現代宗教研究第38号 2004年03月 発行
軍政下ビルマの民主化運動に学ぶ
研究ノート
軍政下ビルマの民主化運動に学ぶ
(日蓮宗現代宗教研究所研究員) 馬島浄圭
<ビルマかミャンマーか>
ビルマは現在、ミャンマーと呼ばれている。しかし、この国名変更は国民の総意に基づいて行なわれたわけでも、民主的な手続きによるものでもない。ここでは、国の民主化を実現しようと果敢に軍事政権に立ち向かって活動している人々の意思を尊重して、ビルマを国名として使いたい。
ちなみに、一九八九年六月突如として強行した国名変更に際して軍事政権は、英語のバーマ(Burma)の語源バマーが主にビルマ族のみを指し、多民族国家としては、より包括的な意味を持つミャンマーがふさわしいからと説明している。しかし、内外の識者の多くは、バマーもミャンマーも共にビルマ族や国土を指すもので語源的に大差はないとし、むしろバマー(ビルマ)のほうが歴史的経緯からしてもより包括的な意味があるとして、軍政の曲解を指摘する。
軍事政権が国名変更を強行した背景には、一九八八年に「一党独裁支配打破」・「民主主義の獲得」を訴え、ビルマ全土で燎原の火のように燃え上がった国民的な民主化運動を、国軍部隊による無差別発砲で武力鎮圧(軍事クーデター)し、数千人に及ぶ死傷者を出して軍政を開始したことに対して、世界中から激しく非難された事情が考えられる。軍事政権登場に際し、国際社会に焼き付けられた忌まわしいイメージを払拭するために、国名という看板の架け替えによって、新生「ミャンマー連邦」をアピールする狙いがあったと言えよう。
国名変更をした一九八九年七月、アウンサンスーチーさんを自宅軟禁し、それは六年間にも及んだ。日本政府はこの年の二月に、昭和天皇の葬儀にあたってビルマの政府代表の参列を期待して、軍事政権をいち早く承認している。もちろん国名「ミャンマー」も問題なく受け入れ、マスコミはじめ右に習えになったことはいうまでもない。中断していたODA(政府開発援助)も、ビルマ進出企業で作る「日本ビルマ協会」からの強い要請を受けて、継続案件の一部と技術協力を再開し、緊急人道援助の道も開かれた。
<ビルマとの出会い>
私とビルマの出会いは、十三年前に遡る。タイ南部のスラタニー県、ワット スワンモーク寺院で開かれた仏教者国際連帯会議(International Network of Engaged Buddhists)に参加したことがきっかけである。一九九〇年三月、頗る牧歌的な野外会場でアジアの国々が直面する様々な問題が当事者から語り出され,認識を新たにさせられた。人権侵害、環境破壊、性差別、民族等の問題。どれをとってみても、南北格差がもたらす政治的経済的な問題を抜きにしては、問題の所在すら掴みえないものばかりである。そんな中でビルマの民主化問題は、ストレートに私の胸に突き刺さっていた。
軍政下の民主化活動家への厳しい迫害や少数民族に対する強制移住・強制労働などの人権抑圧から逃れて、ビルマ・タイ国境地帯に避難しているカレン、カレニー、アラカン、パオ、シャン、ワ、ラフ、そしてパラウンなどの少数民族難民とABSDF(全ビルマ学生民主戦線)、ABYMU(全ビルマ青年僧連盟)との数々の出会いと支援を重ね、ビルマ民主化問題への認識を新たにしつつ現在に至っている。
二〇〇〇年に「ビルマ難民救援センターH名古屋」を立ち上げ、国境地帯の難民たちの過酷な生存を支える活動を手がける一方、日本に住むビルマ人らとの連帯を強め、日本からビルマ民主化を促すための日本政府並び日本人へのアピール活動や、ビルマ人らの難民認定のために必要な支援活動にも取り組んでいる。
<日本とビルマの関係>
一九八八年の全土的な民主化運動を、国軍が武力鎮圧(軍事クーデター、一九八八年九月十八日)して出てきた軍事政権。独自のビルマ式社会主義を打ち立てて君臨し続けたネウィン将軍の一党独裁政権時代を加えれば、ビルマ国民は四〇年以上に渡って軍政下の抑圧的な生活を強いられている。
これほど長く軍政支配が続いている原因の一つとして、十五年戦争より今日に至るまでの、日本との関係を挙げないわけには行かない。
