現代宗教研究第38号 2004年03月 発行
日蓮宗は社会規範についてどう考えるか
「日蓮宗は社会規範をどう考えるか」
(日本伝統文化研究所所長)河 村 孝 照
発表の順序
一、ガンジーの非暴力
二、日蓮聖人の対世間法
=cd=ba52立正安国論の大乗法=cd=ba52
三、大乗法とは何か
四、真俗ニ諦説
五、宗教社会学者の説く対世間法
=cd=ba52脱歴史、再歴史化=cd=ba52 (以上)
表題における「社会規範」とは「世間法」をいったものであり、「どう考えるか」とは「世間法を王法為本と考えるか、仏法為本と考えるか」ということであり、「仏法為本」と考えたときには、どのような手続きが必要であるか、ということである。以下発表の要旨を示す。
日蓮聖人が今、この世に出られたら、どのように教化せられたであろうか、とは、しばしば問いただされる吾人の研究課題である。この課題にこたえるかたちで、われわれがまずむかう道は、何といっても御遺文の研究である。その御遺文研究を通して七百年前の日蓮聖人のおすがたをありのままに知ろうとする所謂る歴史的研究である。
この歴史的研究がそのまま、今日の社会における教化方法となりえないことは、誰もが気付くことで、譬えば四箇格言を今日持ち出しても、誰も耳をかそうとする者はなく、むしろ反発をかいかねない。聖人御在世当時、浄土教は邪教であり、禅宗は邪法であるというのが、教界一般の共通認識で、栄西や能忍が禅寺をたてようとして叡山の反対にあったり、また念仏停止の宣示、御教書は度々出されていたのが実状であったが、それでも、念仏批判による聖人への迫害はすでに周知の通りである。それ故、摂折問題も、その是非をめぐっての論争は今日もなお跡をたたず、去就に迷う者、一再にとどまらないというのが現状である。しかし一定の法のもとで秩序が保たれている現代社会にあっては、日蓮聖人当時の原理主義的な態度でもって社会にうったえ、その改革を迫ったとしても実効は保証されない。このとき思い出されるのが、マハトマ・ガンジーのアヒンサー(不殺生)から生まれた「非暴力主義」による社会と魂の救済である。ヒンズー教信奉者からどうして不殺生=非暴力主義が生まれたか。
知られるように、ヒンズー教の聖典は「マハーバーラタ」であり、中でも「バガヴァッド・ギーター」は有名である。マハーバーラタはバラタ族の戦争大叙事詩であり、中でも「バガヴァッド・ギーター」は戦争の出陣をためらう主人公のクシャトリヤの王子アルジュナを、馬車の御者クリシュナが、主人公アルジュナに「クシャトリヤとして戦争の義務を果たせ」と激励して戦争にむかわしめている。このクリシュナこそヴィシュヌ神の化身であって、このような神が戦争を仕掛けている叙事詩である。この聖典の信奉者がどうして非暴力を撰び取ることができたか。主人公アルジュナは神クリシュナに従って人を殺した。そのようなギーターの教説からいかにして非暴力は生まれたか。これはわれわれの課題に大いなる示唆を与えるものと考えられる。かれガンジーはまず、「テキストは、真理が、その時代においていかに実践されたかを示すもの」で、特定の時代に全く善であった実践も、別の時代に盲目的にそれを繰り返せば、人々を「落胆の沼」におとしいれることがある。真理は常に同じであるが、その真理から流れた知識は無限である。だからすべての聖典について自分なりの判断をし、それは「長天啓に同意しつつも自分の理性を放棄するものではない」といい、その理性の拠り所としてギーターの「ヨーガに立脚して諸の行為をせよ。ヨーガは平等の境地である」「あらゆる行為の執着を捨てよ、このような心の平静をヨーガというのだ」と述べられているところを鏡としたといわれている。このようにして自由な境地を獲得すればそこに絶対者たるの境地が開けるとギーターはいう。さて絶対者となればその資質はいかに、とギーターが述べる所の徳目があるがその一つにアヒンサー非暴力がある。今それらをあげてみれば、知性・知識・疑いのない・寛容・正直・非暴力・等々であり、それらの徳目の中からガンジーが択びだして己のヒンズー教徒としての徳目としたのが非暴力であったのである。
