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現代宗教研究第38号 2004年03月 発行

世間の目線にたった布教(布教教化)について

世間の目線にたった布教(布教教化)について
(日蓮宗現代宗教研究所嘱託) 影山教俊  
 1 現代教化の問題点
○布教教化とは何か
 世間の目線にたった布教ということで、布教教化のあり方を考える場合、いったいこの「布教教化」とは何か、ということをはっきりさせる必要があります。それは私が確認するまでもなく、私たちが現在日常的に行っている「葬儀法要」ではないことは確かです。そもそも葬儀法要は布教教化の一つの場面であって、布教教化の目的ではないはずです。
 ではいったい布教教化とは何でしょうか。こう問いかけますと、この問いかけは、そのまま「宗教とは何か」という難解な壁に行き当たります。ところが、近頃問題になっている新宗教や新々宗教を例に取ってみますと、私たちがしごく当然と感じている「布教教化のあり方」の問題性が見えてまいります。
 そこにどのような問題性が見えるかといえば、それらの宗教団体が掲げているその思想は、オウム真理教や顕正会を例に取れば明らかなように、それらの宗教の主張する宗教理念は、仏教学や宗教学の学問分野から眺めれば、いとも簡単に否定できるほど稚拙なもののはずです。また相当数の会員を有する創価学会の主張する日蓮本仏論なども、日蓮教学や祖書学から眺めれば、日蓮聖人の宗教理念でないことは一目瞭然のはずです。
 しかし、それを実際の布教教化の現場から、宗教現象として眺めますと、オウム真理教は犯罪組織として法律によって社会的に制裁を受け、また仏教学や宗教学などの学問分野からも否定されているにも関わらず、教団名をアーレフと改名し、多くの信者が集い、依然として宗教活動は行われており、現在では教団解散以前の出家信者一〇〇〇人を超えようする勢いで、宗教団体としての体裁が維持されております。
 また顕正会は八三万人、創価学会にいたっては実質三五〇万世帯、公称八二一万世帯ともいわれる信者組織を維持し、その政治団体の如き公明党を抱えて、実質的に政権与党を牛耳っているという現実を率直に認めなくてはなりません。
◇POINT→このような現実的な視点に立って私たちを眺めますと、次のような「布教教化のあり方」の問題点が指摘できます。
 まず組織の成り立ちを眺めますと、日蓮宗という伝統教団は檀信徒という会員制の寺院組織で成り立っており、檀信徒のニーズである葬儀法要に応える形で機能しているはずです。つまり、檀信徒という会員制の寺院組織は、そのニーズに応えるべく葬儀法要対応型の組織運営をしている。
 ところが、創価学会という新興教団を例にとれば、私たちはよく創価学会の教義は「このように誤りである」などと創価学会船の船頭批判をしますが、実際の創価学会船には、日蓮宗を超える相当数の「会員」と称するこぎ手がおります。このこぎ手は、創価学会に葬儀法要を求めて入信しているのではなく、少なくとも「苦しみを解決する」などの現世利益を求めて入信しており、それは創価学会がそれなりに世間の支持を受けているという事実を物語っている。つまり、創価学会は葬儀法要のニーズに応える組織ではなく、それなりに世間の人々の「病、貧、争」などの情緒的な思いに応える形で組織運営をしている。
 ここで明らかになったことは、日蓮宗という伝統教団は、檀信徒の会員制で運営される葬儀法要のニーズの応える形の組織であるということ。かたや創価学会は、葬儀法要のニーズではなく、世間の人々の「病、貧、争」などの情緒的な思いに応える組織です。
 そもそも宗教というものは、社会の人々の情緒的な思い、人々の不安感や危機感といった情緒性をきちんと引き受けない限り、広がってゆかないということです。私たち日蓮船がこぎ手を作れずにいる理由は、社会の人々の情緒的な思い、人々の不安感や危機感といった情緒性をきちんと引き受けていないから、「世間の目線にたっていない」、という事実が指摘できます。