中国戦線が泥沼化するなか、日本軍は戦況を打開するために戦線を次第に南方に拡大し、ついにビルマへと食指を伸ばして行く。ビルマ侵攻の主な目的として、マレー半島攻略を容易にするため、植民地ビルマに陣取る英印軍の戦力を削ぐこと、ビルマ・中国国境に展開する英印・中国連合軍を一掃して援蒋ルート(イギリス・アメリカ連合国が、インドからビルマ経由で中国雲南省を通って、重慶の中国国民党蒋介石政権に送りこんでいた物資補給路)を遮断することがあった。これらの目的を達成するため、民間人による諜報活動も盛んに行なわれていた。日本山妙法寺の僧侶丸山行遼・永井行慈らの名も、この頃からビルマ戦史に登場する。今は無き藤井日達師がその自伝書『わが非暴力』で、インパール作戦遂行に先立ち軍部より助言を求められたとして、日本山とインパール作戦の関わりについて述懐しておられる。ただ、どうひいき目に見ても、作戦の道先案内人を勤めたことの釈明に説得力は無く、結果的にお題目を唱えて先遣隊を担わされていたようにしか見えない。
最終的にビルマ侵攻への道を切り開いたのは、鈴木敬司という陸軍参謀本部で諜報活動を担当する大佐であった。イギリスの植民地支配からビルマを解放し独立するための武装闘争を模索していたタキン党(我らのビルマ協会)アウンサン(アウンサンスーチーの父)らとの強引な出会い工作が、日本軍とビルマ独立闘争を結びつけることになる。鈴木大佐の独立支援の提案を訝りながらも、選択肢無くアウンサンは同意する。そしてアウンサンらは、海南島などで、鈴木大佐率いる南機関(一九四一年二月、ビルマ工作専門の謀略機関として設置)によって短期の軍事訓練を受けるのである。後にビルマ史上にその名を止める「三〇人の志士」がここに生まれ、一九四一年十二月、鈴木大佐の後押しでビルマ独立義勇軍(ビルマ国軍の前身)を結成する。そして日本軍に協力してビルマに進軍、イギリス植民地勢力を掃討する。しかしながら、軍事占領に固執する日本軍は、独立を目指すアウンサンらの悲願を無視して軍政を敷き、見せかけの独立を与えながらも事実上の占領統治をし続ける。
一九四四年三月、日本軍はインドへの見果てぬ夢が捨てきれず、ついに無謀なインパール作戦に突入し、雨季真っ只中の八月、惨敗に帰す。日本が引き起こした太平洋戦争の縮図ともいわれるインパール作戦は、一九四三年(昭和十八年)新たに編成されたビルマ方面軍司令官河辺正三と十五軍司令官牟田口廉也によって強行される。食糧・武器弾薬すべて補給の目途もないまま、敵の糧秣弾薬を奪って現地調達をし、肉弾突撃で神風を起こしてインドを目指せという、このうえなく無謀な作戦であった。この二人は、日支事変(昭和十二年)で政府の不拡大方針に反して事変を拡大していった、現地の旅団長と連隊長として知られている。確かに小東条とあだ名されるワンマン将軍牟田口もまた、東条その人同様、自由や人権とは無縁の、天皇の覚えめでたき軍国日本の申し子ではありえただろう。天皇はじめ彼らの命令に従ってビルマ戦線に送りこまれた地上部隊三〇万三五〇一名のうち、一八万五一四九名が亡くなっている。現地住民・敵兵の犠牲者を合わせれば、ビルマ戦線の死者もまた膨大な数にのぼる。
このインパール作戦に先立つベンガル湾沿いのアラカン工作戦(イギリス植民地軍の援軍や補給を阻止するため)において、日本山妙法寺の丸山行遼、永井行慈らが、突撃のさなかも団扇太鼓をたたいて唱題し進軍を助け、情報戦にかかわっていることも看過できない。この作戦の先遣隊・桜支隊の桜井徳太郎支隊長が、その奇襲攻撃に際し、玄題旗をなびかせ団扇太鼓をたたいて渡河を決行し突進したと言う証言も残されている。
インパール作戦の失敗で日本軍の敗勢が濃くなると、アウンサンらは「反ファシスト人民自由連盟」を結成して反日闘争に入り、一九四五年三月、遂に一斉蜂起し日本軍を追い払い、真の独立への道を切り開く。一九四八年一月四日、ビルマはビルマ連邦として悲願の独立を果たす。しかしこの時、アウンサンの姿は無い。前年、政敵の手によって主要閣僚七人と共に暗殺されている。アウンサン亡き後のビルマは前途多難ではあったが、それでも後を引き継いだウー・ヌ政権の下、憲法を制定し、議会制民主主義を採用し、政党政治が行われていた。
