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教化学研究2 現代宗教研究第45号別冊 2011年03月 発行

健康法にもならない仏教では布教教化にもならない ─ヴィパサナー瞑想法などの興隆の背景について─

健康法にもならない仏教では布教教化にもならない ─ヴィパサナー瞑想法などの興隆の背景について─

影 山 教 俊

1 はじめに
 今回は「健康法にもならない仏教では布教教化にもならない」と題して、教化学のスタンスについて論述します。私は「教化学」という学問分野の確立が叫ばれている背景には、現代仏教の衰退があると考えます。そして、その衰退が何に起因するかと言えば、それは現代仏教が社会現象としての諸問題を仏教界(各教団の宗門行政)という自分たちの器の中だけで物事を考え、その器の中だけで問題処理を行おうとするところにあると考えます。
 今回の葬儀問題も(私はかってこれを葬儀法要の商品化と呼びましたが)、社会化した葬儀法要の問題であって、宗教儀礼としての葬儀法要の問題ではありません。この認識を持たないままに、「葬儀法要が重要な儀礼である」と私たちがどれほど声高に主張しても、その声は世間の方々に届きません。論議の視点が違っているために、届いていても聞こえないのです。
 ここで少し葬儀法要の社会化ということに触れますと、私たちは昭和二十二年の農地解放によって経済基盤(寺領)を失ったところから、「宗教儀礼としての葬儀法要から商品としての葬儀法要という構造」が出来上がりました。そして、日本社会の総人口は戦後の昭和二十年には七千万人弱、それから六十年経ちますと一億二千万人を超えます。戦後になって五千万人以上と、ほぼ人口は倍増したことになります。
 これでお分かりのように、人口というπ(パイ)が増えましたから、人口の大都市への流入による過疎化などの変動はありましたが、戦後の寺院は総体として眺めれば一貫して葬儀法要は増え続けてきました。そして、その葬儀法要は三人以上の大家族に支えられて豪華に営まれてきました。しかし、戦後五十年頃から人口動態が変化しはじめ、高齢者社会に突入した瞬間から葬儀法要の数は増え始めましたが、それを支える家族は個族と呼ばれる少人数世帯です。とくに団塊の世代は、結婚されて実質一・四人の出生率ですから、単純計算しただけでもおよそ一・四人が両親の四人の葬儀を執り行うことになりますから、今の経済状況を考えますと葬儀法要に経費をかけられないという実態が見えてきます。
 実は近年の株式会社「坊さん派遣業」なるものが葬儀法要を商品化し低価格で販売し、さらに本年イオン・グループが参画して一挙に葬儀法要の商品化に拍車がかかったこともこのような背景があるのです。また直葬なども葬儀社が社会のニーズに合わせた低価格な葬祭プランを提供したにほかなりません。
 そして、このように整理してきますと、一つの大きな問題は「宗教儀礼としての葬儀法要から商品としての葬儀法要という構造」がはっきりと見えることです。坊さん派遣業ばかりではなく、私たち僧侶が執り行うお檀家さんの葬儀も、世間一般は宗教儀礼ではなく商品化した葬儀法要というイメージを持ってしまっているという事実です。「葬儀は布教教化の現場である」というこれまでの構図が成立しなくなったと言うことです。
 難しいことですが、ここでこのようなイメージを払拭し、現状を打開して行くためには、社会化した葬儀法要の問題という認識、教化学のスタンスが必要なのです。これからこの教化学のスタンスとはどの様なことなのか、ということについて論述したいと思います。
 はじめに、日本の宗教事情を理解する必要があります。現代仏教がどういう社会的な局面に立たされているかを知ることが急務だからです。まず宗教界全体を数字で眺めますと、その分母となる日本の総人口は凡そ一億二千七百万人です。しかし、文化庁統計(宗教年鑑など)によれば日本の全宗教団体の総信徒数の総計は二億一四〇〇万人で、これは日本人一人が凡そ一・六九の宗教団体に入信している計算になります。これは宗教教団に入信して、その後に脱会している信徒をそのまま計上しているばかりではなく、一人が複数の宗教に関わっていることを物語っています。内訳を見れば、伝統教団十三宗の総信徒数四五三五万人、仏教系の新興宗教の総信徒数は六〇〇〇万人(創価学会の公称一〇〇〇万人含む)、神道系(神社本庁、教派神道系など)の総信徒数は一億七五六万人です。この数字を読み解けば、神道系の一億人を超える数字は戦前の国家統制で神社神道として強制的に組織化された時代の数字を引きずり全く当てにならなりません。ちなみに、先ほどの宗教団体の信徒総数では二一四〇〇万人から、神道系を引くと一億三〇九六万人とほぼ総人口に近くなります。また仏教系伝統教団の数字は、葬儀法要を執行する檀家数と見れば無理がありません。キリスト教系を含む諸教は六五〇万人程度で、まあその程度かと納得できます。これはあくまでも字面ですが伝統教団の四五三五万人を檀家数と見て、新興宗教の六〇〇〇万人を兼ねあわせてみれば、日本のほとんどの人たちが、伝統教団の檀家と新興宗教の二つのわらじを履いていることが分かります。神道系までも一緒にすれば三足のわらじです。ここに日本の宗教事情の全体が見えています。
 それは新興宗教の六〇〇〇万人の数字が納得できるか否かということではなく、新興宗教は戦後のわずか六十五年の間に、一五〇〇年に及ぶ仏教史上に新たなる牙城を打ち立てたという事実についてです。ここに現代仏教の衰退が見えています。

