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現代宗教研究第38号 2004年03月 発行

第三十六回中央教化研究会議 基調講演(二)開目抄における摂折―仏教古典学の立場から

第三十六回中央教化研究会議 平成十五年九月三日=cd=71d4・四日=cd=71d5
基調講演=cd=70c0「開目抄における摂折論|仏教古典学の立場から」
立正大学法華教文化研究所長 伊藤瑞叡師   
司会 先生は討議資料の後半と、先生から頂戴しました二冊の『摂折論の新研究』上、下二巻、これをもちまして、ご講演願います。どうぞよろしくお願いいたします。では三時四十五分までよろしくお願いいたします。
一、摂折という成語の概念
 ㈰折伏に対する無知と誤解と不得要領の例、
 ㈪他宗の学者による曲解と誹謗、知識人の無知と誤解、
 ㈫仏教古典学により摂受・折伏の原語意義を究明する
 伊藤瑞叡であります。この度は、摂折論という本宗の根幹に関わる問題について、お話しをさせて頂く機会を得まして、誠に有り難うございます。私は宗学者ではありませんので、仏教学の見地から、お話しをさせて頂きます。ことに『開目抄』における摂折論を中心に、仏教古典学の立場からお話しをさせて頂きます。
 まず第一に、摂・折という言葉の概念についてであります。
 摂折という言葉の概念を追求するに際しては、本化別頭の思考方法をもって徹底的に分析をする必要があります。
 一般的に、折伏に対する無知、誤解、不得要領、これが宗門の内外にあまねく行き渡っております。四頁でございます。綴じられた別冊がございますが、その四頁をちょっとお開き下さい。一番左の上の方に私流の番号が書いてございます。
 折伏については一般の世間の人々は言うに及ばず、宗門人でさえも、その本来の正当な意義を理解している人は、それほど多くはないようです。仏教辞典のいずれも、他宗門の学者の手になるもので、稚拙なものです。信用にたえないものです。
 一つには折伏について無知の例があります。折伏は、大小乗の経論に通ずる十善戒のうち、第六の不悪口戒に反するもので、柔順でない悪口であり、軟語でない麁語であると見たり、第七の不綺語に反するもので、他者に対する尊重の念を欠く綺語であり、相手を饒益することのない無義語であると看做したりすることです。かかる理解は、まちがい、無知の例です。
 二には誤解の例です。大乗戒の独特の戒条を組織したものが、『梵網経』の十重四十八軽戒でありますが、折伏はその十重禁戒のうち、第七の〈自分を讃め他人を毀ってはならない〉という自讃毀他戒を破戒する、我田引水の自讃毀他の口業であると考える。これは、誤解、謬語、謬解であり、顛倒(ビパリヤーサ)であります。
 その他に不得要領の類がありますが、省略いたします。拙著『新時代の折伏様式』の四頁以下に詳説したところです。第二に、他宗の学者の故意による曲解。他宗の学者に悪意をもって曲解され、それが日蓮宗の教徒にまで喧伝され及んでしまって、誤解をしている例です。他宗の学者の曲解による誹謗、それから知識人の無知と誤解もあります。これは別冊の四十五、四十八頁、すなわち拙著『新時代の四大格言』三七−四六頁に詳しくその事例と批判をあげておきました。是非とも一読していただきたい。省略いたします。
第三に、仏教学的、日蓮学的に、摂受・折伏の原語、意義を究明する必要があるということです。まず拙著の上巻の十三頁をお開き下さい。
 折伏という言葉の概念、コンセプト、それから折伏という言葉の語義概念の持つ諸属性の作用、働き、すなわちコンセプション、そういうものを、明快に確定的に理解しておくことが、まず第一に重要であります。十五頁をご覧下さい。
 問題の所在です。「折伏の法華教学上の意義について、いま一つ、確信がもてないというのが、日蓮門下のいつわらぬ正直な気持ちではないかと推察されます。折伏という言葉の持つ目的合理性について、教学的にも思想的にも、合理的かつ明証的なものとして納得する必要があるでありましょう」ということです。
 折伏という言葉の原語と原意は何か、明文は一乗と自称する『勝鬘経』が出典でございます。よって『勝鬘経』を研究する必要がございます。
 なお『大日経』の第六にもそれらしい言葉があります。時間がありませんので省略いたしまして、『勝鬘経』における摂受折伏について考察をし、聖徳太子撰といわれる『勝鬘経義疏』を参見し、そして応折伏者、折伏すべき機根は何か、それから応摂受者、摂受されるべき機根とは何か。摂受・折伏の原語、サンスクリット原語、その持つ仏教思想の原意、本来の意味、について追求をし、『漢梵辞書』による傍証によって確認をしましょう。また、摂受・折伏の摂受と摂受正法の摂受は全く異なる言葉であるという(ことは、これは仏教学においても宗学においても、一般に常識でございます)ことを明証しましょう。十信十住十行十回向十地、十地の次が等覚で、その次が妙覚ですが、十地を説く十地経およびその註釈における摂折論のもつ全仏教を俯瞰したときの意味をここで明証しまして、最後に結論を明示いたします。
 しかし時間がございませんので、結論のみを、ゆっくりと申し上げます。拙著の上巻の三十一頁です。「以上に明証されたところで確認されるべき要点を適時し、多少の解説を付して結論とします」となります。
 すいません、風邪ひいてるものですから。小生も棚経百二十軒ほど歩いたので、その疲れがなかなか取れなくて、クーラーにあたって風邪をひいてしまいまして、声が、こんな状況でして、申し訳ございません。
 さて摂受の原語はanuugrahaあるいはupakara?です。「(心情倫理による厚意を示して)追随して」相手に随って、「摂益するべく説示すること」です。いわゆる妥協です。これを原意とします。
 =cd=70b6折伏の原語はnigrahaです。責任倫理による呵責です。呵責というのは目的のためです、目的というのは令法久住、法をして久しく住せしめることです。すなわち「目的合理性に適応する真実語」です。正しい真の言葉をもって理性的論理的に批判を示して制止的に(=重悪を止めるべく)調伏する、説得するために説示すること。これが折伏の原意です。
 折伏nigrahaは、「分離・分割・分解・不和・喧嘩・諍論・闘諍・戦闘」を意味するvigrahaとは異なります。分離・分割・分解・不和・喧嘩・諍論・闘諍・戦闘を意味するvigrahaではない点に注意を要します。これを誤解をしてはいけません。
 世の人々ないしは「日蓮を敬うとも悪しく敬う人々」・「或は落ち、或は心ばかりに信じる人々」・「まことのとき約束を忘るるつたなきもの」あるいは「意識的な曲解をなし喧伝する反日蓮主義の世人」は、折伏(nigraha)を喧嘩諍論悪口(vigraha)・雑言麁語なりと謬解し混同して、自らも他をも、ともにマイナス・イメージをいだくにいたっている。
   近頃の問題の由縁は、ここですね、ポイントは、ここにある。折伏という言葉の真の意味を理解していない。理解しようとしない。そして間違ってvigrahaと理解している。本当は折伏はvigrahaではなくて、nigrahaであると説得し、そのように正しくまことを世間に説明する義務がある。本来、日蓮門下にその義務があるのです。
 =cd=70b9しかもnigrahaは、『梵和辞典』には、「論諍に敗北する誘因または原因」をも意味するとあり、モニエルの『梵英辞書』には「ニヤーヤ哲学において演繹推論上の過失」を意味するとありますから、「論理的な矛盾を指摘する」ことを予想する。よって折伏は理性的論理的批判を含意し、意味すると知られます。
 =cd=70ba摂受・折伏の目的は、『勝鬘経』によりますと、ともに令法久住にあり、『法華義疏』によりますと、「悲をもって衆生をして苦因ヲ抜クと共に聖化ヲ久住セシメルこと」を目的とする息悪修善の行にあり、『十地経論』によりますと、「邪論者により菩薩が自法より変転したり他者が引導されたりしない」、自分が外道に陥ったり、或いは他の人々が外道に招かれるようなことのないよう精勤して、その報いとして「菩提を得ること」、それが目的です。
 =cd=70bbは省略して、=cd=70bcにまいります。摂受の働き、作用コンセプションは、『勝鬘経』によりますと、摂受されるべき人を摂受する。『義疏』によると、「軽悪、軽い悪に対して道力をもってする息悪修善の行」であり、『大集経』によりますと、「讃美順説法に因る調伏」であります。『十地経論』によりますと、「摂益なき衆生に財(vastu=適当な物事=世事)を(与えること)をもって摂益」することです。
 =cd=70bd折伏の作用は、『勝鬘経』によりますと、「折伏されるべき衆生を折伏する」こと。「重悪にたいして、非常に重い悪に対して、勢力をもって、すなわち論理的説得力をもってする息悪修善の行」であり、『大集経』によると、「呵責(=とがめせめる)逆説法(=まちがえたるおもいにさからってまことをとくこと)による調伏」であり、『十地経論』によりますと、「外道異論者を(第九地の菩薩が)善慧(法・義・辞・弁才の四無礙智)(法華経では如来神力品の上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩は、この四無礙智を成就する)、四無礙智をもって、調伏する」ことであり、「邪論者により菩薩が自法より変転したり他者が引導されたりしないために、菩提を得るべく無畏なる弁才(pratibahana)無碍智(pratisamvid)をもって邪論者を破折する」ことであります。
 =cd=70be摂受の対象、摂受の対告衆は、『義疏』によりますと、「軽悪なもの」、日蓮聖人のお言葉で転用すると、無知悪人。『十地経論』によりますと、「無益なもの」、どうしようもないもの、摂益なきもの、摂益がまだないもの。
 =cd=e15cよって摂受は、「軽悪のもの」、軽い悪のもの、ないし「摂益なきもの」に対して、その心情(おもい)をくみ厚意をよせて調伏成熟せしめようとする倫理(ともがらのみち)による、と見ることができます。
 =cd=e15c折伏の対象、折伏の対象、対告衆となる衆生、それは「悪業をなす悪律儀のもの、積極的に悪業をなす悪律儀のもの、如来法の律儀を汚辱し清浄禁戒を毀犯するもの」です。『勝鬘経』は一乗ですから、「一乗を毀犯するもの」一乗の法を謗り侵すもの、それが折伏の対象。『義疏』によりますと、「重悪のもの」、日蓮聖人のお言葉で申しますと、「邪智謗法のもの」倫理的指数が低く、知能指数の高いもの、すなわち我執の強いもの、我慢偏執の輩であり、『十地経論』によりますと、「外道異論者たる邪論者」であり、それが折伏の対象であります。『大日経』によりますと、「悪趣の因に住する者(=悪趣の因を有する衆生)であり、『極楽願文』によりますと「邪説(をもつもの)」であります。
 =cd=e15cよって折伏は「悪律儀をなし悪趣の因に住する重悪の邪論者」、「邪論者に引導される人々」に対する「菩提を求める(=上求菩提下化衆生の自行化地をなす)菩薩」の責任としての倫理によるものである、と知られます。
 =cd=e15cしたがって重悪の邪論者(一乗を毀謗するもの)に摂受で対応すること、すなわち重悪の邪論者、一乗を謗り一乗を捨てせしめようと努力してるものに摂受で対応することは、自他共に邪論に誘引されて退転することになり、自行化他の責任倫理を放棄するに等しいことになります。折伏の要用たる所以はここにあります。
 =cd=e15c対告の衆生が応摂受者であるか応折伏者であるか、それぞれの場合(時節・機根)において、正・像・末の三時、その機根において弁別する要用が必然でありますから、摂折論(anugraha-nigraha-va=cd=ab29da)の問題には、已に時機観の問題が含まれている。
   したがって摂折の問題を考えるときには、正法・像法・末世法滅の時代かいなかということが問題になります。日蓮聖人はそこに力点を置かれております。
 =cd=e15c折伏に関して『十地経論』に「菩薩にとって菩提を得ることのできない過失の第一は、菩薩が最後に菩提を得ようとして、菩提を得ることができない過失、それは邪論者に対して折伏をなしえないことである」と註釈されています。これは、『華厳経』の思想です。法華経の寿量品に久遠実成の釈迦牟尼仏が「久しく業を修して得るところなり」とある、「久しく業を修しての業」とは、実はインド仏教(世親の『法華論』)では、実は十地なのであります。したがってこれが法華経に適用できるということです。菩薩にとって菩提を得ることのできない過失の第一は、邪論者、邪な論をなすものに対して、折伏をなさないでいることだということです。折伏は、第九地の菩薩にとって、菩提を得るために欠くべからざる究極第一の必要条件たる根本徳目とされている点は、最重要です。
