現代宗教研究第38号 2004年03月 発行
日蓮聖人を取り巻く信者達 池上氏・四條氏について、付追加資料
平成十五年十月二十日 大阪府高槻市立総合市民交流センター
日蓮宗現代宗教研究所教化学研究集会
「日蓮聖人を取り巻く信者達−池上氏・四條氏について」
(録音再録、付追加資料)
(日蓮宗現代宗教研究所嘱託) 石川修道
現代宗教研究所主任伊藤立教上人より、本日の講師であります石川修道上人のご紹介をお願い致します。
毎年東京で開催する教化学研究発表大会とは別に、教区管区からのご要望にこたえて教化学研究集会を開催します。本年度は大阪府三島宗務所からのご要望で、四年ぶりに開催しました。
講師石川修道師のご紹介を申し上げます。ご案内の通り、昭和二十年四月十一日生まれ、立正大学大学院仏教学専攻修士課程修了、現代宗教研究所嘱託でございます。東京都墨田区日蓮宗啓運閣教会担任で、法華寺住職を兼ねております。先生の方で用意しました、寺院版とこう書いたパンフレット、レジュメがありますが、『現代仏教』という雑誌の写しでございますけれども、その中の冒頭に書いてありますように、伝承といって真偽未定の部分がありますけれども、伝承から信仰が生まれるという姿勢で、日蓮宗における伝承学の提唱者でございますので、どうぞそういうスタンスで、先生の方から信仰に繋がるお話を頂戴できるものと思っております。では、「日蓮聖人を取り巻く信者達−池上氏・四條氏について」という題で、ご講演お願いします。宜しく、お願い致します。
皆様、こんにちは。この三島教区、と申しますか、これはあのう、日蓮聖人にとってもとても縁の深い地域だと思います。なぜならば、隣に水無瀬神社があります。水無瀬神社は、後鳥羽天皇をお祀りしております。それから後鳥羽天皇がここに離宮を造る前、平安時代に、文徳天皇がその水無瀬の所に離宮を造ります。とても景色がいいものですから、和歌も作ります。その文徳天皇の第一子、長男である惟喬親王は、弟と皇位継承で争います。そして、長男の惟喬親王は暗殺されたと伝えられておりますけれども、実は逃げ延びまして、滋賀県の永源寺町を政所に貰います。その、政所の所におられた木地師、お椀だとかお鉢だとかそういうのを作る木地師達の流れが実は本間氏です。ですから、皆さん,関西の方はご存知でしょう、愛知川と書いて、「えちがわ」です。ですが、本間重連のご先祖はそこに住んでおられて、そして関東へ出て自分達と同じ故郷の名前を付けて、神奈川県の依智の妙純寺という今日蓮宗の本山がありますところ、誠に永源寺町の愛知川と、下依知中依知、神奈川県の上依知の情景が全く似てます。そういう意味で、惟喬親王が暗殺されたというように歴史になってますが実は逃げ延びまして、滋賀県と三重県との県境の一番奥、永源寺町、そこへ落ち延びまして、これを助けたのが木地師達です。惟喬親王が巻子本で法華経を読みますと、ぱーっとお経が手からこぼれまして、巻子本ですからぱーっとお経巻が流れる。それで、はっと思ったんです。お経の芯の、木の軸が回転してます。これでもって、惟喬親王はろくろを作るんです。ろくろ、こけしなんかやる時にろくろに結んで、ろくろを回して鑿でばーっと削っていくわけです。ですから惟喬親王でもって木地師達が生まれました。その木地師達が、実は山の奥の奥ですから、材木、それから山の奥にあるものは何かというと鉱物です。砂鉄、水銀、そういうものを皆発掘してくるわけです。でその人達が関東へ進出したのが、本間重連です。だから、本間重連、本間六郎左右衛門、六郎左右衛門の六郎ってのは、ろくろの六郎なんです。ですから関西の皆さん方は、一度、永源寺町を訪ねてみるべきだと思います。
日蓮聖人は、安房の小湊で生まれました。しかし鎌倉時代ですから、十人生んでも五人育つか育たないかです。そうしますと、皆さんは、日蓮聖人は一人っ子なのか兄弟がいたのかと、恐らく疑問に思うでしょう。私は、学生の頃からずーっと思ってました。お祖師さまには、兄弟がいた筈だ、女兄弟もいたかも知れない、男兄弟もいたのかも知れない。で千葉県の電話帳を全部調べて、貫名を探しました、貫名は一軒もありません。貫名重忠の貫名家というのは一軒もありません。これはおかしいな、小湊に子孫はいてもいい筈なんだけど、いません。これはおかしいな。で、ずーっと調べていったところ、江戸時代に書かれた六牙院日潮上人の『本化別頭仏祖統記』を見ましたら、日蓮聖人は五人兄弟の四番目です。そうしましたら、その子孫がいてもいい筈。ご長男は貫名重政、で二男の方は、早く亡くなってます。おそらく子供のうちに亡くなります。三男が貫名重仲、四番目が日蓮聖人善日麿、そして日蓮聖人の弟さんが貫名藤平重友。ちょっと、ここ一字忘れました。この間の二男さん、早く子供のうちに亡くなりました。そうしますと、日蓮聖人のお兄さんが重政、弟が貫名藤平重友。日蓮聖人が池上本行寺で亡くなった時の、涅槃図があります、その日蓮聖人の頭の所に、ご長男である貫名重政と弟の重友が必ず書かれております。どの涅槃図を見ましても。日蓮聖人は、幼名を善日麿、で次を薬王丸、蓮長となって日蓮となられます。子供さんは、父親の貫名重忠の重(しげ)という字を一字もらうんです。お祖師さまだけが、親の名前を貰わないでいきなり善日麿。お祖師さま自身は、自分は旃陀羅の子なりと申しております。これは大変な矛盾なんです。重なんとかという名前が付いていて、後に、名前が、薬王丸だとか、蓮長になったら分かるんですが、お祖師さまだけはいきなり、善日麿。しかも旃陀羅の子なりと言いますから、漁師の、殺生をする階層のお子さん。殺生をする階層のお子さんが、いくら勉強が出来るといっても、自分の領域を出まして鎌倉へ遊学をする、京都へ遊学する、有り得ないです。ですからこういう本を見ますると、お祖師さまだけは父親が違うのではないか、と思うのは当然であります。で現在、日蓮聖人の弟の貫名藤平重友の家系は続いております。小湊誕生寺から上へ北に行きますと、千葉県夷隅郡という所に約三十何軒、日蓮聖人の弟の家系が続いています。ということを、宗門が知らないんです。
