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現代宗教研究第37号 2003年03月 発行

急逝した石川教張前所長(第九代)を偲んで「現代日蓮宗の側面―石川教張師の関わった社会・平和運動」

石川教張師慈明院日張上人略歴
昭和16年 1月9日 東京都杉並区本佛寺で生まれる 俗名康明(やすあき)
  30  1 1  師父石川教統について得度度牒
  38  3 31  早稲田大学史学科卒業
  40  8 30  第2期信行道場修了
  41  3 31  立正大学大学院国史学専攻修士課程修了
  42  2 23  康明(こうめい)と襲名
  42  4 1  日蓮宗現代宗教研究所研究員就任
  45  3 31  立正大学大学院仏教学専攻博士課程修了
  46  4 1  日蓮宗現代宗教研究所庶務主任就任
  50  8 20  日蓮宗現代宗教研究所研究主任就任
  54  10 9  教張(きょうちょう)と改名
  55  4 19  第22世本佛寺住職認証
  62  8 31  日蓮宗現代宗教研究所所長就任
平成7年 5月10日 日蓮宗現代宗教研究所所長退任 同研究所顧問就任
  14  4 24  午前10時59分心筋梗塞により急逝
 日蓮宗現代宗教研究所顧問 東京立正女子短期大学教授副学長 日蓮宗講学
 日蓮宗新聞論説委員 堀之内妙法寺茗谷栴檀林副林長 日本ペンクラブ会員現職で急逝

主要著作単行本
 『現代語訳日蓮聖人の手紙』1・2 国書刊行会 昭51
 『白亀の報恩ー日蓮さまの説話ものがたり』ピタカ 昭53
 『日蓮と近代文学者たち』ピタカ 昭53
 『文学作品にあらわれた日蓮聖人』国書刊行会 昭55
 『日蓮聖人のものがたり世界』日本編・中国編・インド編 国書刊行会 昭60
 『信じあう人生ー日蓮聖人の生き方』北辰堂 昭63
 『日蓮聖人の人間学』大蔵出版 平3
 『女人法華』水書房 平8
 『人間日蓮』上・下 学陽書房人物文庫 平10
 『風の峯ー波木井実長の生涯』日蓮宗新聞社 平11
 『苦海に生きるー日蓮』中央公論社 平12
 『人間日蓮』アールズ出版 平13
 『精読・仏教の言葉 日蓮』大法輪閣 平13
共著・編著・論文・論説・新聞雑誌記事など多数

急逝した石川教張前所長(第九代)を偲んで
「現代日蓮宗の側面|石川教張師の関わった社会・平和運動」
石川教張師を偲ぶ会
石川教張師を偲ぶ会〈ご案内状〉
日時、平成14年9月30日(金)午後2時〜4時
会場、日蓮宗宗務院四階第3・4研修室
合掌 現代日蓮宗に多大な貢献をされた石川教張師(昭和16・1・9生)が、心筋梗塞のため平成14年4月24日(水)午前10時59分急逝されましてから、種々の追悼文が寄せられ、偲ぶ会が催され、師亡きあとの失落感が浮き彫りになりましたが、師の平和運動や社会活動の側面が十分語られていないように思われます。
 半年が過ぎ、少し落ち着き、すこし忘れ去られようとしているこの時期に、この面で特にご縁の深い各位からお話を聞かせていただき、現代史の一面として記録させていただきたく、呼びかけ人をお願い致して、指名案内をさせていただきました。
 趣旨にご理解を賜って遠近よりご参集くださった皆様のお話をもれなくお伺いいたしたく、お一人3分間ずつ、後日まとめさせていただく「現代日蓮宗の側面ー石川教張師の関わった社会・平和運動」(仮題)への資料的発言を頂戴出来ますよう、ご理解ご協力をよろしくお願い申し上げます。
〈出席者ご姓名〉順不同・敬称略、発言のお願い順
呼びかけ人代表    中濃教篤
友人         渡邉清明 星 光喩 井上日宏 尾谷卓一
もと「プルナの会」  石田良正 植坂行雄 神蔵義一 河崎俊栄 江原亮宣 渡辺義伸
           伊藤地張 高橋是光 伊藤崇山
日蓮宗現代宗教研究所 石川浩徳 木村勝行 久住謙是 秋永智徳 伊藤如顕 蟹江一肇
           吉田勝寛 遠藤教温
立正平和の会     新間智照 木村隆張
日本近代仏教史研究会 西山 茂 高橋延定 安中尚史 工藤信人 早坂鳳城 望月哲也
石川教張師夫人    石川千代

事務局        常岡裕道 望月兼雄 伊藤立教/稲葉信子 渡辺観良 山田妙慧

石川教張師を偲ぶ会(録音再録)
 司 会 石川教張師を偲ぶ会、開会いたします。さきにお願いがございます。差し上げましたご案内状の中に、お名前が書いてございます。順不同・敬称略でございますが、全員のお方に趣旨のようなご発言を頂戴し、証言集を作りたいと思っておりますので、このご順にご発言をお願い申し上げます。つきましては、一人三分ということで申しわけございませんが、お願いいたします。三分が分からない方がいらっしゃるといけないので、卓上ベルを鳴らします。こういう音が三分でございますので、ご協力をお願いいたします。開会に先立ちまして、先生が作詞された「お馬が通る」を聞いていただきます。友人の岸良久さんの作曲で石川教張先生作詞の「お馬が通る」、お聞きください。
  のんのんののさま お馬が通る
  きらきらひとみの 仏の子
  のんのんののさま お馬に乗って
  きかざりすました 仏の子
  のんのんののさま お馬が進む
  しあわせのせて 仏の子
  のんのんののさま お馬に揺られ
  あしたをみつめる 仏の子
  のんのんののさま お馬が鳴いた
  みんなかわいい 仏の子
  のんのんののさま お馬が通る
 司 会 有り難うございました。改めてご挨拶申し上げます。司会を担当いたします、日蓮宗現代宗教研究所主任の伊藤立教でございます。よろしくお願いいたします。今日のご案内は、石川教張師を偲ぶ会でございますけれども、現代日蓮宗の側面ということで、証言集にしたいと思っております。よろしくご協力お願いいたします。全員のご発言を頂戴したいと思っております。どうぞ、よろしくお願いいたします。では、呼びかけ人代表の中濃教篤先生からどうぞよろしくお願いいたします。
 中 濃 それでは、開会に先立ちまして、石川教張上人の増円妙道をお祈りして玄題三唱をご一緒にあげたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。それでは発起人を代表させていただきまして、一言偲ぶ言葉を申し上げたいと思います。「光陰矢の如し」と申しますけれど、石川上人が遷化されてから、早くも百箇日が過ぎました。ここに石川上人と共に、研究活動や平和運動など、行動を共にして生前親しく交わる機会に恵まれた私どもが、石川教張上人を偲ぶ会を開くに至りましたことは、誠に意義のあることであると思います。特に私のように、プルナの会以来、遷化までおつき合いを続けてきた者にとっては、感慨ひとしおのものがあります。ところでご案内状にも触れられておりましたが、石川上人の宗内外にわたる広宣流布の活動、則ちプルナの会・立正平和の会・現宗研・日本近代仏教史研究会など、行学二道にわたる活動はまさに日蓮聖人の教学と実践を統一的に把握しようとの精進努力を示されたものである、と私は思っております。「行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法あるべからず」という祖訓の実践であったといわねばなりません。その一例を紹介すれば、私と上人が深い関心を持ったのは、戦時中における日蓮教学の軍国主義的歪曲を、何としても平和憲法のもとで糺さなければいけないという強い思いでした。これは、とりもなおさずかつてのアジア諸国に対する侵略戦争について、その実情を明らかにし、それに協力加担した宗門についての反省を明らかにしなければならないとう気持ちからでした。また、それと裏腹の関係というべき、権力による宗教弾圧であった遺文削除、曼茶羅不敬事件を解明し、二度と再びこうしたことを繰り返させないとの誓いを新たにすべきだという思いがありました。こうした調査研究活動を踏まえることによって、世界立正平和運動にしっかりとしたバックボーンを与えることが出来ると考えたからでもありました。石川上人とはこうした思いを共有しながら、六十年安保以来、遷化されるまで水魚の交わりを重ねてまいりましたが、ついにお別れしなければならなくなったことは、誠に残念であります。しかし上人の残された行跡は、ここで改めて必ず宗門の青年諸師に受け継がれるであろうことを信じて疑いません。石川上人の増円妙道を祈って追憶の言葉とします。有り難うございました。
 司 会 有り難うございました。では三分づつほどのお言葉を頂戴します。ご友人の関係としてまず渡邊清明師、お願いいたします。
 渡 邊 ご紹介をいただきました、渡邊清明でございます。私は石川上人とは高校二年生の時にお会いしまして、それ以来の友人でございます。二年生といいますと中途半端な感じですけれども、私は十三の時に、親父に突然遷化されまして、そういうこともございまして、初め都立高校に入りましたが、早く僧侶としての資格を取るために、何としても立正高校に行きなさいとの師匠や周りの方たちのお勧めにしたがいまして、立正高校二年に編入いたしました。そのとき、石川上人がクラスにおられて、大変お世話になりました。私はいろいろなことがございまして、ほとんど大学時代を通じて、寺院の子弟との交わりというものを一切持たなかった、大変偏屈な男であったわけでございまして、大学を卒業し青年会活動に入りまして、全く寺院子弟との関係をもってこなかった私が、青年会の中で様々な立場を担って行く過程で、全く右も左も分からない私に対していつも親切にアドバイスをしてくれたり、実際に手助けをしてくださったというのが石川上人でした。特に、全国日蓮宗青年会の委員長に就任いたしまして、様々な活動方針等を作っていく、あるいは実践をしていく過程では、手取り足取りという感じでお世話になったという関係でございます。その後は様々なことがございまして、それぞれに忙しくて付かず離れずで、問題に応じて、一緒にいたり、あるいは忘れたように離れていたりというような事が今日まで続いてきたわけですけれども、石川上人はご存じのように、法華経・日蓮聖人の教えを本当に深く理解をされ、篤い信仰心を持って、しかも柔軟に、現実社会の中でどう教えを伝えていくかということに心血を注がれてきました。といいましても、眼尻を結して、というふうな形ではなくて、常に柔軟に笑顔を絶やさずに、しかも困難な難しい問題にいつも真っ正面から取り組んでこられたという方でございました。特に私が宗会議員に就任いたしまして、既に今年は十三年目になりますけれど、この間にも様々なアドバイスをいただいてまいりました。今年は立教開宗七五〇年のご正当でございます。この立教開宗七五〇年を慶讃する事業の根本に、「誓願」、基本的テーマとして「誓願」を据えるということで、大変ご尽力下さいました。そして常にこの「誓願」とはどういう意味か、どういう意味で我々は取り組んでいくべきか、という形で宗門僧侶に対する啓蒙を行ってまいりましたし、また檀信徒にも直に接して教えがどういうものかということを述べられてきたわけでございますけれども、石川上人は終生通じて、社会的な関心、歴史的な現実にどう取り組んでいくかということに、非常にユニークな形で取り組まれた。ややもすると私どもは、日蓮聖人の教義をドグマとして非常に教条的に理解し、とかく押しつけるみたいな形で説きがちございます。あるいは、全体を理解せずに、大聖人の御書の中から自分にとって都合のいい場所を抜き出して法を説くという形の両極端に分かれがちでございますけれども、石川上人はそういうことではなく、常に宗祖大聖人の教えに直参して、生のお声として日蓮大聖人の言葉を聞いてこられた。生に聞いて生に伝えたい、というふうな姿勢を一貫して取られたと思います。そういう姿勢の中から、ありとあらゆる問題に取り組まれて、誓願行というのは、釈尊の、あるいはまた上行菩薩を初めとする地涌の菩薩方の慈悲行を社会に実践する、これが立正安国の実践だというふうに、明確にはっきりと説き続けたわけでございます。実践的な活動をもってその姿勢を貫かれ、社会的な問題に取り組んできたと私は理解しております。先ほど、中濃先生がご指摘になられましたように、かつて、今でもそうですけれども、宗教と政治は、望むと望まざるとに関わらず、密接な関係を持たざるを得ない。社会的な現実の中では密接な関係があるんだ、しかもややもすれば、時の政治の方針に都合よく統制しようという働きかけが常にある、これが社会的な現実でございます。そういうものから自由に釈尊の教えを伝えていき、間違っていればこれを変えていくという努力は不断に続けれられるべきだと、これが誓願行の根本を成す、とはっきりと述べられていました。本当に今この時点で、そうした活動が求められる時代に、こんなにも早く逝ってしまったことが残念でなりません。宗門の信仰運動、信仰活動に関しましては、彼は常に中枢にあって、信仰運動の間違いなきを期する、信仰運動の方法はこうであるべきだ、と発言を続けてこられました。いま新たな宗門の信仰を作っていく、方針を組み立てる、将来に備えるという時代に、誠に大きな痛手であり損失であると私は認識しています。これからご縁の深かった皆さんと共に力を合わせて、大きな穴を埋めて行かなくてはならない覚悟をしているところでございます。以上、誠に雑ぱくではございますけれども、思い出を述べるのには言葉が誠に足りませんけれども、貴重な時間でございますので、以上ご挨拶とさせていただきます。有り難うございました。
