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現代宗教研究第38号 2004年03月 発行

ストゥーパとヴィハーラ

研究ノート
  「ストゥーパとヴィハーラ」(録音再録)
(日蓮宗現代宗教研究所研究員) 堀江宏文  
 よろしくお願い致します。今、主任さんの方からお話がありました通り、今回、岡山の方のお寺に入寺することになりまして、先住の住職さんといろんな荷物のやりとり等々がありましてですね、今まで持ってた資料をまだ開封できていない状態で、この日に、用意しようと思ってた資料が間に合いませんでして、今回ストゥーパとヴィハーラという形でもうご存知の方もあるかと思いますけども、今一度、その基本であるストゥーパ信仰、仏塔信仰について、ちょっと、発表させて頂ければと思い、用意してまいった次第でございます。
 まず、仏塔はご存知の通り仏教のシンボルであり、我が日本において、また我が国のみならず、人々はその造形の壮大さ、その美しさに心惹かれるばかりではなく、仏塔を巡り、祈りと願いをする人は決して少なくありません。塔の造形の壮大さ、また美しさに心惹かれるというのは、まさに、我が国日本においては、法隆寺の五重塔を始め、本門寺さんの五重塔もそうですが、その壮大さ美しさというものを一度拝見、お詣りしたいということで、全国からお詣りする方があろうかと思いますが、後半に述べましたこの仏塔を巡り、またその祈り、願いをする人が少なくない、というところは、例えば、お釈迦様が悟りを開かれました浄土の地ブッタガヤの、マハーボーディーの塔等は、全国というより世界、特にスリランカ等からは、小乗仏教の比丘比丘尼が参拝する。また、チベットにおいては、五体投地という形で信仰の姿を表し、また東南アジア、特に、ビルマ、今ではミャンマーと申し上げますが、そのミャンマー、いろんな王朝がございます。そのミャンマーの王朝の中でも特にパガーン王朝というのは、俗に建寺王朝、お寺や塔をたくさん建てた王朝ということで有名でありますが、そのミャンマーのパガーン王朝等は、仏塔の国と呼んでもいいほどの数のたくさんの数の仏塔が建立されているわけでございます。このパガーン王朝というのは、このミャンマーに限らず、王朝のいろんな交替、いろんな理由がございますが、一つが、フビライハンのモンゴルの襲撃に遭ったということの衰退の理由が一つありますが、もう一つ、これは驚く事情かも知れませんが、たくさんの仏塔を建てたことによって国費の浪費を避けることが出来ずに、たくさんの塔を建てるがあまりに国の費用を使い果たしたという、そういった理由も挙げられる程、東南アジア特にミャンマーに於いては仏塔をたくさん建てられ、シュエダコンパゴタ、なるその塔というのは、全高一一三メートルに及ぶわけでございますが、そのシュエダコンパゴタというものを参拝するがために、それこそ世界からたくさんの信者さんがお詣りするという、単なる造形の美しさというばかりではなく、そこには、祈り、願いというものが、往々にしてあるわけでございます。この仏塔に対する敬慕の姿が象徴する、私も実際に、そのブッタガヤ、チベット、ミャンマー等を訪れた時の皆さんの信仰の壮大さ、熱心さというものを目の当たりにした時には、これは単に、仏塔というものが仏教のシンボルであるがための建造物という理由からの参拝ではなく、強い信仰の拠り所を求める、人々のその素朴で、自然な、その生に対する様々な思い、願い、というものが込められているように思えたわけであります。
 仏塔の信仰というのは、一般には釈尊の涅槃後とみなされ、八分されたお釈迦様の舎利を奉安した塔が作られ、釈尊に対する尊崇の気持ちは当初、舎利に加え、舎利が盛ってあった、もしくはその舎利を八分するに際して使った瓶、壺や、また、荼毘に付す時の火葬場で残った炭等においても、塔が作られ、その信仰の強さ、尊崇の思いというものが起源するわけでございます。しかし、我が国、先程申した法隆寺、法起寺、様々な日本におきます仏塔の姿というのは、古代インドにおけます原始形態、土饅頭型と俗に言うわけでございますが、お椀をひっくり返したような、覆鉢型ともいいます、その原始形態とは、全くと言ってよい程その形は異にしており、我が国においては、中国の楼閣形仏塔というものを礎形にしていると言われています。中国においても同じように、仏塔は釈尊の舎利を奉安した舎利塔に起因するということは確かなことであります。