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教化学研究1 現代宗教研究第44号別冊 2010年03月 発行

大逆事件の真実と僧侶たち—熊野からの報告—

 

大逆事件の真実と僧侶たち
 ─熊野からの報告─
中 田 重 顕
 
 明治四十四年一月十八日、東京大審院特別法廷は、明治天皇暗殺を企てたとして二十四名の被告に死刑の判決を下した。世に言う大逆事件である。一度に二十四名もに死刑の判決を下した裁判は後にも先にも他にない。
 翌日、予定の行動だったのだろうが、天皇の海より深く山より高いご仁慈を内外にしろしめすという意図のもとに、半分の十二名を無期懲役に減刑した。どういう基準でなされたかは分からない。
 この二十四名の死刑判決を受けたなかに、紀州熊野の男たち六人が含まれていた。これを「大逆事件紀州組」とか「新宮グループ」とか研究者たちは呼んでいる。
 私ども、熊野市飛鳥町小阪、本乗寺を中心とすると車で一時間半以内に住んでいた人たちばかりである。行政区分で言えば、和歌山県になるが、新宮の医師であったドクトル大石誠之助。同じく新宮の真宗大谷派の僧侶、高木顕明。熊野川上流で熊野三山で知られる本宮大社の近く、現在の田辺市本宮町請川の雑貨屋の商人成石勘三郎と弟で熊野川の川船頭だった成石平四郎。三重県側では和歌山県との県境、熊野川の近く、紀宝町相野谷、臨済宗妙心寺派の僧侶峰尾節堂。そして、三重県御浜町、当時の南牟婁郡市木村の蜜柑農家の息子崎久保誓一の六人である。東京からはるか離れた気候温暖な紀州の地で、見も知らぬ明治天皇暗殺など考えるはずはないのは、地元に住む者には肌合いでよく分かる。いづれも冤罪であった。
 さて、私ども郷里の先輩六人の被告の中に、二人の僧侶がいたことは述べたが、大逆事件の死刑囚二十四人のなかに、現職の僧侶が三人いた。紀州組以外のもう一人は、箱根の曹洞宗林泉寺の住職、内山愚童である。
 大逆事件の被告は新聞記者、僧侶など当時の知識階級の人が多くて、真の肉体労働者はせいぜい信州の機会職工宮下太吉くらいのものだろうと言われる。宮下太吉は石川啄木の詩、「議論の後に」「ココアの一匙」などのモデルになった人物である。
 大逆事件とは、刑法七十三条違反事件のことをさす。
 刑法七十三条。
 天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス。
 つまり、死刑以外の罰則はなく、起訴されれば死刑か無罪かのどちらかしかなかった。
 幸徳秋水事件とも呼ばれるこの大逆事件は、日本の社会主義、民主主義、そして文化芸術に大きな影響を与え、近代日本の進路を変えてしまったといって良かった。
 日露戦争後、日本は不況と社会不安の中、ようやく無政府社会主義運動というものが全国に広がろうとしていた。その理論的主柱が、新聞記者上がりの文筆家幸徳秋水だった。時の桂太郎内閣は、この無政府社会主義という、天皇神格化の政府方針に反する運動に深刻な危機感をもって警戒していた。
 幸徳秋水の経営する平民社の前には小屋が建てられ、二十四時間刑事が張り付いて出入りする者の身体検査をした。秋水の書く新聞記事や出版物は直ちに出版差し止めの上、即日没収された。幸徳秋水の周りにいた者で、内縁の妻管野スガ、信州の機械職工宮下太吉、東京植物園の園丁古河力作、そして、信州の革命青年新村忠雄の四人が、政府の常軌を逸した迫害に憤慨し、「天皇の馬車に爆弾を投げつけ、天皇も誰もと同じ赤い血が流れていることを人民に知らしめて革命を起こそう」と話し合う。緻密な計画も何もありはしない、当時の主義者といわれる人たちによくあった大言壮語に等しいもので未遂行為さえあったわけではない。そして、宮下太吉は信州に帰って手製の爆弾の実験をし、不幸なことにそれに成功する。彼にはすでに警察の尾行がついていたから発覚して、宮下太吉が逮捕され、幸徳秋水、新村忠雄、古河力作が逮捕される。管野スガは発禁処分にされた出版物の罰金が払えず換金刑として入監中だったので、獄中で逮捕された。事件はこれだけのものだった。担当検事もこれ以上事件は拡大しないと言明したが、数日後情勢は一変した。何者かの大きな力が働き、全国の無政府社会主義者といわれる人たち、その理解者、あるいは単なる反権力言動をする人たちを一網打尽にして刑法七十三条に結びつけようとしたのである。大阪に九州に紀州に検事が出張して続々と無実の者を逮捕していったのであった。