 =cd=e15c=cd=72c6『大日経』のシナ訳において、「折伏するために(はたとえ)麁語を現じても、すなわち悪口を言っても、よい」ということを述べています。麁語を現じても、それは十善業道の離悪口戒から除外される、と見ております。
   したがって弘法大師は、「法華経は大日経に相対すれば…其理は戯論の法、無明の辺域也」と、折伏のつもりで、これは真実と論理に反した主張、すなわち悪口麁語をなしています。悪口麁語でも、『大日経』のいう折伏は、悪口麁語にならないという主張ですからこうなるのです。日蓮聖人の折伏とは全く違います。
 =cd=e15c「摂受折伏」の摂受の原語・原意・目的・作用は上記の如くであり、『義疏』によると、摂衆生戒に属して衆生を対象とします。これポイントです。摂受折伏の摂受は衆生を対象として、摂衆生戒という戒に所属するのです。
 =cd=e15d「摂受正法」という言葉がありますが、「摂受正法」は原語をsaddharma-parigrahaとします。摂受(parigraha)は「護持(正法)」の護持とも訳されます。すなわち受持を原意とします。摂受正法の場合は、正法を護念して忘失しないこと。『義疏』によりますと、摂善法戒に属して正法を対象とします。正法が対象なのです。サッダルマが対象なのですよ。妙法が対象なのです。
 =cd=e15d摂受折伏の摂受と摂受正法の摂受とは、訳語は同じでも違う。訳語が同じでも違うということは、これは常識として、仏教の教相を学ぶものはみんな知っていなければならないことであります。徹頭徹尾の分析の要があって、ここで原語を示したということです。
   よって、摂折の摂受と正法の摂受とは、シナ訳語として、摂受とあって、それが同じでも、原語・原意・目的・作用・対象を異にすると知られます。
 =cd=e15d法華経においても、摂受正法(saddharma-parigraha皆護仏法、護持正法)の摂受と摂折の摂受とは、意味の異なることは明瞭なことであります。
 =cd=e15d『十地経論』では、折伏の主体となる智のレベル、折伏をする主体となる菩薩の智慧のレベルが明示されます。創価学会のかつての折伏にはこの智慧のレベルがない。私どもにもないかも知れません。
   空海の悪口折伏は、日蓮聖人の善慧(による)折伏とは違い、我慢偏執、邪智による謗法であります。加うるに、善無畏・一行は、本文寿量の文底に秘して沈め玉ふ所顕の三身無始の古仏を盗み取りて己が家の大日如来本地の身と為して(彼の経所説の印真言等の事相を以て之れを荘厳し)、而して天台所弘の法華経(に対して顕密事理の異を弁じ法華経)を下して反りて略説但理秘密の教と為したのですから、邪智謗法、うたがいなし、でしょう。
   折伏の主体となる智慧のレベルは第九地の菩薩の善慧なる四無礙智とされてる点は重要です。
 =cd=e15d法華経で申しますと。けだし四無礙智は、常不軽菩薩品に説かれる常不軽菩薩の取得する六根の意根に含意されます。常不軽菩薩は二十四文字の略法華を修行して、増上慢の四衆、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷という増上慢、すなわち邪智謗法のものに対して略法華の二十四文字の言葉をもってする折伏、身では摂受で受ける。口業折伏・身口摂受といわれます。……言葉は折伏なのです。本当のこと、すなわち妙法を直言しているのですから。常不軽菩薩はその修行によって、最後に六根清浄を得ます。その六根清浄の最後の意根清浄の実体的内容は、四無礙智であります。
 =cd=e15dこれは同時に、法華経の地涌千界、地涌の菩薩の根本属性でもあります。本化の菩薩の功徳、これも四無礙智であります。法華経で期待されている菩薩行を予想せしめているのです。ここの所が要注意です。
 以上によって、摂受・折伏の原語・意義、仏教学的・日蓮学的な意味を重合して説明申し上げました。
 『法華文句』の七によりますと、釈尊の転法輪(ダルマ・チャクラ・バルティン)とは折伏であると知られます。すなわち「転とは此の法を転じて他心に度入し、彼をして悟りを得しめ六十二見を破するを以て乃ち転法輪と名く」とあります。
 『記』には「輪とは摧碾を以て義と為す」、「縦ひ若し未だ見思の破らざるも所聞の一句、了因の種子と成る。種を納れて識に在かば永劫にも失はざらん(=納種在識永劫不失)」とあります。
 また『毘奈耶』には、「=cd=22cd無後世の外道を降伏するに因って、仏、比丘の外輪を学ぶことを聴し玉ふ。……一日に於て三時を分ち初中の二分に仏経を読誦し、晩に至って外書を読むべし。……外道を降さんが為の教にして、其の(外道の)見解に依ることを許し玉はず」とあります。
 日蓮聖人曰わく、大法を弘るの法は一代の聖教を安置し、八宗の章疏を修学すべし」とあります。
 それから龍樹、天親、天台、妙楽善慧による折伏を主働しました。龍樹菩薩及び弟子のアーリヤデーバ、中観学派、『中論』、これは破邪の書ですし、『百論』の百(シャタ)というのは、異見を破折する意味であります。中観学派が、天台の空・仮・中の三諦の典拠である『中論』を説いた。その龍樹は、観察(パリークシュ)をして、そして間違いを否定(プラティシェーダ)するという、折伏という言葉よりもっと強い言葉を多用します。
 それから唯識学派の天親菩薩の『唯識二十論』、『唯識三十頌』。『三十頌』は顕正論だけれども、『二十論』は初めから全部破折の破邪論です。ただ私どもには、破折する力あるかどうか分かりません。四無礙智を獲得しようと努力してないのですから。というふうにも考えられます。
 こんどは、上巻の五−六頁です。拙著『新時代の折伏様式』の中で折伏に対する定義を列挙しています。
肆、祖書における折伏の真義
  ㈰折伏の目的は弘法(正法を弘持する)にあり受持にあり。
  ㈪折伏とは仏説にして私曲に非ず、単なる布教手段にも非ず、仏法修行(すなわち知恩報恩の妙行ないし懺悔滅罪の戒法・転重軽受を含意する)の大事なり。
  ㈫邪智謗法の者の多き時は折伏を先とす、常不軽品の如し。これが問題になるだろうと思いますんで、あとでゆっくりと究明いたします。
  ㈬末法・謗国・逆機を対象とする。折伏の対象は、時節は末法、国は謗国、機根は逆機、逆縁の者を対象とする。過去の重罪を招き転重軽受する滅罪の修行にして、三類の強敵有るべし。
  ㈭大慈による下種の修行にして、因謗堕悪必由得益を生む。
  ㈮仏法を学び邪義を責め謗法をくだくことなり。
  ㈯「諸経は無得道、法華経独り成仏の法」と音も惜しまずよばはる(南無妙法蓮華経とよばはる)ことなり。南無妙法蓮華経と唱えてですね、太鼓を叩いて平和行進する。折伏ですこれは。摂受ではございません。
  ㉀私に云く、用玄義に云く、情を破し教を廃し理を開し行を会すること、開会のためのは破廃、すなわち理性的批判主義なり。
  ㈷末法の今の世に摂受を行ぜん人は失ありて悪道に墜ちる事疑なし。
  ㉂今の世に折伏せざる出家は蓄盗法師なり。
  =cd=e152しかし私に門註すべからず人目に見すべからずして別付嘱の妙法華経を取り次ぎ給ふべし。
 伍、折伏の教学的意義。
  ㈰折伏とは逆化の修行、化儀なり。
  ㈪折伏とは本化の菩薩の下種の化導なり。
  ㈫折伏とは六識(随喜か瞋恚か)を対象として、八識アーラヤ・ヴィジュニャーヤ(元品の法性か無明か)を起動せしめ九識に化導する(性種に対する乗種の)下種の妙行なり。以上ないし以下は、充分に説明した書物を刊行しているので省略といたします。そのような意味もあるのかと思っていただければと存じます。
 陸、末法の行軌として折伏の核心とは何か、これはまた後でお話しします。というようなことで、摂折という言葉の概念について、一応申し上げました。ということにさせていただきます。
二、開目抄の摂折論
 ㈰仏教古典学の学的方法、
 ㈪論提、問題の所在、原文の分析と論証と図式化(省略)、
 ㈫常不軽品のコトシ考、
 ㈬結論の提示
 二番目に開目抄の摂折論ということですが、師父は磯野本精先生の門下でございました。私は父から磯野本精先生の古典宗学を学習するという学風を逐一教えられた思いでございます。そういう立場で、あるいはそれが偏見か何かになっているのかも知れませんけれども、そこで通仏教全般に渡るのみでなくして、古典学という広い文献学的視野からものを見ていかなければならないと深く反省したのであります。よって、日蓮聖人のご妙判、御書の中でも、いろいろなものを全部拝読していかなければいけない、と思いおります。
 上巻の第二章は、常不軽品の摂折論です。但行礼拝は摂受なのか、折伏なのか原典をもって解明するということです。天台智者大師の常不軽品の解釈、妙楽大師の安楽・不軽の十別解釈、常不軽行は原典ではどうなのか。常不軽行の逆化次第、法華経における逆化折伏の意義、結論ということです。ここで一応不軽品については解明したつもりです。
 それから問題になるのは如来滅後五五百歳始観心本尊抄の摂折論であります。折伏を現ずる時は王となって愚王を誡責し、摂受を行ずる時は僧となって正法を弘持するという、二十七字の意義、これを徹頭徹尾、先師の考え方はどうだったのか、私の見るところ考えるところはどうなのか、弘持正法の摂受と、摂受正法の摂受との異なり、本尊抄の摂折論の解釈の可能性、その二十七文字に対する従来の諸見解を整理整頓する。従来の伝統説の論理的な構造を分析して評価する。そして、私見として私の仮説ということでありまして、二十七文字の摂折論、本尊抄の摂折論については時間がありませんから、説明いたしません。この部分を是非ともお読みいただきたいと思います。
 それで二番目の開目抄の摂折論にまいります。下巻の書物を用います。
 ここでは立正安国論は摂受なのか折伏なのかという問題も出てくると思われます。論の文意、第一章では論の文意、勘文の奏進は大聖人が立正安国論を柳営に献じた。この実践的行為に思いを致して、すなわち勘文の奏進は摂折のいずれなるかを論明するということです。立正安国論の奏進は諫臣聖人による勘文折伏として諸義あることを論明する。これはずっと論明してあります。お暇な時にお読みいただければ有り難いことです。
 第二章、開目抄の摂折論に移ります。法華経の行者は摂受を前とするか折伏を前とするか。折伏は悪を除くは親の徳なりという、大慈悲によるものが折伏です。除悪親徳の大慈。法華経の行者は摂受を前とするのか、折伏を前とするのか、そのいずれなるかを解明する。それが第二章であります。摂折の義趣を明して、日蓮聖人のこの開目鈔における摂折の義趣、意味の赴くところ意味、義はコンセプト。義趣はコンセクションです。摂折の義趣を明して、常不軽品のごとしの有無に及ぶ。常不軽品のごとしというのは、問題として提起されていますから、それについて私見を述べます。
 そこで、私の仏教古典学の研究法、学問的な観点と方法について、少しくお話します。古典学の仏教に於ける観点と方法について、反省すべき事があります。下巻の二頁の二行目文学系の分析は云々というところです。
 文学系の分析は、定性分析という、定性分析に傾向する。ものごとを美醜・好悪・愛憎などによって、叙情的かつ感情的に判断しがちである。私も人文系ですから、そういう傾向強い。好き嫌いとか、自分のもっておる潜在的な観念が元になっているということです。物事を美醜・好悪・愛憎などによって叙情的に感情的に判断しがちである。すなわち主観的精神状態(注意の粗漏、記憶の誤謬、偏見、迷信、先入観、執情、利害関係の影響)を主因として、観察上の誤謬をもたらしかねないものであります。
 この定性分析において、主観的な先入観がある時には、反対の事実を看過するばかりでなく、全く存在しない事実を錯覚として知覚することさえあり得ます。偏狭で独断的な思想をどこまでも固執することが、誤謬を生ずる所以となってしまいます。要注意です。
 理科系の分析は、定量分析。客観的な数値による冷静な判断、しかし定量分析は、計量文献学や判別研究などの手法によって、書誌学・文献学・成立論などにおいて量的なるるものの分析に適用されますけれども、文献の内容や質的なものの研究に適用するにはちと困難です。
 したがいまして、文学的内容分析や思想研究が、確実にして明証的な知識を補足するものとして実行されるには、定量分析を念頭に置いて、定性分析の弱点を克服する方法を追求し適用するべきであります。
 定性分析の落ち入りやすい弱点は、単純枚挙による誤謬、軽率な概括の虚偽、すなわち「一部分の事実を観察して直ちにこれを全部の事実とみなす誤謬」、これを注意しないといけません。
 これを克服するには、戦後の社会学の最高の成果といわれている、パーソンズの社会システム論でいう、構造機能分析を適用して、思想内容の論理的構造、その機能としての理念的意趣を把捉することを目的として、それに合目的々な分析に努力する必要があります。