いよいよ本題の日蓮聖人の対世間法について論究してみたい。聖人の対世間法の精髄は何といっても立正安国論の中に凝縮しているといってよいのである。聖人の安国論のご執筆は三十九歳のときであるが、正嘉元年、即ち三十六歳の頃から近年にない天災地変が続いて起こり、大地震、大暴風雨、旱魃、大流星、日食月食、大飢饉、疫病の流行等々、地獄、餓鬼、畜生の三悪道のすがたがそのまま現前したものである。そこで聖人はこの災難はどうして起こったのか、その根本原因を仏法に求めてみると、多くの経々の示すところによれば、その災難は、「世の人々が正法に背いて悪法に帰依したため、国家守護の善神が国を捨て去り、聖人も処を払って帰ってこないので、其のすきに悪魔や悪鬼がはびこって災難が起こるということがわかった。それでは悪法とは何かというと、それは権教をもって人の心を取り入れて実教をなくすようにする教えが悪法であり、それは法然上人の撰択集がそれであるというのである。
歴史的事実として、法然上人の撰択集によって開宗せられた日本浄土教の信仰集団は社会道徳の上で堕落の極に達していた。かの有名な慈円の愚管抄の中にも「コノ行者ニナリヌレバ女犯ヲコノムモ魚鳥ヲ食フモ阿弥陀仏ハ少シモトガメ玉ワズ」と主張していたことを記しており、念仏行者の横行ぶりに手を焼き、朝廷も幕府も宣旨御教書を度々出して念仏停止を命じられた。聖人はこれらの書状を蒐集せられ、その一部分は立正安国論の資料とせられている。かかる仏法が邪法でないはずはなく、五戒十善を犯して十悪を行じ、重罪を犯しながらこれを怖れる心がない。それは自分も他人も謗法とは何かとその仔細を知らないからであり、重罪を作ってついに国を破り仏法を破るようになると、諸種の経々は説示していると聖人は主張する。聖人はかかる邪法を説くところの法然上人の撰択集の念仏を対治すれば国土を安穏にすることができると結論づけられた。
それでは法然門下の邪法、仔細はどのようであるかといえば、今、日本国中の上下萬民が、深く法然上人を信じて撰択集を貴ぶから、無学の僧や俗人は、この書の中の捨てよ閉じよ閣けよ抛てよ、即ち捨閉閣抛の文字を見て、浄土の三部経と阿弥陀仏より外の諸経や、諸仏菩薩や、諸天善神等を捨てたり、閉じたり、閣いたり、抛ったりする心が起こり、諸の仏経を供養したり信じ持つという志もなくなり、還ってこれを遠ざけて捨てる心持ちになってきたから、昔の高僧達が建立せられた国家鎮護の道場が落ちぶれても、惜しいとも勿体ないとも思わず、従って法味を供える読経の声も絶え、守護の善神も法味を甞めないから国を見捨て了い、万人の頼みとする聖者も帰ってこないのである。これは正しく金光明経や、仁王経の「すべての聖者が皆、去って了うので七難が必ず起こる、四天王も皆、その国土から去って了うから、その国に種々の災難が起こる」という経文に当たっていると聖人は説示される。
それではこの謗法の者を対治するにはどうしたらよいか、安国論は経説においてこれに答えるに、涅槃経聖行品に説かれるところでは、大乗方等を誹ったバラモンを即時に断罪した。また涅槃経梵行品では、釈尊の菩薩道を修行したとき、数々のバラモンの命を断絶した等、またバラモンたちはまさに正法をそしる一闡提だから一闡提を殺した者は殺生の中には入らないといい、この経文の説くところでは正法を謗る者は断罪に処すべきことが説かれているのであり、聖人は引用せられたのである。
