教化学研究1 現代宗教研究第44号別冊 2010年03月 発行
戦国時代の中央政権交代と京都大本山本國寺の歴世交代
戦国時代の中央政権交代と京都大本山本圀寺の歴世交代
三 好 龍 孝
一、はじめに
本年平成二十一年三月三十一日発行の常圓寺日蓮仏教研究所「日蓮仏教研究・第三号」に都守基一師の論文「本国寺日円『立正安国論私見問』の一考察」がある。そこに「『当宗(の僧侶)は半俗』という論理によって僧侶の武装を肯定し」ているのが本国寺日円の大きな特徴であるという注目すべき指摘がある。これは当時の大本山本圀寺が深く現実政治に関与していたが故の論理と読み取れ、その実態を『本圀寺年譜』(日蓮教学研究所紀要・第十八号所収)を中心に探ってみた。
すると十世日円・十一世日堯・十二世日了・十三世日遵・十四世日助・十五世日勝という歴世交代が、現実政治の足利義政・義尚将軍時期/義稙将軍時前期/細川政元クーデター時期/義稙将軍時後期/細川高国・晴元時期/三好長慶・松永久秀の下剋上時期という戦国時代の中央政権交代とほぼ並行して起きていることが読み取れた。少し詳述したい。
二、十世日円
社会状況がそうせざるを得なかったのであろうが、問題の『半俗』の主張を掲げた日円が本圀寺貫首に就任した翌年が応仁元年であり、戦国時代の端緒として余りに有名な十年に及ぶ応仁・文明の乱がそこから始まってしまうのである。義政はその子・義尚に将軍を譲ったが為すすべがなく、義尚が近江陣中に戦死し、母・日野冨子がついに諦めて対立していた義視の子・義稙に将軍を譲る延徳元年に至るまで、すでに応仁元年から二十三年が経っていた。その四ヶ月後に日円も辞任逝去している。
三、十一世日堯
日堯は大変な英才であったが、就任わずか四年目に細川政元のクーデターが起きて義稙将軍は防州へ逃げ、義澄に取って代わられた。義稙は「西国著岸此時一段被抽丹精者可為神妙」と「本国寺上人」あて祈願を乞う書を防州より送っている。
その五年後、日堯は突然に退任した。『中国へ布教する準備のため』という。そして尼崎の長遠寺で準備に励んだが果たせず十年後に逝去した。防州を通じての対中国貿易による経済的繁栄により国を支えるのが室町幕府の基本であった。中国と結ぶ東アジアの外交が彼の夢だったのである。政権はまだ細川政元が握っていた。
四、十二世日了
日了は就任三年後の文亀元年に、宗徒・薬師寺元長をしてその館に主君・細川政元を呼ばせ、面前で浄土宗・団誉玉翁と宗論を行って勝ち、細川政元に日蓮宗を受法させた(日蓮宗年表)。翌々年に日了は権僧正となった。政権を握る者を日蓮宗に改宗させて立正安国を目指したと思われるが、細川政元は受法六年後には家臣・香西又六に殺されてしまった。
五、十三世日遵
細川政元が殺された翌年の永正五年、前将軍の義稙を庇護していた防州の大内義興が動き、義植を押し立て兵を率いて四月に上洛し、細川高国と手を組んで七月には義稙を再び将軍に返り咲かせた。この間に日了は貫首交代の準備を始めている。すなわち五月九日に弟子の日遵(太田道灌の子という)に権大僧都の位を得させたのは、状況により日了がいつでも交代できるための措置である。だが直ぐには退任することなく、二年後の永正七年に微疾を感じて日遵に交代して逝去した。
しばらく日遵の代が続いたが、やがて永正十五年に大内義興が防州へ兵と共に引揚げたので、細川高国ひとりの力が強まり義稙将軍の立場は不安定となった。三年後の永正十八年(大永元年)正月に癎病の発作が起きて日遵は日助に交代して逝去した。在位十二年であった。同じくその三月には義植将軍が淡路島に逃げ、政権は管領・細川高国が掌握して義晴将軍を立てた。
六、十四世日助
大永元年からしばらく政権は管領・細川高国が安定して掌握していたが、大永七年に四国の阿波から細川晴元が進出してその地位を脅かしはじめた。さらに四年後の亨禄四年には晴元配下の三好元長により高国は敗死し、その翌年の天文元年には晴元が三好元長を誅殺して、政権は管領・細川晴元が掌握した。