にも関わらず、このインドの原始形態と中国の楼閣形等というのは如何にこのような差異が表れたのかということを研究して、ここで発表出来ればいいと思ったわけですけども、なかなか時間の都合もありますので、中国仏塔の様式、インド様式との関係、また、その楼閣形仏塔の成立過程等を論究する前にですね、まずその仏塔建立を説いている律部経典や、また現存するインドのその塔の遺物から、古代インドの仏塔の様式、また特徴というものを再度確認していきたいと思うわけでございます。特にその中国の仏塔、楼閣形仏塔というのは、早くから、中国のみならず、我が国日本の建築史、また仏教学、そして美術史学等々、多方面の立場から、様々な研究がされているわけでございます。そういった意味で、後半の部分でも、日本におけます中国仏塔のいろんな研究史というものを述べる時間があればちょっと触れてみたいとは思うわけでございます。
 仏塔というのは、パーリー語の、トゥーパ、またサンスクリット語でいいますストゥーパ、というのを漢字で音写したもので、漢字文化圏におきましては、卒塔婆、浮図と記し、また漢訳経典の中では、廟、塔寺、高顕処、と訳されています。そして一般に我々は塔婆と略し、それを更に塔と呼ぶわけでございますが、厳密には、塔婆あるいは仏塔と表現されるべきものであります。これは、舎利また遺骨等を奉安する所であります。またこの、舎利なきものを別といたしまして、パーリー語では、チェイティヤ、また、サンスクリット語では、チャイティヤという呼び方を致しまして、これを支提、制底等々と訳されるわけであります。サンスクリット語でいいますればストゥーパ、また、チャイティヤというこの両方の言葉には、種々の点で少なからず相違が認められ、様々な研究書誌の中でも、『インド仏塔の研究』という大書を書かれました杉本卓秋博士は、そのストゥーパ、とチャイティヤ、の語句については、種々の説があり、最初から、同じ意義、同義語であったわけではなく、とても大きな異同が存在していたと示されております。中国に伝えられております、『摩訶僧祇律』というものがございます。そもそも律とは、ご存知の通り、出家者が、個人としてまた集団の一員として守らなければならない決まりのことでありますが、仏陀釈尊入滅後、凡そ百有余年を経て興った仏教教団におけます根本分裂、で出現したこの大衆部が伝えた『摩訶僧祇律』巻第三十三に、以下のような、記述があります。資料の方にも書いてございますが、「舎利有るは塔と名付け、舎利無きは枝提と名付く」と。また、説一切有部、根本分裂の時におきましてその説一切有部の伝えた十誦律を元にし、それを、増稿、改変した『根本説一切有部毘奈耶雑事』という十八巻の中にも、「仏曰く、世尊の法に住するが如くに、中に、処してまさに、大師と制底を安んずべく」と記され、杉本卓秋氏はこの『摩訶僧祇律』『根本説一切有部毘奈耶雑事』の見解に基づいていると思われるわけですが、これは絶対的な区別ではないようであります。といいますのは、例えば、南インドで有名である仏塔、アマラバテイの大塔に関しまして、静谷正雄博士は、その『インド仏教碑銘目録』のパート一、グプタ時代以前の仏教碑銘、ブラーフミー文字等のパート一の中で、ナンバーの三十四、五十三、八十等で、この箇所には、マハーチャイティヤ、という名が出てまいります。一枚目の後半の部分でございますが、マハーチャイティヤ、イコール、大制底というわけでございます。この、マハーボーディーのアマラバティの大塔が、マハーチャイティヤ、大制底、ストゥーパではなく大制底と呼ばれていたという事実、また更に、ナーガールジュナコンダの大塔も同じく、ストゥーパという呼び方ではなくマハーチャイティヤと呼ばれていた事実等々から、ここでは、そのストゥーパとチャイティヤというのが同じ意味に用いられていた、同じように使われていたということが分かるわけでございます。今日では、このストゥーパ、またチャイティヤも、同一視されております。例えば、法華経においては、その両者というものは区別されているのは特別な例であり、様々な研究書誌の中でも、塚本啓祥氏の「インドにおける仏塔信仰と法華経の考証」、また野村耀昌博士の「法華経信仰の諸形態」等々でも、そのような見解がありますし、、ストゥーパ、チャイティヤというのはそもそも違うという見解の中にも、紀野一義博士の『法華経の探求』という所では、法華経におけるストゥーパとチャイティヤというのに同じ意味、若しくは、それは別であるというような見解が、研究誌として紹介されております。