 司 会 星光喩上人、お願いいたします。
 星   後の方かと思ってのんびりしていたんですが、びっくりいたしました。平和運動、あるいは現宗研等、ご一緒いたしましたけれども、そういった側面につきましては皆さま方がお話しなさると思いますので、主に「宗政」ということではないんですが、身近なところで印象に残っている点を二つだけ、三分という事ですのでお話しさせていただきます。彼はいうまでもなく、多方面でご活躍をされていましたけれども、私は全国日蓮宗青年会を作るというところの段階からご一緒させていただきまして、プルナの会、現宗研あるいは立正平和の会という形で、平和の方はビキニデーに参加して久保山愛吉さんの墓前祭にまいったり、あるいはベトナム戦争反対で団扇太鼓を叩いたりというようなことでございましたけれども、一番印象に残っておりますのは、昭和五十六年の七〇〇遠忌のご正当のときに、報恩奉行会の事業課長をしておりまして、先ほど久住さんから耳打ちがあったんですが、その時に全国日青と宗門がシャープに対立したんですが、対立点は、誰が全国縦断唱題行脚をやるかという主体性の問題でして、全国日青の方は、あそこにおります久住上人の方が理論的、あるいは実践的なリーダーでありまして、自分たちがやるんだと。宗門の方は、宗門が若い者を動員してやるんだと非常にシャープに対立しました。その時には、いま清澄寺の別当を辞められまして茨城に帰られました小林日芳上人が局長でございましたんです。五十二年、五十三年、会いますとその話でどうしようか、というようなことでございましたんですが、宗門の方は自分たちがやるんだと、背景が大きゅうございますから。そういう中で全国日青の執行部と、実行委員会、教宣部会と、一回・二回・三回目といよいよこれが最後の決裂か、あるいは協力かという段階で、その前の晩にですね、石川教張師に呼び出されました。向こうは久住師、こちらは私ということで、今でも思い出しますけれども、新宿の京王プラザのほうに行くところの滝沢という喫茶店の地下で、どのくらいシャープに対立したか、久住師と。彼は水戸ッポですんで、なかなか譲れないところがあるんですけれども、喧々諤々やりましたところ、最後に石川教張師の一言で決着を見ましたのは、全国縦断唱題行脚はあくまでも青年会が主体性を持って行う、宗門はやはりそれに協力をすると。結果的には実行委員会で確か一千五百万円だと思うんですが、助成をいたしまして、そして青年会も気持ちよく、あのときは武道館で中央大会をやりましたが、二百人の唱題行脚で望むというふうなことで、その次の日の正式な実行委員会でそういうことで決着いたしました。石川教張師がいなかったら、どこまでもつれたかなということで、非常に印象深く心に残っていることでございます。それも青年僧の地位の向上といいますか、活動の充実といいますか、そういう観点を彼はいつも真剣に思って力を砕いておりました。宗政の場では、先ほど総長猊下がおっしゃったとおり、様々な形で私どもも、私が宗会議員になりましたのは六十三年ですが、確か彼が現宗研所長になりましたのが六十二年じゃなかったかなと思うんですが、私は宗政、彼のほうは様々な活動分野、主に現代宗教研究所という形で接しまして、いま総長さんがおっしゃったように、様々なところで様々にお知恵を拝借してお力添えをいただきまして宗政を進めたという実感でございます。中でも全国日青のときに、青年の地位向上といいますか、宗会議員選出に関して投票権が、選挙権がございませんでした。いまは教師全体、非住職も含めて宗会議員の選挙権は付与されているわけですけれども、その時はとんでもないという風潮の中で、共に声を挙げたり、その当時は投票用紙が先に配られて郵送で投票するという間接選挙でありまして、青年層の意志がはっきりと反映しなかったという状況でした。そしてこの前の選挙、平成九年の選挙から宗制が改められまして、直接選挙、選挙場に行って投票するという形の選挙に変わりましたのも、彼が非常に、本当は彼が陰で非常なリーダーシップを発揮しまして、様々な形で議論もしまして力添えをいただいた結果でございます。選挙法の中では、宗門の選挙の在り方の中では一大転換でございましたんで、彼の力添えを身にもって感じたことでございます。話は尽きませんで、以上、思い出の一端をご披瀝いたしまして増円妙道をお祈りする次第であります。有難うございました。
 司 会 井上日宏上人、よろしくお願い申し上げます。
 井 上 法句経の中に、「花の香は風に逆らいてはゆかず、栴檀も多掲羅も未利迦もまたしかり。されど善き人の香は風に逆らいつつもゆく。よき人の徳(ちから)は全てのかたに薫る」。石川さんが亡くなった時に、ふとこの句が思い出されました。先日、宗務院に教誨師会の総会がありましてまいりました時に、石川さんを偲ぶ会があると石川浩徳上人からお聞きして、友人という形で今日は出させていただいたんです。特別なお友達という形では語ったことはないんですが、日蓮宗教誨師会としましてこのような『教誨師必携』を作りました。やはりこういう本にします時は非常に悩みが多くて、分からないことばかりなんですが、その時に石川さんに教学、法華経、そして布教、ちょっと確信が持てない問題についてアドバイザーをしていただいたりカウンセラーをしていただくという形でちょっとお声を掛けてお聞きしますと、一瞬にして、それがよろしいでしょう、こちらがよろしいでしょうという形で、いつも助言をいただいたことを思い出します。この三十六頁にですね、「無財の七施」という、七つの施しというのがあります。その時に、文章で書くということが非常に難しく、あまりにも雑ぱくだったんで、何かいい詩のような言葉がありませんかねと聞いたら、まあ一つ単純な言葉でまとめたらどうかと、私が作りましたものを確認をしていただきました。捨身施、「優しき振る舞い」。心慮施が「まじめな計らい」。和顔施が「和みの微笑み」。愛語施というのが「丁寧な語らい」。慈眼施というのが「慈しみの眼」、「愛しさの涙」。そして慈眼施のなかに「青眼」というアドバイスをいただきまして、「青眼を持って人を待つ」という言葉があるから、こういうのを入れてみたらどうですかというんです。どういう意味ですかと聞いたら、人を待つ時に、遅れてくると疑いの眼で見たりすると青い目じゃなくなって赤い目で充血をしてくるんだということで、青眼というのは疑いなき眼、というアドバイスをいただきました。これは慈眼施の中で、いつくしみの目ということだけでなかったんです。六番目の牀座施というのは、譲る気遣い。最後が房舎施ということで、親しきなかにも礼儀ありということで、「親しさの中の規律、厳しさの中のふれあい、うち解ける思いやり」。こういう言葉をアドバイスしていただきました。文章ばかり書いている方であるのになにかひとつの特徴を持たれているのかなと思いましたが、この「お馬が通る」でよくわかりました。人にはそれぞれ見えない部分での可能性があるということを聞いてはいたんですけれども、石川教張さんの作詞のこの「お馬が通る」というひとつのものも持たれていたんだな、ということをしみじみと偲ばせていただきました。いろいろな思い出が、たくさんあると思います。私は特に布教懇話会という会議で熱海でご一緒の部屋で二回ほど枕を並べましたんで、その時にいろいろ、やはり教学、法華経、そして布教面についてのよきアドバイスをいただきましたことを感謝しておさめたいと思います。有り難うございました。
 司 会 尾谷卓一上人、お願いいたします。
 尾 谷 びっくりいたしました。いいのかなという感じの方が強いんですけれども。やはり石川教張先生というと、とてもマスコミを可愛がってくれました。「北条時宗」が決まった時に、私の肩を叩いてね、やったぞと。恐らく七五〇の一番の大衆に与えるショックになるに違いない、そういうことを自信をもって言ってくれましてね。ああやっぱりすごいな、すごい見識を持って社会に対応している方だな、ということを感じました。その前に、「北条時宗」の基盤になった『人間日蓮』という本も読ませていただいて、本当に感激をしました。その本が土台になって、あれに大きな影響を与えたんだなということを感じて、素晴らしいなと、思いました。それから、私と石川先生の関係といえばちょっとおかしいんですけれども、先生自身は私と長く話をすることは大変控えていまして、特に、よっ、というだけで後はほとんど話がないんですね。ところが電車の中とか、そういうところでお会いした時の先生というのは、君いまね、宗門にとって大事な問題はこういう問題だよということをね、きちっとおっしゃっていただけるんですよね。それが私が『現代仏教』を出していく上での、大事な指針になったということは勿論いうまでもありませんし、恐らく石川先生を一番始めに私が大きく意識をしたのが、現宗研に入られて間もなく日蓮宗新聞の編集委員になられた時ですね。私はその時新聞課長でございましたので、何か問題があるとそばに来まして、こう突っつきまして、お前そんな弱腰でどうするんだよ、もう少しこういう問題はこういうふうに書くようにしなくちゃいけないんだよ、というようなことをね、私に強く言ってくれました。私も今なら、宗務総長を前にして申し訳ないんですけれど、政策的なことでも書けるんですけれど、当時は宗務院の職員ですから、とてもそこまではちょっと書けないよと、そういう話をする中で、「自由論壇」であるとか、「宗門の理想像」であるとか、そういったコーナーを設けまして、ちょっと一歩踏み出すと、宗務院の院議で、なんだあれは、ちょっと書きすぎじゃないか、あそこまで日蓮宗新聞は書く必要ないだろう、そういうことをいつも追いつめられました。で今の『現代仏教』では、なにかやっぱり、ここまでは書いていいかな、これ以上書くと恐らく怒られちゃうだろうな、そう思いながら書いているんですけれども、その基盤には、石川先生からアドバイスをいただいたものがすごく大きな影響を私に与えてるなということを、いつも考えています。私は山梨県の山の中のお寺の住職をしているんですが、石川先生がどこかへ行った時に、そこへ寄ってくれたんです。そして、私の書斎といいますか三万冊ほど本がある部屋があるんですけれども、そこに座りまして、私もこういう所で原稿を書きたかったというんですね。どこかこのあたりに空き寺はないかな、こういう書斎を造ってそして原稿を書く仕事にずっと精進をしたいんだ、とおっしゃっておられたんですけれども、やはりそういう気持ちがずっとあられたようで、その後、私の近所のお寺の住職にも、石川先生からそういう話があったよ、ということを聞いてびっくりしたことがありました。最後に今、この宗門の中でとても残念に思っていることの一つに、信者さんが方便品とかお自我偈とか毎日あげているんですけれども、意味が分からないんです、というんです。説明はいろいろ聞いてわかるが、方便品やお自我偈をあげて感動しないというんですよ。それを聞いて私は、先生に話をしたわけです。そうしたら、私もそのことを心配して、愛知県のお寺の原稿を書いているんで、それが出来たら君のところで出版して欲しいといわれたんですよ。実際は安楽行品の十四ですから、まだそこまでしかいっていないんですよね。その原稿をちゃんといただきまして、ここまで来たよとこの春に喜んでくださったんですけれども、その中にありました先生の書かれた文章、「発奮」というんですけれど、病む人とのふれあいから、ということを書かれているんですね。ちょっとここを読ませていただいて、おしまいにさせていただきます。「生きるって厳しいことですね。生きるって辛いことですね。生きるって今を大切にすることですね。生きるって自分を磨くことですね。生きるって心がふれあうことですね。生きている事は素晴らしいことですね。今さらながらに生老病死に向き合うと、いきいきと、この辛さや大切さを思い知らされ、生きている限り、少しでも人間の、人様のお役に立ちたいのであります。私どもは、目に見えない不思議な力によって生かされている。それと共に、自分のこの体の中に、またそういう計り知れない力をいただいているのが、私どもでありますね。このお話を通して私は、自分の内側、そして外側に、仏さまの我々を思う大慈悲心、そういう心を感ぜずにはいられないのであります」。どうも失礼しました。
