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現代宗教研究第38号 2004年03月 発行

中濃教篤元現宗研所長(第五代)を偲んで―現代と宗教・平和・人権

中濃教篤元現宗研所長(第五代)を偲んで
||現代と宗教・平和・人権||     
 =cd=b821ご案内状=cd=b926
合掌 戦後すぐ日蓮宗革新同盟をおこされた中濃教篤師が、本年四月三十日午前一時三十分に世寿八十をもって遷化されましてからの世情の激変をみておりますと、師ならこう分析し、こう声明されるだろう、お叱りになるだろう、と思われることばかりでございます。
 このような時期、師が日蓮宗僧侶として六十年かかわってこられた宗教・平和・人権など仏教者の良心に訴える問題を、特に師と関わりの深い方々にお話いただき、今後の指針をお示しいただければと存じ、左記の通り座談会を催させていただきたく、ご案内申し上げます。
 ご多用と存じますが、なにとぞご来席たまわりますようお願い申し上げます。再拝
  平成十五年八月二十日
        「現代と宗教・平和・人権=cd=ba52中濃教篤師を偲ぶ」座談会事務局
                          常岡裕道・望月兼雄・伊藤立教
                          渡辺観良・山口功倫・稲葉信子

           記
 一、日 時  平成十五年九月二十九日(月)午後一時三十分〜四時
 一、会 場  日蓮宗宗務院 大田区池上一−三十二−十五(東急池上線池上駅下車歩八分)
〇三−五七〇〇−五四五一(現宗研直通)
 一、会 費  三千円(茶菓代)
 一、備 考  座談会の内容は、現代史資料として日蓮宗現代宗教研究所紀要『現代宗教研究』に収録させていただく予定でございます。以上
  日蓮宗現代宗教研究所長        久住謙是殿
  日蓮宗現代宗教研究所顧問       石川浩徳殿・伊藤如顕殿・井本学雄殿・木村勝行殿・秋永智徳殿
  立正平和の会理事長          新間智照殿
  京都立正平和の会副理事長       石田良正殿
  アジア仏教徒平和会議日本センター代表 鈴木徹衆殿
  日本宗教者平和協議会理事長      仝
  大阪宗教者平和協議会理事長      高木孝裕殿
  元宗教青年平和協議会委員長      遠藤教温殿
  日本山妙法寺大僧伽首座        塙 行幸殿
  宗教者ネット幹事           武田隆雄殿
  前日蓮宗人権対策室長         前田幸廣殿
  =cd=b861現代仏教』編集長           尾谷卓一殿

  故中濃教篤師令夫人          中濃達子殿
  法嗣領玄寺住職            中濃教純殿

  協力                 岩本泰寛殿
  取材                 日蓮宗新聞社殿
                     仏教タイムス殿
                     文化時報殿
                     中外日報殿

中濃教篤師を偲ぶ座談会
 現代と宗教・平和・人権−中濃教篤師を偲ぶ座談会を開催いたします。ご案内の準備をさせていただきました関係で進行係をつとめさせていただきます日蓮宗現代宗教研究所主任の伊藤立教でございます。よろしくお願いいたします。それでは、開催にあたりまして、師が長年たずさわられました現代宗教研究所の所長久住謙是より、ご挨拶を申し上げます。
 本日は、現代宗教研究所の元所長中濃教篤先生を偲ぶ会を開催すべくご案内申し上げましたところ、このように大勢の、先生に関わる方々がおいで頂きましたことを、まずもって厚く御礼を申し上げる次第です。
 今日は中濃先生を偲んで、それぞれの立場で、先生の思い出、そしてその宗教者としてのご生涯についてお話を頂くことになっております。現宗研所長として、先生のことを思い出しながら、お話をさせて頂きますが、先日、急のご遷化の報に接しまして、その直前に伊藤主任とご自坊へ参りまして、本当に最後の面会ではなかったか、と思っておりますが、お見舞することができました。その折、現宗研をよろしく頼む、あなたがた二人は、現宗研に長いこと関わってきたのことだから安心しているよ、ということを言って下さいました。それから、ほどなくご遷化の報に接しまして、本当に愕然とした次第でございます。領玄寺の後任住職教純上人から、現代宗教研究所所長として、本葬の副導師を勤めていただきたいとご依頼をいただいて、僭越ながら、謹んでお勤めをさせて頂いた次第でございます。長年、現宗研に勤めながら、中濃教篤先生にご指導を頂きました。一番いま痛感しておりますことは、現代宗教研究所が、中濃教篤所長の時は、独自性を保ちながら一貫して研究所活動を続けておられた、このことをわたくしは申し上げたいと思うのでございます。ともすると研究所といいますのは、大きな組織の中、そして行政的な、あるいは色々なことで制約されがちでございますが、その中で、客観性を保ち、研究活動を独自に行っていくというのは、大変、難しい、困難なことだ、ということを、痛感しているところでございます。先ほども、会議がございまして、今日ご出席の顧問先生方とお話をさせて頂いたのでございますが、研究所が独立して活動を続けることの難しさを痛感しつつ、話し合ったところです。中濃先生が、現宗研のそのような姿勢を堅持してわたし共にバトンタッチして頂けたということを、本当に有り難く思っているところでございます。これは、とりもなおさず、日蓮聖人の宗教、法華経の行者日蓮聖人の信仰を研究所の姿勢として、宗教者のあるべき思想を保ちながら、研究所活動をして頂いた賜物であると思っているところでございます。そういう意味におきまして、現代宗教研究所が、今、二十一世紀に、先生の志を受け継いで、研究所が独立性を保ちながら、客観的に、今という時代に、日蓮聖人の原点にかえりながら、日蓮聖人の教えを具体的に伝えていくことが、立正安国世界平和につながっていくことを信じているものでございます。そういう意味でわたし共は、中濃教篤先生の、現宗研所長時代のお考えを今に、そして、未来につなげていくように努めて参りたい、というふうに思っているところでございます。法味言上に続きまして、先生の思い出の一端をお話させて頂きました。本日は、どうぞ、中濃先生に対する思い出を十分に語って頂きまして、そして、私共が知らなかったところをご教示頂きたいと思います。本日のお話は、現代宗教研究所の所報に載せさせて頂いて、全国の日蓮宗教師の方に読んで頂く機会がございますので、その点も踏まえながら、ご教導いただけますようにお願いを申し上げまして、ご挨拶にかえさせていただきます、本日はありがとうございました。ご挨拶がおくれましたが、今日は奥様においで頂きまして、ありがとうございました。教純上人、ありがとうございました。現宗研でこのように偲ぶ会を開催させて頂きまして、ご出席ご臨席頂きまして、厚く御礼を申し上げます。ありがとうございました。(拍手)
 では、ご案内の通り、進行してまいります。中濃先生の活動は、日蓮宗のみならず、日本の宗教全体の現代史の証言になりますので、ご関係の各位のご発言をそのまま、現代宗教研究所の所報に頂戴いたしまして、後々の資料にしたいと思っております、よろしくお願いいたします。
 ご案内状のご順で所長がご挨拶申し上げましたので、続きまして、現宗研顧問の各上人からご順に頂戴致します。よろしくお願い致します。五分でお願い致したいと思いますので、恐縮でございますが四分目にリンを一つ鳴らします。五分目に二つ鳴らします。速やかに、ご退場ください(笑)、よろしくお願い致します。できるだけたくさんのご証言を頂戴致したいと思っておりますので、よろしくお願い致します、では石川浩徳先生お願い致します。はい。五分でお願い致します(笑)。
 石川浩徳でございます。中濃教篤先生の思い出を語り始めると、それこそ一時間も二時間もお話ししたいことがありますので、五分という制約された時間の中ですので、先生との出会いについてまずお話しをさせて頂きたいと思います。
 中濃先生とは、たしか立正平和運動に関わることでご指導頂いたのがはじめでした。昭和五十一年に私が宗務院伝道部の課長に就任したころ、この部には世界立正平和運動本部というのがありまして、伝道部長が本部長でした。中濃先生はその本部役員を勤めていらっしゃいました。戦後の日蓮宗はこの立正平和運動を信仰運動として、僧俗一体となって宗門全体が原水爆禁止や武器の廃絶を訴え、各所で世界の平和を祈る会が持たれ、これは他教団に先駆けて、戦争に加担した反省を平和運動を進めることにより、新しい日蓮宗の歩む方向を見い出したといえることではなかったかと、非常に意義があったと私は思います。この運動の発端も、中濃教篤先生をはじめとする革新的な人達に負うところ大であったわけです。それがなぜか、イデオロギーに左右されたためなのか、次の宗門活動に併合吸収されたというのか、日蓮聖人ご生誕七百五十年の方に力点が置かれたというのか、それまで外局にあった本部規程が内局の一部の所管に移行しまして、私が課長で勤めるようになったころは、伝道部の所管事項となっていまして、平和運動はむしろ立正平和の会が引き継いでいる感さえしていました。そうした経過のなかでいつもやきもきされていたのが、中濃先生や今は亡き近江幸正先生や長谷川正篤先生たちだったようです。国連の軍縮会議などに宗門として代表を送ることをしないようでは世界立正平和の名が廃れるというので、あまり開かれなかった本部委員会を開催して、ニューヨークでの第二回軍縮総会に代表を送り込むことを決定して、先生に総長メッセージを託したり致しました。この間に、先生と私のつながりが強くできたように思います。
 やがて私は宗会議員になり、宗会において日蓮宗の平和運動はもっと積極的に取り組むべきだという質問したのがきっかけで、私自身がニューヨークへ参るはめになり、昭和六十三年の六月に、立正平和の会の新間先生や近江先生達と共に、宗門代表として第三回軍縮特別総会に総長メッセージを体して国連へ行かせて頂き、デ・クエヤル事務総長に宛てた日蓮宗の平和の声を、NGOの総会の席上において述べさせてもらいました。また世界のNGOとの交流も深めさせてもらいました。私の生涯にとってもいい経験をさせて頂きましたが、こうした平和活動の中で、何かと先生のご指導をいただくようになったのです。その後、平成二年に伝道部長になって、いっそう平和運動や人権問題に関心を深めていきましたが、積極的に取り組むようになったのも、先生の影響が大きかったと思っております。
 中濃先生は平和運動に関してはいたって幅広いご活躍をされて居りましたが、まさにご生涯は平和運動に始まり平和運動に終わった方であると言えるであろうと思っております。環境問題、人権問題等、あらゆる非人道的行為に反対され、発言したり著書に述べたりしておられ、その精力的な生きざまは私にとって大きな教訓でありました。今表現の自由の時代だと言われていますが、決して自由ではありません。どんどん自己規制をさせられる情況ができつつありますし、有事法が国会で採択され、教育基本法の見直しだとか、憲法の改正論議がかまびすしいようです。国の動きは、かつての戦時中のころに逆戻りしたかの感さえしますが、中濃教篤先生はこうしたことを早くに察知され、法華経の教えをいただく者のとるべき道を示されて逝ってしまわれたと思っております。
 先生との思い出の一端を述べまして、時間でございますので終わります。どうも有り難うございました。(拍手)
 ありがとうございました。伊藤如顕上人、お願いします。