2 日本国内の宗教団体が衰退する中で拡大するテーラワーダ仏教について
 ところで、戦後六十五年を迎えた六〇〇〇万人の総信徒数を有する新興宗教は、伝統教団の信徒数を超えていても、すでに現在では信徒数の現状維持に汲々としているのが実状です。創価学会は国内布教には見切りを付け、巨大な資金源を背景とし国際創価学会SGIを頼りに海外進出に力を入れております。新宗連最右翼の立正佼成会ですら、すでに会員が半減することを想定しプロジェクト・チームを発足させ、さらに会員の檀徒化を図るために組織の中に「典礼部」を設けて、在家教団でありながら葬儀法要を執行しているほどです。霊友会に至っては、ご存じのように
久保会長の家庭問題が発端となって分裂し、現在の信徒数は双方合わせても分裂以前の半分程度だと言います。これによって他教団の教線も推して知るべしの状態だということが分かります。
 しかし、このような日本の宗教事情にあって、ひとり教線を海外から拡大しているのがテーラワーダ仏教(上座部仏教)です。テーラワーダ仏教やヴィパッサナー瞑想をキーワードとしてインターネットで日本語サイトを検索しただけでも、六万以上のサイトがヒットするほどです。ちなみに仏教瞑想では三万程度のヒットです。
 以下に主要なヴィッパサナー瞑想を指導する組織とそのアピールを紹介しておきましょう。これらの組織では宗教法人や非営利法人(NPO)を取得し、日本国内の信徒組織などによって運営され、瞑想センターなどの施設を建設しています。

〈日本ヴィパッサナー協会の代表的な組織について〉
■ダンマバーヌ・ヴィパッサナー瞑想センター(京都)
 〒六二二─〇三二四 京都府船井郡京丹波町八田岩上奥
 電話:〇七七一─八六─〇七六五
 ファクス:〇七七一─八六─〇七六五

 日本ヴィパッサナー瞑想センター、ダンマバーヌの土地は一九八九年一月に購入されました。ダンマバーヌは、京都、丹波の静かな山の中に位置しています。大阪、京都、神戸といった関西の大きな都市の中心から約一、二時間で行くことができます。
 日本における土地の値段はとても高く、まず始めに一エーカーの三分の二にあたる土地が購入されました。そして、一九九一年一月に段差のある二分の一エーカー分の土地が追加されました。センター建築には様々な国からの瞑想者たちがあたり、四ヵ月程の短い期間に外から専門職人の手助けをほとんど借りずに約七〇人を収容することのできる施設を作りあげました。この建築第一期において、二階建てで外壁に杉を使った大きな建物が作られました。この中にはダンマホールと男性、女性の宿泊施設が作られ、これとは別に台所、食堂棟が建てられました。一九九〇年春から始まった土地の造園計画により、センターの限られた土地をより広くきれいに見せることが考慮されるようになりました。瞑想センターを始めから作るというこの仕事は、瞑想者たちのコミュニティーにとってやりがいのある仕事となりました。
 最近数年間でセンターの施設は「磨き」がかけられ、改善されています。男性と女性それぞれのトイレ、シャワー棟が建てられ、快適に使用できる状態にまで整えられました。また道路に面した側に松の木を植え、緑を増やしプライベートな環境を作り出すなど造園計画は継続されています。
 現在センターの設備はある程度の快適なレベルにまで到達しました。これからの目標は、長期コースを行うために、ゆとりのある宿泊施設を提供すること、新しいダンマホールの建設、そして個別のセルを作ることです。これはとりわけ外国に長期コースを坐りに行くことのできない人々に大きな恩恵をもたらすものとなります。センターを拡張し、新しい施設のための場所を作るために「長期計画委員会」が設けられ、隣接する土地を購入することを真剣に検討しています。
 一九八九年九月にゴエンカ氏が来日され、ダンマバーヌの開始を期して古い生徒のための三日間コースを行われました。また、二年後に再訪され十日間コースの前半を指導されました。初めの年には年間六回のコースが行われ、現在は一ヵ月に二度の割合で行われています。センターにやってくる生徒の割合は九割が日本人、残りの一割は様々な国籍を持つ人々で占められています。全てのコースは日本語と英語の二か国語で行われています。

