教化学研究1 現代宗教研究第44号別冊 2010年03月 発行
「いのちに合掌」とは「命を以て償え」ではあるまいに
「いのちに合掌」とは「命を以て償え」ではあるまいに
梅 森 寛 誠
発表タイトルはサブタイトルのようなもので、内容はお察しの通り、死刑の問題についてであります。
実は、私がこれを発表するのには若干のためらいがありました。すなわち、この問題には他に語るべき人は多いとも思われますので。たとえば教誨師や、組織としては社教会等、もちろん宗会でも。本年五月に裁判員制度が施行され、裁判員裁判も始まりました。死刑は国民の八割が存置意見、とされます(この会場も大部分が存置論者ということになる?)が、死刑判決の裁判に関わり、私たちが実際に「殺す」側に置かれる事態も予測されます。冤罪事件も相次いで発覚しています。こうした情況の中で、今のところ宗門では死刑についての目立った動きはありません。立場上公的な場での発言が難しい方もあるでしょう。それでは、と今回、私は教誨師(手をあげたところで国策に抗っている私を法務当局が任命することはほぼあり得ませんが)でないことを幸いに意見発表いたす次第です。
資料中、超アナログ手書き通信『胡桃』に示した通り、私は死刑廃止論者の一人と自認するのみならず、この十数年間、執行があった時のお祈りや抗議、何らかの行動・発信も不充分ながらしてきました。私の住む仙台は死刑執行のある場所で(そのことを恥じていますが)昨年の十月、仙台で執行があった時は、ちょうどこの教化学発表大会の日でした。そのこともあって抗議行動のタイミングは逸してしまいました。今回は、政権交代で就任した千葉法相ですので、よもや執行署名するとは思えませんが。
1.死刑囚教誨師の苦悩に対して
教誨師とは、死刑囚に確定後も面会でき、その執行にも立ち会い得る数少ない立場の一つです。しかしここでは、本来の教誨とは矛盾対立する役割を強いられるわけです。すなわち、教誨の努力にもより、死刑囚が自らの犯した罪を見つめ悔い反省し、精神の安寧が保たれることが、執行の条件にもなってしまうことです。つまり教誨の完成が刑死です。不殺生戒を持つべき僧侶が「殺し」のお手伝いを担わせられるのです。後程紹介する執行抗議ハガキにも「教誨活動に対する侮辱行為」と表現しました。
資料には、最近上梓された青木理氏の著書『絞首刑』(講談社)を用意しましたが、この著書の冒頭部分で「僧侶」と項目立てし、その苦悩を記します。「もはや言葉など見つからなかった。法衣にしがみついて嗚咽する男の背を、ゆっくりとさすってやることしかできなかった」と。もう一つの資料(『死刑制度と私たち』真宗ブックレット)、教誨師自らの手記には「死の不安に脅え罪障の呵責に悩むという人間誰しもの苦悩をいかにし合えるか」と述べるが「その苦悩を仏縁として、覆われていた人間の本来性に目覚め、生きる喜びを知っ」た「覚醒者を次々と刑場に見送ることは、共に歩んできた教誨師にとって我が身が吊るされるような悲痛と同時に、処刑に加担したような後ろめたさ、やり切れなさをどうすることもできない」とその心情を吐露しています。
私たちは、このように「処刑に加担した」と感じさせる死刑囚教誨師の苦悩に対して、その現場を知りしっかりと向き合っていかなければならないのではないでしょうか。以前、ある教誨師本人から「突然翌日の教誨の諾否を問う電話を受け、支障があったので断ったところ、その後の報道で執行を知った」という話は聞きました。
2.森英介・前法相へのはたらきかけ
私は本年二月、「死刑執行に関する抗議ハガキ発信」を本宗関係者に呼びかけました。仏教者として本宗宗徒としての立場にしぼり、抗議ハガキ文面見本をしたため、森法相(当時)あてに出してください、と。今回、資料にお入れしました。
そこでも示しましたが、森氏は本宗の有力檀信徒(法華一乗会の一人)です。昨年十月の日蓮宗新聞で知りました。「法相就任の墓前報告」という記事です。しかし、その「お祝い」から一カ月足らずで二人の執行署名をしました。一月末の二回目(四人)の執行直後、私はこの行動を起こしました。行動の効果も少しは、とは思ったのですが、半年後の七月末、解散後の政治空白の中で、森氏によって執行がなされ、在任中に三回(九人)となりました。