更に、これを厳密に言いますと、始めその仏舎利を安置した八大国における仏舎利を祀った塔、俗にはこれは八塔というのが我々では知るわけでありますが、さっき述べた通り、八つの国に分けるために計った瓶を持ち帰り、廟塔というものを建て、また、火葬場に残ったその炭を持ち帰り、炭塔というものを作ったという事実も、ございます。これをストゥーパと呼んでいるわけでございます。また仏陀釈尊の生涯に関わる聖地、即ち、誕生の地ルンビニ、成道の地ブダガヤ、初転法輪の地サールナート、涅槃の地クシナガラという四大聖地の各地をチャイティヤと称するという記録もあり、古来より、このストゥーパ、チャイティヤというのには差別を作らず、共に仏塔と称して区別することなく使用されていたと思われます。
 仏塔建立といえば、釈尊の遺骨、すなわち、仏舎利が奉安された舎利塔、それが代表であるということは先にも述べた通りでございますが、その釈尊四大聖地の仏塔の事実、というものも、ございます。それは、迦葉仏塔、迦葉仏の塔、また髪爪塔と申し上げまして、釈尊の髪爪等を崇拝の対象として建てた、髪爪塔、また、舎利仏の塔である舎利仏塔、等建立が、釈尊四大聖地の事実として、記録がございます。そして、釈尊の仏舎利を奉安した仏塔建立の最初の事実が説かれているのが、『長阿含経』巻四に、先程、触れましたが、釈尊入滅の際に、マン・ラ族の人々によって、釈尊の遺体は荼毘に付され、その舎利を巡り、諸部族、また王、バラモン達の間で、争奪戦がなされますが、一人のバラモンの仲裁によって、舎利はそこに来合わせたその八大の国王に均等に配分されます。そして各地に持ち帰り、仏塔を興し、お祀りし、それを供養するという対象になったわけです。更に、その舎利を盛ってあった瓶塔と、また火葬場に残った炭灰塔というものも建立され、八塔という風な形で知られるわけですが、『長阿含経』の記録から見ますと、十塔、十個の塔が仏塔の最初の実例として分かるわけでございます。この舎利八分の際の造塔は、後、マウリア王朝第三代のアショーカ王の手によりまして、阿闍世王の建立した王舎城の塔を主とし、八塔、八大王がそれぞれ持ち帰り建立した八塔のうち、竜(ナーガ)が守護していたために開くことが出来なかったと伝えられますラーマガーマの塔を除く七塔がことごとく開かれ、その仏陀の舎利を集め、更にこれを八万四千に分けて、八万四千の諸国に寺塔を建立し、各所に塔を興し供養した、ということが、『アショーカ王経』巻第一に記されております。ナーガの守護により開くことが出来なかった八塔のうちの一つ、これは、お釈迦様の母親でありますマヤ夫人の里にありますそのラーマガーマにある仏塔でありますが、これも、二〇〇一年に機会がありましてお詣りすることが出来たわけですけれども、そのラーマガーマの塔というのもまさに土饅頭型、何の装飾もなく土饅頭型であり、回りは柵がしてあり、自由に出入りすることは出来ませんけども土饅頭型の、仏塔でありました。ちょうど、八月の終わりから九月、そのラーマガーマに行ったのが八月の下旬だったかと思いますが、ちょうどその入り口にですね、足元にですね、急に蛇が実際に姿を見せまして、『アショーカ王経』の記録にある、ナーガによって守護されていたというのを、目の当たりに経験する機会を得たということを私自身は感激し、お釈迦様の功徳の力というものをそこで感じたという次第であります。
 この『アショーカ王経』、先程申した八万四千の塔を建てたというその造塔の事実については、実際にそれほど多くの造塔が行われたか、それほどの数が実際に作られたかどうかというのは、一つ一つそれを検証してみることが出来ず、数においては定かなものではありませんけども、サーンチーの仏塔、バールフットの大塔等を始め、ほぼ同時期に比定される諸塔は、アショーカ王が仏跡を一つ一つ巡礼し、併せて仏塔を建立し供養したという伝承からも、造塔されたという歴史的事実というのは基本的に信頼しうることを示唆しているものであります。八大王によってそれぞれ建てられた八塔のうち七塔を開け、八万四千という多くの仏塔を建てたというアショーカ王の事実というものは、まさに仏塔信仰、そして塔を建てる功徳、供養というものが、当時如何に、その信仰、仏教の拠り所、荼毘に付された後の拠り所として仏塔が如何なる力を持ち、人々においてその信仰の対象になったかというものを、とても強い思想がそこにあったんではないかという記録を理解することが出来るわけです。この仏塔崇拝、そして塔を建てる功徳の大きさ、造塔供養というその思想は、今の現代においても、我々はしっかりとその事実があったということ、また、当時そういった、強い篤い信仰心があったということは、単なる歴史というものでの認識ではなく、お釈迦様に対する仏陀に対するその尊崇の念、また、それを信仰していく我々の信仰心、そしてその功徳の偉大さというものをしっかりと受け継いで認識するということが、今の現代の我々にとって最重要、とても必要であることだと思うわけです。
