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教化学研究1 現代宗教研究第44号別冊 2010年03月 発行

現代と仏教—我々は社会とどう向き合うのか—

現代と仏教 ─我々は社会とどう向き合うのか─

岩 田 親 靜
 
一、はじめに
 『宗教と現代がわかる本 2009』(平凡社 二〇〇九年)では「仏教は現代の苦しみにどう向き合っていくのか」という題名で『がんばれ仏教!』(NHKブックス、二〇〇四年)著者上田紀行氏と浄土真宗本願寺派門主 大谷光真氏の対談が行われています。その中で上田氏は、
  仏教の教義が現代の苦しみにどう向き合っていくのか、現代社会の問題と教義の部分がどうすり合わせがなされているのかが明確でないところがあるので、僧侶の方々もどういうふうに行動したらいいかわからないというような齟齬がある感じがしています。(七四頁)
と述べています。対談相手である大谷氏は
  いままでの教義はハンドルみたいなもので、道を間違えたらいけない、正しい方向へ行こうと一生懸命議論をしているけど、ハンドルはいくら回しても前には進まない。(中略)エンジンで前に進むような教義というか教えを、もっと皆さんに研究してほしいんですよ(七六頁)
と述べています。これは真宗を含め多くの仏教教団では、社会と向き合うための教義、活力が生み出されてくる教義が必要であることを述べているのでしょう。
 この点、我々日蓮宗は宗祖が正法を立てて国家を安ぜんとした『立正安国論』を執権北条時頼に奉進しており、そもそも社会と向き合うための教義を有していると言えます。
 とすれば、我々にとっては日蓮聖人の教義・教理に基づいて現代とどう向き合うのかということが問題になってくるようにおもわれます。
 正木晃『仏教にできること』(大法輪閣 二〇〇七年)では左記のように提言しています。
   「ブッタに返れ」とか「祖師に返れ」という主張と実践そのものははなはだ正当である。(中略)ただし、ブッタや祖師たちがいきていた時代の状況や環境を十二分に考慮してはじめて、ブッタや祖師たちの真意がわかるという点は、強く申し上げておきたい。ごくごくわかりやすくいえば、「もし、現代にブッタや祖師が生きておられたら、どう考え、どう行動するだろうか?」という設問なくしては、仏教はその宗教としての意味を失い、単なる哲学や思想に堕してしまう。(三〇二頁)
 正木氏の指摘でありませんが、まず日蓮聖人が生きていた時代の状況や環境を考えなければならないでしょう。鎌倉時代、日蓮聖人は世の乱れ(現実・危機)を直視し、為政者(北条時頼)に宗教政策の見直しを訴える(方法)ことで、国を安定させようとした(理想・克服)と考えられます。
 二十一世紀の日本に生きる我々は、誰に何を訴えるべきなのでしょうか。現代日本は言うまでもなく民主主義国家です。とすれば為政者は我々民衆になると考えられます。日蓮宗の「立正安国・お題目結縁運動」では「いのちに合掌」と訴えていますが、具体的には「環境・平和・いのち」が守られる世界を目的としているといえましょう。
 しかし、現代社会の危機は環境・平和・いのちのどの問題においても、日蓮宗どころか日本一国だけでは到底解決できないものです。では「環境・平和・いのち」が守られる世界(目的)の獲得は何の見直しを訴える(手段)ことで行われるべきなのでしょうか。私個人としては慈悲なる精神に基づいた「ライフスタイル」の見直しではないかと考えています。欲望の制御・共生の思想が必要とされているのではないでしょうか。
二、現代と教義
 上記のように我々日蓮宗僧侶は『立正安国論』があることから、教義・教学の現代化すればよいと思うかもしれませんが、それだけではすまないこともあります。
 元臨済宗佛通寺派管長 現在 臨床研修医である対本宗訓氏は著書『禅僧が医師をめざす理由』(春秋社 二〇〇一年)下記のごとき指摘をしています。