実は私の行動は、かつて法相に就任した真宗大谷派僧侶・左藤恵氏(九〇〜九一年)が、同門徒・杉浦正健氏(〇五〜〇六年)が、いずれも執行署名をしなかったことを意識したものでもあります。左藤氏は退任後(衆院議員現役時)、署名拒否を振り返り「世論として死刑制度の廃止にもっていくべき」と明言しています(『死刑制度と私たち』真宗ブックレット)。そして氏は、「若しも人間がすることですから新しい事実が出て来て誤審となった時、死刑を執行してしまってからではとりかえしがつきません」と、冤罪執行の重大性にも言及しています。
3.冤罪事件が明らかになる中で
「足利事件」で杜撰なDNA鑑定と自白を証拠とされ、長らく服役していた菅家さんの冤罪が判明し生還したことは、衝撃とともに大きなニュースとなっています。同時期の女児殺人事件で、やはり科警研(警視庁科学捜査研究所)で実施されたDNA鑑定でクロとされた冤罪の疑いが濃厚な「飯塚事件」があります。
大変残念で恐ろしい事なのですが、この「飯塚事件」でこちらは終始無実を訴えていた久間三千年氏が、確定二年後に福岡で死刑執行されてしまいました。左藤氏のおそれが現実となったとも思われるこの処刑は、森英介法相(当時)の最初の執行署名(〇八年十月)によって行われました。前出の青木氏の著書には「森英介の戸惑い」の項で、森氏がこの死刑執行命令に一抹の不安がよぎったのか「間違いないのか」と刑事局幹部に再確認を迫った(複数の法務省関係者によれば)、という場面が記されていますが。この段階で法務当局は「足利事件」冤罪なる事を知っていたはずです。同種の事件の加害者とされた久間氏の「無実」を知ればこそ、ことさら処刑を急いだのではないか、と疑惑を深めています。
ともかくも、本宗の有力檀信徒がその職務上の権力発動によって、結果としてではあれ、無辜の市民を殺めた、とするならば、私たち本宗教師としても、これをいかに考えるべきでしょうか。
4.死刑執行をめぐる内外の情況と世論
国際的動向がそうだから日本もそういう方向に向かえ、と単純に言えるものではないでしょうが。新聞記事を中心に、この方面の客観的事実を示します。
〇七年十二月、国連総会は死刑停止決議を賛成多数で採択しました。ここで私は一時停止(モラトリアム)を求めるとしたことが大きい、と考えます。制度があっても行使は停止、という選択肢はあり得ます。人の命を奪う(奪わせる)制度であればなお。「法制度がある以上は粛々と」などと言うのは、思考停止で怠慢かつ卑怯な言い分ととらえています。停止決議をした潘基文事務総長の韓国は、長らく続く分断国家の緊張状態の中で、制度自体はあるものの、金大中大統領以来十年以上執行ゼロです。
〇八年五月の国連人権理事会では、日本への死刑廃止を要求する声が続出。同年十月、国連の自由権規約委員会が日本政府に対し死刑廃止検討を勧告(日本は拒否)。十二月には、国連総会が存置国に対し執行の一時停止を求める決議。日本は、米国・中国などとともに反対、ということです。
〇八年十二月現在で、死刑廃止ないし停止国は世界の三分の二を超えています。ところが日本では、その潮流に逆らうかのように、死刑執行が判決(確定)ともに急増しています。世界の懸念もそこにあります。〇八年は五回(十五人)の執行、確定者は約百人、という情況です。
そして日本政府は、死刑維持の根拠に「八割存置」なる国民世論をもち出します。存置から廃止に舵きりした各国でも、世論では概ね「六割存置」が一般的(それでも廃止へ、の点が重要)で、確かに異常な数字です。ところが執行現場の実態は闇の中で、真っ当な議論が深められているとは到底思えません。そうした中で、赦しではなく、厳罰化を求める声のみが大きくなっています。