 仏塔建造というのは、仏滅当時より今日に至るまで引き続き盛んに行われており、時代を経てまた土地や国を経て、その構造というものは徐々に変遷が生じ、建立の意というものも、国によっては若干の相違が現れてきます。仏塔の建立が、釈尊の遺骨即ち舎利を安置するという舎利塔を供養する意であったということは先程よりも何度でも述べているわけですが、この、舎利奉安の所、即ち一切の教えがある所に塔を建て礼拝供養する場所であった、これは例えば法華経で言えば、『法華経』の多宝塔出現という、見宝塔品に示される如く、お釈迦様の真実の正法があるところにはまさに塔を建てて供養し、そこがまさに道場である、塔があるところは道場であるということを示唆するものであろうと思います。釈尊を供養する、我々仏教徒にとっては仏塔が即ち釈尊の代わりであり、礼拝の対象であったわけですけども、これを言い換えると、初期の仏教徒にとっては、塔の他には礼拝し供養するという本尊というものはなかったというわけでございます。
 この仏塔の建立の次第については、我が国に我々が普段目にする日本最古の法起寺の三重塔や、法隆寺の五重塔とは同じではなく、その構造についても、日本においてはの木造の三重塔または五重塔というようなものが、初期のインド仏教においては全くといっていい程見ることは出来ないのです。それでは、インドにおいて最初の仏塔というものが如何なる形のものであったか、仏塔が釈尊の舎利を奉安した舎利塔かといえば、決してそうとは言い切れない記録もございます。何故ならば、釈尊の涅槃以前に亡くなったと記録があります仏弟子、舎利弗・目蓮等のお墓は、釈尊の塔よりも先に作られたであろう。また過去仏である、迦葉仏の塔というものも、仏舎利塔に先行するものであろうと考えられるわけでございます。
 仏塔建立を種々見ていくことで、仏舎利塔以前にも塔が実際にあったという、その他の種類の仏塔が存在していたかどうかというものを、若干の資料をもって考察を進めていきたいと思います。まず、仏塔造立の方法を説いている、先に述べた、大衆部が伝えます『摩訶僧祇律』巻第三十三には、資料の二頁目の後半部分ですが、塔を建てる方法とはという所から、「眞巾百千の擔持し用いて布施を行ぜんに、一團泥もて敬心にて仏塔を治せんには如ず、爾の時世尊は自ら迦葉仏塔を起こしたもうに、下基の四方は欄楯を周匝し、円起すること二重にして、方牙を四出し、上に槃蓋を施して長く輪相を表したまえり。仏のたまわく、作塔、作塔の法はまさに、是の如くなるべきなり」と。『摩訶僧祇律』に記されており、これはまさに、過去仏なる迦葉仏塔についての記録であります。釈尊自ら迦葉仏の仏塔を作られ、また弟子達にも作ることを許され、そしてこの仏塔の作り方というものをはっきりと指示されているわけであります。即ち、下の基盤の四方に、周匝、それを巡らして、その基盤を巡らし、欄楯を施しなさいと、またその真ん中の塔心、塔の中心にはを起こし二重にしなさい、方牙を四方に突出させる、そして塔の上には槃蓋を施し、その上に長く輪相を表すということが、釈尊の指示によって示されております。そして塔が出来ると、釈尊は過去仏である迦葉仏を尊敬するために、自ら迦葉仏の塔を礼拝され、弟子達にも礼拝することを勧め許され、礼拝の時には、供養をしなさいということが記されてございます。また迦葉仏塔のことについては、『五分律』の第二十六巻にも記されてあり、この部分では、「この時、閻浮提の地上に於いて、最初に塔を起こせり」と説いており、この、迦葉仏塔が最初の塔、というのは、最古の仏塔であるということを示しているかと思います。また、『十誦律』巻第四十八には、建立方法、供養の仕方というものが記されておりますが、この『十誦律』には、釈尊自らの髪や爪を授けた給孤独長者が、髪のための塔、爪塔、髪爪塔というものを建て、その仏塔が釈尊によって、建立する、供養することが許されたという記録もあり、これも、釈尊の涅槃後の舎利塔が仏塔の起源というよりも、この仏陀の爪塔を祀った仏塔が始まりであった、というのが『十誦律』巻第四十八であります。また、同じくその『十誦律』巻第五十六には、その髪爪塔の建立の様子も記されてあります。
