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現代宗教研究第38号 2004年03月 発行

第三十六回中央教化研究会議  基調講演(一)日蓮聖人の摂受折伏観

平成十五年九月三日=cd=71d4・四日=cd=71d5第三十六回中央教化研究会議 於・日蓮宗宗務院
基調講演(録音再録)
「日蓮聖人の摂受折伏観」
(立正大学名誉教授) 今成元昭  
 ただいまご紹介にあずかりました、今成でございます。まず、資料の確認をしたいと思います。一つはこの一冊でございますね。「常不軽菩薩」が㈰から㈮まで、「摂受・折伏」が㈰から㈭まで、そして九十七頁に『如説修行鈔』。九十九頁に「佐渡から身延へ」というコピーがあります。それから既にお送りいただいている資料として「日蓮論形成の典拠をめぐって」という渡邊寶陽先生の記念論文集『日蓮教学教団史』掲載の論文ですね。それから本日追加資料として、甲、乙として二枚、これを追加いたしました。ではさっそく始めさせていただきます。
 まずその追加資料、甲をご覧下さい。そこに本日の講演内容共通項目とございます。現宗研の方からこういう共通項目で展開してほしいという要請を受けたものでございます。それでそのような順序で進めたいと思います。一、摂受折伏という言葉の概念、この概念が曖昧だから色いろと問題が起きているんじゃないかということです。その小項目として、㈰一般的、㈪仏教的、㈫日蓮的とあります。それから二、『開目抄』の「常不軽品のごとし」の一句に対する見解、そこに『如説修行鈔』と入れて下さい。『開目抄』の「常不軽品のごとし」という一句と、『如説修行鈔』との二つがどの辞典を見ても、どの論文見ても日蓮折伏主義の典拠としてあげられているんですね。ですから、その両方を考えたいと思います。三、『宗義大綱』の摂受と折伏に対する見解。それから四に、平成十四年十一月八日付勧学院院長見解に対する見解とございますので、この『宗義大綱』の摂受折伏の項の原文と、それから院長見解、というのをここでお持ちでない方が多いのではないかと思って、ちょうどいいので左上その三行目からそれが『宗義大綱』の原文です。『宗義大綱』にあります「7摂受と折伏」というところの原文でありますので、これ参考資料としてよろしかろうと。それからそれが全体が院長見解で、以下略としております。そしてこの院長見解に関する教務部の付帯文書を記しておきました。資料は以上の通りであります。
 そこでまず、順序に従いまして摂受折伏という言葉の概念の、㈰一般的ということでありますけれども、折伏という言葉を知っている人は結構一般人にも多いんですね。そこで、その折伏という言葉の対概念は何かと聞くと、知らない人が多いんですね。摂受という言葉を知らない人が多い。折伏が一人歩きして有名になっているわけで、それは創価学会の昭和四十年代でしょうか、特に折伏大行進というような烈しい運動があって、それで有名になったと思いますが。今年の三月にここでお話しさせていただいたときに用いた資料ですけれども、春秋社から『講座日蓮』というのが出ています。その第五巻『日蓮語録』の解説、これは田村芳朗先生がお書きになっているんですが、アンケートを採ったところ「日蓮というと折伏・排他的・攻撃的・傲慢・狂信的、こんなような答えが返ってきた」ということが書かれているんですね。それで高山樗牛の『余の好める人物』という本の一節がそこに引かれてまして、「世人が折伏の側の聖人を見て単に強盛・我慢の狂僧と思うのは、全く聖人の人物を知らぬ事を自白するに等しい」という言葉が引かれています。つまり折伏というのが日蓮聖人の一つのトレードマークのようになっているということであります。しかし私が日蓮聖人の文献的に確実な御書に限って調べてみたところ、日蓮聖人は折伏をせよということは一回も言っておられない。それからご自分も全くしておられない、ということが明らかになりました。そうしますと従来色々な辞典だとか日蓮系の教科書に書かれていることが、間違いだということになって、大変なことになるわけなんですね。でもある程度私の意見が通ってまいりまして、甲の資料のですね、左下の教務部の院長見解の付帯文書の後ろから二行目をとりあえずご覧いただくと、「ひろく『宗義大綱読本』の改訂も視野に入れて」考えようということに、宗門としてなってきた。この『宗義大綱読本』には折伏、折伏と盛んに書いてあるわけで、その改訂を視野に入れるというふうに動き出している事実があります。そこで、今日これから、日蓮聖人は折伏ということは言っておられないし、それからご自分でもなさっておられないということについて、申し上げたいと思います。そのポイントに『開目抄』の常不軽菩薩は折伏であるということが書かれている部分、これは後の人が補入したものだということ。それから『如説修行鈔』は作品そのものが偽書であると明確にしていかないといけないということになるわけですが、それは後ほど申し上げます。
 次第にしたがって摂受折伏という言葉の概念、㈰「一般的」ということについて今申し上げたんですが、一般的には概念として日蓮聖人のような強い生き方、それが折伏なんだというふうに考えられているのですが、それが強いどころか強盛・我慢・狂信的というような、悪い評価にさえなっているということ。これが、㈰についてのことです。㈪「仏教的」というところへまいります。これは資料の六十七頁、摂受折伏の㈪をご覧下さい。二段目が『望月仏教大辞典』ですね。その三行目の下の方に『勝鬘経』、それから八行目から九行目にかけては『瑜伽師地論』。十二行目に『勝鬘経義疏』、十六行目に『勝鬘寶窟』、二十六行目に『摩訶止観』、三十行目に『法華玄義』とか、たくさんの文献が引かれています。そして、三十四行目から「日蓮は此等の意を承け、特に折伏を以て弘教の方法とし、盛に権門の理を罵倒せり。『開目抄』下巻に」といって、その三行あとにありますように、「折伏を前とす。常不軽品のごとし」と、つまり『開目抄』の例の言葉が常に引かれているんですね。それから四十行目にありますように、『如説修行鈔』が常に問題になるということです。四十二行目に「天台云、法華折伏破権門理 まことに故ある哉 と云へる皆其の説なり。」とありますが、天台大師の『法華玄義』のですね「法華折伏破権門理」、この言葉もよく引かれるんです。