 それからもう一つ。同じものを見て、あるものを見ても見ようとしない。見ても見えない場合がありますね。自分の潜在観念。また、同じものを分析しても、正確に理解し得ないという場合があります。正確に理解するためには、言葉が、文章が対象ですので、言語分析の方法を用いるべきだ。戦後、言語分析の方法が発達したのです。
 ですから、人文系の学者は、言語分析の手法をなんとか自らのものにする必要がありましょう。言語分析の方法である構文論的関係、語用論的関係、意味論的関係に分析して、幾何学的立体の三次元の関係に類似している言葉の現象の全体として総合する、という方法が有効であります。
 また記述的な観照を要します。すなわち各要素を見分け区別するという理解をもってする解釈学を要するのです。
 根本概念について本質的と偶有的との諸属性を弁別し、概念の内包と外延とを確定し、内容を判明かつ区別を明晰ならしめ、概念の上下二位の包括関係を分析するべきなのです。これが古典学において望まれます。
 さもなければ、いつも不毛の議論をして結局、事実としての真実に到達しないで、しまいます。というようなことで、私の開目抄の読み方は、今、申し上げましたような立場から拝読し研究し分析し総合した結果として結論をお話し申し上げます。以上、仏教古典学の学的方法論について少しくお話しをいたしました。
 では下巻の五十六頁をお開き下さい。
 論題でございます。開目抄の摂折論です。法華経の摂折観はまずいですね。観は。観はヴィパシュヤナーです。観はまずい。ヴァーダ、論です。十乗十観の観法の観は、一心三観によって円融三諦を…。諸法実相の…、観は…。開目抄の摂折論、論に直していただきたい。法華経の行者は摂受を前とするか、折伏を前とするか、そのいずれなるかを解明する。開目抄の摂折論。これが論題です。摂折の義趣を明して常不軽品のごとしの有無に及ぶ、ということです。はじめに、山川博士の科文を示しておきました。山川博士よりも、もっと詳しく研究しますよ、というと山川先生に怒られましょうが。山川先生を超えなくては、とかなんとか野心をもっての研究です。山川先生だけではありませんが、先師の科段を挙げました。本当に心を尽くして勉強された先師の方々の研究は、尊重するべきです。先師の方の智慧を拝借しながら、また自分の新知見をということで研究をいたした結果です。
 さて八十九頁です。先師の方々の主張で、共通点はどういう事かと申しますと、開目抄の要点は、「日蓮聖人自らが末法の法華経の行者であり、その現前の主師親たるを明かし、大慈折伏を前とする、(過去の謗法を脱する)自行、(他者の悪を除くという)化他の功徳を論明する」ところにあります。私どもの先師先哲が、開目抄の主要なテーマを、そのように理解されているのです。これは正しい、さすが私どもの先師だ、と思っております。
 さて一々文々全部検討し論証した結果を百五十五頁以後にまとめました。論証を一々読みますと、時間がかかります。色々な先生方のご意見を聞いた結果、「常不軽品のごとし」という言葉をどうしたらよいか、という問題もあります。
 そこで百五十五頁です。さて開目抄の日乾本は、日乾聖人自らが弟子の写本を真蹟と対校したもので、写本としての価値が高いものであるということです。
 その写本に於ける「常不軽品ノコトシ」には傍線があり、「御本ニ無」と傍注されています。
 これは乾師の対校したときの筆であるという所見が一般であります。
 しかし立正安国会会長の片岡邦雄師は、書簡をもって私に「乾師の筆に非ず。他筆也。想ふに一致・勝劣の論叢の際の加筆か(更考)」と教えて下さいました。再考の余地ありということでしょう。
 さて山川博士によると、小川泰堂居士は明治五年に直蹟でなくて、真蹟でございます。間違っております。お許し下さい。真蹟を対照し異本点を示しているとのことです。
 山川博士は『開目抄講話』・『開目抄の研究』において、泰堂居士の異本点と、稲田海素師の乾師本対照本とを、主たる対照異本として考察していますが、「常不軽品ノコトシ」については、書誌学上の注意を明記していませんから、泰堂居士の真蹟対照上の異本点には何も註記されていなかったとも、そして真蹟にも実には「常不軽品ノコトシ」とあったのだ、とも推定されましょう。
 もし真蹟に「常不軽品ノコトシ」を欠いていたのなら、欠いていることを無視して、それをあることにしたのは、泰堂居士か山川博士のいずれか、ということになります。それはコンテクストの上でも意義の上でも、あっても然るべしとする潜在観念のしからしめたところなのかもしれません。
 しかし泰堂居士の拝照した真蹟には実には存したのかもしれないのです。それにつけても明治八年の真蹟御本の災失は、まこと、悲痛事であります。
 しかし看過されていた、この「常不軽品ノコトシ」の存欠の問題が、立教開宗七百五十年を目して、日蓮宗勧学職にして立正大学名誉教授の今成元昭博士によって提起されたことは、まことに時宜を得た好事ともいうべきであり、真摯に検考すべきものであります。真剣に受け取って考えなければいけないと想います。
 さて、開目抄の真蹟本に「常不軽品ノコトシ」の語句が明記されていなかったしますと、聖人が明記しなかった(ので欠文となった)は何故であるか。何故大聖人はお書きにならなかったのかということが、一つの設問、問題になります。そしてその語句が、後人、後の人によって写本に加筆記入されたのは何故であるか。この二つが問題となります。この疑点について究明したいと想います。
 常不軽品ノコトシという語句を日蓮聖人がお書きにならなかったとすると、何故か。それともう一つは、それに対して後の先師の方々が記入されたのは何故かということです。
 今文、開目抄の文章における大聖人の立場をもって論ずれば、天台・妙楽は迹化前駆の分を守って妙経においてその折伏義を明すのでありますから、それに対して、大経、大般涅槃経のそれをもって論じたのであります。今文における聖人の立場をもって論ずれば、天台妙楽は迹化前駆の分を守って、像法時代の迹化前駆を守って妙経の折伏義を明かすのですから、あくまでそれは大経によった。法華経によらなかった。これがポイントです。
 =cd=70b6聖人は今文において、開目抄において、一往、対告者として迹化天台に与同せる人々を想定している。対告者は天台迹化に与同せる人々を想定して、その天台・妙楽の経釈・章疏に依文しそれに附順して演義解釈(随宜所説)して、真意を示唆して、もって再往、対告者をして、本化日蓮の立場(の除悪親徳の大慈折伏の義)に与同せしめようとしております。
 ところで妙経と大経を相対すれば、天台学・日蓮教学の通念として、二経には主従本末の関係が看取され、妙経は主であり、本であり、大経は従であり、末であります。しかも迹化天台引用の大経は、主に在家の行門・身業・化義の折伏を説くのに対し、すなわち大般涅槃経は在家の人々の行門・身業・化義の折伏を説くのに対して、本化日蓮所用の妙経、妙法蓮華経の常不軽品は、主に出家の(行門・身業・化義の摂受、)身体は摂受、打擲されれば打擲されたまま。貶されれば貶されたまま、出家の行門・身業・化義の摂受、しかし教門・口業、言葉、正しい法を説くという言葉、教門・口業・法体の折伏を説くものでありますから、本化日蓮の折伏義の依経は、間接的には在家の行門・身業・化義の折伏を主説する従末の大経ではありえても、直接には出家の教門・口業・法体の折伏を主説する主本の妙経常不軽品でなければならないのであります。
 でありますから、大聖人は、迹化天台の立場を前提としながらも、真意は本化の立場にあって不軽品をもってする点にあり、それは法華経の行者の行動様式として不軽行を明示するなどする全文脈より見ても自明のことであるから、直接には迹化の分の経釈によってするべきではないのでありまして、したがって「大経ノコトシ」と記述することをさけたのであります。
 =cd=70b9別言すれば、大聖人は、一往迹門の分によってはいるが、密意は本化の立場にあるから、迹化天台の経釈「大経ノコトシ」を明記しないことによって、実は「大経ノコトシ」に相当する本化の経釈「常不軽品ノコトシ」を予想せしめようとしたのである。
 =cd=70baすなわち、開目抄では、迹化天台の分(文)である止観中の大経を引用して釈明するけれども、それは文脈より見て前文に明示せる本化日蓮分(証)たる法華中の「常不軽品」ないし「法華経の行者」の行としての「不軽の但行礼拝」行を示唆しております。
 =cd=70bbしかも今文では「今は天台妙楽の迹を出して難をふせぐ」と告げたのであるから、直接には「不軽品ノコトシ」と記述することは、これを避けて、そのことによって示唆するところの密意のそれを領解せしめようとしており、暗黙の同意を求めているのです。
 =cd=70bcよって、聖人は、今文においては迹化の依文によって「大経ノコトシ」とも、本化の依文として「常不軽品ノコトシ」とも、いづれも明記しなかったのではないか。
 =cd=70bdしかし、随宜所説(bhasya)は「大経ノコトシ」であり、それによって示唆される意趣(samdha)は「常不軽品ノコトシ」であることは、自明であります。
 =cd=70beしたがって、それを明記しなかったのは、別言すれば、迹化の依文により真意として本化の依文を密意、すなわち真意として示唆して、開目抄を拝読する人、対告者をして「常不軽品ノコトシ」を自覚的に領解せしめることを目的とした一種の設問を意味するのではないか。
 =cd=e15cよって、対告として然るべき自覚ある門下後賢のある人は、迹化天台に附順せる随宜所説のもつ本化日蓮の意趣を信受し洞察して、その設問に領解をもって解答して「常不軽品ノコトシ」と記入したのではないか。
 =cd=e15cかくして諸多の先師もまた、それに同意して、記入された写本を今日に現伝せしめたのである、というふうに私は解釈いたします。
 かくして大聖人が「大経ノコトシ」とも「常不軽品ノコトシ」とも明記しなかったのは、今文に、対告者の門下に対して信受による領解を求める設問を含意せしめたからである、と見ることができます。
 そして後賢先師は、門下として対告の自覚に立ち信受をもってする領解による解答として、「常不軽品ノコトシ」と記入加上したのである、とも理解されるのであります。
 私は欠文にされた大聖人の意図も、これを記入した後賢の先師の領解も、それを今に現伝した先師の見識も、ともに適正である、と見るのであります。
 真摯にして訓練された思考を欠く、時代の思潮に迎合する、為にする性急にして軽率なる概括の誤謬をもって、私どもの後賢先師を糾弾する愚かさは、これを厳に慎むべきである、と私は考えます。
 知的怠惰は道徳的怠惰であり、それは倫理的正当性を欠くことになるからであります。
 私どもは、先師の方々の主張の意味を深く考える必要があるのであります。
 開目抄の結論です。摂折論について少し詳しく結論を示します。以上の分析において明証された諸要点を構文論的・意味論的・語用論的の三種の関係より、テーマすなわち変数ごとに分類し、秩序化して要約し、もって開目抄における摂折本の折伏義を明示したいと思います。もって総合し結論とします。
 ㈰まず法華経とは何か。
 法華経とは、教主釈尊が要当説真実と定め給ふたところであり、(随宜所説)宜しきに随って説かれたところの五乗、三乗等の未だ真実を顕わさざるその権経に対して、(正真の意趣を説く)教主釈尊の正(=正法の)言たる(=真実語)実経である。これ以下、全て日蓮聖人のご主張であるということです。カッコして示したところは、論証したナンバーです。
 =cd=70b6すなわち正法を説く正言であり、正法ないし正言とは二乗作仏・久遠実成の二箇を大事とし、寿量品の文底の一念三千の法門・十界互具を深義とする。
 別言すると、一代の肝心たる一念三千(を建立するところの)大綱にして骨髄たる二乗作仏(の教によって示される一念三千=有始生滅の迹因迹化の十界互具)・久遠実成(の教によって示される真の一念三千、無始常住の本因本果の十界互具)を説き明かすものである。無始常住の本因本果の十界互具とは、なにか。これを私どもは理解しなければいけません。檀信徒の人々に、誰もが分かるように、これを説明できなければいけない。果たして私はどうか。
 したがって、法華経は、この法門たる唯一仏乗教を諸大乗経にいまだきかずと領解しない(いわゆる逆縁の)者にとっては、折伏となります。
 法華は四十余年未顕真実で、正直に権を捨て真実を顕わすのですから。折伏の義です。迹化の大経のと違い本化の不軽の善慧折伏(nigraha)は、暴力ではありません。先程申しましたように、悪口暴力はvigrahaです。折伏は、素直に仏の言葉に随って説くことです。一妙三秘の自行化他です。自行化他に渡りての南無妙法蓮華経を説き明かすことです。したがいまして、法華経は、その法門の唯一仏乗教を諸大乗経にいまだきかずとして領解しない(いわゆる逆縁の)人々にとっては、折伏となります。