 次に、仏陀の涅槃より以前に亡くなったと伝えられております舎利弗の舎利を機縁として仏塔の建立を説く資料があります。それが三頁目の『五分律』巻五十六でございますが、仏陀の涅槃より以前に亡くなったと伝えられるその舎利弗の舎利について、『根本説一切有部毘奈耶雑事』巻第十八を見てみますと、「仏曰く、まさに、甎を用いて両重に基をなし、次に塔身をしき、上に覆鉢をおいて、意に随って高下し、上に平頭の高さ一、二尺、方ニ、三尺なるを置き、量の大小に準じて、中に、かさを立て、次に、相輪をしき、その相輪の重数はあるいは一二三四より乃至十三に至り、次に、宝瓶を、安んずべし」と記されてありますが、まさにこの、舎利弗が釈尊よりも前に入滅したというのは、この『根本説一切有部毘奈耶雑事』以外にも、ご存知の通りのパーリー仏典の『サンユッタ・ニカーヤ』の一六一から一六三、また漢訳仏典では『雑阿含経』等でも同じような、実際に舎利弗が釈尊よりも早く亡くなったという記録がございます。先程の記録からも分かる通り、仏陀、お釈迦様自身によってその舎利塔の作り方というものが詳しく述べられているわけであります。まず甎、瓦を用いて二重の基壇を作ると。そして、塔身はその上に作る、また覆鉢をその上におく、思いのままに、それは、高くしても良いし低くしても良いという、またその上には、高さ一尺か二尺、横の大きさが二尺か三尺等の平頭を置きなさいと。また、その量の大小に応じて中にまっすぐのかさを立てなさいと。次にその上に相輪を置き、相輪の数というのは、一から始まり、十三までであると示唆され、十三まであることを言われ、次にその上に宝瓶を置きなさいと。以上の諸々の律部の記録から、仏塔建立の次第というもの、塔を作る方法、造塔法というものが細かく記されていることが明らかになります。また、釈尊より先に入滅したと思われる舎利弗の遺骨も、涅槃後に仏塔が祀られたと、お釈迦様自身がきちんとそれを指示され、自らもそれを供養するということが説かれていることが、伝承ではなく、きちんとお釈迦様が自分でそれを弟子さんにお伝えし、お弟子さんが思いがままに作ったわけではなく、お釈迦様の言葉でちゃんと指示をされ、お釈迦様自身もそれを作ることをされたという記録が、この諸々の律の記録から分かるわけですので、ここをきちんと押さえておくべきが、今の我々にとっても、単なる建造物という思いの仏塔ではなく、仏塔というものは、ストゥーパというものはそういった意味があったという、時代というもの、場所というものが変わり、その形というものが若干変わっていったとしても、そのストゥーパ信仰、仏塔信仰というものの思想、その信仰というものは、決して変わることがなく、別ではないということを押さえておくべきことではないかと思う次第です。
 仏塔に対して、例えば、この『法華経』においても、仏塔というものは種々説かれて、いろんな資料を我々に与えてくれるわけですけれども、この『法華経』というものも、塔を建てる功徳、また、仏を作る功徳、また、写経等々、美術に関連する、善を為すことの功徳というものが、種々に説かれております。例えば「方便品」には、その塔を構成する素材、これはちょっと、資料の方には記すことが出来なかったわけですけども、塔を構成する素材が八種類あると。また「信解品」には、塔廟の造営というものをしなさいということが説かれ、「見宝塔品」においても多宝塔の記録があり、塔の高さが五〇〇由旬で、基壇の直径が二五〇由旬、また、欄楯を巡らせ、多くの龕室を有し、その塔は、七つの宝をもって飾られたという、そういうことが、塔をもって功徳を、供養をしなさいということが、種々の箇所に示されているわけですけども、ここで、例えばその塔の高さ、この『法華経』においては、先程の律部のような細かな塔の建築様式というもの、またその塔を作る方法等というものは詳しく定めているものではありませんけども、例えばこの塔の高さというものを考えてみた時には、最も古く仏滅後に仏の遺骨を安置したと言われるピピュラハワーの塔、このピピュラハワーの塔というものも、観光客なんかはこの上に乗ったりなんかしまして、私もその上に自由に乗り降りできる所でありましたので、そのピピュラハワーの大塔の頂上に実際に足を踏み入れたというわけでございますが、ピピュラハワーの塔というものも、高さが六・七メートル、また、その底辺の直径が三十五メートルということで、塔の高さというのが五分の一の大きさであると。