 伊藤如顕でございます。午前中、現宗研の会合がございまして、中濃先生がいらっしゃったならばどう思われるかなあ、というようなことが、やはり色々出てまいりました。本当に今日は、皆さんと共々に、先生のご業績、その足跡をたどりたいと思っております。さて私は、昭和二十四年、身延山専門学校に入学、同二十六年に卒業しました。そして中濃先生とお会いすることになったのは、立正大学に編入学した昭和二十六年から二十八年の時代であり、瑞輪寺にお世話になっていた頃でした。それには理由がありまして、自坊は空襲で焼け、そして弟二人は火傷を負いケロイドが残り、早く二人を亡くしておりますが、そういう状況の中、どうしても勉強を続けたいという気持ちを抱いていた頃、中部宗務区主催の『立正平和祈願祭』の会合に、今は亡き細井友晋上人が来山され、師父と話し合われて、東京の谷中の瑞輪寺で一人ちょうど空いてるから随身して学校へ行ったらどうだ、と言うようなことから、昭和二十六年、立正大学編入を致しまして、二ヶ年間、瑞輪寺で仏飯を食べさせて頂いておりました。そして谷中の寺町ですので、二〜三分のところに領玄寺様がございました。当時、わたくしも、飢餓戦線の中で、弟が、そういうような形で、ケロイドで下半身、火傷にただれておったという状況もあったので、原水爆の問題とか、或はまた戦争の問題とか、色々そういうようなことについて関心を持っておりました。瑞輪寺には、たまたま、書生でおられて、後に平凡社の「太陽」の編集長をしておられた中島さんという方がいらっしゃいまして、御書院の三畳間のところで、映画のシナリオライターを目指しておられました。この方のお母さんが、当時の増田日遠上人のご飯を作ったり、身の回りのお世話をされていました。このとき、色々のことを教えられ有意義でした。そんなことから、著名な中濃先生のところへお伺いすることになりまして、それが最初の出会いだったと思います。大学を出まして一年経って、ちょうど名古屋の法音寺山主鈴木修学上人が、福祉の問題に取り組む人材を育てようと中部社会事業短期大学というものを創立され、やがて日本福祉大学と改称されて四年制に昇格致します。私はご縁を頂き、大学の事務局に勤務しておりました。その頃、中濃先生を通して、壬生照順先生、本日ご出席の鈴木徹衆先生などのお方を知りえる機会を得ました。又、名古屋市役所のそばの伊藤弘二さんという在家のお方で、今でもお元気にしておられると思いますが、その居宅で日蓮教学或は宗門改革についてとかの勉強会にお誘いを受け、出席させて頂きました。当時小牧基地の騒音障害による被害について、細井上人や、宗会議員の妙禅寺の吉田上人、長谷川正徳上人等と一緒に、実地検証ということで調査に出向き、私もお供して実際に耳をつんざく騒音を体験致しました。やがて、伊勢湾台風で師父が倒れましたので自坊に帰り、荒行や布教院に入行し、もう一度原点に戻ってお坊さんの修行をやり直しました。そのような中で、全国に日蓮宗青年会を創りあげようということから、石田良正上人、今は亡き風間随宏上人・祖父江鳳清上人、現在総長になっておられる岩間湛正上人等と一緒に、長野、岐阜、愛知の三県下を経て、金沢方面まで足をのばし、組織作りに努力した思い出がございます。昭和四十二年でしたか、日蓮宗青年会の仲間の協力で、宗会に出させて頂きました。上京する機会を得ては、先生との親交を深めることが多くなり、こんなこともありました。信行道場同期の仲間であった長久寺の小田正之上人は、中濃先生と法の上でいとこだということがわかり、今日も奥様とお話していたのですが、団子坂のそばにあったお店へ飲みに連れて行ってもらい、岐阜で言う田楽の手作りをご馳走になったことなど、このような思い出をお話させて頂き、中濃先生を偲ぶ端緒にいたします。ありがとうございました。(拍手)
 ありがとうございました。井本学雄上人、お願いします。
 井本でございます。わたしは、中濃教篤先生から教えられたこと、それと、たった一回だけど叱責をされたことがあります。この二つのことを申し上げたいと思います。教えを受けた一つ目は、わたしが布教畑を歩いているものですから、これを読んでおきなさいと言って教化研究会議記録の一冊を手渡し下さいました。中濃先生が「教化活動と社会問題の関連」と題して問題提起された一文でした。ここを読んでおきなさいと、わざわざ点線を入れて下さっていました。そこには、「布教活動をしていくなかで社会問題と我々の信仰上の問題、あるいは教団のあり方、…乃至、公害の問題、公害と教化活動の問題という点をとらえて考えてみても、公害は社会問題であり、教化活動が社会と無関係であるということにはならない。公、害、に、苦、し、ん、で、い、る、方、々、に、対、し、て、、我、々、が、ど、う、云、う、態、度、を、と、り、、ど、う、い、う、形、で、布、教、し、て、い、く、か、、ということ一つとっても、社会問題とは無関係でない」とありました。わたしはこの教えを布教の原点と考え、肝に銘じて、今も布教に励んでいます。もう一点、先生は創価学会等、新興教団の邪教性について厳しく堂々と批判をされ、宗祖に習い、破邪顕正を現代に範を示されました。その中濃先生が、新興教団からも我々が学びとらなければならない点もあると教示なさいました。批判をするが批判する相手から学ぶということを、考えもしなかったことを、間違ったことでなく良いことは学び取る目を開くことを、教えて下さいました。
 そして、ただ一回だけ厳しく叱責されたことがあります。それは現宗研の嘱託であったわたしが顧問に推挙された時、役職の中に顧問を置く制度があるが、社会一般では名前だけというイメージが強いと思い、わたしは嘱託で結構です、顧問というような名前だけで会議にも参加しないような顧問(コンモン)は辞退しますと軽い気持ちで言ったところ、先生から、「馬鹿なことを言うでない。現宗研顧問は、世間一般の顧問ではない。就任して一度でも顧問会議に出席して、形骸化していたり名目上だけの顧問であれば批判をしなさい」と強いお叱りを受けました。以後、中濃教篤先生の現宗研顧問としての指導力を拝見し、私の間違いを反省し、顧問の名に恥じない務めを果したいと、先生の、「二つの教え」と「一つのご叱責」を心して教化活動に励んでいます。
 中濃教篤先生、ありがとうございました。(拍手)
 ありがとうございました。木村勝行上人、お願い致します。
 木村勝行でございます。先生には、本当に公私ともにお世話になりました。あらためて厚く御礼を申し上げたいと思います。先生に接したのは昭和三十一年の四月の花まつりでございました。なんのわけか、わたしが花まつりにお手伝いにいくことになりまして、先生のお宅へ伺いし、初めて先生の仏教、世界仏教のお話を頂戴いたしまして、まあ本当に驚きましたし、さきほど伊藤如顕師が、昭和二十年代の経験をした大先輩ですし、わたしは昭和三十年代以降の瑞輪寺の所化でございました。あっち行ってこい、こっち行ってこいって言われればハイと、いうことでお手伝いにあがった次第でございますから、そのときのお釈迦様の御尊容を前にしながら、その小さな、五寸にも満たないようなお釈迦様が、そういう世界の仏教というものを、しかもそれを実践しておいでになるというお話が、あとから聞いて、まことに驚くと同時に、先生に私淑いたしまして、色々と勉強をさせて頂きました。で第一の勉強は、中国人の俘虜殉難者遺骨の返還事業でした。それを通じて、戦争責任というものを考えさせられましたし、そしてまた先生は、そのことから、後に中国の政権党である中国共産党の宗教政策という著述をまとめられまして、その時のまとめている書斎にもお邪魔いたしまして、なんか邪魔をしてきたような気がしてなりませんけれども、熱弁をふるっていろいろお話を頂戴致しましたこと、昨日のように覚えております。また、その当時瑞輪寺はご承知の通り、世界立正平和運動を提唱したときの日蓮宗管長増田日遠師のお寺でございまして、そしてまた後には身延山法主となられる方でございまして、身延山法主となっても、わたくし共は、身延へお手伝いに行かなければならないというようなことでございました。そのあと大変なことが、身延山法主猊下を途中で辞めるというようなことがありました。それは甲府地検に法主増田日遠猊下が出頭せよという呼び出しを受けた、身延山山林事件という、皆さんもご承知のことでございます。そして、その時に立ち上げたのが、教団革新という、先生の経歴の年表の中では、第一次昭和二十三年にやっているようです。そのあと、第二次は一九五九年、昭和三十四年三十五年代、その頃ではなかろうかなというふうに思います。教団革新というのは、後の浅草宗務院が池上宗務院に移っていく基本的な動機になった教団革新の動向でございます。そういうことで、大変大事な年表の項目じゃないかなというふうに思っております。これはわたくしの私的な見解でございますけれども、山林事件をことをずーっと調べておりましたけれども、また増田日遠関係の新聞はわたしのところに全部揃っておりますけれども、それを拝見する限り、あれは意図的にやはり呼ばれたことではなかったかなというふうに思います。以来、増田日遠師はわたしに、もう平和運動はやめろよと、あれは俺の失敗作だったよ、というようなことで、方便かどうか知りませんけども、本心なのか違うことなのかわかりませんが、いずれに致しましてもそういうことがあったということを証言し、中濃教篤先生に対して、平和運動について色々と御迷惑をかけましたことをお詫びを申し上げ、平和建設を思い、追悼の言葉と致します。もう時間がきました。
  病床の ままならぬ身 塵となり アジアの天空 いざ駆けめぐらん
 中濃先生のお気持ちではなかったかなと、ラオスの平和会議のことを大変気にして亡くなったという、奥様からのお話を聞いてつくった拙い追悼の歌でございます。ありがとうございました。(拍手)
 ありがとうございました。秋永智徳先生お願い致します。
 秋永でございます。私は今日この席に皆さん方がおいでになっておられる中では、ちょっと異色な人間でございます。と言いますのは、中濃師とは、わたくしは大学の同級生であり、わたくしは一人っ子、中濃君も一人っ子で、だいたい境遇が似ておりました。彼は優秀な学生でございました。わたくしは北海道の北の果てから、東京に出てまいりまして、予科二年目の編入試験で立正に入りましたが、私は当時の彼に対し、東京の秀才というのはどのような人間かなと、個人的に非常に興味をもっていた一人でありました。
 そして太平洋戦争中、わたくしは徴兵猶予が停止され、学徒出陣で横須賀武山海軍海兵団に一兵卒として入隊致しました。基礎訓練を受けた後に第十四期海軍予備飛行士官として第七二一航空隊・第七〇八飛行隊神雷特別攻撃隊に所属し、日本で初めの火薬ロケット機(桜花隊=人間爆弾約二トン重量機)による人間爆弾特攻=神雷特別攻撃隊の母機壱式陸攻(大型爆撃機神雷部隊)の指揮官の一人となりました。昭和十九年九州宮崎航空基地で編成され、台湾沖航空戦を初めとして、沖縄攻防戦等、太平洋戦争終結まで、神風特攻隊を始めとする末期戦争に、野中少佐を中心としての神雷部隊による特攻攻撃が続けられ、桜花隊(ロケット特攻機)、壱式陸攻攻撃隊、零戦戦闘機隊合計八二九名の戦死者を数え、終戦を迎えることとなりました。