 =cd=70b9すなわち法華経は、教主釈尊の厳愛慈父の立場よりなされた(正法を説く)正言でありますから、折伏を義とします。
 =cd=70baしかも法華経の勧持品の二十行の偈は、諸仏の未来(末法の)日本国当世を(あらかじめ)うつし給うた明鏡でありかたみ(=遺品=記念品)でありますから、勧持品の弘教(である折伏)は、末法の日本国当世には必然的であります。というふうに理解するべきであります。
 ㈪法華経の行者とは何か。
 法華経の行者とは、「法華経を行ずるもの」であり、「末代に(は持ち難しと説かれる)法華経を持つもの」、すなわち聖賢なる正法の者であり、「大忠を懐いて国のあうやうきを諫め人の邪見を申しとどむるもの」、すなわち智者である。
 =cd=70b6すなわち像法の中に天台が、像法の末に伝教が、それぞれ仏法の是非を明らめしめた如く、「法華経一切経を仏説のごとく読める者」、これが法華経の行者、「勧持品の二十行の偈を未来記とし天台・伝教もよみ給はざる数々の二字を末法の始のしるし、悪世中の金言として読める者」、「勧持品の二十行の偈に示される弘教(をなす者)」であり、「明鏡の経文すなわち(=宝塔品の六難九易)を出して当世の禅・律・念仏者、並に諸檀那の謗法をしらしめる者」、「仏法の是非を明らめしめる者」、それが法華経の行者である。
 しかし「非理を前とする濁世の末法にあっては」非理を前とする、道理が引っ込むのが末世ですね。「非理を前とする濁世の末法にあっては召し合わせなくして流罪におよぶ」から、その「難を忍び慈悲の勝れたることをもって仏説のごとく読む(=忍難慈勝をもって此の法門を申す)」ということは、折伏することです。「(折伏をなす)者」であり、「当時の(悪世に此の法門を申して)責はたうべくもなけれども、未来の悪道を脱すらんとおもい悦びたうる者」、それが法華経の行者だというのです。
 別言いたしますと、法華経の行者とは、「天台・伝教の跡をしのぶゆへに、法華経の(宝塔品の)六難九易を弁えて、一代諸経の勝劣をしり、命を法華経にたてまつり、名おば後代に留むる(大海の主となれば諸の河神皆したがうが如く主の徳をもつ)もの」であり、「弟子の知らぬことを教へる師(の徳をもつもの)」であり、「末法日本国の当世は邪智謗法の者の多き時であるから、壊法者を呵責し糾治して、その悪を除くという親の徳を持ってする折伏を前として、生死をはなれるべきもの」である。
 =cd=70b9主師親の三徳です。すなわち日本国の柱(=王臣、為政者をして国家を持たしめる主の徳)・眼目(=衆生の盲昧をして眼目を開らかしめる師の徳)・大船(=衆生をして生死の大海を渡らしめる親、親の徳)この三つの徳、三徳有縁の大導師でなければならない。それが法華経の行者であります。
 =cd=70baしたがって法華経の行者とは、「謗法を責め諸難を招く、謗法を責めるからいろんな難を招くことになるわけ。謗法を責め諸難を招くにいたる護法の折伏をなす者」として、「末法当世に忍難慈勝をもって此の法門を申すこと」により、「大日経・観経をよむ行者等に敵対なされるもの」であり、「三類の強敵をあらしめ(るもので、蓮華の華果同時なる如く必ず三類の怨敵あるべきものであり)三類の強敵によって、悪口罵詈せられ刀杖を加えられ公家武家に讒奏せられ、御勘気をかほむって数々見擯出と度々ながされ、もって仏語をたすけて仏説を信受せしめる者、仏語を実語となす師」、それが法華経の行者である。
 =cd=70bbよって法華経の行者のみ、「一分の仏眼を得るもの」であり、末法の始め当世日本国に三類の怨敵を、三類の中、謗法人たること最も知り難き第三の(邪智にして心諂曲に未だ得ざるをこれ得たると謂ひ我慢の心充満する)僭聖増上慢(たる聖一、良観等)を見る、それを知るもの」、それが法華経の行者だというのです。
 =cd=70bc法華経の行者の中、妙経、妙法蓮華経に「刀杖不加、頭破作七分など天の守護あり(すなわち法華経の行者をあだするならば忽に現罰あり)」と説かれるものは、「前生に法華謗法の罪なくして今生に法華経を行ずる者」であり、法華経を正しく説くのに「悪口罵詈・杖木打擲、猶多怨嫉などあり」と説かれるものは、「過去に法華経を誹謗した罪が身に有りて今生に法華経を行ずるもの(=今の疾苦は過去の因によって現在の果として在り、今生の法華経を行ずる修福の報果は将来に在り)」であります。これは実は現世安穏なのです。現世は安穏でないのだけども、修福の報果は将来に在りで、後生は善処だから、迫害を受けて身は難をうけていても、未来を期して現世は安穏の心の境地にあるわけです。しかも謗法の世で悪国悪時であるので、諸天善神が世をすて国を去り、これをまほらない、法華経の行者を守らないから、諸天善神による守護のしるしがないからであります。「法華経の行者は守られる」と説かれているのに、守られていないじゃないか、という疑問があるわけです。それに対する答えがこれです。自分は過去に法華経を誹謗したからだ。その罪が今出て、それを滅する機会を得て、そして転重軽受して、修福の報果は将来にありというふうに安忍を観念して法を説くもの、それが法華経の行者である、ということです。
 ㈫開目抄で示される折伏とは何か。解答は次の如くです。
 折伏とは、法華経の行者の勧持品(二十行の偈に示される)弘経であり、不軽品の(但行礼拝として示される常不軽菩薩の)行である。
 =cd=70b6それは「諍ふ心あるによるものではない」、争いを求めてやっているのではない。「道心あらん人(として)、菩提を求める心を持つもの(として)、偏党をすて」、偏った考えを捨て、「自他宗をあらそはず」、「人をあなずることなかれ」、人をあなずってなすのではない、「此(宗々と互いに権)をあらそはず」、当分の教えを争うのではない、「(三類の怨敵なる)人をあだむことなかれ」、三類の怨敵が出てきても、それをあだんだり、恨んでなすものではない、行うものではない、「眼あらば経文に我身をあわせよ」、経文に我が身を合わせて行うのだ、「但(一念三千の法門=本因本果の十界互具を意趣とする法華)経に任すべし」、「法に依り了義経に依り仏説に依憑して華厳・法相・三論・真言等の諸人の義を非なりといふ」こと、「念仏者と禅宗等を無間と申す」こと、これを、常則とする。
 すなわち「私の言を出さず、経釈の明鏡(=六難九易の経文)を出して謗法の醜面をうかべ、其の失をみせしめて、当世の(禅・律・念仏者、並びに諸檀那の謗法を知らしめ)念仏宗・禅宗等を法華経の敵人、一切衆生の悪知識としらしめること」、「(法華経という)亀鏡をもって我が面を見せしめ、論的となることによって我が面を見せしめ、我が非を知らしめ失を知らしめること」である。
 折伏とは、「法華経(宝塔品)の六難九易を弁えて一代諸経の勝劣を知り、宗々の人師の異執をすてて、専ら経文を前として、諸仏は釈迦如来の分身であり諸仏の所化も此土の劫初このかたの日月衆生等も釈尊御子息であると説き、異執(の邪義)を責め、うちやぶって、せめおとして法華経に帰依せしめ、謗法の失をまぬがれしめ」謗法の失をまぬがれしめ「群類をすくうこと」でもある。
 =cd=70b9別言すると、「真実を説く正言(なる法華経)」により、「末代に(は持ち難しと説かれる)法華経を持つこと」、「悪鬼入其身の謗法の者にすかされて悪道に墜ちると、(難かさなるも退転することなく)慈悲をもって申し出す」こと、すなわち「(此の法門を申す)こと」、「大忠を懐いて国のあやうきを諫め人の邪見を申しとどむること」、「世のほろぶべきを見て、しゐて帝をいさめ(頭をはねらる)こと」でもあります。
 =cd=70baまた、「法華経一切経を仏説のごとく読む」=「母があだまれようとも小児に灸治を加える如く、良医が苦しとうれうけれども重病者に良薬をあたえる如くに、忍難慈勝をもって、此の法門を申す」こと、母が小児にあだまれようとも、子供を救うためにお灸を加えること。良医が口が苦くて嫌だ、良医が苦しと憂うけど、その重病者に良薬を与えるが如く、忍難慈勝をもってこの法門を申すこと、「勧持品の数々の二字を末法の始のしるし、悪世中の金言として読む」すなわち「諸人に悪口罵詈せられ刀杖を加えられること」でもあります。
 =cd=70bbすなわち「末法悪世に忍難慈勝をもって此の法門を申(し出)すこと」である折伏は、勧持品の菩薩行の「忍辱」・「真実語の宣説による最上経の顕説」、常不軽品の菩薩行の「堪忍」・「(上慢者に対する)真実なる如来の教の告知・顕説」に照合し、「当世の諸人面を向べからず、非に非を重ね、結句は国王に讒奏して命に及ぶべし」、「三類の強敵(=敵人)をあらしめ御勘気をかほむることによって仏語をたすけて仏説を信受せしめる」ことになるから、勧持品の修行の三類の強敵による数々見擯出、常不軽行の上慢の四衆によって瞋恚軽毀せられるに相当します。
 =cd=70bc(在家優婆塞の行門身業の折伏としては)、優婆塞とは在家です、在家優婆塞の身業は行門で身体的行為の折伏です。在家の優婆塞の行門身業の折伏としては、迹化の天台妙楽の経釈(すなわち大経・止観・弘決・文句・涅槃経疏)によると、末法の今事は破法の悪人あり嶮にして法が翳れるから、正法を護らん(国王、親付の優婆塞の)者は、法を護り大教を弘めるために、元心の所為を取り理を存して、威儀を修せず杖を持して、持戒護法の比丘を擁護するために、破法の悪人を摧伏する(△首を斬る)ことであり、これは在家優婆塞行門身業の像法の天台・妙楽の折伏です。他の経釈(すなわち法華経中流通還迹の陀羅尼品)によると、十羅刹女の頭破作七分を義とする。
 =cd=70bdそれに対して出家の比丘の経文口業の折伏としては、大教・章安釈によると、「真の仏弟子、護法の声聞、道心の者として、慈をもってする親(の徳)親の徳によって、法を壞る者を能く駈遣し呵責し挙処して、能く糾治して、彼等の悪を除いて、(自ら)生死をはなれる、利益あらしめること」であります。(その文証は)(従末の)大経では「覚徳比丘の獅子吼」であり、(主本の)法華経の本門では常不軽品の「一乗(法華経)の行者といわれる過去の常不軽菩薩の一乗の行=略法華経行=但行礼拝行」であります。
 =cd=70beすなわち覚徳比丘にあっては、破戒者に瞋恚をもって害せられるも、獅子吼を作して非法の悪人を降伏することであり、不軽菩薩にあっては、一乗(開権顕実、廃権立実)の行者といわれ(るものとして)、上慢の四衆に軽毀・瓦石をかほるも、信伏随順(=因謗堕悪必由得益)せしめることであります。
 =cd=e15cかくして折伏とは、邪智謗法の者(なる機)の多き時に前とする(べきものである)から、禅・念(=邪智)の両義、国土に充満し、天台・真言の学(=邪智の)者、破仏法破国の因縁を説く破法(=謗法の者の充満)の国である、末法の日本国の当世には、行とするべきものである。(よって、出家比丘の教門口業の折伏として、法華経本門では)常不軽品の(常不軽菩薩の一乗の行の)如し(となる)、のであります。
 =cd=e15cしかも折伏とは、「強盛に国土の謗法を責めるという護法によって、過去の(謗法という罪悪なる業因による宿習の)重罪を、今生に大難(=宿習の苦報=流罪死罪等の値難)として招き出すこと」であり、「護法の功徳力によって、苦報を転重し軽受して滅罪すること」でもある(から、懺悔滅罪の戒法の義を担う)のであります。
 ㈬折伏の対象とは、折伏の釈義と対象とは、
 折伏の対象となる釈義というのは思想です。折伏の対象となる釈義は、「一分経論に依って勝劣を弁ふようなれども、自宗を堅く信受し先師の謬義をたださざる、曲会私情の勝劣をなす荘厳己義の法門」、それが折伏の対象としての謬義であり、「華厳経の教主は報身、法華経は応身」、「寿量品の仏は無明の辺域、大日経の仏は明の分位」等云々と、人々をたぼらかし、寿量品の玉をもてあそばさしめない、いわゆる讒義である。謬義とか讒義が折伏の対象となる思想であるということです。
 =cd=70b6折伏の対象者(対告衆)は、「(三説超過・六難九易による)法華為最第一を信ぜざるもの」、すなわち不信の者である。
 すなわち「貪瞋癡倍増し智解直からずして、仏経にあやまって権実を弁えず」、当分・跨節を弁えず、「仏法によって悪道に墜ちる者迷者」なる謗法の者、「已今当・六難九易に迷い(二乗・一闡提・女人の成仏、久遠実成のある)法華経と、(それのない)諸経との教理の浅深を弁えず、勝劣などをまどへる」ところの謗法の罪苦長劫に流れる者、「天台・伝教に帰せさせ給わざる華厳の澄観、三論の嘉祥、法相の慈恩、真言の弘法」など謗法の失を脱れえない者、念仏者と禅宗等の破法の人、これが折伏の対象となる人であります。