 司 会 渡邊上人の時に、総長でございますので、ベルを鳴らしそびれまして、ずっと鳴らしそびれっぱなしでございまして申し訳ございません。今度から鳴らしてまいりますので、鳴りましたらよろしくお願いいたします。ではもとプルナの会の関係で、まず石田良正上人からお願いいたします。
 石 田 京都からまいりました大輪院の石田です。石川上人は昭和十六年生まれという事で、私は十一年で五つ違いの兄貴というんでしょうか、そういう年齢でございます。ご承知のように、プルナの会といいますのは、プルナ尊者から名前を取りまして、結成しました会でございます。プルナ尊者はいろいろなことがいわれますが、大衆の中にあって大衆の言葉で法を説くというプルナ尊者の生き方を私たちの生き方としていこうではないか、大衆の中にあって大衆の言葉で法を説くわけですから、やはり大衆と共に社会の問題、平和の問題等を考え語り合っていく、そして出来ればリードをしていくという気持ちでつくった会でございます。プルナ尊者は弁舌爽やかな方でございますが、その流れを汲むものとしてはあまり大きな事は言えないんですけれども、一生懸命大衆の中にあって大衆の言葉で説くという、そういう気持ちで今日まで活動を続けてまいりました。石川上人との出会いは、私が昭和三十四年に京都へ帰りまして、その後にプルナの会に入会されたのではないかと思っています。その後、三月一日の久保山愛吉さんの墓前祭、毎年焼津で行われていますけれど、その時もその前日に玄題旗を掲げ太鼓を叩いて市内を行脚し、そしてまた焼津の駅前で平和を共に訴えたのが出会いでございました。ちょっと顔がかくれておりまして、石川上人とはよくわからないので写真を持ってくるのは控えたんですけれども、石川上人が玄題旗を掲げて行脚をされている姿が写っていました。それから京都に帰りまして京都支部を作りまして、その京都支部においてプルナの会の組織拡大を論議したり、共に話し合ったりということがございました。そういう会合には、積極的に参加していただきました。最後に石川上人はいつでしたか、私は目が悪いので今のうちに多くの本を読み、多くの書物を書き記して後世に残したいと、こういうようにおっしゃっておりましたのが思い出せるわけでございます。時間がまいりましたので、失礼します。有り難うございました。
 司 会 植坂行雄上人、お願いいたします。
 植 坂 私は、たしか昭和三十二年でしたか、プルナの会を作った時に最初に入ってきた一人でございます。その後、卒業しまして広島へ帰ったり、生まれ育った福井へ帰ったりということで、出たり入ったりということをしていました関係で、本当にだらしのない自分だったんですけれども、石川上人には本当にずっと、歳は私のほうが上でしたけれども、理論的なこと、あるいは活動の中でいろいろなことをご指示いただきました。まだこの席では言えないのかも知れないけれど、宗務院におりました時に、宗務院に労働組合を作ろうか、というお話などをしたことが思い出されます。石川上人との一番の思い出が、「み仏とわたし」を作るのでしょっちゅう石川上人のお宅にお伺いして、あそこで原稿を書いたり、今年はこんな事をやろうといったり、発送業務だとかそういうのをやらせていただいたことが非常に思い出深く残っているわけです。後の方からもお話があると思うんですが、折り鶴行脚の時に石川上人がオルグでご活躍いただいたことは、私たち歩かせていただきましたけれども、あの力というのは大きかったんじゃないか。東北の折り鶴行脚と同時にもう一つ、近江幸正上人の長野の方の行脚には、ほとんど石川上人がオルグで歩かれておられたと思います。そういう思い出ともう一つ、今日は家内から、奥さんがお見えになるならよろしくといっておりましたけれども、プルナの会の家族の会合を持とうということで、小石川の橘高上人のお宅へ集まりまして、私たちは子供の面倒を見て、奥さんたちだけが三、四時間話し合った、あれが家内にとって非常に思い出になって、よろしくというような事を伝えておいてくれといっておりました。そのような思い出がございます。そうしたことを通して、石川上人は非常に理論的にも素晴らしいけれども、なんていうんでしょうか、人を思い、人の心に迫ってくれる優しさがあったなということが、私は強く感じています。まだあれやこれや思い出があるんですけれども、これで終わらせていただきます。
 司 会 神蔵義一上人、お願いいたします。
 神 蔵 突然のご指名ということで困っておりますけれども、石川先生を偲んでということでございます。私、今日はプルナの会のメンバーとして参加となっておりますけれども、実は私は石川先生がお入りになった時は、ちょうど宗務院の伝道部にいたということで、ほとんど全国を伝道車で歩いている時でありましたので、あまりプルナの会に出席いたしておりません。しかし、大変優秀な素晴らしい方が入ったなという印象は強く持っておりました。その後、宗務院を辞めて自坊を建立するということで、ほとんどプルナの会に出ないという、まさにプルナの会から右回転するというんでしょうか、本当に運動している方に対して申し訳ないと思っていました。そういうプルナの会の思い出よりも、東京西部の宗務所での思い出が強く残っています。ちょうど石川先生が護法事務長に就任された時、私は宗務事務長でございました。大変素晴らしい先生が護法事務を受けていただいたということで、私ども大いに歓迎したわけですが、その中で一番印象に残っているのは、「一千萬遍お題目の集い」を提唱されて、堀之内のお祖師さまに西部管内の檀信徒が約六百から七百くらいの人が集まって、一心にとにかく無条件にお題目をお唱えするという集いの提唱がありました。これを十五回続けました。更にそれだけじゃなくて、実はこの七五〇の管区の事業、これは当然京浜教区もそうでございますけれども、先生なくして七五〇を語れないぐらい大変先生のお力をいただいた。教区大会の時にも、日蓮聖人の教えについて大変解り易くお教えを頂戴した。それから、管区の大会においても中心になって脚本を書いていただくと同時に、いろんな事にご助言をいただいた。その中で印象に残っているのは、いわゆる童謡を中心にした布教でございました。教区大会の時のお話の最後にシャボン玉の唄を、決して上手な歌ではございませんでしたけれども、おおきな声でうたっていただきました。それから管区大会の中では、私どもと意見が違ったんですけれども、ふる里をテーマにしてやりたいということを強くおっしゃって、ふる里の唄を歌ってみんなで日蓮聖人の思いに浸っていこう、ということをおっしゃっていました。厚生年金会館でお題目も精一杯唱えながら、そしてふる里の唄を歌いながらお別れをしたわけでございますけれども、その中で私は、先生が童謡を中心に布教をされるということに、檀信徒に向けてわかりやすく日蓮聖人の教えを示そうとされているのかなと思いました。それと同時に、先生の優しさじゃないだろうかと考えさせていただきました。それからもう一つ、盛んにふる里ということをおっしゃるなかに、先生のふる里はどこかなと考えるわけですね。それはやはり、堀之内のお祖師様なんですね。堀之内のお祖師様から、いろんな日蓮聖人の思い、願い、誓願がずっと出てきているような感じがするわけです。そういうことで、先生なくしては教区の七五〇はないということを痛切に感じておりました。惜しい方を亡くしたなということが、本当に実感でございます。どうも有り難うございました。
 司 会 河崎俊栄上人、お願いいたします。
 河 崎 石川県からまいりました、河崎と申します。私は昭和三十四年に身延から東京へ出てまいりまして、立正大学へ入学したわけですが、身延から出てまいりまして、まずプルナの会に誘われまして、プルナの会といいますと、法華経の学習会、ご遺文の学習会。学習会を通じて社会活動に参加したというのが非常に新鮮な気持ちで、プルナの会の活動に一生懸命に参加しました。これからの宗門は、やはりこういう行き方がいいんじゃないかなと。当時プルナの会は、みんな赤だと、行動ばかり非常に派手にやっているけれど、というようなことをいわれましたけれども、今考えてみると、あの学習会と社会参加ということが、非常に自分の生き方に指針を与えてもらえたんじゃないかなというふうに感じるわけです。どういう活動であったかというと、やはり平和の問題、被爆者との接触、共に平和を願っていく。それから中国人の遺骨の返還。それから朝鮮寺院殉難者慰霊法要という、そういう活動を、学習を通じながら一生懸命やっていきました。先ほど木村さんから聞いたんですが、石川教張さんは何年にプルナへ入ったんだろうと話していたんですが、大学一年生だというと昭和三十四年か五年にプルナの会に入っているわけで、私たちと同じ時期にプルナの会に参加したんじゃないか。それで共に太鼓を持って社会の中に入っていき、そういう国際的な朝鮮人の問題、中国人の問題、それから平和を通じて被爆者の方とつながりを深めて、その中で本当に苦しんでいる人達の痛みを自分が感じる。先ほど神蔵さんがおっしゃいました、日蓮聖人がおっしゃっている同一の苦、苦しんでいる人の苦しみを自分の苦しみとして受け取るという見方というのは、そういう活動の中から生まれてきたんじゃないかなと、今考えられるわけです。やはり、プルナの会の活動は、非常に理に適った活動ではなかったかなというふうに今思っております。それから私は、昭和三十八年頃に郷里へ帰ったわけですが、郷里へ帰る時も、もう少し東京へいたらどうかという話もあったんですが、石川君と話をして、やはり、東京でばかり集まっていても、地方へ拡がらなくてはだめだよという話で、意を決して田舎へ帰って、それから青年会を組織しました。石川君のもう一つの特徴は、やはり他宗教の方と一緒に行動をやったということ。これは中濃先生あたりのご指導のもとで、平和運動を通じて他の宗教者と手を繋いでいくという、それで宗青協の事務局長をやっておられまして、中国の方へも日中交流・青年交流ということでうかがっています。私は石川君の後を継いで事務局長を務めたんじゃなかったかな、と思っております。おかげで、日中青年交流にも参加させていただくことが出来まして、非常に大きな思い出になっておりますが、その後、日蓮宗青年会の繋がり、それから石川教張さんが現宗研に入ってからすぐに嘱託ということで推薦を受けまして、任命されました。地方での教化研究、中央教研もそうですが、地方教研の役を務めさせていただきました。やはりその裏には、石川教張さんが東京でいち早く東京西部青年会を作りましたし、教研の方も東京西部でいち早く旗を揚げられておられた、それが自分なりの励みになっているんじゃなかろうかなと思います。いろいろたくさんの方が、いろんな思い出を語ると思いますので、この辺で終わらせていただきます。どうも有り難うございました。
