新宗教の人達ばかりです。これは伝統宗教に属する私としてはちょっと淋しいのです。こういうことを参考にして欲しいなという気がします。
それから社会問題に対する対応の仕方、これは実はアメリカのキリスト教会は大体において十八世紀から十九世紀中頃にかけまして、近代思想との対決をしてきています。中でも啓蒙思想と進化論です。これに対して宗派がどういう考え方をするかということを、ずっと二百年から三百年。最初はどういう態度をとっていたかというと、神の真理と世俗の真理、神の真理の方が上に行くと考えた。それがだんだんと神の真理と世俗の真理は別なんだというふうに変わってきたのです。
ところが十九世紀に進化論が出て、そして啓蒙思想が出てきた時にキリスト教会は対応ができない問題が三つ出てきた。それは、イエス・キリストの十字架上の死ということです。一度死んだ人が再び復活してきた。これは一般の科学では説明ができない。それからマリアさんの処女懐胎も説明がつかない。それからもう一つは、イエスキリストが病人を癒したという話が新約聖書の中に百五十も出てくる。この三つがどうしても説明できなくなってきた。
最初の二つはご承知の通りキリスト教の根本です。各宗派が回答を出してきた。ところがイエスの病気の癒しというのは教義と直接関係ないのです。その結果、完全に近代医療を認めるという態度をとった。ローマ法王がいつ人間が死ぬかということは医者が決めるべきだという発表をしたのですが、それを象徴するものといえます。その結果、キリスト教は明らかに脳死による臓器移植に賛成する。ただし、日本のキリスト教会は違うのです。ちなみに臓器移植に対してかなり批判的というか、マイナスの意見を持っている宗教界の人達は世界中で日本だけです。他の国はほとんど脳死による臓器移植を認めています。何故認めるかというと、はっきり申しますと、キリスト教はイエスの病気の癒しという考え方を説明できなくなった。結局、厳しい表現かも知れませんが、近代医療に対して負けてしまったのです。いずれにいたしましても、百数十年から二百年以上にかけまして、この社会問題、近代思想との対決をずっとしてきたのがアメリカ、あるいはヨーロッパのキリスト教会なんです。こういう状態です。
その中で、全ての宗派がそういうわけではなくて、大体プロテスタントの場合は二つに分けることができます。キリスト教はいずれも聖書を元にして、モルモン教やクリスチャンサイエンスの場合は少し違いますけど、ほとんどの宗派が新約と旧約を元にして教義を説いている。自由主義派の連中は何を説くかというと、聖書は人間が書いたものだと言います。従って、時代と場所によって少々解釈が違ってもおかしくないという考え方です。彼らは、教会の使命は、信仰と社会問題に対する考え方は同じぐらい大切だとしています。保守派は教会にとって最も大切なものは信仰だと。そして聖書は神の言葉を書いたものであるから、勝手に解釈をしてはならないということが基本です。
ここらの吟味はどうですか。日本の伝統宗教、皆さん方はどうですか。日蓮聖人がお書きになったものは絶対なのか、あるいは数百年の時代が経っているので、これをある程度近代思想を加えながら解釈してもいいのかどうか。実はあるところでこの話をいたしましたところ、ある日蓮宗の新宗教の方がその教団では近代思想を加えながら考えるようになっている、と言っておりました。例えば生命倫理に対していろいろな経典、あるいは日蓮聖人がお書きになったものだけでは回答が出てこない。従って、近代的な現代の思想を加えながら説明をしていくべきだということを言われました。この現代思想の対決、過去の経典をどれだけ入れていくかというのは一つの大きな課題です。
浄土真宗の場合はいつのまにか変えたことがあるんです。それは、女人成仏です。一九八〇年代の前半までは女の方が亡くなった時にお葬式に和讃を読みます、その時に男にして浄土に送るという和讃が普通でした。ところが、女性差別の問題が議論されてから、この和讃を使わないようになりました。これは親鸞聖人もそれから蓮如上人もちゃんと和讃の中に書いていることなんです。これをきちんと対決をしないで都合悪いから削っておこうということでこの和讃は使わない。それから法名の中に女性の場合、それまで使っていた「尼」の文字についてはあいまいになっています。どうしても使いたかったら使ってもいいとなっています。近代思想と対決をしないでそのまま妥協してしまったのです。
しかし、私は臓器移植に反対するというのは非常に結構だと思う。反対をすることによって近代思想と仏教との対決をすることができるからです。ただ、近代思想に対して明治以降、日本の伝統宗教は何をしていたかというと、これは実際はしばしば指摘されますが、伝統宗教、特に仏教がこういうことをよく言いました。仏教は科学、あるいは合理的な精神と相反するものではなくて極めて科学的な教えを説いていると。皆さん方、そうおっしゃいませんか。意外とこう言う人が多いんです。ところが、実際はどうでしょうか。科学で説明することが不可能な教えが多い筈です。いずれにせよ、近代思想との対決となると、仏教というものは極めて科学的なものだということをずっと明治以降やってきた。これが今、大きな壁に直面している。従って、臓器移植問題に対して悩むだけ悩んだ方がいいんです。
