教化学研究2 現代宗教研究第45号別冊 2011年03月 発行
葬式は必要です
葬式は必要です
ここ数年前から「三離れ」(お寺、葬式、墓)が言われてきましたが、今年二月に島田裕巳氏の「葬式は要らない」が発売、新聞の広告欄でセンセーショナルに書きたてていましたのでベストセラーとなっています。
葬式の歴史的な背景の解析を通じて現代的な葬式のあり方と檀信徒との関り方をどのように考えればよいのかという意味で一石を投じてくれたのは確かです。葬式は準備して待つ訳けにはいきません。限られた時間で終えなければならないので葬祭業者に丸なげしてしまうのが現状で、特に葬儀(戒名料も含む)とお墓はバブル期に高騰したままです。でも葬祭業者は世の中の動きや経済に大変聡(さと)いので最近では低価格化しているようです。すべて葬祭業者に請負わすようになったのは皆様すでに御存知の通り少子、高齢により核家族化に伴ないコミュニティー(町内会)も稀薄になり、私の住む人口三十五万都市でも地縁関係においても徐々に疎遠になりつつあります。すでに町内会を解散したところもあります。私の町内会も今後どのようにすべきか、町内活動における会員の意識調査を行っています。参加したくても高齢者が多く、また身体の障害などで協力出来ない現実です。葬式も町内一丸となってお手伝をすることが殆どありません。葬儀関係の出版物や、メディア等で報道されるものは金銭面ばかり強調されています。宗教面から見ない一方的内容になっています。葬儀不要となれば一連の追善供養や回向など一切不要となるのではないか、「葬式は要らない」と煽っているように思います。お題目を唱える日蓮聖人門下の檀信徒は日蓮聖人のみ教えを常日ごろから菩提寺や地区ごとの信行会で学習し多くを学ばなければならないと思います。人は平等に臨終を向えます、愛する家族を亡くすのはとてもつらいことですし、また突然亡くなることもあります。事故や難病で亡くなることもあります。残された人は悲しみも何倍もうけます、お葬式は故人の成仏を願うことはもとより、残された家族も安らぎを得るためのグリーフワーク(深い悲しみ・心の痛みを取り除く手助)となり、新しい生き方に気づき再出発することにもなります。故人と生しょう者じゃとの絆は死によって一切が断ち切れるものではありません。
生者は仏壇を拝し死者の冥福を祈ると共に残された者も癒やされるものと思います。
死者に縁のある生者が追善供養を営み七日ごと、さらに各年忌などで追善の供養を営なみ、塔婆、供く物もつなどを捧げることが一般的になっています。法華経の功徳は無量であることを「日蓮聖人」は、治部房日位殿祖母御前御返事に
「悪の中の大悪は我が身にその苦をうくるのみならず、子と孫と末え七代までもかかり候いけるなり、善の中の大善は、我が身仏になるのみならず、父母仏になり給う。上七代下七代、上無量生、下無量生の父母等存外に仏となり給う。」
と日蓮聖人のお手紙に叙述されています。故人の霊に読経、唱題、塔婆を建てて絶大な法華経信仰の功徳を差し向けることで亡き人の死後を助け安穏をもたらす供養、回向を捧げるのが日蓮宗の宗徒として、聖人のみ教を心に深く受け止めなければなりません。また著書で「戒名」や「檀家」についても言及しています。葬儀に際し菩提寺の住職から戒名を授かるもので、著書では本人が生前に付けておくなり、遺族が死後に考えて付ければいい、と述べていますが、日蓮宗の檀信徒は霊山浄土へ往詣するには、導師と呼ばれます住職が「法名」を授け葬儀全般に関ります。葬
儀の導師は、仏・菩薩の代行者であり死者を彼あの世に送り出す案内者であると教おそわってきました。私はそのように信じています。「葬式は要らない」という人は無事に彼の世に行けません。導師なくして誰が死者の魂を仏の世界へと導くのでしょうか、また戒名のランクについても述べています、高い戒名を授かりながら質素な葬式を出すわけにはいかない。逆に、ランクの低い戒名で豪華な葬式をあげるわけにもいかない、とありますが。院殿号は遺族が導師にお願いして授かるものではない、故人が存命中にどのような人柄であって、どのように生きた人であったか、菩提寺の行事等に積極的に参加したか、お寺のために財施、身施、また法を弘めるための善行等の徳を積んできた人であったか等々これらの事柄や、日ごろの行を判断してその人に相ふさわ応しい「法名」を授与されるべきものと思います。