 司 会 江原亮宣上人、お願いいたします。
 江 原 石川君と呼ばせていただきますが、私は学生時代に一つ二つ上で、彼がプルナの会に入った時は私はもう卒業しており、その後、第一期布教研修所なんかに入りましてその間つき合いはないんです。しかし、ここに載っておりません大学仏教青年会というのが、我々が二年生の頃に結成されました。近江幸正さんが初代委員長、二代目を務めました私が活動を少し縮小しまして、彼が三代目を継いでくれました。それを盛んにしてくれたということで、そういう点では尻ぬぐいをお願いしたということで、大変申し訳ないなと思いながらも、あまり質のよくない友達としてやってくれました。前に日蓮聖人の本を出版される時に、彼は私のところへ電話をしてきまして、『まんだら』という本に書いたことについて、そのことは何の資料によるのか、どういう事に基づいているのか、ということを熱心に聴いてきました。私もどう応えたか覚えておりませんけれども、彼はそういったところまでまんべんなく、隅から隅まで調べて執筆するということで、彼自身が責任を持って皆さんに提供したんじゃないかと思います。私もこれから彼に学んでいきたいと思っております。思い出はこんなところでございます。
 司 会 渡辺義伸上人、お願いいたします。
 渡 辺 失礼します。山口の渡辺です。私が立正大学におる頃、立正大学には現代仏教研究部という学生の組織がありまして、石川さんが早稲田におられる頃は、早稲田仏教青年会というのがありまして、早稲田は「久遠」という雑誌、文集を出したりして交流をしていました。その頃、石川さんと知り合いまして、今度関東大学仏教青年会の議長を受けようかと思うけれどもどうだろうかと、伊藤地張さんと私と三人で話し合いまして、いいでしょうと。立正大学の現仏研は全面的に石川さんに協力するから是非やって下さいと話し合って、その後関東大学仏教青年会の活動を進めていったことを今、江原さんの話で思い出しました。その頃石川さんはもう、被爆者・原爆・戦争・平和それからベトナム等様々な平和問題に対して話をしておりましたが、私ども学生はちょっと浮き上がっていまして、浮き上がった平和論を述べていましたが、石川さんは日蓮聖人、日蓮宗という宗門をどう踏まえていくかということを常に頭に置いたうえでの議論でした。特に京都でプルナの研修会があった時、基調報告をされたのに、宗門は戦後民主化が段々進んできて立正平和運動も展開されてきたが、このたび護法運動が推進されるようになって、宗門の軸足は護法運動の方にかかってきた、よって宗門は今後どう進んでいくかわからない、プルナの会の役割は今から重大な局面を迎える、という報告をされたことを思い出しました。石川さんはそういう話はよくしたんですが、女性に関する話は一切しませんでした。ところが数年前に中四国教区の研修会にまいりまして、渡辺さん、私は日蓮聖人の女性観を本にも書いたし、この話なら私は何時間でも出来る、講義も何回でも出来るから機会があったらまた言うてくれといいまして、女性に対して一言も発言がなかった学生時代の頃から考えるとずいぶん変わったもんだなと思っておりましたが、今日奥様を拝見して、奥様との出会いの中で石川教張先生は、女性というものを日蓮聖人の、あるいは法華経から見た女性の開眼があったんではなかろうかと思いました。奥様、このたびは大変残念でございましたが、以上で終わります。有り難うございました。
 司 会 伊藤地張上人、お願いいたします。
 伊 藤 私は石川教張先生の弟子で、静岡県の富士宮から来ました伊藤地張と申します。私は石川上人とは立正大学の時に、プルナの会、先ほど、渡辺上人が言いました大学仏教青年会という中で知り合うことが出来ました。そして立正大学を卒業する時の卒業論文は、「伝教大師最澄の戒律思想」という、最澄を私は卒論で選んだのでありますけれども、その時指導してくれたのが石川上人でした。勉強とはどういうものかというのか、やっぱり最澄に関するものをまず全て読め、と言われてびっくりしたことを覚えております。そして、卒論を本当に指導してもらって卒業することが出来ました。その後、私はプルナの会を離れて、どちらかというと社会の問題というか、仏教というよりも、社会に出てみんなで賢くなって世の中をを変えていくんだということで、社会教育の仕事をしました。そういう中で、四十過ぎる頃から急に、仏教といいますか、日蓮聖人の勉強をしたくなりました。そして石川上人のところを訪ねて、自分の思っていることを、そしてまた自分が立正大学、身延山に行って、若き日に僧侶になりたいと思った気持ちが今再び起きてきたんだ、こういう事を話した時に、師匠になる、こういうふうに言っていただきました。これは、本当にありがたいことだと思います。その後、石川上人とは、困った時に相談はするんですけれど、自分勝手な行動もあったかと思いまして、何度も怒られました。師弟の縁を切られるのではないかということも思いましたけれども、私の話を、まあ弁解になりますけれども、聞いていただきました。今、上人が師匠様が、各分野で本当に勉強されていた、そしていろんな事、大きな仕事をされていたんだなと思いました。身近にいる者としてはいろいろ本をいただきましたけれども、それもあまり理解できないですまして来たようなことであります。そういう意味で、石川上人の後を、というか、少しでも継いで頑張りたいと思います。どうぞよろしくお願いします。有り難うございました。
 司 会 高橋是光上人、お願いいたします。ケーキの後、コーヒーも出します。いただきながらお話を聞いていただきます。よろしくお願いいたします。
 高 橋 山梨県の甲府からまいりました、高橋是光でございます。立正大学は昭和四十二年に入学でございますが、ちょうど学生運動が華やかな時に入学しました。先ほど渡辺先輩がお話になっていましたけれども、現代仏教研究部へ入りまして、そこで石川先生からいろいろ社会問題のことを教わりまして、出身は秋田県でございますが、秋田から出てきた田舎者が、世界のこととか政治のこととかいろいろで、石川上人とかまた中根上人とか、先ほどの上人からもいろいろ教えを受けましたけれども、何しろ自分の友人のことしか考えられなかった田舎者ですから、頭がもうぱんぱんになりまして、一年の頃秋田に帰った時は本当に秋田駅でへたばってしまいました。石川先生はじめ、じっくりじっくりものを考えて鋭く分析して、いろいろかみ砕いてお教え下さっていましたので、ものを思考するというのはこういう事なのかと始めてわからせていただきました。また、現代仏教研究部を通じまして、日本宗教者平和協議会(宗平協)の平和運動とか、靖国神社法案は特に一生懸命させていただきました。衆議院の議員会館で、自民党・社会党・共産党・公明党・民社党の議員の先生たちと討論させていただいた覚えも、思い起こされます。やはり、学生で現実に議員の先生たちと討論させていただくというのは、非常に社会勉強として有意義であったと感謝しております。ただびっくりしましたのが、靖国神社法案が廃案になった時、朝日新聞だったと思いますが、中濃先生はご存じだと思いますが、一面全面での反対の記事をボツにされているんですね。国家権力というのはすごい力があるんだなと、その時ゲラ刷りを見せていただいて、国民は本当のことを知らされてないこともあり得ると、だからやはり社会の問題を鋭く学んでいかなければならないと、そのように勉強させていただきました。私の大学は本当に石川先生はじめ中濃先生、渡辺先輩等々に恵まれまして、大学は十年間行ってもいいな、と生きた勉強をさせていただいた次第でございます。ベルが鳴りましたので、最後に石川先生から、「開目抄に聞く」というご遺文の勉強会をさせていただいた時に、記憶にあることを一言述べさせていただきます。中で「一切衆生の習学すべきもの三つあり、儒・外・内これなり」、このことでございますが、石川先生は、儒教というのは今の現代の社会科学だよ、外道というのはキリスト教を初め西洋の宗教を学ぶべきだ、内道は勿論仏教ですが、そのようにお教えを受けさせていただきました。なるほど、やはり現代に即してご遺文を正しく、時代にマッチして勉強させていただくというのは、こういうことなんだなと、その後の私の姿勢に大変なご教示を賜ったことを最後に申し上げさていただきまして、終了させていただきます。有り難うございました。
(伊藤崇山(旧石山宗子)師(欠席) 三重県本覚寺修徒。立正大学入学の頃から石川教張師の指導をうけ、現代仏教研究部・大学仏青・プルナの会・宗青協・宗平協・立正平和の会にかかわり、仏教の女性観について教わる。)
 司 会 日蓮宗現代宗教研究所の関係で、まず石川浩徳上人お願いいたします。今お配りしておりますハンカチは、石川教張先生の奥様、石川千代様からのご供養でございます。有り難うございます。
 石 川 呼び掛け人の一人といたしまして、本日は皆さま方にお集まりいただきまして本当に有り難うございます。石川教張先生とは、私が宗務院へ課長で入ってまいりました昭和五十一年からの、ずっとのおつき合いでございました。四半世紀以上の長いつき合いでした。先生との思い出ですが、私が課長で、石川教張先生は主任でして、同じ立場で宗会などは必ず所管の上司の後ろに助け船を出す役割で並んで座っていました。宗務所長会議でも、宗会でも、私と石川先生とは隣りあって座っておりました。石川先生は昭和四十七年に主任になっておられ、私より先輩です。昭和六十年に遠藤総長が辞任され、長瀬総長がご就任になられた、その年に私は宗会に出るために課長を辞めました。先ほどから皆さんのお話を伺いますと、教張さんはそれこそ学生時分からいろんな活動をされている。私も身延を卒業してから、昭和三十五・三十六年と立正大学に編入在学しておりました。私はどちらかというとノンポリのほうでありましたから、せいぜい六十年安保で国会に出かけていったという経験はございますけれども、プルナの会の方々のような積極的な活動は知りませんでした。宗務院へきて始めて石川教張さんと知り合い、つきあうようになったのです。そして、しかもお互い課長と主任という立場でございましたから、課長会議をはじめ個人的にもいろんな話をする間になりました。今日「お馬が通る」という教張さんの詩が紹介されましたが、実はこれはエピソードとして聞いてもらいたいんですが、宗会とか、所長会議とかでは二人で並んで座っています。ちょっと隣を見ますと、詩を書いているんですよ。何もそれは怠けているんではなくて、そうした時間も惜しんで、そうした作詞などをされている。石川教張先生から年賀葉書をいただきますと、必ず詩がのっています。これはこの前の宗会の時に書いておられた詩だなと、そういうふうに思い起こしたりしていました。やがて教張さんは現宗研の所長になり、私は伝道部長になって、又隣り合わせに並びました。私は四年たって部長を任期で辞めたあと、全日仏に出ていましたが、石川教張先生から、平成六年に突然電話がかかってきて、実は現宗研の所長を退こうと思う、ついては石川浩徳さん、あなたを後任に推薦したので是非受けて欲しい、こういうんです。突然だったもんですから、私はびっくりしましたが、石川教張先生もお体の具合が相当お悪いようでしたし、その当時の現宗研の顧問先生方も私を押してくださっているので、私も決心してお引き受けしたのです。早いもので知らない間に丸七年も経ってしまいました。石川教張先生とバトンタッチをする時に、古い宗務院の講堂でお互いに握手をして、それでは後を頼む、はい頑張りますと、あのとき握手した手のぬくもりが今でも残っております。こんなに早く逝かれて本当に残念でなりません。思い出はいっぱいありますがほんの一部を述べました。どうも有り難うございました。
 司 会 木村勝行上人、お願いいたします。
