教化学研究1 現代宗教研究第44号別冊 2010年03月 発行
日蓮信仰と戦前大陸での活動—宣撫班と八木沼丈夫を足がかりに—
日蓮信仰と戦前大陸での活動
─宣撫班と八木沼丈夫を足がかりに─
坂 輪 宣 政
はじめに
昭和初期に満州から始まり大陸全土、さらには南方で行われた旧日本軍の宣撫活動の中心人物の一人であったのが八木沼丈夫である。八木沼は熱心な国柱会の信者であり、彼の盟友であった中山正男も日蓮信仰を持っていた。八木沼とその周辺について述べ、当時の時流下での日蓮信仰にごく簡略であるが言及したい。
また、当時の日蓮宗の大陸での活動の諸例についても日蓮宗教報の記事から要約する。
なお日蓮宗と当時の国家政策については中濃教篤の研究があり、宣撫工作についても言及し概括を行っている。また都守基一は戦争中の宗門の活動について略年譜を作成し、宣撫・特務に関わった僧を宗報などから二十六人まで確認しその略歴をまとめている。
(一)宣撫班と八木沼丈夫について
さて、宣撫班とは一体どのようなものであったのであろうか。宣撫官の名は八木沼が古代中国の官職名からとったといわれている。満州事変後の初期宣撫班の具体的な活動としては、軍に追随して占領地の治安や安定のための工作が中心であった。ほかにも医療などの救済、紙芝居・街頭演説・映画巡回などの政治的な宣伝活動などもある。昭和一三年当時に発行されたパンフレットである軍特務部宣撫班本部編『宣撫班とは如何なるものか』によれば宣撫班は「平和・人道の戦士として、皇軍部隊に従属し戦火の跡、生々しき地域に於て、戦火に怯え敗敵の略奪放火に周章狼狽して、帰属するところを知らざる民衆に対し」日本の立場の説明などの思想的な宣伝を行ったり、住民の救護や保護を行い、産業の再生や育成にも荷担し、住民の日本軍への協力的な姿勢をもたらす、とある。「宣撫班は、占領地域の凡ゆる文化的復興及び建設のパイオニア的使命を双肩に担うものである。宣撫班は北京に本部を有し、本部の外に戦線に於て砲煙弾雨の間を東奔西走しつつ、恐怖戦慄して宛ら自己の意志を喪いたる如き民衆を、愛撫誘導して、此の場合最も必要なる「希望」を与え、皇軍に対する恐怖心を除去して、絶対信頼へと趨かしむることを目的とする従軍宣撫班と、此の従軍宣撫班の宣撫工作を継続し、或る一定地点に定着して前記の如き諸工作に従事、治安の恢復維持に任ずるを目的とする定着宣撫班より成っている」と要約している。
このように軍人ではなく軍属の身分で、しかも多少は自立性をもち様々なかたちで住民に対応することによって軍に協力する機関であったことがわかる。初期は特に兵站線確保のための鉄道愛護村運動に重点が置かれていたが、次第に民政部門にまで広がってゆく。
宣撫班の前身は靖郷隊であり、主任務は満鉄の鉄道愛護村工作であった。初期の宣撫官は満鉄の社員と日本軍の現地除隊者で多数を占める。やはり当時の資料である『平和の戦士宣撫班』では目的として①民心の安定。②治安③共産・抗日の一掃。④産業経済交通文化への指導。⑤明朗北支建設に対する協力としている。
宣撫班には、従軍宣撫班と定着宣撫班があった。前者は進撃する部隊に従い、情報収集、部隊のための必要物資や人夫の斡旋、宣伝が主任務であった。後者は定着して避難民の呼び戻しや復興、医療や教育、治安行政の復活維持などにあたる。
また宣撫班では宗教政策の一つとしての宗教行事復活と振興策を重要施策の一つにしていた。事業としては医療・貧民救済・日本語学校・宗教の復興などである。荒廃していた孔子廟をはじめとする儒教の堂宇や仏教・回教の寺院、諸廟などの復興も行った。慰霊祭も行われた。
『武器なき戦士』には著者の岡本が宣撫官となった経緯がある。まず陸軍省新聞班の「北支派遣軍宣撫班員募集」があった。任務として①占領地区の住民に日本軍の「真意」を理解させ民心の安定と戦禍の復興を図る。資格は②高等専門学校卒業以上で満三十歳以下③筆記と面接。この時は六十五人が日本での試験で即採用されて中国へ赴いた。身分は判任官扱いの北京軍嘱託。北京到着後一週間で宣撫班に配属される。宣撫班徽章は青地に白く鳩を浮き出させた七宝焼きで逆三角形のものであった。
「(八木沼氏は北京での講習中に)日本軍の威力のみでは大衆はついてこない。敵対する中国軍は力で制圧できても、住民を見方にしなければあとの安定が保てない。それには愛情をもって彼らを慰撫救護し、かつ正しい宣伝によって日本の真意を理解させ、民心を収攬せねばならない。軍隊が威の父ならば宣撫班は慈の母である。宣撫班は戦争のあとの混乱から安定と秩序を、廃墟の無から復興と建設の有を生み出す担い手となれ」と説いた。(岡本『武器なき戦士』)