 私のこの様な戦歴から言って、中濃君がよく言っておりましたが、「私と君のように全然肌合いが違う人間が、こうやっていつも一緒にいることは、回りの人間が見たらどう思うだろうね」と彼は私によく言っておりました。わたくし自身も、本当にその通りだというふうに思いました。わたしは特攻隊の指揮官として戦陣から生き残り、終戦を迎え、再び立正に戻りました。そして大学を、二十一年に卒業致しました。卒業時に亡くなられました影山教授から、「お前はもう少し大学に残って勉強しなさい」と言われたものですから、そのつもりで大学に残っていたいと思っておりました。ところが残念なことに、軍隊にいた時には海軍の士官として、特攻隊の指揮官としての待遇を受けておりました。終戦になってからは一介の人間で、食べることにも困りました。中濃師は「お前が食っていけないのはよくわかるから私の寺に来い」と言われて、中濃君の領玄寺に居候で養って頂きました。亡くなられた中濃師のお父さんお母さん、また中濃君の奥さんになられましたご夫人は、お向いの延寿寺日荷さんの小林存道師のお姉さんで、わたくしも学生の頃からよく存じ上げておりましたので、居候をきめこんで領玄寺様にお世話になっておりました。その間、瑞輪寺の中にありました増田日遠師の仏教新聞に在籍し、中山行堂問題の取材等を致しておりましたが、その後中濃君のお世話で、わたくしは、荒川区にありました東京皮革会社の総務をしておられた瀬戸さんの秘書という名目で皮革会社に就職し、瀬戸家の書生として移り住み、荒川へ通い始めておりました。
 その生活は戦前・戦時中とは全く変った環境の生活で、瀬戸家の娘さん達の靴磨きから家事手伝いまでを含め、想像もしたことのない生活ではありましたが、瀬戸家で開かれる文学サークル−中濃師夫妻、俳優金子信雄さん、彼の妻女優丹阿弥谷津子さん、主人瀬戸夫妻を中心としての話題を襖越しに聞きながらの書生生活の中に、中濃君の、秀才というから冷めたい人間とばかり思っていた私に、非常に温かい人間・友人として触れ合いを示してくれた人柄に心打たれたことを、忘れ得ぬ想いを致しております。その後、縁あって再び領玄寺に戻ることとなり、当時寺の玄関脇の部屋に二人の女性が住んでおりました。その一人は斉藤茂吉さんの愛弟子で、和歌に秀れた女子学生、今一人は当時芝にありました労働学園に通う前衛的女性が住み込んで、世話になっておりました。その中に私が割り込んで、一人生活をさせていただきました。私が考えたこともなかった本当に人間としての素晴らしい在り方といいますか、生き方を学びました。わたくしは東京皮革会社に通っていて、会社の中に部落民といって多くの方から親しまれなかった人々が、わたくしを非常に人間として温かく迎え、「貴方はこういう世界に住む人間ではないから、早く学校に帰りなさい」と言ってくれました。そのような人間の温かみということをわたくしに初めて教えてくれるように仕向けてくれたのは、中濃君でございました。
 先般肺癌で入院治療を受けられるようになってから、わたくしは上京する度毎に彼に「君に会いたい」といって電話をしますと、彼は「今、治療を受けて、後遺症で苦しんでいる。こういう姿を見せたくない」と言ってついに会うことなしに別れる、という現実を迎えました。本当に寂しい気持ちでございます。今わたくしの手許にある中濃君の年表を見ますと、一九八二年モスクワで開かれた核廃絶の宗教者平和会議にもご一緒し、さらに引続きニューヨーク国連本部での大平首相核廃絶への演説をも拝聴しました。またベトナム、カンボジア、モンゴルのABCPの総会に常に随伴させていただきました。そのような中で彼が骨粗鬆症を患っていることを初めて知りました。常に彼と生活を共にしながら、なんとかして元気でお互いに長生きしようと話合っておりました。が、四月三十日にご遷化になられたということで、わたくしにとって言うに言われない寂しい気持で一杯でございます。まだまだ彼についてお話を申し上げたいことですが、僅かな時間の中では到底話し切れるものではありません。生前わたくしは、中濃君に言ったことがありました。「どっちが先に死ぬか、私が先に死んだ時には君に引導をわたしてもらいたい」という約束をしておりました。それが果してもらえぬことになった今、彼の姿を見て、私が戦陣の極限の場で部下に言って誓っていた言葉を、彼のために残しておきたいと思います。
  散る桜 残る桜も 散る桜
 いづれ中濃君のあとを追うように、わたくしも参りたいと思っております。彼が霊山浄土でわたくしの来るのを心待ちにしてくれることをお願いをして、わたくしのご挨拶に致します。どうもありがとうございました。(拍手)
 ありがとうございました。現宗研顧問、立正平和の会理事長、新間智照先生お願い致します。
 新間でございます。わたしは中濃上人とは二歳違い、中濃上人は二つ年上でございます。お会いするまでは、いろんな活字の上でお目にかかっていた時には、十歳ぐらい上だろうと思っておりましたけれども、お会いしてみると、二歳上ということで、とても、若い時の思想の内容というか、活動ということについて、大きな開きがございました。わたしは、今日は立正平和の会の理事長の立場でございますけれども、現宗研の顧問でもあり、現宗研にはかなり早くから携わっておりまして、中濃上人とは大変現宗研でも親しくして頂きましたし、また、現在わたしは日蓮宗の人権推進委員でもございますが、その方面でも、ずっと初めから、中濃上人と一緒に仕事をさせて頂いておりました。
 で、立正平和の問題で申しますと、日蓮宗は立正平和運動というのを大変早くから始めまして、戦後、昭和二十九年、一九五四年から始めまして、中濃さんはもうその初めから、その中心メンバーの一人でございまして、やがてその運動が停滞をしてくるようになりまして、これではいけないということで、立正平和の会というのを有志で立ち上げた、それが一九六九年、昭和四十四年でございます。わたしはその時はまだ、参加をしておりません、ですから記録を見て知るだけですけれども、三年後にわたし、立正平和の会に入会を致しました。もちろん初めの頃は、立正平和運動に関しては、中濃さんよりもずっと先輩で、三谷会祥さんとか、細井友晋さんとか、おられましたので、中濃先生がトップというようなことではございませんでしたけれども、かなり早くから、中濃理事長ということで、もう立正平和の会といえば中濃理事長というような意識で、ずっとやって参りました。もっとも、五年くらい前から、中濃さんから、理事長を代わってくれということを、よく内々に言われたんですけれども、そんな時点でまだとても理事長を引き受ける自信もありませんでしたし、中濃さんに是非続けてやって頂かなければということで、とうとう最後まで理事長をやって頂きまして、まあそれは非常に良かったと思っております。現在、やむなくと申しますか、わたしが理事長になっております。
 立正平和の会は、原水爆禁止運動を一番最優先に掲げまして、平和の問題、そして人権の問題、信教の自由などの人権の問題、いうことに積極的に取り組んで参りましたけれども、同時に、実践活動だけでなくて、理念を明らかにしようということで、『立正平和の理念と実践の大綱』という本、並びにその改訂も出しましたけれども、そういう理論化の時には、いつも中濃先生が中心というか、一番大事な方でございました。
 あとまたABCPの鈴木さんがお話されると思いますけれども、対外的な活動においても、いつも理論の中心の一人として、中濃教篤上人がおられたということでございます。しかし、対外的に非常に活動されるんですけれども、中濃先生は、そういう他の団体の方と一緒に活動する時に、日蓮聖人をふりかざすということはされませんでした。できるだけ普遍的な、人類として、普遍的な理念としていつも問題を説かれました。けれども、決して日蓮、自分が日蓮宗の僧侶である、日蓮聖人を信奉するのであるという立場をないがしろには、無視はされませんでして、非常に大事にされておりました、いつもそのことは、内々ではよく話をされまして、一度ABCPの総会の中で、わたしが発言の中で、まあ日蓮聖人のことにもちょっと触れまして、そういう立正平和ということの意味をちょっと入れて、スピーチをしたことがありますけれども、中濃さんは大変それを喜んでくれまして、そういうこともございましたし、それからまた、現宗研の所長になられる前かなられてからか、その頃ですけれども、その当時はある程度、中濃上人に対する風当たりというのがきつうございまして、いろんな、無責任な言い方がされまして、「中濃は赤だ」というようなことがよく言われたもんでございます。ついでにわたしはピンクだと言われましたけれども、そういう時に、わたしは一度、現宗研の関係の集まりと思いますけれども、中濃さんの弁護をしたことがございます。中濃さんは赤だと言われているけれども、中濃さんの言われること書くことを見たら、全部日蓮宗の僧侶としてきちんと筋が通っていると、決して、それをはずれていないということを、わたしは強調したことがございます。そういうことも、一つの思い出でございます。
 中濃さんとの思い出はそういう三つの団体、更に立正平和の会等々として活動する中で、ABCPや宗平協やそういうところも入っておりますので、そういう他の二つの団体との間でも、中濃先生とは一緒によく行動を共にしたんでありまして、わたしが海外でいろんな活動をした時の記憶には、たいてい、その場に中濃さんがおられたという記憶が大変多いんでございます。そういうことがもういくつもありまして、何か思い出す時には、あ、あの時に中濃さんがおられたということがありまして、たとえば、どこだったかニューデリーだったかモスクワだったか忘れましたけれども、ノーベル平和賞をとられたマックブライトさんとお会いをしたことがありまして、わたし一番初めにお会いした時に、わたしはあの、アムネスティの会員ですということを言ったんです、そうすると、マックブライトさんは大変喜ばれましたが、その時にも中濃さんがそばにおられたように思いますし、それからモスクワで、送迎のバスの中でマックブライトさんの隣に座りまして、ちょっと言葉を交わしまして、その時も中濃さんは同じバスに乗っておられたんで、どんな話したのか、いうようなことを聞かれたり、いろんなことがございました。色々言いたいことはたくさんございますけれども、時間過ぎておりますので、これで終わりに致します、どうも失礼しました。(拍手)
 ありがとうございました。京都立正平和の会副理事長、石田良正上人お願い致します。
 京都へ帰ってまいりまして、私は本山立本寺の塔頭に居りますけれども、領玄寺さまに、立本寺第二十五世の貫首さまでありました遠沾院日亨上人のお墓がございまして、そういうご関係、もちろん平和運動におけるご関係ということで、上洛されますとよく立本寺へ来られており、私も招かれまして、その時の貫首さまでありました細井上人はあまりお酒を飲めない、中濃先生はお強いと、私も嫌いではありませんので、お相手をさせていただいておりました。その時もやはり、先ほどからいろいろなお話が出ておりますけれども、いつもおっしゃっていたことは、私たちは、法華経の平和な仏国土顕現と、日蓮大聖人の立正安国の教えに根ざして、人類の幸福と世界の平和のために尽くすのが本分だと、常々おっしゃっておりました。そういうことに感化されまして、私も細井貫首さまと共に、その道を歩んでいこうと、常に思っておりました。それから昭和四十四年四月の立正平和の会の結成に続きまして、京都の方は同年の七月十六日の、立正安国の日に結成したわけですが、この結成に向けましても、先生のお骨折りをいただき、積極的にアドバイスをしていただきまして、結成することが出来ました。京都は法華宗の本山も多くございますので、日蓮宗と合同で今までにない組織をつくって、活動を展開したものでございます。それから、京都で第一回世界宗教者平和会議が開かれた時には、先生は確か起草委員長ではなかったかと思うんですが、会議を成功に導くために、ご尽力をいただきました。そのお手伝いをさせていただきましたことも、懐かしい思い出でございます。それから何よりも大きいのは、昭和五十六年の、日蓮大聖人第七百遠忌の時ですが、皆様ご存じのように、第二回国連軍縮特別総会がございまして、十五名の本宗僧侶がうちわ太鼓を持って、ニューヨークにまいったわけです。その時に百万人大行進というのがありまして、その時も先生と共に、撃鼓唱題し街を歩かせていただいたことが、終生忘れられない思い出でございます。それに、先生はある時、テレビドラマで「はぐれ刑事」というのがありまして、藤田まこと演じる安浦刑事は、自分の生き方を大事にしている刑事でして、その人のことを本当に思って諭していくという刑事です。そういう刑事はなかなか居ないと先生はおっしゃっておりまして、私も好きで見ておりますので、非常に親しみを感じさせていただきました。また、人権対策室とかあるいは現宗研もそうですが、『現代仏教』誌に投稿させていただいておりますのも、先生のお導きがあったからこそと、感謝いたしております。ただ、これは奥様からお聞きしたことですが、先生はいつも私のことを気にかけてくださっていたとのことです。しかし先生とABCPの会、あるいはその行動にご一緒できなかった、お手伝いができなかったことを、大変申し訳なかったと思っております。今後も先生のご意志を受け継いで、立正平和運動に邁進して行くことをお誓い申し上げ、私の先生を偲ぶ言葉とさせていただきます。どうもありがとうございました。(拍手)