アメリカ宗教界が対応に苦慮しているのが尊厳死と安楽死です。これは日本に間違いなくやってきます。五年あるいは十年後には安楽死に対して宗教界がどういう態度をとるか、大きな問題として皆さん方の課題になってくるでしょう。安楽死はご承知の通りアメリカはオレゴン州が認めております。そして今年、オランダが正式に認めました。一昨年、私はオランダに行ってオランダの教会の人達と話をしてきました。難しい問題でどう答えていいかわかりません、と言っていました。
安楽死というのはご承知の通り、もう長いことない、少なくとも六ヶ月以内で必ず浄土に行ってしまうということがはっきりしておりましたら、お医者さんに頼んで毒薬を用意してもらってそれを打って死んでいく。今の医学というのはほとんど人間としての尊厳がなくなっても、長い間生きられるようになってきた。これを認めるべきか。特に日本の場合は医療費が年間約三十兆円かかっているんです。そして大体二兆円ずつ赤字なんです。十年で二十兆円。誰が払うんです。皆さんのお子さん、お孫さんが払うのです。これはあまりにもひどいということで、当然のこととして尊厳死、安楽死の問題が出てくるでしょう。いずれにいたしましても、宗教界が社会問題に対してはじめて、脳死による臓器移植で対決を迫られたという状態なんです。
ところがアメリカの場合は、必ずホームページを開いて社会問題のところを見ますと出てくるのが中絶の問題、それから死刑に対する問題、それから環境問題です。それから民族・人種問題、それからセックス、それから暴力です。戦争、貧困、ホームレスということに対して、宗派の考え方をきちんと出していないと信用がない。これがホームページの中に出てきます。
さて、インターネット時代のアメリカ宗教というのは想像を越えたものです。とにかく素晴らしいホームページを持っています。そしてマウスでクリックしますと、いろんな情報が出てきます。驚くべきものです。そして社会問題だけ絞りますと、例えば、何か問題が発生します。そして○○教会、○○宗派のホームページを見ますと、必ず何人かの人が出てきて私達が答えますと顔写真が出てくるんです。その人に質問をします。ところがなかなか回答が得られない時には、○○教会の誰々さんのところに連絡をとってくださいとちゃんと指示が出てきます。それでも得られなかったら、今度はどこどこにとなっています。これは宗派の壁を越えている場合もあるんです。日蓮宗の池上本門寺に質問をした。これはどうも我々で対応できないという時には曹洞宗のホームページを見てくださいとなってくるんです。それが日本ではできるかどうか。
そしてアメリカの場合は、必ずどこの宗派でも社会問題検討委員会というのがあって、その人達が常にいろんな問題が出てきますと対応して考えていこうとしているんです。これが一般の人も一緒に出てやっています。ほとんどボランティアです。これができないですね、日本では。私は浄土真宗の本願寺派ですが、本願寺で社会問題に対する対応の仕方のためにそういう委員会を作ろうと、特に寺院出身で僧侶でなくて一般の社会でいろんな仕事をしている人を巻き込んで委員会を作ろうという提案をしているんですけど、五年前にしましたが、まだ実現しません。いろんな分野で活躍している人がいるんですが、お寺で育った人達でもしませんよ。ましてや一般の人達はなかなか入ってくれない。これができないと、やはり社会問題に対する対応は難しい。
ところが新宗教の場合、やはりこういうことを考えています。例えば、天理教の場合は大和文化会議というのを持っています。月に数回、お医者さんとか弁護士とかいろんな職業の人が集まって、社会問題が発生しますと、どういうふうに天理教は考えていったらいいかということを検討する委員会です。なかなか活躍しています。伝統宗教はなかなかうまくいかない。
それから金光教は元々そういうようなところからスタートしています。ご承知だと思いますが、金光教は岡山に本部がありまして金光大神という方がはじめられたんですけれども、あの宗教というのは基本的には方位、方角、迷信というものを否定したところから始まっているんです。従って、伝統的な迷信、あるいはどちらかというと、ややおかしな考え方を否定するというところから始まっていますので、金光教の考え方というのはかなりユニークで、社会問題が発生するとすぐ対応します。この金光教は東京はあまりありませんか。関西は多いです。大阪には二つの金光高校があります。あるいは赤穂市に関西福祉大学という大学を持っています。金光教は神様と信者との間に先生が入りまして、カウンセリングをしていくというのが金光教の基本的な教えです。カウンセリングは広前というところでやるんですが、この広前のサイズが、四間に二間と決まっています。これは何かというと、江戸時代に最も嫌われたサイズです。死に間、これにあえてチャレンジしたのが金光教です。そういう伝統がありまして、社会問題に対してどういう態度をとっていったらいいかというようなことを熱心にやっております。
ところが伝統宗教の場合は船頭さんはたくさんいるんですけど、なかなかうまくいかない。インターネット時代になりますとそこが勝負です。これがきちんと押えていることができなければ、インターネット伝道というのは非常に難しいと思います。