それ故、経はさらに、涅槃経の寿命品には、「無上の正法は諸王や大臣宰相に付属するから正法を謗る者を対治せよ」と説かれ、さらにはまた涅槃経金剛身品に説く所の「正法を護持する者は五戒をうけず、また行住坐臥作法に意を配ることなく、まさに刀剣や弓や鉾をとって正法を護持すべきであること」、また同じく寿命品には「正法を護る者は、まさに刀剣や杖を持ち、五戒即ち殺生戒をうけることなくいつでも謗法者を殺すことのできるよう用意をしておくべきこと、これらは五戒をうけなくても、正法を護持する人であるから正法の人であり、これを大乗という」とする経典の説示のように、武器を所持して謗法者とのたたかいをも許す経文があげられている。
そして聖人は、かつて釈尊の前生において国王時代、すなわち有徳王と称した時、拘尸那城に一人の持戒の比丘覚徳なる者がいたが、当時、世は乱れ破戒の比丘の多くがいた。かれらは刀や杖をもって持戒の比丘覚徳をせめた。このことを耳にした有徳王は説法者のもとにゆき破戒の比丘たちと戦い、王は全身に刀剣の瘡を負い、ついに命を失った。これ釈尊の前生譚であるが、そこで釈尊は現世において、「正法を護らんとする者は、まさに刀杖武器を手にとってかくの如く正法護持の者を擁護せよ」と説かれ、ただ刀杖を持っても命を断ってはならぬ」と説かれたという経文をあげられている。
そこで日蓮聖人はこの経説をどのように解釈されたか。「経説の通り実行するとなれば、謗法の者に対しては、まさに武器をもって、謗法者を断罪すべきであるとしなければならない。それは仙予王や、有徳王が武器をとって謗法者を禁断したと同じことをしなければならない。しかしそれは釈迦以前の仏教のことで、現世の釈尊の経説には、謗法者に対しては布施を止むべきこととされているのであるから、今、ただちに日本国中の人々が謗法者に布施することをやめて、正法に帰依すべきである」と聖人は解釈しているのである。
ここでみられるように日蓮聖人は聖教の選択をされている。すなわち、謗法者断罪の経文と、唯一人を除いて他の衆僧への供養の殊勝の経文とであって、聖人は謗法者断罪の経文を取られなかったのである。それは釈尊の在世およびそれ以後における対社会的検討の結果、断施の立場をとられたのである。
ここで吾人は、聖人の対社会、対世間法について学ばねばならない。謗法者断罪のために武器を執ることは、第二次世界大戦の時、仏教者が銃を執るときの依用の経文であった。社会の歴史的展開を無視して、いつまでも教祖の教説を拠り所として振る舞うとき、これを教条主義といい、対世間法として必ずしも適切であるとは限らない。また今日の世界の中には、現代社会に反発して、改革、革新を、イスラム教の原点にたち帰って教説の通り実行したイスラム原理主義は、これまた社会の秩序と安寧福祉につながらない。亊ほど左様に、どの経説を撰びとるかは、対世間法として実に重大な局面をもつものである。それでは聖人が断施をえらびとられた鏡は何であったであろうか。
安国論中にその鏡を見出せば、それは「大乗」である。それは安国論中の次の一文、
予、少量たりと雖も忝けなくも大乗を学ぶ。蒼蝿、驥尾に附して万里を渡り、碧蘿松頭に懸りて千尋を延ぶ。弟子一仏の子[みこ]と生れ諸経の王に亊う。
自分は、僅かではあるが大乗の法を学んでいる。たとえ少量であるといっても侮るではない。あの一寸にも足らない青蝿といっても、僅かにしか飛べないものであるが、それが千里を走る馬の尾の先にでもとまれば、馬とともに千里の先にまで飛ぶことができるではないか。またあの蔦は石垣を僅かにはう程度のものであるが、それが高い松の木のてっぺんに生えれば、高い松の木の高いように千ひろにものびることができるのである。だから日蓮も、今、釈尊の弟子として、諸経の王である法華経に仕えている。それはあたかも青蝿のようにわが身は諸経の王の加被力をいただいて、諸経の王たるものを具えているのであるとの自覚を披瀝されている。聖人はこの諸経の王たる法華経を大乗と通称し、その内容を「実乗の一善」といっている。これはとりもなおさず法華経のさとりであり、即ち法華三昧をさすものである。
