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現代宗教研究第37号 2003年03月 発行

第三回教化学研究発表大会特別発表「教義(教・論・釈)の解釈―その方法論について」(録音再録)

平成一四年九月二十七日、日蓮宗宗務院においての
第三回教化学研究発表大会特別発表
「教義(経・論・釈)の解釈−その方法論について」(録音再録)
(日蓮宗顧問弁護士・日蓮宗蘇東教会担任)長 谷 川 正 浩

 長谷川でございます。本日は、このような発表の機会をお与えいただきました現代宗教研究所に対して、心からお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。今日は、「教義(経・釈・論)の解釈|その方法論について」というふうに、皆さま方のお手元にお出しいたしました原稿の、まだ定まっておりませんが題が入っています。これを実は訂正させていただかなければなりません。「経・釈・論」を「経・論・釈」に訂正させてください。私は不勉強でございまして、「経・釈、経・釈」と申していまして、それに「論」を加えたということでございますが、本日の発表を前にしまして、お彼岸前に立正大学の教学の先生方に草稿をお送りいたしまして、ご意見をお聞きしましたところ、小松邦彰先生から「経・釈・論」とは順番が違うじゃないかと。「経・論・釈」だということを教えていただきました。こんな程度の中身でございますので、化けの皮が剥がれるのでございますが、お許し頂きたいと存じます。
 本日の発表の動機となりましたのが、今成先生の、日蓮の本懐は摂受である、といわれたことです。私も日頃の生活から、理屈ではなく実感としてそういうふうに考えておりました。
 動機の二つ目は、四箇格言の問題です。現在でも念仏、禅、真言、律宗の人達と交わるのが謗法であるならば、私は謗法の塊でございます。それで日蓮宗の教師であることが成り立っていけるのかということを、今成先生の論文を読んで真剣に考えてみなければいけないと思うようになりました。これは何に原因があるのか、ということを突き詰めて考えてみましたところ、現代における日蓮宗や仏教の規範が我々に与えられていないからなのではないか。我々は日常生活をするにおいて、道徳的な規範だとか法律的な規範であるとか、いろいろな規範に従って生きているわけですが、仏教上の規範に従って生きているということを、自信を持って言える人がどれだけいらっしゃるだろうかと思います。私も、胸を張って言えるわけではありません。
 それは一体どこに原因があるのかと考えたら、仏教的な規範、あるいは日蓮宗の規範と申し上げてもいいんですが、規範が我々の前に与えられていない。朝夕の勤行をせよ、法華経をお題目を唱える人を増やせ、ということはいわれている。しかし、会社でいろいろ悩みがある。家庭で子供が暴力を振るって困る。あるいは中には、綱脇龍妙上人に習って、ハンセン病の人を救うために一生懸命やっておられる人もいらっしゃる。環境破壊をこれ以上進行させないように、一生懸命頑張っておられる人もいる。そういう人達に対して、仏教はあるいは日蓮宗は具体的な規範を与えていないのではないか。勿論、教師であるから自分で考えてやれという考え方もあります。しかし、それぞれ個々バラバラに自分で考えてやれといわれても、個々の能力に余ってしまう。非常に困る。こういうことに規範を与えていただくのが、私は、教学の先生ではないかというように考えたのであります。そして、この仏教の規範、あるいは日蓮宗の規範というものをどのようにして抽出するかの「方法論」、この議論がなされていない。与えられた規範を教師がどのようにして教化するか。これが、教化学なのではないかと思います。この教化学というのは、言説布教ならば話術もあるでしょう。人を笑わせたり泣かせたりするときに必要でしょうし、難しいことをかみ砕いて言わなければいけない。あるいは、琵琶やヴァイオリンを使って教化することもある。しかし、その教化する前に信者さん達に与える仏教上、あるいは日蓮宗の規範というものをきちんと教師が把握していなければならないのではないか。規範を把握するための方法論というものを確立させなくてはならないのではないかというのが、今回の動機であります。
