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教化学研究1 現代宗教研究第44号別冊 2010年03月 発行

身延山五重塔に靡く平和の風—詩人三好達治のメッセージを解く—

身延山五重塔に靡く平和の風

 ─詩人 三好達治のメッセージを解く─

 三 谷 祥 祁
 
 一 身延山五重塔に靡く平和の風
 『身延町誌』などによりますと、身延山に初代の五重塔が建立されましたのが江戸初期の一六一九年でした。二百十年間聳えた塔は、一八二九年に火事に遭いました。四十四年後に二代目の塔が再建されますが、その十年後、明治八年正月十日、身延山の諸堂、五重塔、宿坊十二、山林、民家十軒を焼失するという大きな火災がありました。
 明治七年に近代日本は始めて外国に兵隊を送りました。台湾出兵です。その後、日本は七十年間、十数回も戦争を繰り返し、厖大ないのちを亡くし自然や文化を破壊しました。広島長崎の町が原爆の被災を受けた昭和二十年八月十五日の炎天下、昭和天皇の玉音放送で、国民が待ち侘びた終戦を迎えました。その後、日本国憲法が制定され、戦争のあやまちを二度と繰り返さないために、国際平和の希求、戦争の永久放棄、交戦権の否認が条文されました。敗戦から六十五年後の現在に至るまで、日本は戦に交わることなく残忍な殺戮者になることもなく恐怖のない暮らしを続けています。
 日本が対外戦争に突入後、身延山五重塔が炎上して以来、一三三年ぶりの平成二十年十一月、身延山久遠寺の境内に三代目の五重塔が聳え建ちました。建立の意義は、まさしく平和の象徴です。複雑な世情の中、復元された身延山五重塔は世界に平和のメッセージを伝える使命を担い、広く遠く、情報を発信して異文化コミュニケーションを円滑に高めるお役目を期待されています。
 国際社会に共存する日本は、自衛隊の海外派遣を行っています。国内では憲法改正の声も聞こえます。アメリカのオックスフオード大学にあるライシャワー東洋研究所の人たちは『日本国憲法』を分析し研究を続けています。
 戦争のプロセスは、勝っても負けても、破壊と不幸をばら撒きます。戦争途上の日本の暮らしをご存知ない方は、史実を書籍や動画で知ることができます。空高く炎上する戦艦大和の火柱を海上の油と共に浮きながら目前で見た元兵士と対談をしました。体験された戦争の史実を知りました。情報は虚偽を重ね、国民に知らされないまま、戦争は泥沼へ入り込んで行ったのです。太平洋のアメリカ領パールハーバーへの攻撃が、第二次世界大戦を拡大させ、世界大戦争へ突入してしまいました。そのときハワイ人口の四分の一が、日系人社会でした。アメリカ本土にも多くの日本移民が定住し、日系社会を築いていました。日系人の強制収容が行われることまでは、大日本帝国は想定外だったのでしょうか。アメリカは開戦の五年前にはすでに有事の場合、日系人の強制収容を考えていたことが現在知られています。ハワイやアメリカへ渡った日本人はらからのことは、戦争会議において如何なる思惑で片付けられていたのかと愚かな戦争を残念に思います。ハワイやアメリカの日系人の若者たちは、両親の故郷日本、日本の親族を敵にしなければならなかったのです。当時、日本の教育や暮らしは、戦争の方向に向けられ、生活物資は配給制、学徒出陣になると、高等教育機関(理工、医、薬、農)に在籍する学生の兵役義務は猶予される通則があったものの、測量、計測など戦闘に関する策謀へ若者の英知は捻じ曲げられていました。復員した傷病兵が寺社の境内で戦争の惨たらしさを、身を持って示していた姿を戦後の記録で知ることができます。聖職者も次々と戦場へ駆り出されました。悪夢を体験した史実を平和への教訓として、学ばなければなりません。
 今後危惧されている諍いは、水とエネルギーです。今世紀半ばで枯渇する石油や石炭の代わりに注目されているウランの買い付けに各国は凌ぎを削っています。ウランを使用する原子力発電は、核廃棄物が残るという危険と隣り合わせに立っています。現在、すでに始まっている問題は、水、食糧、エネルギーの危機、そして、気候変動の狂乱です。温暖、寒冷、海水温、水位の異常災害をもたらし、多くの難民を発生させています。外国で起こっている戦争は最大の環境汚染となっています。戦争などが撒き散らすダイオキシンやCOは、風に運ばれて人体に入り生殖に異常を来たし種の保存を脅かしています。