日蓮聖人の御遺文は、対世間法において多くを語られ、社会の安寧、福祉、秩序等について赤心を顕わにして言及されており、教義面においても、教学的信念を大河の流れるが如く、ときに瀑布の千尋の谷に落ちるがごとく述べられて、聖人ご自身の内証を語られることがきわめて少ない。聖人御在世当時、聖人より三歳年少に真言宗頼瑜がいたが、頼瑜は新義真言を起こした者として歴史上有名ではあるが、かれが残した厖大な著述の中で、蒙古襲来の大事件、天変地異による世情不安などについてほとんどの記録はなく、ただかれのメモランダム『真俗雑記問答鈔』の中に、「蒙古の使者が鎌倉で斬られた」という程度のことで、あとは何も見当たらなかったという学者の報告がある。
それ故、日蓮聖人の教義の考察には、聖人の内証をおしはかって考えなければならないが、さし当たって聖人が示された「大乗」なる法は、法華のさとりであり、それはとりもなおさず法華三昧である。聖人はすでに二十一歳のとき「戒体即身成仏義」を著され、その中に「法華経の悟と申すは易行の中の易行なり。ただ五戒の身を押えて仏因という亊なり。五戒のわが体は即身成仏ともいゆるなり」と記されている通り、悟りの世界に出入自在であったことがわかる。この法華三昧は、伝教大師の註するところでは平等観、空三昧であるといわれ、当然のことながら、空三昧を成就すれば一気に無想三昧・無我三昧も成就し、この三昧より解脱に入る訳である。これをもってすれば、聖人の説示される大乗法はすでに解脱の世界であり、この解脱の世界から世間法をみることになる訳であるから、今はこれを真俗二諦説でみることにする。
真諦は悟りそのものであるが、この悟りの目で世間法を観察すれば、世間を如実に知見して、そこに我他彼此の差別相をみる。差別相は平等真如にてらされて、あるべき相(姿)に開顕しようとして自己革新がおこる。この連続繰返しが悟りのはたらきであり、そのための作業が六波羅蜜であると教えられる。聖人のすべての作業がこの波羅蜜行であり、悟りの目にあらわれた差別相をあるべきすがたに転換しようとする営みが日蓮聖人の所作仏事であり、これは一方からいえば世間における聖人の歴史である。それ故、聖人が世間に対応してなされた菩薩行は聖人の歴史であると共に世間の歴史であり、聖人はその菩薩行を通して内証にさらに清浄に磨きあげられた訳である。その磨きあげられた清浄なる内証でもって教主釈尊の聖教を拝読するとき、その聖教の説かれるところが、日蓮聖人の鏡なのである。聖人はよく経典を仏説のごとく読む、という表現をされるのがこれである。それ故、聖人は仏説を鏡として世間を照らし、この鏡の如くあれかしと社会革新の情熱に燃え、命がけの菩薩道が続く訳である。今日、現存する御遺文は聖人の菩薩行が記されている訳であるが、前述した通り、この御遺文はすべて歴史の所産であって、一回性のものであることを忘れてはならない。それは聖人当時にあっては真理であっても、今日にあっては真理たりえないものもある筈である。それ故われわれは、日蓮聖人が鏡とせられたその真理、すなわち妙法・第一義諦を、聖人の御遺文を通して誤りなくえがきださなくてはならない訳である。
従来、この作業手続きがなされなかったうらみがある。常識的に考えてみても、七百年以上前のことがらが、今日そのまますべて通用するとは考えられない。今日に至っても不滅の真理もあれば、その場限りの事柄もある筈である。このことを宗教社会学者の理論をかりてもう一度確認しておきた。