 その上の段の『日蓮宗事典』の摂受の項の十八行目、そこにも『玄義』に「法華折伏破権門理」とあるとありますね。それからその左の方、二十三行目「常不軽品を末法折伏の文証として」とか、とにかくこういうことばっかりいわれるんですが。例えば、「法華折伏破権門理」という言葉は日蓮聖人は一言もいってません。一度もお引きになっていないのです。ところが日蓮聖人の摂受折伏について書いてあるもの見ますと、ほとんどこれが引かれているんです。そういうところ、きちっとおさえていかないといけないということになると思います。
 それから、その次の摂受折伏の㈫これは、七十三頁のところですが、上段は、『密教大辞典』ですね。ご覧いただくと、見出しに摂受折伏というふうにありますが、この折伏というのは特に密教で盛んに使われた言葉であります。二段目にありますように、折伏法、真言密教の祈祷ですね。降伏と云ってもよろしいし、その次の行調伏でもよい。その調伏法の説明の一行目の一番下から「降伏法・折伏法・破壊法とも名く」とある通り、五大明王を祀って営む修法なんですね。これは日蓮聖人の時代には、盛んに行われていたわけであります。したがって、私があとで申し上げますように、日蓮聖人というと折伏をしたということが盛んにいわれるんですが、実は日蓮聖人は折伏したということは自分では全くおっしゃってないんで、逆に折伏されたということばっかりおっしゃっています。流されたとか、首を斬られそうになったとかですね、折伏をされたということをおっしゃっています。それは当然なんで、新仏教を弘めようとする聖人に対する折伏が盛んに行われたという事実を無視して、調伏・摧伏・折伏というと日蓮聖人の専売特許みたいに思ってですね、無責任な発言をするという状況が少なからず認められます。それで、あとからまた問題になりますけど、左側二段中断の左側、これは『浄土宗辞典』でありますが、四行目下の方「一般には折伏を摂受のための前段階」であるとしています。つまり宗教の基本は摂受であるというのが一般的な、仏教的な考え方であるわけであります。ところがその二行あとに「日蓮宗では末法の時代においては、方便の教えを信じているものの迷妄をまず破らなければならないとして折伏に重きをおく」といって、日蓮宗は特異な存在であると云っています。こういうふうに理解されているんですね。基本的には仏教は摂受なんで、折伏は前段階なんだけれども、日蓮宗では折伏こそ大事だといっているっていうんで、一般性から軌道を外しているのが日蓮宗だと、こういうふうに他宗の辞典に書いてあります。下段の『仏教大辞彙』(龍谷大学)、真宗の系統の辞典でありますが、その四十三行目です。「折伏は只摂受が為の前関を張るに過ぎざるなり。」とありますね。折伏はその前段階にすぎないんだということですね。「然るに日蓮宗に於いては之に反して」といって、日蓮宗だけが特別なんだと、ここでも云われていますが、こういうのが仏教界一般の理解です。ところが実は、日蓮宗系でも、後に申し上げるように摂受が基本であって、折伏がその前段階であるということをいってる方がいらっしゃる。俗人では宮沢賢治もいってるし、高山樗牛もいってます。本宗では茂田井教亨先生がはっきりと『宗義大綱』解説書でおっしゃっている。それが現宗研の紀要の第八号に載っていることを三月に申し上げた。それが宗会も通ってるので、日蓮宗の基本は摂受にあるということは宗是であるということ。このことをないがしろにするのは許されないことであります。
 さて、仏教的な理解ということについて私の専門分野である文学に係わってまいりますけれども、六十七頁の、摂受折伏の㈪です。それをご覧いただきますと、下の段の『禅宗辞典』にですね、折伏という項目がありまして「摂受に対す。悪人悪法を折き伏するをいふ。破邪に同じ。『沙石集』に「不動の折伏、地蔵の摂受、文武の政務四海を治むるが如し」とあるというところがあったんです。それで『沙石集』の作者は無住道暁あるいは無住一円ともいいますけれども、無住さんは日蓮聖人と同じ時代、一二二六年の生まれですから、日蓮聖人よりも四才下の方でいらっしゃるんですね。ですから全く同じ時代の人ですが、当時そのようなことが言われていたことが分かります。その左の『沙石集』を、これは岩波の古典文学大系本でありますので、梵舜本を底本としています。それを見ますとですね、二行目に線を引きましたように「地蔵ハ大日ノ柔軟ノ方便ノ至極、不動ハ強剛ノ方便ノ至極(ト)イヘリ。只責伏摂受ノ至極也」とあります。折伏という字が全然違いますけれども、いろんな字を使っているんですね。「世間ノ文武ノ政務ノ」如しということで、こういうなことがいわれている。日蓮聖人の御書とされるものでは『佐渡御書』に、文武の二道のようなもんだというのがございます。ただし『佐渡御書』がご真蹟であるかどうか分かりませんけども、文武二道ということが中世にいわれていたことは確かです。武家時代ですから特にそうなんだと思います。その左に『太平記』、これも成立は日蓮聖人よりあとですけれども、日蓮聖人時代の思想と係わってるわけですが、八行目に文武二道と同じだということが出ています。それから十行目ですね、「折伏・摂受ノ二門アリ。其摂受ト者、柔和・忍辱之貌ヲ作シ慈悲ヲ先ト為ス、折伏トハ、大勢忿怒ノ形ヲ現ジ刑罰ヲ宗ト為ス」。こういうのが、一般的な仏教界で通用している考え方であります。それでその上に西源院本とか、梵舜本とか、元久本とかありますが、その西源院本の『太平記』では折伏という字が使ってある。同しところが梵舜本では摧伏になっている。それから元久本では降伏になっている。要するにこういう言葉は、特に折伏だけが取り立てられているわけじゃなくて、非常に一般的な言葉としてですね日蓮聖人の時代には使われていた。特に密教系でですね。そして忿怒形、不動明王が折伏の形相であるということであるわけです。
 それからちょっと変わったことはですね、『太平記』のところですけれども、これも岩波の古典文学大系をコピーしたんですけれども、古典体系本は梵舜本を底本としいているということなんですけれども、その梵舜本は、先程見たように摧伏という字が写本には使われているんですね。ところが活字本では、折伏という字になっているわけで、ですから写本の中でも写す人が摧伏と書いたり折伏と書いたり降伏と書いたり調伏と書いたり、別にこれは特種な言葉じゃないんで、一般的に書いているということが分かるわけですね。ですから、特別扱いしない方がいい言葉なんですね。ところが日蓮教団にあっては、折伏だけが特異語となったのです。