 木 村 三分間という事で念押しをいただきました、木村勝行でございます。大変お話はいっぱいあるもんでございますから、何から話していいかわかりませんけれど、石川教張先生と上原専祿先生との出会いとそのお話をしておきたいと思います。とにかく宗門の宝といたしまして石川教張師は、歴史家であったというように思うわけでございます。宗門の中では、歴史家は本当に少のうございます。そういう意味では、非常に大事な人であったと思うんです。現代史という、現・近代史に関わって歴史を考える人間というのは、少ないんじゃないかと。とにかく歴史というのは、仏教の中には存在いたしません。従って歴史というものを取り上げるだけで仏教の中では異端、ということになろうかと思います。「無」とか「空」とかそういう空観論は非常に多いわけでございますし、あるいは極楽浄土とか、空間的に描くことは出来る、しかしこれを時間で描けというと一つもないということが仏教美術の世界でもあるわけですが、その中で時間を取り上げてものを考えようということ自体が無理じゃないか、ということなんですが、中村元先生をはじめ、ご苦労なすっているのはその点でございまして、インド哲学には時間というものがないんじゃないか、いや少しはあるよというような話でございますが、そういうような中で上原専祿先生に接して、仏教には時間がないのですがどうしたらよいでしょうか、ということでございました。ちょうど、上原先生の御家庭の状況は、「別れは悲しく」という小冊子をお出しになっていたわけですが、それは奥様が亡くなったその後でございます。そこへ今のような問題を持ち込んで、先生と歴史観について、吉祥寺でお話を、五時間ならいいんですけれども六時間承りました。その後本佛寺で、石川教張先生のお寺で、上原先生を呼んでまたそこで六時間びっちりお話を聞いたり質問をしたりいたした次第でございます。とばしますけれども、何れにいたしましても、日蓮聖人の歴史の目というものは素晴らしいものがある、なぜ蒙古の襲来というものを予言することが出来たのか、いや予言じゃないよ、あれは情報を受け取る力がある、文献を忠実に読むというようなことからだということで、石川教張師の歴史の目というもとがそんなことから育てられたのかな、と思っております。石川教張師を悼む和歌二首を作りました。読まさせていただきます。「教張師、優しさ残し散りぬらん、無欲な君よ、祖師は迎えん」。もう一首、「桜花散り、根に帰らんと急ぎしか、永訣その朝に、春雨降りぬ、四月二十四日に」というわけです。有り難うございました。
 司 会 久住謙是上人、お願いいたします。
 久 住 久住謙是でございます。石川上人が突然ご遷化されて、私にとっては師匠を失ったような、そういうショックでございました。思い起こしますと三十年来のおつき合い、ご指導いただいて今日私があるのは本当に石川教張上人のおかげというふうにいつも思っているところでございます。現宗研では石川さんと親しくよばせていただいておりましたので、お許しいただきたいと思います。石川さんは、いつも物事を考える時に、日蓮聖人の心で考え、そしてその尺度でいいか悪いかを判断される、というお考えでございます。そういう尺度で、日蓮聖人の志に生きること、日蓮一門作りということを、私はよく教わりました。現宗研にいましたが、奥様ともよく電話しました。本当に奥様もそのようなお考えで、社会的正義とは何か、本当にその辺の基準をきっちり弁えておられました。現宗研が今宗門の中でこれだけ発展してきているということは、現宗研の主体性、独自性というのはどなたもおっしゃっておりませんが、これは石川さんが守り通してきた、政治的な圧力の中で、いつも抵抗し、現宗研の姿勢を守り通してきた、これは言えると思います。石川さんはそういう基準に立って、どういう権力に対してもきちんとものを言う、という立場をとっておられました。先ほど星上人が話をされました、全国縦断唱題行脚ですが、私は全国日青にいたために、宗務所長さん、宗会議員さんから僧階剥奪まで脅かされました。そんな中で石川さんが、久住さん頑張れ、といってくれました。クビになったっていいじゃないかと、日蓮聖人のみ心に適うならそれを通しなさいよ、応援してあげるから、ということで、研究員という立場でその当時星上人もご一緒でございましたから、大きなパイプでその話し合いを持つことが出来ました。幸いに私がクビにならないで筋を通せたというのも、石川上人の生き方を私も実践させていただいたおかげだというふうに考えているところでございます。お亡くなりになる三日前の二十一日、愛知県のあるお寺で講演されましたが、そこの住職がすぐテープを私のところに送って下さって、お元気なんですが、お亡くなりになるんだなということをそのビデオを通じて教えられました。私は日蓮聖人と同じ六十一年生きてきました、という言葉がありました。そして病気がちで、目が不自由で、アヌルダの十大弟子の例え話で、目が悪い、これも仏さまの、私に対する試練だといっておられました、そしてアヌルダが普明如来になった、普く明らかに照らす仏さま、それに何かを託して自分を語っておられる部分がありまして、なにか私は、その三日前の講演が、お元気でありながら突然死される石川さんの、その宗教的な生命の終焉ということを、なにかもう語っておられたというふうに今思わせていただいているところでございます。どうも有り難うございました。
 司 会 伊藤如顕上人、お願いいたします。
 伊 藤 先程来より多くの方々から石川さんとの交友の有様が出されまして、久住さんもおっしゃったように、私も石川さんと呼ばさせていただきます。ちょうどこの庁舎が出来た時の四月十六日でしたか、その時にまいりまして現宗研のところにおりました。そこへ、中濃先生が入ってこられて、その後、東京東部の所長をやられました新井貫厚上人と石川さんが集まりまして、青年会当時の事やら宗務院の中での行政のお話やら、いろいろな思い出を語りました。それから一週間後に亡くなられました。四月の二十七日・二十八日に清澄山へまいりましたが、その話で持ちきりでございました。本当に愕然としたわけでございます。昭和四十年になりましょうか、ちょうどその当時、公害問題やら過疎問題やら、ないしは出稼ぎ問題とか、いろいろな社会問題とかが澎湃として出ておった時代でありました。その頃私は桑名の出身で、四日市地区は、車だったら十分で行きます。そこの檀信徒の方々が、いわゆる肺気腫と申しましょうか、心臓のポンプがちょうど風船が破れた状態になっているという、慢性気管支炎、喘息で、四日市喘息と呼ばれていますが、それで倒れていく、病院へ入っていくと、本当に大変なことに遭遇しました。檀信徒の方々の事を思い、私はそのことを第十四回でしたか、中央教化研究会議で発表データをあげて現状を訴えました。そこへ石川教張さんが、横須賀の丸山邦雄師が日蓮宗新聞社におられましたのを帯同して来てくれました。それこそ一日中案内いたしまして、そういう状況の中で座談会を開いた時も来ていただきました。そういうようなことで、すぐに敏速に行動する方だと思いました。石川さんの、生涯の中での活動の有様が、学究の徒であり、また実践家であり、また本当に人間味あふれる温厚な人格の中に素晴らしい慈悲心を抱いている方であった、ということが証明されております。四十年ほど前になりますが私の檀家が杉並区で亡くなられて、お通夜とそれからお葬式が来るまで本佛寺さんに泊まったことがあります。その時、石川さんの本当に素晴らしい人柄というか、直に体験した事がございます。そしてそういうことの中で、私自身考えてみるというと、昭和五十七年の第四十九宗会において、私は宗祖の立正安国の精神に基づき、世界の平和を希求し、核兵器廃絶・軍備撤退を求める決議を日蓮宗宗会の名において制定してくれという緊急動議を出しまして、今は亡き京都の風間随宏師がそれを受けまして、会の賛同を要請し、全会一致で動議が成立しました。その時には石川教張師も中に入っていただきましてね。私どもは同心会でそのことを申しましてご賛同を得て、そして当時の正全会の風間さんをその時に呼んで、そしてこれでいこうということでそのことを発議した、その時に石川教張師が入っていただいたと、こういう思い出が残っています。更に長瀬総長の時にもそういうことを再提議していまするけれども、何れにいたしましてもそのような中で、あの頃の交流のことを思うと、六十一歳でお亡くなりになるということは、大変だったなと。このあいだ、いわゆる雑司ヶ谷の近江正隆さんの正力松太郎賞のお祝いが、本葬の後にありました。そんなときにも奥さんと話して、そうですね、ということもございました。私は昨年の十一月三日に、立教開宗七五〇年慶讃のために、私どもの自坊の顕本寺の跡をたどるという自費出版を作りました。『教風を掲げて』という題?ですが石川さんの書いてくださった個所をちょっと読んでみます。この原稿は全くプロ、本当に真っ黒けの原稿でございます。これ、遺品になっております。ちょっと、前段と後段だけ読みます。「仏の慈悲を受持し、世の平和と人身の浄化に献身する誓願の志を抱いて生きることは、法華経と日蓮聖人の信仰の原点である」、これはご自身のことだと思います。「この度、立教開宗七五〇年を記して顕本寺の歴史を再発見し、その数々の記念すべき事蹟が広く世に示されることとなった」という形で、中略いたしまして、「顕本寺の歴史を知ることは、法華経信仰の灯火を掲げてきた先師と先達の誓願の志に触れることであり、更なる甦りを期して永遠なる釈迦仏の慈悲の精神を、今と未来に伝える決意を拝見した、報恩の書ではないかと思うのである」というのが結語です。私自身こんなに褒めていただくような男ではございませんけれども、石川さんの志を私に託して開陳されたんだと、このように思う次第でございます。そんなことを申し上げまして、ちょっと時間をオーバーしました。これでご無礼します。有り難う。
 司 会 蟹江一肇上人、お願いいたします。
 蟹 江 名古屋道心寺の蟹江です。今まで話を承りまして、私はいつもそう思って、私たちにとって、生きた、実に偉大な教訓者だと私はいつもそう思って尊敬をし、また我が家では家族や檀信徒全体が、石川先生、石川先生といって本当にみんなから慕われていた先生です。私は長いおつき合いではなかったのですけれども、たまたま立正大学の講演で、石橋湛山さんがおっしゃられた、政治というものは常に自然環境と一緒に進んでいくものが政治なんだということを言われていることを拝読しまして、まさにそうだ、高齢化社会というのと少子化の社会が生まれてくる、一体日蓮聖人はどう考えているんだろうと思って、日蓮聖人とそれから医療との関わりということについて、少し勉強させていただいたんです。その時に石川所長が、それはいい課題だなということで、いろいろな分野からその課題は良いからと取り上げていただき、中央教研のとき、平成六、七年ですね、二年間同じ問題を出しました時に、石川先生、所長さんだった時に、それはいい課題だなということで非常に感嘆していただいたことを覚えています。それから、それじゃ一体研究するメンバーはどなたがいいだろうと言うことで、先生から話を承りまして、それで古河良晧さん、心理学者の渡部公容さん、宗学者の山口裕光さん、また内科医の柴田寛彦先生、実際活動家の奥田さんだとかというような方々はどうだろうかということで、話が纏まりまして六人で出発したわけです。そんなような形で、現在今なお石川浩徳先生のご指導の元に一生懸命勉強していますけれども、非常にそういう面では勉強させていただきました。特に私の寺では、「女人法華」という話をしていただいたんです。先生がお書きになった『女人法華』という本ですけれども、その本を取ってもらいまして、婦人部が約四十人ほどいまして、婦人部のほうで講演をしてもらったんです。その後で一緒に食事でもどうですかということで、幹部の方々何人か一緒に食事に誘った時に、これは美味しいなというわけで「ふぐ」をつまみながら一緒に話をしながら、「いっぺん女房にも食わしてやりたい」、そう言っておいでになったことがありました。その話を承ってやっぱり奥さん孝行で偉大な人でした。先生はどうですかといったら、女の人は大好きだというわけです。大好きだけれども「女としてみるのは女房しかいない」ということをよくいわれてまして、本当に堅い真面目な人であって、かつまた我々にとって大きな指導者だなということをしみじみ感じました。石川先生の残して行かれた大教訓。ビハーラ講座のほうもそうした意味で段々段々発展してまいりまして、今は石川浩徳所長さんのご指導を受けながらもう六回になってきました。非常に成果を上げつつありますけれども、これからもいろいろな面でご指導賜らなければならないことがたくさんあるわけですけれども、石川先生が亡くなって本当に寂しい思いを。一度いっぺん高山のほうへどうですか、とお誘いした時があった。奥さんも一緒にどうですかと言ったら、女房はちょっと父親が病気でねと話を承っておりまして残念なことに、とうとう一度も名古屋へ来ていただくことなく、とうとう名古屋というよりも高山のほうへ来ていただいて、ゆっくりしていただこうと思っておりましたけれども、ついに機会を失してしまいまして、今日になってしまいましたけれども、そんなような事情でありますので、どうかこれから先も、一生懸命に少子化とか高齢化社会における問題などに対したり、人間の生と死に対する問題についてうんと勉強させていただきながら、新しい自分を開拓していきたいと思っております。有り難うございました。