同じように、池上家のご子孫達にお会いしたことはないでしょう、四條家のご子孫達にお会いしたことはないでしょう。その池上さんのご子孫が今もって健在でおりまして、しかも大坊と池上本門寺本院の総代を勤めてます。その総代さん達が、山あり谷ありという人生で、現在、日蓮宗の檀徒としてしっかりしているわけです。四條金吾の末裔の方々は、身延山よりずーっと富士川を下っていく途中に、内船の内船寺というお寺、その内船に約五十軒、四條家があります。宗門としては、そういう末裔の方がおられるということをキャッチしておりません。富士宮に出た四條家の分家の人達が、創価学会に入信してます。本家が創価学会になって頂いたら、そりゃもう「聖教新聞」で宣伝できるわけです。ですから本家がなんとか創価学会になって貰いたい、改宗して貰いたい、いうわけで、学会の青年部が、本家へ来てるわけです。そういうところにバックアップしたり、フォローしたり、そういうことは宗門は情報がないんです。もったいないことですね。四條家の有力な一人が入ったら、「聖教新聞」で大々的にやりますよ。そういうわけで、池上家も四條家も、現在まで続いております。のみならず、お祖師さまにとって謗法といわれる東条景信、東条景信のご子孫は今東京におります。今は宝石商。私がお会いした時、もう十年位前ですが、東条景信さんのご子孫がいる、これびっくりしました。皆さん、あの、皇居の側に半蔵門、半蔵門のところに、東条会館という結婚式場があります。その東条家は、小湊の東条の郷から茂原に出るんです、茂原の藻原寺の側に。その、茂原へ出た東条さんが、東条会館の東条さん。東条景信のご子孫はあらゆる戦につく、鎌倉時代江戸時代、ついた殿様は全部各戦に勝っているんです。ですから最後は、徳川家の旗本です。で東条家のお屋敷はどこにあったか。靖国神社の下に、九段下ってあります。今は大学の専修大学。専修大学は東条家の屋敷の跡。で下屋敷が、江東区の砂町にあった。その砂町で、関東大震災に遭いまして、お位牌と過去帳を、現当主さんが風呂敷に包んで逃げた。しかしその風呂敷に、火の粉がぼんぼん落ちてきて、風呂敷が焦げた。その風呂敷も持って来て頂きました。その通りの物を見せて頂きました。で、東条景信のご子孫は、幕末までは臨済宗、で明治になりまして縁がありまして、法華宗、いわゆる日蓮宗になります。で今のご当主の方は、東条景信、自分の始祖をずーっと調べていったら、お祖師さまに対して大変ご苦労かけた方だ、ということで、東条景信のご子孫は現在、国柱会の信行会員です。世の中に皆さんね、我々から見たら、とんでもない地獄に墜ちるんじゃないかという方が、運のいい人と言いますかね、ついた殿様が全部勝ち戦、そういう方もおられると。その情報も、日蓮宗は何も知らない。で、今日はそういうことで池上さんと、四條家のことについてお話しますけども、歴史というのは、文書に書いてあるものだけでは理解出来ません。文書の裏側に何が書いてあるか、それから、文書に書けないものも必ずあるんです。これはタブーです。今日はそのタブーもちょっと、触って、お話したいと思います。
池上家の始祖の藤原忠平という方、この方は、平安時代においては摂政です。摂政ということは、今の総理大臣です。その流れを汲んだのが池上家だ、と言われてる。そして、吾妻鏡に今登場してくるのは、池上さんでは池上藤兵衛尉、それから、藤兵衛康光、三番目に池上左衛門尉、四番目に池上藤左衛門尉、という名前が登場してきます。この方々が、池上本門寺の池上さんのご先祖だと伝えられております。これは立証は出来ません。ただ吾妻鏡に、池上の姓で登場してくる人物はこういう人物ですから、これのご先祖であるといっても、これは真実かどうかというのは、立証は出来ませんけども、一応その系統でいいと思います。そして、日蓮聖人のお木像、日蓮聖人が御涅槃に入りまして七回忌の時に、蓮華阿闍梨日持上人、それから、侍従公日浄上人が施主となって、池上本門寺の前国宝のお祖師さまを七回忌の時に刻みます。その時に、お祖師さまのご遺骨を中に入れて安置したと伝えられた。でこれは、私はちょっと疑問だなと。何故ならば、日蓮聖人のお木像というのは、寄せ木造りです。等身大ですから首は首、肩は肩、腕は腕、胴体は胴体、それを、膠で付けている。ところが日蓮聖人のお骨がどこに入っているかというと、普通は、寄せ木造りの場合は首を外して、胴体の空間にお舎利を入れるんです。池上本門寺のお祖師さまはそうじゃないんです、底から入れてるんです。これ、こんな小さいお木像だったらそうするでしょうが、お祖師さまみたいに等身大の、あれだけの大きな木像でしたら有り得ない。ということは、これ別々にあったものをある時期、一緒にしたんです。そうすると、池上本門寺というのは、日朗上人は比企ガ谷、池上には大坊がある、また本門寺がある。本門寺という名前はあったと言いましたけどこれ、クエスチョン。大坊はあります。で、池上本門寺と比企ガ谷、一人の貫首様が両山を兼ねる。そうすると、比企ガ谷の貫首さんは何時、池上本門寺に入ったかというと、十二世の仏乗院日惺上人が初めて、比企ガ谷から池上に来る。