しかしながら、少数民族問題と反乱軍さらに政権内の内部抗争が激化するなど、ウー・ヌ政権が統治能力を失い、ついにビルマ国軍の介入を招くことになる。一九六二年三月ネ・ウィン将軍率いるビルマ国軍が軍事クーデターを決行し、全権を掌握する。議会制民主主義を廃して国軍主導の「ビルマ社会主義計画党(BSPP)」を結成し、独自の「ビルマ式社会主義」路線を歩む。一党独裁支配の始まりである。因みにネ・ウィンは、アウンサンら「三〇人の志士」の一人で、ビルマ独立義勇軍当時は、国内撹乱を任務とするゲリラ班の班長であった。国軍中心史観による一党独裁のネ・ウィン時代は、一九八八年の民主化要求闘争で政権の座を追われるまで二十六年間続いた。そして、このネ・ウィン時代を必要以上に支えてきたのが、日本のODAであったと専門家は分析する。
大正期、一世を風靡したデモクラシー思潮・自由民権運動を、欧米列強列国に追いつけ追い越せと富国強兵の掛け声で掻き消して軍部の台頭を許し、日本国民を全体主義の坩堝に駆り立て十五年戦争に暴走していった軍国日本が、大東亜共栄圏の大風呂敷を広げて誕生させた「ビルマ国軍」への思い入れが、独立後のビルマとの関係も誤らせてきたと言っても過言ではないだろう。軍事支援から経済復興支援に代ったものの、反省なき日本の対応が、ビルマの民主化を妨げてきたと言う批判は的を得ている。ビルマの民主化問題は、実は日本人の倫理観や精神性が問われている問題ではないかと思えてならない。
<アウンサンスーチーと民主化運動>
一九九九年三月、私はラングーンのNLD(国民民主連盟)本部を訪れ、アウンサンスーチーさんと面会する機会を得た。長く外国のメディアとの接触を断たれているスーチーさんの安否を確かめるためだった。タイ人、ノルウェー人と日本人二人の、女性ばかり四人のにわかグループで行動を共にした。一見のどかに見える南国の首都ラングーン(ヤンゴン)の中心街、軍情報局の兵士が見張る建物を目指して行くには、相当の覚悟が必要であった。軍情報局の監視網が至る所に張り巡らされている中で、軍政に立ち向かってビルマ民主化闘争を続けている人々の信念と勇気には、敬服するしかない。昼下がりの目くるめく陽光を背にして、飛び込むようにして入って行った私たちを最初に出迎えたのは、どよめきと拍手だった。一瞬状況が分からず、目を凝らして室内を見まわすと、そこにはNLDの党員達に囲まれ、こぼれるような笑顔と澄んだ眼差しのスーチーさんが待ち構えていた。
スーチーさんの言動で印象深いのは、ノルウェー人女性が、カンボジアの高僧マハ=cd=ba52ゴーサナンダをノーベル平和賞候補に推薦して欲しい、と依頼したことを快諾しながら、一方で、彼女が資金援助のためのお金を手渡そうとしても全く受け付けなかったことである。また当時スーチーさんの夫でイギリス在住のマイケル・エアリス氏が末期ガンに侵され、余命幾ばくもないと伝えられていたので、最期のお別れをしなくていいのかと尋ねたところ、「今、ビルマを離れるわけにはいかない・・・」、と答えられたこと。そして、「日本の企業にくれぐれも伝えてほしい。これほどおかしくなっている国に投資しようなどと考えないでくれと」、と話されたことなどが挙げられる。
スーチーさんは、敬虔な仏教徒である。瞑想によって常に目覚めた心を培い、仏陀の教えを深く理解して自らの行動規範としておられる。そのうえで、ビルマの人々が民主主義を求める心情を実に端的に代弁され、その要求が伝統的な仏教思想に正しくかなっているのだと説きあかされる。その著、『自由』(マイケル・アリス編、ヤンソン由美子訳)から、いくつかを紹介しておきたい。
ビルマの国民は、民主主義をたんに政治の一形式と見なしているのではありません。個人を尊重することを基本とした社会制度であり、思想だとおもっています。なぜ民主主義をそんなに望むのかと聞かれたら、政治にまったく関心のない人でさえ、こう答えるでしょう。