また現在、仏塔の遺物として最古という風に言われているサンチーの大塔というものが、現在の形になったのが紀元前一世紀頃という記録がありますが、サンチー塔というものの高さというものも十六・四八メートル、また底辺が三十七メートルということで、二分の一の高さになっていると。また、西暦三〜四世紀のサールナートに記録があるダメーク塔というものも、その塔高が四十三・六メートル、底径が二十八メートルということで、塔高が底径の逆に二倍に高くなっているということが、時代が移るに従って、塔の高さというもの、底辺の大きさというものも徐々に変わってきている、そしてこの『法華経』においても、五〇〇由旬、二五〇由旬ということで、高さが底辺よりも高くなっている。ピピュラハワー、もしくはサンチーのような、高さの方が低い底辺の方が広いわけではなく、高さの方が増しているということがわかるわけであります。先程も申し述べた通りに、この『摩訶僧祇律』や『根本説一切有部毘奈耶雑事』や『十誦律』等々の律部の記録では、塔の建築様式やその造塔法などが詳しく定められてあるのに対して、この「方便品」や「見宝塔品」「信解品」等々では、その塔の記述というものは、如何に建立するべきか、どのような建築方法にしなきゃいけないかということを目的として説いているわけではなく、塔の構造上の規模、また七宝で飾るというような装飾について知る程度であり、それ以上の建築様式といいましょうか、形がどうでなきゃ駄目だというような記録を探すのはなかなか困難であると思われます。以上のようなことで、ストゥーパ、仏塔というものが、実際、律部の記録等で造塔方法、また、こういった形にしなさいという記録がはっきりと示されていることが分かった次第であります。
 本来なら、ちょっと写真を載せさせてもらいましたが、その記録と共に、実物の遺物が実際どうであったかということを見ていきたいと思ったわけですけども、限られた時間でございますので、例えば、サンチーの仏塔というものがインドにおける最古の塔の遺物ではないかということ、先程述べたピピュラハワーというものもあるわけですけども、煉瓦で作ったピピュラハワーの塔も壊れている部分もあり、現存するきちんとした形で我々が当時の仏塔の形を伺い知ることが出来るのは、マウリア王朝第三代アショーカ王の建立と伝わるこのサンチーのストゥーパであろうと思います。何故このサンチーがこのような形できちんと残っているかというと、諸事情があろうかと思いますが、信仰の対象ということもありますし、いろんな事情があろうかと思いますが、サンチー以外の四大聖地の中で、サールナートやブッタガヤというのもそうですが、一般信者もお金を払ってでないとここから先は通れないですとか、裸足になってもらわないとここから先は足を踏み入れてはいけないというような場所もありますし、同じようにこのサンチーというのも、大きな敷地ではありますがきちんと柵がしてあり、勝手に人が出入りすることが出来ないようになっているわけです。このサンチーというのも、実際に行ってみまして、この写真も実際に撮って帰ってきたわけですけども、このサンチーというものは、主な物だけでも、三基のストゥーパがあります。またその回りには、数十に及ぶ僧院、また石塔の遺跡が部分的に残り、釈尊の遺骨が、この第一塔、中心の塔には、納めてあったんではないかということが推定されるわけです。従来このサンチーの遺跡というのは、仏教学以外にも考古学上の遺跡として、今までは知られることがなかったわけですけども、この第三塔に、この写真ではちょっと分かりづらいんですけれども、この左側が第一塔であり、この隣に第三塔があります。そして、更にその下、東の方に石段でどのくらいでしょうか何十段もあり、大分下におりた所に第二塔がありました。第二塔は、二〇〇一年に行った時には作業員によって若干の修復作業が進められていたわけですけども、この第一塔と第三塔が第二塔よりも遙かに高い丘の上に建立されてありました。