■ダンマーディッチャ(千葉)ヴィパッサナー瞑想センター
 〒二九九─四四─三 千葉県長生郡睦沢町上之郷七八五─三
 電話:〇四七五─四〇─三六一一
 ファクス:〇四七五─四〇─三六一一

 ダンマーディッチャは、日本ヴィパッサナー協会の二番目の瞑想センターです。ゴエンカ氏命名のダンマーディッチャは、パーリ語のダンマと太陽を意味するアーディッチャが繋がり、一単語となっています。
 場所は千葉・睦沢町。二〇〇六年五月に元野球練習場の土地を購入したセンターは、東京から一時間半(快速)のJR外房線茂原駅から、バスか車で二〇分くらいのところにあります。まわり三方を丘に囲まれ、一方に水田が広がる約四千坪の土地は、瞑想センターとして非常に恵まれた静かな環境です。
 現在(二〇〇九年一月)はまだ建物や設備も完全に整っておらず、すでにヴィパッサナー瞑想の十日間合宿を体験したことのある人たちを対象に、瞑想会や短期コースを行っている段階です。ヴィパッサナー瞑想を未体験の人たちもこの瞑想法を学ぶことができるように、瞑想合宿開催に向けて準備中ですので、楽しみにお待ちください。

【ヴィパッサナー瞑想コースの手引き】
 解放は実践によってのみ得られる。ヴィパッサナーはインドにおけるもっとも古い瞑想法の一つです。ながく人々から忘れられていましたが、約二千五百年前にゴータマ・ブッダによって再発見されました。
 「ヴィパッサナー」とは、物事をあるがままにみることを意味します。それは自分をみつめることによる自己浄化の方法です。瞑想は、まず精神を集中するために自然な息を観察することからはじめます。意識を鋭く研ぎ澄ませ、つぎに心と体に起こっている変化を観察していきます。この自己観察を通じて、無常(すべてのものはうつり変るということ)、苦悩、無我(不変の自我という存在がないこと)という真理を体験します。
 体験を通して真理を知ることが自己浄化につながります。この瞑想法は、すべての人が直面する問題への実際的で実践的な答えであり、「宗教」ではありません。宗教宗派や人種、階級の違いにかかわりなく、いつどこでも修行することができ、だれもが等しく役立てることができます。

□瞑想と自己修養
 自己観察による自己浄化の過程は確かに簡単なものではありません。大変な努力が必要です。自分自身の体験によって「知る」には自分自身の努力しかありません。誰一人として代わってくれる人はいません。ヴィパッサナーに適しているのは進んで真剣に努力し、規律を守ることのできる人たちだけです。ヴィパッサナーにおいて規律はなくてはならない要素なのです。
 心の奥深くに根差すコンプレックスを根絶やしにする方法を修得するのに、十日間は確かに短い期間です。短い期間だからこそ、社会から完全に離れ、休みなく修行を続けることが成功への鍵となります。規則はすべて実践面を念頭において作成されています。指導者やマネージャーの便宜のためでもなければ、伝統や慣習、宗教への盲目的信仰などの消極的表現でもありません。それは何年にもわたる先人達の経験にもとづいており、科学的かつ合理的です。
 規則を守ることで瞑想に適した雰囲気が作られ、逆にそれを破ることで雰囲気は台無しにされます。
 コース期間中は、十日間ずっとコース地に留まらなければなりません。規則は注意深く読んで吟味してください。心から規則を守る気持ちのある人だけがコースに参加するべきです。精一杯の努力をする覚悟のない人にとっては、単に時間の浪費となるだけではなく、悪くすれば真剣に取り組もうとする他の人々の妨げにもなってしまいます。そのような場合、何度注意しても聞き入れられないときは、コースを出ていただかなければなりません。