 世間の目線に立った布教教化とは、社会一般の人々の不安感や危機感といった情緒性をきちんと引き受けることなのです。
○私たちが当たり前に思う布教教化の問題性
 さきに問題を提起したように、オウム真理教や創価学会は、仏教学や宗教学、また日蓮教学や祖書学などの諸学問から完全に否定されていても、その宗教組織には多くの人々が集い、宗教団体としての体裁が維持されております。このような宗教現象をどのように理解すれば良いのでしょうか。
 それを端的に言ってしまえば、それは私たちが宗教の権威性を支えていると思っている仏教学や宗教学・日蓮教学などの学問性が、「宗教そのものを補償していない」ということであり、それは仏教学や宗教学の学問性と、布教教化のあり方は根本的に異なっている、ということを物語っているのです。
 これを宗門的な立場から言えば、ご存じのように現在の宗門の宗教的な権威性も、日蓮教学を担う立正大学や身延山大学の先生方の学問的な権威性、日蓮教学の権威性の上に置かれております。そうなると、やはりこれも布教教化のあり方とは根本的に異なるといえます。
 つまり、学問的に「知っていること」・「理解できること」と、布教教化のあり方とは違うということなのです。宗教的な知識をいくら知っていても、理解していても、その宗教的な知識が、宗教的な情操としてその人に具わらなくては、布教教化にはならないのです。
◇POINT1→このような現実的な視点に立って眺めますと、私たちが当たり前に思う布教教化の問題性が、次のように指摘できます。
 私たちは檀信徒という会員制の寺院で、葬儀法要対応型の組織運営をしている。そのため私たちの布教教化は、檀信徒のニーズである葬儀法要に重点が置かれており、社会一般の人々の不安感や危機感といった情緒性が引き受け難くなっている。
 なぜなら、檀信徒という会員制の寺組織は、葬儀法要のニーズによって成り立っており、また参列者の方々も葬儀法要のために集まっているのであって、自分自身の不安感や危機感といった思いを解決するために集まっているのではないのです。
 そのために私たちの布教教化の目線は、「死者を弔う」という葬儀法要の儀式に重点が置かれ、その儀式執行の意義づけを重要視するようになり、それが高じて布教教化のあり方が知識の伝達型へ、檀信徒に宗教的な知識を伝達し納得してもらう、というような布教教化のあり方へと変化している。
 それがために、日蓮宗という宗教組織の権威は、立正大学や身延山大学の先生方の学問的な権威性や日蓮教学の権威性の上に置かれている事実があります。どうも私たちは、自分たちの執行してる儀式に、そのような学問的な権威性の名の下で、教義的な解釈や説明することで納得しよう、納得させようとしている節があります。
 また布教方針となっている「伝える」というスローガンの趣旨も、檀信徒のニーズである葬儀法要に際して、その儀式の意義を伝えて納得していただくことに重点が置かれているようで、まさにこのような事実を象徴しているように思えます。
◇POINT2→創価学会などの「布教教化のあり方」は、宗教機能の具体化であることが指摘できます。
 ここで重要なことは「布教教化のあり方」とは、宗教機能の具体化ということなのです。
 さきのPOINT1で、私たちの布教教化は檀信徒のニーズである葬儀法要に重点が置かれ、社会一般の人々の不安感や危機感といった情緒性を引き受け難くなっている、と言った。その理由は、現状の寺院に人々が集まるのは、葬儀法要のニーズを求めているからということでした。
 では創価学会の場合は、如何でしょうか。現在では友人葬などが取り沙汰されておりますが、それは日蓮正宗と学会の分裂によって、僧侶抜きの葬儀を学会が模索した結果ですが、創価学会の会員は葬儀法要のニーズで入信しているのではなく、自分自身の不安感や危機感といった思いを解決するために入信したはずです。
 そこで辛いことや苦しいことが具体的に解決したからこそ、その組織の教えに従って入信したのです。つまり、「布教教化のあり方」とは、宗教機能の具体化として、社会一般の人々の不安感や危機感といった情緒性をきちんと引き受けることであるといえます。