 ありがとうございました。アジア仏教徒平和会議日本センター代表、日本宗教者平和協議会理事長、鈴木徹衆先生お願い致します。
 わたくしは、真宗大谷派東京教区の乗願寺住職をしております。真宗大谷派という、極めて、日蓮宗とは、本来縁遠い関係の徒でありますけれども、四十七年間、先生と行動を共にし、色々育てられてきたことに、ほんとにわたくしは宗派を超えて、中濃先生という方は稀なる人物だと、戦後日本の仏教運動史あるいは宗教平和運動史を繙くときに必ず、中濃先生の著作あるいは行動を避けては通れない、いまだにわたくしは、先生のお書きになって頂いた本は、己れの座右の書として、四十数年間の、宗教者平和運動の歩みを顧みながら、その歩みを、今もたもたしながら書いておりますけれども、もう先生の本はその場合に離せませんですね。でこの略歴の中にですね、最後の方になるとだいぶ重大な問題が飛んでるので申し上げますが、一九九五年、第二次大戦終結五十周年に、平和、非戦平和の誓願に生きるアジア仏教徒の集いというのを開催しまして、これは大変な費用がいりましたけれども、その前に、一九九三年に、ハノイでアジア仏教徒の軍縮委員会総会を開きました。これも大変なまた努力と費用がかかりましたけれども、この時にまでに一つ区切りますと歴史的には、あのソ連の崩壊による、新しい状況になってきましてね、そういう中における、それこそ本物の、アジア仏教徒の、主体的な交流が、これから盛んになると、いうような意味で非常にその後の、ソ連崩壊後の情勢を重視して、積極的に日本が軍縮総会をハノイで開催すると、あるいは、戦後五十年という、この日を、また無理をしてですね、各国ご招待して、大変こちらの日蓮宗さんにもお世話になりまして、大きな交流の実りをあげましたけども、こうした点がちょっと今落ちていたので、書いておいて頂きたいと思いますが、わたくしその、特にこう色々な運動の中でですね、特に平和運動、アジア仏教徒平和会議あるいはその宗教者平和会議の中で、京都では細井先生はじめ信ヶ原良文先生、あるいは龍谷大学星野元豊、森竜吉など、諸先生の中でですね、中濃先生ほどこの略歴のごとくですね、しっかりと宗教者平和協議会の立場を踏まえて、そこから一歩もずらさずにですね、物事の方向性、あるいは教団の方向性、それから基本的な道筋と、そしてその状況を分析するに当たって社会科学的な認識と、この三本柱をずーっと堅持されて、おられるということ、そこらが先生の凄さだと思いますが、わたくし自身、その最初、宗平協の、当初それ以前の慰霊実行委員会の事務局の仕事から、ずいぶん先生をいらいらさせたり、怒られたり、まあ、却って足手まといな時代もあったんだろうと思いますし、わたくしは物事一つ文章一つまともに書けないんですが、わたしは先生がですね、君の文章はこういうふうに書いたらいいのに、というふうな親切な指導は一度も受けておりません。駄目だよ君こりゃ書き直せいと、書き直してきても駄目な点や、そして気にくわないとこは皮肉を言われますね、君もずいぶんロマンチストなんだね、なんてってね。ああここんとこの書き方だな、と思ってそれは改めなきゃなんない、そういう中で大変鍛えられまして、わたしも非常に色々こう教えて頂いたこと、本当に忘れられません。ラオスにおける第十回の総会も、基調報告をお書き頂いて代読させて頂きましたが、その会議のどこがどうであったか、その成果はどうであって結果はどうであったかという総括をする時には、やはり心にあるのは中濃先生の姿勢ですね。ああこれは中濃先生には申し訳ないとか、怒られるんじゃないかなあとかね、このところは成果であると言えるんじゃないだろうかって、絶えずわたしの心の中にたぶん、今後も一生ですねわたしの、まあ自分自身が倒れるまでの心の基準、あるいは兄貴であり善知識であるというふうに尊崇して止まないものであります。今日はお招き頂きまして、本当にありがとうございました。(拍手)
 ありがとうございました。大阪宗教者平和協議会理事長高木孝裕上人、お願いします。
 失礼致します。大阪の妙徳寺の住職、高木孝裕でございます。よろしくお願い致します。わたしは、昭和四十二年に立正大学に入学しまして、高校時代から平和運動に関心がありましたもので、大学へ入って、宗平協の主催する会合がありましたので、そこらへ参加させていただいたのが、中濃先生との一番最初の交わりであったかと記憶しております。基本的にわたし、活動のベースが、宗平協であったかと思います。立正平和の会の会員でもございます。宗平協の活動をやりながらといいながらも、ほとんど活動の主体が大阪でありましたので、滅多に東京の方とか全国の活動で出てくることはあまりありませんでした。京都や大阪で宗平協の会合があった折りに、先生の色々なご指導を間接的に聴聞してきたというのがわたしの記憶でございます。自分が平和運動に興味を持った時に、日蓮宗の僧侶というのは社会的に色々と活動してこられたんだなあというのが、わたしの一番大きな誇りであったような気がします。戦後の平和運動の中で、日蓮宗の僧侶の果たしてきた役割というのがあったからこそ、自分も、いまだに宗平協の活動を続けることができたんだと思っております。今大阪宗平協の二代目の理事長をしておりますけれども、SSD2(第二次軍縮特別総会)を成功させる集会が、東京の京王プラザホテルで開かれるという案内があった時、自分は行けないけども、大阪の宗教者として代表を送ろうという運動をしまして、何人かをその集会に送らせて頂きました。その実行委員会をなくしてしまうのはもったいないというんでもって、大阪宗教者連絡会というのを作らせて頂きまして、細々と活動をやってたんですけども、夏の平和行動、原水爆禁止を願う国民平和運動が分裂してしまって、なんとかしようと東京で十者の呼びかけでもって、市民平和行進が提唱された折りに、大阪の生活協同組合連合会(生協)の方から連絡がありまして、大阪の市民平和行進実行委員会に宗教者として参加してもらいたいという要請がありまして、その宗教者連絡会として市民平和行進に参加し、そして、日本山妙法寺の方、生協の方、それから青年団協議会の方、婦人有権者同盟の方、地域婦人連絡会の方等々でずっと一緒にやってまいりました。そういう実績の上にたって、十二〜三年前ですか、大阪で、宗教者平和協議会というのを作らせて頂きました。日蓮宗の者は数名いますけども、ほとんどが他宗の方々で、キリスト教の先生、真言宗の方、教派神道の先生、神社の宮司さん、浄土宗の方、門徒の各派の方々で構成させて頂いてます。初代の理事長は、天理教の先生でした。長らく平和運動に関わってきたということで、二年前にわたしが二代目の理事長と就任しました。今、大阪宗平協は五十数名の会員でもって、大阪の平和活動、宗教者としての平和活動を務めさせて頂いてます。自分たち、いろんなところから招かれて、いろんな人の前でお題目を唱えながらお話できるということは、非常にありがたいことだと思います。自分たちはどっちかいうと、自分たちで集めた信徒の前で、話することは多いと思うんですけども、いろんな方々の開かれる集会に出かけて、衣を着て、お題目を唱えて、そして話の一端に日蓮聖人の言葉を伝えさせて頂けるのが、非常にありがたいことだと思ってます。また、集会に出かけて、うちわ太鼓を叩かせて頂いて、ここに日蓮宗の者がおるという形をとらせて頂けるのも、非常にありがたいことだと思ってます。これから先も、日蓮宗の僧侶として、平和活動に邁進していきたいと思ってます。どうぞよろしくお願い致します。(拍手)
 ありがとうございました。元宗教青年平和協議会委員長、遠藤教温上人お願い致します。
 元宗教青年平和協議会委員長、遠藤です。元というのはわたしだけかもわかりませんが、もう三十年以上も前になることですけども、わたくしも当時、宗平協の仲間の一人として、末端を汚さして頂いてました。そういう中で、亡くなられた石川教張上人のあとを受けて、宗教青年平和協議会の運動を数年間、携わらせて頂きました。そういう立場でお呼び頂いたと思いますけれども、実はわたし自身は、個人的というか家族的に、中濃上人のご家族の方との関係がございまして、色々なことで、人生の上で、中濃上人に教えを頂いて、どうにか、ま、ここまできたのかな、というふうな思いがあります。というのは、中濃先生のこの略歴の冒頭に、小田原生福寺で生まれたと書いてありますが、わたしのお寺も小田原で、父が中濃教正上人の弟子だったものですから、教篤上人とは、父が兄弟弟子になるということから、東京に来られても、父に連れられたり、母に連れられたりして小さい頃から領玄寺に行きまして、ま当時は、相模湾でも鰤が大変とれまして、暮れには鰤を一本もって、父のあとをついて、領玄寺に行ったことを思い出しますけれども、そんなふうにして、昔の師匠弟子ですから、たぶん今の、まあ親戚、兄弟以上のお付き合いだったんではないかと思うんですけども、そういう流れをずっと汲ませて頂いて、お付き合いをさせて頂いておりました。現宗研の方も一時期お手伝いをさせて頂きましたし、いろんな意味で、先生のお世話で、若い頃の自分が、仕事してたなというふうに思うことが多いことでございます。わたし自身の転機になりましたのは、昭和四十年、一九六五年に、第一回日中青年友好大交流というのがありまして、これは、二回目は文化大革命で中止になってしまったと思いますけれども、真言宗の小室裕充師を代表に、仏教界の方が五名、キリスト教の方が四名、教派神道の方が一名という構成で、一カ月近く日中青年の交流をして、中国のお寺などを訪問して、仏教界との交流もしましたが、そういう中での見聞が、わたし自身も非常に大きな驚きで、まあそうしたことも一つの転機になって、その後、一層、平和の問題が大事なんだということから、こうした宗青協の活動などにも携わっていったわけです。そういう中で、先生の略歴にも一九六八年の項に、靖国神社問題連絡会議の世話人となったというふうに記録がありますが、宗教青年平和協議会も、その一員として、靖国問題連絡会議に参加させて頂きまして、わたし自身も何度かこの会議に行きましたが、この会議はここに出てますように、当時学習院大学の飯坂良明先生が、キリスト教関係の代表という立場、それから、新宗連から清水雅人氏が中心でしたが、この会議の色々な方向をリードしていったのは中濃上人でして、特に飯坂良明先生との間では、若干のご意見の違いみたいな、方向の違いみたいなのがありましたが、そういうところを非常に、先ほどのお話にもありましたように、きちんとした線を通されるという姿勢に、大変共鳴を致しました。領玄寺の本堂が落慶しました時に、わたくしも参列していましたが、宗門、日蓮宗以外の方が、祝辞を申された時に、中濃上人にこういう姿があるのかということを、驚きましたという意味の、日蓮宗の寺院、檀信徒相手にしている活動ということに対しての共鳴を申された方がありましたけれども、中濃上人は、わたしも学生時代何度か泊めて頂きましたが、布団の中で、ああお勤めしてらっしゃる、ということに出会ったりしましたし、そうしたお寺の活動というか檀信徒相手の活動をきちんとされて、更に社会平和運動、その裏付けとなる宗教関係、宗教学会を始めとする研究とか執筆とかといった活動を、またその三本柱を、ほんとに一人の身で、きちんとされた方ではなかったかなというふうに思っています。先ほどお酒の話が出ましたが、わたしも泊めて頂いた時に、外の会合などから一緒に帰りまして、結構遅く帰っても、ちゃんと奥様が、晩酌を用意して、応接の部屋で、お燗をつけてですね、一杯やられるんですね。その時の話がまた、今日あったこと色々話されたりなんかして、わたしも非常に教訓を受けた思いがありますが、お上人の姿を支えておられた奥様が、ほんとに優しくというか、うなずいて、一言一言お上人のお話を聞いておられ、本当にいい夫婦だなということを感じておりました。いずれにしましても、人間的な暖かみというか、そういうものが裏にあるということを、日蓮聖人のようだなあと思いながら、わたしも大変大きな教訓を頂きまして、先年亡くなられた石川上人は、わたしは先輩として、色々ご指導を頂いておりましたけども、中濃上人は、先生として、わたしの生涯に色々な教えを頂いたと、ありがたく、感謝をしている次第でございます。とりとめありませんけれども、以上で思い出にさせて頂きたいと思います。失礼致しました。(拍手)