これは何故かというと、江戸に幕府が開府されまして、幕府の宗教行政によって、比企ガ谷から、十二代目の貫首さんが初めて池上本門寺に入る。恐らく日蓮聖人のお舎利は、日朗上人が相伝しまして、恐らく比企ガ谷にあったはずです。お木像は池上にあったかも知れません。場合によっては、お木像も比企ガ谷にあったかも知れません。それを一つにするということはどういうことか、とこれは日蓮宗、今の我々の言う日蓮宗の中で、今の日蓮宗を考えたらわからないです。京都の本圀寺六条門流は六条門流で、一番正当性があると考える。妙顕寺の四条門流は四条門流で、一番正当性があると考える。それに対しまして身延は身延、池上は池上。もちろん、京都の妙顕寺は、池上系の寺です、日朗上人ですから。しかしながら、京都の妙顕寺の人達にとっては、池上はあくまでも一つのお寺であって、後醍醐天皇から勅願所として認められたのは京都の妙顕寺。京都の人にとっては、池上よりも自分達の妙顕寺が上だと思うでしょう。自分達の門流が一番大事だと思って、その時に、正当性、うちの方がいい、正当性が一番あるんだという時に恐らく合体したものだと思います。ですからそういう意味で考えますと、今、松葉谷に草庵があった所が三箇所あります、松葉谷の妙法寺さん、それから安国論寺さん、そして、長勝寺さんもそうだという。ところが長勝寺さんは、あそこは材木座でもって、松葉谷じゃありませんから、ま、この長勝寺さんは違うと思います。そうすると、松葉谷の中では、安国論寺さんと、妙法寺さん。これは両方がそうだと思います。お祖師さまがどこに住んでたか分からない、松葉谷に住んだという伝承がある。そうしますと、京都の本圀寺門流にとっては、鎌倉において日蓮聖人が住んだ場所はここだという風に信じて、そこに顕彰庵を建てるんです、これが、妙法寺です。池上本門寺にとりましては、池上門流にとってお祖師さまはここにいたに違いない、という所が安国論寺です。ですから二箇所、三箇所あったっていいんです。自分の門流は、ここだ、と。お祖師さまが住んだ、住まない、ということは、まず私は住めなかったと思います。何故ならば、現在も松葉谷は、鎌倉で一等地です。比企ガ谷の妙本寺も、現在も一等地です。安房の国から、名もないお坊さんが一人出て来て、鎌倉のその当時でも一等地の所に住めっこないんです。と、何処にいたか。おそらく、四條金吾のお宅の持仏堂なら居られます。鎌倉幕府や念仏を批判する和尚が来て、勝手に寺建ててごらんなさい、こんなこと、幕府が許す筈ないです。
比企ガ谷の妙本寺も、よく調べましたら、今の場所じゃないんです。鎌倉の大鳥居を正面に見ましてずーっと、それを今度は右に曲がっていくと、材木座、六浦海岸、鎌倉霊園という方へ向かって行きますと、五大堂明王院という真言宗の。その辺りが日蓮聖人の当時の比企ガ谷なんです。で現在の比企ガ谷、我々の言う比企ガ谷の妙本寺というのは、佐竹山というんです。甲斐源氏の佐竹さんが住んだから、佐竹山というんです。ただし、そこにも法華堂はあった。で、元の、本当の比企ガ谷というのは、二世将軍の時は、鎌倉鶴ヶ岡八幡宮寺なんです、寺なんです。東寺派の真言宗のお坊さんが別当でいるんです。これは、室町時代まで続くんです。室町時代、比企ガ谷にあった、鎌倉幕府が建てた大慈寺というお寺が廃絶するんです。その時にお坊さんが全部逃げます、廃絶された時に。そして比企ガ谷は現在、妙本寺の法華堂があるんです。そこもおそらく真言系の人がいたんでしょうけども、その人達も全部逃げます。で誰もいなくなった時に、法華のお坊さんがそこに入って、法華堂を守るんです。皆さん、真言宗の人が法華堂を守るというのは、今の真言宗の人は法華経を唱えるかどうかちょっと分かりませんけども、真言宗でも法華供養するんです。そういう時には、真言宗のお坊さんもそこの住職になる。今でいう日蓮宗とは違うんです。
そういうわけで、歴史というのは、伝承というのは、自分に有利なように全部作るんです、自分の有利なように、日蓮宗にとって日蓮宗に有利なように作るんです。しかしながら、伝承そのものを分かっておいて、違う見方をすると、おかしいぞと。これは、恐らく一般の学者の方もだんだん気が付いてくる。ということは、比企ガ谷の妙本寺さんへ行きますと、ずーっと、ここが比企ガ谷でした、お祖師さまが住んでいました、と言われてる。比企ガ谷の妙本寺さんて、何万坪も持ってるでしょう。日蓮宗のお寺を鎌倉に建ててもいいよと言われ、許可が出るのは恐らく室町の後半から戦国時代にかけてでしょう。大々的に建ててもいいという許可が出るのは、日蓮宗の信徒にお万の方が徳川家から出てくる。そのお万の方について、池上本門寺では、他の諸大名も全部墓地を池上本門寺に取る。で鎌倉にも、日蓮宗、いや法華宗の寺を建てても誰も文句は言わない。そういう時に、現在の日蓮宗の本山がああいう土地を持てる。何故ならば、日蓮宗でもまだ分からないんです、日蓮宗の大怨敵となった平左衛門尉頼綱の許しがなくて何処に住んでいたか。本覚寺の戎橋を渡って、比企ガ谷の妙本寺へ来ます。そうするとこちらに幼稚園があって、山門があります。山門を左にずーっと行きますと、日蓮聖人の辻説法之址に琴弾橋という橋があります。滑川を渡った橋、渡った所に、経師ヶ谷という谷があって、そこに平左衛門が鎌倉時代に住んでいた。平左衛門の隣の屋敷に日蓮聖人が住む筈ないです、こんな危険な事ないから。で、こういう検証を日蓮宗はやらないんです。平左衛門が何処に住んでいたか。『吾妻鏡』を読みますと、経師ヶ谷に住んでる。経師ヶ谷から、走って三分ですよ。