 どうも私たちは、宗教的な知識を知っていることに重点が置かれ、宗教的な情操を身につけるということが苦手になっている。教化研究会議などの現場で気づくのですが、多くの方が教研会議を、「布教教化の方法やテクニックについて討議する会議である」と、思われている場合があります。
 水泳のインストラクターが、水泳理論を学ぶ以前に、まずは下手であっても泳げることが大前提であるように、僧侶という信仰のインストラクターは、信仰を伝える布教教化のテクニックを学ぶ以前に、「信仰による有り難いという宗教経験」が必要であるといえます。つまり、宗教的な情操が身についていることが大事なのです。
 カニが自分の甲羅の大きさに穴を掘るように、登山のガイドが自分の登った山へと初心者を案内するように、僧侶も自分の泳いだ「有り難い日蓮聖人の教え」へと檀信徒を案内する。
 ですから、教化研究会議とは、場合によっては自分自身の教化活動、信仰の大きさに、または信仰の小ささに気づくことであるかもしれません。この辺に布教教化の問題性、「世間の目線にたつことの難しさ」が見えています。
○布教教化のあり方は「看護学のこころ」に似ている
 ところで、医療ミスやその隠ぺい問題で社会的に批判を受けていた日本の医療界は、その治療に対する考え方を医療と看護に分離し、今までの医療の科学(医科学)に比して、看護の現場の声として、治療される患者側の立場から医療が模索された。その結果、現在は「看護学」が確立し、学術団体として看護学会が立ち上がるまでになっております。
 看護の現場では、医学的な知識を、知っていること、理解していることが求められるのではなく、その医学的知識によって実際に看護することが出来るという事実が、看護の機能が求められている、つまり、出来る、使えるという事実が求められているのです。
◇POINT→医学は病を治すための学問であるが、医学的知識をいくら持っていても、医療の現場では、その知識が具体的に機能しなければ、何のための医学であるかわからない。医学の目的は、病気を治すことである。
 では布教教化の目的とは何かといえば、それは宗教機能の具体化ということですから、社会の人々の不安感や危機感といった情緒性を引き受け、そのより所となること、それが「世間の目線にたつ」ということではないでしょうか。
○なぜ新宗教や新々宗教へと多くのヒトが入信するのか
 オウム真理教の犯罪性については、世間一般の方々はマスコミの報道で熟知しております。しかし、あれだけ悪い宗教というレッテルが貼られていても、名称をアーレフと改名しても、そこに入信するヒトがいるわけです。一度解散させられた組織ですが、現在すでに出家信者は一〇〇〇人に及ぼうとしています。
 私たちの布教教化の現場から見れば、どうしてそんなに悪い宗教に、「止めなさい」といわれていても入信したいという理由がとうてい理解できない。私たちは日蓮宗に入信してもらいたいのに、入信どころか檀信徒と称するヒトへのお説教すらおぼつかないのが実状で、それが悩みでみんな布教教化の勉強をするわけですけれど、布教教化の勉強によって、お話のテクニックなどの技術は上手くなりますが、そこから先に進まないわけです。
 ですから、なぜ彼らがその宗教は「止めた方がいいよ」と説明され解釈されても入信して行くのか、を研究すればいいのです。
◇POINT→その理由をごく簡単にいってしまいますと、彼らは、教義・教学を信じているから入信しているのではないのです。彼らにとってその宗教の組織は、自分の生まれ育った家庭より居心地がよいのです。お父さんやお母さんや、場合によってはご主人や奥さんといるより、そこが居心地の良い場所と感じているのです。家族といるよりそこにいた方が安心するという状況が、その宗教組織の中にあるということなのです。ここに、「世間の目線にたつ」ことの具体的な目的が見えているといえます。
○新宗教、新々宗教入信の背景について