「わたしたちは、自由に、平和に、ふつうの暮らしをしたいだけなのです。他人の邪魔をせず、不安も恐れもなしに、慎ましい生活をおくれるだけ働くことができればいいのです。」
つまり人々は、のどかで、一人ひとりが尊ばれ、欠乏からの自由、恐怖からの自由がある生活を望んでいるのです。
これは、予測できたことですが、民主化運動が目指すものの中心は人権だと気がつくとすぐ、国の情報機関は、人権という考え方そのものを嘲笑し非難しはじめました。人権は西洋人が作りあげたもので、わが国の伝統的な価値観と合わないというのです。
それは皮肉なことでした。なぜなら、伝統的なビルマ文化の基礎となっている仏教では、仏陀の教えを実現する国を作れるのは人間しかいないとなっていて、人間にもっとも高い価値をおいていたからです。一人ひとりの人間のなかに、その人の意思と熱意で真実を悟る可能性があるのだと、またそうすることによって、ほかの人々をも救うことができるのだという教えです。だから人間の命は限りなく貴いというのです。
法はダルマ、つまり、正義あるいは善に基づいているのであって、無防備の人々にたいして、無慈悲な命令を下す権力に基づくものではないと、仏教では考えられています。正しい制度であるかどうかは、それが弱者をどこまで保護しているか、それによって判断できます。
正義のないところには、安全と平和はありえません。
・・・人々に平和と安全をもたらすためには、為政者が仏陀の教えを守らければならないのです。この教えの中心にあるのは、真実と正義と思いやりです。ビルマの人々が、民主化運動で心に描いているのは、まさにこのような本質をそなえた政治なのです。・・・
また、このようなスーチーさんに対し、その政治的使命を実によく承知していて、為すべきことを説き勧められる僧侶らがいるということも注目に値する。
中部ビルマを遊説旅行しているとき、九十一歳の僧正から、ビルマで民主主義のために働くとはどのようなことなのかを諭された言葉がとりわけ忘れられない、と述懐されている。「あなたはうそ偽りのない政治に携わることで攻撃とののしりを受けるであろう。しかし、あなたは屈せずやり抜かなければなりません。苦への投資を止めなさい、そうすればあなたは楽を手に入れられましょう。」(『ビルマからの手紙』毎日新聞社)と。
<僧侶たちと民主化運動>
ビルマの僧侶達はまたその仏教精神に則って、反軍政デモにも積極的に参加し、改革の指導者として独自の役割を担ってきた。
一九八八年ビルマ全土に広がった軍政打倒・民主化要求デモのときも、学生達同様僧侶らも各地で抗議運動を繰り広げた。治安部隊は、デモ隊の最前列で黄衣を翻して銃撃を押しとどめようとした僧侶達にも容赦なく銃口をむけ、多数の死傷者をだして逮捕したと、アムネスティ・インターナショナルは報告している。
翌一九八九年六月に逮捕された全マンダレー・ストライキ・フォーラム議長ウ・カーウィヤ師は、アムネスティの「良心の囚人」にリストアップされているが、死刑を宣告され、今なお投獄されている。
一九九〇年八月には、一九八八年八月八日のデモの犠牲者を追悼する平和的な行進に軍が発砲したため、その後僧侶達は、軍関係者とその家族のいかなる宗教儀式も執り行わないし布施も受けないとして、不服従抵抗運動を開始した。マンダレーで約二万人、ヤンゴンで約一万五〇〇〇人の僧侶が参加。こうした行動は、「善を勧め、悪を押し止める」仏教精神に基づいた諌暁行為である。
しかし軍政は、これに対して徹底的な弾圧を加え、逮捕取締りを強化した。約五百名の僧侶が逮捕された。全ビルマ僧侶連盟議長ウ・イェワタ師や、学問僧として最高資格を有すヤンゴン・ティピタカ・サヤドォ・ウ・トゥミンガラ・リンカリャー師も含まれていた。不服従抵抗運動が誤りであったと認めることを拒否している僧侶らは、その後も投獄されたままである。
さらに一九九八年には、NLD主催の民主化運動の犠牲者追悼記念式典に参加した僧侶らが多数逮捕されている。