 ありがとうございました。今、ケーキとコーヒーをご用意しますので、頂戴しながらお話を聞かせていただきます。正面の遺影は、年代はわかりません、日蓮宗新聞社が撮ってくださった写真を頂戴しましたが、新宿の常圓寺で、現宗研の教団論セミナーだと思いますが、先生がご講演をなさいました時の遺影で、いかにも先生の、分析をなさってらっしゃるお声が聞こえてきそうな気がして、いい写真だなと思って用意致しました。それから正面のお花は奥様が、ご自坊で今咲いておられる花をお届け頂きましてありがとうございます。特にホトトギスは先生のお好きなお花だそうで、本当にありがとうございました。それじゃ、お茶、コーヒーとケーキを配りながらお話を伺ってまいりますので、よろしくお願い致します。
 では、日本山妙法寺で「平和をつくり出す宗教者ネット」世話人をしておられます、武田隆雄上人お願い致します。
 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経
 本日は、お招きを頂きまして、どうもありがとうございました。本来ですと、日本山妙法寺の、中濃お上人様と御縁のありました諸先輩の皆さまが出てご挨拶させて頂くところでございますけども、若輩のわたしが、参加させて頂きました。本日は、衆議院の第二議員会館で、イラク派兵に反対する、国会の院内集会がございまして、そちらの方に、中濃お上人様とも御縁の深い先輩のお上人さま方が参加していますので、大変失礼しております。僭越でしたけども、さきほどのコピーですけれども、わたしが日本山妙法寺の機関誌『天鼓』を編集させて頂き、中濃お上人様に色々書いて頂いたものを頂戴致し、掲載させて頂きました。二年前の平成十三年、ほんとうに最晩年の、お上人様のお言葉を掲載しております。またご参考にして頂ければありがたいと思います。中濃お上人様は、わたしどもの師匠の藤井日達山主とも、本当に親しく、ご親交をして頂きまして大変ありがたく思っております。平和運動を通して、わたしどもの師匠と、また、諸先輩のお上人様方と、中濃お上人様が、心を合わせて、日本の平和運動、世界の平和運動をなんとか高めていこう、強めていこうということで、努力致されました。わたしども、最近、「平和をつくり出す宗教者ネット」というものをこしらえまして、宗派を超えて、キリスト者の方々を始めとして、参加しております。四百名ほどの方々が、個人参加ということで参加しております。この偲ぶ会の中にも、ご参加のお上人様方がおいででございます。その「宗教者ネット」に中濃お上人様も参加して頂いて、様々な場面で、たとえば、国会の方にわざわざ出向いて、様々なお話を頂戴致しました。ちょうど九十九年の新ガイドライン、周辺事態法に反対する宗教者の集会の時に参加されまして、平和運動のあり方などに対して、助言を頂きました。今日は、こういう日蓮宗門の、中濃お上人様を讃え偲ぶという会を催されたということで、非常に待ちに待った、宗門につながらぬ者としては、もっと早く、こういう会をもたれて、中濃お上人様が務められた、また宗門の方々が務められた平和運動を、やはり正しく評価していく、そういう場面をたくさん作って頂ければと、いうふうに思っております。わたしどもの師匠の藤井山主が、「渡世坊主になるな」ということをおっしゃっております。わたしどもはなかなか怠け者でありまして、お叱りを受けるわけですけれども、これからも、この、平和運動、立正安国のご祈念に、中濃お上人様のご遺志を頂戴して、中濃お上人様のご遺志と共に、これからも平和運動に務めさせて頂きたいというふうに思います。今日はどうもありがとうございました。(拍手)アメリカのニューヨーク道場の石橋上人様と一緒に参加させて頂きました。ありがとうございました。(拍手)
 資料と『天鼓』を頂戴しまして、ありがとうございました。
 前日蓮宗人権対策室長、前田幸廣上人お願い致します。
 失礼します。わたしは中濃先生には、すごく御縁がございました。学生時代に、ちょうど、近江幸正さんがプルナの会というのをやっておられました時に、プルナの会に参加いたしまして、その時に、中濃先生にいろいろと教えを受けたものでございます。今一番思い出にあることは、あの石川教張前所長さんと一緒に久保山愛吉さんの墓前祭・三月一日ビキニデーの時に焼津にオルグに行けと云われて、石川前所長と一週間ほど泊り込みに行きまして、久保山愛吉さんの墓前祭の準備に行った経験がございます。
 それともう一度、近江幸正上人の被爆者援護法制定の折り鶴行脚がございました。宗門の立正平和運動本部の関連で青森から東京まで、太鼓を叩いて行進をする、ちょうど私は立正大学の四年生でした、その時も先発隊として青森から東京まで下準備のオルグに行かせて頂いた経験がございます。
 まあそういう意味でいろんなことで、社会的な問題にその時に初めて目覚めたわけでございます。身延山の短大におります時には社会の問題に興味がありませんでした。立正大学に転入してきた時にはじめて、広い社会を見るということを教えられたのが、中濃先生です。
 またわたしが宗門の人権問題に係わったのは、当時人権問題対策会議というがありまして、伊藤内局のときで、その手伝いをしないかと云うことを、同級生の望月康史企画課長に云われて出てきたわけでありますけれども、その時私は、長年田舎に引っ込んでおりまして、社会問題を取り込むことをしておりませんでしたけれど、中濃先生にやっと出てきたんだねと云われたことを覚えております。
 それから人権問題に携わらせていただいたわけでございます。学生時代からいろんな点に興味がありまして、まあ興味というか、特に私は奈良の出身で非常に部落問題に関心を持っておりました。そういう意味で、人権問題対策会議から今日まで、人権問題に携わらして頂いるわけでございます。いま一番思いあたる事ですが、永井内局の時に人権対策室の室長をやれと云われたときに少し考えさせてくださいと言うことで、中濃先生・長谷川先生に真っ先に相談をしたところ、前田君やりなさいよと言われ、まだ私には無理ですといってお断りしようと思っていたのですが、やれる時にやっておかなきゃ駄目だよと言われ、お引き受けをし、その時にいろいろと教えを頂き、いろんな相談にのって下さいました。絶えず電話で意見を聞かせて頂きました。
 特に中濃先生にお願いしたのは、人権対策室で出す、環境・平和・人権という内容の本を一冊書いて下さいとお願いしましたところ、いいよと快く引き受けてくださり、出来たのが『環境・平和・人権』という小冊子です。この中に日蓮宗の人権と環境と平和の問題が全て網羅されているのではないか、と私自身は思っております。またアウン・サン・スーチー女史のこと、部落問題の先駆者小根沢義山上人のことなどいろいろと書いていただきました。
 先生を父のように慕わしていただきました。教えをうけると同時に、怒られもしました。これは余分なことかもしれませんがエピソードとして。先生に、奥さんのことをどう呼んでおられたのですかとお尋ねしたところ、私はワイフと言っているよと言われて、あれっ、と思った事がございます。
 先生が亡くなられてから奥様にお会いし、先生はどう呼ばれていたのですか、とお尋ねしたところ、名前と、君、君ねえというように呼ばれたと聞きました。中濃先生らしいと思った次第です。
 私自身は連れ合いを、ひどい言葉で呼んでおりました。おい、おいと。それ以後、改めて名前を呼ぶようにしておりますが、人権の問題に携わったらやはりそういうことを考えなくては駄目だよ、とお叱りを受けました。ユーモラスなこともございましたし、いろいろと教えを頂いたことを感謝しております。
 今後も、さきほど鈴木徹衆さんがおっしゃってましたように、三つの考え方って大事で、絶えずきっちりと持っておられた方だなあ、と思っております。どうもありがとうございました。(拍手)
 ありがとうございました。ご予定の各先生のお話が終わりましたし、中濃先生もトイレ休憩せいとおっしゃっておられるような気が致しますので、三時二十分まで休憩させて頂きます。よろしくお願い致します。
 それでは、再開させて頂きます。お願い致します。
 ご参加の皆様のお話頂戴しまして、ありがとうございました。座談ということで、もう少しお話のある方、こんな話もあったよという方、ご発言お願い致します。マイクを回しますので、よろしくお願いします。お手を上げて頂ければ、マイクを回します。どうぞ、お願い致します。
 石川浩徳先生、お願いします。
 先ほどは中濃先生との出会いについて思い出を述べたんですが、今日は現宗研の顧問としてまた前所長の立場で先生とのことをお話ししなければならないと思っていたんですが、時間の関係でできませんでしたので、せっかくの発言の機会をいただいたので、その点について述べさせて頂きます。
 私は平成六年の五月に石川教張さんの後を受けて所長になったんですが、そのとき、所長を受けるに際しまして、先ほどの前田さんじゃありませんが少々悩みました。自分がその任にふさわしいかどうか、歴代の所長さんの顔触れを思うと、学者先生ばかりでとても自分のような者に勤まるとは思えない。前任者の石川教張さんからは私が自信を持って推薦したんだからと強く要請されまして、それに石川先生はそのころ相当お体の具合が悪く、これ以上困らせては申し訳ないと思い、中濃教篤先生にご相談しましたところ、顧問会であなたを推薦しているから頼みますよ、現宗研は三十年の歴史を重ねて来たが、周囲の情況も変わってきているし、勧学院というのができてから、現宗研の役割も変わってきていて、行政の経験者であるあなたのような人がふさわしいんですよ、それと研究調査機関としての独自性を守っていく気骨のある者でなければならない、時代の動きを読み取って対応できる研究所であってもらいたい、なにか問題があれば全面的にバックアップするから引き受けてくださいよ、こう中濃先生に励まされて、まあ踏ん切りをつけたような次第でした。