それでは次に、伝統仏教教団のインターネットの導入について少し触れていこうと思うんですが、インターネット時代の日本の宗教、その重要性はみんな知っているんです。ところが導入にややためらっているというのが現状です。一応スタートしたところが多い。何故ためらっているかというと、一つには教団のリーダー、宗派のリーダーというのは私のように年令がいっておりまして機械に弱い。それから若者の信者が少ないということです。それから若者が少ないこともあって教団を支えているのは高齢者です。日本のお金はほとんど高齢者が持っています。数ヶ月前に新聞に出ておりましたけど、六十五才を過ぎた方が死ぬ時にどのぐらい残しているかというと平均千五百万円、土地不動産を入れると四千万円だそうです。こういうお金持ちが教団を支えている。従って大きな法要、あるいはお寺の改築等、伝統宗教は意外とスムーズにできるんです。こういう人達はほとんどインターネットを使っておりません。従って大切であるけれどももう少し待とうかというのが伝統宗教です。それから寺院を支えているのは誰かというと、間違いなくこういう古くからいる人達です。従いまして、地域社会の人達はインターネットを使わなくてもそこへ行ったら会うことができます。わざわざ使う必要はなかろうというのが現状です。
しかしながら、時代の流れ、潮流に合わせて使おうかとなっています。特に比較的若い僧侶の方は導入に熱心です。導入の現状につきまして浄土真宗本願寺派はどういう状態かというと、ウェブサイド、要するにインターネットを伝道の武器として取り入れているお寺は二百か寺ぐらいしかないんです。もっとも最近は増えているかも知れませんが。どういうものが見られるかというと、ほとんどが寺院の紹介、宗派の紹介、行事の紹介、それから中には法話がある場合もあります。極めて一方通行、紙芝居的な内容です。そして中にメールのアドレスが出てこないのがかなりあります。要するに流しっ放しという状態です。それからEメール、あるいは掲示板というものを持っているのは極めて少ないです。このインターネット伝道の一番の命はEメールですから、いろんな質問に対して答えていく。そしてディスカッションをしていく。こういうことはやりたくないと。そしてEメールで質問がきましても大体教条的な決まりきった返事しか得られないというのが現状です。
それから浄土真宗の場合も他の宗派も大体同じですけれども、明らかに身内向け、それから外部向けとはっきりしているんです。身内向けというのは、教団本部のメッセージが教区に伝わって、お寺に伝わって、そして信者に伝わる。これをたまたまインターネットで連絡ができるようになっていると。これは手紙とファックスとほとんど変わらないんです。わざわざインターネットを使わなくてもいいのにと思うんだけど。
ところが、外国の宗教の場合は身内向けが非常に大きな効果を発揮している。身内向けで効果を発揮するというのは外国伝道の場合です。バチカンはその典型的な例です。先ほど申しましたように、世界中にカトリックの信者がいます。バチカンのローマ法王は地上におけるイエス・キリストの代理人です。従って信者にとりまして、ローマ法王の毎日の生活、どういう発言をしたか、どういう姿かが非常に気になる。以前ですとテレビでもなかなか難しい。ところがインターネットになりまして、どこの国の信者でもたちどろこにローマ法王のお姿を拝むことができるようになってきた。これに対応するためにバチカンには巨大なコンピュータを三台導入しまして、それで世界中に情報を流している。そして世界的な問題が起きますと、ローマ法王がどういう発言をされたかということも、たちどころにインターネットで検索して言葉を知ることができます。また、アメリカの教団の例ですと、例えば韓国で伝道している場合には、本部の指令がたちどころに韓国にいくようになっている。こういう使い方はインターネット伝道の力として発揮されるでしょう。これがまず最初に考えておくべきことです。
さて次に外部向けの発信ですが、いろいろと問題があります。まず、誰が見ているかという場合に、他宗派の人が見ている可能性も多いわけです。それから他宗教の人。クリスチャンが日蓮宗のホームページを見ているかも知れませんし、批判的な人が見ているかも知れない。もう一つはホームページで日蓮宗と出しても、見ている人は本山からのものか、あるいは一つのお寺のものか、あるいは個人が日蓮宗に興味を持ってその人が出しているかどうか区別ができないでしょう。それから見ている方があまり面白くない、自分の気に入らない場合は、他の宗派のものに変えてしまう可能性がある。これをどうするか。これをネットサーフィンといいます。こういう問題が外部向けの場合にはあるのです。
それからもう一つ次に上げておきましたが、インターネット情報で特に宗教の場合に気をつけなければいけないのは、基本的な情報ですね。これは本山の情報であろうと教義であろうと、今までですと教団の地方の宗務所へ、次に各寺院、それから信者の方、という具合で伝えられてきました。ところがインターネットの場合はこれが三つに分かれるんです。