宣撫班員には日本語の大陸浸透・普及を一つの目的とする面もあった。その側面については研究史として田中寛が詳しくまとめている。日蓮宗教師のうちから宣撫官になったものも、日本語教育を行っていると報告している例がいくつかあるが、このような背景のもと、理解すべきであろう。田中は「日本側民間の教育機関が特筆される。張家口の東本願寺「仏教日語学校」、日蓮宗妙法寺経営の「立正日語学校」などである」として、進出寺院の経営する語学校を注目すべき「民間機関」の一にあげている。大陸占領地での日本語教育については、各方面から論じられており、ここではごく簡単にふれるだけとする。
占領という特殊な状況下で日本語学習熱が当時の中国各地で盛り上がっていたことは事実であったようで、宗報に掲載された「農民までが日本語を学びたがっている」という報告は誇張されたものではなかったのであろう。興亜院は昭和十三年十一月に閣議で設置が決定され十二月に内閣直属の形で設置された支那事変処理のための中央機関。昭和十七年には大東亜省に発展する。宣撫官の行っていた日本語教育も興亜院が引き継いだ。
長谷川恒雄は興亜院の派遣した「支那派遣教員」(給与は両国が半額ずつ負担していた)の一部に「民間日本語学校職員」があり、その中には「宗教家」が含まれており、さらに興亜院ではこれとは別に「宗教教師」の派遣を行っていることを示している。「宗教教師」練成も興亜院によって行われていた。これについて長谷川は日本精神の主張が強かった当時の当局者がその普及にあたり、モデルとして欧米植民地における「キリスト教という宗教を活動拠点とし、そこに学校を付設しその思想を普及させ、病院等の社会事業を起こし、人心を引き付けるという方式」を設定し、「この方式の実現を興亜院は宗教教師において顕現し、宗教家という人徳者に理念の実行を委嘱しようとしたと解釈できるのである」と表現している。
そして、「支那派遣宗教教師」の練成事業報告書や班別名簿から検討を行っている。第二回・第三回の名簿から宗派別に整理すると、日本キリスト教団7─9、天主公教0─1、天理教5─9、金光教5─2、天台宗3─2、日蓮宗3─2、日蓮正宗1─0、浄土宗3─3、浄土宗西山派1─0、真言宗4─4、法華宗1─0、曹洞宗3─5、真宗本願寺派2─3、真宗大谷派3─3、黄檗宗1─0、臨済宗0─3、となり、日蓮宗では計五人、と特に多くはない様子がうかがわれる。
昭和十九年の「支那派遣教員数」(興亜院作成)では宗教家を含む「民間日本語学校職員」が六百八十二名いる。
このような宣撫班の初期の中心人物の一人が八木沼丈夫である。八木沼の略歴について遺稿を集めた歌集と『日本近現代人物履歴事典』からまとめた。
明治二十八年十一月四日福島県塙町生まれ・昭和十九年十二月十二日没。福島県出身。磐城中学中退。小学校の代用教員となる。大正二年歩兵六十五連隊入隊。同六年満州独立守備隊附。九年除隊。同年満州日報社入社。十三年九月ハルピン支局長。昭和三年に退社。同年六月満鉄社員機関紙『協和編集長』。四年三月満鉄社長室情報課広報係主任。七年四月関東軍嘱託として建国の宣伝を担当する。七年九月満鉄奉天事務所。七年十一月同新京事務所。八年十月鉄路総局警務処第二科第二係主任。九年四月防務課。十年七月参事。十一年十月刑務局警務参与。十二年七月北支事務局参与。十三年九月北支警務部長。十二年七月〜十五年三月、北支方面軍宣撫総班長。十四年四月華北交通会社参事・警務部次長。十五年三月〜六月兼新民会中央訓練所長。宣友会の会長に推される。十六年『短歌中原』創刊。十六年華北交通参与。十九年華北交通青年隊本部長、興亜青年同盟本部長。法号 法徳院能雄日顕居士
支那事変が起こると天津駐屯軍の中に報道部ができ、八木沼の後援者である松村秀逸が初代報道部長になるのと前後して宣撫会本部も八木沼丈夫を本部長として結成される。
八木沼は石原莞爾の知遇も得ていて満州事変の少し前に石原から満州新国家における民衆工作案を作成するよう依頼されてそれを提出した、という説もある。(青江)石原の東亜連盟思想を信奉していたようでもある。