コース規律
 ヴィパッサナー瞑想法の基礎は、シーラ(道徳律)です。シーラは、サマーディ(精神集中)の発達、そして心の
浄化によって至るパンニャー(智恵と洞察)への礎となります。

シーラ(道徳律)
 ヴィパッサナー瞑想のコース中は、次の五戒を厳格に守らなければなりません。

  一 生き物を殺さない。
  二 盗みを働かない。
  三 性行為を行わない。
  四 嘘や悪い言葉を使わない。
  五 酒・麻薬の類を摂らない。
 以前にコースを取った人は次の三戒も守ります。
  六 正午以降食物を摂らない。
  七 踊りや歌などの娯楽を避け、装身具などで身を飾らない。
  八 ぜいたくな高い寝台で眠らない。

 午後五時のティータイムには、以前にコースに参加した生徒はお茶またはレモン水をとり、六番目の戒律を守ります。初参加の生徒はお茶と果物をとることができます。健康上の理由からこの戒律を守れない人は、コース前に指導者の許可を得てください。七番目と八番目の戒律は全員が守ります。

□まとめ
 これらの規則の根底には次のような考えがあります。自分の行動が他の人々の迷惑にならないよう、細心の注意を払う。一方、他の人からの妨げに決して気をとられない。
 これまでに述べた規則について、どんな実際的な根拠があるのか理解できない人がいるかもしれません。反発や疑惑のわくままにしておかず、指導者に解明を求めてください。
 規律を守り、最大の努力をすることによってはじめて、この瞑想法を理解し役立てることができます。実践こそがもっとも大切です。自分の内側に目を向け、どんな妨げや不自由が生じても気をとられずに、ただ独り修行をする、その心構えが鍵となります。
 最後に、ヴィパッサナーでの歩みは、一人一人のもつ善い資質とその育成、そして五つの要因│真剣な努力、自信、誠意、健康そして知恵│にかかっていることを銘記してください。
 これまでの説明が、実り多いコースのためのお役に立てば幸いです。私たちは奉仕の機会が与えられたことを心からの喜びとしています。一人でも多くの方がヴィパッサナーによって安らぎと調和を得られることをお祈りしています。

[十日間コースの時間割表]
  四:〇〇       起床
  四:三〇~ 六:三〇 ホールまたは自分の部屋で瞑想
  六:三〇~ 八:〇〇 朝食と休憩
  八:〇〇~ 九:〇〇 ホールにてグループ瞑想
  九:〇〇~一一:〇〇 ホールまたは自分の部屋で瞑想
 一一:〇〇~一二:〇〇 昼食
 一二:〇〇~一三:〇〇 休憩
 一三:〇〇~一四:三〇 ホールまたは自分の部屋で瞑想
 一四:三〇~一五:三〇 ホールにてグループ瞑想
 一五:三〇~一七:〇〇 ホールまたは自分の部屋で瞑想
 一七:〇〇~一八:〇〇 ティータイム
 一八:〇〇~一九:〇〇 ホールにてグループ瞑想
 一九:〇〇~二〇:三〇 講話
 二〇:三〇~二一:〇〇 ホールにてグループ瞑想
 二一:〇〇~二一:三〇 ホールにて質疑応答
 二一:三〇       就寝
グループ瞑想の時間中は瞑想ホール内に留まらなければなりません。

〈日本テーラワーダ仏教協会の代表的な組織について〉
■ゴータミー精舎(幡ケ谷テーラワーダ仏教センター)
 住所:〒一五一─〇〇七二 東京都渋谷区幡ヶ谷一─二三─九
 電話:〇三─五七三八─五五二六 FAX:〇三─五七三八─五五二七
 交通:京王新線幡ケ谷駅、笹塚駅、小田急線(営団千代田線)代々木上原駅下車
 東急バス:渋谷駅(西口)発の「渋55 幡ヶ谷折返所」行き終点