 また「讒義」をなすところの「華厳・真言等の権宗の智者とおぼしき人々」である讒臣にであります。
 =cd=70b9また「寿量品の厳愛の義を具する父なる仏をさげ経を下して本尊にまどえる、蓄に同ずる」ところの(天台宗より外の宗々の)不知恩の者。
 =cd=70baまた「非道を先とする」ところの愚主である。
 =cd=70bb具体的には、過去常住による種(無始常住の本因本果の十界互具)を知らざる脱(即身成仏)をもって互いに権を諍う(天台宗より外の不知恩の者なる)宗々である。
 =cd=70bcすなわち「天台宗の正義を嫉むゆへに実経を会して権義に順ぜしむること強情なる」ところの華厳・法相・三論・真言である。
 =cd=70bd中でも、「一念三千を盗み入れて肝心とするも筆受の相承を泯ぜる」ところの真言家、無始の古仏の教義を一行阿闍梨を語らって真言の義に取り入れた真言家、「一念三千を盗んで心如工画師の文の神とするも影響の軌模を隠す」ところの華厳家、これが折伏の対象である。
 =cd=70beことには「六波羅蜜経の文にまどって、法華経を熟蘇味の般若の中に入れて、教の浅深に迷い、法華経と諸経との勝劣を弁えない」ところの謗法の真言の弘法大師の流れも。
 =cd=e15c破法の人なる念仏者と禅宗等でもあります。
 =cd=e15c要するに折伏の対象者とは、謗法人たる三類の怨敵、三類の中では、謗法人たること最も知り難き第三の僭聖増上慢であります。
 ㈭教主釈尊の法華折伏とは。
 教主釈尊は、前四味では仏果上不説一字であるから法慧菩薩等の弟子であるが、法華経では無師智をもって仏果上自証法を(随自意に)説くから諸菩薩の師となる、その点で折伏を義とすること自明。
 =cd=70b6「四十余年の経々を未顕真実と打消し、法華方便品で略開三顕一して、一念三千、心中の本懐を宣べ給ふ」ことは、合掌して敬心を以て「具足の道」を聞かんと欲する者、(順縁の)者にとっては、摂受となるが、執情あり、おのれの偏見にとらわれている上慢の者にとっては、師徳による折伏となる。
   一妙三秘、自行化他の真実語の説法も折伏となるものと摂受になるものとがあるということです。
   また宝塔品に大菩薩等を御弟子とをぼして(師徳をもって)誓言を説けと諫暁すること、来集の諸仏を皆我が分身なりとなのらせ二仏並座すること、この二事は、仏に随ひまひらせないものにとっては、折伏となる。
 教主釈尊が、宝塔品に遠序として諸仏を集めて我が分身とといて、大会ををびただしくおどろかされたこと、涌出品に近序として地涌の大菩薩を出来せしめて、補処の弥勒をも迷惑せしめたこと、これからはその已下にとっては、折伏となる。
 =cd=70b9また宝塔品に仏来集して、三箇の勅宣、六難九易を示し、一切経の勝劣を定め給ふは、他の諸経に執する者に対しては、折伏となる。
 =cd=70ba三仏が宝塔品において令法久住のために来集して、未来に(破権門理の)法華経を弘め未来の一切の仏子にあたえんとすることも、折伏を義とする。
 =cd=70bbまた寿量品に我始坐道場等を一言に大虚妄なりとやぶ(り久遠実成を顕して諸仏を分身なり迹化他方を御弟子とす)る文、十方を浄土と号し此土を穢土と説くを打ちかへして此土は本土なり十方の浄土は垂迹の穢土となると説くこと、本土はこの娑婆だ。本地はこの娑婆だと説くこと、これは当分の教に執する者にとっては、折伏の義となります。
   要するに「開権(顕実)発迹(顕本)して(本門の)真の一念三千をあらわす」ことは、教主釈尊の法華経における折伏の根本義であります。
 ㈮日蓮より外にたれの人があるとは、
 法華経の行者として、教主釈尊・天台大師・伝教大師は、法華経のゆへなればはじならずとして、外道に罵詈せられても、(開権発迹・破権門理の)法華経を説く、それは折伏を義とする。
 =cd=70b6法華経の行者として、日蓮は、天台(の「異執の邪義をうちやぶって郡類をすくう」という折伏の)・伝教(の「宗々の人師の異執をすてて、専ら経文を前として、責め、せめおとして法華に帰依せしめ、謗法の失をまぬがれしめる」という折伏の跡をしのぶゆへに、法華経六難九易を弁えて、一代諸経の勝劣をしり、命を法華経にたてまつり、名をば後代に留む。
 すなわち像法の中には天台が南山北七を法華の怨敵とし(異執をうちやぶって郡類を救ひ)、像法の末(日本国)には伝教が南都の学者を怨敵とし(専ら経文を前としてせめおとして法華に帰依せしめ謗法の失をまぬがれしめ)、末法の始めには日蓮が三類の敵人(=怨敵)を日本国にあらしめ、法華経の行者として日本国に法華経の大法を顕わすのである。日蓮より外にたれか、その人ありや。
 ㈯慈無くして詐り親しむもの、誰とでも妥協してしまうもの、みんなで渡れば怖くない、それは一闡提のごとくなるものだと。慈無くして詐り親しむもの、一闡提なるものとは、
 邪智謗法の者の多き時である末法日本国の当世にあって、折伏を前とせずに、慈無くして詐り親しむものは、仏法を壊乱するものであるから、仏法中の怨であるのみならず、壊法者たる日本国の諸人にとっても大怨敵となり、自ら無道心の者、自分もやがては道心を失ったものになって、生死をはなれることができない。
 =cd=70b6日蓮が、いかに諫暁すれども、此(=「法華は安楽行品にあるごとく単に摂受を義とするから無間と申すは諍心あるによる」という世間の学者多分に道理とをもう不審・邪難)ををもひすてずにいる日蓮が弟子等は、(信不具足・断善根の)一闡提のごとくなるものである(から、天台・妙楽の釈をいだしてその邪難を)開目抄でもってふせぐのである。
   日蓮がいかに諫暁すれども、諫暁というのは折伏です。日蓮がいかに諫暁すれども、これを思い捨てずにというのは、法華経安楽行品にあるがごとく摂受の立場にあることを意味します。日蓮聖人は無間・禅天魔・真言亡国という、それは諍いの心があるからだという誤解です。それを思い捨てずにいる日蓮が弟子檀那は、信不具足、断善根、一闡提ごとくなるものであるから、そういうものたちに対して、天台・妙楽の台家の立場に与同して、その釈をいだして、その邪難をふせぐために、開目抄を書いている、ということです。
 したがって「謗法の者多く愚主の非道を先(=正法うせはて諸天善神も国中を去れるが故に悪鬼便りを得て国すでに救われなん)とする悪世中に於て、伝教大師の一人計りよめるが如く、能く説いて法華経の実義を顕わすこと」、これ折伏です。教門に普合する「日蓮が強義」である。
 =cd=70b9すなわち「已に二十余年が間、法華経を行じて此の法門を知り難かさなるも慈悲をもって申し出し(今度強盛の菩提心ををこして退転せじ、種々の大難出来すとも、智者に我が義やぶられずば用いじ、と願じ)たる(=折伏をなす)もの」、それは、「日蓮一人」となる。
 =cd=70baかくして「護法の折伏」をなす「法華経の行者」とは、「法華経を仏説のごとく読める者」であり、「法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ刀杖等を加えらるる者」であり、それは日蓮より外にたれの人かある、となる。
 =cd=70bbすなわち「三類すでにあり。法華経の行者は誰ならむ」、「日蓮より外に日本国に取出さんとするに人なし」となる。
 =cd=70bcしかも法華経の行者として、釈尊も九横の大難に値い、法華経の行者として釈迦牟尼世尊も九横の大難にあい、不軽も瓦石をかほり(=不軽菩薩は過去に法華経を謗じ給ふ罪身に有るゆへに瓦石をかほるとみへたり)、天台も疾苦を受けたのは、過去の謗法によるのであり、法華経の行者として、日蓮が罵詈刀杖・数々見擯出を受けるのも、それ(=過去の謗法)によるのであり、今生の脩福(すなわち折伏)の報果、報いは将来に在る。しかし罵詈刀杖・数々見擯出を受けるという身業は摂受なのです。身業の難を受ける、これは摂受です。身業摂受・口業折伏なのです。
 =cd=70bdかくして日蓮聖人にあっては、法華経の行者として、その折伏とは、「日本国の諸人に親しき父母(の親徳の大慈をもつもの)として、念仏者・禅宗等を責めせいして悪を除き、彼等にあだまれ御勘気をかほり流罪されるも、今生の小苦なりとしてなげかず、後生には大楽をうくる(=後生善処)べしと悦び(=現世安穏)、もって(自ら)生死をはなれる、という利益あ(らしめ)ること」であります。
 =cd=70be法華経の行者である日蓮とその弟子は、天の加護なく諸難ありとも、(折伏という護法によって過去の謗法重罪を今生に大難として招き出し、その功徳の力によって転重し、軽受して、滅罪するから、後生には大楽をうけ、自ら生死をはなれることを)疑う心なくば、自然(任運)に仏界にいたるべし、である。
   以上からして、開目鈔の主旨は、「日蓮聖人自らが末法の法華経の行者であり、その現前の主師親たるを明し、謗人上慢・三類怨敵を対象として、大慈(による)折伏を前とする、(過去の謗法を脱する)自行・(他者の悪を除く)化他の功徳を論明する」ところにある、と確証されるでありましょう。それは、折伏正意ということです。摂受は傍意です。折伏正意ということは、折伏だけということではありません。
三、宗義大綱に対する所見
 ㈰宗義大綱は正統(オーソドクシイ)であるべし、不得要領と妥協はよくない、しかし止むをえず、されどヘトロドキシーは去るべし、
 ㈪宗門改造紙の批判を思うべし、薩師の大意、董師の綱要抄、本瑞師の批判を参考すべし、
 ㈫文句・祖書を再読すべし
 三番目に宗義大綱に対する見解です。
 ㈰宗義大綱というのは、正統、オーソドキシーでないといけないと思います。不得要領と妥協はよくないと思います。しかしいまだ議論の余地があるような状況にありますから、やむを得ないところがあるのではないかと思います。宗義大綱は、片山内局の時の作です。師父が伝道部長の時でした。宗門で批判が澎湃とおこりました。それで引っ込めてしまったのです。その時の批判は宗門改造史などに、全部出ております。確認する必要が、現宗研にはありますね。
 ㈪その時には、新居薩師の本宗教義大意なども注目されました。また小林日董上人の日蓮宗綱要抄、そちらの方がよいという異見もありました。在野の学者が非常に多かったことを覚えております。とはいえ、小林日董上人のものに対しても批判がありました。末世法滅の時代は本未有善のもの、すなわち邪智謗法の者が多い。そして本已有善のものすなわち順縁のものが少ない。だから「邪智謗法のものに対して正意として折伏で、順縁のものは自ずから信解を示すから摂受だ」というふうに書き改めなければならないだろう、という磯野本瑞師の主張が強かったと思います。
 ㈫天台の不軽品の疏に云く、「不軽の化する所の者は、本と未だ善有らず(本未有善(だから折伏に決まってるんです、不軽品は。僕も若い時は読み間違って、摂受だと思っていた。しかと読まないといけません)与に下種せんと欲するが故に、大綱を以て強いて之れを毒す(而強毒之)」とあります。
   大聖人の『法華取要抄』に云く「逆縁のためには但だ妙法蓮華経の五字に限るのみ。例せば不軽品のごとし」とある。末世法滅の時代は逆縁の本未有善の者。過去において未だ性種は、乗種たる教としての下種を受けてない。それには元品の無明を激動させなければなりませんから、折伏を要します。逆縁の本未有善のためには、但だ妙法蓮華経の五字に限るのみです。「我が門弟は順縁(本巳有善)なり。日本国は逆縁(本未有善)なり」と、こう大聖人は法華取要抄で示している。
   だから、末世法滅の時代は本已有善、順縁の者、これは傍意として摂受となります。
   一妙三秘の自行化他の南無妙法蓮華経を、経にしたがって、正しく述べれば、本未有善の逆縁者には折伏になりますし、本已有善の順縁の者には摂受になります。
   大事なのは、一妙三秘・自行化他の南無妙法蓮華経を取り次ぐことです。だから、折伏は、お題目を取り次ぐことだと、そういうふうに考えてまいったらよろしいのではないかということです。
四、現代の教化方策としての摂受・折伏に対する所見
 ㈰一妙三秘の自行化他は末法にあっては本已順縁には摂受となり本未逆縁には折伏となる、
 ㈪本未逆縁の邪智謗法の多き末法なれば、折伏正意・摂受傍意となるから、本化の眷属は、末法の行軌としての折伏のケルンを知るべし、
 ㈫しかし、その祖燈を伝へんが為にこそ自己折伏として安忍により信行学を要すべし、
 ㈬自行化他(下種化導)の布教手段化の具体案は、
 ㈭他教他宗・現社会の問題等は成仏の理に違はざれば、且く世間普通の義を用うべし
  そこで四番目に、現代の教化の方策としての摂受折伏に対する見解ということについて少しお話しを申し上げます。