  その頃私はまだ一介の修行僧であったので、当然ながら脳死研究班のメンバーになどお呼びもかからない。そこでトイレへの行き帰りにと時々、廊下から会議室内のディスカッションを拝聴していた。
  すると宗門大学の教授か誰かであろう。語気強く発言する声が聞こえてきた。
  「脳死の議論を行う際には、きちんと仏典や祖録に論拠を踏まえながら話をすすめてゆかないと不毛の議論になってしまう。」
  私は愕然とした。何と見当違いもはなはだしいことを言うのだろうか。考えてもみよ。いくら釈尊が天才的な宗教家であったとしても、二千年後に医療技術が進歩して人工呼吸器ができたおかげで発生することになった脳死というきわめて特殊な現象をあらかじめ見越して法を説いておられるわけがないではないか。それなのに何をいまさら教義教理なのだろうか。
  坊さんの陥りがちな弊害で、何でも吾が宗の教義や教理の枠組みに当てはめて考えようとする。仏典や祖録から適当な言葉を引用して説明しようとする。
  それでは実際は何もわかってはいないのだ。ほんとうにわかっているならば、教義を引用したり祖師の語を借りたりしなくても、自分自身の言葉で表現できるはずなのだ。もしくはその時代のことばで語れるはずなのだ。(中略)まず物事を、現実をありのままにみることからスタートしなければならない。無意識の色眼鏡を放下せよ。カビ臭い教義や教理の枠組みを安直に当てはめて、何かわかったつもりになっては絶対にいけない。(七四・七五頁)
 対本氏は、現実をありのまま見つめることを求めています。その上で「カビ臭い教義や教理の枠組みを安直に当てはめて、何かわかったつもりになっては絶対にいけない。」と述べています。
 日蓮聖人の思想から現代をみるという姿勢と現実を見ることから始めようとする姿勢とは相反するものと言えます。
 この一見、相反する姿勢に関しては、歴史学者 上原専禄氏が大いなる示唆を与えてくれています。(上原氏は一九七〇年に宗務院で『誓願について』という講演を行いました。その講演は後に「誓願論」として発表され、多くの研究者に影響を与えてきました。上原氏は「誓願論」以外にも仏教思想・日蓮聖人思想の多くの論文を発表されており、その成果は主として上原専禄著作集の十六『死者・生者 日蓮認識への発想と視点』、二十六『経王・列聖・大聖 世界史的現実と日本仏教』に納められています。)その中には仏教・日蓮聖人の思想と現代の関連を考察したものもあります。
 (上原氏は日蓮聖人の信仰者ではありますが、僧侶ではなく、研究者であります。故に、仏教者が「どう社会と向き合うべきか」ということを、一研究者として、一仏教者(信仰者)として考えており、我々に重要な提言を行ってくれています。)
  「現代」というものを与えられたものと考えてはいけないじゃないか、個人が、民族が、人類が願っていること、あるいは願わしくないと思っていること、そういうことのからみあい全体が「現代」なのであって、その要素をぬきにして「現代」というものが、それ自体存在していると思うのは錯覚なのだ。(中略)「現代」を知ろうとする場合には、現代認識の理論、それは出発点において主体的でなければならない。(「現代における仏教者のあり方」『経王・列聖・大聖─世界史的現実と日本仏教』評論社 一九八七年 三三四頁)
  「現代」というものと「仏教者」というものとが別々にあるんではなくて、最初にも申し上げましたように「現代」というものを「仏教者」としてどう見てゆき、どう認識してゆき、「仏教者」としてどういう具合にその「現代」の問題を解決してゆこうとするのか。そうゆう「仏教者」の問題意識にかかわって「現代」の問題性というものが明らかになる。(「現代における仏教者のあり方『経王・列聖・大聖─世界史的現実と日本仏教』評論社 一九八七年」三五二頁)