 それから、覚書があります。日蓮聖人のものとしては『佐渡御書』に「仏法は摂受折伏時によるべし、例えば世間の文武二道の如し」というのがある。これは、時代の中で作られている言葉ということになります。それから、先程申し上げましたような摂受と折伏がいずれが先かということは、『浄土宗辞典』とか、龍谷大学の『仏教大辞彙』にあるということ。それは七十三頁の摂受折伏の㈫ですね、これも先程見ましたですね。中段の左方の『浄土宗辞典』では、四行目から五行目のように、折伏は摂受のための前段階。それから『仏教大辞彙』では四十三行目では折伏は摂受のための前関を張るに過ぎない、そういうものだということであります。摂受折伏の資料の㈰に戻りまして、その『日蓮宗事典』の十行目の『開目抄』では何を言っているかというと、十六行目のように「折伏を前とす。常不軽品の如し」と。その次の行に『如説修行鈔』を出していますね。それから下の『日蓮宗事典』の折伏の段、一番下の段では六十六行目から七行目、ここにも『開目抄』と『如説修行鈔』が出てまいりますね。そういうふうに、とにかく『開目抄』と『如説修行鈔』一点張りでいわれているということが、問題なのであります。摂受と折伏と比べれば、摂受が根本であって折伏が前段階だというようなことは、日蓮宗の方でも言われているということを申し上げました。それは先程の甲へ戻っていただきますと、上段の後ろから三行目、つまり『宗義大綱』の摂受折伏の説明、二縦線を引きましたように、「折伏と摂受にはその要用に前後がある」といって「前後」という言葉がはっきりとありますね。このことについて、『宗義大綱』が出来た昭和四十二年時点の片山総長が、分かり易い解説書を作ってほしいと日教研に持ち込んだ。そこで日教研の望月所長から依頼を受けた現宗研の茂田井所長によって解説がほどこされた。それが『現宗研所報』の第八号に載っているのですが、下の段の真ん中「如来の第一義諦に帰着せしめるには、摂受の化によるほかありません。〈その行用に前後がある〉というのはその意味からで、折伏のあとに摂受があるのであって、摂受のあとに折伏があるわけではありません」と明確に言っておられるんですね。ですから日蓮宗の宗是とされるところではですね、仏教界の常識に背くものではない。前に見たような浄土宗の辞典や、真宗の辞典に書いてあったような、日蓮宗だけは違うんだというのは間違いなんであって、日蓮宗は明確に摂受が根本であり、折伏はその前段階に過ぎないんだということを言っているのであります。
 そのことについてですね、不軽菩薩の㈭をご覧下さい。その左側第十四回勧学院研修会議(平成十四年一月二十四日於京王プラザ)「『日蓮文芸』のよみがえり」と題して石川教張師がお話しなさったのですが、その中で高山樗牛の発言、八行目に線を引きましたように、「(日蓮聖人の)激烈なる折伏は、広大なる摂受の準備として慈悲の発表と見る」とあります。折伏を日蓮聖人がしたとしてもそれは摂受の準備に過ぎないんだということを樗牛がいっているし、それから下の段の一番右に、「法華経の化導に導いていくという摂受の準備」として折伏があるのだとも云っています。それでそのことと関連して、次の項目は日蓮的という㈫に移ります。
 日蓮聖人は摂受と折伏の概念について、どのようにおっしゃっているかというのはですね、私の論文をご覧下さい。『日蓮論形成の典拠をめぐって』という論文の一番最初のところ、二百十五頁ですけれども。まず一般に云われているのは非常に曖昧な発想でして、摂受は軟らかい説き方、折伏は激しい説き方だと云います。しかし、激しいとか激しくないとかは相対的なことで、激しいというのはもっと激しいのよりは軟らかいんですから、限りなく曖昧なことですね。ですからそういう相対的なことでは、問題は解決しないわけです。そこで例えば摂受というのは、非常にソフトな説き方であると一般的ではいわれますけれども、論文の最初の二百十五頁の真ん中ぐらいに、『勝鬘経』とあり、摂受・折伏となっていますね。これは日蓮聖人のご真蹟断簡ですが、日蓮聖人は『勝鬘経』で摂受折伏が対概念とされていることを学んでいることが分かります。その『勝鬘経』にはどういう事が説かれているかというと、後ろから四行目下の方、摂受が「身命財ヲ捨テ、正法ヲ護持セン」とする調伏の大願であるということが明示されています。摂受を軟らかいソフトな説き方だというだけでは問題の解決にはならないということは明確ですね。摂受というのは身命も捨て、財産も捨てて正法を護持する、そういう調伏の大願であるといっているのですから。日蓮聖人はそういう摂折観を学び、身に付けておられる、ということでありますので、ただ軟らかい説き方、つよい説き方というような分類は、全くナンセンス。概念規定にならないということであります。では日蓮聖人はどういう概念規定を持っておられたか、ということがこれからのテーマでありますが、それは次の二百十六頁に書いておきました。
 最初から読んでみますと、「強盛の菩提心を起こして……」日蓮聖人の御遺文によく「強盛」という言葉が出て来ますが、これを強烈な行為だから折伏だというように短絡させる方がいらっしゃるけども、ここで明らかなように強盛なのは菩提心なのであります。挫けない心であって、それは折伏でもなんでもないわけですね。さて「強盛の菩提心をおこして退転せじと願じ」、「身命財を捨てて」邪法を「調伏」するというのは、これは摂受にも折伏にも通ずる宗教行為なんですね。これは宗教者としては絶対やらなきゃいけないことなのですよ。身命財を捨て、そして邪法を調伏するというのは宗教者としての使命であって、それは摂受とか折伏とかどっちかに類するものではないわけですね。ということを「認知していていた日蓮聖人は、摂受折伏との概念の相違をいかに捉えていたのであろうか。この疑問に対する回答は『開目抄』に引かれている前記の諸書からの引用中に」、つまり天台大師のとか、『涅槃経』とかの文章中に明らかであるというわけです。究極的に摂受と折伏とはどう違うのかということを日蓮聖人ははっきり言っておられる。そこで四行目「止観ニ云ク、夫レ仏ニ両説アリ。一ニハ摂・二ニハ折ナリ。『安楽行ニ長短ヲ称セズ』トイフ是レ摂ノ義ナリ」。「義なり」といっているのですから、定義であるということを明確にしていますね。それから『大経(涅槃経)』に「『刀杖ヲ執持シ乃至首ヲ斬ルトイフ』、是折ノ義ナリ」と明確に定義づけをなさっているわけです。