 司 会 吉橋勝寛上人、お願いいたします。
 吉 橋 多くの各上人からの、石川上人を偲ぶいろんなお言葉をお聞きしておりましたが、いまにも石川上人が、遅くなってごめん、と言って汗をかきかき部屋に入っておいでになるような、そんな気がしてなりません。素晴らしいお写真が、ここに掲げられております。現宗研による『近代史年表』の編纂委員会か何かで千葉県に泊まった時かな、石川先生は本当にいいお顔をしていますがと、確か久住上人が言ったのかな、でももう一ついいお顔があるんですよ、それは寝顔がもっと素晴らしいのですよとおっしゃっていた、そのことを今ふっと思い出しました。石川上人には、私も大変お世話になった一人でございます。私は、父が五十の半ばで亡くなったんですけれども、その前後で、私自身はもう寺は継がないと言っていました。そういう中で、石川上人のお父さん、教統先生ですね、父の同級生で、両師とも大変真面目だと人から聞いていましたが、石川教統先生は、私がお寺を継がないということを聞いて、教張さんに、どうも妙高寺の息子は寺をやらないでサラリーマンらしいが、何とか青年会でも入れたらいいじゃないかと言うことを言ってくれたみたいです。そんなわけで青年会に入れていただき、現代宗教研究所にも研究員として誘ってくれました。私は立正大学ですけれど、宗学も仏教学も全く勉強していません。はずかしかったんですけれども、石川さんが、じゃあ何か好きなことがあるんじゃないか、なにか関心持っていることがあるんじゃないか、といろいろと心配してくれました。丁度その頃、家の近くでマンションを建設をするので環境問題に関心があるというと、それがいいじゃないか、そのことを現代宗教研究所で研究したほうがいいと言って下さったり、いろいろな面であたたかい手をさしのべてくれたと私は思っています。東京西部宗務所の書記を私が受けた時でした。その時石川さんは、宗務所は今までの地方行政を事務レベルでやるだけじゃないんだ、教化発信の拠点とならなくてはならん、そのためには教化センターを作ろうじゃないかと声をかけてくれ、一緒に作らさせていただきました。それでまず財源を作るために、株式会社「ほーど社」という会社を石川教張さんのネーミングで設立しました。石川先生が「上人」、私が「商人」というようなことで、私自身は何も出来ないながら、何とかして地域の教化センター第一号が発足しました。石川さんは、たぶん中央教化センターも大きな夢であったと思いますけれども、彼が現宗研所長の時に宗政、政争の具になってしまったようで、それから中央教化センター作りがトーンダウンしたような気がします。宗務院新庁舎落慶式に遅れていったら、いいからそこへ座れよといってくれた、あの引っ張ってくれた時の事が忘れることが出来ません。それが最後でした。いろいろとお世話になったことを、今日は奥さんもいらっしゃいますけれども、我が家にも度々おいで下さいましてご指導いただいたことを、心から御礼申し上げます。どうも有り難うございました。
 司 会 遠藤教温上人、お願いいたします。
 遠 藤 小田原の遠藤と申します。私が石川上人とお会いしたのは、立正大学の四年生の時です。たまたま同じ堀之内法縁ということもありまして、それ以来ずっと石川上人のお世話になりっぱなしで、自分が何か困ったこととか相談事ができると、電話したりなんかしていました。その時にもう、遠藤君これこれこうだから、というようなとても優しい声を掛けていただきました。本当に残念な思いがします。今日はご連絡いただきました印刷物に、石川上人の平和運動とか社会活動の側面が今まであまり語られてないということで、こういう集まりを持つということでございました。私もひとつ気がついたことがございますので、お話をさせていただきたいと思いますが、私自身は、現宗研には、確か昭和四十年から五十五、六年頃まで関わったと思うんですけれども、ろくな研究ができなかったもんですから、庶務的な仕事をさせていただいたわけですが、靖国神社の国営化の問題が非常に厳しい時でして、現宗研で月例会をやりまして、その結果を日蓮宗新聞に掲載して世論を喚起しようと言うことになったんですけれども、その時に原稿をお出しして、先ほど尾谷上人がおっしゃられたように、これが日蓮宗新聞で取り上げてくれるかが問題だと言うことになりまして、石川上人が、遠藤さんの名前でかまわないから書いた方がいいよ、出した方がいいよということで、それもやはり昭和四十年から四十五年の間くらいかなと思うんですけれども、日蓮宗新聞の一面を使って靖国神社の問題を取り上げたことがあります。たまに縮刷版を見て思い出しているんですけれども、こんな事をよく自分で書けたもんだな、というふうなことを思ったりしています。もう一つは、石川上人の平和運動ということでして、先ほど高橋上人がおっしゃられたように、日本宗教者平和協議会というところに、石川上人も私も関わっておりました。その傘下の団体で、宗教青年平和協議会というのがありました。それでこれも何年のことだか、私もルーズなもんですからわからないんですけれども、宗教青年平和協議会の委員長を石川上人がお務めになっているんですよ。これは、東京西部教化センターで出された『教化情報』の石川上人の年譜とか、その他石川上人が関わっているものにも載っていないので、是非これは、石川上人が宗教青年平和協議会の委員長を、先ほど河崎上人が事務局長とおっしゃられましたが、石川上人の後を私が委員長を務めさせていただいたことが何年かありましたのですから、委員長を確かにお務めになっておられまして、これは仏教だけでなくて、キリスト教や教派神道の方を含めた他宗教青年の平和運動の団体としては非常に貴重な存在で、一定の評価がされていいんではないかなと思いますので、是非そういう面の石川上人を記録していただけたらな、というふうに思っています。先ほど申しましたように同じ法縁で後輩でもありましたので、非常にあたたかく見守ってくださいまして、私の石川上人の印象は暖かくて包容力のある方だったなと思います。返す返すも残念な思いがします。今日は奥様もお見えですので、ぜひ奥様、お体には気を付けられて石川上人の分まで頑張っていただけたらなと思っています。今日はこういう席に呼んでいただいて、本当に有り難うございました。
 司 会 立正平和の会の関係で、まず新間智照上人お願いいたします。
 新 間 新間でございます。私は今日は立正平和の会という立場で出ているんですけれども、先ほどからお話がありましたような石川上人のプルナの会の時代の平和活動は、全く実際には存じませんでして、資料なんかを通じまして知っていましたけれど、立正平和の会になってからの石川上人ということでございます。もっとも私は石川上人とは三十年以上のおつき合いをするようになりましたのは、現宗研があってからのこと、現宗研あってこそのおつき合いでございます。三十四年前に現宗研が出来ました時には、私はまだ神戸で遠いものですから、新幹線もまだありませんし、そういうものが出来たということは知っていますけれども、自分とは関係のないというふうに思っておりましたが、三十四年前に第一回の教研会議がございまして、それに出席してから現宗研との関係が出来まして、翌年教研の運営委員になりまして、そのまま引き続いて現宗研の嘱託になりました。嘱託になって初めのうちは、嘱託同士のつき合いは親しい方があったんですけれども、現宗研の主任の方々としては、まず大変よく話をするようになったのは木村勝行上人でありまして、そのうちに石川教張上人ともお話をするようになりました。もっとも私は無口ですから、どちらかというと聞き役でございまして、ずいぶん木村上人や石川上人からいろんな話を聞きまして、また、石川上人は私より十五歳も年下なんですけれども、全く同じような年齢の友達のようなおつき合いをさせていただきました。平和運動に関しましては、それから四、五年経ちまして一九七二年、昭和四十七年に東京で「インドシナの平和と正義のための宗教者世界集会」というのが開かれまして、現宗研で東京へ出ることも多くなってきた時でありましたんで、誘われてその会議に出席いたしました。東京の渋谷の山手教会が会場だったんですけれども、その後で帰り際に石川上人から、立正平和の会というのがあると聞いたんです。私の記憶では、石川上人から話を聞いたと思っているんですけれども、詳しいことは後で近江上人なんかに聞いたと思いますけれども、それが私が立正平和の会に入って今のように平和運動を続けている発端であります。ということで、その他石川上人には現宗研時代にずいぶんいろいろと、いろんな事がございましたけれども、時間がまいりましたので、終わります。有り難うございました。
 司 会 木村隆張上人、お願いいたします。
 木 村 木村隆張と申します。隣の池上本門寺に勤めさせていただいています。石川教張上人の弟子なんですが、私は五十一歳で神奈川県に勤めていました公務員の仕事を辞職しまして、縁あって池上本門寺に職員として働かせていただくこととなりました。本当にその池上へ来たおかげで、石川先生とお会いすることが出来て、しかも私はまさか僧侶になるなどと夢にも思っておりませんでした。ただ、池上に来て、それまでは「仏ほっとけ」で母が熱心に菩提寺の先祖供養や仏事をこなして、近所の日蓮宗の檀家の講中の方と一緒に、法華経のお題目の信仰をしておりました。私も池上に来た時は三年くらい母の供養も兼ねてやっていればいいんだなと、そのうちにお題目の方も止めてもいいのかなとそんなふうに軽く考えていたんですけれども、本当にそういう意味で師に出会えたということは、今でもお題目講中で十軒ほどで月一回、お題目の信行会を続けているんですけれども、これが出来たのも私が僧侶になって、導いてくれた師があって、師の教えを日々の講中の教えの中に生かすことが出来て続けられてきたんだなというふうな思いでおります。本当に私は池上に来て、宗教つて何なんだろうか、母が一生懸命熱心にやって生きた日蓮の教えというのは何なのかということを、真剣に石川先生にお話して、僕は君の師匠になっても師匠らしいことは出来ませんよ、それでもいいですね、とおっしゃった記憶があるんですけれども、本当にその後、師匠になっていただいて、今ではもう僧侶でない自分というのは考えられないくらい日蓮聖人の教えの道に生きることが出来まして、感謝と無念さで一杯なんですけれども、師と出会った中で一番教えられたことは、人間とは何か、人間とはどう生きるべきか、そういうことを優しく教えていただいている、そういう思いでおります。もう十年ほど池上の講座で日蓮聖人の生涯を語られ、お送りさせていただきましたけれども、車の中でふっと講座の始まる前に師匠と交わす言葉の中に、疲れた時もあったでしょうし、顔に表れている時もあったでしょうし、本当になんか、息づかいが、思いが今でも甦って来るような、そんな気がしてなりません。私は師匠に言ったんですけれども、私の師匠は後にも先にも師しかいないし、日蓮聖人の師資相承の教えがありますけれど、私は五師相承で、石川先生はその中の一人なんですよと、笑って聞いていただきましたけれど、これからどういうふうに生きていくか、なかなか大変なんですけれども、師の教えを一つ一つ実践して生きていきたいと思っています。突然でしたのでちょっと纏まりませんけれども、師に恩返しも出来ないまま、遅い出会いで早く別れなければならない、そういう寂しさと悔しさと、それらを明日からの生きる力に変えて頑張っていかなきゃいけないのかな、と思っております。どうも有り難うございました。