 天皇暗殺の共同謀議があったとされたが、法廷で初めて顔を合わせた者が殆どだったのである。冤罪であり、無実であった。
 ただ、天皇暗殺計画に関しては無実であったが、明治政府の強権政治に批判をもち、日露戦争最中に非戦論を唱え、公娼制度に反対し、ある者は無政府共産という思想で貧しい者も幸せになれる社会を作りたいという思いを抱いていた人たちであることは間違いない。私の先輩、熊野の者六人も天皇暗殺には関係はなかったが、時代の先駆的考えをもっていた人たちだった。
 リーダーとされてしまったドクトル大石誠之助は、診察が終わるとコンコンと障子の桟を叩き、この人は貧しい人だから薬代をとらないようと合図するような医師であった。
 そのドクトルは新宮郊外の港から船で鳥羽へ、鳥羽から列車で東京に護送されていって二度と帰ることはなかった。他の五人は、紀伊田辺から船で大阪へ。大阪から列車で、手錠腰縄深編み笠という重犯罪人の姿で東京監獄に連行された。そして、天皇暗殺という思いもよらぬ容疑で裁判に付されることになったのである。恐ろしかったであろう。そして、想像もしていなかった死刑の判決を受けるのである。
 天皇の特赦にも該当しなかった十二名は僅か六日後の、明治四十四年一月二十四日、絞首台に上った。正確に言えば、ただ一人の女性死刑囚だった管野スガだけは、女性であるか故に翌日にまわされ、二十五日、一人ぼっちで処刑台に上ることになったのだが。
 この事件には三人の現職の僧侶が連座していたにも関わらず、仏教界の示した反応はすこぶる低調なものだった。
 真宗大谷派も臨済宗妙心寺派も曹洞宗も逮捕や判決と同時に、門下の僧侶を宗門内極刑である「擯斥」処分にして僧籍を剥奪し永久追放した。そして、宮内省に謝罪文を出してひたすら恭順の意を表したり、懺悔を表明したりした。
 それでは、天皇制裁判所から死刑の宣告を受け、宗門からも極刑を受けた三人の僧侶はそのような極悪非道の人物であったろうか。
高木顕明師
 新宮馬町、真宗大谷派浄泉寺の住職。
 元治元年(一八六四)、愛知県西春日井郡に生まれる。明治三十年に新宮の浄泉寺住職として着任。檀家に被差別の貧しい人たちが多いのに心を痛め、お布施をもらうに忍びず按摩術を習って自ら生計を立てようとしたと伝えられる。日露戦争が始まるとそんな貧しい檀家から次々と徴兵されることに憤り、非戦を唱える。さらに、和歌山県で最初の公認遊郭が新宮に作られようとするのに反対して廃娼運動にも取り組む、そんな僧侶であった。彼はこの頃、「予が社会主義」という論文も書いているが、逮捕されてからの取り調べの中で、次のように述べている。
問 「予が社会主義」は、どういう主意のことか。
答 私は真宗大谷派の僧侶です。私の思想は南無阿弥陀仏の信仰によって心霊の平等を得、それによって社会主義者のいう平等の人域に達しなければならぬと書いたのです。
問 それでは証人もやはり、終局の目的としては、社会主義と同様の主張になるのではないか。
答 さようです。私は宗教によってその目的を達しようというのです。
 このような僧侶も死刑の判決を受け、無期懲役に減刑されたものの遠い遠い酷寒の秋田監獄に入れれる。妻は、苦難を押して遠い紀州から何度か面会に訪れているが、不運な僧は大正三年、秋田監獄で自殺した。孤独な死であったろう。五十歳であった。
峰尾節堂師
 三重県南牟婁郡相野谷村阪松原、臨済宗妙心寺派泉昌寺の留守居僧。
 明治十八年、和歌山県新宮町二番地生まれ。幼い頃僧籍に入り、本山妙心寺で修行していたが病弱のため途中帰郷。熊野の小さな寺を転々とし、この頃、泉昌寺の留守居僧となる。掌を立てたような坂の上の小さくも美しい寺である。今も昔もその坂の上から見下ろす檀家四十軒ほどの住職の飯米がかつかつという寺だった。
 彼はこの時二十六歳、内気なお坊さんだったが、この頃、社会主義の勉強などしていた新宮のドクトル大石誠之助等との付き合いも断ち、新婚の妻ノブと貧しくも穏やかな僧堂生活を営んでいた。大層本が好きな人で、少しでもお金が入ると、東京丸善から洋書を取り寄せるような僧侶でもあった。
 従って彼は、明治四十三年の梅雨の晴れ間の早朝、踏み込んできた新宮警察の刑事に両脇をかかえられて連行されていくとき、まことに意外な思いにかられたであろう。峰尾師こそ、明治天皇暗殺計画に何の関係もなかったのだ。
 師は、逮捕と同時に、新婚の妻ノブを無理矢理離縁した。謀反人の妻として迫害を受けるのを避けさせたかったのだ。ノブは泣く泣く京都に逃れていったとされるがその後の消息は分からない。幸せに暮らしたとはとても思えない。