さらにその先を読みますと、一行飛ばして「弘決ニ云ク」とあります。『弘決』ですから妙楽湛然ですね。「弘決ニ云ク夫レ仏ニ両説アリ等ハ大経(涅槃経)『刀杖ヲ執持シ』」、それで次の行にいきますが、「『若シ更ニ為スコト有レバ、当ニ其ノ首ヲ断ツ』」といっている。「是ノ如キ等ノ文、竝ビニ是レ破法之人ヲ折伏スルナリ」。日蓮聖人は武器を取ったり首を斬ったりするのが折伏だということを明確にいっておられる。またそういうことが盛んに行われていた時代であったわけですね。それで日蓮聖人自身も、首を斬られそうになられたわけですね。つまり折伏されてますね。つまり摂受折伏ということの概念規定は、強いとか弱いとかいうことではなくて、究極的にどういう違いがあるかというと、首を斬ることまで含めた武力・暴力を肯定するかしないか、そこに摂受と折伏の差があると。これが日蓮聖人のお考えであって、それ以外のことは言っておられません。
 それで日蓮聖人が摂折行ということをお考えになるときに引用するのは、『涅槃経』以外ありません。それで、『摩訶止観』も『涅槃経』を引いているところ。それから湛然の『弘決』もそうです。それから章安の『涅槃経疏』、これを『開目抄』に引いていらっしゃいます。『行敏訴状御會通』という御書がありますね。その中に、日蓮というのはとんでもない奴だから首斬れといわれてることが出てくる。そこにも『開目抄』と同じ四つの文献を引いて反論をしていらっしゃる。それ以外ありません。ですから、摂受折伏という言葉の概念というところの、㈫日蓮的というところではそういうことが申し上げられる。繰り返しになりますが、一般に、軽く折伏だ折伏だというようなことをいっているもんですから、『浄土宗辞典』などに引かれているように、日蓮宗は特別だというふうにいわれてしまうんですけれども、日蓮聖人ご自身の御遺文を忠実に、着実に読んでみるとそういうことはないということです。
 そこで次は㈪ですね。『開目抄』の「常不軽品のごとし」の一句と『如説修行鈔』の真贋についてですが、まず「常不軽品のごとし」という一句について申し上げます。これは、資料の五十七頁の、摂受・折伏の㈰ですね。そこに原文が引かれていますので、それを見ますと、上段の十一行目からそうなんですが、「夫摂受折伏と申す法門は水火のごとし。火は水をいとう。水は火をにくむ。摂受の者は折伏を笑う。折伏の者は摂受をかなしむ。無智悪人の国土に充満の時は摂受を前きとす。安楽行品のごとし。邪智謗法の者の多き時は折伏を前きとす。常不軽品のごとし」とあります。これは『昭和定本遺文』の六百六頁なんですが、下の注にですね、これ日乾本にはないということが書いてあるんですけれど誰も気にしていない。ところが、これが大問題なのであって、不軽菩薩を折伏だと言っているのは、ここだけなんですよ。不軽菩薩は逆化折伏だと盛んにいわれてますけれども、根拠はここだけなんです。ですからここが日蓮聖人の言葉じゃないということになると、これまた大変なことになるわけですね。いろんなところの教科書を全部改訂しなければならないことになるんです。それで、この「常不軽品のごとし」というのは、前に「安楽行品のごとし」とあるのに合わせて入れたんだというふうにあっさりといわれる方がいらっしゃるんですけれど、この「常不軽品のごとし」というのがあるはずのない言葉だということは、いくつかの例を挙げて証明できます。今は時間の関係で、一つだけ申し上げます。
 この論文の二百二十五頁「用語法の不統一」というところをご覧いただきたいと思いますが、日蓮聖人の遺文中に不軽菩薩関連の呼称を尋ねると、「不軽菩薩」という言葉が四十一回出て来ます。それから「不軽品」というのが十回出て来ます。それらを略した「不軽」というのが八回出て来ます。計五十九回日蓮聖人は使っておられます。これはその二行あとにありますように本稿が対象とする二二二篇の遺文、つまり真蹟類ですね。その中に五十九回出てくるんです。これを拡大して、第一巻・第二巻の全遺文四三四篇全部あたってみると九十九例があるんですけども、その中で不軽菩薩に「常」という冠詞が付くのは一回もありません。『開目抄』のここだけです。それ一つ見てもですね、これは日蓮聖人の言葉ではないなということが分かるわけですよ。しかも、ある時期だけとか、ある地域にいた時だけとかじゃなくて、若い頃から亡くなるまでのすべての御遺文、そこに百回くらい不軽菩薩、不軽品、不軽という言葉が出てくる。つまり常不軽ということは言わないのが日蓮聖人なのに、『開目抄』のここだけに「常不軽品のごとし」とありますね。誰だって、見ただけでこれはご本人の文書じゃないなと分かるじゃないですか。そういうことが他にもいくつか言えます。この論文でいうと三番目の証拠でありまして、まだ一も二も四もございますから、あとでゆっくりとご覧いただきたいと思います。そこで、つまり不軽菩薩は折伏だというのは、日蓮聖人の言葉でないということになると、自分は不軽菩薩の後を承継する者だということをはっきり言っておられる日蓮聖人は折伏の人ではないということになります。
 それでは先を急ぎまして、今度は『如説修行鈔』について申し上げます。『如説修行鈔』については、この論文の二百二十六頁からなんですが。この「如説修行」という言葉は非常にいい言葉で、「説の如く修行する」というのですからいろんな経典にたくさん出てきます。『法華経』の中にもあちこちに出てきます。ですけれども、如説修行をしてどのようになるのだという具体的なことは殆ど述べられていません。つまり如説修行すれば功徳があるということはどこにも書かれているんですけれども、具体的にこういう功徳があるという事はほとんど説かれていないんです。ところが一箇所だけあるんですね。それは「薬王菩薩本事品」です。「薬王菩薩本事品」には「如説修行すれば、阿弥陀の極楽に生まれる」と書いてあります。そこで、この「薬王菩薩本事品」の教えは、日蓮聖人時代にどのように受け止められていたか、ということを検証しなければいけないわけですね。そこで、これを調査したところ大変なはやり言葉になっていた事が判明しました。大流行しているんですよ。この論文の二百二十六頁から七頁にかけて書いてあるんですが……。
