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教化学研究1 現代宗教研究第44号別冊 2010年03月 発行

第二部『教化上の二処三会』—二人の私—

 

第二部『教化上の二処三会』
 ─二人の私─
原   顕 彰
 
 昨年の第一部では、法華経は何ゆえに二処三会(前霊山会─序品から法師品、虚空会─宝塔品から嘱累品、後霊山会─薬王品から勧発品)で構成されたのか、私なりの解釈をさせてもらえば、それは、「諸法無我」の教えを、衆生がより正しく、よりわかり安く理解し、又、久遠の本仏を信じ、その本仏と共に永遠に生きることを開示悟入する為であり、又、我とは、一つの我ではなく、衆生という我と本仏の我と言う「二つの我」から成っている、しかも、その二つの我は同体である、という導き方をしていると思われるのである。
 故に、衆生教化の為には、この「二つの我」という表現の方が「無我」という表現より適している、という論を展開しました。
 再掲するなら、法華経で一番大切な経である寿量品偈(三世の諸仏は寿量品を命とし十方の菩薩は自我偈を眼目とす)には「我」という字が15も出てくる。これは所謂「久遠の本仏としての立場の我」であるが、それに対する「衆生という立場の我」も存在すると考えられるからであります。
 しかし、これに対し現在の大乗仏教では、『実体的原理である「我」とか「霊魂」は想定することを拒否するのが仏教であり、全ては無常であり、無我である。涅槃経の釈尊最後の教え「自灯明、法灯明」の自己(我)は、釈尊の悟られた世界での自己の意味であり、一般で使われる自己とは異なるものである「下田正弘東大教授(パリニッバーナ)─NHK出版」』としている、と思われる。
 又、中村元先生は、『確かに原始仏教では「非我」から「真我」を求めるという考えはあったが、歴史の変遷を経て大乗仏教では、「我」は哲学上の「我」もしくは「わがもの」という執着、考え方から離れる為の「実践目標としての我」であり、真実の自己の実現の為のもの「(自我と無我)─平楽寺書店」』と言われている。因みに、中村先生は晩年には般若心経を毎日あげられたといわれるので、「無自性空」の考え方を通されたと思われる。
 このように、現在の大乗仏教の考え方では、「無我」を説くと思われる。
 しかし、日蓮聖人は、法華経の「久遠の本仏としての我と衆生の我」を「所化以って同体」という表現をされているので、これら日蓮聖人の考え方等を考察すれば、久遠の本仏の「我」と共に、衆生の「我」(移り行く我であるが)も認めているように思えるのである。
 しかも、この「我」を認めるという考え方は、現代人の、仏教への不信(無我の思想の誤解)に対しても大いに有効な回答にもなると考えるものである。
─アンケート「あの世」(抜粋)二〇〇七年十一月教育大学生、看護生、高齢者(三七〇人)─
 あの世を
     信ずる     62% あって欲しい、全てが無に成るのが怖い
     信じない    38% あの世は空想、この世以外の存在は無い
 死と宗教の救い
     信ずる     2%(高齢者は21%)
     どちらでもない 57%
     信じない    41%
 このアンケートによれば、現代人は、死や無が怖いため、あの世は信ずる(信じたい)が宗教には救いを求めないというのである。ここで、この仏教への不信に答える為には、「無我」という表現よりも、先ほどの「二つの我(悟りの久遠の本仏という我と衆生という我)」という表現のほうが有効であると思える。
 そして、法華経は、この二つの我という表現を以って迷いの衆生を救う為にこそ、霊鷲山会上(現実生活)と虚空会(悟りの久遠の本仏の空の世界)という、二つの土に分けて説かれ、究極的には、所化以って同体、すなわち人間(衆生)の代表でもある釈尊が久遠の本仏であるとして、衆生を仏知見へと開示悟入しているものと思うのである。
 以上、法華経の二処三会での教えは、迹門の霊鷲山では、全ての人が仏になれるという記別を与え、本門の虚空会では、久遠の本仏を顕し、釈尊も私たち衆生も久遠の本仏と同体であると証されたのである。このように、二処三会での教えは土を現実と虚空の二つに隔て、現身(移り行く生活習慣我)と佛身(悟りの我─久遠の本佛)という二つの我(自己)という表現を以って一切衆生を導き、所化以って同体という理解の上で、虚空より再度現実生活に戻し、仏に成る道を歩ませようとされた、と信ずるものである。
 しかし、ここで今、解決せねばならない問題がある。それは、姿形を持たない(法身─虚空会上)久遠の本佛の我とは何かということである。しかも、久遠の本佛の教えが虚空会で説かれたということは、現実世界の出来事ではない(実体が無い)のではないか、という疑問が生じるからである。