まず、好意的な日蓮宗大好きという情報が流れてくる。誰が作っているかわからないです。それから次に日蓮宗の方はよくご存知だと思いますが、新しい宗教で、日蓮宗の新宗教の情報が出てきます。一般の方には非常に好意的な情報が流れても果たして伝統教団の日蓮宗なのか、あるいは新宗教のものなのか分からないということになります。それから、否定的な情報です。特に新宗教の場合はあの教団はけしからんとか、ここが間違っているといったものが意外と多いのです。こういうふうにインターネット伝道におきましては、この三つが常に日蓮という名前で検索をすると出てくる可能性がある。これにやはり気を付けなければいけないでしょう。これが情報の特殊性です。今までは気を付けていればよかったのが、こういうふうにいろんな情報が出てくるということがインターネットの特殊性です。
それから次にインターネットを伝道に使う場合、他でも同じですが、検討すべき点がいくつかあります。インターネットの場合は誰がイニシアチブを持っているかというと受信者です。マウスを持って検索している者が、どういう気持ちでやっているかを考えないと駄目なんです。従いましてお寺にお参りをされる方と明らかに違うのです。それからかなりこちらは真剣な気持ちで情報を流します。ところが受け取る方はどう受け取っているか読めないんです。お寺でお説教をする場合、あるいは家庭で法話会等でお話をする場合、大体相手の顔を見ておりますとわかります。あるいはお寺にお参りをする場合などもお説教を聴きたいからやってくる。ところがインターネットの場合はこれが全く読めない。こういう難しさがあります。そしてあまり重い内容だと敬遠されてしまう。そうかといってあまり軽い内容ですと薄っぺらな内容になってくる。ここらが非常に難しいんです。それと見る方は検索する場合、常に新しい情報を欲しがる傾向があります。従いまして、二ヶ月前に見た時と今度見た時と同じ内容では駄目です。同じならば他のものを見た方が面白いとなるんです。ここらが難しいかなという気がします。
ではということで、誰が見てもいいように納得させるためには何が必要かというと、テレビ伝道と同じでお金がかかるんです。それと人材、情報を流す人がいなければ難しい。従いましてそう簡単にはいきません。そういう人を育てていかない限り、これは伝道の武器としてなかなか難しいということなのです。
それともう一つ、伝統宗教にとっては一番頭の痛い横のつながりです。例えば何かの質問や問い合わせがあって、一つのお寺で対応しきれなければ、ここのお寺に連絡をして下さい、ということが果たしてどれだけできるか。これができなければかなり苦戦します。ところが伝統宗教の場合はなかなか難しいのです。例えば信者の家族が京都から東京へ引っ越したら東京のお寺を紹介したらいいのに、わざわざ京都から住職を呼んで法事をしてもらう。葬式をしてもらう。これが伝統の宗教の場合多いです。東京に行っても自分の檀家だという意識。この意識を捨てない限りインターネット伝道はなかなか難しいです。その点、新宗教は横のつながりが強いです。この辺りをどうするかという問題が出てきます。
それから次に上げましたのは聖性、「聖」なるもの。これをどうやって表すかということです。インターネットのホームページでこれを出すのは非常に難しい。私はアメリカの禅宗のホームページをかなり見ています。なかなかよくできているんですけど、真っ黒いページが出てきてそこに赤が出てくる。それが回るんです。これが禅だとか、しかしどう見てもオカルトっぽいです。また、見ている方は寝ながら見ているかも知れない。あるいはお菓子を食べながら見ているかも知れない。実際「聖」なるものをインターネットで出すというのはなかなか難しい。しかし意外と若者はオカルト的なものが好きかも知れませんね。従いまして、若者の心理状態まで研究しないと「聖」なるものを出すというのは難しいと思います。
それから宗教にとって大切なものは規律であるとか修養、あるいは儀式ですね。これをインターネットで果たしてどの程度出すことができるかという問題も当然出てきます。
それから宗教にとりまして、非常に大切なのが仲間との交流です。これをインターネットで出すのは非常に難しいですね。例えばご承知のように、創価学会や立正佼成会は非常に仲間意識が強いです。創価学会の場合は座談会で結束します。立正佼成会の場合は法座で、こういうようなものをインターネットで果たしてどの程度出すことができるか。インターネットは確かに世界中の人と交流ができます。どこの国の人とも交流ができるけれども、場合によりましては隣の人とも交流ができないんです。あるいは一つのお寺、あるいは教団、あるいは教会の信者同士の交流が不可能になって、ますます疎遠になってくる。これをどうやって対応していくかという問題が出てきます。
もし交流ができまして、インターネットによって信者を作ることができます。その人たちに対してどう対応していくか。例えインターネットによって新しい信者を作ることができましても、古くからの信者の人達とどうお付き合いをさせていくかは非常に難しいです。古くからの信者の方はどうしても自分達がお寺を支えているという意識が強いです。東京近辺はどうかわかりませんが、私は大阪、兵庫に住職の研修会によく行きます。信徒になっている方、信者の方はほとんど古くからの人ばかりです。新しい方が新しい団地ができて入ってきてもなかなか来ない。どうしてかわかりますか。古くからの人が嫌うからです。日本のコミュニティというのは大体そういう傾向があります。こういう気持ちではインターネットによる信者を育成するというのはなかなか難しいと思います。