 平安時代の半ば以後。例えば、二百二十七頁の慈鎮の歌、天台座主までやりました慈鎮ですが、「わぎもこも教ふるままに行へば終わりうれしき道とこそ聞け」と詠んでいます。「わぎもこも教ふるままに行えば」、というのは如説修行すればということで、そうすれば極楽往生が保証される、という喜びの歌です。同じ慈鎮が「夕月夜さすや岡べに露消えて西にひらくる女郎花かな」とも詠んでいます。「西」というのはもちろん阿弥陀の西方極楽浄土ですね。「西にひらくる女郎花」といって、女人成仏が詩われているわけです。それから瞻西の「むかし見し月の光をしるべにて今宵や君が西へゆくらん」、阿弥陀仏の導きによって必ず西方浄土へ生まれられるよというんですね。日蓮聖人と同じ時代の藤原俊成は、「頼むかな露の命の消ゆるとき蓮の上にうつし置くなる」、必ず極楽の蓮台の上に生まれるんだと詠んでいます。それから後白河法皇編の『梁塵秘抄』には、「女の殊に持たむは 薬王品に如くは無し 如説修行 年経れば 往生極楽疑はず」という今様が収録されています。これは当時の流行歌です。前の詩は貴族階級の和歌でありますけれども、いまのは流行歌ですから一般民衆にまで詠われている歌ですね。つまり如説修行の者は極楽に生まれるという考え方は、特に女人はそうだという考え方は、一般的に普及していたわけですね。そこでこれは女人だけなのかなと思ったら、『今昔物語集』の中に、男も「薬王品」の如説修行で極楽に生まれるという話が出ていました。第十七巻の第四十話です。
 そういうふうに「如説修行」といえば「極楽往生」と、すぐ頭に浮かぶのが日蓮聖人時代の一般的な風潮だった。そういうことに気がつくと、日蓮聖人はうっかり「如説修行」という言葉は使えないな、ということがおわかりになるでしょう。問答の達人である日蓮聖人がですね、「如説修行」といって、念仏者からですね「極楽に往生すると法華経に書いてあるじゃないか」と突っ込まれるような事を言うはずは無いですよ。そこで日蓮聖人の御遺文全部調べましたら、「如説修行」という言葉は一回も出てきませんでした。一度もですよ。これまた大変な発見ですね。さすが日蓮聖人です。にもかかわらず『如説修行鈔』だけにこの言葉がいっぱい出てくんですよ。あ、この御書は偽書だなと分かるんです。そこで、具体的に見ていただくために、『如説修行鈔』全文をプリントにしてあります。九十七頁。ご覧頂くと分かりますように「如説修行」という言葉がどんどん出てきますね。日蓮聖人が他の御遺文に一回も用いたことのない「如説修行」という言葉がこうやって十三回も出てくるんですけれども。この御書は怪しいと思わなきゃおかしいですよ。
 先程申し上げた、下段の六十行目の「法華折伏破権門理」。これも日蓮聖人は一回も使ってない文句なんですね。日蓮聖人は折伏という言葉がお嫌いなようですよ。それで折伏という言葉が出てくるのは排除しています。こういうようにして偽書だということに気がついてみると、確かにですね、下段の六十一行目波線を引いたところご覧下さい。「鶏の暁に鳴は用也」、つまり普通の作用である。ところが「宵に鳴は物怪也」。「権実雑乱の時、法華経の御敵を責めずして山林に閉籠り、摂受を修行せんは豈に法華経修行の時を失う物怪にあらずや」。権実雑乱の今、法華経の敵を責めないで山林に閉じ籠もって摂受を行うのは物怪だとありますね。誰のことを云っているのでしょう。日蓮聖人をさしてるじゃないですか。この言い方は、日蓮聖人が身延山にお入りになってからでないと、こういうことは言えないじゃないですか。似たような言葉が昔から偽書とされている『聖愚問答鈔』にありますので、それを左の上に引いておきました。それから下の段の『祈祷経送状』、これも偽書ということがはっきりしているんですが、そこに「御山籠ノ御志シノ事」とありますね。「凡ソ末法折伏ノ行ニ背クト雖モ」今は病気だからしょうがないと。しかし「假使山谷に籠居候とも、御病も平癒して便宜も吉候ハ、身命ヲ捨テ」折伏をやってほしいと、こういうふうにいっている。こういう偽書と同じ事が『如説修行鈔』にいわれているわけです。ここに山林に籠もることが摂受だという言い方がされていますが、この辺から摂受折伏の概念規定が曖昧になってくるんですよ。なぜ山に籠もるのが摂受なのか。それから左上の『聖愚問答鈔』には折伏という言葉がでてきますが、山に入るのが摂受で敵と戦うのが折伏だというこういう発想ですね。そうした摂受折伏という概念がこの辺から、根拠無しに出てきてしまっている、そういうことがいえるわけであります。
 そこで、五十七頁の資料、摂受折伏の㈰であります。『日蓮宗事典』でありますけれども、二十八行目、「聖人は末法の時代の謗法充満の国においては、専ら折伏を用うべきであると」教えたのだけれど、三十三行目、「ところが聖人滅後、教団の伸張に伴い弘通の方軌としての摂折二門の進退用捨が論ぜられるようになった」、具体的にいうと、五十一行目「寛容な摂受的な日昭・日朗・日向らの五師と」つまり五老僧と、「内外共に厳粛な折伏主義に立つ日興との対立であった」ということです。直弟子の頃から摂受側と折伏側が対抗していた。それから縄をなうように摂受折伏ということがいわれてきたのが、日蓮門の歴史であるわけです。近代どうなったかといいますと、百七十二行目、「遂に宗門の大勢は摂受論に帰した」。日蓮宗は摂受論に落着いた。「そして折伏論はむしろ田中智学らの在家仏教者の間に継承されていったのである」、というところで摂折論という項目が閉じられているんです。日蓮宗は摂受主義。折伏主義は、田中智学らの在家仏教者の間に継承されていくという事になったわけなんですね。
 そこで、具体的にそのことを見るために引きましたのが、摂折論の㈬です。田中智学の『本化摂折論』ですが、その八行目「乃で摂折異目の分別をなされた御自判はと謂ふと、別して『開目抄』と『如説修行鈔』の二書を挙げねばならぬ」とあります。もう決まってるんですよ。『如説修行鈔』と『開目抄』を挙げるのが。…………そして『開目抄』に、としまして「折伏ヲ前キトス、常不軽品ノ如シ」とある。この「常不軽品の如しの一断案は、実に全仏教の進退と諸宗の成敗に於ける、破天荒の=cd=61a3断である」と云っています。常不軽菩薩を逆化折伏とした、それが日蓮聖人のオリジナルであって素晴しいことなんだというようにおっしゃる。それから次の行には「『如説修行鈔』が即ち全篇折伏立行の専証である。『開目鈔』の義判と相照らして完璧満光して居る。」これは血涌き肉躍るような文章なんで、ぐっと引かれかねないのですけれども、この二書が偽書だと私はいっているわけなんですね。それで、一番左をご覧いただきますと、『聖愚問答鈔』について、昔から偽書ではないかといわれていることに関し、「直ちに偽書だと決し去らうとしたのは、随分ともに乱暴の話しである。これが設ひ他人の筆になッたものとしても、理義正確にして祖意に的合して居れば、依用しても毫も差支えはないのである」とあります。この論法の方が随分乱暴な話で、他人の筆になっても理義正確にして祖意に的合していればとする判断は本人がするんですから、この調子で放言されたのでは学問はまったく成り立たないわけですね。