そんな所にお祖師さまが住む筈ない。ですから、伝承をずーっと追っていって、今度は伝承を別の見方をすると、あっ、ほんとはこうかと分かるんです。一方、一般の宗教に関係ない歴史学者までがそういう文献をもう分かってます。これは日蓮宗の、立正大学の一人の先生しか書いてない。こんな文献、立正大学は知らない。『吾妻鏡』読んでないのかと。だから、我々宗門人がぽーんと発表していく事が大切なんです。石川修道ってのは、何年か前にぽーんと発表してます。ほんと、比企ガ谷はこっちですよ。よそから文句を言われたって、私、歴史学者じゃない。一宗門人の僧侶がそれをやっておかなければ、宗門がよその歴史学者から批判されるんです。伝承をずーっと調べていって、その伝承はどういう面で成立したのか、別の見方で見たらほんとはこうではないか、という風に分かるのが伝承学。その伝承を活かすもの。粉飾されたものを削っていく、これが大事なんです。
それで、池上さんという方は、鎌倉将軍家の棟梁です。大工さんの棟梁です。棟梁というのは、今でいえば、設計士であり現場監督であり、なんて言いますかね、ゼネコンですよね。自分自身が、鑿を持ってやるんじゃなく、そういう事を全部職人にさせるサービスです。その池上さんは、材木に関係があります。山を押さえている方々は、木こりもそうです、そういう職人を押さえてるんです。でそういう職人の方々は、関西で山窩って言葉を使いますか。この、山窩の中から、山伏、三十二位の職業があります、木地師、それから白拍子、いろんな職業が出てきた。この山窩の人達を束ねる事が出来たのは、池上さん。材木を押さえてる。ですから豊臣秀吉の時代に、秀吉さんがまだ木下藤吉郎といったころ、自分の親分である蜂須賀小六に頼んで、木曽川に一夜城を造ります。蜂須賀小六という人は、窯と山を押さえている、恐らく山窩の親分でしょう。だから、材木をばーんと切ったって、誰も文句言わない。その、山窩の人達を、木陰者という。木の陰っていうのは木の下です。木の下っていうのは、木下藤吉郎。で、こういう方々を職業柄束ねてたのが、池上さん。そうしますと、貫名重忠という方は、日蓮聖人の親です、旃陀羅の身分だった。旃陀羅には、貫名なんていう、まず名字がないです。浜の二郎とか、浜の太助とかね。重忠ってのは武士です。そうすると、日蓮聖人のお父さんは、安房の国の東条の御厨、いわゆる天皇領です、天皇領のその旃陀羅を束ねる位の人じゃなかったか。そういう方を束ねるのは、宮中の蔵人職です。そうすると、貫名重忠は恐らく宮中に関係があった、安房御厨という天皇領の中の蔵人職に関係のあった人とみた方が、理解が出来ると思うんです。漁師達は、春のお彼岸から秋のお彼岸までは魚獲りをするんです、沖に出て。冬の最中は、どうするかというと、浜砂鉄を取るんです。海岸に、砂鉄が混ざってます、砂鉄を取るんです。その時、土を引くんです。土を引くっていうことはどういうことかというと、これは地面でだいたい砂鉄を採るんです。日本の砂鉄の一番取れる場所、量として沢山取れる場所はどこか、出雲の国でしょう。日本刀、剣、今でもそうですね、文部省を通じて刀工達には、玉鋼が配給されるんです。その、浜砂鉄が取れる場所を、引佐っていう。素戔嗚尊が出雲に行きまして、『日本書紀』とか『古事記』を読みますと、素戔嗚尊は天照大神の弟で、お姉さんに悪いことをして、馬の生皮を剥いだものを機織りに投げ込んで、それで天照大神に怒られて追放されて、出雲に入った。出雲国に入りましたら、八岐大蛇で苦しんでいる部族がいた。その八岐大蛇を退治して尾っぽから出てきた刀が、天叢雲剣ですよ。後の草薙剣です。そして、出雲国の櫛名田比売と結婚して住んだ場所が須賀宮。須賀というのは、鉄の別の名前です。神奈川県に行きますと、長い浜でもって、横須賀って場所がある。横須賀っていうのは砂鉄が取れたんです。で、日蓮聖人の当時は、鎌倉の材木座は砂鉄が取れないんです。稲村ヶ崎から、龍ノ口まで、七里ヶ浜は、砂鉄が取れるんです。しかも、一番取れたのは何処かというと、稲村ヶ崎。に、金山という場所があります。今、本化妙宗連盟があるのは、稲村ヶ崎の金山です。金の山と書きます。そこが、砂鉄が取れまして、今から十三年前まで砂鉄取ってました。その砂鉄取りの上流が、極楽寺良寛の極楽寺です。そして、日蓮聖人一族の貫名重忠が、静岡県の貫名郷から房州へ、ま政治亡命とも言いますし、平治の乱に加担してここに流されたとも言います。そうすると、貫名重忠が住んでた所、浜名湖の上ですよ。引佐郡です、引佐郡。引佐郡の臨済宗の竜潭寺、これが井伊家の菩提寺です。貫名家というのは、井伊家の分派になる。砂鉄の取れる場所を、出雲国で引佐、遠州に来て引佐、房州に行きましては、引土、全部鉄の取れる場所です。土を引くっていうのは、皆さんが、塩を右手で取る時に砂を引くっていう、これだけど実は、砂鉄を取るんです。何も取れませんでしたら、御厨に指定しません。そこには鉱物資源が眠っているからこそ、大和朝廷はそこに手を出す。日本武尊が東国征伐した時も、日本武尊が歩いたとこ全部そうです、全部水銀と砂鉄が取れる場所です。そして、この引土という場所にあるお寺は何か。日澄寺、工藤祐隆のお寺がある場所が引土です。しかも山号は明星山。明けの明星の、明星です。世界中の信仰でもって、土の中の鉄を発育させるのは星のエネルギーだという信仰がある。ですから、明星山日澄寺といいます。