 今年の春、リムジンバスの中で行き先を不安そうにしている「チュニジアから来た」という一人の青年と短い話をしました。チュニジアは古代カルタゴが栄えた国で北アフリカにあり公用語はアラビア語です。日蓮聖人や鎌倉時代も知らない青年でしたが、突然目をかがやかせて、「I Know The Second World War」、私は、第二次大戦を知っている。「The Pearl Harbor attack was very nice」、真珠湾攻撃は大変すばらしかった。「I like war」私は戦争が好きだ、と言う言葉が矢継ぎ早に返ってきたのです。過去の歴史がもたらす文化の違いから来る教育や情報が、個人的思想に固有の判断を与えているのでした。このような時、一片の平和の英文メッセージがあれば日本の理解も深まったものだとつくづく思いました。
 戦争は正当防衛という言葉を使っても、残忍な殺戮者になることに変わりはありません。戦争をしない、はねつける強い心。日本の中立を守り、世界の貧困と人間の平等を願い、平和構築に心血注ぐことが防衛です。世界が日本に求めているものは、経済力、技術力、慈善的協力でしょう。異文化圏に誠を注ぐ協力が防衛です。気候変動や戦争のために多くの難民が出ています。将来問題となるいのちの危機は食料と水です。輸出用のアフリカのバラに水をやる傍らで、一杯の水に恵まれず亡くなって行く子がいます。現代は、エネルギーなくしては成り立たない世の中に発展しています。文化が後退できないのです。そのため各国はエネルギー獲得の凌ぎ合いをしています。日本は、地球規模の環境に即応した高い技術があります。現在、地球はエコロジー文明に入っています。国内的には食糧生産を高め、外国におんぶしない自給自足を目指し将来の食糧危機に対応できる具体策を自覚し実施していく必要を感じています。
二 詩人 三好達治が暗示する平和のメッセージと解釈
 乳母車        三好達治 作
母よ─
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花いろのもののふるなり
はてしなき並樹のかげを
そうそうと風のふくなり
時はたそがれ
母よ 私の乳母車を押せ
泣きぬれる夕陽にむかつて
轔々と私の乳母車を押せ
赤い総ある天鵞絨の帽子を
つめたき額にかむらせよ
旅いそぐ鳥の列にも
季節は空を渡るなり
淡くかなしきもののふる
紫陽花いろのもののふる道
母よ 私は知つてゐる
この道は遠く遠くはてしない道筑摩書房『三好達治全集』より 
 三好達治(一九〇〇年八月二十三日〜一九六四年四月五日)は、大阪で誕生しました。幼少期、兵庫県日蓮宗三田の妙三寺で養育されています。大阪府高槻市の日蓮宗本澄寺にお墓と三好達治記念館があります。多感な少年期に軍国教育を受け、シベリア動乱の最中に、韓国の会寧(フェリョン)にある仕官学校へ赴任しました。帰国後、東大の文学部でフランス文学を専攻し、職業詩人となり、アナトール・フランス、ボードレールなどの作品を翻訳しています。一九二三年、九月一日に関東大震災が勃発し、東京、横浜、神奈川、各地域にわたり、大被害をもたらしました。東大校舎も全半壊の状態でした。資源の乏しい時代に起きた未曾有の大災害は、世間の暮らしを崩壊させました。当時、日本の軍隊はシベリアへ出兵していました。思想弾圧は厳しく労働運動など際立つ思想家は憲兵が徹底的に取り締まり、『治安維持法』が発動され、京大、東大の学生が検挙されています。平和な生活を望めるべくもない暗澹たる瓦礫の町の一室で、三好達治は鉛筆を握り、時代の運命を原稿用紙に刻んだのでした。三好達治は神秘性の高い詩『乳母車』を完成させ、同人誌『青空』で発表しています。逃れられない愚かしい世に生きても人間の尊厳を詩歌『乳母車』に秘めて抽象的な独特のサブリミナル(意識と潜在意識のはざまに訴える)になっています。