 不軽菩薩に関する論法も全く同じです。「聖祖に至って「不軽品」が折伏主義の原則なることを発揮されたのは、摂折法門に於ける千古の断案なるのみならず、実に仏教諸問題に於ける破天荒の解決である」とありますが、これは例の『開目抄』の一節に拠っているのですね。こういうことを学問的根拠無しにおっしゃった上で、「摂受の本拠として安楽行品を取ることは、台当両家一貫しているが折伏の的証としては、さてこれがといふことを、天台大師も言わない、局部的に「陀羅尼品」の一句(頭破作七分の文)を挙げたばかりで、明らかに組織的説明説相に於ての断案は示さない、畢竟時節が来ないから遠慮したものである」と云っています。天台大師が日蓮聖人に遠慮なさったというのですから、スゴイ発想です。もっともそういう調子が日蓮宗系等の学者先生の中にも見られないわけではありません。『開目抄』の例の一節によって、不軽菩薩を、どうしても折伏の人であるとしなければならないという使命感にかられてのことでしょうから、お気の毒だと思うのですが、例えば下の石川海典師の『摂折論概説』にしても「勧持品が折伏主義であることは多言をまたないが、しかし弘通の方軌としては安楽行品の整然たるに比すべくもない。この勧持品の欠陥を補ひ、大折伏主義の相関を展開したのが不軽品であり、その然ることを力説されたのが聖人であった。天台大師は種々の理由と事情とに制せられて不軽品については深く之を説かず、少なくとも法華折伏の本據としての不軽品については、その片鱗を示されなかった」というのですから、田中説の踏襲です。もうお少し申し上げますと石川氏は、「不軽はあらゆる忍苦に堪へ、果ては逃げ去る上慢の大衆の後を追うて彼等を礼拝した」というんです。こんな事全然書いてありませんよ不軽品に。先入観というのは恐ろしいもので、不軽菩薩は折伏だという先入観があるから、不軽菩薩を見て上慢達が逃げたと妄想してしまったのです。それから、その次ぎも非常におかしな事なんですが「『但行礼拝』もそれが摂受的である限り、之を迫害し悪口し打擲するわけがない」とある。摂受的であったら迫害されないっていうんですね。そんなことないでしょう。次の行にも、「迫害の尋常ならざる点から観ても、それがいかに徹底せる折伏行であったか」とあります。全く論理が成り立っていないんですね。こんな調子が、あちらこちらに出てくるんです。次のセクションでもそうです。「此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王となって愚王を誡責し、摂受を行ずる時は聖僧となって正法を弘持す」という『観心本尊抄』の一節について、「此の聖僧の獅子吼を摂受としてあるが、其の実は折伏である」というのですが、こう言われてしまったらなんにも言えないんですね。日蓮聖人は摂受といっているけれども、あれは折伏なんだと、こういう調子なんですよ。論理性全くなし。事実、「聖人一期の大獅子吼は本化の上首たる上行菩薩が、聖僧と示現して正法を弘持した以外のものではない。随って、之を若し摂受と云ふのであるならば、聖人には折伏」がなくなってしまうから困る。「法華折伏破権門理は一の空文に帰するであろう。」と云って、日蓮聖人が一言も言っていない『玄義』の文句をもってきて、それが空文に帰するからいけないんだと云うのですから全く論理が通っていません。こういう調子で折伏日蓮が形作られてしまっている。これは恐ろしいことなんですね。
 だいぶ厳しいことを申し上げましたが、一方、折伏一点張りではない発言も見えます。六行目ご覧下さい。「出家たり僧たる者の折伏は、之を在家たり俗たる者の折伏に比する時は摂受と云はれる、口業の獅子吼は身業の武力に比すれば猶摂受なりといふ意味に外ならない」。次のところには「出家の摂折は、在家のそれに比する時、摂受と見られるべきである。元来謗法斬首といふような荒療治は、之を身・口・意の三業に配して見ると身業に属する。在家の折伏行に壮烈なる武力を許した涅槃経も出家の折伏行には親附国王とあって武器の使用は更なり、その携行すら許されていない。即ち出家の折伏は口業の獅子吼であり口だけの折伏である。此の点から観て、僧の折伏は在家の折伏と大いにその面目を異にする。之を摂受と名づくるも可なるべく。少なくとも在家・出家の異なるにつれて、同一の折伏に剛柔寛厳の甚しき程度の差のあることを注意すべきである」。これを読んで、何か息苦しさを覚えませんか。本当に言いたい事が言えないという、もどかしさが感じられます。その点、望月歓厚先生の『観心本尊抄講義』の発言はスッキリしています。「身形に約する分別は、これ摂折の大判にして当家の摂折の問題は皆今の僧形摂受の内の分別であって、王形の折伏を出家の行ずべき理由はない」。正しいですね。当然ですね。つまり宗教の、仏教の、特に法華経の根源は摂受である、ということは天台以来いわれているし、日蓮聖人もそれを御書に引いていらっしゃる。