「ゴータミー精舎は初期仏教(テーラワーダ仏教、上座仏教)を学び、実践する〝お釈迦さまのお寺?です。旧玉川上水の遊歩道に面した精舎では、スリランカやミャンマーの長老方の指導による瞑想会・勉強会などが開催されています。(日本テーラワーダ仏教協会)」

□毎週 火曜日と金曜日の夜は自主冥想会を開催
 ゴータミー精舎では毎週火曜日と金曜日の一九:〇〇~二一:〇〇まで、夜の自主冥想会を開催しています。火曜日は約一時間かけてみんなでパーリ語日常読誦経典(カタカナのルビと邦訳付き。初めての方の方でも楽に唱えられます)を読み、慈悲の瞑想をしてからそれぞれ瞑想をします。金曜日は簡単なお勤めと慈悲の瞑想の後、自主瞑想に入ります。いずれも初心者指導は行っておりませんが、希望があれば、スマナサーラ長老によるヴィパッサナー初心者指導DVD、法話DVDを上映しますので、お気軽にスタッフに声をかけてください。

□日本テーラワーダ仏教協会事務局は平日の午前九時から午後五時まで営業しています。
 毎週火・金は、午後九時までお寺を開門しています。月・水・木はお寺も午後五時で閉門する場合がありますので、参拝・修行されたい方は、事務局まで事前にお問合せください。土・日・祝日については行事予定表をご覧下さい。

□法話とヴィパッサナー冥想の会
 ヴィパッサナー冥想では、それまでの概念、宗教、あらゆる思想など、何も頼らずにご自身で、「自分」というものを見つめていきます。自分の力で観察する、発見する、理解する、そしてご自身で問題を解決してゆく。このお釈迦さまが説かれた方法は、自らの力でこれまでにない心の安寧と成長を体験することができる、唯一の道です。
 月に数回、協会主催で開かれているヴィパッサナー冥想会(関西地区では月一回)では、法話を織り交ぜ、初めて上座仏教やヴィパッサナー冥想に触れる方にも分かりやすく冥想を基本から指導します。以前から冥想実践を続けてこられた経験者の方はご自身のペースで自由に長時間の冥想ができ、また冥想や仏教について疑問のある方には、質疑応答も行います。

□宿泊ヴィパッサナー冥想会
 まとまった時間、じっくりと冥想に取り組む合宿形式の冥想会です。冥想が初めての方にも丁寧に指導されますので、ぜひご参加下さい。毎日法話を織り交ぜ、個人のペースに合わせて指導を受けられます。(全日程でなくても部分参加も可能です)。
 ウィセッタ長老指導…夏期一〇日間/月例四泊五日 仏法学舎 宿泊冥想会
 コーサッラ長老指導…仏法学舎 月例宿泊冥想会
 スマナサーラ長老指導…山口・誓教寺宿泊冥想会、京都・宝泉寺宿泊冥想会、他

□スマナサーラ長老 月例仏教講演会
 仏教では、現実にあるひとつひとつの問題に対して、どう考え、どのようなことを薦め、どのように解いていき、何を目指しているのでしょうか。
 この講演会では、日常的で身近な話題から月々のテーマを採り上げ、今現在、社会で起こっている様々な問題に関しても、仏教から何か解決法を見出せるかどうかを探ります。(毎月第四土曜日開催予定)

□初期仏教を学ぶ勉強会
 パーリ経典解説/ダンマパダ解説…パーリ聖典に遺されたお釈迦さまの根本の教えをひもとき、原典からわかりやすく解説してます。翻訳では伝わりきらない、お釈迦さまの活きた教えを目の当たりに深く学べることでしょう。ともに講師はスマナサーラ長老です。

□仕事帰りの冥想会(夜の自主冥想会&読経と自主冥想の会)
 ~アフターファイブの新しい過ごし方を提案!~
 ゴータミー精舎(東京)では、毎週火曜日、金曜日の午後七:〇〇から、「仕事帰りの冥想会」を開催します。お仕事の都合などで、昼間や土日の協会行事にはなかなか参加できない方にも足を運んでいただければと願って企画しました。火曜日は礼拝の後、パーリ語の読経と慈悲の冥想をしたあとで自主冥想。金曜日は礼拝と慈悲の冥想の後で自主冥想となります。
 ■アラナ精舎
 住所:〒五九六─〇八三五 大阪府岸和田市流木町二二六─三
 電話:〇七二─四二七─六六一四
 交通:JR阪和線東岸和田駅下車 徒歩で約二五分
                 バスで約 七分