この高国から晴元への政権交代には十四世日助は一定の距離を置いていたらしく、日助は歴世交代を行っていない。十世日円の『半俗』の論理以来の政権に近づき過ぎたことへの僧侶としての反省が考えられる。
さてこの時期の天文五年には、京都の日蓮門下二十一ヶ本山が比叡山や周辺勢力の攻撃を受けて、悉く灰燼に帰して堺へ逃げたといういわゆる天文法難が起きている。
ここまで見てきた大本山本圀寺の歴世交代の論旨から言えば、僧侶側としてはひとまず政権から距離を置いたこの時期に、宗徒側としては社会に発言する実力を付けて自治に近い姿で(僧侶側の指導を欠いたまま)逆に政治に一歩踏み出して、僧侶側が政権に接近し過ぎていたこれまでの経過も含めて、総体としての日蓮門下が外部からは危険視されて攻撃を受けたのである。
日助は堺・成就寺へ逃げ、天文十一年にようやく帰洛の綸旨が出され、本圀寺へは天文十五年に旧地へ復帰の許可が出て、初めて具体的に再建に着手したのである。天文十五年にはまた義輝将軍へと将軍の交代がなされている。そして天文十八年二月二十一日には、なんとか再建成った本圀寺へ、管領・細川晴元を通じて義輝将軍が御成(御参詣)になった。義輝は本圀寺に伝わる綸旨案を乞い、日助は十六通を書写して三月に晴元宅へ届けた。晴元は陣中にあり六月に帰宅したが、晴元が三好長慶(かつて誅殺した三好元長の子)に負けた戦であった。晴元政権は衰え、またこのことで本圀寺は政権に接近した。
天文二十二年に三好長慶は晴元を虜にして禁獄、政権を掌握した。同年に日助も逝去して日勝に交代した。
七、十五世日勝(のちに除歴)
三好長慶の家臣で京都支配を担当していた松永久秀は、本圀寺の大檀那であったと言われ、日勝は政権としてはこの松永久秀と結び付いていたと思われる。永禄七年には松永久秀が中心となり京都日蓮門下の盟約・永禄の規約が結ばれているが、政治勢力として日蓮門下をまとめる意図があったのではないか。この年、三好長慶が没して政権は松永久秀と三好三人衆が担うこととなった。翌永禄八年、松永久秀は義輝将軍を暗殺している。永禄十年には松永久秀と三人衆の争いにより東大寺大仏殿を焼いている。
永禄十一年に信長が義昭と共に入洛して将軍とし、政権を掌握した。松永久秀は信長に従い、天正五年に反逆して滅ぼされるまで生き延びている。これより先、天正三年に日勝は、出身実家の九州・大友家(キリシタン大名の大友宗麟)に後継ぎがなかったので諸臣が上洛して、門を排して突入し日勝を奪って去ったと言う。これにより還俗したので除歴と言う。この前年の天正二年に日勝は大僧正に任じられていたにもかかわらずである。
八、おわりに
大阪府大東市・本妙寺の縁起には、「天文二十二年に京都本圀寺十四世日助が天文法難に遭い当山へ逃げ延びたから、台家衆が当寺を襲い、七堂伽藍の悉くを焼失した」「14.(中興)蓮光院日助 天文22・7・14」(日蓮宗寺院大鑑)と言う。天文二十二年は、三好・松永が畿内制覇をして晴元から政権を奪った年である。本妙寺を襲ったのは三好・松永の軍団であり、日助はこの寺でその時に果てたのではないか。
このことを松永久秀と結び付いていた後継の十五世日勝が承知していたとしたら、日勝は暗に日助を消したことにもなりかねない。これはもはや『半俗』ではなく『還俗』であると多くの同時代者が判じていたのではないだろうか。
因みに、都守基一師の論文に使われた『立正安国論見聞』のテキストは「第十五世双樹院日勝(後に還俗して除歴)代の永禄三年(一五六〇)五月、多喜山寂光寺の日洞(不明)により本国寺に寄進され」たということである、「日洞」で思い当たるのは、兵庫県多紀郡篠山町に松永久秀が開基檀越の妙福寺があり、元は松永久秀の出身地の大阪府高槻市富田町五百住にあって「1.(開山)蓮光院日助 天文22・7・14 権大僧都日洞」(日蓮宗寺院大鑑)とあることである。この「権大僧都日洞」に該当するかも知れない。合掌