 ここで「顕正会」の入信者の実際の資料を基にお話しますが、まず入信した子供さんの親御さんや家族が、うちの子供をカルト宗教から脱会させてください、という訴えから始まります。(現宗研発行『顕正会』2参照)
 まず、本人がきて、「私を脱会させて下さい、何とかして下さい」ということはありません。必ず親御さんなり、家族の方がきて、「うちの子供を何とかして下さい」というところから始まります。
 本人はどっぷり浸っていますから、親御さんや家族といるよりもそこの場所がいいわけです。その子供さんを脱会させるためには、いろいろなケースもありますが、まず本人をつかまえて説得するのでなくて、逆に親御さんと子供さんの関係を改善させるようにすると、その宗教から脱会しろなどと説得しなくとも、徐々に家にいる時間が延びて、やがて家に帰ってくるわけです。そういうことが、現実の事例で起きています。
 ここで、データから数字を挙げます。顕正会に入信している子供さん一三人のお父さん、お母さんの心理テストをしたデータがあります。やはり子供さんが宗教に関わる以前から、家庭の中で親御さんの間で溺れていたということが、よくわかる数字が出てまいりました。どんなふうに溺れていたのかといいますと、数字的には次のようになります。
 ☆顕正会入信者の両親に対する心理テスト(東大式エゴグラム)の結果
  実施数:入信者一三人の両親(二六人に実施)
  ・母親の母性性が高得点:一一人
  ・父親の母性性が高得点: 四人
  ・父親の父性性が高得点: 五人
 おわかりのように、母性性が非常に大きい親御さんが二六人の中で一五人、もう1つは父親性が強いお父さんが五人です。簡単にいいますと、母性性が強いというのは、高癒着・過干渉、子供との距離が近すぎていつも子供を抱えている状況です。父性性というのは、いいか悪いかにこだわりやすい人です。普通の数字では、こんな高い数字は出てこないです。つまり、母性性が強すぎたり、父性性が強すぎる親御さん方の二〇人に見られる、過干渉、高癒着、是非にこだわる反応によって、入信した子供さんたちは、家庭の中で親御さんとの対人環境で生み出される緊張感に耐えきれずにパニックになり、挫折を経験し、家庭の中であっても不安定に孤立していたことがわかります。
◇POINT→そういった対人環境で不安定になった子供さんが、顕正会に関わってゆく状況が見えてくるわけです。不安定であったが故に、新宗教関係のものに飛びつきやすい。これはまた顕正会の入信問題ばかりでなく、オウム真理教も、同じようなパターンです。つまり、悩んでいる方は宗教に親和性が高いということなのです。このあたりに、宗教に期待する「世間の目線がある」と考えられます。
○悩む方は宗教に親和性が高い事例(悩みごと相談室の事例)
 このように悩む方が宗教に関わりやすいということは、精神医学の分野では結構見られることであるらしく、筑波大学の名誉教授で精神科医の小田晋先生から、以前私はこのように聞いたことがあります。「お寺さんというのは伝統文化で続いていると思う?」と。 小田先生は面白い先生で、精神科なんていうのはいやらしい仕事で、本来は宗教家の仕事を分解して精神科がやっているだけの話だから、日本全国のお寺さんが一日1時間でも門を開いて、「悩む方のお話を聞きますよ」という状況を作ったら、精神科の受診率はおそらく半分に減るとおっしゃるのです。
 つまり、何も言わなくていい、白衣を着て待っていると胡散臭いやつだとみんな思う。身体の病の時には「先生、ここが具合が悪いから治してくれ」と言うけれども、「心が具合悪いから治せ」とは言わない。するとどうしてもそれはお寺の雰囲気の中で、お寺に行けば救われると思う。だからお寺というのは、場合によったら地域社会の心の安全弁として精神的な支えとして地域に機能していたのではないのか、というような言い方をなされます。
◇POINT→ところで、この小田博士の、悩む方は本当にお寺へと足を運ぶ、お寺や僧侶が「地域社会の心の安全弁」として求められている事実があります。