事変後の作戦の拡大に伴い、必要な宣撫官の員数も増加の一途をたどる。その際に、「教養ある紳士たち」が八木沼の意向で採用されたと青江は記している。
教養ある紳士たち これはまことにふしぎなグループで名目は満鉄の現地採用になっているが、実際はそのほとんどが内地から招かれている。宣撫官、県連絡員が三十歳以下というのに対し、このほうは三十歳以上の「学識教養ある社会人」という基準であった。しかもそれは公募されたのではなく、ほとんどが八木沼丈夫の縁故関係か、日蓮宗の同信者ですぐ指揮班長もしくは班長に充当しようというものであった。無計画につぎつぎ班がふえてゆくにつれて、各軍(あるいは各省)ごとの統括班の設立が必要になって来たのに、満鉄からは出せる人間には限度があったからである。少し邪推すれば、八木沼は彼らを北支における彼自身のブレーン、あるいは側近にしようというのであった。
と推測している。八木沼が日蓮信仰を基準に宣撫班幹部の選抜をしようとした可能性を述べているが、その実態は不明である。
宣撫班には宗教関係者が多かったという記述はしばしば目にする。
この座談会で特異に思ったことは、宗教関係の学校出身者が多いことであった。同学同級というのも何組かあった。あとでできた名簿によると、宗教関係二十人、教育関係十三人で、一〇〇人のうちの三分の一を占めていた。宣撫班の任務の一端を物語っているといえる」(岡本『武器なき戦士』)
「宣撫官の中には寺門の出が意外に多く、中には帰還後、大本山の要職に累進した人も何人もいる」(青江)
当時の宣撫活動に関わりがあり、日蓮信仰があると自著で述べている人物に中山正男がいる。中山についても同様に『20世紀日本人名事典』などから略歴をまとめた。明治四十四年〜昭和四十四年。北海道留辺蘂町生まれ。昭和三年専修大学法科中退。平凡社に入社。同年独力で陸軍画報社を設立。社長として従軍雑誌『陸軍画報』を刊行。日中戦争中、南京城攻略戦に従軍して書いた「脇坂部隊」は当時ベストセラーとなった。東京における八木沼の追悼会の主催者となった。三十四年第一世論社社長。戦後はユースホステル運動を推進した。同協会会長となり勲三等を追贈されている。
八木沼と中山がはじめて会ったのは昭和十二年の秋、天津の宿舎であったとある。
八木沼丈夫は、宣撫班の創始者で、満州事変以来、軍の一機関として中国民衆に日本の真意を伝えるとともに、戦乱におののき。その惨禍に泣く民衆を救うことを任務として働いていた。
戦う日本軍が宣撫班を組織して、八木沼丈夫をその長にしたことは、日本軍のヒューマニズムのひとつの証明になると思う。彼とそして彼の弟子三千人の宣撫班員たちが、中国の戦野でどのような人間愛の花を咲かせたか、いまその幾つかをここに飾ってみたいと思う。(『花をたむけてねんごろに』)
八木沼は一貫して欧米帝国主義の排斥とアジア、特に日中両国の長期的な友好を熱心に説いた。そのためには日本人自体の姿を正しくしなければならない、というのが支那事変直後の彼の話であったという。中山はその行為が思想と一体化したものであったと賞賛している。中山は八木沼の発言をいくつも紹介している。また、八木沼の精神が宣撫官の多くに「信仰」されていたとまでいっている。そして、その精神を受け継いだ宣撫官の挿話を書いている。宣撫班には「八木沼イズム」とまで称する信奉者がかなりいたという説がある。八木沼が北京で没した時には多くの門弟たちに囲まれていたという。
戦後に作成された『宣友会名簿』(北支宣撫班宣友会編 一九五一年)にも八木沼の名が随所にある。刊行の辞にも「かって友邦大陸に南方各地域に宣撫精神(八木沼イズム)の発揚に活躍せる同志相図り国家の将来、亜細亜の前途を真剣に憂ふ宣友会の復活を熱望する」云々とある。略史として
昭和十二年七月七日事変勃発以来四年、軍宣撫班の発足は天津軍司令部八木沼班長を招きし七月二十一日を以て始まる。爾来軍宣撫班は軍の一翼となり、聖戦の目的貫徹の為戦塵の間に軍と行動を共にし、兵站線確保は勿論、戦火におののく民衆を救い、抗日の逆夢を醒し、秩序を与え、其の往くべき所を知らしめ、共々に相提携以て東亜新秩序建設に向かはしめ、新生中国の建設に迄至らしめたり。而して十四年末には、軍に伴い軍宣撫班は鉄道沿線の工作を新民会にゆずり奥地へ進出……