宗教社会学者西山茂博士は、これからの宗門人は何をなすべきか、ということについて、「脱歴史」・「再歴史化」のキーワードをもって解答としている。前述のように宗祖はすべて歴史的存在であった。その時代にもっともすぐれた救世主であったからこそ、宗祖として人々の尊崇をあつめたものである。しかし時代がかわれば前時代の救済方法は役に立たなくなる。そこで宗祖の歴史の中から歴史性を剥離してゆき、最後に救済の理念が残る。この救済の理念のもとで、再び現代社会に応用する。そうすれば理念は現代社会に適合して、救済事業は成立する。こうした手続きを経て宗門人は教化活動をなすべきであると論じたものであろう。
以上の心がまえのもとで、わが宗門および宗門人は、社会規範に対してどう取り組んで行くべきか。まず第一に王法為本か、仏法為本か。当然のこととして仏法為本であり、宗祖も「法華を知る者は世法を得べきか」と宣説せられている通りである。法華を知る者は、すでに法華三昧に出入自由自在である。内証として唱題により「妙法体具」である訳で、今、眼を世俗世間にむければ、世間を如実に誤りなく観察し、是非善悪を弁えることができる。世間の是非善悪を知れば体具の妙法にてらして救済活動がはじまることになる。この教化方法において摂折二門のあることはすでに聖人の指摘せられているところであるが、近年、今に至るまでその尾を引き論じられている所であるので一言触れておきたい。
摂折問題は明治26年頃より仏教界の表舞台に現れたようであり、そのもとは明治23年、仏教各宗が相い協同して仏教各宗協会を組織してこの協会のもとで「仏教各宗綱要」を編纂することにはじまった。「仏教各宗協会」の目的は、
第3条 本会は各宗派の宗義宗制を妨げざる限りにおいて協同提携し 相共に興隆の進路を取りて運動するを目的とす
といい、編集委員に島地黙雷、釈宗演、蘆津実全、土宜法竜の四師と、その外に南条文雄、藤島了穏の二氏を欧文委員、島地師が編集長であった。各宗各派原稿提出の中に、日蓮宗関係のある派が宗義要目の中に「四個格言」と「謗法厳戒」の二項目が加入されていた。しかし「四箇格言」だけはこの各宗協会の目的からいって相応しくないからという訳でこれを除去して編集作業を進めた。しかし一方提出側は折り合わず双方のやりとりをする中に訴訟にまで発展し、記録によれば明治29年11月11日第1回の裁判が開かれたというほどに深刻に発展したものであった。
先に述べてきたように、日蓮聖人の御遺文は歴史的所産なるが故に、すべて今日の宗門および宗門人にあてはまるとは限らない。四個格言に示された諸宗のごとき、各宗各派の教義は開宗以来大いに発展し展開しているから、聖人在世時代とは同日の談にならない。そのために、今日の世情でもってその範を宗祖在世当時、すなわち御遺文に盛られるところを、そのまま依用しようという試みは、木に拠って魚を求めるの類に外ならない。或いはまた、範を宗祖に求めるにあたって、宗祖の実像を、御遺文の文言によってのみ組み立てようとするのも危険である。何故なれば、宗祖の遺文は歴史性のもの、すなわち対告衆を救済するための施設の語言であるからそれが聖人のすべてではない。この点の理解がなされずに、ことばだけが独り歩きをするために間違いを起こし易い。こうした場合、素直に先師の説に随うのが後学の践むべき道ではあるまいか。
戦後、実証主義の教育が主流となり、そのために文献主義偏重となった。教義学の一分をも解することなく、宗門教学の重要事項を取り扱うがごときは、大いに反省すべきであると思う。大乗法は世俗誹謗を施設し、方便説を施設するところにすぐれた法門である訳で、それを理解しないでは、小乗の学説となることを銘記すべきである。