教化学研究2 現代宗教研究第45号別冊 2011年03月 発行
葬式坊主に徹せよ
葬式坊主に徹せよ
私の住職寺は皆様にパンフレットを配布させて頂いておりますので見て頂ければお解りと存じますが、田舎で敷地が広大な為、お金より草が沢山あるお寺です。
住職以来昔は生は本堂に上げないといわれておりましたが、そんな事を云っているとみんな葬儀社のセレモに行ってしまいますから、本堂での葬儀を進めています。セレモでした方が私は楽なのですが。
法事は自宅三分の二、本堂三分の一で、葬儀は自宅三分の一、セレモ三分の一、本堂三分の一というのが現状です。
本堂は椅子席八十脚、本堂真裏のホールが六十脚でほとんど間に合います。庫裡は畳敷で五?六十人はたっぷり入りますが、皆さん椅子の方が良いといっています。
本堂・ホール共、冷暖房完備で通夜・葬儀二日間で三万円です(法事は五千円)。使用料はタダですが奉納として頂いております。
法号(戒名)は檀家さんであれば四字の信士等は無料です。
檀家さんの三分の一は四字法号です。本来は二字が法号ですから、院号、信士、居士は位号ですから法号ではありません。お飾りですのでどうしてもという方にはお飾り料として、お願いして余分に頂いております。今まで三万円から二百万円までの葬儀を致しました。
笑い話ではありませんが、ある法要で若い施主がいかほどお包みしたらと云うので、住職がお気持ちでといったら、終わってお布施の袋を開いてみたら「お気持」と書いた紙が入っていたという本当の話があります。
現代人には普段から解りやすくお布施の事もお話しておく事が大事です。布施は坊さんへのその時の労働の対価では無く、広大なお寺の維持や住職の布教活動に対する協力金が含まれている事を常日頃理解してもらう事です。
葬式坊主といって坊さんを貶し、お寺は生きた人間を対象に活動する所だと声を大きくしている坊さんも、いざ葬儀が入れば会議もそこそこに帰ってしまう。例えば、私は生きた人間を対象にしていますから葬儀はお隣のお寺さんにたのんでくれという坊さんは一人もいない。
今現実に葬儀を中心に動いているのであれば、私は葬儀をきちんと勤める事が大事で、私はそれで檀家を増やしてきました。
通夜十五分、葬儀五分の法話と、葬儀・法事後の会食も出来るだけ参席するように心がけています。食べたいから行くのでは無く、この場が又、布教の場なのです。
お檀家であれば家族構成や家庭の経済状態、故人の人柄等は解りますが、飛び入りの葬儀は必ず職業、人柄、趣味、家族構成などを伺ってから通夜・葬儀に臨みます。そういう中で十軒に一軒位は檀家になるなどお寺との縁が出来ます。
新聞のコラムに、葬儀に来た坊さんが「こんにちは」の挨拶と、「お経を上げさせて頂きます」、終わって「失礼します」の三回位しか言葉を発しなかった。こんな坊さんに来て貰わなくとも良いと出ていました。
こういう坊さんも居るようです。
私の寺には永代供養合葬墓やペットの合葬墓もありますので、犬猫が縁でお檀家になる場合もあり、ペットの墓が一番綺麗です。
田舎で不便なお寺ですが、生きた人間も相手にしどうしたら人が集まるかと努力しています。
正月の初祈祷、お盆の行事は別として、五月の連休の内一日は文化講座、講演会、展示会を、十一月お会式後には落語会(本年十一回目)などには百人程、暮の除夜の鐘などは二、三百人程で半分以上は檀家外の方々です。
庫裡の玄関を開けると椅子席テーブルで七~八人はいつでも腰掛けてお茶が飲めるようにしてありますので、セールスマンや銀行員、お檀家を始めどなたでも時間のある方はお茶を飲み話をして帰ります。
私はいつも私の所は「皆の宗」ですからと云って、ご縁を大切にしています。
その昔、お寺で色々な事を致しておりました。寺子屋で勉強を教えていたのは学校にとられ、養生などの漢方医療は病院にとられ、社会活動は公民館にとられ唯一残った葬儀も葬祭業者セレモにとられ、これからの寺院は大変と存じます。
お配りしたものを参考にして坊さんも自己反省をしながら今残された葬儀をしっかり行う事から始めていく事が大切ではないでしょうか。
「現代宗教研究」第四十号(平成十八年刊行)三四二頁ではありませんが、「有難いと感じることが出来ない僧侶に高い布施をする必要を感じない」葬儀自体に「有難い」「葬儀をして良かった」と思える部分が減少してきたことに僧侶の認識不足と常にお寺や住職と檀信徒の方々と縁を深めていない為と存じます。
昔は坊さんより頭の良い人は居なかったが、今は坊さんより頭の悪い人は居ないと認識して精進努力せねばならない。はだかの王様、お山の大将で、誰も注意してくれない。
お寺自身、坊さん自身が自分達はしっかりと宗教活動をやっているんですよ、決してお金儲けの為にやっているんじゃないんですよという事を示していく必要がある。
よく言われてますが、「教学なき現場と現場なき教学」寺が単なる経営の場になっていくことと、教学が実践性を失い心情の無い専門的な知性になってしまっているからではないかなど、色々あるが要は坊さん自身の生活のあり方が重要で宗教者として社会や人々にどう関わりをもっていくかが大切で自信と誇りをもって葬儀を執行する事である。