また、「最初軍宣撫班は満鉄社員を以て編成せるも逐次軍採用者を充当せり。」とあり、日本人内地採用は第一回(十三年三月七日、一〇〇人)、二回(八月六日、一九六人)、三回(十月二十日、二百十五名)、四回(十四年二月七日、百二十八人)、五回(四月二十日、六百十九名)、六回(九月一日、二七三名)、七回(十二月十五日、二百三十九名)満州での現地採用は十三年四月二十日の三十名などとしている。
『歌集』の跋文によれば、昭和十四年末の時点で宣撫班は北支三百八十九県中、二百七十五県に組織され人数三千二百七十余名に達し、百二十四名の戦死傷者を出していた。
昭和十五年三月に「中華民国新民会」が発足して、宣撫班は結局新しい新民会に統合される形で廃止された。華北新民会は十二年十二月に繆斌の主唱する新民主義を理念として設立された華北政権の側面から協力した付属機関。宣撫班と新民会が統合されて「中華民国新民会」となった。八木沼は結局、軍の一部である宣撫班という組織を主張し、新民会には同意しなかった。その結果表舞台からは身を引く形となった。このような経過をたどった理由の一つとして、中山は宣撫班と新民会の統合について、八木沼と北支軍の間にかなり深い意見の対立があり、八木沼は反軍とまでいわれたという。背景として統合以前には軍特務機関・宣撫班・新民会の三者が競合する地域さえある事情があった。また、青江は八木沼をはじめとする満鉄出身の宣撫官は大陸の実情には詳しくとも教養がせまく、民度の低い満州ならともかく、北支では効果が薄いと上層部が判断したことも満鉄出身者が重視されなくなる原因の一つであろうと推測している。(青江)
ここで中山正男にも言及したい。中山も日蓮信仰をもち八木沼と共鳴したと自負している。中山は皇国日本の民、という前提条件のもとで日蓮信仰をもっていたようである。著書『一尺の土』には日蓮宗僧侶出身の宣撫官が毎朝寿量品を読経する様子などもわざわざ描かれている。自身についても「(戦後)私はやがて追放をうけ、私の著書はすべて没収図書として官報に告示された。山梨から千葉へ流人のような生活が続いた」「いつも香をたいて戦死者の霊に法華経を唱えながら書いているのである」(『花をたむけてねんごろに』)など読誦の記述が散見される。
中山が昭和十六年に著した『立正興亜論』にはその信仰などが語られている箇所がある。
「世界は一の真の有徳なる王者のもとに統率されなければならぬ。その王者は云ふまでもなく日本の天皇にあらせられるのだ」「新しき世界観とは古き法華経教典に変えることだ。しかして其の開顕統一を衆生に帰一すべし」「皇道は太陽にして、法華経は月なり」「新しく正しき世界観の根本をなすものは立正安国である。立正興亜である、立正世界である」八紘一宇の大理想の顕現により「一天四海皆帰妙法の正法世界が顕現されるのである」そして、大陸における戦争を英米帝国主義の東亜支配を断ち切るためとし、その観点から日中の友好をひいては新世界の建設を訴える。そして、法華経の信仰を通じて新しく正しい新世界の顕現をみちびくという発想が随所に出てくる。その前提としての皇室があるという部分もはっきりしている。また、「日本人精神」「日本精神」の一部としての日蓮宗信仰という当時の思想も感じられる。宣撫活動については新秩序建設のために必要な民衆「教化」のための方策としての宣撫、としている。
中山は、まず国・皇室を日本を含む世界の中心とする世界観を持ち、それに基づいて思考し行動していた。法華経の信仰はその世界観に優先するものではなく、むしろ従属的であったように思われる。法華経の信徒である以前に日本の臣民であり、その枠内での個人としての信仰という構造をもっていたようである。「日本精神」の強調という潮流の中で、その流れに合致した特有の性格をもったものといえよう。
以上のように、宣撫班について八木沼と中山を中心に略述した。後世からの評価はともかくとして、二人とも時代の推移に対応する際に、自己の信仰を省みながら行動していた人物といえるであろう。それは法華経の信仰に基づいて理想的な社会を建設しようというものであった。その信仰が正しいか、行動が正しいかといった問題は別にして、本人の意識としてはそうであったといえよう。
(二)大陸での日蓮宗の活動事例
宣撫班で活動していた僧侶の具体的な事例は少ないが、当時の日蓮宗は様々な形で大陸での活動をしていた。宣撫班のほか、布教師、特務機関、興亜行道者、集団拓士、日蓮村などである。その様子をいくつか見てゆきたい。