私は実は、最終の学校がモルモン教の本山がありますユタ州ソルトレイクというところで卒業した。家族でユタ州に住みました。その折、新しいマンションに移りました時に、その日の内に人がやってきました。最初、ユタ州ですが、他のプロテスタントの教会の牧師がやってきました。そして、新しいコミュニティにようこそと、いろんなことを教えてくれました。何曜日はどこのガソリンスタンドはガソリンが安いとか、あそこへ行ったらこういうことができるよとか。そうこうしている内に今度はモルモン教会の婦人会の連中が三人、自分達でクッキーを焼いてもってきて、お子さんがいたらどこどこへ遊びに連れて行ったらいいですよとか、そういうことを親切に教えてくれるんです。とにかく新しい人がやってきたら、自分達のコミュニティにようこそという意識を持っています。
ところが、五、六年まで私は滋賀県の大津におりまして、今京都におります。京都に移ってきた時に人が来るどころか、こっちからご挨拶に行かないと駄目なんです。新宗教の人達です。東京はどうですか、隣近所に挨拶に行きますか。ところが向こうからやってきた人がいるのです。私は浄土真宗の僧侶ですと言ったら帰りましたけど。近くに大谷派のお寺と本願寺のお寺がありますが誰も来ない。特にお寺の住職が行く必要はない筈です。先ほど申しましたように、モルモン教会の婦人会の人のように自分達でちょっとしたクッキーでも焼いて持ってくるようなことで結構なんです。新しい人が来たら、お寺に来てくれなくても顔つなぎをしておくことが大切です。これは日本の伝統宗教はほとんどやっていないです。
婦人会の人達というのは意外と時間があるし、お願いしたらやってくれるかも知れませんね。しかし、新しい方がやってきてお寺を守り立ててくれるんだという意識がなければだめなんです。従いまして、インターネットによる信者ができても、うまい具合に古くからの信者の方とお付き合いができなければ却って、住職はあんなことばかりやっていると言われてしまいます。僧侶も信者の方も意識の改革をしなければ意味がない。
特にインターネットで信者になられた方はお金を出さないでしょう。お寺の庫裏を直しますから寄付をお願いしますと言っても。寄付を出さなかったらどうですか、古くからの方は。だから、そんな信者はいらない、と言いませんか。従いまして、そういう面でも変えていかないと難しい。
しかし時代が時代ですから、インターネットを伝道に使ってみようとする人がやはり増えていく。その時に何か目的意識がないとなかなか難しいと思うんです。例えば自分の周りの人達だけの問題ではなくて、いろんな人と交流ができますか。例えば、環境問題を一緒に考えてみませんかということ。それから引退後の生活というものをお互い話し合いをしませんかということを。宗教とは直接関係なくても何かテーマを決めて発信をしていくんです。それに対して返事があったら、自然と大きな環ができてきます。それによって近くの人に近づいていって、私はこういうことをやっているんですよということが、ある意味において伝道のきっかけになります。その時にまた出てくるのが横のつながりです。お寺同士のつながり、一人ではとても対応し切れなくなってきます。お互い同士、横のつながりをきちんとしていかないと、インターネット伝道はなかなか難しい。
それから次にインターネットの生命は何かというと、即時性、直ちにということです。直ちに質問をしたら直ちに返事を出さないといけないというのがインターネットの生命です。従いまして、何か社会問題が起き、あるいは教義的な問題が出てきます。その時に直ちに答えないと駄目なんです。何かの問題が出てきた時に時間をかけて答えるということをやっていたのでは、これだったら他の宗教や宗派のホームページを見た方がいいとなってしまう。しばらくお待ちくださいでは逃げられてしまいます。
ところが、例えば浄土真宗の場合は何か問題が起きますと、まずご本山にお伺いを立てます。そうしますと、ご本山が何々部というところにもっていきます。そしてそこで何回か会議をいたします。そしてある程度方針が出ますと、宗会議員の集会で話す。そしてそこで結論が出ますと今度は宗派の総長のところに行く。そして最後にご門主、そして一般の寺院に下りる。一年ぐらいかかります。これではやはり対応ができません。直ちに返事を出さないと他の方がいいとなってしまいます。
それから次に情報の特殊性、これは先ほど申しました。一つは、とにかく日蓮聖人大好き、しかし創価学会、霊友会、あるいは個人でもって日蓮聖人が好きな方はわからない。とにかくいろんなものが出てきます。それに対して反対に日蓮聖人大嫌い、法華経なんかどうでもいい。そんなページも出てくる可能性があります。ところが見る方は面白い方にどうしても行ってしまうんです。従って正統派の日蓮聖人の情報伝達がなかなか機能しないというふうになってくる。そうなりますと、本山、本部のコントロールもなかなか難しくなってくるんです。