さて、存置論の根拠には主に「犯罪抑止論」と「被害者感情論」があげられます。私はいずれも論拠が失われている、と見ます。前者では、凶悪犯罪(殺人事件)は横ばいですが、増加していると思わせられています。ピーク時の五〇〜六〇年頃からすれば激減ですが、死刑判決や執行によって減った、という形跡はほとんどありません。後者でいえば、被害者は別の形で(宗教的なアプローチも含め)丁寧に救済されるべきところが、仇討ち感情にすり替えられています。被害者が法廷で検察の隣に同席し意見を言える制度が、裁判員制度と同時進行的に始まりました。証拠に基づき冷静に審議されるべき法廷が、前時代的な敵討ちの場面に変質する懸念を強く感じます。そして実際には、死刑判決・執行増加の「効果」への期待とは裏腹に、むしろ心を荒廃・殺伐とさせ、「死刑願望」を口にする凶行が目立つようになったような気がしてなりません。これに関しても新聞記事を示しますので参照してください。
5.死刑廃止・市民集会と全国交流合宿
その案内チラシをお入れしましたが、つい十日前(十月二四日〜二五日)、地元・仙台で死刑廃止の全国規模の催しを行いました。市内の会場で「いま、裁判がおそろしい─裁判員制度の時代の死刑と人権─」という市民集会を行い、その後自坊を会場に「全国交流合宿」、夜通しの討論と交流となりました。六十人ぐらい全国から集まりました。公益性という観点からも、私は本来寺とはこういう場だ、という認識をもっています。この時は、メディア学講師はじめ、第一線で活躍する弁護士やジャーナリストや救援活動関係の諸氏が一同に会することになりました。月刊誌『創』の十一月号では、安田好弘氏(オウムや死刑事件の弁護人として精力的に活動)と青木理氏(ジャーナリスト・『絞首刑』著者)の対談が掲載されています。お二人とも自坊へ来てくれましたが、政権交代後の死刑問題の行方、「死刑」を求める社会の空気や「被害者感情」等、これまでのお話に関連した内容が語られていますので、お読みください。
さて、私はこの合宿での挨拶で「宗教」を強調しました。寺を会場にした住職の挨拶といえばそれまでですが、私自身この問題では「会場提供者」ではなく「当事者」の思いを強くもっていましたし、全国の市民運動仲間の姿が「宗教者」に思えたことも、確かに関係していたかも知れません。討論・分科会テーマ①死刑と生命②司法改革と死刑廃止運動③獄中者支援と再審請求、これらをあげただけでもご理解いただけるかと思います。
私は、この催しに先立ち、秋彼岸パンフとして自分なりに整理してみました。この問題には、檀信徒の反応はさすがに鈍く(「八割存置」?)あまり乗ってはこなかったのですが。ともかくも教化学的見地から提起はしました。「いまどき死刑とは=人に『殺せ』と言えますか=」とタイトルを付しました。死刑問題には様々の切り口がありますが、ここでは「殺し」を強いることを問題にしました。残酷なことに、直接強いられるのは、日常的に確定囚に接し交流をもつ刑務官なのです。「八割」の国民(世論)が「殺し」を強いるのです。そして、裁判員制度が実施され、一般国民がさらに直接的なおぞましい場面に立たせられるのです。裁判員制度は「赤紙」だとは言いますが、それは国民の意に反して『義務』(?)として召集されるということに加えて、「殺し」を強いる側に組み込まれるという意味にとらえています。すなわち、兵役を強要され、戦場で上官から「殺せ」と命じられることと同根のものです。そうしたことを架空問答形式でパンフにしたためました。
6.仏教典拠から
すなわちこれは「殺すな」「殺させるな」「殺しを認めるな」、原始仏教の不殺生戒そのものに関わります。死刑制度と裁判員制度が合体した今、私たちの(人間としての)基本が外側から揺るがされているような気がしてなりません。日本の裁判員制度は欧州の参審制に比較的近いようですが、欧州には死刑はありません。死刑国米国(州によっては廃止)の陪審制では量刑は対象外です。つまり、日本のみが国民に「殺せ」と言わせる国となるのでしょうか。精神荒廃がさらに酷くなることも考えられるし、そもそも仏教者はそれでいいのでしょうか。