 私どもは、仏教徒であるとか日蓮宗の宗徒であるといいますけれども、これはどういう人を指すのかということです。仏教上の規範を全部とはいいませんけれど、少なくとも一部分を守ってそれに従って生活をしようと決意をした人、これを私なりに「仏教徒」と呼ばせていただきたいと思います。仏教徒にはいろいろな定義がございます。ある本によると、「仏法僧の三宝を信じて、戒・定・慧の三学を実践し自ら悟りを求めて信心の安寧を願いとする人達」というような、難しい定義がございますけれども、私なりに言わせてもらえば、仏教的規範を遵守しようと決意した人だと思います。先ほども申しましたが、仏教的規範以外に法律的規範・道徳的規範・文化的規範・芸術的規範といろいろな規範がありまして、私どもはこの様々な規範に従い生きております。
 例えば、立ち小便をしてはいけないという規範がございます。私どもはその道徳的規範に従って、立ち小便はしないという生活上の指針を守っている。不飲酒戒という仏教上の戒律がございます。お酒を飲む、日蓮聖人もお飲みになったということで、それが不飲酒戒という戒律に違反していなければ飲む。違反していれば飲んではいけないということになります。現代において、不飲酒戒という規範に違反するか違反しないかの境目はどこなんだ、ということが与えられていなければいけないと思います。そういった規範がどのようにして与えられるのかというと、それは教義を解釈するところから起こってくるのだろうと思います。教義とは、私のこの論法で言いますと「経・論・釈」でございますが、そこの中には日蓮聖人のご遺文も含めてであります。
 本宗に限らず、既成教団の教学者といわれる先生方の研究分野を表にしてみました(次頁別表)。こういった表が許されるかどうか、ご批判があろうかと思いますが、横軸に過去から現在、釈尊がお生まれになってから、中国・日本と伝わってから平安・鎌倉ときて、明治・大正・昭和という歴史的な流れがございます。そして現在、平成十四年の九月二十七日という現在がございます。そして、縦軸に「事実に関する研究」・「教義に関する研究」と分けてみました。過去における事実の研究というのは、例えば室町時代における法華集団はどういう組織を持っていたのかというような歴史的な事実に関する、歴史家が行う仕事でございます。これは教団史ということになりましょう。それが釈尊がお生まれになったときから、ずっと現在まで、いろいろな歴史的事実の研究が多くされてきました。同じように、過去から明治・大正・昭和といろいろな方の教義についての研究がなされました。例えば、行学院日朝上人がどういった教義を発表されているのかとか、龍樹菩薩はどういったことを言われているのか、お釈迦様はどのようなことを言われたのかということを研究する、これらも多く数え切れないほどあります。AとBの分野だけでも全部読むとなると一生暮れてしまうことになります。
 それから、現在平成十四年の今における、事実に関する研究。それは現在の日蓮教団はどういう組織になっているのか。あるいは日蓮教団だけでなく、オウム真理教や法の華三法行はどういう組織かというような研究。これは社会学の分野になります。宗教に関していえば、宗教社会学です。東京大学文学部の宗教に関する先生方が、概ねこういうことをやっておられます。島薗先生もそうですね。現宗研でお呼びになって講演されたこともございました。そして、私がいう教学者の先生方は、その下のDのところです。平成十四年の今における「経・論・釈」の解釈はいかにあるべきかと。私がアトランダムに拾った教学者といわれる先生方の本をざっと見てみましたところ、AとかBの研究はたくさんあります。しかし、CやDが少ない。Dはほとんどないというとお叱りを受けるかも知れませんが、非常に少ないです。そういうことで、このDの部分を、お釈迦様、あるいは日蓮聖人の法華経的な規範を抽出することが、これが私どもの生活上の指針になるということを申し上げたいのでありす。