それから宗派の基本的な教義、あるいは方針というものが勝手に変えられてしまうという危険性があります。南無妙法蓮華経というのはこういうふうに解釈をして下さいと本山から情報を流しても、面白い方にいってしまうという危険性もあります。
それからお金の動きの具合がみんな出てくる。伝統宗教にとっても、ちょっと頭の痛い問題ですけど、法事のご法礼がいくらとか、あるいは戒名の値段がいくらとか、そしてお葬式の時にはどれぐらいかかるかとか、そういうのが出てくるんです。教団の悪口も当然出てきます。
それから次に宗派・宗教のヘイです。これは明らかに低くなります。これは間違いないです。簡単に他の宗派、あるいは宗教の情報が得られますから、例えば、今まで日蓮宗のことしか知らなかったという信者の方でも簡単に浄土真宗やキリスト教の考えが得られます。そして場合によっては、今まで熱心な信者の方が新宗教の○○教の方が面白そうだというのでそちらへ行ってしまう可能性があります。その点をどうするかということです。アメリカの場合はユダヤ教徒がイステム教徒になるのがかなり多いんです。特に社会問題に対する対応を誤ると他に行ってしまう例が多いようです。
最後に超神学の可能性というのが出てきました。これは、特に社会問題について検索をしていきます。そうすると、キリスト教ではこう考える、イスラム教ではこう考える、仏教ではこう考える、あるいは政治家の考え方はこうだ、経済的にはこう考える、医学はこう考える、これら全てを一緒にした超神学というのが既にアメリカに出ております。日本では出てこないかも知れませんけど、生命倫理に関してはこういったものが出てくる可能性があると思われます。
最後になりますが、Eメールへの対応、これはEメールがきますと、やはり返事を書かないといけない。これはなかなか苦痛です。簡単なことだったらいいんですけど、難しい問題がきた場合に対応がなかなかできません。浄土真宗の場合は大体において副住職、若い僧侶の方がEメール対応をしています。はっきり申しますと時間的余裕のある方です。兼業でお寺をやっておられる方にとりましては、家に帰ってEメールを開けてみると、たくさんきているとぞっとするそうです。やはりかなり真剣に答えていくと二時間ぐらいかかる。毎日毎日二時間の対応は苦痛だということなんです。その時に生きてくるのが先ほど申しました横に連絡がつくかどうかです。お互いに協力し合うことができるかどうかということが一つの解決になるでしょう。
Eメールの数は一寸想像ができません。例えば、イギリスのポールハリソンという人が九五年に自然崇拝多神教のホームページを開いたんです。そしてEメールで質問をしてくる人は恐らく一日に五人ぐらいだろうと考えていたのが、実際は五百人から質問がきて完全にパニック状態になった、と言われています。こういうことも起こり得る可能性がありますので、それにきちんと対応するためには横の連絡、それからできましたらボランティアの方を要請して、その人に対応してもらうということが必要です。
いずにいたしましても、大変な時代になるということです。それと最初に申しましたように、携帯電話でEメールができるようになると、全く事情が変わってくると思います。そういう意味においては、これからインターネット伝道というのは私は大きなクエスチョンの時代。それと問題は中身なんです。宗教そのものが問われる時代になってくるだろうというふうに思います。
質疑応答
Q :中国の法輪功については……。
生駒:私も法輪功のは見たことは見たんですけど、実際の中国の事情が今一つ、よくわからないんです。中国はクリントンの時代に中国政府に対してかなりプレッシャーをかけまして、宗教をオープンにさせようとしたんです。ところがその後やはり法輪功のような問題が出てきたと思うんですけど、私もあまり詳しい事情はわかりません。
ただ法輪功の場合はインターネットで情報を流しているということは間違いないです。ただ、会員数については正確にはわかりません。インターネットというのはある意味において、かなり空想の世界という面がありますから、インターネットだけによる教団というのもいくつかあります。私も新宗教にかなり興味を持っていますので、そちらの方でも結構ですので。
影山:アメリカではある企業がドメインを取得して自分の会社の名前を付けたかった。ところがたまたま先に付けられてしまって、それをたまたま裁判で何とか自分のところの方が会社が大きいから、何とかそれを自分の方にということで訴えたと。訴えられた小さな会社がホームページを立ち上げて、うちはこんな状態で何とかしてくれと表に訴えたら、逆にその会社の株まで下がってしまって、実際に見えない顔が集まって意見となって、今アメリカでもそういうホームページ自体のIT化の問題をずいぶん危惧する傾向があるんですが、先生はその辺についてはどうお考えになられますか。
生駒:先ほど申しましたように、これからのことはどういうふうに動いていくか、ちょっとわからないというのが私の正直な感想です。特に訴訟問題から絡んできますと、アメリカの場合ですと、弁護士さんがどういう動きをするかということでかなり事情が違ってくるでしょう。従って、全く予測がつかないというのが正直な気持ちです。