 ここにお寺の運営する悩みごと相談室に、悩みごとで相談に見えた方の、およそ一〇年間で五〇〇名におよぶ心理テストのデータがあります。そのデータを整理しますと、お寺に悩みごとで訪れた方々の七割近くが、病気ではないのですが、けっこう神経的に疲れている(神経症領域)ことが確認できました。世間一般には、神経質になっている方々のデータは、一〇人いたら三人強ぐらいがちょっと神経的に疲れている程度です。
 お寺の悩みごと相談室に関わる方々の七割という数字は、かなり大きい数字なのです。つまり場合によっては小田先生がおっしゃったように、人間というのは自分が弱ったときに、宗教的なものに関わって癒されたい、救われたいという本能的な欲求を持っているのではないか、ということが数字的にも裏付けられているといえます。
 いま世間では、いろいろな宗教が流行っておりますが、その宗教に入信したいと思っている人の心の裏側を開いてみますと、癒されたい救われたい、新しい自分に生まれ変わりたい、という変身願望などを抱いている方が相当数いるのではないかと思います。ここにも、宗教に期待する「世間の目線がある」と考えられます。
○現代教化の具体的な問題点について
 いま私たちの行っている布教教化のあり方は、どうも「知識を伝達するという型」で行っている。ところが、新宗教や新々宗教の入信者などを研究してみると、入信者はその教義、教学によって入信しているのではなく、その組織なり、教祖の提供する宗教的な情操によるケアー(癒し、救い)を求めて入信している。ケアー(癒し、救い)されるという宗教理念の具体化によって、入信している。
◇POINT→だからこそ、その宗教の教義教学などの宗教的な理念やその教団の行動などが学問的に否定されても、その宗教の信者さんでいられるのです。つまり、本来あるべき布教教化のあり方とは、ケアー(癒し、救い)されるという宗教機能の具体化である=これが宗教現象である。(参考までに入信者の脱会ケアーについて:彼らの抱えている悩みなり家族関係から来る不安を、取り除く作業をすればよい)
 2 宗教機能の具体化が吟味されない理由
 ではどの様な理由で、布教教化のあり方が、現在のように「知識を伝達するという型」で行われるにようになったのだろうか。どの様な理由で、布教教化のあり方が、その宗教的な知識を伝達するテクニックや、また古典的な宗教知識をどの様にアレンジすべきなのかなどと、その布教教化の技術的なあり方の善し悪しのみに固執するようになったのでしょうか。
 つまり、本来あるべき布教教化のあり方:ケアー(癒し、救い)されるという宗教機能の具体化が吟味されなくなったのだろうか、と問いかけてみたい。
○その理由の大きな一端
 それは、戦後の宗教法人法の改正によって、布教教化のあり方が崩れたといえる。このような布教教化のあり方:「ケアー(癒し、救い)されるという宗教機能の具体化」という視点で、現在の宗門の布教教化のあり方の問題性:宗門人の多くがなぜ布教教化を宗教知識の伝達や提示であるように誤解しているかの理由が見えてまいります。(これは日蓮宗ばかりに止まらず、伝統教団の全てに当てはまる)
 昭和二六年(一九五一年)四月三日(日蓮宗は昭和二七年三月一日に宗教法人として登記)に、旧宗教法人令が廃止され、新たなる宗教法人法が公布された。既成教団にあっては、この改正によって寺領が解体された結果、いままで宗教的な意義づけの上にあった檀信徒は、この時から顧客として寺院の経済基盤の中心となった。いわく、「客に文句は言えない関係」になった。つまり、この時期に檀信徒の顧客化が行われたからなのです。
 この時点から日蓮宗の伝道体制(「立正安国の実現」[日蓮宗宗憲 第三条 本誓]、「即身成仏と仏国土顕現を理想とする」[日蓮宗宗憲 総則 第二条 要旨])は、葬儀法要対応型の寺院運営によって、ケアー(癒しや救い)という宗教機能の具体化を行わなくとも、寺院運営が可能となった、いや、葬儀法要対応型の寺院運営が可能な寺院だけが残ったといえます。
 現在、この葬儀法要対応型で運営が可能な寺院は、昨今の宗政調査でも明らかなように、二五等級以上の三割寺院である。そして、宗門にあってはこの三割強寺院に、残りの、七割弱とは言いませんがおおよそ六割寺院が依存しているのが実状なのです。