  日蓮を現代にどう生かすか、という問題は、日蓮におぶさることではない。だから、日蓮を道具につかったりなにかすることではない。また、日蓮を簡単にモデルとして、日蓮が言ったりしたりしたとおりに、機械的に日蓮を模倣することではない、とも思うのであります。つまり、日蓮というものをつごうよく自分で勝手につかったり、また、おぶさったり、ぶらさがったりしてはいけないのであって、日蓮の生き方を、鎌倉時代の問題状況のなかで、もういっぺん考えてみるということによって、私たち自身の生活態度のひ弱さ、あるいは欠陥を反省してみるということ、それが、第一に、日蓮を現代に生かすゆえんだと思う。そうすると、いまのように、インテリが中途半端なところで、これこれしかじかの認識に到達した。そこで満足してしまう。そういうことではいけないのであって、認識の正しさを、行動をとおして実証していく態度の必要なことがわかってくる。(「日蓮を現代にどう生かすか」『経王・列聖・大聖─世界史的現実と日本仏教』評論社 一九八七年 二八一頁)
 上原氏は「現代における仏教者のあり方」で「現代」の中に我々の願望などが入りうるものであり、主体的でなければならないとし、仏教者であるならば、現代の問題の解決に寄与すべきであると考えています。「日蓮を現代にどう生かすか」では「日蓮が言ったりしたりしたとおりに、機械的に日蓮を模倣することではない」とのべ、対本氏と同様の視点に立っているように見受けられます。しかし、その後、鎌倉時代の問題状況のなかで日蓮聖人の生き方(根本的精神)を理解し、現代に生きる自分たちと比べること、それにより自己が欠陥だらけであることを知り、認識・反省する事を求めています。また認識の正しさを行動によって示していくことが必要であると提言しています。
 実践の重要性は、末木文美士氏の「仏教に何が可能か」(『現代と仏教 いま仏教が問うもの、問われるもの』佼成出版社 二〇〇六年収録)でも指摘されています。
  仏教は平和主義であるとか、仏教は生命を大事にするとか口先だけのきれい事はやめようではないか。自分の感覚として何が大事なのか、自分自身を見つめ、そして考え直すところから出発するのでなければならない。経典に書いてあるからとか、宗祖がこういったからということはもちろん宗派内「公」としては成り立つし、それは否定しない。しかし、それは宗派を離れたら何の説得力も持たないことを認識しなければならない。それでもどうしても自分が主張せずにいられないこと、実践せずにいられないこと─そこから出発する他ない。(中略)仏教がどのように社会参加できるのか、ということも決して自明な道があるわけではない。社会参加が、社会に飼い馴らされることであるならば所詮それまでのことだ。社会との緊張の中で、何を貫き、何を生み出すことができるのか。そのことが本当に「行動する仏教」となりうるかどうかの試金石となる。(二七・二八頁)
 末木氏は、実践することを求めていますが、外部者からの視点が述べられていることが重要です。経典や宗祖の思想に基づいているかどうかは問題ではないとし、主張の内容や行動そのものが問われていることを指摘しています。
 上原・末木両氏の指摘から考えられる社会と向き合う仏教者の好ましい姿とは、どのようなものなのでしょうか。第一に「現実・現代」に向き合う。同時に、仏教者である個人が、仏典や宗祖の根本精神に基づき、認識し、行動をとっていくということなのでしょう。我々僧侶(仏教者)が社会参加、社会活動をするとき、外側においては、一般のボランティアなり社会活動家なりと変わらないかもしれません。しかし、自己の内側においては、法華経や宗祖の言葉に基づく宗教性や信仰に貫かれた一つの柱もっていることが求められているように思われます。
三、おわりに
 最後に宗門運動に準じた実践の仕方、有り様に関して考えたいと思います。それは日蓮宗として「環境・平和・いのち」が守られる世界の獲得を目指す場合、課題として他の宗教との共存が必要になるということです。
 この点は正木晃『仏教にできること』(大法輪閣 二〇〇七年)の指摘が重要でしょう。