山の砂鉄はどうか。そうすると清澄でしょう。清澄が、虚空像菩薩です。虚空像菩薩の本地は何か。皆さん我々序品を読んでる時に、名月天子 普香天子 宝光天子と、読んでいきます。その時に出てる名月天子は月天子、普香天子は、虚空像菩薩であり明星天子なんです。宝光天子は太陽です。ですから日蓮聖人が虚空像菩薩を拝んで、日本第一の知者となさしめたまえと祈った時に、虚空像菩薩が日蓮聖人の前に現れて如意宝珠を差し出して、お祖師さまは、衣の袖で有り難く如意宝珠を頂戴して、断食で修行してたんですから、パーッと気を失って血を吐いた。これを清澄の皆さんは凡血の笹って、血を吐いた笹に赤色の点々が入った。日本語では、鉄のことを笹って言うんです。笹とか葦。会津磐梯山はどうでしょう。会津磐梯山は宝の山よ、笹に黄金が成り下がる。笹っていうのは、黄金なんです。皆さんの地元です、今宮戎。笹持って来いって、なんですか、掛け声。笹持って来いっていうのは、この場合は黄金です、お金です。ですから笹というのは、鉱物でもあり黄金でもある。清澄山っていうお山が、鉱物が取れるお山だった。だからこそ山伏が、あそこを修行場として選んだ。水道がない場合は、清澄は、千年杉の下の明星の池から飲み水をとって汲んでたんです。
今でも、モーターが置いてある。で、そういう所の方々を、日蓮宗は教化したい。ですから、日蓮宗に清澄が改宗する時も、去年亡くなりました総代さんが動いてくれたために、その当時清澄をバックアップしてくれた総代さんが改宗に踏み切ってくれたために、日蓮宗になるっていってきた。恐らくこの人達は、こういう人たちのリーダーであり、親分だったでしょう。三角寛っていう方が、山窩の研究で日本で初めて博士号を取ります。当時、戦前ですからテープレコーダーはありません。彼が全国を歩いてインタビューして、資料をおこすんです。その時に、房州の山窩のリーダーに会った、と書いてあります。中部日本の山窩の拠点は何処かというと、八ヶ岳と富士山と、小湊なんです。
日蓮聖人の兄弟弟子の弟、その弟が、京都へ行くんです。で京都に来まして、池上家との文通が江戸時代ありまして、京都御所の前の、烏丸の出水にいるって書いてある。現在、出水にいないらしい。洛外の聖護院の裏に池上がある。これを右衛門が貰えると書いてある。池上姓が聖護院には二軒あって、電話しましたら、いや我々は明治以降になって来た者です、江戸時代にはいません。これ一つ、皆さんがですね、京都で池上家、三十何軒ありますから当たって頂いて、それを探って頂きたいと思います。そして、池上さんは、川崎に、川崎大師の前に新田開発をします。海を埋め立てて、畑田圃を作ってる。どういう作り方をしたかというと、沖に堤防を築きまして、それへ笹を立てるんです。笹を立ててって、土砂を入れていってるんです。土砂が流れないように、笹が立っている。でしばらくしたら新しい土を入れて、塩抜きをして、そこに、農作物が作れるようになった。この功績によって、いろんな方が池上さんを訪ねてくるようになりました。
ここに出ている今の、おばあちゃん、おじいさんがいます、池上家の当主です。今もって健在でおられます。そして、池上兄弟は父親に勘当される、二回も勘当されるんです。四條金吾もそうなんです、四條金吾は、兄弟と共に信仰、日蓮聖人についていったけど、日蓮聖人が佐渡まで流されたとき、自分達はこんな恐ろしいお師匠様の側に仕えること出来ませんって、お兄さん、弟達は日蓮聖人を捨てた。しかしながら四條金吾は、弘安二年に、佐渡の領地を鎌倉幕府から頂く。いかだ郷という郷がある。いかだ郷という郷は、佐渡にないんですよ。土地というのはですね、その土地の人にしか読めないんです。いかだ郷というものは、恐らく、転写していくうちに、その土地じゃない人は読めないから間違っていく。例えば、鎌倉の町っていうのは全部辻で出来てる。勾当ノ辻、咒師勾当ノ辻、辻で全部、鎌倉の町は出来てる。と、辻というものを、これ、しんにゅうは、こうですね、こうして草書で書きます、これ早くなれば、こうなっちゃう。で更に、六老僧日昭聖人が居た場所を、浜土の法華寺とも申しますけども、浜の辻の法華寺のつもりが、浜土になっちゃう。それと同じように、我々は和尚(オショウ)と読みます。ところが律宗では、鑑真和尚(ワジョウ)、ワジョウです。ところが天台では、カショウとよみます。カ、ワ、オショウ。そうすると、いかだというのは、ワなんです、カはワなんです。そうすると、イワタ、石田(イワタ)郷。そうすると、京都で石清水(イワシミズ)八幡宮、イシじゃなくて、イワシミズです、イワです。と、ワというのは、カと読むし、シとも読むし、オとも読む。ですから、イカダ郷は石田郷、石田郷というのは、佐渡におきまして一谷(イチノサワ)妙照寺になる場所、石田郷。日蓮聖人が既に身延にお入りになって弘安期に、四條金吾は佐渡に領地を貰いました。これは四條金吾にとってはですね、お祖師さまが流された場所の領主に自分がなった。しかも、その土地というのは、お祖師さまが「勧心本尊抄」とご本尊を顕発されたところ。こんな嬉しいことないです。ですから、四條金吾は、信州の殿岡という場所から日蓮聖人に、自分の領地からお米を送ります。しかしながら四條金吾は、弘安の時期に佐渡が領地になる。場所の広さは三倍、殿岡よりはあるけども寒いですから、日光が飯田の殿岡より当たらない。広さは三倍になるけれども、あんまりいい場所じゃないと考えた。それを日蓮聖人は、よきところ、よきところと誉めなされた。これが恐らく、人の本心なんですね。日蓮聖人にとっては、「本尊抄」と大曼陀羅を顕発した場所ですから、法華経に縁のある場所だから、いい場所であるということを土地に対して誉めなさいと、日蓮聖人は教えているんです。これは皆さん、子供の教育の時もそうです。