 そこで、Dにおける「経・論・釈」の現在的な規範の抽出作業を、どのような方法で行うのかということについては、ほとんど議論されてないように思います。たまたまお彼岸の中日に私の実家であります西林寺に帰り、法要が終わりましてから師父の書棚を見ておりましたら、「中村瑞隆博士古稀記念論文集」というのがございまして、ここに宗学研究のあり方について明治以降の十四名の先師先哲の見解が、庵谷先生の手によって纏まられています。私の表で見ますとA・Bの内容が主であるように見受けました。しかし、Dがあるのかも知れません。しかしこの十四名の方々は千差万別でお互いに論争をされていないように見受けられる。望月歓厚先生と室住一妙先生の論争があったように見受けられるだけです。これから勉強させていただかなければなりませんが、論争があれば、当然私の表におけるDのところについて論争が行われて、これに対して一定の方法論というものが確立されていくのではないかと考えられます。
 「教学とは何か」ということで、重複するような感じもありますが先ほどいいましたように、教学とは「経・論・釈」の解釈、仏教的な規範を抽出する作業であると私は考えたわけでございます。これは、過去における規範を抽出する作業ではない、現在における規範内容を抽出する作業、即ちDのところ。なぜならばこの規範内容は仏教徒に、あるいは日蓮宗徒に与えられるものだからであります。ここでいう仏教徒・日蓮宗徒というのは、平成十四年における仏教徒である。平成十四年における日蓮宗の宗徒でなければなりません。ですから、与えられる宗教的・仏教的規範も、平成十四年における規範でなければならないのです。
 茂田井教亨先生は『開目抄講讃(上)』のなかで、「十三世紀の頃と現在とでは、歴史的な状況も社会的な状況も違いますから、必ずしも大聖人当時のまま今日それを真似れば良いというわけには参りません。けれどもその時代、その歴史の中に聖人は生きられた。その態度、歴史を見られたその見方というものがあります。生きた法華経の面をもって、歴史を見る、社会を見るということが必要です。」とおっしゃっておられる。これは、私でいう表でDのところに標準を置いておっしゃっているのではないかと思います。そして日蓮聖人がお説きになったご遺文は、十三世紀のものです。十三世紀の規範でありす。これをそっくりそのままいただくとしても、それを平成十四年の今の規範に直さなければいけない、ということを茂田井先生はおっしゃっているのではないか。これは、我田引水かも知れませんが、そのように理解させていただきました。そして、この仏教的な規範を抽出する作業は何のためにやるのかといいますと、それはお釈迦様の教えである、四苦八苦、生老病死の苦しみを除去する、抜苦与楽する、そのために、仏教的規範を仏教徒に指し示す作業でなければならないということです。そういった目的を持つ、四苦八苦を除去する、抜苦与楽という目的を持った解釈でありますから、これは実践的な行為である。事実の認識とは異なるわけです。
 なぜ教学者の先生方が、私の表にあるA・Bに関心がいくかといいますと、A・Bは事実の認識作業なのであります。過去の歴史的な事実、過去の教学者である優陀那院日輝上人の教学はどうであったのかという、認識作業でありますから、これは答えが一つしかないわけです。しかし、実践となりますと方法論になります。暴力を振るう子供に困っている母親を、どうやって救ってあげるのかという実践であります。その時に日蓮聖人はこうおっしゃった、ああおっしゃった、お釈迦様はこうですよ、というだけでは、暴力を振るわれているお母さんはどうしたらいいのかわからない。こうしなさい、ああしなさいという実践的なことを提示してあげなくてはいけないという意味で、教学は実践である。この実践は、学問としてなかなか成り立ちにくい分野であります。勿論実践の分野も、科学として成り立ち得るという見解もあります。マルクスの見解がそうであります。だいたい現在の社会科学は、ウェーバーの方法論がとられています。認識は一つに限られるから科学であるけれども、価値観は科学ではないという考え方が行き渡っていますから、科学でないことをやりたくないんですね、大学の先生方は。だから、私の表でいう、A・Bという作業に取り組まれています。このこと自体が悪いことではありません。しかし、実はDの作業もやっていただきたいと思うわけです。では、実践であるからまったく科学性はないのか、というと私はそうではないと思います。それは後ほど述べさせていただきます。今まで申し上げましたことは、導入の部分です。導入がえらい長いわけですが、十頁の下からまとめがございます。