 少し在任期間が長くなりましたが、今年の一月辞任したわけですが、その間、本当に中濃先生にはお世話になりました。先生は常に現宗研が心配だったのでしょう、会議にはほとんど欠席されないで、体調がすぐれない晩年も、もうこの辺がぎくしゃくしていて座っているのも大変なんだよ、とおっしゃっていました。私が車で通って来ていたもんですから、いつも大森駅か大井町駅にお送りしたり、ときにはご自坊までお供したりさせて頂きました。その車中で二人だけの会話ができて、随分勉強になったものでした。私が大過なく所長を勤めることができたのも、中濃先生のお陰と心から感謝している次第です。ありがとうございました。
 ありがとうございました。さっき前田上人から、三つの柱の話がありましたが、「環境・平和・人権」のパンフレットを、今、宗務院の方からお配りしました。ご参考になさってください。それと、遠藤上人から、朝日新聞のコピーを頂戴しましてありがとうございました。ご参考に。伊藤如顕上人お願いします。
 座ったまま失礼します。現代と宗教・人権と平和という形で、先生の足跡を偲ぶという座談会ということで、わたくしは、先生と出会った端緒を先に申させて頂きましたが、考えてみますと、先生は日蓮教学と平和、日蓮教学と社会問題。或はまた、石川前所長が申されていましたが、本宗の布教興学に関して種々なる問題提起をなされ、その書かれた著述も多く、その一部をお話いたします。昭和五十三年の『第十一回中央教研基調報告』を見ますと、七百遠忌の成果と展望について、今日までの歩みの中から、的確な判断と洞察力をもって今後の課題を集約され、我々に助言と課題を示されました。又、日蓮教学と平和・社会問題に関しては、創価学会・公明党の現在について述べられ、特に本宗教学、そして学会教学を論じ、その内容の分析を教示され、オウム真理教の問題に関しても、仏教の基本的な教え、不殺生戒からして、「ハルマゲドン」を誇大風説したり、化学兵器による殺害を口にするなどは、まったく対極の発想であることなど、判り易くお話されています。又、私どもの中部教区の教研に招請申しあげた時、戦前・戦中・戦後の我が国の各宗派それぞれに『宗教団体法』による統制と弾圧が国家権力をもって加えられた事実を、戦後の『法人会』『法人法』の比較表をもって教示されました。また、人権問題でございますけれど、これは平成三年の現宗研顧問会で、同和についての本宗の歩みを説明され、「優陀那教学」の問題。そして先駆者として大正九年長野県上田市において「信濃同仁会」の創立に参加された小根沢義山上人は、全国「水平社」に先立って、人間平等の大義をもって、不自然な理由無き理論・感情を戒め、差別を撤廃する運動に取り組まれていることを報告されています。これは人権対策室が発足する八十年前です。しかし昭和十二年には、天皇の赤子論に立つ「国民融和」を掲げた「長野同仁会」が発足し、姿を消し、その後日支事変から第二次大戦に突入することになるのです。戦後宗門は「立正平和運動」を提唱し、これはまた栄枯盛衰があり、語りつぐ事柄が多くあると思いますので、このあと多くの方から問題が提起され発表されると存じます。よって割愛いたします。先生が、研究された理論を述べるだけの人でなく、それを自分に課して実践・実行され、東奔西走、南北駆け巡ってですね、主導的な役割を果たされたお方だったと存じます。最後になりましたが、先生に巡り会った当初は、私はお金を自由に持ち合わせがなく、よく先生に奢っていただくことがありました。やがて空襲で焼け野原になった自坊も、徐々に復興の道を辿りつつあった昭和五十年前後でしたか、名古屋の熱田の本遠寺での会合が終わり、当時、講師としてお見えになっていた先生を自坊にお招き致しました。木曽・長良・揖斐の三川を越すと、約三十分で桑名です。桑名の殿様、しぐれで茶茶漬けの民謡じゃないけれど、桑名名物の蛤茶屋にお招きし、蛤料理を召し上がってもらいましたところ、大変喜んで頂きました。そんな想い出を思い起こし、先生でもあり、大いなる兄貴のように思えるお方でした。これをもって、私の思い出を語らして頂きました。まことに有難うございます。
 どうぞ、お願い致します。新間智照先生、お願い致します。
 まず最初に、年譜のことちょっとお願いをします。先日ABCPの方でも偲ぶ会やりまして、その時にも年譜を頂きまして、それから今日も年譜頂きまして、どちらも、あ、これが一つ抜けてるなとか、それから、わたしの手元にあるメモと、ちょっとここ、これ一つ、一年ずれてるなとか、どっちが正しいか調べてみんとわかりませんけれども、そういうところがありますので、ま、いろんな資料突き合わせて、どこかで、正確というか、だいたい、中濃さんに関しては、全部入っているような、年譜を作り上げて頂きたい、そういう必要があるんじゃないか、まあ、立正平和運動全体に対しては、わたしも、年譜を作らんならんと思っておりますし、不完全ながら一度作ったことがありますので、そういう年譜のことが気になりますので一言申し上げました。
 それから、そのABCPの偲ぶ会でちょっと話が出たんですけれども、編集出版をやってる方の話でしたけれども、中濃さんの原稿は大変なんだと、もう、あちこちから、ここにこの言葉を入れる、もう引っ張り回してこう、色々あって、どこがどう続くのか、とにかく推敲の跡が大変で、大変その文章を推敲された、そういうお話がございました。「原稿を書く」ということに関して、わたし中濃さんと一度話をしたことがございまして、中濃さんは、たとえば書き始めたら、その紙で、一枚の原稿だったら一枚の、三枚だったら三枚の原稿用紙で、全部書き終わる。つまり、そういうふうに、推敲をあとでどんどん入れていって、ごちゃごちゃになったのでも、ちゃんとそれが全部自分の頭の中ではわかってると、そういう形で原稿を書くんだと言われてました。いやわたしは違いますいうて、わたしは、書き始めて、こうあちこち推敲しだしたら、途中で嫌になって、もう一回、それを清書して、きれいに書いて、それからまたその続きを書いてということで、三回くらい書き直すんです言うて、わたしは、一枚の原稿に原稿用紙を三枚使いますと言う話をして、二人で笑ったことがあるんですけれども、中濃さんはそういうこと、こう、どんどん推敲して書き加えながら、それがちゃんと全体の文章の姿というか、それが頭の中できちんとわかってて書いてる。わたしはそれが自信がなくなってくるんですね、あんまりこう、あちこちこう、引っ張り回して入れていると、そうすると、もう一度きれいに整理をしなおして書いてみないと、全体がきれいに見えないと、自分で書いててそうです。そんな違いがありまして、注意力の集中というか、あるいは全体の見渡し方というのが、色々違うんだな、いうことを感じたことがございます。以上です。
 ありがとうございました。お願いします、鈴木徹衆先生お願いします。
 ずいぶん色々あるんですが、先生の名誉のためにも、一つ、どうしても申し上げておかなきゃいけないと思ったのは、わたしども大谷派の教化研究所の特別号で、教団、わが「国家と教団」という特集号を、明治から昭和にわたってずっと編集しておりまして、教化研究所で中濃先生の著作を大変に参考し、文献として活用させて頂いておりまして、そのことは教化研究所に代わって、わたしはお礼を申し上げなきゃならないと思います。それからもう一つは、同朋会運動の中で、「同朋」という門徒向けの小冊子、そこにも、先生にお書き頂いたことがあるんです。大変そういう点でですね、教団の、同朋会運動、あるいは教化研究所、そういう上でも、色々なご協力を頂いている点について、教団を代表してるわけじゃないんですけども、教化研究所などに代わりまして、お礼をこの際、申し上げておきたいと思います。またそれから一番重大な問題では、今日資料であとで配られました、同和問題ですけれども、全仏でも、大谷派がまるで同和問題の権威のようになって、まあ引き回している事態がありまして、それから御承知のとおり同宗連が結成される、そういういきさつの中で、ずいぶん中濃先生ともあの、君、今どういう状況だとか、この問題についてどう取り組んだらいいのか、特に日蓮宗においては、どういうふうにすべきかと、うっかりすれば、「同宗連」に入る、「解同」の餌食になるのか、ならずに教団の中立性を守るにはどうすればいいのか、どこにもってったらいいのかと、これ大変苦労されたと思いますね。見事に人権委員会という形で取り組まれ、あの方向性をきちっとされました。で、日蓮宗がとうとう同宗連に加盟しないということがどれだけ大きな影響を与えたかと思いますね。他の伝統教団にとって、これは大きな影響を与えたと思います。で、今のような部落解放運動の到達点を見れば、中濃先生が指摘されていることが見事に実証されているというふうに思います。それからあの最後絶筆となりました、仏教タイムスに書かれました第二回世界宗教者平和会議の時の、中国側との話、北京における会談で、それこそ中国側ではですね、あそこに書かれてありますように、中ソ論争の真っ只中ですからね、中国やソ連の宗教代表も含めて会議ができるなんて、そんなことあなた、できっこないと。いや中濃先生は宗教者としてねばり強く話し合って一致点を見つけ出したいと提案すれば、そんなの甘い甘いと、できっこないと、その空気の中でとうとう中国側を説得して、中ソの宗教代表も第二回会議に引き出した、そしてとうとう退場するなんていうことはなく、両者、最後に満場一致で東京宣言を決議しました。それこそ起草委員会は徹夜の、大変な騒ぎでした。そして閉会総会も遅れるんですね、基調委員会の報告ができずに。でその時もわたしはもうずーっとついておりましたけれども、ソ連のロシア正教会の大司教から、これは拷問だと、(笑)怒られたですよ、寝かせないで。腹が減ったらコッペパンと牛乳でね。これを食べてずっと。そんなことを言われた覚えがありますけども。そんな中で、とうとう一致点を見つけ出した。これはほんとに大変で、先生が今までお書きにならなかったことを、ラオスにおける十回大会の折りに、その寸前でしたから、やはり先生はそのことを書いておきたい、そして我々にね、言っておきたいと、いうふうに思われたんじゃないかと思いますけども、大変あれは貴重な証言だと思います。そして、ラオスにはゲストとして、中国代表が正式に参加し、ABCPの運動に参加したいという意志をはっきり表明されてきましたが、中濃先生はほんとにこれから、先生の願うアジア仏教徒の、交流、連帯、そういうことが発展していく、これから面白くなるという矢先であって非常に残念だったと思いますが、そのご遺志は、新間先生はじめ我々、一生懸命継承していきたいと思っております。(拍手)
 大変貴重な証言、ありがとうございました。他にございましたら、お願い致します。
 石橋行受上人(日本山妙法寺ニューヨーク道場)、どうぞ。
 わたしは、中濃先生とはそんなに個人的に親しく知っているということではないんです。わたしは、一九七八年、国連で、第一回軍縮特別総会が開かれた年に、ニューヨークに行きました。そしてその時にやはり、日本の平和運動というものは、わたしの先輩のお上人とか、原水協の人たち、そして中濃先生がたの力によって、七十八年は、国連において、初めて、軍縮というものをテーマにした総会が開かれ、本当に大きな成果として、総会が開かれたことを思い出します。そして今日も、先生方のコメントがありましたけども、それから、四年後、一九八二年、第二回の、国連における軍縮特別総会が開かれました。その折りに、わたしたち日本山妙法寺の提唱、お師匠様の提唱によりまして、世界平和行進、ワールドピースマーチ、というのが全米、六つのコースにわかれてニューヨークに結集し、その大きな祈りの成果だと思うんですけれども、最終的に百万人集会というものが、あのニューヨークのセントラルパークで開かれ、その時に中濃先生はじめ、多くの方々がニューヨークに来られて、わたしも、みんなと一緒に行進したことを覚えております。この、一貫して中濃先生そして日本山という一つの方針として、やっぱり、「この地球上から原水爆というものを絶対になくさなきゃいけない」という、大きな課題として、今日まで、ご祈念させてもらってきたと思うんです。今日は、ありがとうございました。(拍手)