この子は馬鹿だ馬鹿だと言えば、馬鹿になっちゃうんです。皆さんが、いい子だよいい子だよ、と言えば、その子は、どんどん能力を伸ばしていくでしょう。この池上さんと四條金吾さんは、日蓮聖人に出会うまでは、真言宗です。真言宗の疑いを、最後まで疑問に持っているんです。その真言宗に対する疑問を解くために、「開目抄」「本尊抄」、全部真言批判です。真言批判は恐らく、七部以上してます。慈覚・智証が、天台を、真言化した。それはみんな、恐らく、日蓮聖人の宗教が出来る前は、天台か真言です。特にお医者さんは、四條金吾のようなお医者さんは、真言です。何故ならば、江戸時代までのお医者さんは祈祷ができなきゃいけないんです。お医者さんは、祈祷できる、できなきゃいけないんです、それは、何故かというと、精神病だとか、それから物の怪が憑いたという病気があります。それに対してどう拝んだらいいかということを、四條金吾は出来るんです。ですから、四條金吾宛の御書をずーっととくと、日蓮聖人の祈祷が全部そこでされてる。だから護符の作り方、この水をどういう時に飲みなさい、で四條金吾には日天子月天子明星天子を拝みなさいということを、特に説いています。
皆さんが、七面山を登ります。七面山を登った時に富士山が見える、あの富士山を拝みますと、太陽が昇ってきます。でみんなが、太陽ばっかり拝んでます。七面山っていうのは、三光天子を拝む場所なんです。太陽が出る前から、早い人は行って拝んでます。太陽が出る前、まだ暗いんです。そこには夜空に月が出てて、星が出てる。それがだんだん白んで来て、見えなくなって太陽が昇ってくるんです。日蓮聖人は、三光天子を拝む信仰が強いんです。その影響を受けたのは、京都の妙顕寺の日像上人です。で日像上人が北陸を歩いた時には、お寺に三光天子を祀ってます。日蓮宗では、それがなくなるんです。ですから今、荒行へ行った時に、朝の勤行が終わって初めて、障子をパーッと開けて拝む時は、日天子月天子明星天子を拝む。その残りは、ちょっと残ってるだけ。日蓮宗の宗教は、お堂で拝むんじゃなくて外で拝むのが、日蓮聖人の宗教の特徴なんです。朝、外で拝むんです。龍ノ口で襲われた時の日蓮聖人は、月天子に向かって法華経の勝劣を述べてます。その時にまごうことない光物が現れて、日蓮聖人は助かります。本間重連の依智の屋敷に預けられます。預けられた夜に庭に出て、月天子に向かって諫暁します。月天子は法華経の御座において法華経の行者を守るということを誓約したにも関わらず、満月で嬉し顔に居るとは何事か、ということで日蓮聖人は月天子に向かって諫暁します。その結果、光物ががーっと近づいて来て、お祖師さまの前で梅の木の枝にかかって、光明の中に十三の童子の姿となって明星の天子が現れたのが、他の人には見えない。お祖師さまはその明星天子と二人で、人間が人間と語るように話をした。明星天子は必ず法華経の行者を守護する、というお言葉を日蓮聖人は聞いたんです。ですから、依智を佐渡へ発つ時には日蓮聖人は、自信を持って自分は必ず助かるって。佐渡へ流されて、塚原三昧堂から一谷へ移ります。今、御松山実相寺という山がある、そこへ向かって日蓮聖人は北辰妙見、明星天子、太陽を拝みます。東の方っていうとこれは、自分の故郷の両親のお墓を拝んでいるわけです。そうすると、拝んでいる最中、何日、何日目かにして、頭の白き烏が自分の目の前に現れた。これは中国の故事にのっとって、赦免状が来る前兆だった。龍ノ口においては月天子、本間重連の館においては明星天子、残るは日天子だけ。その、日天子を拝んでて、その使いとして、烏が登場してくる、頭の白い。これで自分は帰れるぞ。熊野の信仰もそうでしょ、八咫烏っていうのは真っ黒で、太陽の象徴です。象徴っていうのは、太陽の黒点です、黒い点、
黒点です。日蓮聖人は頭の白い烏を見て、自分は赦免されるんだという確信を持つ。で、佐渡へ流された人で、帰って来て正気だったのは日蓮聖人だけです。一度佐渡へ流されますと、誰も生きて帰れない。ただ一人帰って来た人が、お能をやる人は知ってる、世阿弥です。世阿弥は佐渡へ流されて帰ってくるんです。帰ってきた時に、彼は発狂してます。佐渡へ流されて、発狂しないでちゃんと活動出来たのは、恐らく日蓮聖人だけだと思います。やはりこれは、諸天善神が守護してくれたのだと思います。そして、蒙古来襲の時に、日蓮聖人が、佐渡島へ、流されて初めて、上行菩薩、いわゆる予言が的中した。文応元年、日蓮聖人は安国論で予言、蒙古来襲を他国侵逼難で予言したのは、蒙古が来る十三年前ですよ。いよいよ文永十一年十月に、蒙古が実際に来ます。そのことによって、日蓮聖人はもう一度予言します。佐渡を許されて、鎌倉へ帰って来ます。四月八日に平左衛門に呼び出されます。呼び出しを受けまして、お前十三年前に、蒙古来襲を予言したじゃないか。ほんとに来るのか、って聞かれた時に、「天の御気色いかり少なからず、よも今年は過ごし候はじ」、天の御気色は来てもらいたくないと思っても来るような状況になっていると。法華経の行者を法難にあわせて島流しに、法華経の行者を難儀に遭わせたことによって、法華経でいう梵天帝釈等が蒙古の国に入って、日本を罰するために来るんだという風に日蓮聖人は言っておられる。四條金吾さんは、お医者さんです。日蓮聖人にとってお医者さんで、しかも、今皆さん方が知っているホカロンを発明した人です。日蓮聖人は、身延で下痢が止まらなかった。その時に、さらしに四條金吾は、味噌を塗ります。味噌を塗って、火鉢であっためてあっためて、それを日蓮聖人のお腹に巻いてるんです。一応、漢方療法です。