この第三塔の中に、種々の遺品、遺物が出てきておりまして、その中にサーリーフッタ、マハーボ、マハーボーガラーナという風な名前が刻まれた石板が、考古学の調査によって発見されたわけです。お釈迦様の二大弟子と言われてる舎利弗と目蓮、サーリープトラとマハームカラーナの遺骨がこの第三塔に納めてあったストゥーパである、ということがここの考古学の立場から分かったわけですけども、この第三塔、第一塔の脇に二大弟子の舎利弗と目蓮のストゥーパが建立されたのであるならば、この第一塔は何の為の塔かという風に考えますと、考古学の立場、また、建築されてる高さの位置ということから考えてみると、安易かも知れませんが、第一塔の内部にはお釈迦様の遺骨が納められた、そういったことから、第二塔、第三塔よりも遙かに規模が大きく、また装飾も奇麗にたくさんのものが施されていたということからも、釈尊の遺骨が納められてあったんではないかということが考えられるわけでございます。
 このサンチーの塔、その建築的な様式を考えてみたときには、古代インドにおけます原始形態の土饅頭型、お椀を伏せたような形で、地上に大きな円形の基壇を築き、その上に半円球の塔身、覆鉢が伏せてある、そしてその、頂上には、傘蓋を付けた傘が立ち、その上に平頭と呼ばれる、四角い方形の柵によって囲まれた平頭というものが供えてあることが分かります。その基壇の周囲には、基壇と覆鉢が接する中腹を巡って左回りで右遶できる回廊が作られているということからも、第一塔というものの、第二塔第三塔とは違う思い、信仰で作られたということが分かろうかと思います。また、このサンチーの他に、資料の第四図のバールフトというのは、インドのカルカッタ博物館の浮き彫り彫刻の模様を記録したものですけれども、このことからも、バールフト等もサンチーと同じような、基壇、覆鉢、相輪という三つの形状で、そのバールフトの特徴を知りうることが出来ます。先程、律部の記録から見た通りに、迦葉仏塔を起こした時の手法は、欄楯を周匝し、円起して、二重にして方牙を出し、その上にまた槃蓋を施し、相輪を施し、このように塔を作りなさいという『摩訶僧祇律』の記録というものが、このサンチーやバールフトを比較してみても、『摩訶僧祇律』の記録の通りの形が、このサンチーやバールフト等の実物と一致しているということが分かるわけです。このサンチー、バールフト以外にも、様々な塔が残っておりまして、若干の違いはあったとしても、基壇、覆鉢、相輪という三つの形状が古代インドの形であったであろうと思われます。この記録、また遺物という両面からの考察から、これはまあ確かなことであろうと思うわけです。サンチー、バールフト等々以外にも、石窟寺院、アジャンタやエローラ等にも残るその仏塔というものも、いつかの機会があればちょっと述べさせて頂ければと思う次第です。
 始めに述べさせて頂いた中国とインドの建築の違い、インドというものは、記録、遺物の両面から見た時に、三つの形状からなっているということが特徴である、ということがはっきり分かった次第であり、中国では、楼閣形というものが如何にして出来たかということを併せて述べることによって、ストゥーパとヴィハーラという、そのヴィハーラの部分に言及することが出来るわけなんですけども、限られた時間ですので簡単に言うと、石田茂作先生の『仏塔の研究』という本があります。その後ろの頁に、仏塔の変遷という形で、ストゥーパ、インドのサンチーの形、基壇、覆鉢、相輪というものから、如何に世界に伝わって、スリランカではどういった形であったとか、中国ではどういった形に変わり、日本ではどうなったかということが、図によってその変遷の仕組みが記されておりますけども、ここで、私がちょっと注目したのが、インドの覆鉢型から、中国の楼閣形、高塔、この図の三番、中国の最古の木造塔という崇岳寺の十二角十五層塔、まさにこの図一から図三という形で、石田先生も本の方では矢印をされているわけですけども、サンチーの大塔から崇岳寺の十五層塔に変遷、形が変わったかと、いうなれば、サンチーと崇岳寺にいくまでの中間的な形がきっとあったであろうと。例えば図二の法隆寺五重塔が、崇岳寺十二角十五層塔と全く同じではないですけども、何らかの形でこうなったであろうというのは、安易に推察することが出来るわけです。サンチーの大塔から、崇岳寺の塔に変わったと言われても、それをすんなり受け入れることは私の方では出来ず、恐らくこの中間的な物がきっとあったであろうと。遺物、建造物というものは、後世に残すことがなかなか難しいものでありますし、記録として残る部分も少ないわけですけども、その部分を追及していった結果、私の中で、ヴィハーラという建造物の初期形態が、恐らくこのサンチーから中国の塔の中間的な建造物であったであろう、という研究を、今ちょっとしておりまして、如何なる形であったかということを考えた時に、恐らく仏教が伝わった、東遷したのと同じように、このガンダーラ地方の仏塔というものの特徴を今一度考えなければいけない。