 司 会 日本近代仏教史研究会の関係で、まず西山茂先生お願いいたします。
 西 山 ご紹介いただきました、東洋大学の西山でございます。私は、宗外の者であります。これ以後の方は、だいたい宗外の方だろうと思うんですが、しかし安中先生や、早坂先生、それから望月先生もいらっしゃいますので、これらの方は、日本近代仏教史研究会の同僚でありますと共に、日蓮宗の僧籍をお持ちの方ですね。私は、宗外者でございます。どういう関係が石川先生とあるかということですけれども、この研究会が作られたのが十年くらい前なんですけれども、それ以来のおつき合いということです。私は宗外者ではございますけれども、研究という面で日蓮主義の面とか、それから日蓮系の新宗教の研究をずっとさせていただいてまして、この研究会を通じて十年のおつき合いです。その他にも東京西部などで、一緒に講師を頼まれましておじゃまに上がったりと、そういうようなつながりがございます。私から見ますと、石川教張先生という方は非常に器用な方で、何でもおやりになる、多才な人ですね。日蓮宗のダビンチみたいな方だと私は思っているんですけれど、詩もお書きになる、小説も書かれる、研究もおやりになり、教育もおやりになる、平和運動もやれば社会運動にも取り組む、こういう何でもやれる方なんですね。こういう方がおられて、しかも宗外の方と話す時には、宗外の方と話すことが出来る言葉をお持ちの方だった、こういう事で、つくづく尊敬もし、感心もさせていただいてきたわけであります。それで、石川先生の細かいことは存じ上げないんですけれども、あたたかい人であることはすぐわかります。意外と怒ることもありまして、怒るというのももっともな話なんですが、創価学会と日蓮宗の小樽問答の問題です。あれはとてもじゃないけど問答じゃないと怒っていましたですね。これは素晴らしい怒り方だと思っています。七五〇のことに関して彼が冊子をまとめたものがありまして、読んでみたんですけれども、要するに日蓮仏教の教えというのは、お寺さんやその中だけに閉じこめておくことのできないものであると私も思っているんですけれども、七五〇はどうなっているかということです。もしそうであれは非常に悲しいということで、七五〇なので、さあ本堂をきれいにしましょう、庫裡が建ちました、そしてイベントが一つ終わりましたと、こんなことでいいのかという話がありまして。本当に私もその通りだと思っています。そういう意味では、本当の悲しむべき事を悲しむ人だと思っています。それから、石川師は忍ぶ人でもあったということです。それは私たちの研究会のことで、あとでたぶん安中さんや、高橋さんがお話になる思うんですけど、十年前に会を立ち上げる時に、たいへん陰のご苦労をしてくださったんですね。恐らく石川教張先生がおられなかったら、この研究会は出来なかっただろうと思います。でありますけれども、表に立って出しゃばらない方でした。立てるべき人を立てて、会長さんや役員の方には他の人を立てましたですね。そのために大変ご苦労をされたと思いますし、悔しい思いも色々あったと思います。これは記録に留められると、恐らく役員が怒るかも知れないんですけれど、そういうことを忍の一字で陰にかくしてですね、やってくださった。それを、本当に感謝しております。そんなことで、短い十年間のおつき合いでしたけれども、大変いろんな事で感心させられましたし、尊敬させていただいてきた十年間でありました。こういう方を日蓮宗が失われたことは、本当に残念ですし悲しいことですけれども、それこそ日蓮聖人じゃありませんけれど、「二陣三陣続けよかし」でね、どんどん石川先生のあとの穴を、大きな穴ですけれども埋められて、外の人と十分お話の出来る立派な多彩な方を、日蓮宗としても輩出していただきたいと思います。本当にお別れは寂しいんでけれども、たくさんの後継の方が出られることを願いまして、偲ぶ会の手向けの一言とさせていただきます。有り難うございました。
 司 会 高橋延定先生、お願いいたします。
 高 橋 日本近代仏教史研究会の高橋です。恐らく私が一番、先生とは新しいお仲間なんじゃないかと思います。近代仏教史研究会のそもそも事務局は、最初は先生のお寺に置かせてもらいまして、なおかつ、近くの郵便局に口座を開きました。私は、今は西本願寺派の坊主をしているんですけれども、その当時は佼成出版社におりまして、杉並に住んでおりました。そういう関係で堀の内の郵便局に口座を開いて、最初はお寺で案内状をプリントゴッコで作って出していました。近代史仏教研究会というのは、隣の家の垣根、隣の家とは宗門といってもいいと思うんですが、各宗門・宗派というのは外からは非常に高さがあって、垣根が高くて互いに見えにくいわけです。ですからそういう宗門を越えて、少しずつそれを越えることによって、新しい近代仏教というものを見ていこうじゃないかというふうなことで集まったんじゃないかなと思います。ですから、隣のバラはきれいかなと思いつつも、隣の家の垣根が高くてなかなか見えなかった。それを、見ようとして一番最初に会を開いたのが、日蓮宗の新宿の常円寺さんでした。次に大きな会を開いたのは、愛知県岡崎市の大谷派の別院でした。その後は、比叡山の麓でやったり、いろんな宗派でいろんな形で関わっていただく形で展開していきました。最初は本佛寺さんでスタートした事務局が、何と今は立正大学の安中さんのところにあり、段々発展していったと思います。私が一人で事務局をやっていた時代はもう、先生にほとんど毎日のように愚痴を聞いていただいて、むかむかむかむか怒っては、愚痴を聞いていただいたと思います。ですが先生のお顔を写真で見て、思うんですけれど、ベレー帽をいつも被って、なんかこうにこにこしている。私、一度聞いたことがあるんです、そのベレー帽というのは何でかぶっているのか。いや別にどうって事はない、これを被っていればどこへ行ってもかまわない、つまり公式な場所でも被れる帽子なんだと、だから被っているんだと。私の方は毛坊主ですから、頭を隠すのかなとか、寒いのかな、とか思っており、そういう失礼なことを言ったこともあります。ですからそういう形で、先生を中心にして近代仏教史研究会は立ち上がってきたし、私の恩師の柏原祐泉先生もつい最近亡くなられました。私にとって仏教史を研究する上で大きな関係のあった方々が次々と亡くなって、ショックを受けております。私自身は、真宗教団と国家と宗教という問題をテーマの一つにしております。ですから、私なんかはやっぱり神道と仏教がどう関わってきたか、ひょっとしたら私の個人的な意見ですけれど、戦前の真宗教団がある意味で神道国教化政策に手を貸して、最後には真宗教団もそれによって自分たちの首を絞めたんじゃないかという気がしています。そんな話も先生にした記憶があります。ですから、今日こういう課題が克服されたのかというと、宗門といわゆる末寺の問題、教学と布教の問題を含め現実の中で起きてくる問題は、奥深い。本当に戦前の払拭されない一種の道徳観というか、神道=道徳というものがあって、今日では習俗でしょうか、それに対して我々がどう対応していくか、そんな課題が残されている気がします。そんなことを先生の写真を見ながら、思い出しました。まとまりないですけれど、夜行で来て夜行で帰りますので、少し寝ぼけているところがあり、失礼しました。
 司 会 安中尚史先生、お願いいたします。
 安 中 安中でございます。西山先生ですとか、高橋先生がお話になりましたように、日本近代仏教史研究会という会を通じて石川先生とおつき合いをさせていただくようになりました。この会の発足の少し前に、今度こういう会を作るから君も参加してみないかねとお声を掛けていただいたのが、もう十数年前だったと思います。当時、今でもそうですけれども、日蓮宗の近代の歴史を研究している人、また学生というのが非常に少のうございます。今私も卒業論文の指導など学生さんたちに対応しておりますけれども、決して多くはありません。その当時は、もっと少なかったわけです。その中で私が近代というテーマを持ちまして、修士論文また、博士課程に進みまして研究を進めている中で石川先生とお会いできて、研究の面で、また日蓮聖人の教学を勉強する面で、石川先生からいろいろなことを教えていただいた次第であります。ここにいらっしゃる皆さまより非常に短い、わずか十数年という間、先生とおつき合いさせていただいたんですけれども、本当に多くのことを先生から教えていただきました。また、これからもっともっと多くのことを先生から教えていただこうと思っていたんですけれど、今年の四月に先生は霊山に向かわれてしまいました。これから先生のご遺志を受け継いで、若い人達に日蓮宗の近代の歴史、また日蓮聖人の教えなどを、教壇を通じて、またいろいろな機会があるかと思いますけれども、そういう中で教えていければいいなというふうに思っています。先生と、現代宗教研究所の他教団研究プロジェクトに参加させていただきました。『日蓮宗の近現代』が発行される時には、先生は研究所長を退かれたあとで、現在の所長の石川浩徳先生のもとで発行されたわけですけれども、そういう研究プロジェクトに参加させていただいて、本当にいい経験を積まさせていただいたと思います。本当に、石川先生の短い生涯を残念に思ってなりません。本当に簡単ですけれども、これでお話を終わらせていただきたいと思います。
 司 会 工藤信人先生、お願いいたします。
 工 藤 ご紹介ありました、工藤と申します。なかなかご存知ないと思います、なぜ私がここにいるのか、よくわからないんですけれども、一応本籍は仏教タイムスに所属しております。何人かの方はお顔を拝しているんですけれども、なかなかお会いする機会がなくて、こちらもちょっと戸惑っております。石川教張先生との最初の出会いなんですけれども、実は先ほどすこし話がありましたけれども、渋谷内局の頃だったと思いますが、他教団対策のことで、石川先生とある宗教評論家の方が、宗会の休憩時間に傍聴席でかなり厳しい論争をされていたことがありました。その時に初めてみまして、なんて日蓮宗というのは荒っぽいところだろうという印象がありました。その後に石川先生にお会いしましたら、おとなしいというか、穏やかな方だということがわかりました。また近代仏教史研究会に、私が仏教タイムスにいながら修士課程にいたことがありまして、その当時妹尾義郎の研究をして、そのことをこの研究会で発表しました。その発表後に、何で君はそういうことに関心を持つんだ、何でこういうことが日蓮宗の中から出てこないんだろう、ということを話されたことを思い出します。妹尾義郎という人物が社会に対して常に積極的に働きかけていく姿を見ますと、確かに石川先生と重なる部分があるのではないかなと思っています。その後、仏教タイムスの取材を通じて何度かお会いしたんですけれども、特に印象に残っているのが一九九五年、オウム真理教の地下鉄サリン事件があった頃です。この年は宗教法人法の改正論議がされた時です。それに合わせて創価学会・公明党勢力が、新進党を盾にかなり力を伸ばした時期だったんですね。それに対して、かなり危機感を持っていた反面、宗教法人法改正にたいしてはきちんと、反対だ、国家がいつでも入って来るという口実を与えてはならない、という意見だったと思います。その点では、首尾一貫した主張を持っていた方だという印象を持っています。実は石川先生が亡くなられる直前に、四月十九日だったと思いますけれども、もと朝日新聞の記者で北畠清泰さんという方が突然亡くなられたんです。この方も六十三か四くらいだったと思います。それから一週間も空けないうちに石川先生が亡くなったという話を聞いて、本当にびっくりしました。二人とも早稲田大学を出て、学部は違うと思いましたけれども、早稲田を出て朝日新聞へいき、その後に長崎シーボルト大学にいかれた北畠さん。こちら石川先生の方は、また立正大学の方で学ばれまして、ずっと宗門の道へ入られましたけれども、まさに重なるような時期に亡くなられたということは本当にびっくりしました。もう一人、今年、私の心の中で大変印象に残る人が亡くなられたんですけれども、その方は弁護士の遠藤誠さんでした。この方も、もの凄く面白いというか、ユニークな視点から仏教を語られる人でしたけれども、なぜか似たような視点を持った人達が急に亡くなられたなと思いました。どうも有り難うございました。