日蓮宗教報三九号(昭和十三年九月十日)には、中支方面の開教陣と特務機関員の動静についてまとめがある。支那事変前の宗門寺院は十三年当時開教本部となっていた上海本国寺別院のみであった。その後、南京寺が出来たのみであった。ところが、之に比して、特務機関方面は大いに飛躍を遂げたという。十余名が機関員に就任し、「特務機関中宣撫に活躍すると宗教政策に参画するの別はあっても、共に直接には国家への大なる御奉公であり、間接には宗門の布教である。吾が宗門人がこの聖務に就き第一線の将士と苦楽を共にし、聖戦の目的達成に精進しつつあることは、」個人の名誉でもあり、宗門の誇りでもあると評価している。その一方で、開教監督は軍部、居留民、宗教連盟などとの折衝が必要で自由な動きができないという指摘もあった。松村壽顕「日蓮宗における満州開教の状況」には「従軍僧と同様、一般的特務従事者として軍の中に宣撫班というものがあり、日蓮宗から選ばれたこともあったが、憲兵のような権力を持つものでなく、国体的内容に重点を置いて宣撫・講演をした。このような軍との交流はあったが、軍に対して意見を言うようなことは出来なかった」とある。実質は軍に服属するもので布教を中心にすることは難しかったのであろう。
日蓮宗教報五二号(昭和十四年)には「対支方面開教に関する運動」として「所謂大陸開教に就いては挙宗全力を傾注しつつある所にして、僅々二ヶ年の歳月と多額ならざる宗門予算を以て而も各教団に先んじ」た結果、在支布教所総計は二十二カ所、事業(日語学校其他開設)十四カ所、宣撫班・特務部員・従軍僧は二十二名、布教師総数三十名に及び、さらに昭和十四年度布教所新設予定は北支方面四カ所、中南支方面六カ所、蒙古方面三カ所とまとめている。多額の予算を費やして多くの布教所や学校を運営していたことがわかる。但し宣撫班員などはそれほど多人数ではなかった様子である。
田中日淳の回想「老僧に聞く パート1」(「ミトラサンガ」13号、平成十四年)には昭和十五年に立正大学を卒業する前に、大学から強い勧めをうけ協和会の就職試験を受けたという経験談がある。同期で七八名受験した。場所は九段の偕行社であった。合格したが事務的な手違いのため赴任はしなかったという回想である。宣撫班を統合した協和会での活動に関わった僧侶もいたのであろう。
予算や決算表からも具体的な項目がわかる。昭和十三年に政府は興亜院を発足させ興亜政策について決定していた。五宗派で開設した養成所はこれに対する仏教会側の対応の一つであったのであろう。、日蓮宗の宗門予算からも支出があった。昭和十四年度には「特務機関部員養成費」という名目で三千五十六円、昭和十五年度には「興亜行道者養成費」千七百五円である。さらに、満州を除くシナ各地での「宣撫教化費」として十四年度には一万一千五百三円、十五年度には一万九千九百四十二円、同十六年度に二万三千八百円が支出されていた。この両者の合計額は当年度予算の五パーセントを超え、大陸での活動に費やされた予算を合計すると宗門予算の支出総額の約二割を超えていた。大陸におけるさまざまな活動に充当されていた。
以下に当時の宗会の予算に関する質疑から財務当局者の発言を引用する。昭和十三年度決算表(日蓮宗教報 五十号 昭和十四年八月)歳入部説明では「殊に本年度は大陸開教及宣撫教化に重点を置きたるため、不急のことに属する宗務院改築費の繰延を始め、支出の緩急を図り一方滞納宗費課金の整理に努力した」と大陸での活動に重点を置いていたことを示した。そして、満州開教に関しては支出は見込み通りであったが支那では占拠地拡大により思わぬ出費増と説明している。宣撫活動には宗門からはどの程度出費をするものかは不明であるが、初期費用のかなりの部分は土地建物の費用であったのは確かであろう。
また、布教献金については「支那開教に以外の経費を要したるを以て」三千円を追加受納していた。さらに同説明では「乃ち戦時下物資需給関係の円滑ならざるに依る物価高騰と、人的資源の欠乏に依る工手間賃の自然値上がりとに起因する所多く」予算の増額につながったとしている。教育助成金や奨学金は約三割が未支給となった。その理由としては応召者が増えたためとしている。一部は内地での活動に費やされていた。昭和十四年度の現地における予算は四万五千五百円であったが、内地における事変対処予算は一万八千九百八十八円であった。各種講習会や行事などにも支出したのであろうと思われる。