 ありがとうございました。それでは、事務局を代表して、常岡裕道からご挨拶を申し上げます。
 今日、色々な方面の方々から、色々な角度からの中濃先生のお話を伺えて、大変ありがたく存ずる次第でございます。東京谷中の領玄寺、中濃先生のご住職してらしたお寺は、野の花が四季を通じて、色々と咲いているお寺でございます。皆さんご存じの通りではございますけれど、野の花が野の花らしく咲いているお寺ってのはなかなか、色々お寺を見回してもきれいに咲かせてるお寺はいっぱいあるんですけれども、この領玄寺ぐらいかなと。野の花が野の花らしく咲いている、いつも素晴らしいお寺だな、と思いながら。ただそこにいるご住職が、目がぎょろっとした怖い人だなという感じで(笑)、あまりそばにも寄ってお話もろくにできなかったんですけれども、現宗研の研究員をしておりましたご縁で、今日雑用をさせて頂いて皆様のお話を伺えて、大変嬉しゅうございました。人間が人間らしく生きるための、その道を求める人々が領玄寺に集い、話し合い語り合い、また教えを請い、そうしてきた人々をこう見守ってきた花でありましょうか。今日もその花々に見守られながら、あの写真にも見下ろされながら、皆様が語り合った中濃教篤師を偲ぶ会、とてもよろしい環境でお話ができたんではないかと思う次第でございます。今日、奥様と、そして息子さん、お弟子でもあります教純上人においで頂いております。これから、お話を伺うわけでございますけれども、その前に、あの写真を、記念として贈呈を致しまして、お二人への感謝の気持ちを表したいと存じます。どうぞ、前へおいでください。(拍手)
 では、奥様の中濃達子様、中濃教純上人、ご挨拶をお願い致します。
 皆様から色々お話を承りまして、若い頃からの色々、そばにおりまして、色々思い出しました。結婚しまして五十四年たちます。最近は、俺はこんなに長生きするとは思わなかったって、度々申しておりました。若い頃からあまり、丈夫でなかったもんですから。それでもあの小さな痩せた身体で、まあそうでございますね、集会を二つ三つ回って帰ってまいります。そうしますと、先ほど小田原の遠藤上人がお話ししたように、一杯やるんですね。京都の石田上人がそうあの、好きだからっておっしゃいましたけど、延々と(笑)、二時間くらい、その日の出来事をわたくしに話しますんです。で、自分はそれから寝てしまいますんですが、あたくしは子どもを学校に出さなきゃなんないもんですから、本当は早く寝たいんですけれども、少々寝不足気味になりまして、朝早く起きまして子どもたちを出しまして、ですからあの、子どもにとっては果たしていいお父さんであったか、っていうのがちょっと、今更に疑問に思いますんですが、はい。色々と思い出しまして、何から話して申し上げていいやら、北海道の秋永上人とは結婚する前から、領玄寺におられた時から存じ上げておりまして、いろんなお話がございますんです、はい。それから先ほど、神戸のお上人がお話、年が二歳しか、わたくしもびっくり致しまして、あの十日ばかり前に宗平協でやはり偲ぶ会をやってくださいまして、その時も皆さんから、ああ我々と二つ三つしか違わない、とかっていうお話が度々出まして、若い時から老けておりまして、はい。家庭にありましては、さようでございますね、大変父親似で、はい。あの、黙っておりましたけど、父親の方も黙っておりましたけど、父がわたくしの小学校卒業した年に亡くなりまして、そばのお寺の延寿寺の住職で、ただいま弟が住職しておりますが、わたくしが小学校を卒業した年に亡くなりまして、片づきまして、中濃の父親が、わたくしの父のように思えましてね、大変よく、似ておりますんですね、昔のお坊さんというんですか、はい。黙ってはおりますけれど、大変父親思いでございましてね、亡くなりましてから、時々父親の若い頃の話をしてくれました。不思議なことに、わたくしが三月の三十一日生まれ、中濃の父親も三月三十一日生まれで、中濃教篤自身も三月の三十日生まれで、そこに集まってしまいました。そうしましたら、三番目が娘でございましてね、これがまた三月の三十一日に生まれまして、不思議な因縁をもっておりますんで、はい。それでさっき、前田上人から、あたくしをなんと呼ぶのか、という(笑)お話が出ましたが、おい、とかなんとかじゃなく、君って呼ぶんですよね。今更ここでそうお話するのも恥ずかしいんですけど、おい、とかなんとか呼ばれた覚えがないんです、はい。で、子どもの手前はお母ちゃんとかってあたくしのことを申しますんですが、一貫して、君、でしたね。年とってきますと、お、あの、なんて呼びかけるようになりました。で、平和運動に専念致しまして、先ほども、日本山の藤井上人だの、それから他宗のお偉い貫首様方と交際致しまして、わたくしも、当時なんだかわけのわかんないままお泊まりになったお上人だとか、他宗のお偉い御前様とかと色々お話しまして、その時に、お泊まりになった時にちょろちょろっと長男が出てまいりましてね、遅いお子持ちですねと(笑)、言われたことがございますんです。俺、遅い子持ちじゃないよね、割合早い方だよね、って、先日の宗平協の皆さんのお話にも、そのお話が出ましてね、まさか二歳上とは思わなかったって皆さんがそうおっしゃるんです、はい。それから色々こうやってお話ししますと、色々と思い出しますんですが、俺はこんなに長生きするとは思わなかったって、去年あたりから、申し始めましてね。三年前にこちらに住職を譲りまして、そのあと病気がわかりましてね、肺癌っていうのがわかりまして。我こそは日蓮聖人の弟子である、それが根本に胸の底にありまして、まるで日蓮聖人の直弟子のようなことを(笑)申しますことがございました。そしてその頃からなんか、死生観というものでしょうか、ある程度はあの、自分が弱いし、病気がはっきり致しました時には既に何かをもっておりましたんですね、そして段々に病気が激しくなりまして、幸いに、いい先生に見て頂けまして、そしてその時に、わたくしもそばにいたんですが、先生、病気になってから死生観が変わりましたって、内容はどうだかちょっとわからないんですが、たぶん、日蓮聖人の弟子として死ぬっていうことは、平和運動のもとに死ぬっていうことは、あの、承知しておりますんですが。皆さんご承知のように、で、まあ、いよいよ少々おかしくなりました時に、ちょっとそのようなこと、わたくしにちらっと申しましたんですが、だいぶ悪くなりました時、今の内閣が有事法を決めまして、今の若い人たちは何故立ち上がらないんだろうか、って一言わたくしに申します。有事法ってのがなんだかわかってんだろうかって、わたくしに申しましたんです、はい。そのあたりの気持ちが、自分が丈夫だったらABCPの三月のラオスの集会にも出たんだろうと思うんですけれど、ちょっと顔つきも寂しく、その話が出ますと寂しそうな顔をしておりまして、そのうちに病気が激しくなりまして、これ以上の治療ができないと先生方に言われまして、ある病院に、そういうもう治療のできない患者を預かってくれる同じ台東区に、病院がございましてね、上野駅の前なんですが、そこへ入院させてもらいまして、静かな余生を送りました、はい。で、その間、だいぶ頭ははっきりしてたんですが、少し書いてみたらどうですかって申しましても、ついにペンを持ちませんでした。有事法の問題でもなんでもちょっと書いてみたらどうですかって勧めましたんですが、その気力がなかったようです、はい。それでそのうちに、どうもおかしいっていうんで、皆様にお知らせして、皆様駆けつけてくださいました。宗平協の鈴木先生も、それから共産党の比留間さんだの、はい。現代仏教の小谷さん、毎月いらっしゃいまして現代仏教にのせておりましたんですが、皆さん駆けつけてくれまして、皆さんとお話しているうちは良かったんですが、お帰りになると少々、はい、ちょっとおかしくなってしまいまして、はい。それでも、痛いともなんとも申しませんで、亡くなる時は大変静かないい顔をして息を引き取りました、はい。どうも、色々とありがとうございました。はい。(拍手)
 本日はどうもありがとうございました。今日は父のために偲ぶ会を開いて頂きまして、わたしからも本当にお礼を申し上げます。母がちょっと、最近ぼけはじめてきまして、で今日は、若い時から、父が若い時からよく知ってる皆様が、こうやって来て頂いてますので、だいぶ話が弾んでしまいましたけども、わたしとしてちょっと父の話をしますと、うちの父っていうのは男の子どもがわたしと兄が一人いるんですが、兄はもう、僧階等持ってなくて、一般の俗人なんですが、全然坊さんにさせる気がなかったらしくて、本人にも言うこともなく、わたしもずーっと、もう、会社勤めでいいやと思っていたんです。そうしたら、兄が継がないのがわかったらしくて、じゃあお前行ってこい、って言って、立正大学に入ったんですけども、で、えっと、仏教学科に入りまして、入ったにも関わらずわたしもやる気がなくて、ずーっと遊びほうけていたんです。そしたら急に、お前、お寺の修業をしてこいと、初めて大学の二年の時に言われまして、それからお寺の仕事をするようにしたんです。父としては、宗平協、立正平和、人権問題、その前に現宗研の仕事、等々みんなやってましたけども、その仕事にも就かなくていいと。一切、これをやれということは一切なくて、ずーっと、それこそ、普通の仕事ていうか全然関係ないものをやってたんですが、七〇〇遠忌の時に初めて宗務院に勤めてらっしゃいと言われまして、宗務院の七〇〇遠忌の事務局に入りまして、その時に、石川浩徳上人も護法伝道部の課長さんをしておいでになられて。父は現宗研の所長、で、それまで全然そういう話も聞いたことがないんです、わたし。まあ、帰りがたぶん遅かったんだと思います。で、母にはもう、さっき母が話してましたけども、ずーっと長話をしていたようなんですけども、わたし、兄、一切そういう話、まあ兄の方はいくらか聞いていたようなんですが、わたしはもうそういうの、全然聞いたこともないし、こちらからも聞いたことはないんですけども、宗務院に入って、父が現宗研の所長をやってる、まあ中濃君、親父さん元気でいいね、っていうふうな話をしてくれたんです。その時に初めて、現宗研の所長、現宗研という仕事、それと立正平和運動を父が率先してやってると。で、父の普段の言いぐさっていうのが面白くて、俺は、日蓮聖人は好きだけど今の宗門は嫌いだと、よく言ってました。わたしが遠忌事務局に入ってすぐか、ちょっと前くらいですかね、酒飲むとよく言ってましたけども、わたしが宗務院に勤めるようになってからそういうことは一切言わなくなりましたし、それがまずいと思ったのか、よくわからないんですけども、それでも立正平和の仕事をよくやっていましたし、そういうことに対してはもう一生懸命になるんです。お寺の仕事もそっちのけ、っていうのはいいんですか(笑)、そっちのけで、えーともう、全国から全世界へ行ってまして、わたしのイメージとしては、ずーっとお寺にいない父でしたし、まあ兄もそうだと思いますが、まあ妹もまあそうなんですけども。外の仕事をずっとしてたってイメージが強いんですが、先ほどどなたかお上人様が、お寺のお仕事をしてるような、ってよく言われましたけども、この写真のように、私のイメージとしても、どちらかというと衣を着てる父よりも、こういう背広姿で会議室でいろんな話をしてる姿の方が父らしくていいと思っています。本葬の時に使った写真は、若い時の燕尾帽姿なんですけども、晩年の頃は、もともと猫背で、そいで骨粗鬆症になりましてどんどん小さくなってしまって、台座の上に座っててもどこにいるんだかわからないような和尚さんだって檀家にもよく言われてました。ですので、今度、一周忌の時はこの写真を大きく引き延ばして、これで一周忌の、まあ偲ぶ会ですよね、皆さんに本葬の時のご連絡ができませんでしたので、一周忌の時は皆さんに来て頂いてですね、今日思い出話して頂きましたけども、また全国から来て頂いて、思い出話、好きなこと言って頂いて親父を送ってもらおうかと思ってます。そのためにも、今日はとっても良かったと思います。本日はどうもありがとうございました。今日、現宗研の久住所長、伊藤主任さん、並びに、現宗研の職員さんの皆さん、ほんとにお世話になりました。どうもありがとうございました。今後とも、どうぞよろしくお願い致します。(拍手)