それで日蓮聖人は、下痢が止まった。四條金吾という方は、ホカロン発明者。その四條金吾が、最後は、お兄さん、弟達に裏切られ、池上さんは、親に勘当されます、二回も勘当されます。しかしながら池上さんの場合は、奥さんが、お舅さんに言われても主人の方についた。ここは皆さん、図を見て下さい、この、池上家の、工藤祐経の系図、これは、『御書略注』というものに書かれている系図です。池上宗仲公の奥さんは日妙女、日妙女というのは経一麿のお姉さん。で、池上さんの母親は、『御書略注』『玉沢手鏡』によりますと、工藤祐経の長女です。二女は妙一尼と申しまして、弁阿闍梨日昭上人の母親です。三女が妙朗尼で、妙朗尼が、最初に結婚した平賀有国との間に生まれた子供、吉祥麿日朗上人がいます。ところが有国が早く亡くなるので、後妻として平賀忠晴に嫁ぎます。そして日妙女、経一麿日像上人、それから池上本門の第三世の日輪上人、それから、妹の妙恩尼を生んで、こういう兄弟の結束が出来た。そういうわけで、池上氏、四條氏の、信仰を捨てるか現実を取るかという、でこのお二人共、信仰を取った。しかも、女房達がみんな主人についてくれた。これやっぱり信仰の差が出るんでしょうね、女房が、主人と反対をいったなら難しい。それから、これが、池上本門寺の日蓮聖人のご尊像の、下から撮った写真です。蓮華阿闍梨日持上人が七回忌の時に、
このご尊像を作った。それから、侍従公日乗という方は、今は誰だか分かりませんけども、最蓮坊じゃないかと言われています。この二人が施主となって、このお木像を作ってる。で、日蓮聖人のお舎利は、下から入れてる。これを、お回ししますから、ご覧になって下さい。日蓮聖人のお曼陀羅を見る時に、文永十一年の十二月に書いたお曼陀羅です。十月二十三日に蒙古が来襲します。蒙古来襲があって自分の預言は当たったという事で、ついに書いたお曼陀羅に、ここに、天照八幡という字に対しまして、南無という字をつけている。南無天照八幡等の諸仏、天照八幡は神道の神様。しかしながらそれは、仏教の諸仏の位に位置する。ですから日蓮聖人にとっては、日本国の守護神である天照八幡が、蒙古来襲の時には獅子奮迅と戦ってくれたという事を感じたんでしょう。しかも、石清水の八幡様は、伝承によりますと、誉田別命が生まれたのは、四月八日です、お釈迦様の誕生日と同じです。ですから、日蓮聖人にとっては八幡様というのは、お釈迦様の垂迹だったんです。ですから、南無天照八幡諸仏。仏さん、と日蓮聖人は感得したんです。でこの時に、お曼陀羅の上で初めて、自分は上行菩薩の生まれ変わりだということを、ここに宣言するわけです。これは、保田妙本寺にある万年救護の本尊です。それから、身延山で今大工をしている方は、代々池上家です。その池上家の大工さん、富士の大石寺は、下山大工の石川家です。ですからこの、大阪地区というのは、日蓮聖人の直檀越の石川氏がいる。南河内郡富田林の辺りに石川という川があります。いわゆる河内源氏の八幡太郎義家の子供、源義時の六男坊が石川に住んで、石川を名乗る。その方が、後嵯峨天皇の子供が鎌倉将軍六代として赴任する時に、付侍としていわゆる近衛兵として、鎌倉将軍と共に鎌倉に来るんです。石川新兵衛源宗忠(左近大夫)と言います。この方が、重須本門寺、北山本門寺を作る。実はこの河内の土地というのは、日蓮聖人の弟の子孫の藤平重右衛門という方が亡くなってます。大阪夏の陣の時に、豊臣軍の最前線で毛利勝永と戦うんです。毛利勝永軍五〇〇騎は、全ての人が生きて帰れると思わないで突入して来るんです。その第一線に並んだのが、房州軍です。日蓮聖人の弟の家系の、藤平重右衛門が第一線に。そこで、重右衛門は討ち死にするんです。そのお墓が、一色に現在あるんです。皆さんは一色に行って日蓮聖人の弟の末裔の方があそこに眠っているんだということで、本田忠朝の隣の墓になりますが、お線香を手向けて頂きたいと思います。それから、大阪には、身延の波木井さんの本家、岩手の南部波木井が、北畠顕家と二人でもって亡くなった場所に、橋のたもとにちゃんと供養塔が建っています。そこで南部家が絶えるんです、南部直系が絶えるんです。そして養子を貰うんです。ですから、波木井家が絶えるんです。池上家も、二回信仰をやめます。一度目は、池上本門寺に第五世として上行院日叡上人という身延波木井さんの末裔が貫首となって来ます。日叡上人は、しかしながら、池上本門寺の大事な宝物を身延に持っていきます。次に狙ったのは、中山法華経寺なんです。中山法華経寺を狙った時には、当時の貫首が紫の衣を着てた、法度違反じゃないかという問題を提起して、中山法華経寺を身延の方に引き入れようとします。これに怒ったのが鍋冠日親上人。鍋冠日親上人が書いた『伝燈抄』には、身延山何するものぞと怒ってます。それから池上家はもう一度、池上本門寺と宗門を離れます。それは身延系が池上本門寺を牛耳ったってことが一回目。二回目は江戸時代になりまして、身池対論です。身延山と池上が、不受不施問題で対立します。その時に、不受不施派である池上本門寺、小湊誕生寺等は負けます。で島流しに遭います。でその時の十五代目の貫首さんである長遠院日樹上人が、伊那へ流されます。ところが池上家は、川崎に引越した時、その長遠院日樹上人に、地祭から家の棟札まで全部書いてもらってる。そのお上人が、ぽーんと伊那に流されるんです。身延と池上、今で考えると同じ日蓮宗の中の争いですよ。それに飽きまして、その時に誰が入ってきたかというと、身延の心性院日遠上人。心性院日遠上人の後ろには、お万の方がいる。