私たちは、殺人鬼・アングリマーラへの釈尊の教化を思い起こすべきだろうと思います。アングリマーラには凶行に走る理由・因縁があったわけです。千人目の殺害場面に出会った釈尊は、彼に悔悟発心させます。「深い懴悔と血みどろの償いを志させました」(森前法相への抗議ハガキより)。歴代の法相の中には、外国の記者の問いに対して「日本には命を以て償う文化がある」とかの迷言を吐いた人がいたようですが、武士道(武士階級はかつても人口比率で絶対少数だったが)精神(?)を意図的に誇張したに過ぎぬばかりか、閣僚の立場で「日本文化」への誤解と偏見を深めさせたことが残念でなりません。少なくとも、仏教的にはアングリマーラへの教化に見る通りです。そして宗祖は、これについて涅槃経を引きつつ悪知識に遭うことのおそろしさを教示します(顕謗法鈔)。つまり、出会いの不幸を示しつつ悔悟の可能性を期待するわけです。
法華経・提婆品の「悪人成佛」は今さら説明は要しません。親鸞の「悪人正機」説も有名です。その師・法然は幼時に、深傷を負った父(漆間時国)から「決して仇討ちはするな」の遺言を受けています。実はその当時は日本には死刑のない時代でした(世界史的にも大いに先んじて)。十世紀から保元の乱(一一五六)までの二百余年間です。遣唐使を廃止しまさに国風文化が栄えたとされる時代です。仏教的には末法到来を意識し、貴族を中心とする人々の心に「おそれ」が色濃く反映される時代が関係したかとも推測します。
では、宗祖遺文を二つほどあげておきましょう。光日房御書「小罪なれども、懴悔せざれば悪道をまぬがれず。大逆なれども、懴悔すれば罪きへぬ」(定遺一一五九)阿佛房尼御前御返事「浅き罪ならば、我よりゆるして功徳を得さすべし。重きあやまちならば、信心をはげまして消滅さすべし」(定遺一一一〇)
7.宗門運動の中で
「生命の絶対尊重」が語られ、宗門運動では今「いのちに合掌」を掲げています。「お互いがお互いを敬いあい、『いのち』の尊さに気づくこと」(日蓮宗 平成二十一年度・伝道企画会議ノート)を実現させる上に於いて、死刑制度はどのような意味をもってくるでしょうか。抽象的(しばしば感情的)な不毛な議論で済ませられる情況ではもはやありません。
これまで見てきたように、この国では死刑判決・執行が目立って増え(政権交代でこの流れが変化する可能性もあるが)、国連が懸念を示してもいます。一方で死刑「八割存置」という国内世論は、不信と不安を煽られ、厳罰化の方向にシフトさせられているかのようです。そうした中で裁判員制度が実施され、一般国民が「死刑」に関わらせ(「殺し」を強いる側へ)られようとしています。
前出の伝道企画会議ノートにも、いのちの活動への取り組みとして「裁判員制度を通して【生命の問題】を考える」の中で「死刑」にも触れています。まさしく【生命の問題】です。その上で「いのちに合掌」の対象は無条件ではなく、凶悪殺人者は例外、なのでしょうか。よしんば「命を以て償う」ことは可能でしょうか。償い方として妥当な方法でしょうか。そうではないはずです。
原始仏教には「怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことなし」とあります。仇討ちを認め、それによって怨みを際限なく増幅させ、やがて破滅を導いてしまう。そうした救いのない悪循環への教戒ととらえるべきでしょう。
「あなたの家族が殺されたら、きれい事は言っていられないでしょう?」そんな声が聞こえてきそうです。「そうかも知れません」被害者の憎しみは当然です。しかし憎しみのみで人間は生きられません。被害者にさらに「怨みに報いるに…」の破滅を要求する権利は誰にもあり得ません。死刑は、被害者サイドに立っても、癒すどころか、怨み憎しみに縛りつける(修羅界に沈潜させる)、救いのない制度だと考えます。
私たちが真剣に求めなければならないのは「救い」のはずです。現今の、メディアに乗ぜられヒステリックなまでに厳罰化を求め、殺人者は「殺せ」と大合唱し、出口を塞ぎ余裕を失っていく社会にあって、それに同調するのが宗教者(仏教者)であってはいけません。私たちは世間に行じ(その過ちをただし)つつ、衆生の闇(劣情に悩み苦しむ)を滅していく使命があるのですから。
六月に発表した真宗大谷派の「死刑制度に反対し裁判員制度の見直しを求める決議」文を参考までに用意しました。『立正安国』の本宗は、と力むつもりはありませんが、スローガンに掲げた「いのちに合掌」が抽象論に陥ったり誤作動したり、は勘弁してください、というのが、今の正直な気持ちです。