□アラナ精舎の活動
関西ダンマサークル
 テーラワーダ仏教の勉強会 隔月一回(奇数月)開催
経典勉強会
 ウ・コーサッラ長老が講師の勉強会
瞑想実践会
 ウ・コーサッラ長老ご指導の冥想会
自主冥想会
 行事のない日曜日にある冥想会
パーリ語セミナー
 初級 文法の基礎をひと通り学びます。木岡講師と日程調整し、個人レッスンを行います。
 中級 日常読誦経典をパーリ語で読めるようになることを目標とするやさしいクラスです。
 上級 様々なパーリ経典の原文を読解していきます。翻訳のテクニックなども学べる刺激的なクラスです。

■マーヤーデーヴィー精舎
 住所:〒六六九─一五二五 兵庫県三田市対中町二一─二
 電話:〇七九─五〇六─〇〇〇三
 交通: JR福知山線 三田駅より徒歩約十五分、神戸電鉄 三田本町駅より徒歩約十分

□参拝・受付時間九:〇〇~一七:〇〇(水曜日は除く)
 マーヤーデーヴィー精舎は、日本全国の方々のご協力を得て、二〇〇九年五月一七日に比丘サンガにお布施された、生まれたてのお寺です。精舎名は、お釈迦様のご生母である、マーヤー妃のお名前をいただきました。境内には、「ダンマチャッカマハーシーマー」(法輪戒壇堂)という戒壇があり、毎月二回の布薩(ウポーサタ)儀式や出家式を行うことができます。仏陀の教えを守り伝え、多くの方が仏教を学び、実践し、成長されるよう活動していきます。
 ぜひ一度足をお運び下さい。

 以上、長々と日本ヴィッパサナー協会と日本テーラワーダ仏教協会の代表的な組織を挙げ、その活動について細々ご報告しましたが、これによってテーラワーダ仏教の日本進出がどの様に進んでいるか、またどの様なことを通じて布教教化しているかがご理解いただけたと思います。
 日本ヴィパッサナー協会(JVA)は一九九八年に設立され、サヤジ・ウ・バ・キンの伝統のもと、S・N・ゴエンカ氏またはそのアシスタントの指導によるヴィパッサナー瞑想コースを行う非営利団体です。
 この日本テーラワーダ協会の設立は、一九九四年一一月、スリランカ出身の僧侶アルボムッレ・スマナサーラを囲む日本人信徒を中心に、日本テーラワーダ協会(現、日本テーラワーダ仏教協会)が設立されます。二〇〇一年五月には、東京都渋谷区幡ヶ谷にゴータミー精舎幡ヶ谷テーラワーダ仏教センターが設立され、二〇〇三年五月宗教法人として登記されています。このようなテーラワーダ仏教の隆盛の背景には、実はヴィッパサナー瞑想の効用に大きな意味があり、世界的なヴィッパサナー瞑想の普及に繋がっています。