心性院日遠上人が身延から池上に入って来た時に、警護の水戸藩の武士が、本門寺の入山式に抜刀し入ってきたんですよ。そして池上のお坊さん三人、割腹自殺するんです。それだけ大変な事態が起きて、お万の方が身延の心性院日遠上人を池上に入れたんです。だからこそ、お万の方とすれば、池上の外護に心血を注ぎます。ただ日遠上人を入れただけで、何もしない、そうじゃない。池上本門寺にお万の方が帰依をする。お万の方が帰依したから、他の大名も全部、本門寺に墓地を取る。それで大本山、池上本門寺が出来るわけです。こういう事実があるけれども、これは宗門史では誰も教えない。皆さんも、そういう事実があったということを一つ、ご記憶して頂きたいと思います。お時間がちょうどいいですので、そういうことで、後は言い足りないことは皆さんのご質問を受けながら、お答えしていきたいと思います。では、本日はご清聴ありがとうございました。(拍手)
追加資料
池上氏、四條氏の苦悩と、その信仰的脱却
石 川 修 道
池上家の信仰の葛藤は、父・左衛門大夫の信仰する極楽寺良観の真言律と、子息・池上宗仲(右衛門大夫志)、宗長(兵衛志さかん)の信仰する法華信仰との対立であった。宗仲は康元元年(一二五六・宗祖三十五歳)頃、四条金吾、進士義春、工藤吉隆、荏原義宗の諸士と共に日蓮聖人に帰依したと言われる。池上書は、宗仲へ四通、宗長(兵衛志)に八通、両人宛に二通(兄弟抄、八幡造営事)、宗仲の妻・日女御前に二通、兵衛女房に三通の計十九通ある。文永十二年(一二七五)春に最初の勘当があり、建治三年(一二七七)九月頃、良観房が百万遍念仏を父に奨励して、宗仲は二回目の勘当を告げられる。宗祖は「兄弟の御力にて親父を法華経に入しまいらさせ給ヒぬる御計ラヒ、偏に貴辺の御身にあり」㈰と、兄弟を法華経妙荘厳王品になぞらえ、宗仲、宗長兄弟は浄蔵・浄眼とし、父の妙荘厳王を教化して華徳菩薩とすべしと法華信仰の不退転を訓育する。勘当という災難に対し、「摩訶止観の第五の巻の一念三千は、今一重立入たる法門ぞかし。此法門を申すには、必ず魔出来すべし。魔競はずば正法を知るべからず」㈪、「女人となる事は、物に随て物を随へる身也。…此法門のゆへには設ひ夫に害せらるるとも悔ユる事なかれ。一同して夫の心をいさめば龍女が跡をつぎ、末代悪世の女人の成仏の手本と成り給フべし」㈫と、正法護持の覚悟と、女人の智恵と協力を諭している。宗仲の女房・日女御前に宗祖は大曼荼羅本尊を授与し、「是レ全く日蓮が自作にあらず、多宝塔中、大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎたる本尊也…此御本尊も只信心の二字におさまれり。以信得入とは是也」㈬と、妙法受持により「本有の尊形」となる宗教的極地へ日蓮聖人は導いてゆくのである。
四條金吾は医家系武士として北条一門・江馬光時(名越氏)に仕え、主従関係、領地問題が法華信仰とからんで苦悩の原因となった。奈良・平安時代から江戸時代までの医師は、漢方医学のみならず、「祟り・もののけ」などの病因を処置するため、宗教的祈り・祈祷が必要であった。そのため多くの医師は祈祷中心の真言密教を自己の宗教としていた。四條金吾も日蓮聖人と出会う法華信仰受持以前は、真言密教であった。日蓮聖人は、宗教としての真言密教の虚偽を容認しなかった。「今真言を以て日本ノ仏を供養すれば、鬼入て人の命をうばふ。…鬼をあがむるゆへに国をほろぼす」㈮、「彼の真言等の流れ偏に現在を以て旨とす。所請畜類を本尊として男女の愛法を祈り、荘園等の望みをいのる」㈮。久遠実成の釈尊を本尊とし、発迹顕本した一念三千の教法を妙法五字とした法華信仰が、人々の盲目を開ける宗教である、と宣言したのが「開目抄」である。開目抄の対告衆は四條金吾である。
四條金吾は宗祖の龍口法難には同道し、主君江馬光時が文永九年(一二七二)二月、京都六波羅の乱(北条時輔の謀反)に加担の嫌疑を受け、自刃するとの報に接し、愛馬で箱根を越え、伊豆から鎌倉に馳けつけ、光時に殉死する八人の中に加わった。日蓮聖人が預言された自界叛逆難の渦中に、四條金吾は居たのである。以上の両事件に四條氏は、殉死の覚悟を示したのである。
四條金吾は文永十一年(一二七四)九月、主君江馬光時に法華の大善を勧めて、かえって種々の迫害を蒙った。「主君に此法門を耳にふれさせ進せけるこそ、ありがたく候へ。今は御用となくもあれ、殿(金吾)の御失とが(与同罪)は脱レ給ひぬ。此より後には口をつつみておはすべし。又、天も一定殿をば守らせ給フらん」㈯。四條氏の、主君への法華経弘通と改宗を勧めた結果の迫害について、日蓮聖人は謗法の与同罪から免れた事を喜び、今後の生活態度に注意を与えた。「かまへてかまへて御用心候べし。いよいよにくむ人々狙ひ候らん。御さかもり(酒盛)、夜は一向に止メ給へ。只女房と酒うち飲んでなで御不足あるべき」㉀。この様な状況下で建治三年(一二七七)桑ケ谷事件(龍象房と三位房の対論)に四條氏が連坐したと思われ、同僚の策動により、領地替えの事件がおこる。これらの受難の数年間、四條氏は強盛の信仰と宗祖の助言により、一陽来復の宗教的境地に到達するのである。
以上の池上氏、四條氏の揺ぎない不動の信仰心は、その裏に女房殿の大いなる支援があった事は特筆すべきである。永仁四年(一二九六)三月十五日、四條金吾頼基は、六十七歳をもって内船で歿した。
(註)
㈰兵衛志殿御返事 P一三八七
㈪兄 弟 抄 P九三一
㈫兄 弟 抄 P九三三
㈬日女御前御返事 P一三七五
㈭木絵二像開眼事 P七九三
㈮星名五郎太郎殿御返事 P四一九
㈯主君耳入此法門免与同罪事 P八三四
㉀ 〃 P八三四