   ㈰本当のところ、一妙三秘というのは、三大秘法そのものは、折伏なのです。なぜかと申しますと、日蓮聖人は三秘をもって三密加持を破折しているのです。真言の破折が最後です。仏法の邪正と申すのは真言宗と法華宗の異目なのです。真言、人間はすぐ真言化します。密教化します。祈祷化する。天台も真言化した。
   一妙導師いわく、「本化破立の正意は東寺・天台の真言の法を破り本門の三大秘密の法を立つるに在り。本化高祖の破立の正意は、真言宗の法華真言理同事勝の邪法を破して、法華経の本門事の一念三千三大秘密の正法を立て玉ふに在り。故に彼の法華真言理同事勝に対して、法華経の中に於て迹本理事両箇の一念三千の勝劣を判じ、彼の真言三秘の邪法を破して、此の三大秘密の正法を立て、彼の金胎両部の小漫荼羅を破して、此の未曾有の大漫荼羅を立て、彼の宗の本尊観を破して、此の観心本尊を立て玉ふ。是れ則ち本化破立の正意なり」(祖書綱要広本第三巻二十三右)、「東寺・天台の真言師を以て公場対論の相手と為して、彼の真言の事相三密の邪法を打破して此の本門事の三大秘密の正法を建立し、彼の金胎両部の小漫荼羅を打破して此の本門未曾有の大漫荼羅を建立せんと欲す。若し此の破立の大事を顕はさば、則ち彼等弥ゝ畏れを為して対決を為す可からずと。故に佐渡以前、破立の大事を隠覆して先づ念仏宗・禅宗等を責め玉ふ」(五十四右)と。要するに、三秘の建立は破邪なのです。教を立てて宗を開くという、それ自体が折伏なのです。それを受けいれる人にとっては摂受です。簡単なことです。というふうに、お考えになるとよろしいでしょう。
   よって㈪本未逆縁・邪智謗法の徒多き末法なれば、正意折伏、傍意摂受となるから、本化の眷属である私どもは、末法の行軌として折伏をどのようにこれから継承していったらよいのか、ということになります。別冊の三頁です。末法の行軌としての核心は何か。
   私どもは已に順縁ですから、摂受となります。しかし折伏の核心(行意)は、大聖人の御立義を示し、もって末法弘通の要法(上行所伝の題目)をお取次ぎすることだ、というふうに思います。十七頁をご覧下さい。
   折伏の核心は、題目をとりつぎ、やがて御本尊をおてつぎし、戒壇をこころざすことにあります。ユダヤ教だって、真宗だって、キリスト教だって、共産党だって、創価学会だって、折伏もどき行なっています。文章をもって行なっています。
   わが折伏の要件は、自行化他ですから、自らを折伏し他を身業摂受するべく自行化他のために、慈室・空座・忍衣の弘経の三軌に住することであります。
   折伏の応用は、四箇の格言の根拠を適正に説明し、四箇格言の現代的意義を、現代の政治・経済・国際関係・平和問題いろいろの問題に即応せしめて、応用工学的に理解を示して、それに対応する必要がありますが、人文宗教としての倫理的理想主義を開示し、仏国土を創造する建設的な提言をなしてゆくことにあります。四箇格言の現代的な意義を考えてまいらなければいけないと思います。五十四頁以後に多少のことを記しておきました。
   しかしなかなか折伏は難しい。素直に日蓮聖人の教学を清らかな信をもって受け、正しい念いを持ってそれを保ち、そして行・学によって、それを理解し、それを説き示し、説得するだけの力が、私どもにはありません。
   ですから、㈫その祖燈を伝へんが為にこそ、守成として安忍を要すことも大切です。すなわち大事なところは、『草山要路』の会註の燈公の跋語にあるように安燃として忍辱して、自分の力を培ってゆくことです。できる範囲で、力により分に応じて、それぞれの立場、学者は学者として、験者は験者として、説者は説者として、医者は医者として、弁護士先生は弁護士先生として、それぞれの立場で、南無妙法蓮華経の五字七字にかなった形で、物事を考え、それに対応してゆく必要があるのではないかと考えます。
   大聖人は、順・逆をえらばず、専ら化他をもって本懐となしたのです。すなわち燈公いわく、「我が祖、不軽の躅を嗣いで之れを弘むる」云々、「信者は之れを唱へて自ら本理に称ひ、謗者は却って毒鼓の縁となる。順逆、殊なると雖も、入理は一なり」云々、「祖燈を伝へんが為に、安忍を示すのみ」云々とあります。すなわち祖燈の五字を伝えるために安燃として忍辱し、そして行学にいそしむことこそ、大切であります。
   では、㈬弘通運動の方策としての具体案を考えたいと思います。三頁です。
   下種化導(自行化他)の布教手段化の具体案。七五〇以降私どもは、折伏すなわち御取次の行を現代弘通運動と解釈すべしです。南無妙法蓮華経の五字七字を取次ぐ運動を、玄題を弘通する運動を、折伏と解釈しましょう。
   また先ず宗名を祖意に随って、法華宗もしくは日蓮法華宗と改称して、驚覚・動執・断義せしめて出直すべしです。折伏即御取次の行を推進するために僧俗の信行学の態度・能力を養成するべく勧信行学運動を提案するべきです。
   宗門の各寺院は財世として受納した収入の一部を法施として転換して続守護法のために支出することをいさぎよしとすべしです。塔婆代が三千円入ったら、千円は法を広めるために使うと考えればよいのだけれども、そうしなければいけないなと思いながらも、そうしないでしまっています。私も。昔は施餓鬼会で入った布施収入はほとんどお会式に用いてしまいました。お会式はだいたいマイナスになるのです。寄付をいただいてプラスになることもありますけれど。大聖人の遠忌ですからね。宗門の各寺は財世として受納した収入の一部を法施として転換し、続守護法のために支出するべきなのです。
   各地に求法講院を開設して信行学を勧持し、各寺に月例として法華十講会を開催して諸人を説法教化し、口唱妙行会を勤修して壇信を化導し、加持祈祷会を奉修して有縁者を誘引すべし。法華十講会が各寺で行われるべきです。但信口唱のお題目の修行をする、本当の化導を要します。有縁者は加持祈祷会で誘引すべきでもあります。
   更に玄題弘通を展転推進するために、三つの運動を提案します。三十頁をご覧下さい。玄題弘通を展転するために、「教誌無料配布運動」、無料で檀信徒に配布する教誌、これ必要。持続的な教誌無料配布運動が必要です。
   闔宗の壇信を団結せしめ活性せしめるために「聖跡登詣参拝運動」。毎年大聖人の御廟所にお参りに行く。檀信徒をつれて。過疎寺院を救済保全するために「宗門諸寺互助」運動も必要かもしれません。
   重ねて更に法華霊場巡礼運動も提案したいと思います。
   また折伏としての施本運動、などといっても、私自分の書いた本でさえも、檀信徒の方々に配布するかというと、惜しんで配布しません。だめですね、そういうの。簡明で、非常に勝れたよい本を、檀信徒に無料で配布するような運動、施本運動をするべきです。
   御会式万灯必起運動。御会式の時期が来たなら、必ず万灯をお寺の前に立てておこうということです。クリスマスになると、銀座でクリスマスツリーがたっている。だけど、私どもの寺に万灯が立たないで、子供の部屋にクリスマスツリーなどのあるお寺があるかも知れません。だから、万灯を起てて日蓮聖人の四大聖事・四大法難の絵を画いて宣伝する。町並の風習にする。十月、十一月になると、万灯が各寺に立つ。一週間ぐらい立てておく。雨風に吹かれてもよいようなものを作る。日蓮宗のお寺の万灯が一斉に立つ。一天四海皆帰妙法って書いてある。それ折伏です。「お会式桜」というのをつくって、各家に供養してもらう。御会式になったら、軒先じゃあ無理ですから、お仏壇にあげるとかして、日蓮聖人のお気持ちにかなった、風雅な風習が根付いてゆく、という運動を考えた方がよいと思います。これを御会式桜各家供養運動とでも称しましょう。
   ㈭なおしかし現実の社会問題などについては、他宗・他教とは、成仏の理(皆成仏道・浄仏国土)に違わざれば、且く世間普通の義を用うべしで、四悉檀を自在に活用するべきであります。
五、開宗七百五十年からの当為としての正統宗門の建案は
−布教院・求法院・戒壇院−
 五番目には、開宗七百五十年からの当為としての宗門の建築です。これは自明です。先ず布教院(本門の円慧・題目、信心の相貌、自行化他の題目の元意を確認し、その広為他説を修練する)を充実し、求法院(本門の円定・本尊、その法体と相貌を探求し確認する)を設営し、戒壇院(本門の円戒・戒壇、授戒作法、授職灌頂を研究し実行する)を開設することが、それではないだろうかということです。
 私ども宗門人は、本質的にして積極的な必要条件の整備を先行せしめ、隅有的にして消極的な十分要件の具備は、これを後事に配するべきであります。一善枢軸への求心力を回復するべきなのです。
 残念なことに、わが宗門は自壊教団といわれています。本門の分の戒壇院を欠き授職灌頂を忘れさったわが正統宗門は、知的怠惰・道義的怠惰・倫理的堕落を如何にして止めえようか。口舌駄文による小説まがいの通俗的な日蓮聖人像が門下の間にまで蔓延しはじめています。残念この上もないのです。共生は共成のためであることをたしかめましょう。
 それから受職灌頂についても考えなければなりません。。本門の円戒の授受の作法です。まだ我が宗門では決定していない。磯野本精先生いわく、「抑も授戒作法なるものは行者をして即身成仏の心地を決定せしめんが為の儀式である。故に放光受職(品頭六十四)には授職とは付属の義、又授記の義、又決定の義、又入正定聚の義等とある。されば宗教的の儀式としては最も重要な儀式の一つである。実を以て云へば死後の引導よりも寧ろ生前に於ける此の授戒作法の方が大事である。所持の経法は固より須叟即得の妙法であれば仏道究竟は疑なけんも、末代無智の輩は荘厳なる儀式を整ふるにあらざれば心地決定に由ないのである。結要付属無作戒体即身成仏授職灌頂の次第作法は録して灌頂口伝鈔(千〇三〇)にあり、以て範とすべきである。祖書綱要(刪略七五十二丁)又本迹二門円戒の異相を弁じ、以て本宗受戒の儀相を詳説す。而るに宗門今日受戒作法全く絶ゆ。豈に鴻歎の至りにあらずや。吾等は宜く祖録を本とし先匠先哲の指南に依り、以て方今の時世に適応すべき儀式を撰び、中古已来久く絶へたりし本門円頓戒の授受の儀式を復興すべきである。本門の大戒壇建立は今後数代若くは数十代の未来にあらんも、受戒作法は必しも其の時を竢つべきにあらず。大戒壇建立の已前に於ては三宝安置の霊場は是れ一分の戒壇なり。本邦朝鮮支那布哇等に於ける本宗の寺院教会は則ち是れ授戒作法の霊場である」と。というような問題が多くあります。
 まだお話しするべき事が、多くあるのですが、時間がなくなりました。申し訳ありません。これで終えさせていただきます。長い間、本当にご苦労さまでした。私も大変でした。ありがとうございます。
司会 伊藤先生ありがとうございました。少しご休憩いただきまして、このまま質疑応答入ります。準備でき次第は入りますが、トイレ休憩します。十分、四時十分から再開いたします。お願いいたします。(了)

附 論
摂折論より見たる四悉檀について、以下に論明します。
 『報恩鈔送文』に云く、「親疎無く、法門と申又は心に入れぬ人にはいわぬ事にて候ぞ」とあります。
 摂折の法門は難信難解なる故に、まこと、「心に入れぬ」人にはいわぬ事でありましょう。「心に入れぬ人」とは、権実論より本迹論の、ないしは教観の教相を弁別・領解しえてない人であります。
 別言しますと、すなわち摂折の法門は、勝義のことなる故に、他言すべからずであり、また日蓮が一門となり通す自信なきものは、とまれ安忍にして信行学に精進し、みだりに用ゆるべからず、ということになりましょう。
 『太田左衛門尉御返事』にいわく、「予が法門は四悉檀を心に懸けて申すなれば、強ちに成仏の理に違はざれば、且らく世間普通の義を用ふべき歟」とあります。
 「成仏の理」とは、「成仏の道理」であり、「本理に称ふ」ことでありましょう。
 平易に別言しますと、「本有の妙法(=一妙三秘)の義趣」としての「皆成仏道(=衆生の成仏)」と「浄仏国土(国土の浄化)」でありましょう。
 祖文の意趣は、邪智謗法・不信ならざる一般大衆(無知悪人なる人)には、成仏の道理=妙法の義趣=依正の成仏に矛盾することがないならば、忍衣・空坐・慈室の三軌に住して、世間普通の義、すなわち四悉檀の中、世界悉檀・為人悉檀を用いて、講経説法し、妙法五字に結属して、教化し、信受念持せしめるべし、というにあります。
 したがいまして、例せば、全日本仏教会顧問弁護士の長谷川正浩先生の示された「ハンセン病患者の苦しみを取り除くこと一つとってみても、あらゆる宗教を越えて団結しあわなければ果たし得ません。釈尊の価値観を実践するためには、現代において折伏や四箇格言がどうにも桎梏とならざるを得ないのです」という疑点もとどこおりなく氷解するでありましょう。
 折伏や四箇格言は「成仏の理」という勝義に関するエトスであります。