 そこに、「教義の解釈というのは、客観的に正しい一つのものしかないというのではない」。と書きました。私の表でいう、A・B・Cというのは認識の分野に属しますから、これは一つしかないといってもいいかも知れませんが、しかしDというのは一つではない。これは価値観の実践ですから、目的を達成するには複数あるかも知れません。しかし、複数あるけれど、それは釈尊の価値観の範囲のものでなければいけない。あるいは、我々日蓮宗徒は法華経の価値観と矛盾するものであってはいけない。唯物論者のいってることも、仏教的規範と一致するならば、それはその限りにおいて肯定することができる。一致しなければ肯定できない。同じように、念仏・禅・真言・律といった他宗の僧侶のいっていることについて、お釈迦様の教えに随うという意味では一致できる。そして、我々は日蓮宗の宗徒でありますから、法華経の価値観と矛盾するものであってはいけない。表のDのところで矛盾しないならば、それは共に手を携えることができるのではないかと思うわけでございます。Dのところの現在の「経・論・釈」の解釈は、大学の先生達によって十分に与えられているとはいえませんので、私たち教師が自分で考える、こうなのではないかと布教師が自分で解釈してお説教をしている、教誨師が自分で解釈して刑務所で教誨をしているというのが現実であると思います。現在、本宗を問わず既成教団の教師というのは、同時に教学者でなければやっていけない。しかし、この教学の方法論というのは確立されていなくて、皆さんが思い思いにやられている。あるいは思い思いにやらざるを得ない状況に陥っている。きちんとやらないおまえが悪いといわれるかもしれませんけれど、やはり五千ヶ寺あって住職・担任・教導が五千人いる。教師がその二倍か三倍近くいるという教団では、全員勝手勝手、思い思いにやりなさいよというのでは、能率が悪くてしようがない。そこで、その私の表でいうDの方法論を確立させる必要があるわけです。
 「経・論・釈」の現在の意味内容を抽出する、私の表でいうDのところの作業では、二つに分かれます。一つは、規範内容の確定作業。これはお釈迦様をはじめ、日蓮聖人・先師先哲の方々が頭の中に入れておられることが、平成十四年の現在、今になったら、どういうようにその規範内容が変容するのか、変容した規範を確定する作業でございます。もう一つは、規範の創造で、お釈迦様が考えつかれなかったような、日蓮聖人が考えつかれなかったような問題があり得ます。こういうことを言うと失礼じゃないか、日蓮聖人に非礼であるとお叱りを受けるかも知れません。しかし、現実にこういう問題があることは確かなんですね。
 例えば脳死の問題。これは人工呼吸器が発明されたから起きた現象なんです。人工呼吸器が発明されたものですから、脳幹の機能が働かなくなっても心臓が動く。瞳孔は開かない。強制的に酸素を送り込むので呼吸はする。日蓮聖人の頃に人工呼吸器はないですね。お釈迦様の時にもありません。大蔵経を全部調べたわけでも、日蓮聖人のご遺文を全部読んだわけでもありませんけれども、脳死についてお釈迦様や日蓮聖人が発言されていなかったことは事実だと思います。しかし、お釈迦様の立場、日蓮聖人の立場にたって、脳死についてどう考えるのかについて結論を出さなければなりません。お釈迦様や日蓮聖人のころに脳死はない、だから、われわれはこういうこととは関係ありません、と言って放っておける問題ではありません。これを解決することこそ規範の創造作業だと、私はいっているわけでございます。