二〇〇三年一月には、逼迫する国民の生活を見かねた二名の尼僧が軍政への抗議デモを行って逮捕されている。最新情報(二〇〇三年五月)によれば、ビルマ軍政を諌め不服従抵抗を試みた僧侶五十七名、尼僧四名が投獄されている。その数は今現在も、増えつづけているはずである。
ビルマは、黄金の仏塔がコバルトブルーの空に燦然と輝いてひときわ目を引くことから、黄金の国とも呼ばれる。しかし、軍政の無慈悲な圧政に長く苦しめられ続けている人々には、仏塔の先端の正義をあらわす装飾がへし折れ、ひん曲がっているように見える。
<ビルマは今>
ビルマの国民から圧倒的な支持を受けている、ノーベル平和賞受賞者アウンサンスーチーさんは、昨年(二〇〇二年)の五月六日に二度目の軍政による不当な自宅軟禁から解放されて以来、政党活動の回復と国の民主化を促すために、各地で精力的に遊説旅行をおこなっていた。この間、軍政側は暴力的な団体を動員して、脅迫や妨害行為を繰り返した。そして、二〇〇三年五月三十日、ビルマ北部を遊説中のスーチーさんら一行二五〇名の行く手を阻み、集団的な組織暴力で襲撃し、スーチーさんの暗殺を図った。無抵抗の七〇名以上の人々の命を奪い、多数の負傷者を出した。アウンサンスーチーNLD(国民民主連盟)書記長・ティンウー副議長はじめ二百人からの党員・支持者を、不当に逮捕・拘束した。スーチーさんは傷を負ったままインセイン刑務所に投獄され、その後、軍の収容施設に移された。発病し、九月十七日緊急入院、手術を受け、二十六日に退院、そのまま3度目の自宅軟禁におかれている。
入手した事件被害者の目撃証言ビデオによれば、襲ってきたのは、軍政の翼賛団体UNDA(連邦団結発展協会)のメンバーを中心とする暴徒らで、中にはマンダレー刑務所で長期刑に服していた囚人らも含まれ、アルコールや薬物をあてがわれていたという。現場は瞬く間に、暴行・虐殺・略奪・レイプの修羅場と化した、と生々しく証言している。証言者の中には、重傷を負いながら密かに僧院にかくまわれ、傷がいえるのを待って事件の真相を伝えるため決死の思いでタイに逃れてきたNLDの党員もいる。
今回のアウンサンスーチー暗殺未遂事件は、ビルマ軍政の本質を如実にあらわしている。軍事政権は明らかに、スーチーさんの実力と国民的人気を恐れ警戒したのである。しかも、この襲撃を実行指示したSPDC(国家平和発展評議会=ビルマ軍事政権)ソーウィン第二書記長を、その後第一書記長に昇格させていることを見れば、国民に対する軍事支配を緩める気のないことがわかる。
一九八八年の全土的な民主化運動を武力鎮圧し、十五年一日のごとく国民の民主化への切実な願いを軍靴で踏みにじってきたビルマ軍事政権。その軍政に必要以上の温情を注いで、建設的関与をし続けてきた日本政府と投資企業。もうこの辺で、不良債権化するだけのODAや投資を全面的に止め、関係の正常化に努めるべきである。
今なおビルマ各地の刑務所には、自由と民主主義を求めて軍政に立ち向かった千四百名にも上る政治囚が、不当に投獄されている。
肥大化した国軍が政治の表舞台に居座りつづけ、国民を武器で脅しつけ、政治権力を独占し私物化していることが、諸悪の根源となっているビルマ。残念ながらこのような国に、建設的関与とか、太陽政策とか、人道援助とかの摂受的な方法は、軍政の延命に役立つにしても、民主化にはほとんど役立たない。周辺アセアン諸国が建設的関与にこだわるのは、天然資源の切り売りを容易にする軍政のほうが漁夫の利に預かりやすい、と見ているからに他ならない。
ビルマの民主化問題は、関わる国々の民主主義が試されている問題でもある。アウンサンスーチーさんも警告している。「ビルマの問題は劣悪な政治によってもたらされたものです。そして、これを変更することができない限り、今日の私たちの国を破壊している人道的な問題に関して、何も行うことができません。私たちがよく言うように、最初に民主主義ありきです。」
いわゆる軍政の民主化にむけてのロードマップは、アウンサンスーチー率いるNLDの存在をまったく無視するばかりか、政治囚の解放についても一言も触れず、自らの権力基盤を守ることに腐心するだけの内容でしかない。民主化を求める内外の勢力が主張している、諸政党の存在と自由な政治活動を保証し、アウンサンスーチーはじめすべての政治囚を解放し、一九九〇年の総選挙の結果を尊重し、軍と少数民族勢力そしてNLDの三者間の対話を早期に実現することが、真の民主化への第一歩であるべきである。