 又、空という姿形を持たないものなら、必ずしも久遠本仏は、釈迦牟尼仏でなくともよいのではないか、という論法も成り立つ、という考えをする場合もある。
 例えば、浄土真宗西本願寺派の勧学である渡邉顕正師は『久遠本仏が本覚性(空)なら姿形が無いから、阿弥陀でも大日でもいいのではないか、大日は生きている人の悩みを救い、阿弥陀は死者の救いを説く、故に、この二仏を立ててもいいのではないか、否、これで充分である(「日蓮聖人の教化法と宗教批判」─永田文昌堂)』としている、しかしこの考えは法華経の寿量品を踏まえた上でなければ成立しない考え方であると思われる。
 今、法華経では、この虚空(通一仏土)に多宝塔という実体をわざわざ登場させ、その上、(現身)の釈尊が久遠の本佛として多宝塔へ入る、という演出をしているのである。釈尊とは私たち衆生が現身のままで悟りを開らかれた姿であり、しかも、その身のままで、久遠の本仏として多宝塔に入いられているのである。これは、移り行く現身(応身)の我(釈尊)が、無始無終の命を持つ法身の久遠の本仏としての我と同体であることを意味するものである。
 (日蓮聖人の言われる「無作の三身」も、これらのことを踏まえての言葉と思われる。)
 又、その上、空の世界に出現した多宝塔とは、悟りを得られた釈尊であり、久遠の本佛であり、これは強いては、私たち衆生そのものであるのではないか。
 何故なら、日蓮聖人は阿佛房御書に「阿佛上人の一身は地水火風空の五大なり─しかれば 阿佛房さながら宝塔、宝塔さながら阿佛房、これより外の才覚無益なり─我が身又三身即一の本覚の如来なり」と法身、報身、応身が即一であり、人間(我である)阿佛房が虚空会上の宝塔であり、久遠の本佛(法身)と同体であると教えられるのであるから、私たち全ての衆生も叉、宝塔であり久遠の本佛と同体であるのではなかろうか。
 否、法華経は三世間の成仏を説くのであるから、この地球上の形あるもの全てが「宝塔」である、すなわち、形あるもの全て(山川草木国土を含め)は、空より出現した宝塔であり久遠の本佛と同体なのである、と解釈出来るのではないか。
 これは、すなわち、この地球上の全てが、恰も、「一仏土」と成った状態を表しているのではないか。
 このように、もし、地球全体が「一仏土」となったら、そこには最早、生も死も存在せず、過去も未来も存在しないのではないか、何故なら「一仏土」に於いては、場所や空間の隔たりも無く、時間の隔たりも無いのである。否、生とか死とか、過去とか未来という考え方も必要では無くなるのではないか。これこそが、永遠の命を持った久遠の本仏の悟りの世界であるのではないか、と思われるのである。
(今、娑婆世界を宇宙ではなく地球全体と解釈した方が妥当と考えてみて)
 今、私は、日蓮聖人は、このような「一仏土」の世界が実現した状態を、観心本尊鈔に
 「今本時の娑婆世界は、三災を離れ四刧を出でたる常住の浄土なり。仏過去にも滅せず未来にも生ぜず、所化以って同体なり。是即ち己心の三千具足三種の世間なり。」と説かれているのではないか、と考えるのであります。
 ですから、私が推察するには「今 本時」とは、地球全体が「一仏土」に成った時を意味するものと考えるのであります。(通一仏土の方がより良い表現かもしれないが)
 即ち、私たち衆生が、仏国土建設を目指し、その目標が達成され、「一仏土」が実現したなら、久遠の本佛と同体になり、生死を離れ、時間を離れ、空間をも離れた、悟りの世界に入ることになる、と日蓮聖人は示して下さったのであると考えるのであります。
 又、だからこそ、この「一仏土」の顕現された姿を「お曼荼羅御本尊」として表されたものと思うのであります。
 そして、後霊山会では、これらのことを知った上で、又、元の現実の世界に戻り、この崇高な理想(一仏土)の実現に誠意努力することを勧めたのであり、その為に、霊鷲山より虚空会、そして霊鷲山に所を変える「二処三会」での説法となった、と私は考えるのであります。
 ですから、私ども法華経を信ずる者は、この「二処三会」の教える如く、私たち「衆生の我」は「悟りの久遠の本仏の我」と『同体』であることを信じ、この私どもの住む娑婆世界を「一仏土」にすることを永遠の目標として菩薩行を実践せねばならない、と思うのであります。
 結論として、「二つの我」は、結局は同体であります。迷えば凡夫であり悟れば仏になります。このことを、「二処三会」で、私共に教えてくれているのではないでしょうか。
 故に、私共は、五戒を守り、八正道を行じ「仏国土建設」を目指すべきなのであります。そして、この永遠の理想である「仏国土」が顕現された時こそ、三世間の全てが、生死を離れた、安らぎの心境を得ることが出来るのではないでしょうか。

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