 まず、規範の確定作業から申し上げます。規範内容の確定とはどういうことか。これは、「経・論・釈」という過去における教え、それを文理解釈したり、類推解釈をしたり、拡張解釈したりして理解する、そういう簡単なものではない。規範の確定作業とは、現在の社会に対してどのような現在的な規制を加えるのかということであります。例えば、先ほど申し上げました不飲酒戒というのがございます。酒を飲む、この不飲酒戒の規範内容はどのように確定されるべきであるか。不飲酒戒という規範がお釈迦様の時に説かれた、生老病死の苦しみを取り除くために不飲酒戒が説かれたのは事実だろうと思います。お酒を飲む人が結局は苦しむ結果になったり、周りの人が苦しむ結果になるという事実があったんだろうと思います。そういうことがあったのかどうかということを研究するのが、私の表でいいますAの作業です。そして、お釈迦様が不飲酒戒を説かれた。その当時の規範内容を確定する作業、これはBのところに属します。
 日蓮聖人は、お酒を飲まれたといわれています。お釈迦様の時代から二千二百年以上たって、日蓮聖人在世の十三世紀の規範として、あの程度のお酒を飲むことは不飲酒戒に反しないと判断されたのだろうと私は想像します。いや、自分は無戒だから何をしたっていいんだよと。日蓮聖人は無戒だから何をしてもよいというものではない。仮りに無戒であったとしても、仏教的な一定の規範を守っていらっしゃっただろうと思います。その上でこのくらいのお酒なら飲んでも許されると思って飲まれた。ではそれでは現在はどうかということで、問題はDになるわけです。その為にはCの社会学の分野でお酒を飲むということの社会的な状況、心理学的な状況、そういうことがCの分野で明らかにされなければいけません。結局、お釈迦様や日蓮聖人のころのAの分野でお酒を飲むという事実の研究。そして不飲酒戒が説かれた戒律の研究。そして現在も酒を飲むということに関する、社会的な事実に関する研究。そういったことを総合した上で、現在の不飲酒戒というものがどういうものであるのかということが確定されなければならないと思います。
 次に摂折論を例にとって申し上げます。いずれの摂折観を選択するにしてもそれは、お釈迦様の説かれた生・老・病・死の苦しみから一切衆生を救うためのものであります。ここのところが重要なところなんです。摂受を用いる、折伏を用いるということはいってみれば手段です。私どもは仏教徒であります。まず、お釈迦様の教えである生・老・病・死の苦しみから一切衆生を救わなければいけない、これが最終の目的であって、摂受や折伏が目的ではないということをはっきりさせておかなければなりません。そうすると、摂折観が説かれている勝鬘経や涅槃経が説かれた時代状況を明らかにしなければいけない。これは私の表でいうAのところの作業になります。そのうえで、摂受折伏そのものの意味内容が明らかにされなくてはいけない。これは日蓮聖人のいっている折伏とは何か、摂受とは何か、そして勝鬘経や涅槃経の説かれている摂受折伏はどういう意味なのかを明らかにする、私の表でいうBの作業です。涅槃経には、法を破るものを見て放っておくこと、呵責し駈遣し挙処しない者は、仏法の中の怨である。能く呵責し、駈遣し、挙処する者、呵りつけ、追いかけ、悪い者をいちいち挙げる、放っておかないでいちいち告発する、このように茂田井先生は訳しておられます。この法を破る者というのは、涅槃経が説かれた当時において、どういう人達のことをいうのか明らかにしなければいけません。これはAの作業です。その上で、平成十四年における法を破る人達は、どういう人達なのかを明らかにしなければなりません。これが私のいうCの作業です。開目抄の中に「無知悪人の国土に充満の時は摂受を前とす。安楽行品のごとし。邪知謗法の者の多き時は折伏を前とす。(常不軽品のごとし)」と「常不軽品のごとし」という文が、あるのか無いのか議論されていますけれど、日蓮聖人の頃の邪知謗法の者とはどういう人のことをいうのか。現在平成十四年における、邪知謗法の人とはどういう人をいうのか。日蓮聖人の頃の、悪人が国土に充満するということはどういうこというのか。平成十四年の無知悪人が国土に充満するとは、どういうことをいっているのかということを明らかにしなければいけない。これらはABCの作業でございます。
