教化学研究1 現代宗教研究第44号別冊 2010年03月 発行
村上春樹文学の宗教性
村上春樹文学の宗教性
三 原 正 資
はじめに
思い出す光景がある。一九八七年の夏の終わり、書店に村上春樹の名を一躍高めた『ノルウエーの森』が並べられていた。それから二〇年余り、今年五月末の『1Q84』ブーム。一女性信徒から「村上春樹はおもしろい。読んでいますか」と尋ねられ、感想をメールで送ってきた。「彼の作品は非現実的な世界を描いているのに、読んでいくうちにその世界が存在するような感覚になる。そして喪失感、不安感が心に広がり、考え込んでしまいます」と。私は彼の作品を読んでみたいと思った。
村上春樹は同世代の作家である。一九四九年に生まれ、三十歳のとき、『風の歌を聴け』を発表し、群像新人文学賞を受賞した。エッセイに書いている。
人間というのはべつに大義名分やら不変の真理やら精神的向上のために生きているわけじゃなくて……楽しく生きたいと思っているだけである。(『村上朝日堂』一九八四年 若林企画出版 四五頁)
このような作家のどこに宗教性があるのか。百点をはるかに超える作品、長編小説にはバブル絶頂期の日本社会の暗部が、エッセイなどには日本社会の明るいカラフルな日常が描かれている。この明暗の対比、日常性とは対立する非日常、「健全な身体に黒々と宿る不健全な魂」(『うずまき猫のみつけかた』一九九六年 新潮社 九頁)、これが村上文学の魅力である。
日常の中の異界
この小論では村上春樹が三六歳から四六歳の十年間に書いた三篇の長編小説、一九八五年の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社)、八八年の『ダンス・ダンス・ダンス』(講談社)、九四年から九五年の『ねじまき鳥クロニクル』(新潮社)をとりあげる。九五年はオウムサリン事件の起こった年である。
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』─私とは何か─
谷崎潤一郎賞を受賞した記念碑的作品。村上春樹は心の世界に強い関心を示している。
思考システムというのは……まさにブラックボックスですな。つまり我々の頭の中には人跡未踏の巨大な象の墓場のごときものが埋まっておるわけですな。大宇宙をべつにすればこれは人類最後の未知の大地と呼ぶべきでしょう。(三九二頁)
意識の底の方には本人に感知できない核のようなものがある。僕の場合のそれはひとつの街なんだ……僕はそんな街に住んでいる。(五五二頁)
この小説を読むと、私たちが現実の世界だと思っているこの世界は心、脳のシステムのつくり出した虚構の世界であり、堅牢な世界が私の描いた幻に思えてくる。この世を夢幻のようなものと説明する仏教的世界観に近い。バブルの絶頂期を迎えていた日本の社会の中で彼は心という異界の孤独な旅行者のようだ。
『ダンス・ダンス・ダンス』─資本主義社会の網─
本書は一九八八年三月にロンドンで書き上げられた。ヨーロッパは翌年のベルリンの壁崩壊前夜、わが国は東京を始め大都市で地上げ・買占めが横行し、人びとはバブルに酔いしれた。本書のテーマは「高度資本主義社会」。
その買い占めの尖兵がドルフィン・ホテルだった。まず、ドルフイン・ホテルが一等地を確保した。その巨大ホテルがA総業のヘッド・クオーターの役割を果たすことになった。それはその地域のリーダー的役割を担っていた。人目を引き、人の流れを変え、その地域の変貌の象徴となった。すべては綿密な計画のもとに進行した。それが高度資本主義というものだ。……人々は資本の有するダイナミズムを崇めた。その神話性を崇めた。東京の地価を崇め、ぴかぴかと光るポルシェの象徴するものを崇めた。……隅から隅まで網が張られている。網の外にはまた別の網がある。何処にも行けない。(上一〇二〜四頁)
僕の住んでいるのはそういう世界なんだ。港区と欧州車とロレックスを手に入れれば一流だと思われる。下らないことだ。何の意味もない。要するにね、僕が言いたいのは、必要というものはそういう風にして人為的に作り出されるということだ。(下一五九頁)