 最近、斎藤忠先生の『仏塔の研究』という、インドから中国、スリランカ、東南アジア、朝鮮、日本の様々な仏塔の写真を載せて、中国の特徴、インドの特徴というのがその資料等から記されている本が出たわけですけども、インドからガンダーラ、その関係がどうあったか、どういう意味合いで形が変わったのか、その中間的な物は何だったのかというようなことまで言及してはなかったかと。特徴を述べ、資料からの考察もされてはありましたけども、私が言うような、ヴィハーラ的、ヴィハーラの初期形態、というような見解は、ちょっと見受けられなかったので、私ももうちょっと進めて、覆鉢型から楼閣形に至るガンダーラの仏塔の特徴、この資料の方でも、ガンダーラの現存してる遺物を載せてみましたけれども、これは先程言ったサンチーの塔の形をちょっと異にしただけであり、中間的な形では決してありません。ですからトップダラの塔や、図七、図八の、マニキヤーラの塔より以降の建造物が、恐らくヴィハーラの初期形態であっただろうということを、一つの試案として研究をしているわけでございます。
 いろいろな方向に行ってしまい、まとまらない部分がございましたけども、本来、「ストゥーパとヴィハーラ」という論題にさせて頂いたので、ヴィハーラというのもきちんと述べなければいけないところではありますけども、まだまだ私も研究をしている、まだ準備段階ということもあり、是非またの機会にその辺を併せてご紹介し、私の考えといいましょうか、どういったものがその中間的なもので、どういったものが初期ヴィハーラの形だったのかということを発表させて頂ければと思う次第です。最後になりますが、時間もちょっと過ぎましたが、何度か申し上げました、今いろいろな意味で、お墓の意義等々が述べられているわけですけども、時代が変わり、国が変わり、場所が変われば、土着の信仰等々の影響によっていろいろな受け止め方があるわけでございます。何処とははっきり申し上げませんが、我々が法事、法要等々で、必ずといっていい程お供えする卒塔婆というものも、所によると、一周忌から順々に三回忌、七回忌と、供養を重ねるに従って、卒塔婆の大きさを変えていく土地があると。また、施主さんが一人でお供えする所もあれば、親族さんが皆さん、その菩提を弔うために卒塔婆をお供えしたいということで、参拝者の方が、例えば、お施餓鬼とかお彼岸に本尊にお供えする卒塔婆と同じように、法事でも自分の名前を記して供養を捧げるというような土地柄もあって、我々日蓮宗の『法華経』というものが信仰供養というものを強く説いている、法華経の箇所もたくさんあるにも関わらず、土地土地によってそういったいろいろなやり方もあるでしょうけども、仏塔の建立の意義、その功徳の方法等々、功徳のその在り方、というものの基本は何処にあるかと、それは民族的な信仰とまた別に、きちんと仏教の根本であるインドで、律部で、経典ではどういう風に、はっきり説いているのかと。説いてないわけではなくきちんと説いてあるわけでございますので、ここをきちんと我々が押さえて、認識することによって、お墓の建立の仕方や、散骨の仕方や、そういった所にもきちんと教えが出来るんじゃないかなという風に思い、今日のこの現代宗教研究所の研究発表に際して、単なるインドでこういった事実がありましたというような言及ではなく、これを今の私達がしっかりと更に認識をする必要があるんではないかということで、今日このストゥーパの信仰に対してちょっと発表させてもらったわけでございます。支離滅裂になってしまいましたけども、ストゥーパとヴィハーラということで貴重なお時間を頂戴し、若干の私見を述べさせて頂いた次第でございます。また、お昼以降、私の範囲で分かればお話させて頂くことがあればお時間を頂ければと、思う次第です。ご拝聴ありがとうございました。

 

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