 ありがとうございました。本日の、ご案内を申し上げました、現宗研主任の伊藤立教でございます。よろしくお願い致します。現代史を飾る中濃教篤先生、その先生に連なる錚々たるメンバーのご出席を頂きまして、ご証言賜りましてほんとうにありがとうございました。貴重な資料になりますので、後ほど所報に掲載させて頂きます。また校正の方、よろしくお願い致します。一昨年九月に現宗研主任として単身赴任致しまして、昨年の四月二十四日に石川教張先生を亡くしました。九月に偲ぶ会を開かせて頂きました。ところが、本年四月三十日、一年おいて中濃教篤先生がご遷化でございます。今日、偲ぶ会をご案内申し上げました。現宗研が、ある意味、転換期と申しますか、根幹に関わる問題を抱えている時期に、なんとかお手伝いをしようと思ってきましたんですけども、生みの親である二人の先生が相次いでお亡くなりになって、どうしていいのかわかりません。中濃先生は、原則は原則、お付き合いはお付き合い、と非常にお坊さんらしい方で、お葬式の席でも、あんなにたくさんのお坊さんが、みんな先生を偲んで、そして増円妙道を祈って頂いた姿を見て、坊さんらしいなあと思って、ありがたかったです。わたしと先生とのお付き合いは、家内が紹介してくれました。家内の方が先輩なんですが、平和運動の関係で紹介してくれた時からのお付き合いなんですけども、家内がお葬式にお邪魔できなかったもんですから、お葬式が終わりましてから二人でお邪魔しました時に、奥様が、先生の小さな位牌の前でおっしゃったことがあります。京都へ行くご用があって、お友達の会合でしたかご本葬でしたか、の時に、今年のことですから、お身体が弱ってらっしゃるので、奥様に、京都へ行きたいかと、おっしゃったそうです。家内がそれを聞いてびっくりして、先生はご自分が行きたいのに、奥さんに、お前行きたいかとおっしゃった、おちゃめな先生らしいなあと言って、その時にもう涙が留まらなくなりました。坊さんとしてのあたたかさと、矜持というんでしょうか襟を正すところが、先生にはおありになりました。こういう方はもう二度と出ないと思うと、もっとお教えいただきたかったと悔やまれてなりません。先生から、昨年の夏、お袈裟を一肩頂戴しまして、ありがとうございました。三十五年間のご指導を感謝申し上げて、先生の残されましたお教え、良心の灯を守ってまいりたいと思います。精進させて頂きたいと思いますので、先生の後に連なる者として、どうか見守ってやって欲しいと存じます。先生、ありがとうございました。
 それでは、所長が内局会議でまだ戻ってまいりませんので、これで終わらせて頂きます。日月偈とお題目三唱でもってご回向申し上げたいと思いますので、どうぞよろしくお願い致します。
 どうもありがとうございました。
 これをもちまして、「現代と宗教・人権・平和−中濃教篤師を偲ぶ」座談会を終了させて頂きます。お礼申し上げます。ありがとうございました。(拍手)

中濃教篤師略歴(『現代仏教』二〇〇三年七月号・八月号より)
一九二四年(大正十三年)三月、小田原・生福寺で、父・中濃教正、母ソメの長男として生まれる。幼名・秀夫。六窪小学校から、立正中学校卒業。
一九三九年(昭和十四年)中濃教正師について得度。
一九四五年(昭和十九年)五月、第一期信行道場修了。
一九四六年(昭和二十一年)九月、立正大学仏教学科を卒業。権僧都に叙任。前年結成された「仏教社会(主義)同盟=妹尾義郎委員長」に参加、妹尾義郎と知遇を得る。
一九四七年(昭和二十二年)二月、日蓮宗・領玄寺住職となる。秀夫を教篤と改名。
一九四八年(昭和二十三年)十二月、「日蓮宗革新同盟」の結成に参加。機関紙「革新」の編集を行う。
一九四九年(昭和二十四年)四月、「全国仏教革新連盟(妹尾義郎委員長)」の結成に参加。その中心的存在の一人となる。
一九五一年(昭和二十六年)二月、「仏教者平和懇談会=壬生照順代表」の結成に参加。七月、宗教者平和運動協議会の結成を推進。
一九五三年(昭和二十八年)二月、この年結成された「中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会=大谷瑩潤委員長」に、常任幹事として参加。
一九五四年(昭和二十九年)四月、日本山妙法寺提唱の「世界平和者日本会議」が開かれ、その中心メンバーとして参加。この頃、日本平和委員会の役員をつとめる。
一九五五年(昭和三十年)七月、「日中仏教交流懇談会」(会長大谷瑩潤)を創立し、事務局長となる。十二月、「日蓮宗世界立正平和運動本部」委員となる。
一九五六年(昭和三十一年)八月、「第六次中国人殉難者遺骨捧持団=団長・田崎健作」の秘書長として、興安丸で訪中。
一九五七年(昭和三十二年)九月、「訪中日本仏教使節団=団長・高階瓏仙」の副秘書長として訪中。周恩来総理と会見。天台山国清寺に、日蓮聖人像を奉持。
一九五八年(昭和三十三年)二月、全日仏、新宗連、キリスト者平和の会などによって結成された「原水爆禁止宗教者懇話会」事務責任者となる。
一九五九年(昭和三十四年)十月、全日仏が伊勢神宮特別立法化反対のために組織した「宗教法人専門委員会」委員となる。十月、「国慶節祝賀訪中日本代表団」(団長・片山哲)の団員として訪中。毛沢東主席、周恩来総理と会見し、パンチェン・ラマと外国人としてはじめて単独会見をする。
一九六一年(昭和三十六年)七月、京都で開かれた「第一回世界宗教者平和会議」に参加し、起草委員をつとめる。
一九六二年(昭和三十七年)四月、「日本宗教者平和協議会」(会長・大西良慶)が結成され、常任理事(国際担当)となる。
一九六三年(昭和三十八年)四月、鑑真円寂千二百年を記念した「鑑真和上遺徳奉讃会」結成に努力し、その実質上の事務責任者となる。十月、「鑑真和上慶讃日本仏教代表団」(団長・金剛秀一、顧問・大西良慶)の副秘書長として訪中。周恩来総理と会見。北京で「十一地区国家仏教徒会議」(アメリカのベトナム侵略反対のため)が開かれ、起草委員をつとめる。
一九六四年(昭和三十九年)三月、西川景文、大河内隆弘夫妻と訪中。六月、「日蓮宗現代宗教研究所」創立メンバーの一人として顧問に就任。七月、東京で開かれた「第二回世界宗教者平和会議」に参加、起草委員をつとめる。
一九六五年(昭和四十年)十月、インドネシアで開かれた「外国軍事基地撤去のための国際会議」(KAPMA)に日本代表団(団長・平野義太郎)の秘書長として参加。スカルノ大統領と会見。
一九六七年(昭和四十二年)三月、日本仏教界四十七師(大西良慶ら)による「アメリカの北爆即時・無条件・永久停止と民族自決権の尊重」を訴えた署名運動に参加。五月、権僧正に叙任。
一九六八年(昭和四十三年)八月、全日仏、新宗連、日キ教団などで結成された「靖国神社問題連絡会議」(議長・飯坂良明)の世話人となる。
一九六九年(昭和四十四年)十二月、創価学会の「言論出版妨害問題」追及のため結成された「言論・出版の自由にかんする懇談会」で活躍。
一九七一年(昭和四十六年)八月、「日蓮宗現代宗教研究所」所長に就任。十二月、「アジア仏教徒平和会議」(ABCP)の執行委員となり、モスクワでの会議に出席。
一九七二年(昭和四十七年)一月、パリで開かれた「インドシナ諸国人民の平和と独立のためのパリ世界集会」に日本代表団(団長・古在由重)として参加。四月、スリランカで開かれた「第二回ABCP会議」に、日本代表団(団長・壬生照順)として参加。バンダラナイケ大統領と会見後、インド仏蹟を巡拝。七月、東京で開かれた「インドシナの平和と正義のための宗教者世界集会」に参加、起草委員をつとめる。十月、「日蓮宗事典」刊行委員となる。
一九七三年(昭和四十八年)二月、ローマで開かれた「ベトナムに関する緊急国際会議」に、日本代表団(団長・古在由重)として参加。
一九七四年(昭和四十九年)三月、モンゴル仏教センターの招きで、ウランバートルを訪問。ハンボラマ・ゴンボザップ・モンゴル仏教会長と会談。十一月、インドで開かれた「第三回ABCP会議」に、日本代表団員として参加し、起草委員をつとめ、ガンジー首相と会見、会議後インド仏蹟を巡拝。
一九七六年(昭和五十一年)七月、東京で開かれた「第四回ABCP会議」で起草委員長をつとめる。
一九七七年(昭和五十二年)三月、「アジア仏教徒平和会議日本センター」の結成に努力し、常任世話人となる。同月僧正に叙任。六月、モスクワで開かれた「恒久平和・軍縮・公平な諸国民間の関係をめざす世界宗教者活動者会議」に、日本宗教代表団長として参加。。十月、「核兵器廃絶をめざすNGO日本宗教者連絡会議=代表大西良慶ら」の結成に参加し、連絡委員となる。
一九七八年(昭和五十三年)九月、東京で開かれた「核兵器廃絶・軍縮をめざすアジア仏教徒の集い」で発題。
一九七九年(昭和五十四年)六月、モンゴルで開かれた「第六回ABCP会議」に、日本代表団として参加し、起草委員長をつとめる。これまでのABCPへの功績により、ハンボラマ・ゴンボザップ会長より、メダルを受ける。十二月、日蓮宗現代宗教研究所長を退任。
一九八〇年(昭和五十五年)四月、日本仏教代表団長として、ベトナム、ラオス、カンボジアを友好訪問。
一九八一年(昭和五十六年)四月、東京で開かれた「軍備撤廃・核兵器廃絶をめざす世界宗教者集会」で起草委員長をつとめる。
一九八二年(昭和五十七年)五月、モスクワで開かれた「核廃絶からなる聖なる生命を救うための世界宗教者活動者会議」に、日本宗教代表団の団長として参加し、起草副委員長をつとめる。六月、アメリカでの「第二回国連軍縮特別総会」へむけ、宗務総長特使として派遣される(日本宗教代表団の副団長として)。八月、モンゴルで開かれた「第六回ABCP会議」に日本代表団として参加。ABCP執行委員を辞任。
一九八三年(昭和五十八年)、布教研修所講師。
一九八四年(昭和五十九年)二月、「憲法改憲阻止各界連絡会議」の代表委員に選任される。
一九八五年(昭和六十年)五月、日蓮宗東京北部宗務所協議員副議長に就任。九月、立正平和の会理事長となる。
一九八八年(昭和六十三年)十月、アジア仏教徒平和会議日本センター理事長に就任。日蓮宗人権委員会委員に就任。
一九八九年(平成元年)五月、日本宗教者平和協議会代表委員に就任。六月、アジア仏教徒平和会議副議長に就任。十月、ベトナム・カンボジア仏教代表団歓迎委責任者。
一九九〇年(平成二年)三月、ベトナム、カンボジア訪問、日本仏教代表団長として両国訪問。四月、立正平和本部委員に就任。六月、日蓮宗東京北部協議員会議長に就任。
一九九四年(平成六年)四月、人権対策室顧問。
一九九八年(平成十年)九月、「第六回ABCP総会」モンゴルに、日本代表団長として出席。
二〇〇三年(平成十五年)四月三十日ご遷化。世寿八十歳、法号は「真厚院日輝上人」。

 

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