 峰尾師は、死刑の判決を受けた翌日、たった一人の理解者であった新宮キリスト教会牧師の沖野岩三郎に宛てて、次のような手紙を書いている。
 拝啓昨十八日遂に死刑の宣告を受けました。私は今親鸞上人を通じて如来の子として頂きました。如来の膝下に帰るの信仰をもつてをります。人間の小智小児凡慮浅識を以つて万事皆不可解也。人間は到底不完全、殊に私自身は頗るアサマシキ者也の自覚を生ぜざるを得ざるに至りました。大兄健全におはせ。さらば。
 峰尾節堂師も無期懲役に減刑され、千葉監獄に入れられる。模範囚として過ごしていたが、大正八年、チフスによって囚人たちに見守られて獄死した。この時、師は臨済禅は捨てて、親鸞聖人に帰依していたという。それが、この僧の、自らを擯斥処分にした臨済宗への抗議であったかどうかは分からない。
内山愚童師
 箱根大平台、曹洞宗林泉寺住職。
 明治七年五月、新潟県北魚沼郡小千谷生まれ。
 内山愚童師は、三人の僧侶いや二十四名の死刑囚の中でも尖鋭に戦った一人であった。二十四歳で洞門に入り、箱根林泉寺の住職となってからも、寺の須弥壇の奥に秘密印刷所を設け、印刷物を全国の同志に送った。そして、「予は如何にして社会主義者となりし乎」という文書も書いている。悉多太子に習って貴族や富豪にも全財産を捨てよ、と唱えているのである。明治四十一年九月、彼が一日で書いたとされる「入獄記念 無政府共産」というパンフレットには、過激な文言が並ぶ。予審判事が「日本歴史始まって以来の大悪の書」と憤慨したくらいである。その一部分。
 なぜにおまえは貧乏する。わけを知らずば、きかしようか。天子金持ち大地主、人の血を吸うダニがいる。
 愚童師は、その故に官憲の厳しい監視を受け、明治四十二年、「出版法違反及爆発物取締違反」で検挙され、一審で懲役十二年の刑を受ける。
 曹洞宗は、愚童師が逮捕され社会主義者と分かると、明治四十三年六月二十一日付けで「擯斥」処分にして僧籍を剥奪した。まだ、大逆事件が発覚していない段階である。従って正確に言えば、明治四十四年一月十八日大逆罪により死刑の判決が下ったとき、内山愚童は曹洞宗の僧侶ではなかったことになる。しかし、曹洞宗は愚童師の死刑判決を受けて、宮内省に謝罪文を出して宗門取締不行き届きを陳謝しているのである。
 かかる僧侶は、検察官にも裁判所にも憎まれ、天皇の特赦に該当することなく、絞首台に上った。その寸前、教誨師が「あなたも仏門にある身ですから、数珠をもって上がられたらどうですか」、というと、少し考えてから「まあ、よしましょう」といってさっさと上がっていった。その少しの間に何を考えていたか、僧侶の皆さまにはおわかりであろうか。私には分からない。 
 あれから、もうすぐ百年が経とうとしている。やっと三つの宗門はそれぞれ門下の僧侶の擯斥処分を取り消し、名誉回復をした。あまりにも遅すぎるこの処置を、高木顕明師も、峰尾節堂師も、内山愚童師も泉下で喜んでいるかは分からない。むしろ、各宗門が問われるのはこれからだ、と三人の師は思っているのではないか。
 真実を見抜く勇気こそ、かつて過ちを犯した教団も、幸い大逆事件には関わらなかった教団も、問われるのであろう。
 大逆事件、ただ独りの女性死刑囚だった管野スガは、処刑台に上るとき「何か言い残すことはないか」という監獄側の問いに「私の思想は百年経てば分かってもらえますから何の悔いもありません。さあ、早く行きましょう」と三つ紋つきの紫の羽織に髪を固く結んでさっさと処刑台に上っていった。
 あれからついに百年が経とうとしている。彼女が信じたように、彼女の思想は果たして分かってもらっているであろうか。この女革命家に悲しいのはそのことである。
 私は時々、今は無住となっている、坂の上の臨済宗泉昌寺を尋ねる。一人で境内に座っているとこの寺で本を読んでいた若い僧侶、峰尾節堂師と新婚の妻ノブの弾むような声が聞こえてくるような気がする。恐ろしい冤罪がこの二人から全てを奪っていったのである。
 国民自身が裁判に加われる時代になった現在、冤罪などというものが、この世にない社会をみんなで作っていく見識を身につけることが、非命に倒れた三人の僧侶やただ一人の女性死刑囚、管野スガの命をかけた願いに応える道であろう。それは、僧籍にある者も、私のような在家の信徒も同じことに違いない。
 紀州熊野からの報告である。

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