 ところが現在における摂折論は、東京西部教化センターの「教化情報」にずいぶん詳しく論争されているところが載っていますけれども、ABCDのどこにおける論争なのか、かみ合っていないですね。私の見るところ小野文=cd=62f9先生はDのところでいっておられる。庵谷先生とか、日蓮聖人の本懐は摂受であるとおっしゃられた今成先生はBのところでおっしゃられている。今成先生と庵谷先生は、ある程度かみ合っているかと思います。ところが小野文=cd=62f9先生になるとかみ合っていない。これはDのところでいっておられる。いろいろな人がいろいろなことを言う。これらを投書を含めて澁澤先生がまとめておられる。これを拝見してもなかなかかみ合っていません。
 この規範内容の確定の手順に移ります。これは私の表でいうDのところです。ABCでいうところの研究・作業の成果を十分踏まえた上で、Dの結論を出さなければいけません。恐らくお酒を飲むということについては、程々に飲めば不飲酒戒には反しないだろうと、これは私の想像であります。平成十四年の現在における不飲酒戒とは、一滴も飲んではいけないということではない。本当は、きちんとしたA・B・Cの作業をやらなくてはいけない。酒を程々に飲め、などというようなことをいうのに、七面倒臭い作業をやっている時間はないといわれるかもしれません。その通りですけれども、そういったDの作業をするには、ABCの作業、研究成果の蓄積によって結論を出さなければならないということを申し上げたかったのでございます。
 摂折論についてもそうです。摂折論について私は特に関心がありますが、折伏の意味内容にもよるんですが、折伏第一主義を採用して四箇格言を厳格に守るということが、本当に平成十四年の現在におけるお釈迦様や日蓮聖人から与えられた規範であるのか。もしそうであるならば、日蓮宗の僧侶の大半は謗法ということになります。まず仏教会にいって他宗の坊さんと席を同じくする。自分の檀家の葬式に行けば、田舎の方では他宗の坊さんが来ています。お嫁さんが実家に連絡すると、実家が自分の旦那寺のお坊さんを派遣します。日蓮宗のお坊さんは、それを断っているでしょうか。檀家の親戚のお寺のご葬儀に、檀家から頼まれていきます。そこは浄土宗のお葬式かもしれません。そういう時に、席を立って帰るのでしょうか。金子日威猊下は全日本仏教会の会長であられた。約六十宗派を擁している。金子猊下は謗法であったのかということになります。あるいは、謗法でなかったのかも知れません。あったのかもしれません。私はなかったと思っておりますけれども、その結論は、A・B・Cの研究成果によって出すべきDの規範内容であります。そういうことを教学の先生に示してもらわなければいけません。こんなことは教学者の仕事ではない、教師が自分でやれ、というようなことであっては、私はいけないと思う。
 次に、規範内容の創造についてでございます。現代の社会は、お釈迦様のあるいは日蓮聖人の時代に比べてもの凄く複雑になっています。ですから、お釈迦様や日蓮聖人が考えてもおられなかったことが次々と起こっています。即ち「経・論・釈」の規範がですね、欠缺している。ないというようなことが起こる。いい例が、先ほど申しました脳死や臓器移植が認めれられるかどうかということです。これは、前にも申し上げましたように、人工呼吸器が発明されたことによって起こった現象であります。「経・論・釈」や日蓮聖人の遺文の中には書いていない、そのことを浅井円道先生は『日蓮聖人の教学の探究』という本の「日蓮聖人における生死の問題」という論文ではっきりおっしゃっています。当たり前のことでありますが、書いてないから知りませんよというわけにはいけません。一生懸命勉強します。脳死というのは、どういう状態のことをいうのか、あるいは腎臓移植の場合どういう手順でされるのか、私の表でいうCの作業です。これをやらなくていけない。そして、認めるか、認めないかということを決めるわけです。それだけでは決められません。Bの研究成果をもとに決めなければならない。Bの研究成果からまったく離れたようなDの結論は、法律家や医師の結論です。あるいは評論家としての、哲学者としての結論にすぎません。私どもは、仏教徒であります。日蓮宗徒であります。お釈迦様の規範や日蓮聖人の示された規範と無関係に、脳死が認められるとか認められないとか、臓器移植が認められるとか認められないといった結論を出すわけにはいきません。