 「ハンセン病患者の苦しみを取り除く」ことは、成仏の道理=妙法の義趣=衆生成仏・浄仏国土に違うことではなく、むしろかなうことですから、世間普通の義、いわゆる世界悉檀・為人悉檀を用いて、諸宗と協和して実践をなすべきでありましょう。いなむしろ、それは成仏の道理にかなうことですから、本化地涌の如蓮華在水の行菩薩道であります。よってこの点において諸宗を団結せしめることを目的とする折伏のエトスも必要となりましょう。
 「釈尊の価値観を実践する」こと、これこそが本仏地涌の行菩薩道であります。日蓮聖人は「釈尊の価値観(=皆成仏道・浄仏国土)を実践する」ことをなさず、当分の手段を究極の目的と錯覚して、成仏の理=「釈尊の価値観を実践する」ことに違う上慢・不信・謗法の諸宗に対して構造・機能分析をなし、機能不全を四箇格言をもって指摘し、折伏をなしたのであります。
 要するに長谷川先生の主張する「釈尊の価値観を実践する」=「ハンセン病患者の苦しみを取り除く」こと等は「妙法の義趣=成仏の道理にかなう」ことであり、事の一念三千の法門の事の実践であります。
 このことに諸宗教を超えて一致団結するように説得すること、それが折伏であります。
 妙法の義趣=釈尊の価値観を実践するためのシステムをシステムたらしめている構造をもつものが実乗であり正法であります。
 この構造をもたず、もっていても機能不全に落ち入って、実乗・正法に相違し、それを誹謗する国家や諸宗教は、妙法の義趣=釈尊の価値観を実践し成就することができない(無得道堕地獄)のです。
 よって、四海帰妙・浄仏国の前振として立正安国の国家諫暁運動が必要となります。
 また誹謗正法の疑態宗教に対しては、四箇格言の理性的批判をもってする折伏が必須となるはずです。
 四箇の格言は、自教団の保身保存を目的とする誹謗正法の疑態宗教のありうる四種の形態(=構造・機能)に対する、構造・機能の分析による理性的批判を論理内実とする四種の命題標語なのです。
 よって日蓮門下の人々は、四箇格言のよってくる論理的根拠を、そしてその現代的意義を、しかと理解する必要があります。拙著『新時代の四大格言』、『宗教地政学入門』の第十五・十六章を参考にして下さい。
 なお「世間普通の義」でありうる世界悉檀は、世間の通俗の凡夫の意楽に順じて、人は無我ではあるが、因縁仮和合(縁起)の義により我人あり、と人無我法有我の生滅を説く蔵教の立場(楽欲悉檀)であるから、内道のもの、通俗の凡夫に対しては摂受であるが、邪命なる外道(邪智謗法)の者に対しては折伏となります。
 また各各為人悉檀は、断見に堕する者には業果の法ありと説き常見に堕する者には受報の我なしと説いて牛道の善業を生ぜしめる、機の宜しきに随って施設する、人法二無我の無生を説く通教の立場(生善悉檀)であるから、通教(大乗)の機に対しては摂受となるが、蔵教(小乗)の機に対しては折伏となります。
 対治悉檀とは、病に応じて薬を与える如く、貪欲の者に対しては不浄観を、瞋恚の者に対しては慈悲心を、それぞれ対治の法として示して、悪を断ぜしめる、無量を説く別教の立場(断悪悉檀)であるから、別教あるいは実教の機にとっては摂受となるも、通教あるいは権教の機に対しては折伏となります。
 第一義悉檀とは、直ちに第一義によって諸法実相の真理を詮明して、衆生を無上菩提に帰入せしめる無作を説く立場(入理悉檀)であるから、用教あるいは本門の機に対しては摂受となり、別教あるいは迹門の機に対しては折伏となります。
 例せば弥陀の本地は、為人では法蔵比丘なり、対治では大通十六王子の一人なり、第一義では本仏釈尊の体内なり、と説くことになります。法蔵比丘とおもいなす双観経・観経・阿弥陀経の立場の人々にとっては、対治・第一義の立場は折伏となります。
 日蓮法華宗の立場にあっては、世界悉檀は四諦縁起を説いて内道の徒には摂受となるも外道の徒には折伏となり、為人は無自生空を説いて大乗の徒には摂受となるも小乗の徒には折伏となり、対治は諸法実相(有始生滅の十界互具)を説いて実教の徒には摂受となるも権教の徒には折伏となり、第一義は本有妙法(無始常住の十界互具)を説いて本門の徒には摂受となるも迹門の徒には折伏となります。
 広大なこの人間の世界における諸の宗教・思想・主義の中には、慈悲を欠く邪知による擬似的な摂受がありえます。それはアジェンダ、コンスピラシー、謀略の道具でさえありえます。
 善意の宗教家も人々も、それに籠絡されて破局の道を辿ることがないとは限りません。
 私ども日蓮門下は、慈悲にもとづく正和による真実の折伏とは何かを、祖書の指南により習得し紹継しなければならないのです。
=cd=70b6一妙三秘(これは小生の造語です)の自行化他(=信行学)の本法の時節における正意折伏・傍意摂受における、自行化他については、左の拙著を参考にして下さい。(三五六頁図参照)
現代の教化の方策としての摂受・折伏については、拙著「新時代の実践布教学シリーズ三部作」を参照して下さい。左の如くです。
新時代の布教精神(布教とはなにか)
【主要目次】プロローグ/正しい信心の基本(法華初心要義抄)=はじめに 1本尊に帰依するべきこと 2妙戒に依止するべきこと 3信心を起立するべきこと 4受持を正行となすべきこと 5教義を聴聞するべきこと 6王法に随順するべきこと(国の覇道はこれを折伏して真の王道たらしむこと) 7世法を遵守するべきこと 8三宝を供養するべきこと 9功徳を随喜するべきこと 10成仏を志願するべきこと 法華菩=cd=62d0道の言葉(注記)おわりに/教師としての態度(本化寺院教師論)=1問題の所在 2キリスト教より見たる新時代 3仏教史観より見たる新時代 4新時代(末法万年)の衆生の特質 5仏教者の現状はどうか 6白法隠没して大白法興起す 7教団(サンガ)の基本 8本化の教団の範型(モデル)を求める 9寺院本来の機能 10宗門寺院のモデルを求める 11法華経での精舎(ビハーラ)の理念 12 教師はとまれ法師である 13教師は如来使をめざす 14教師とは地涌の眷属なるべし 15教師とは殊には軌範師(アーチャーリヤ)をめざす 16本化の信・行・学と三学に向上す 17結論/布教の方法の基調(化儀十七条提唱)−御題目総弘通運動の成功を念じて所見の若干=1序論 2私的な若干の布教の経験について 3教化の三要ということ 4妙行十七条提唱 5学則十一条提唱 6化儀十七条提唱 7結論/エピローグ
新時代の折伏様式(折伏とはなにか)
【主要目次】プロローグ−実践布教学を提唱する−/壱 問題の所在−弘通における折伏ということの実質的な意義を問う− ㈰(視点)現代の布教において折伏を如何に把握するべきか ㈪(方法)妙法弘通の根本行軌としての折伏の理念を論明し、実践軌範としての位置づけを確定するべきではないか ㈫(スペキュレーション)それが伝道教団の活性化の適正な方策ではないのか/貳 現下宗門の退行現象 ㈰弘通運動の目指すものと現状での問題点 ㈪まことの信心の相貌、口唱五字の根本功徳をわきまえているか ㈫ことに折伏に対する無知と誤解と不得要領の例、および現下宗門の解釈/参 折伏主義への復古運動 ㈰宗風の軟化は法難によるか ㈪江戸期における著述による折伏立行もまた一案なり ㈫田中智学著『本化摂折論』を推奨する/肆 祖書における折伏の真義 =cd=71c7教判における折伏の位置 (b)一期における折伏の次第 ㈰折伏の目的は弘法(=正法を弘持する)にあり受持にあり ㈪折伏とは仏説にして私曲に非ず、単なる布教の手段にも非ず、仏法修行(すなわち知恩報恩の妙行ないし懺悔滅罪の戒法を含意する)の大事なり ㈫邪智謗法の者の多き時は折伏を前とす、不軽品の如し ㈬末法・謗国・逆機を対象とする滅罪の修行にして三類の強敵有るべし ㈭大慈による下種の修行にして、因謗堕悪必由得益を生む、悪を除く親しき父母の行為なり ㈮仏法を学び邪義を責め謗法をくだくことなり ㈯「諸経は無得道、法華経独り成仏の法」との音も惜しまずよばはる(=南無妙法蓮華経とよばはる)ことなり ㉀私に云く、用玄義に云く、情を破し教を廃し理を開し行を会すこと、開会のための破廃、理性的批判主義なり ㈷末法の今の世に摂受を行ぜん人は失ありて悪道に堕ちる事疑なし ㉂今の世に折伏をせざる出家は畜盗法師なり =cd=e152しかし私に問註すべからず人目に見すべからずして別付嘱の妙法蓮華経を取り次ぎ給ふべし/伍 折伏の教学的意義 ㈰折伏とは逆化の修行=化儀なり ㈪折伏とは本化の菩薩の下種の化導なり ㈫折伏とは六識(随喜か瞋恚か)を対象として八識(元品の法性か無明か)を起動せしめ九識に化導する(=性種に対する乗種の)下種の妙行なり/陸 末法の行軌としての折伏の核心(ケルン)とは何か ㈰折伏の核心(=行意)は、聖祖の御立義を示し、もって末法弘通の要法(=上行所伝の題目)を御取次(おとりつぎ)することにあり ㈪折伏の要件は自己を折伏し他を摂受するべく自行化他のために慈室・空座・忍衣の弘経の三軌に住することなり。 ㈫折伏の応用は四箇格言の根拠を適正に説明し、人文宗教としての仏教の倫理的理想主義を開示し、仏国土を創造する建設的な提言をなすことにあり/漆 弘通運動の方策としての具体案−下種化導の布教手段化の具体案− ㈰折伏即ち御取次の行を玄題弘通運動と解釈すべし ㈪先ず宗名を祖意に随って法華宗と改称し驚覚・動執・断疑せしめて出直すべし ㈫折伏即御取次の行を推進するために僧俗の信行学の態度・能力を養成するべく勧信行学運動を提案す ㈬宗門各寺は財施として受納した収入の一部を法施として転換し続種護法のために支出することをいさぎよしとすべし ㈭各地に求法講院を開設して教師の信行学を勧持し、各寺に月例として法華十講会を開催して諸人を説法教化し、口唱妙行会を勤修して檀信を化導し、加持祈祷会を奉修して有縁者を誘引すべし ㈮更に玄題弘通を展転推進するために三運動を提案す ㈯重ねて更に法華霊場巡礼運動を提案す/エピローグ−折伏としての施本運動と御会式万灯必起運動と御会式桜各家供養運動−
新時代の四大格言(四箇格言の原理とはなにか)
【主要目次】プロローグ/壱 問題の所在−折伏の実用としての四箇格言を直視し理解し紹継し論明し蘇生すべし− ㈰日蓮宗の教師には折伏の真義を顕説して世上の悪意に充ちた誤解を解消する義務あり ㈪対他折伏の要件は対自折伏なり、対自折伏なきものが四箇格言を隠蔽・曲解するか ㈫折伏の実践的応用は四箇格言の明証的なる説示にあり ㈬対自折伏は対他折伏とその応用である四箇格言との前提なり ㈭教師は折伏・四箇格言から逃避しようとする吾が内なる大衆迎合の通俗主義を看破すべし ㈮四箇格言を無視し抹消することは、日蓮門下として道徳的怠惰にして倫理的正当性を欠失することなり ㈯四箇格言を明証的に説示するために、その本来的と現代的との意義を文・理・現の三証をもって正しく深く理解すべし/貳 四大格言に対する無知・誤解を消通す ㈰四箇格言に対する無意識的な誤解と意識的な曲解 ㈪無意識的な誤解と意識的な曲解をなすにいたった要因 ㈫他宗の学者による曲解と誹謗、知識人の無知と誤解 ㈬四箇格言は勝義正意としては単なる開宗の方便にあらず ㈭勝義正意としては弘経の法軌にも宗勢拡大の手段にあらず ㈮聖人の心理的な性癖に由来するにもあらず ㈯強言なれども人をたすくれば、妄語にあらずして実話・軟語なり/参 四大格言の原理的立場を追究す ㈰四箇格言は単なる誹謗にあらず、貞観政要に云う六正聖臣の激切に起因するか ㈪貞観政要に云う諍臣七人の諫言を気概とする ㈫四箇格言による諸宗折伏は、諛臣の僧等の思想・言動に対する、君子の徒、聖賢の強よりする徹底的な批判なり ㈬四箇格言をもって国家諫暁するのは久しく報国の大忠を懐くが故なり ㈭四箇格言は我れ賢しと思わん僻人等が愚案を超ゆる深般若によれり ㈮時機付相応・下種的救済・道義的決断・慈悲的精進・不自惜身命による提唱激切なり ㈯しかも実には王法を恐れず、流罪死罪を一定なりと思ひ定めて申すなり/肆 四大格言の原理的目的を究明す ㈰四箇格言は常識主義者の知的怠惰を剔抉す ㈪忠臣の諫言として亡国を糾治し仏使の慈言として悪法を除去す ㈫公場対論か遠流死罪かの決行を要求す ㈬釈尊の出世本懐の意趣を開示して、自義をもって経意を誹謗する諸宗を、経意をもって呵責す ㈭諸宗の違目と法華の深義を究尽することを要請す ㈮正直の法華一乗を開示して、成仏の直道と正直の政道との何たるかを警覚する ㈯日本文化から危国の悪癖を除去す/伍 四大格言の原理的方法を論明す ㈰四箇格言の対配関係と説示次第の方法論的な意味は如何 ㈪本門事観における折伏逆化の実践断行にして而強毒之の化導法の最要件なり ㈫単なる廃立の廃にあらずして、五綱の実用たる破廃開会の折伏立教の、方法論的な帰結としての応用なり ㈬一代諸経の教相の明示するところ、立宗の綱格にして、本宗の妙義なり ㈭諸宗の誹謗正法に対する倫理学的な反動規制として発生せる批判主義なり ㈮諸宗の行動様式(エートス)の反安国的・反成仏的なるを剔抉して法華一乗の立正安国・皆成仏道へと止揚する根拠なり ㈯四箇格言は、いわゆる構造・機能−分折を原理的方法とする批判主義の実践的帰結なり/エピローグ