戒名は故人の生前中善行を重ね徳を積んだ証であり、死者があの世に持っていける唯一の財産となると思いますし、この財産こそが「三途の川」を渡るときの「通行手形」といえるのではないでしょうか、「戒名料」はそれぞれの寺院によって様々で一様に扱うことが出来ません御持会の会計の取扱いが違っているからです唯いえることは、住職は、お寺にお祀りされている、お祖師様や諸天善神さまに奉納され、死者の善根の功徳として布教、儀式、維持管理費として使用しているようです。お寺は住職の私物ではありませんので檀信徒は各行事のときは極力出席し菩提寺と関りを保つことが肝要なことと存じます。日蓮宗宗憲に檀信徒の条項があります、第七十七条(1)本宗の教義を信行し本宗及び所属する寺院の護寺に当り……とあり(2)では本宗の教義を信行し本宗及び帰き仰こう(深く仏道を信仰すること)する寺院、教会又は結社の維持を助け……第八十条では檀信徒は、祖山において受戒を受けるものとする。とあります。祖山で輪番給仕及び参拝奉仕をして「霊山浄土の契り」を授与されます。
日蓮宗宗徒になるためには、「私達の祖師日蓮大聖人のみ教を守って定められた信者としての最低の守るべき戒律を守って正しい生活をします」と仏さまと日蓮大聖人に誓うことが宗徒として必要なことと存じます。菩提寺の住職は、その人の生涯、社会や、宗門にどのような貢献をしたかを見ていますので死亡してから「法名」を頂いてもよいのではないかと思いますし、勿論生前にお題目の信仰を誓って菩提寺の住職から授与して頂くことも良いのではないかと思いますが、間違った考えでしょうか、いずれにしても本宗の教義に深く学び仏道を信仰し、生涯に一度は祖廟に参拝奉仕することが望ましいのではないでしょうか。日本人は、人が亡くなると霊となってあの世に移ると考えました。七なな七なぬ日かの法要を重ね四十九日後も一周忌、三回忌そして各忌と続き故人の供養の法事を行います。浄土系の仏教の考え方では死後は即「阿弥陀如来」の「極楽浄土」へ行くと説いていますが、浄土系の人々も同じく法事を行っています。
宗派によって死後のピジョンがまちまちなため一層の混乱に拍車を加えているのが現状のようです。私しごとで恐縮ですが先祖代々日蓮宗です。母親の遺言は何があろうと「日蓮宗」を捨てることだけはしないで欲しいということでした。また祖父は文久元年(一八六一年)生まれで、私が三歳のとき他界しています彼の記憶はありませんが宗教関係の書籍が多くありましたが現在私の手元には、明治四十三年発行の「日蓮聖人御遺文集」(A6位の大きさ)と田中智学著の「日蓮聖人乃教義」が遺されていました。数多いご遺文の中で一番興味をもったのは、「十王讃歎鈔」でした。(偽書ではと言われているが)心の在り方と生いのち命に問題、殊ことに死後の世界に対し不安もあり、一大関心事でした。釈尊の教の中に因果応報が説かれ、現世の報いとして来世の生れてくる所が決まりますし、あの世と密接につながっていることもよくわかります。葬儀の後一連の七なな七なぬ日かより各年忌に至るまで続けていく追善の供養が必要です。先ずそのためには葬儀をさけて通るわけにはいきません。世間の慣習的儀礼として葬儀があるのではありません。日蓮宗の宗徒は追善とはいかなるものかを再認識され沢山のお経があがって霊位に十二分にお題目の不思議な力をもって法味をお供えして追善供養することにより、より強い信仰心を持つことができます。「十王讃歎鈔」が日蓮聖人の
真作ではないとしても冥途に関連する遺文も多くあり日蓮聖人の主旨とかけ離れたものではないと思います。お通夜から一連の法要には故人の関係者や友人等が集りますので日蓮聖人のみ教え、諸経の王たる法華経について語ることも大切なことで身内ばかりではなく他宗の方々にも日蓮宗の一端でも知って頂ければ立派な弘通につながると思います。私は後期高齢者の仲間入りしていますが、かつての自分ではありません一部に軽い障害はあり「法華経」を学ぶには通常菩提寺の勉強会や信行会ですが、もう一つ日蓮宗新聞の記事、各欄の執筆されています諸先生方の記事から
多くを学んでいます。
妙法を受持する者に仏身を成就させようという大願を持っているので、お題目を唱えることにあらゆる事が成就すると教わりました。百千万劫ごうにも遭あい遇たてまつること難がたい法華経にめぐり遭あえたことを肝に銘じ、全国の宗徒の皆様と一緒に法華経の真髄を理解することに努めていきたいと願っています。私はお題目は限りなく久遠の命に結びついていて「因果応報」の道理からまぬがれないことを心底、迷いなく信じ切っていますので檀信徒の一人として、葬儀並びに一連の供養が絶対必要と思います。浅学菲才を顧みず発表させて頂きました。御清聴を感謝申し上げます。
有り難うございました。
南無妙法蓮華経