世界は高度資本主義体制が綿密な計画のもとに作り出したものであり、現在の大都市で次々とビルが建てられることはその結果だという。必要なものは人為的に作り出されるということも、マスコミの情報に左右されている私たちの偽らざる現実である。映画『マトリックス』(一九九九年)に描かれたように、私たちは情報によって作り出された幻想の中に住んでいると言ってもよい。私は幻想の中に住むものならば「何処に意味なんてある? 我々の生きることの意味がいったい何処にある?」(下二七八頁)と言うのも当然のこと。では作者が投影されている「僕」はどう考えているのだろう。
「僕はただきちんとステップを守っているだけなんだ。ただ踊っているだけだ。意味なんかないんだ」(下二七八頁)
作者もこの高度資本主義社会の中では生きる意味なんかないと考えているようだ。ただ「隅から隅まで網が張られ」「網の外にはまた別の網がある」この社会から逃げ出すことなどできないのだから、自分の役割をまっとうしてステップを踏んできちんと踊るしかないとニヒルに考えている。ここに『ダンス・ダンス・ダンス』という題名は由来する。
村上春樹の小説は精神世界的な構成と暗喩に満ちている。その一つに「壁抜け」がある。映画『ゴースト』で霊体が壁をすり抜けるシーンを思い起こしてもらえばいい。
「でも私は死んでいない。ただ消えただけ。消えるの。もうひとつの別の世界に移るの。となりに並行して走っている電車に乗り移るみたいに。それが消えるっていうこと。わかる?」(下三〇二頁)
この小説の中にユキという少女が登場する。彼女は霊感者である。「あの車には何か嫌な雰囲気がある」(下一八五頁)と言って、その車に死体が乗せられたことを透視している。壁抜けや霊感といい、作者自身、精神世界への並々ならない関心を持っている。精神世界と高度資本主義社会を同時に描き、八十年代から九十年代の時代を映した。そして今も、とてつもなく奇妙な世界が目の前にあるのではないか。次の文章は作者独得の感性で私たちの世界の奇妙さを描いている。
僕はスバルに乗って青山通りに買い物に行った。そしてまた紀ノ国屋で調教済みの野菜を買った。あるいは長野の山奥あたりに紀ノ国屋出荷専用の調教的野菜畑があるのかもしれない。広い畑で、たぶんその回りには鉄条網が巡らせてあることだろう。『大脱走』みたいな感じのものものしい鉄条網だ。機関銃つきの監視塔があってもおかしくない。そしてその中でレタスやセロリに対して何かが行なわれているのだ、きっと。(下一四四頁)
決してレタスやセロリ等の野菜だけではあるまい。社会という見えない鉄条網や壁の中で子どもたちや大人に対して教育という名前の調教や訓練が行なわれているのではないか。壁抜けは自由への願望かもしれない。
『ねじまき鳥クロニクル』─現在の中の過去─
本書は一九九四年から九五年にかけて出版された。地上げにさらされた東京の住宅地の一角に捨てられたように広がる、「あそこに住むとろくなことはないんだよ」(第一部二一六頁)と噂される不気味な空き地、物語はそこにある古井戸を舞台に戦争中の満州国や捕虜収容所の悲惨な出来事と絡み合いながら展開する。前作で象徴的に語られた「ものものしい鉄条網」や「機関銃つきの監視塔」は古井戸(『TVピープル』一九九〇年 文藝春秋 五八頁)によって象徴される人の心を通して過去の出来事とつながっていると作者は考えている。現代日本のありかたに対する見方は厳しい。過去の悲惨な歴史とつながっている現在。
人間が平等であるというのは、学校で建前として教えられるだけのことであって、そんなものはただの寝言だ。日本という国は構造的には民主国家ではあるけれど、同時にそれは熾烈な弱肉強食の階級社会であり……(第一部一三三頁)
どうすればものごとの効率がよくなるのか、戦後の歳月をとおしてそれ以外の哲学、あるいは哲学に類するものを我々日本人は生み出してきただろうか?(第三部二七〇頁)