つまり摂受が根源なんだけれども、その前段階に折伏がある場合がある。だけどその折伏は俗形のすることであって、僧に折伏があってはいけないのです。そこで、よく伺うことはですね、不軽菩薩が但行礼拝したのを逆化折伏だというのがぴんと来ないという悩みをお持ちの方がおられるんですね。そういう悩みについては、ここの所にはっきりと答えられています。つまり、不軽菩薩は僧なのですから折伏をすることはあり得ません。但行礼拝を折伏だとするのは間違いだということです。だいたい、不軽菩薩の話はジャータカですよね。物語ですから、不軽菩薩は絶対捕まらないんですよ。そこで、不軽菩薩が逮捕されたと仮定して下さい。その際に不軽菩薩はどうするでしょう。わめき立てたり、相手にくってかかったり、暴力をふるったりするでしょうか。不軽菩薩は何れもするはずはないじゃないですか。泰然として殺されていくはずですよ。転重軽受の法門を信じて、如何なる事態にも泰然として応じようとなさったのが晩年の日蓮聖人であったでしょう。それは、不軽菩薩を理想像と仰いだ者の当然の生き方だったのです。摂受折伏のプリントの話の最後は、摂受を徹底した人物として不軽菩薩が登場することになったわけですが、次にはその不軽菩薩の方のプリントに移ります。不軽菩薩の㈰は、十九頁ですね。日本で日蓮聖人の時代に不軽菩薩がどのように受け入れられていたかということを知らないといけませんので、『源氏物語』『西行物語』それから『明月記』を引いておきましたけれども、『源氏物語』でいいますと十二行目、「阿闍梨は言少なにて立ちぬ。この常不軽、そのわたりの里里、京まで歩きけるを、暁の嵐にわびて」というところがあります。そこに出てきた阿闍梨というのは、宇治八宮という方の護持僧であって、その阿闍梨が供養のために「常不軽をなむつかせはべる」とありますね、常不軽の修行は「つく」という言葉が使われます。「つく」というのは、「ぬかずく」ということで、お辞儀をすることですね。つまり但行礼拝ですから、人を見ては拝んで歩くというのが常不軽行です。ところで、今申し上げたいことは、その前の行の下の方に「暁の嵐にわびて」とありますように、決して楽な修行じゃないということです。ですから、それを承けた歌が、その欄の後ろから二行目の和歌、光源氏の子の薫の歌ですが、「霜さゆる汀の千鳥うちわびてなく音かなしきあさぼらけかな」。詫びるとか、悲しいとかいっている通り、不軽の但行礼拝行というのはものすごく辛い修行なんです。決して折伏なんかしていません。専ら拝みまくっているだけです。そういう修行が日本でも行われていた。その左の『西行物語』、これは西行さんがですね、近江国に旅をしたときのことですが船に乗って座ってたら無頼漢がやってきて、そこの坊主どけと言って「むちを持てさむざむに打つ」とありますね。「西行のつぶりうちわられ」、西行の額が割られて「ちのおびただしくながれ」た。血がどくどく流れた。「このともなる入道」つまりお供をしてきた坊さんが、「あながちになきかなしむ」非常に泣き悲しんだ。その時「西行申ていはく、心よはくもなくものかな」、どうして弱々しく泣くんだ。「さればこそつれじ」、だから連れてこないといったんだ。「修行せんには、これにまさることこそおほくあらんずれよ」、こうやって殴られて、額を割られるより、もっと辛いことは修行にはたくさんあるんだと云って、「すこしも腹立つけしきもなく、かほにかかれるちをおしのごひて、かくぞくちすさみける」、平然と顔の血をふきながら「打つ人も打たるる我れももろともに ただひと時の夢のたはぶれ」と和歌を読みました。「不軽菩薩は五千上慢の悪道に杖木瓦石を恐ろしき杖にて打たれながら、打たんとするかたき、打たるる我とともに仏にならんとおぼしめして、我深敬汝等」という不軽菩薩品の二十四字の経文を、「唱へて、逃げにげ走」った。そして「打つともがらをおがみ給て、つゐに結縁となりてこそ仏にはなり給けれ」というのが不軽菩薩の行なんですね。ところがこれを逆化折伏だとおっしゃる方は、不軽菩薩は相手を地獄におとしてそれで結局救ったから、だから逆化折伏なんだというのです。不軽菩薩に、相手を一度地獄におとしてなどという、そんな企みがあるはずはないのです。ただ拝んでいるという、純粋な仏性礼拝であって、相手が怒るかどうか、打ちかかってくるかこないかは向こうの勝手なんで、いくらおだやかにあつかっても打つ人は打つし、打たない人は打たない。
それなのに不軽菩薩は拝んで相手を怒らせたのだという、ひどい解釈をする人がいる。困ったものです。それからその次の『明月記』、これは歌人として有名な藤原定家の日記であります。定家は一二四一年、日蓮聖人が二十歳の頃に亡くなっている人です。それをご覧いただきますと、「不軽礼拝ス」、「不軽礼拝ス」とありますでしょ。全部七月十四日でしょ。不軽礼拝行は、日蓮聖人時代、お盆の行事です。その次の不軽菩薩の㈪ですけれども、上の段に『今昔物語集』を引いておきました。その八行目に「不軽ノ行ヲ修テ、偏ニ母ノ後世ヲ訪ハム」とある通り、お盆の行事で、お母さんの追善のために不軽の行を行っています。「国々ニ行キ不至ヌ所無ク行テ」とあるように、日本全国回って拝む。これは大変な修行ですよ。こういう事をやってたんですね。例えば一つの例として、どのくらい拝んだかというのが、左の方の『後拾遺往生伝』の後ろから四行目、「十六万七千八百余家」巡って拝んだ人がいるんですね。それから下の段は慶政上人の『閑居友』という仏教説話集ですが、そこに「あづまのかたに不軽拝みける老僧の事」という見出しのお話しが載っています。これを引いたのは、先程の藤原定家の『明月記』の不軽行が都でのことですから。では京都地方だけかというと、そうじゃないということを見るためです。あづまのかたにも盛んに行われていた。十行目をご覧下さい。「七月十四日にぞ、高き賤しきもなく、このつとめを」した。不軽菩薩行は、高き賤しき、身分をとわず京都でもあづまのかたでも日本中で行われていた。そしてそれは非常に辛い、大変な血みどろの修行であるわけです。そして十六行目「すべてこの不軽という事の心は、衆生のむねのそこに仏性のおはしますを、うやまひ拝みたてまつる也」。これが不軽菩薩の但行礼拝の心でしょ。ですから、三十三行目にありますように、「また、かようによろづの人に仏性のほはします事をしりなば、人をにくみ、あざける事なども、おのづからとどまる中だちともなるべし」。というのです。この不軽菩薩の教えを守るようにしておけば、決して人々は恨んだり憎んだりすることはない。当たり前のことですけれども、そういうのが不軽菩薩の但行礼拝行であるわけです。