  隆文館刊 各々定価二五〇〇円(本体二四二八円)
  〒一〇一 東京都千代田区神田和泉町一−九−一七
  電話〇三−三八六一−九六〇五
なおまた摂折論について詳細は、拙著『摂折論の新研究』上下二巻を参照して下さい。
『法華学報』別冊特集第漆号
 摂折論の新研究(上)
   −原語・意義・意趣の解明−
−序(はじめに)− 第一章 勝鬘経の摂折論 −摂受・折伏の原語・意義を究明する− 一、問題の所在 二、勝鬘経における摂受折伏 三、勝鬘経義疏の解釈 四、大日経における摂受折伏 五、応折伏者とは如何 六、摂受・折伏の原語・原意 七、漢梵辞書による傍証 八、摂受折伏の摂受と摂受正法の摂受との異点(新私見) 九、十地経論における摂折論 十、結論
 第二章 不軽品の摂折論 −但行礼拝は摂受か折伏か、原典をもって解明する− 一、問題の所在 二、天台智者大師の常不軽品解釈を再考する 三、妙楽大師の安楽不軽の十別解釈を再考する 四、常不軽品を原典解明する 五、常不軽品の逆化次第 六、法華経における逆化折伏の意義 七、結論−略法華の真意義−
 第三章 本尊鈔の摂折論 −現折成王・行摂成僧の二十七字の意義を相絶二待妙をもって論明する− 一、問題の所在 二、弘持正法の摂受と摂受正法の摂受との異点 三、本尊鈔の摂折論の解釈の可能性 四、現折行摂の文(=摂折現行の二十七文字)に対する従来の諸見解(=伝統説) 五、従来の伝統説の論理構造を分析し評価する 六、私見としての仮説−もう一つの、ありうる解釈− 七、結論 −跋(おわりに)
 − 付録 −折伏現代化応用編− 仏教環境倫理学序説 一、仏教思想における自然(環境)の概念作用(conception) 二、仏教より見たる環境と人間の相互関係 三、仏教思想による環境事象の総別分類(↓仏教環境分析学) 四、仏教思想による環境事象の問題解明 五、仏教思想による環境と人間の理想的関係 六、仏教思想による環境問題の解決システム 七、仏教思想による環境倫理の学習と教育の必要性(仏教環境倫理学・仏教環境倫理教育)
『法華学報』別冊特集第漆号
 摂折論の新研究(下)
   −諸義と義趣の解明−
−序(はじめに)− 第一章 安国論の折伏義−論の文意、勘文の奏進は摂折のいずれなるかを論明する− −立正安国の奏進は諫臣聖人による勘文折伏として諸義あることを論明する− 一、問題の所在 二、問答決択の折伏義 弁才破邪の折伏義 三、国家諫言(=諫暁)の折伏義 殿前対決(=公場対論)の折伏義 四、禁断謗法の折伏義 護持正法の折伏義 五、賢王誡責の折伏義 執持刀杖の折伏義 六、破廃開会の折伏義 七、正直捨権の折伏義 八、改信帰一の折伏義 九、撰時鈔に見る安国論の折伏義 勘文奏進の折伏義 国家諫言の折伏義 呵責謗法の折伏義 禁断謗法の折伏義 十、結論−折伏諸義総別二相−
 第二章 開目鈔の摂折論−法華経の行者は摂受を前とするか折伏(除悪親徳の大慈による)前とするか、そのいずれなるかを解明する− −摂折の義趣を明して常不軽品のごとしの有無に及ぶ− 一、従来の研究成果、開目鈔の起尽文段 二、開目抄現文の折伏義、その分析 ㈰ 帝をいさめ頭をはねらる 忠の手本なり ㈪ 法華経計り教主釈尊の正言なり 要当説真実と定め給しか ㈫ 異執をこりしかども 智者にうちやぶられて 仏法二び群類をすくう ㈬ 伝教大師 宗々の異執をすてて 専ら経文を前として責させ給ふ ㈭ 正法失はて国すでに破れなんとす ㈮ 日蓮が強義 経文(=悪世の中に於て此の経を能く説ん)には普合せり ㈯ 爾前迹門の因果を打やぶて 本門十界の因果をとき顕はす ㉀ 末法には 正法の者は爪上の土 謗法の者は十方の土とみへぬ ㈷ 強盛の菩提心ををこして 此の法門を申すに難かさなる ㉂ 難を忍び慈悲のすぐれたること 我身の法華経の行者にあらざるか =cd=e152 数々の此の二字は 但日蓮一人これをよめり =cd=e152 日蓮なくば 誰をか法華経の行者として 仏語をたすけん =cd=e152 日蓮が法華経の行者ならざるか =cd=e152 人の師と申すは しらぬ事を教へたるが師にて候なり =cd=e152 四十余年未顕真実と打消し 一念三千心中の本懐を宣べ給ふ =cd=e152=cd=72b9 諸大乗経は 一代の肝心たる一念三千の大綱骨髄 いまだきかず =cd=e152 宝塔品に 仏 諫暁して云く 十方の諸仏来集せる =cd=e152 諸仏を集めて分身とかかる 其上に地涌千界大地より出来せり =cd=e152=cd=72bc 此の文は一言に大虚妄なりとやぶるもんなり =cd=e153 今濁世の学者等の 彼等(讒臣諛臣)の讒義に隠されて 寿量品の玉を翫ばず =cd=e153 寿量品の仏を知らざる宗々互に権を=cd=63bbふ 予此をあらそわず 但経に任すべし =cd=e153 亀鏡なければ我が面をみず 敵なければ我が非をしらず =cd=e153 大日経観経等をよむ行者等 法華経の行者に敵対をなさば =cd=e153 一切経の勝劣を仏来集して定め給ふ 経釈の明鏡を出して謗法の醜面をうかべ失を見せしめん =cd=e153 諸人の(曲会私情の勝劣荘厳)己義を左右なく非なりといはば 国王に讒奏して命に及ぶべし =cd=e153=cd=72b9 当世の学者 勝劣なをまどへり 謗法の罪苦長劫に流る =cd=e153 弘法大師 まどひ給て法華経を熟蘇味に入れ給えり 他人は信ぜざれば逆=cd=63baなるべし =cd=e153 一代諸経の勝劣をしり 命を法華経にたてまつり 名をば後代に留べし =cd=e153=cd=72bc 明鏡の経文(六難九易)を出して謗法をしらしめん =cd=e154 末法の始に 法華経の怨敵三類 必ず日本国にあるべし =cd=e154 一分の仏眼を得るもの 此(末法の始の三類)をしるべし =cd=e154 法華経の行者あらば 必ず三類の怨敵あるべし 三類はすでにあり 法華経の行者は誰ならむ 日蓮より外に 日本国に取出さんとするに人なし =cd=e154 不軽菩=cd=62d0は 過去に法華経を謗じ給ふ罪身に有ゆへに 瓦石をかほる =cd=e154 種々の大難出来すとも 智者に我義やぶられずば用いじとなり =cd=e154 日蓮強盛に謗法を責れば 此の大難の来るは 過去の重罪の今生の護法(の功徳力)に招き出せ(し軽く受く)るなるべし =cd=e154=cd=72b9 諸難ありとも 疑ふ心なくば 自然(任運)に仏界にいたるべし =cd=e154 いかに諫暁すれども 日蓮が弟子等も (一闡提人のごとく)此(=法華単摂受の義)ををもひすてず =cd=e154 邪智謗法の者の多き時は 折伏を前とす(常不軽品のごとし?) =cd=e154=cd=72bc 壞法者を呵責し悪を除く(=折伏)は即ち是れ彼が親なり 日蓮は日本国の諸人に親しき父母(の親徳の大慈をもって折伏をなす)なり 三、折伏の対象者となる三類の怨敵の文現二証 四、常不軽品ノコトシ考 五、結論 ㈰ 法華経とは ㈪ 法華経の行者とは ㈫ 折伏とは ㈬ 折伏の対象(=その釈義と対告衆)とは ㈭ 教主釈尊の法華折伏とは ㈮ 日蓮より外にたれの人かあるとは ㈯ 慈無くして詐り親しむもの 一闡提のごとくなるものとは −跋(おわりに)−
 付録(参考資料) その一、伝道教団活性化の方策 本山日本寺貫首 今井是観 その二、戦後史を見直す 木ノ下甫 その三、西暦と元号、および情報の役割について 立正大学講師 塚田貫康 その外
=cd=70b9立教開宗七百五十年記念以後、これからの宗門の願業(pran・idha=cd=ab29na-parikarman)は何かについては、左の拙著を参考にして下さい。
『法華学報』別冊特集第伍號
 −聖祖の誓願−
 ※大士一期の祈=cd=63bc所願を追究論明する※
 第一章 聖祖の誓願浄業の基本を論明する−願業の現代における実践方法を提言する− 聖祖は菩=cd=62d0願行道の大士なり 仏陀釈尊の行実は願行道を顕示す 仏弟子もまた願行道を歩めり 部派仏教は願行退行せるも反省興起の機縁となれり 本生菩=cd=62d0において願行は萌芽なり 大小未分の経『大事』の願行は大乗思想発生に寄与せり 初期大乗仏教の菩=cd=62d0行の根本は願行なり 菩=cd=62d0弘願の原拠は法華経薬草喩品の四句の如きものか 別教一乗華厳菩=cd=62d0道に願行の基本理念を同教一乗法華菩=cd=62d0道に願行の根本態度を見る 願行は全仏教を貫徹す 聖祖の願行道を大別して五位と見る 発(菩提)心位/大疑位/立願位/誓願位/(根)本(悲)願位 聖祖の歴史意識は文化総合を企図する 現下宗門における願行道の後退を悲しむ 宗門に対する内外よりの批判を率直に傾聴せん 宗門蘇生の道は聖祖の願行を門下の願業とするにあり 願業の内実を確認し、その意義を妙法に依る文化総合と規定せん 願業推進の実践方法を建案す
 第二章 門下の復古蘇生を克明する−宗門の現状を認識し蘇生の方途を思案する− 日蓮宗門の現状反省 宗門蘇生の現実方向
 第三章 聖祖の願業としての王仏冥合の真義を解明する−王仏冥合(=一同戒壇)は政教分離にして、いわゆる政教一致(王仏合体==cd=21e5狭国立戒壇)に非ず、しからば何か− 三大秘法抄の真偽問題 王仏冥合論の原文意義 政教(=祭政)一致に二形式あり 新憲法における政教分離の広狭定義 政教分離を前提とする王仏冥合(=一同戒壇)論の本意(としての)正義 禁断謗法の対象となる王仏互入(=政教合体・=cd=21e5狭国立戒壇)主義 折伏立行・国家諫暁の復権
 第四章 聖祖の願業としての社会教育(=自行化他)の真義を究明する−一妙三秘による教育徳目・行位次第を建案する− 序論 願業としての社会教育 宗教の社会に対するサイバネティックス・モデル 法華仏教の誓願浄業(プラニダーナ・パリカルマン)ルソーのエミールによると教育とは 教育とは仏教における教化に照合するか 教育とは本化仏教では教菩=cd=62d0法による教無量菩=cd=62d0畢竟住一乗である エミールによると、宗教教育は青年教育にとって大切である 宗教的な情操教育の基本は如何 仏教教育は一般論としては古典教育・訓育教育・垂範教育に重点がある 一妙三秘は世俗道徳を導く内的軌範である 三秘は如何にして幼少年教育の修養徳目となるか 三秘は如何にして青少年教育の実習徳目となるか 三秘は如何にして老壮年教化の常修徳目となるか 社会とは人間と相即する人間結合・共同一般をいう 社会教育の本質は自己教育にある点で、自行化他を実践原則とする本化仏教の一妙に相応する 福祉事業の中にも仏教社会教育の地位と役割は取得されうる 宗教社会学によれば、宗教的行為は社会的行為の一形態であるから、仏教教育は自己・家庭・学校の教育と共に社会教育という社会的役割を取得し遂行することが期待される 仏教による教育の社会的な役割は、行為者に対して義務あるエトス(=品位ある行動様式)を期待する しかるに仏教行為者の現状は そこで仏教教育の行為者として期待される教師像が自行として追求されなければならない 仏教者は教師も学人も本化の眷属として本化仏教より信行学を要請され一般社会より学識徳望を期待される 各寺院単位では社会教化の基本活動の実行が期待される しからば本化仏教における自己教育・社会教育の根本条目とその関係構造は如何 かくして社会教化の一般活動に及ぶ自行化他の実行生活における行位システムは如何 結論 仏教教育の目的・方法・軌範と社会的な地位・役割との関係は左の如く求められる
 第五章 日蓮門下の人間教育を模索する 人間としての日蓮聖人 日蓮聖人の教育観 日本海軍兵学校の人間教育 米国海軍兵学校の人間教育 日蓮門下に人間教育
=cd=70ba日蓮法華宗の真実と救済とは何かについては、左の拙著を参考にして下さい。
『法華経の真実と救済』(信仰とはなにか)
はしがき プロローグ−世紀末の時代 啓示の宗教と救済−仏教から見たユダヤ教 仏教から見たキリスト教 仏教から見たイスラム教 仏教の由来と真実−仏陀とは 生死ということ 涅槃ということ 乗について 如実に知見する 菩提へ向う心 蓮華の水に在るが如し 法華経の概要と真実−法華経のエッセンス 妙法蓮華経の概要 開結二経の概要 法華経の真実−法華の信心と救済 心の財第一なり 水の如き信仰 七字の信行 七字の信行 信の一字 本尊と信心 本仏の三徳 不軽の逆化 懺悔滅罪 昼夜常精進 自然譲与 エピローグ−法華仏教の真実と救済 あとがき
  隆文館刊 四六判上製三〇四頁 定価二〇〇〇円

 

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