戦争中の悲劇と現代の出来事が交錯する物語。この中で語られる戦争中の数々の出来事は驚くほど生々しい。「ここは暴力的で、混乱した世界です」(第一部七七頁)、「ここは危険な場所です」(第三部四三一頁)と繰り返し語られる。敗戦によって日本の本質は変わったのだろうか。物語をとおして私たち読者は、私たちをとりまく日常の世界、敗戦を契機に善くなったと思っている私たちの現実世界の裂け目に、過去の悲劇の世界をあたかも異界を覗くように見るのである。本書には家相(第二部二一二頁)、霊媒(同四五頁)、また「僕の意識はその肉体を抜け出していった」(同五六頁)等の表現が頻出し、土俗的ともいえる宗教世界の空気がただよっている。
おわりに
これらの長編小説に描かれている現実とは違う世界、異界は静かで暗い。既成宗教が説く天国とか浄土、そこで救済が約束されている明るい世界ではない。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の世界は「宇宙の辺土」(六一八頁)と表現され、『ダンス・ダンス・ダンス』で描かれるこの現実の世界は「隅から隅まで網が張られ……何処にも行けない」(上一〇四頁)牢獄のような世界と言われ、『ねじまき鳥クロニクル』では、この世界は暴力的で危険な場所であると述べられる。日本ではここ十年余り一年間当たり三万人以上の自殺者がいる。それでも今までは伝統的な宗教が人々を支えてきた。だが現在は葬式離れ・墓離れと言われるように、人々は伝統宗教の説く救済を信じなくなっている。いや、宗教もニーズに効率的に応えることを要求され、救済そのものが商品化されている現代。こっちの世界も、そしてあっちの世界も暗く、読者は暗い現実を語る村上春樹の小説に共感する。では、なぜ、私は村上文学に宗教性を見出すのか。
『ダンス・ダンス・ダンス』の中で作中人物の一人が「我々の生きることの意味がいったい何処にある」と語っているが、それこそは宗教が問うことだからである。村上春樹はエッセイでも語っている。「僕たちはいったい何処に行こうとしているのか」(『波の絵、波の話』一九八四年 文藝春秋 二九頁)。
二〇〇九年二月「壁と卵の比喩」で有名になったエルサレム賞受賞スピーチで村上春樹は他界した父を語る。浄土宗の僧侶であった彼の父親は戦争体験をもち、戦死者の冥福を祈る父親の周囲には死の影が漂っていたと述べている。これは『ねじまき鳥クロニクル』の戦場の描写やこの世界を暴力的で危険な場所と考えることに反映しているのだろう。そして受賞スピーチで次のように述べる。
私が皆さんにお伝えしたいのは、たった一つだけ。……私たち自身の魂も他の人の魂も、それぞれが唯一無二のものであり、掛け替えのないものだと信じること(『心をゆさぶる平和へのメッセージ』ゴマブックス 同五三頁)
村上春樹はこの三つの長編小説によって自他の魂の尊厳を問い、私たちが生きている世界が、社会が、歴史がうわべとはうらはらに本当は私たちの心にとっていかに過酷なものであるか、を描いたのだと思う。
これらの小説が書かれた一九八〇年代から九〇年代は、新・新宗教の時代といわれ、精神世界がブームとなった。しかし宗教の多くははたして正しく答えたであろうか。その象徴がオウム真理教である。九五年、オウムサリン事件の後、衝撃を受けた彼は事件に取材した二つのノンフィクション、『アンダーグラウンド』(一九九七年 講談社)と『約束された場所で』(一九八八年 文藝春秋)を執筆する。またモルモン教の暗い歴史を背景に一九七七年にアメリカで起こったゲイリー・ギルモア死刑事件を取り扱った『心臓を貫かれて』(一九九六年 文藝春秋)を翻訳出版する。
オウムサリン事件以降、わが国には宗教不信の時代が到来しているのではなかろうか。一九八五年、日蓮宗は「お題目総弘通運動」を始め、そして今「お題目結縁運動」を進めている。この暗く、暴力的で、危険な世界にあって、私たちは人々とともにいかなる場所へと歩むことができるのかを問われている。