さらに翌年の宗会での説明では以下のようになっている。(日蓮宗教報 五十七号 昭和十五年三月十日)「第七款第二項の宣撫教化費でありますが、昨年度は宣撫教化費と申しました。即ち皇軍占拠地域の布教拠点に於ける社会事業の補助費であります。内容を申し上げますと蒙古四ケ所、北支十ケ所、中支六ケ所、南支一ケ所、外に開設の見込のもの二三ケ所、大体一ケ所一事業に対する補助費は六百円位であります。勿論事業の大小とか拠点の地区とかによりまして多少の増減のある事を付け加えておきます。」布教所を開設した場合、日蓮宗の支出によって占領地域での宣撫布教をおこなっている事がわかる。
但し、大陸特有の事情から能率があがらないとも述べている。「内地とは異なりまして、大陸の開教は御承知の通り現地では社会事業第一、布教第二の鉄則を以て律せられて居ります為、吾々も社会事業の陰にかくれて布教に従事して居る様な始末であります。従って積極的には動けず、消極的で思う様にならぬのであります。」(昭和十五年四月十日 日蓮宗教報五十八号)軍の指令が優先されて宣撫工作中心の活動をせざるをえない状況下であったのであろう。
同様に昭和十四年度決算表(日蓮宗教報 第六十号 昭和十五年六月十日)を見ると以下のようである。
「満州開教費予算七千五百円に対し七千九百二円七十九銭を支出せり。」開教助成費のうち、「満州仏教総会負担金、大陸派遣学生勤労奉仕補助金、本渓湖外三ヶ所新築表賀、日持尊者遺跡調査費、馬田管長代理派遣費等のため支出多く」約八百円の不足を生じた。二目の集団開拓関係費用では、拓士四名の入所生補助や内原訓練所・満州移住協会等との打ち合わせにも費用を支出したが、四百六十円の剰余が出た。応募者がそれほど多くはなかったのがわかる。
開教費のうち支那蒙古開教費は予算四万五千五百円のところ、実際には五万四千百十六円余もの額を支出せざるをえなかった。特に大きな不足を見たのが開教監督部費で、各地監督部に例月補助して管轄各別院との連絡をさせたり、各別院の修繕費五千六百十五円を補助したことが大きかったと分析している。さらに、三派合同供養隊補助、五原工作費等、予想外の支出が重なって、予算一万四百円に対し約六千円の不足となったという。助成費とは各別院に配布した金額であった。第三目の宣撫費は各地日本語学校や技芸学院、英霊奉安所への補助、別院仏具や華文パンフレットなどの教化資料作成などがあり、八千五百円の予算に対し約三千百円の不足となった。
第四目の特務部員養成費は「本年度始め本宗等五宗派共同の下に興亜行道者養成所の設立を見たり。前後二回開講、本宗より十一名参加者ありて之が費用は各宗共同して負担し其額千六百九十七円五十銭に達したるが、其の外入所生の被服折五條食料寝具費、入所中諸雑費等にして予算に対し千五十五円四十五銭の不足を見たり。」
第五目 開教師派遣については、十数名の開教師を大陸に派遣したが、剰余が出た。現地慰問費は各地の軍や居留民への配布物などであった。第七目 留学生補助費は三名を本門寺と香風学寮に寄託した費用である。総じて、支那関係の予算については、後から「これも必要だ」として支出が増大してしまっているような傾向が見える。
さらに昭和十五年度決算表によれば以下のようであった。団拓師助成費は三百七十八円八十五銭を支出し、六百二十一円十五銭を剰余。採用資格が引上げられ該当者は少なくなった。満人僧養成費、第四項新京幼稚園補助費、第五項満州霊廟補助費は夫々全額支出。第二項宣撫教化事業費は上海身延会館小学校設備費、太原別院図書館建設費、武漢寺並に張家口妙法寺幼稚園設備費、蘇州立正学校設備費、広東別院移転修築並に事業費、北京監督部仏具荘厳器具購入特別補助等を初めとして各地日語学校幼稚園、図書館に例月事業補助金を交附し更に随時仏具、教典、教材等を送付して五十七円八十八銭の剰余。布教所建設経営補助費は蘇州寺維持費、済南別院敷地購入申込金、大同別院修繕費、蕪湖吉祥寺移転並に修繕費、徐州別院開設補助、上海身延会館修理費等に支出して五百九十円を剰余。興亜行道者養成費は、昨年は智山専門学校にて開講され本宗より三名入所し夫々大陸にて活動。本年度は養成所開設中の経営費中本宗負担金を初め入所生の被服食料等の諸雑費旅費を補助して二百九十六円四十銭の残余。開教師派遣費は「各宗に率先して華南スワトウの新拠点に開教師を派遣した」外、九名を大陸各地の布教所へ赴任させ「随時宗務当局と打合せの為め往復する」などで開教師に渡航費用を支給し慰労会等を催したが六十八円の残余。視察慰問費は予算八千円を計上し慰問使を特派する予定のところ、其の後単独慰問渡航困難の状態となったため、難波・末藤監督に命じて管轄下の巡廻慰問をさせて結果八百七十四円の剰余。次に第七項支那人蒙古人留学生補助費は方円、慧観、于松等の支那人留学生を池上本門寺、立正大学香風学寮へ、蒙古人留学生ペリーライを身延山に寄託して学費日用品代一切を支給して尚百七円三十五銭を剰余。