  いずれにせよ、現時点においても、あいかわらず他を排除する宗教は実にまずい。こういう発想では、地球という限られた環境のなかで多くの生命体が共存共栄していくのは無理である。やはりお互いを認めていかなければいけない。自分たちと異なる意見をもつやつは悪魔だ。悪魔は殺してしまえ!と頭から決めつけるような宗教では、二一世紀は非常に悲惨なことになる。というより、現に悲惨なことになってしまっている。だからこそ、包容力のある宗教が望まれる。
  ここで誤解を招かないようにお断りしておくが、私はなにもそれぞれの宗派や教団の固有性や独自性をなくせと言っているのではない。それぞれの宗派や教団の固有性や独自性をないがしろにしたり薄めたりして、仏教一般とか倫理道徳とかいうかたちにするのは、決して好ましいことではない。むしろ、それぞれの宗派や教団の固有性や独自性をきちんと保ちつつ、しかも総合的・包括的に考え実践していける宗教こそが、包容力のある宗教の名に値すると申し上げているのである。(四四頁)
 確かに教団としては信徒・信者になってもらえれば、その方が好ましいが、それにこだわれば、不特定多数と手をつなぐことは難しくなり、平和も環境の保全も厳しいものとなる。むしろ宗門運動のテーマに準じて考えれば、多様なる宗教観・価値観の共存・共栄を認めることが必要となると思われます。
 しかし、この点は宗門・宗派の独自性とも関わり難しい問題を有しています。正木氏は「それぞれの宗派や教団の固有性や独自性をきちんと保ちつつ、しかも総合的・包括的に考え実践していける宗教」であるべきとしているが、「言うは易く行うは難し」ではないでしょうか。竹村牧男氏は著書『入門 哲学としての仏教』(講談社学術新書 二〇〇九年)の中で左記のように指摘しています。
  私は日本にあっては、仏教内部における宗門間対話が、より必要なのではないかと考えている。というのも、日本の仏教は他宗教に対して非常に寛容であると考えられているが、じつは浄土真宗は自己の立場の宗教のみを真実と考え、他の宗教は仮か邪かであるとする側面もある。一方、法華宗(日蓮宗)は、やはり自己の宗教のみ真実と考え、他の宗教を非難することもある。本当は、ぬきさしならない対決が、仏教、特に日本仏教にはないわけではないのである。この状況の克服に我々は取りくまなくてよいのであろうか。日本の寛容性は、単に他者への無関心と当面の軋轢の回避にすぎないのであろうか。
  仏教とキリスト教の対話は、キリスト教の自己解体さえ厭わないあり方のなかで進んできたのが実情である。仏教側もまた、それと同等の真剣な努力が必要であると思わずにはいられないのである。(一七六頁)
 竹村氏の指摘は、重要かつ的確です。我々日蓮宗僧侶は、往々にして「法華経は経王である」「法華経には開会の思想がある」と言います。それは、本宗の教義が総合的・包括的な思想を有していること示していると言えます。同時に法華経を依経とする日蓮教学の優位性の主張でもあります。そこから我々は思想の優位性のみならず立場が上であるという考えを有していないでしょうか。かつてはその考えでよかったのでしょう。しかし、「環境・平和・いのち」が守られる世界を構築することを目的とした場合、上からの目線で相手と手を握ろうとすれば、ある種の相手(他者)への無関心もしくは軽蔑となり、当面の軋轢の回避以外のなにものでもありません。そのような考えでは、内なる平和(心の平和)も外なる平和(現象世界の平和)も成り立たないと思われます。
 「総合的・包括的でありながら、互いを尊重し、フラットの関係を構築する」ということは、じつは日蓮宗にのみならず他宗にとってもかなり難しいことです、それこそ自己解体さえ厭わない真剣な努力が必要とされていると言えましょう。

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