<ビルマといかに関わるべきか>
このような重要な時期に、いかに人道援助とはいえ、日蓮宗O師らが志すビルマのハンセン病患者に対する古着の支援というのは、軍政のプロパガンダの手助けには格好のネタになるかもしれないが、日蓮宗の僧侶がなすべき支援とは到底思えない。国民を全体主義の牢獄に閉じ込め、一握りの軍指導層とその追随者の特権を維持するために圧倒的多数の人々の自由や人権を踏みにじり続けるビルマ軍政を下支えするような支援は、すべきではない。身命を賭して民主化を目指し活動している人々をこそ、支援すべきではないのか。
「夫れ佛法を学せん法は必ず先ず時をならうべし」という日蓮聖人の『撰時抄』のお言葉は、そのままビルマの現実に符号する。ビルマに南無妙法蓮華経の精神「立正安国」を色読している人々をみる、といったら、唱題がないではないかと一蹴にされそうである。しかし、「身に読む」ということが行われていれば、それはとりもなおさず「事の一念三千」の世界があらわれていることになりはしないのか・・・・・。
参考文献
=cd=b861もっと知りたいビルマ』弘文堂 一九八二年 綾部恒夫・永積昭編
=cd=b861もっと知りたいビルマ』弘文堂 一九九四年 綾部恒夫・石井米雄編
アジア読本『ビルマ』河出書房新社 一九九七年 田村克巳・根本敬編
=cd=b861ビルマ 発展のなかの人々』岩波新書 一九九六年 田辺寿夫著
=cd=b861ビルマ軍事政権とアウンサンスーチー』角川書店 二〇〇三年 田辺寿夫・根本 敬共著
=cd=b861大東亜戦史2ビルマ・マレー編』富士書苑 昭和四十八年
=cd=b861ビルマ敗戦記』図書出版社 一九八八年 浜田芳久著
=cd=b861わが非暴力』春秋社 昭和四十七年 藤井日達
=cd=b861アウン・サン・スー・チー囚われの孔雀』講談社 一九九一年 三上義一著
アウンサンスーチー著『自由』集英社 一九九一年 マイケル・アリス著 ヤンソン由美子訳
アウンサンスーチー『ビルマからの手紙』毎日新聞社 一九九六年 土佐桂子・永井浩訳
=cd=b861アウンサンスーチー演説集』みすず書房 一九九六年 伊野憲治編・訳
=cd=b861希望の声』岩波書店 二〇〇〇年 大石幹夫訳
アムネスティ・インターナショナル『ビルマ、吹き荒れる人権侵害』一九九二年 アムネスティ・インターナショナル日本支部訳
=cd=b861ビルマ 自由へのはるかなる道のり』 一九九五年 アムネスティ・インターナショナル日本支部
=cd=b861森の回廊』日本放送出版協会 一九九五年 吉田敏治
=cd=b861ビルマでいま、何が起きているのか?』梨の木舎 一九九一年 在日ビルマ人協会編
=cd=b861将軍と新聞』新評論 一九九六年 ウ・タウン著 水藤眞樹太訳・解説
=cd=b861ビルマの大いなる幻影』社会評論社 一九九六年 山本宗補
=cd=b861ビルマの人権』明石書店 一九九九年 ビルマ連邦連盟政府編 田辺寿夫監修 ビルマ国際議連・日本 菅原秀・箱田徹訳
=cd=b861政府開発援助』第二版 剄草書房 一九九三年 樋口貞夫著
=cd=b861BURMA:The Next Killing Fields?』 一九九二年 Alan Clements
=cd=b861LICENCE TO RAPE』May 2002 The Shan Human Rights Foundation & The Shan Women’s Action Network
=cd=b861Preliminary Report of The Ad hoc Commission on Depayin Massacre (Burma)』July 4, 2003
=cd=b861Burma Journal』日本ビルマ事務所 二〇〇一年創刊号〜二〇〇三年十月号 ミンニョウ