 司 会 早坂鳳城上人、お願いいたします。
 早 坂 早坂鳳城と申します。私と石川教張先生との出会いは、まだ十数年足らずのことでございます。また現宗研関係の中では、今日の皆さんの中では一番若い者です。思い出はたくさんあるんですけれど、寧ろ石川教張先生に教えられました大切な教えとして、これを誓いの言葉にさせていただきたいと思います。石川教張先生は常にですね、吉田松陰の草莽崛起の志で研究を続けなければいけないと。それから宗門には、渡邊総長猊下もそれから星議員さんも現宗研にご縁のあった方ですのでご理解いいただけると思うんですが、現宗研は宗門には不即不離であらねばならないというお言葉でございます。平成七年に現宗研主任になって、当時の現宗研の研究というのはイベント的な方向に流れてしまって、地道な研究は少なくなってしまい、何とか現宗研を本来の姿に戻さなければいけない時でありました。そして、いわゆる非常に政治的になってきた中での、改革をしなくてはいけない時でございました。ゆえにその主任になった時に、宗門には不即不離でなければならないというのは、非常に厳しいお言葉だなと思いました。しかしこのことは、石川教張先生が遷化された後に残った若い現宗研研究者の中では、必ずこれからも志を継いでいかなければならないお言葉だと思い、吉田松陰の草莽崛起の志で、宗門には不即不離で行く。今度の機構改革で、伝道推進課が出来ました。そうすると現宗研も、やはり時代を荷った新々の研究をしていかないと、その立場をあやまるでありましょう。よって、この二つの言葉を大切にして私ども現宗研研究者は進んでいくことを先生の前でお誓いして、終わりにさせていただきたいと思います。どうも有り難うございました。
 司 会 望月哲也先生、お願いいたします。
 望 月 望月でございます。現代宗教研究所に所属していた時期に、当時は康明といっておられました石川教張先生に大変お世話になって、生涯を通しての先輩・後輩という形のご厚誼をそのままずっと続けさせていただいていたという関係でございました。実は、四月二十四日に亡くなられる約一ヶ月前の三月二十九日に、中尾堯先生の立正大学定年退職古稀記念祝賀会がございまして、その時にたまたま私と石川先生とは席がとなり同士で、久しぶりに会って、他の人の祝辞なんかそっちのけで二人で思い出話にふけっておりました。またあのときの現宗研の仲間と集まって何かやりたいね、と二人で盛り上がっておりました。今日もおいでになっております、木村勝行上人とか久住上人とか吉橋上人、遠藤上人。こういった人達と、当時はまだ独身の人も多かったものですから、時間も省みずに議論をしたり、酒を飲んだりという形で問題意識を深めあったという若き日の思い出があるわけでございます。それより前、私が昭和四十一年に立正大学大学院の修士課程に入りました時に石川教張先生が博士課程の一年に入ったのですが、その当時、私の祖父の望月歓厚が仏教学の大学院の入試の結果なんかを持っておりまして、ちょっと私に見せてくれたりして、「おい哲也、ドクターコースに石川という非常に優秀なやつがいる」と。成績では確かトップだったんですね。で、非常に優秀なやつがいる、こういう人におつき合いして一生懸命勉強するように、という意味を込めてでしょうけれども。それで石川という人の名前が頭に刻み込まれまして、どういう人かなと。それから程なく大学院で、また現宗研でおつき合いが始まったわけですけれども、まあ優秀だということで相当の切れ者的なカミソリのような人を思い浮かべていたら、実に穏和な人柄で包容力のある人であるということで、私、いっぺんに尊敬して今日に至っています。当時現宗研では一緒に研究会をし、あるいは教化研究会議の準備をし、あるいは様々な調査旅行もしましたし、合宿等もしました。そういう中でいろいろな議論のやりとりが、私にとってその後、宗教社会学をやっていく上での一つの原点になったのではないか。特に石川さんはそういう議論の中で、いろいろなアイディアを出したり、議論をまとめたりということでご指導をいただいたということを、感謝しております。その後私は現宗研を辞めてましたが、石川さんは現宗研一筋にいかれると同時に、様々な著作を発表し、様々な提言も宗門になさっていることを、私は遠くから仰いでいました。先ほど宗門のダヴィンチという話もありましたけれども、私は、石川さんは宗門きっての本当の知識人だったというふうに思っております。しかし、堀之内の東京立正の副学長もやっておられ、それから私の勤めております立正大学の評議員会の議長もやっておりまして、大学行政あるいは大学経営等にもかなり時間を割かれるようなことを、中尾堯先生の祝賀会の時に聞きました。文部省への届け出書類も自分が作らなくてはならないんだよとぼやいておりましたけれども、石川先生は本当は、本を読んだり原稿を書いたり、そういう仕事が一番好きだったのであって、あまりそういう大学行政的なことは好きではなかったように思いますが、そういう仕事も背負ってがんばってきた。残念ながらそういうことが一つの心労となってしまったのではないかと、想像しております。増円妙道をお祈りいたしたいと思います。
 司 会 忍ぶ会、最後にあたりまして、石川教張師婦人、石川千代様からお言葉を頂戴いたします。よろしくおねがいいたします。
 石 川 すみません。このような席でこのようなたくさんの方というのかしら、私の知らない頃の教張上人のおつき合いの方と、最近の方と、またそれまで通ってきたいろんな活動ですね。プルナの会の頃は、私と一緒になってない頃からの活動だったと思います。立正平和の会はその後のような気がしますが、その中のお話を伺ってまして、次から次へと、名簿とお顔を、今日はじめてお会いして、前にも会ってたと思うんですが一致しないところがありまして、今日はとても感謝しています。本当に有り難うございました。ただ、いまお話の中からずっと窺っておりますと、どんな場所においても、どういう活動をしていても、必ず一本の道に繋がっていると思いました。彼はその時からずっと同じ気持ちで、今までいたのではないかと思いました。形が少し変わったり、ちょっと横道に行ったことはあるかも知れませんが、その道はまっすぐと続いているような気がいたしました。本当に皆さまのおかげで、たくさんの本を書くことが出来まして、また読んでいただきまして、たくさんの場所に行ってお話が出来ました。本当に有り難うございます。このようにあたたかい席まで開いてくださいまして、教張はある意味では、とても幸せでございます。私なんかにはおよびもつかない、たくさんの勉強をしておりました。毎日毎日夜遅くまで、こんな近くに本を持ちまして、めがねを外しまして、開いておりました。特に『人間日蓮』を書く時は、『吾妻鏡』から全ての本をまわりに置きまして、細かい服装のこと一つでも、日蓮聖人さまだけじゃなくて、その時代の町の人の一つ一つの衣装のことでも調べていました。本当によく頑張ってきたと思います。私がそばにいましても、なかなか気がつかなかった点があると思います。本当にそれだけは申し訳なく思っております。どうも今日は、本当にあたたかい言葉をたくさんに有り難うございました。最後に、皆さまのご健康を心よりお祈り申し上げます。どうぞご自愛下さいませ。最後の言葉にさせていただきます。つたない言葉でございますが、ご挨拶とさせていただきます。有り難うございました。
 司 会 そのままで、すこしお待ち下さい。事務局をつとめました常岡裕道から、お礼の言葉と記念品を差し上げたいと存じます。
 常 岡 一言申し述べさせていただきたいと思います。私、現宗研の研究員として石川先生と長くおつき合いさせていただきました。さっき受付をしていました望月兼雄と二人で、石川先生と何年か前、現宗研の事務員であった亡き三沢さんのお墓参りに伊那にいってまいりました。時間があったならば野麦峠に行きたいなということでございましたけれども、宿も決めずに時間の流れる趣に任せてという旅で、その日に野麦峠に着くことができず、宿をとって、翌日は駒ヶ岳の千畳敷カールに登って、たまたま山開きの日で半日を過ごし、時間がないので野麦峠は今度にしよう、そういうことで帰ってまいりました。その後、お父様、お母様の不調、ご遷化、そしてNHKの仕事と忙しいことが続きまして、とうとう今年お誘いしようと思っておりましたところで、亡くなられたということでございます。今年の五月の末あたりどうですか、という電話をそろそろしようかなと思っていたところでございました。そんなことで、非常に残念でございますが、ご本葬の時に宗務総長さまの御弔辞の中に、(石川先生が亡くなられた四日後の四月二十八日に清澄寺で行われた立教開宗七百五十年慶讃法要の時、石川先生の)、魂魄は清澄にあった、というお話がございました。恐らく野麦峠へも、まだおいでになっていない天台山へも、インドの霊鷲山にも飛んでおられるかもしれませんけれども、もう一度こっちへ戻ってきていただいて、さっき久住さんからも、一緒に行こうよという話がありましたが、石川先生を偲んで野麦峠を訪れる、というような旅をしたいと思っております。奥様もお誘いしようかなと思ったんですけれどもね、ちょっとまずいかなと思ったんで、男だけで行ってまいるつもりです。今日そこに飾ってあります、石川先生のお写真と同じものをここに用意してございますので、お贈りしたいと思います。どうぞお受け取り下さい。
 司 会 有り難うございました。現宗研では前例がないということでございましたので、こういうかたちのご案内をさせていただきました。先生の関わった会はいっぱいありますし、思い出の方も一杯いらっしゃいますが、あえてご指名でご案内いたしまして、先生の思い出を社会運動、平和運動にしぼってお聞かせいただきました。こんなにたくさんおいで下さいまして、本当に有り難うございました。私も立正大学入学以来、家内のあとについて石川教張先生のご指導をいただき、現仏研・大学仏青・プルナの会・立正平和の会・宗平協・宗青協・七十年安保・三里塚・折鶴行脚、そして現宗研・近仏研と三十四年たち、さあ先生のお手伝いをしてご恩がえしを単身赴任したところで、急にお亡くなりになって、私は勝手に押し掛け弟子だと思っておりますけれども、一本筋が通っていてぶれない先生の姿というのは、本当に貴重だったと思っております。家内共々プルナの会の最後の会員として入れていただいて、社会問題に坊さんがいかに弱いか、自己の反省も含めまして痛感いたしました。その中で一本の筋を通してまっすぐ歩く先生は、未熟な私共の風よけになってくださり、支えてもくださいました。残念でございます。このあと証言集にいたしまして、出来ましたら現宗研の所報のほうでご報告申し上げたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。石川教張先生を偲ぶために遠近よりわざわざ参集たまわり、有り難うございました。心より御礼申し上げます。

 

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