これをみれば、大陸での宣撫布教は日本語学校や幼稚園などの学校事業を含み、布教所の建設と合わせてかなりの費用がかかっていたことがうかがえる。
日蓮宗教報四八号(昭和十四年六月十五日)には興亜行道者養成所の開所式についての記事がある。
今次事変の目的を遂行し、新東亜建設の宗教戦士を養成すべく、本宗、智山派、豊山派、浄土宗、天台宗の五宗派合同のもとに開設せし、興亜行道者養成所は、五月十五日午前十時智山専門学校に於いて華々しく開所式を挙行せるが、当日は松井(石根)大将を始め陸軍省、興亜院等より夫々出席あり、所生一同を激励する処ありたり。
そして日蓮宗教報五一号(昭和十四年九月十日)には十四年八月五日に芝明正会館において行われた興亜行道者養成所の第一回修了式を伝える記事がある。日蓮宗からは途中応召した一名を除く九名が修了。宣撫班希望の八名は全員採用試験に合格した。
日蓮宗教報五十七号(昭和十五年三月十日)には興亜行道者養成所についての宗会予算審議における財務部長発言がある。
興亜行道者養成費でありますが、これは昨年以来本宗外天台、浄土、智山豊山両派の五宗派が板橋智山専門学校の寄宿舎を借りて僧侶宣撫官を養成する共同事業としての本宗負担金であります。昨年度は二回開所され本宗から合計十一名終了者を出し目下現地に採用されて居ります。
と興亜行道者養成所が僧侶出身の宣撫官を養成するための機関であることを明示している。昭和十四年度中には二回の修了があり、日蓮宗からは十一名の宣撫官合格者があったという。前記の著作での初期の宣撫官には僧侶が目立つという指摘と符合するともいえる。ただし、宗門僧侶で宣撫官などになった実際の人数についてははっきりしない。
日蓮宗教報五四号(昭和十四年十二月十日)には興亜行道者養成所出身の本宗宣撫班員の一人、小松秀太郎師の書簡に「農民は仏教徒であると同時に○○の○○○○○(本文伏せ字)である。私はこの機会に念珠をつまぐりながら我是日本国仏教和尚為大家祈祷幸福と云いつつ題目を高唱しますが農民は合掌して私に謝々と連発します。」とある。養成所を修了して宣撫班に入った僧侶の活動の一端であろう。やはり宣撫班員も布教にかかわっていたわけであるが、その活動は軍の制約により当初の予想よりは不本意なものであったらしい。この号には宣撫官や従軍僧として活動する各師の報告がまとめられているが、日本語教育を行っているという報告もかなりある。日常的な活動としては、自律的な布教よりは外部からの要望に応えざるをえない面が多くあったのであろう。
日蓮宗教報四六号(昭和十四年四月十五日)に「満州国集団拓士部落開教」構想の具体化が示される。日蓮宗教報四十八号(昭和十四年六月十五日)の宗報告示には全国宗務所長宛の満蒙開拓集団拓士開教のための布教師募集がある。「日満一体不可分の国是に基き日満一徳一心の基礎を倍々強堅ならしめる為め」「本宗としても満蒙開拓集団に対する開教を忽緒にすべからず、進んで国策の線に沿いて多数の布教師を派遣駐在せしめることは緊急必須」「就ては満蒙集団拓士の開教に対する方針を樹立する」「信念強盛身体強健なる優秀の人物を募集」とある。募集の目的として「満蒙集団拓士又は満蒙青少年軍移住農村に生涯駐在して開教に従事し寺院を設立するを初期の目的とする」とあり、開教の方法としては「内原訓練所に於て一ヶ月乃至五ヵ月の訓練を受け、更に現地にて十ヶ月以内の訓練を受け指定の移住地に永住し、後ち適当の時期より開教に従事し所期の目的を達成」とある。本宗僧侶の応募すべきなのは「集団移民幹部中の団長」か「青少年義勇軍幹部中の教学教士並に事務指導員」であり、募集資格は、「立正大学学部並専門部(別科も可)出身者・信念強盛にして困苦に堪える者・徴兵検査後にして年齢四十五歳以下の者・身体強健にして訓練に堪える者・家族のあるものも可。但し当分別居をすること」とある。日蓮宗教報五七号(昭和十五年三月十日)答弁では集団拓士助成費について「満蒙開拓青少年義勇軍の中へ幹部として宗門の僧侶を入れて宗教的方面を指導する趣旨」と拓士の趣旨を明確に示している。