影山:それから先ほど先生の最後のお話に、インターネットに対応しながらiモードがアメリカのインターネットの進歩に日本は当分追いつかないだろう。しかし逆にiモードは一歩先にいって、五月に次世代のiモードが出るという状況で、高校生ぐらいは手元で歩きながら端末を使って情報を得ようとしているわけですが、そういう非常に身近なところで情報を宗教として、宗教の側がどんなものを提供できるかという部分はどんなふうにお考えですか。
生駒:私はカウンセリング意外には方法はないと思います。だから、若いあるいは年配の方でもいいんですけれども、悩みをぶつけてくると思うんです。それに対してどれだけ答えができるか。従いまして、特に伝統宗教の場合はカウセンリングに対する教育というのはほとんどなされていない。これをきちんとしていかなければ立ち遅れていくと思うんですけれども。
影山:要は教義の伝達ではなくて。
生駒:教義ではないと思います。個人対個人。
影山:個人同士のカウンセリング。
生駒:そこから宗教に導入していくことは可能だと思いますけれども、最初は悩みを聞いて、それに対して適切な指示をどれだけ与えていけるかどうか。それができなければ今のように上からボーンと情報を与えるような形では対応ができないと思います。
影山:先生の著書によりますと、現実に今アメリカの宗教が提示しているホームページの中では相手の情報を受けるということが主で動いている。ということは、やはりiモードが進んでくれば日本としても当然、今の情報として私こういうふうに思っているということをすぐ返答してもらわないと困ると。
生駒:そうです。それが果たしてできるかどうか。それと時間的余裕を宗教者が持っているかどうか。いろんなことが問われると思いますから、まず最初にカウンセリングの知識というものをきちんと収めないと駄目だと思うんですけれども。
影山:それと先ほど先生がおっしゃられた地域社会の旧信者、檀信徒の関わりですが、今一番ネックになってくるのが戦後五十年きた教団のあり方が実質動いているわけで、そこにインターネットが乗ってきたわけです。この間を現実にどう今の枠組みの中で埋め合わせていく……。
生駒:今までの五十年間というものを少し反省していただくことからはじめないと駄目だと思います。どこに良さがあって、どこに欠点があったかと。特に都市近郊のお寺の場合は古くからの檀家制度に支えられてきているわけですけど、果たしてこのままでいいのかどうか。もちろんそれがあったからこそ今日まで来られたんですけど、やはり頭の切り替えが必要になって、それが問われている時代になったと思いますけど。
影山:それは戦後五十年で培ってきた今の既成教団の体質と言いますか、その中で旧檀信徒、総代さん役員さんの枠組みがありますけれども、その枠組自体が今崩れつつあると思うんです。お寺の問題と同時に檀信徒自体の問題が社会化しているわけです。
生駒:これは別にお寺だけじゃないんですけど、地域社会でも同じようです。私は来月から住んでいる地域の組長になるんです。その地域の世話人は昔からいる人達ばかりです。ちょっとでも違ったことを言うとおかしいという顔で見る。そういう古くからいる人達によってお寺が支えられてきた。それはそれで結構なんですけど、やはりその反省というものが果たしてどれだけできるかどうか。
影山:先生がアメリカに行かれて向こうの大学を出られて、向こうの状況をつぶさに見て、それで日本に帰ってこられて、そして今、日本の宗教が持っている問題とIT化の部分で、その辺をどう埋め合わせていくべきなのかどうお考えですか。
生駒:非常に難しいと思います。まず頭の切り替えをして。そういう意味においては、インターネット、ITの問題がこれまでの教団に対して一つのチャレンジをしている。せざるを得ないという時になったと私は思いますけど。体質が変わらなければいくら新しい伝道の武器を入れてもあまり効果がないというのが私の持論です。
影山:皆様方の中でご質問があれば。
Q :先日の芸予地震に出先で遭遇しまして、ラジオを聞いてもある局は全然地震なんか関係ないで音楽を平気で流し、NHKを出しても全然地震の情報が出てこない。わずか百キロ先で起こったことが公共放送ではほとんど出てこない。その時助かったのは携帯も普通の電話もつながらない。子供の方から家内のiモードに無事だというのが入ってそれで安心したんですけれども、私はこれなんかというのは非常にこれからコミュニケーションのあり方というのを象徴しているということを痛切に感じまして、と同時に今日のお話の中でこれからの宗教のヒントがあるような気がしたんです。
というのは伝統宗教というのは一般の公共放送ですね。これは個人にどんな問題が起ころうと全く関心ない。今の私の問題をどうしてくるといった時に答えてくれるのがiモードを通じた非常に親密な、そういうことは何かやはりこれからの宗教性というものに何か大きなヒントを持っていないかと感じたんです。