 現在における脳死、臓器移植の事実に関する研究、ドナー、レシピエントの利益とか、お医者さん、厚生労働省の立場とかを十分に検討した上で、私どもはそれらの多くの関係者の利益の、どの利益を排除し、どの利益を優先させるかといった決断をしなければなりません。その決断は何によるのかというと、Bにおける研究成果であります。お釈迦様の規範、日蓮聖人の規範を基にして、利益の選択をしなければいけない。それが規範内容を創造する手順です。創造された規範内容というのは、お釈迦様の価値観、日蓮聖人の価値観が、具体的な平成十四年の社会関係に即して実現されるものでなくてはなりません。お釈迦様、日蓮聖人の価値観、Bが十分活かされるように、このCのところで研究した、その成果を基にして、Dの結論を出さなければなりません。同時に、お釈迦様や日蓮聖人の示された規範を平成十四年に生かすということでありますから、そのBの成果と均整を保つものでなくてはなりません。お釈迦様、日蓮聖人の考え方を全く無視して、即ち日蓮聖人が使われた言葉、お釈迦様が使われている言葉というものを全く無視してDの結論を出すことは許されない。ここで教義の持つ言葉的技術が問題となります。言葉的技術というと教学の中ではあまり用いられたことがないかも知れませんが、これは社会科学ではいつも用いられています。ようするに、言葉でもって、言葉を技術として、鉋や鑿や金づちのように言葉を道具として、ABCDの研究成果がでてくるわけです。言葉なしにABCDの作業をしようとしたって、それは無理な話です。Bで行われた研究成果の言葉を用いて、Dの説明をしなくてはいけないということです。
 解釈は実践である、と申し上げました。では、科学的でないのかというと、そうではないと私は思います。限られた範囲ではあるけれど、科学性を備える。第一に、「経・論・釈」の規範内容の現在的確定というのは、過去の規範内容の確定作業と同じ性質を持っている。経論釈の現在の規範内容を認識する作業でありますから、歴史学や社会学が科学であるというならば、それと同じように科学だということになるのではないでしょうか。歴史学や社会学は、事実の認識に止まらず価値観を含むものであるといわれています。事実の認識自体が価値観を含む、という見解もあります。にも拘わらず、歴史学や社会学は科学性をもつといわれています。
 第二に、価値を創造するということについて、現在における具体的な社会関係を定型的に認識することに、即ちCの研究成果によって経験的に裏打ちされたDにおける規範でありますから、その範囲において科学的と言えるのではないか。その意味では、解釈の争いは認識の正否の問題に転化することになります。ABCにおける認識が間違っているのかどうかということが、Dの決断に影響を与えることになるからです。そういう意味で科学的といえる。しかし、認識の正否で処理できない部分が出てきます。これは、オウム真理教の麻原さんとか、法の華三法行、あるいは霊視商法の本覚寺といったような人達に対しては、事実の認識の争いで正否を決めることができない。こういう人達に対しては、こういう人達だからこそ、折伏で対処していかなければならないと思います。一方、認識の正否の問題となる部類の人達については、摂受で対処するということになるのではないかと思います。時間がせまりましたので、終わらせていただきますが、これは一つのたたき台でありますので、解釈の方法論の確立について、なお努力をしたいと思います。
(本大会における他の十名の発表は、別冊の『教化学論集3』としてまとめた。)

 

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