日蓮宗教報五十号(昭和十四年八月十日)には満洲国日蓮村構想がある。満州移民協会は七月五日、日蓮門下各教団代表者を内原訓練所に招き、協力を要請した。「代表者は協議懇談の結果、明年皇紀二千六百年記念事業の一として各教団協力の下に五千人の青少年義勇軍と五ケ村の農業集団移民約千五百名を全国御門下檀信徒中より募集し、他に約百名の指導員を養成して満蒙の地に日蓮村を建設することに決し、先づ之れが前提として将来指導員となるべき青年僧侶二十名乃至三十名を募集して七月二十五日より向う十日間内原幹部訓練所に於て指導員練習生として訓練せしむることとなれり。因に当日は本宗より加藤社会部長、並に鈴木教学部書記出席、本事業遂行各派の連絡統制を図る為め本宗宗務院内に日蓮村建設事務所を開設することとなれり。」実際に各派三十名の応募者を募り、訓練所に入所したことも追記している。日蓮村については満州事変直後から宗門当局者の答弁にもあらわれており、積極的であったようである。この日蓮村について宗務院は教報誌上で「本事業は或る意味に於いて宗門画期的大事業なるを以て目下教学部、社会部協力の下に之れが具体案を研究中に付き、決定の上は挙宗御協力を願う」と全面的に協力する姿勢を見せている。実際に法華信仰を接点とした満州開拓団も結成された。終戦後にわずかの生存者を残して全滅した東京立正開拓団であった。
小結
昭和初期の軍国主義の時代の日蓮信仰とそれを人生に具現化して生きようとする人々のことを再検討する試みの一つとして、宣撫班の活動と八木沼らのそれに従事した人々について調べてみた。支那事変以後の大陸での宣撫活動に関わった人物たちの中に日蓮宗信仰に関心を寄せる人々がいたこと、また宗門も宣撫活動への参加に前向きであった様子は確認できたのではなかろうか。中山の教学的理解は当時の状況をよくあらわした王法為本のものであった。八木沼の信仰的な面については明らかにすることはできなかった。この当時の信仰や思想との関連についてはまた機会を改めたい。
日蓮教学において「安国」は重要であるが、日本以外の「国」で実際に活動することは、明治以前の宗門緇素のほとんどには切実な問題としては想定されていなかったはずである。明治期以降、外国での布教は開始されたが、外国へ移住した日本人相手の布教がほとんどであった。中国での中国民衆を対象にした布教は、それまで日本山妙法寺など少数の例外を除いてはほとんど行われていなかった。国、習慣も異なる者に対し、日蓮信仰に基づく理想的な対応とは何か、といったことは各自がそのときに考えなければいけなかったのではなかろうか。この問題は日蓮信仰をもとうとする者が外国との間において、如何なる見解を持ち、行動しようとするか、といった問題を孕んでいよう。
宗門の当時の施策については教報の記載をもとにおおよその活動をたどってみた。支那事変以後の大陸における活動を評価は別として他宗よりも熱を入れて行っていた様子が見てとれる。今後は当時の人々が如何に教学を理解し、それをいかなる活動に結び付けていたか、このようなところまで進展できればと考えて小結としたい。
(参考文献)
中山正男『花をたむけてねんごろに』太平出版社 一九六六年
八木沼春枝編『八木沼丈夫歌集』新星書房 一九六九年
青江舜二郎『大日本軍宣撫官』芙蓉書房 一九七〇年
中山正男『立正興亜論』高山書院 一九四一年
秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会 二〇〇二年
伊藤隆・李武嘉也編『近現代日本人物史料情報辞典』吉川弘文館 二〇〇八年
中村重徳「大日本軍宣撫班と『日本語会話読本』日中一五年戦争華北における日本語教育の一断面」『日本語』115号 二〇〇二年
熊谷康「満鉄上海事務所の宣撫・情報活動」『アジア経済』29─12 一九八八年
長谷川恒雄「興亜院の日本語教育施策 派遣要員の事前研修をめぐって」『日本語と日本語教育』32号 二〇〇三年
田中寛「『東亜新秩序建設』と『日本語の大陸進出』宣撫工作としての日本語教育」『植民地教育史研究年報』5 二〇〇二年
中濃教篤『天皇制国家と植民地伝道』国書刊行会 一九七六年
同 編『戦時下の仏教』国書刊行会 一九七七年
都守基一編『上海本圀寺別院略史』二〇〇五年