なぜ隠喩で書いたのかという疑問は、詩人のセンスと特高の目をカムフラージュさせるためであったかも知れません。その技巧が不可解な不思議な詩を生み出したのです。私は、次のように解釈しました。この詩は自国愛のみではなく、異国のかなしみも等しく詠っている特徴的な抒情詩です。詩中の「母と私」は作者の母と自身のことではなく、「私」は戦時国の一人ひとりの私であり、「母」は戦時国の一人ひとりの私の母を指しています。作者自身が異国で見た情景も深層に重なっています。私は高校の教科書で『乳母車』を読みました時、冒頭の「淡くかなしきもののふるなり」は、大切なものが消えてしまう逃れられない人間の運命を告げていると感じました。そのかなしい運命を作っているのは戦争です。当時、逃れられない絶対的なかなしきものは戦争でした。詩歌『乳母車』は、サイレント・マジョリテイ(声なき大衆)の心の声を代弁して、自分の意思を伝えられない赤ちゃんや子供、戦争反対の意思を表明できず戦地へ駆り出された無言のいのちを乗せています。
 乳母車は、赤ちゃんを寝かせて移動する手押し車ですが、今のベビーカーより大きく風呂桶の小型版の形でラタンの骨組みに布張りでした。その中へ赤ちゃんだけではなく、幼児や子供を連れ歩くときも乗せていました。いまのように、スーパーもデパートもない時代は、家の裏庭や空き地に野菜畑を作っていましたが、主食の芋や穀類は賄いきれず不足するため、農家へ買いに行き、魚や佃煮は、川岸の船着場まで買出しに出たのです。
 乳母車は、この時代に大活躍をしました。赤ちゃんのおもりばかりではありません。食糧の買出しに乳母車を引いて行き、さつま芋、かぼちゃ、青菜などを乗せて、その隙っこに子供も乗せて帰宅したのでした。乳母車は、子供にとっての別天地であり、安心な楽園でした。
 一行目の「母よ─」は、サイレント・マジョリテイの母です。二行目の「淡くかなしきもののふるなり」は嘆きのエレジー(悲歌)です。
 日蓮聖人著作の『立正安国論』は、「旅客来たりて嘆いて曰く」と世の悲哀を告げています。三好達治の『乳母車』も同じく、世の悲哀を告げています。三行目の「紫陽花いろのもの」は、戦争で流れる血の色であると解釈しています。後年、三好達治は、詩『首途』(かどで)に薔薇の花を血に喩えて詠んでいます。「泣きぬれる夕陽にむかつて」の一節は、異国の夕陽にむかって泣くことを指しています。日露戦争時の一九〇五年に作られた軍歌の「戦友」に次の歌詞を見ます。「ここはお國を何百里 離れて遠き満州の赤い夕陽に照らされて 友は野末(のずえ=野のはて)の石の下」
 爆発的に大ヒットした「戦友」は、半世紀近く歌い続けられました。この軍歌は軍隊の士気を高めるためのものではなく、戦地で倒れた戦友を見捨てては行けないと同朋を気遣う哀切の歌です。
 日本現代文学全集(三好達治)第八巻の軍歌雑記に三好達治が次のように語っています。「兵士諸君がどのやうな軍歌を最も歓迎してゐるかといへば、この人気投票第一位に位するものは何といっても「ここはお國を何百里」であらう。
 「季節は空を渡るなり」─この一節は、作者の貴重なメッセージです。
 歳月が、いく度も通り過ぎていく。きっといつか戦争の愚かさに気付き、平和のありがたさを知る時が来ることを作者は予感し期待しています。
 幕府の監視下に置かれた鎌倉時代、日蓮聖人は、安らかで平和な世の中が来ることを信じて『立正安国論』を執筆されました。思想弾圧が下る明治時代に、三好達治は神秘的且つ抽象的な言葉で人間のあやまちを綴ったのでした。ありのままの事実を直視する思いやり深いドラマチックな感性を持つ詩人でした。『乳母車』は、「戦争は、勝敗の双方に犠牲と不幸をもたらす」ことを暗示しています。戦争の相手国ともに等しく人間の尊厳といのりを絶唱した「母よ─」、警告の音「轔々(りんりん)」、この二つは詩中のキーワードです。詩歌はアートですから詩人は、他者の心情に立ち、走り手になるという想念を実践したのでした。

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