 そして、このような寺院と檀家の関係は、先ほど指摘したように葬儀法要に対するニーズのつながりですから、そこに集う檀信徒はケアー(癒し、救い)という宗教機能の具体化を求めていないといえます。この意味で檀信徒への布教教化は、葬儀法要という宗教的な知識の伝達や提示という程度で、ケアー(癒しと救い)という宗教機能の具体化はかえって迷惑なのです。
 また、そのような布教教化のあり方で法器養成が行われているために、宗門の最高教育機関であるはずの「信行道場」を修了した僧侶は、マニュアル化された法式作法に則った葬儀法要には適しているといえます。
 要するに、それだけ出来れば現状の檀信徒のニーズには応えているのです。そして、布教教化のあり方は、葬儀法要の時に必要な法話やパンフレットなどに応用できる程度の、知識の伝達や提供といった程度が丁度良いと考えられているのです。
◇POINT→とくに宗門として考えたとき、いま宗門行政は、ケアー(癒し、救い)という宗教機能の具体化を行わなくとも、葬儀法要対応型の寺院運営が可能な方々によって担われているのである。これは由々しき現実である。なぜなら、現在宗門の伝道体制は、顧客としての檀信徒対応型、檀信徒の葬儀法要のニーズに応えるように出来ているからである。
 伝道教団は現実の社会のニーズに応えられないからこそ衰退し、新宗教・新々宗教は教線を延ばしているのである。これがその理由なのです。
○日蓮宗の布教教化:ケアー(癒し、救い)という宗教機能の具体化とは何か
 ここで、日蓮宗としての教化学とは何か、宗教機能の具体化とは何かに触れますと、『日蓮宗教師手帳』には、皆帰妙法の祖願達成に精進する(「立正安国の実現」[日蓮宗宗憲 第三条 本誓])、即身成仏と仏国土顕現を理想とする(「個人救済と社会の浄化」[日蓮宗宗憲 総則 第二条 要旨])、を実現することにあり、ここに日蓮宗の信仰の具体的な目的が見えております。
◇POINT→ そして、この「個人救済と社会の浄化」の目的は、どの様な方法によって実現されるかといえば、日蓮聖人の信仰実践、つまり、日蓮教学に支えられた信行生活の実践によって実現されるべきであるといえます。そしてまた、その布教教化は、「信行生活によって自らがケアー(癒し、救い)という宗教機能の具体化を経験した法器」によって行われなければならないといえます。
 3 これらから見える伝統教団の危機
○寺院の葬儀法要対応型運営の限界
 現在の葬儀法要対応型の寺院運営は、ご聖誕八〇〇年にあたる一九年後には挫折する運命にあるといえる。なぜなら、いま、年間におおよそ一〇〇万人の葬儀が行われており、何とそれは四兆円産業として成立している。
 そして、二〇一五年には団塊の世代と呼ばれた方々のおよそ一八〇万人の葬儀が予想され、それは六兆円〜七兆円産業となり、そのピークを迎える。ところがその団塊の世代は、結婚して一・三人程度の子供を出産したにとどまり、結果として檀家二軒を一・三軒の夫婦が見ることになり、施収入は二/三程度になる。
 さらにその後、高齢者は激減し、二〇二五年前後、ご聖誕八〇〇年頃に檀家数は現在の二/三まで激減する。そして、完全に檀家二軒を一軒が見ることになり、施収入は現在の一/二になると考えられる(内閣府総務局の統計)。
 この危機から逃れるためには、現在の葬儀法要対応型から、宗教機能の具体化、布教教化が寺院運営の経済基盤となるような具体的な施策が求められると結論づけられる。
◇POINT→ご聖誕八〇〇年に生き残るための施策とは
 このような現実を前にーご聖誕八〇〇年に日蓮宗は生き残れるかー生き残るためには、日蓮宗の布教教化のあり方として、ケアー(救い、癒し)という宗教機能の具体化が図られなければならない。つまり、「世間の目線にたった布教」が求められているのであります。

 

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