生駒:これは実は私、前におりました京都文教大学には臨床心理学科がありました。これは競争率が非常に高いんです。心理カウンセラーになりたいという人が、今若者の間に増えています。心理カウンセラーというのは相手の言うことを聞いて時々サディスチョンをする。同じようなことを宗教家がやらないと、時代に対応できなくなると思います。
特にiモードのような時代になりますと。ところが残念なことに伝統宗教が経営している仏教学部などでは、カウンセリングの方法を学ぶ授業というのはほとんどなされていない。これからは一番それをしっかりやらないと、新しい機器が出ても対応し切れないような気がするんですけれども。
Q :若者ことにテレビを介在としますと五感というものから……が沸いてくる。インターネットをやっている人にあっては目と耳と、わずかにマウスに触れる手という体のごく一部という感覚で全てを得ようとしていくこれからの状態になろうと思いますが、その中にいかに私達がホームページで見るんですけれども、あなたを癒しますとか大きな文字で書いてあると、何かそれからは逆な感覚を得てします。もっと見る方々に素晴らしい宗教としての感性といいましょうか、心から何か救われるような柔らかい心の温かみ、そういうものを感じとれるようなこれからホームページに向かっていきたいと思うんですが、先生がアメリカで見られてホームページだとか、こういうふうな方向が感性を助長するのではないかというようなご指摘、ご指示をいただけるならばありがたいと思いますが。
生駒:癒し系のホームページは結局、ニューエイジのホームページに多いんですけど、これが下手をするととんでもない方向に行くんです。アメリカの場合はホームページがしょっちゅう変わってきます。お金かけているんです。教団の中にそういうことを研究する人もたくさん抱えておりますし、ボランティアが多いんです。また、専門の業者も多いんです。次は恐らくこういうものが要求されてくるから、こういうホームページを作った方がいいと教団に働きかける業者がかなりあります。それを商売にしています。日本にもそういう業者がありますが、アメリカのようにはいかないようです。
私が知っている大阪のある業者は、最初に法事の時のご法礼がいくらぐらいが適当ですよということを出す。意外と質問する人が多いんです。そこからずっと入って教義まで導くようなスタイルをとっている。だから一般の人は宗教に対してどういう点が興味があるかということをまず知り、それから情報を流していくようにすべきだ、としています。例えば法事の時のしきたり、あるいは数珠って何のために持つんですかとか、そういう簡単なことを一般の人が意外と知りたがっているんです。そこから仏教の基本までもっていけるようなホームページを作ることが必要だということを、その業者の方が言っておりました。
従って、お焼香の仕方、あるいは年忌法要は何回忌があるということを知らない。そういうことから宗教に近づけるようなホームページを作った方がいいんじゃないかというわけです。上からどんと構えるのは意外と抵抗があるようです。
映像は必要だと思いますけど、多くの人にアピールするような映像を作るのは非常に難しいです。これまた人材とお金がかかってくる。日本は税制の問題で一般の方はなかなかお金を出してくれません。アメリカの場合は十分の一税というのが浸透していますから、意外と教団の方から一般の方にこういう目的で使うから出してくれというと出してくれます。ところが、日本は伝統宗教の場合は信者の方からお金を集めるのは難しいですね。理解してくれない。
Q :インターネットは若い人が夜中にいろんなホームページを開いていると思うんです。親御さんにはあまり目に触れないところで宗教と関わることが増えてくると思うんですが、先生のご存知の事例でインターネットで特に若い方をひきつけているような宗教はご存知ですか。
生駒:あまりわかりません。ただ新霊性運動というのがありましたね。ニューエイジです。あの連中はかなりひきつけています。けれども、ただそれがメンバーになって数がいくらということは彼らは全く眼中にないです。かなり興味本位で情報を流しています。ただはっきりしていることは、意外と東洋的なものに今の若者は興味を持っているということです。密教であるとか、瞑想などに興味を持っていますが、それで一つのグループになるのは少ないでしょう。グループを作ったらインターネットの役割は終わってしまうようです。ただ、新霊性運動とかニューエイジと言われるグループは教団としてなりにくいんです。何故かというと、今の若者は子供の頃から個室で生活をして、誰かに縛られて特定の考え方、制度を持っている教団形式はどうも合わないという、これが新霊性運動に流れていきます。従って、日蓮宗の教義はこうですよというふうに与えても、こういう制度がありますよとなると気に入らないんです。しかし、インターネットでしたら自由にあちこち移動することができる。従って、これでグループを作るということはなかなかしません。
影山:そろそろ時間になっております。最後の先生のお話ですが、我々は宗教と思うけれども、世間が宗教と思わないようなところもあると思います。二時間半お話いただきましてまことにありがとうございました。
※本稿は平成十三年三月二十九日、東京都大田区池上本門寺朗子会館にて開催された公開講座教団研究セミナーにて講演されたものを筆録したものです。