 次の不軽菩薩の㈫、そこには和歌と『梁塵秘抄』の今様を引いておきました。一番最初のは赤染衛門の歌ですが、「みる人を常に軽めぬこころこそつひには仏の身にはなりぬれ」という不軽礼拝の心髄を歌ったもの。九番目の「くるしくも行ふみちよあかつきのあらしにわぶる法の師の聲」、「あかつきのあらしにわぶる」、というのは先程の『源氏物語』の一節をふまえたものです。左の方は『梁塵秘抄』でありますけれども、その百四十番「不軽大士の構へには、逃るる人こそなかりけれ、謗る縁をも縁として、終には仏に成したまふ」というのは、まさしく逆縁下種を歌ったものですね。逆化折伏という言い方は間違いです。それから三十五頁が不軽菩薩の㈬でありますけれども、この『類題法語和歌集』というのは成立は江戸時代でありますけれども、日蓮聖人の時代、中世にも係わってくるわけで、そこにもたくさんの歌が引かれてそれに解説が加えられています。その次の四十三頁には、宮沢賢治の不軽菩薩の詩を載せておきました。そして、一番上の有名な「雨ニモマケズ」でありますが、この最後に「サフイフモノニワタシハナリタイ」といって、その後にですね、いわゆる一塔両尊四菩薩が書かれています。この「雨ニモマケズ」は、地涌の菩薩とか不軽菩薩のあり方を読んでいるわけですね。またその下の段にありますように、「不軽菩薩」という詩も賢治は作っています。その賢治は、左の下の欄の十八行目、「今の私は、摂受を行ずることはできません。なぜなら、自分の内なる心の中に、一切全ての現証を包摂、包み込んでいることができないからです」と云っています。自分はまだ未熟だから摂受はできない。というわけですが、「心の中に一切全ての現証を包摂する」というのは、「不軽菩薩」の詩でいうならば、「ここにわれもなくかれもなし ただ一乗の法界ぞ 法界をこそ拝すれと 菩薩は礼をなし給ふ」という部分の、一乗の法界と同化することでしょう。そのような域に達したのが、竜口法難を経験した日蓮聖人でしょう。だから日蓮聖人は『開目抄』の中に、日本の文法を逸脱したような文章を記しています。それは「去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ。」という部分なのですが、「頚はねられぬ」という場合の「ぬ」は完了の助動詞ですから、「刎ねられてしまった」ということになります。だから、『開目抄』を書いているのは魂魄であると、そういうふうにおっしゃっているでしょ。あれは、賢治がいっている「一乗の法界」を全て自分の中に包み込み得たという、そういう新生の日蓮聖人の宣言であると認められます。そういうプロセスを経て摂受の人格が徹底的になる、それが佐後の日蓮聖人でありましょう。
 後十五分ぐらいになりましたので先を急ぎます。プログラム3の『宗義大綱』と院長見解と、それから摂折に関する見解というところが残っているわけですが、まず『宗義大綱』については先程申しましたように、プリント甲の左上にある7が『宗義大綱』の全文で、そして片山総長の要請によって望月先生が茂田井先生に解説を依頼したのが下の段の真ん中で。究極は摂受の化によってのみ如来の第一義諦に帰すことができるんだということ、そして「行用に前後がある」というのは、究極的には摂受によって結実すると言うことをいっている。そうするとそれは、同じプリントの右下の『浄土宗大辞典』や『仏教大辞彙』の二重線引きの所にあるように、「折伏は摂受のための前段階」であり、「折伏はただ摂受がための前関を張るに過ぎない。」という仏教の常識と全く軌を一にするものであるわけです。にもかかわらず、そうでないことをいう人がいたために、いろいろな書物に、日蓮宗だけは特異であるということが書かれてしまってるんですね。これをなんとかしなければいけないと思います。院長見解というのが、左上にありますが、院長さんも今まで私が問題にしてきたことを、全面的には理解して下さってないようで、一行目に「現代は摂受か折伏かいずれか時宜に適しているかが議論されてきた」とありますが、私はそんなことは全然言っていません。宗義の大綱は時宜に適して左右されるようなものではない。私は、日蓮聖人の本懐が摂受であるといっているのですから、時宜に適しているかどうかといった低いレベルのことではありません。だけどもこの院長見解で、結局は『宗義大綱』にのっとるというのですから、これはそれでいいんじゃないかなと思います。
 したがって、八十九頁の摂受折伏の㈭をご覧下さい。まず真ん中の段から見ます。これは『宗義大綱読本』、平成元年に出たものなのですが、「摂受折伏」という項目がありまして、四行目ですね。日蓮聖人は「つねに摂受と折伏について問題とされ、折伏をもって末法応時の弘教の方法とされたのである」とか、十行目「聖人が開宗以来、専ら折伏主義に立たれたことは周知のことである」とか、二十一行目「折伏立教が本宗の大判であることは論を俟たない」とか、折伏ということを非常に強く言っているわけなんですね。これは教科書ですから、本宗の教師の方々はこの教科書で勉強させられているのかも知れませんけれど。しかし、二十五行目の左の(注)をご覧下さい。「摂受折伏については、日輝『弘教要義』『摂折進退論』および『日蓮宗読本』等を参照されたい」とあるんですよ。それでその左に掲載した『弘教要義』や『摂折進退論』を見ると、「折伏は、徒に相手の忿恚を増すのみである」とか、「他門に執心愛護の念を起させ、反って正道を知らしめない失がある」とか、「折伏は、貴顕・学者の軽侮を招く因である」とか言われており、また「今の時代は摂受の行を中心として行かなければならぬ」と教えています。本文の方で折伏・折伏と云っており、参照図書の方では摂受・摂受と云っているのですから、この本で学ぼうとする者はどうしたらいいのでしょう。なんとか早く修正しなければいけませんね。それから上段を見ます。これは『宗義大綱読本』の勧持品と常不軽品の解説です。その十七行目「勧持品は安楽行品の整然たるのに比ぶべくもない。そこで勧持品を補い、折伏の行軌を示したのが常不軽品である」とあり、二十一行目「不軽品は、常不軽菩薩の本事を説き、その折伏の行相を示して」とあり、二十七行目「この但行礼拝の行は、一切衆生の仏性を開発するための折伏行であった」、三十二行目にも「値難忍受死身弘法の折伏行」、一番最後の所もそうですが、『常不軽品』は折伏・折伏と何回もいわれています。これが『宗義大綱読本』です。次に一番下の段をご覧下さい、これは平成十一年に出ました『日蓮宗の教え』という本です。この本は「檀信徒版宗義大綱読本」と位置付けられているのですけれど、こちらの『常不軽品』の解説には「この常不軽菩薩の故事は、法華経の人間尊重の基本精神をもっともよく表しているものです。」とあるだけであって、折伏という言葉は一度も出てきません。
 一つの『宗義大綱読本』の、教師版と檀信徒版とに著しい違いが指摘されるわけですが、この一事に象徴的に現われているように、私たちは摂受・折伏問題に真剣に取り組み、ゆるぎない宗是を確立するようにしなければいけないと思います。

 

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