3 世界に普及するヴィパッサナー瞑想について
(1) ヴィッパサナー瞑想について
 簡単にヴィッパサナー瞑想と呼ばれる瞑想法を解説しますと、パーリ語のヴィパッサナー、サンスクリット語のヴィパシャナー、漢訳音写の毘鉢舎那のことで、仏教における「観行」(現代中国語「内観」)を指します。現代では「ヴィパッサナー瞑想」と呼ぶ場合には、テーラワーダ仏教の観行瞑想を現代風にアレンジした瞑想方法のことです。
 仏教の瞑想法は天台の止観業(行為・カルマ)に見られるように、サマタ瞑想(止業)と、ヴィパッサナー瞑想(観業)とに分けられます。前者によってディヤーナ(禅那)と呼ばれる瞑想状態を誘導する、仏教以前にもインドでは広く行われていた瞑想法で、後者では禅那瞑想によって変化する自己意識の内面を観察(内観)する瞑想法で、釈尊が新しく開拓し悟りを開いた仏教独自の方法と言われます。
 伝統的な瞑想法では、意識集中するダラーナ(凝念)からサマーパッティ(定)と呼ばれる瞑想状態(禅那)を誘導して、そこからヴィパシャナー(観想)をへて悟りに至るとされていました。とくにテーラワーダ仏教では最初にサマタ瞑想により第一禅定から第四禅定の階梯を昇り、そこからヴィパッサナー瞑想で観想するテクニックがおこなわれていました。また大乗仏教ではサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の双方を同時に修養していくことが重要視されていました。世界的に広まったヴィパッサナー瞑想は、この定と観の両方(止観双用)を目指すマハシ系とゴエンカ
系の瞑想法です。
 現代では、在家信者のためにより簡便な瞑想のプログラムが組まれる必要が生じたため、時間がかかるサマタ瞑想の修行を省略し、最初からヴィパッサナー瞑想のみを修行していく方法がレディー・サヤドウ、ウ・バ・キン、マハーシ・サヤドウ、アジャー・チャン、サティア・ナラヤン・ゴエンカら複数の僧侶や修行者によって組織化されています。これが現代において「ヴィパッサナー瞑想」と称される瞑想法で、ミャンマーを中心としたスリランカやタイなどのテーラワーダ仏教圏から発信され、現代に広く受け入れられている瞑想法です。
 日本においてはテーラワーダ仏教は小乗仏教として軽視され、また仏教の瞑想法としては、天台宗の止観や臨済宗や曹洞宗の座禅などが長らく主流であったため、「ヴィパッサナー瞑想」は欧米のようにはなかなか普及しませんでした。しかし、九〇年代以降、日本ヴィパッサナー協会(ゴエンカ系)及び、スマナサーラ長老を中心とした日本テーラワーダ仏教協会(主にマハシ系)によって指導、紹介されて現在に至っています。
 ヴィパッサナー瞑想の歴史的な経緯はここまでにして、世界に受け入れたれた経緯へと話しを進めます。ヴィパッサナー瞑想にはゴエンカ系とマハシ系、さらにはパオ系と呼ばれる技法の流れがあります。この中でヴィパサナー瞑想法を世界的に注目を浴びるまで牽引してきたのは、サティア・ナラヤン・ゴエンカその人です。

(2) ヴィパサナー瞑想法の立役者ゴエンカ氏について
 ゴエンカ氏は、ミャンマーのサヤジ・ウ・バ・キン師の伝統を受け継いだ、ヴィパッサナー瞑想の在家指導者です。彼はミャンマーでインド人の家系に生まれ育ちました。同国でサヤジ・ウ・バ・キン師に出会う機会に恵まれ、ウ・バ・キン師よりヴィパッサナー瞑想の指導を受けました。ウ・バ・キン師の下で十四年間修行をした後、インドへと移住し、一九六九年よりヴィパッサナー瞑想の指導を始めます。カーストや宗教によって人びとが鋭く対立するインドにあって、彼が指導するコースには社会の隅々から数多くの人たちが参加しました。さらに、世界中からも多くの人たちがこのヴィパッサナー瞑想コースに参加するためにセンターを訪れています。
 ゴエンカ氏はこれまでに、インドおよび世界中で三百以上のコースを行い、数多くの人たちにこの瞑想法を伝えてきました。一九八二年からは、増え続けるコース参加希望者に対応するため、アシスタント指導者の任命を始めました。インド、カナダ、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、フランス、イギリス、日本、スリランカ、タイ、ミャンマー、ネパールなどの国では、彼の指導に基づき、瞑想センターが設立されています。
 ゴエンカが教える瞑想法の伝統は、宗教を信仰する人もしない人も、また世界中の様々な背景をもつ人たちを、惹きつけています。その瞑想法のコースには現代医学にそった生理心理学的な検証と解説が行われてるため、ヴィッパサナー瞑想は心理療法の一分野として医療の枠組みの中で応用されております。そればかりかインド・ジャイプール中央刑務所では、ゴエンカ氏によって刑務所におけるヴィパッサナー瞑想コースが一九七五年の一〇月に行われています。それ以降インド国内ではこのヴィッパサナー瞑想が矯正のプログラムとして応用されています。

(3) ヴィッパサナー瞑想が興隆する背景
 二〇〇〇年夏(八月二九日)、ヴィパッサナー瞑想の在家指導者であるゴエンカ氏がアメリカを訪れ、ニューヨークの国連本部で開催された「ミレニアム世界平和サミット」で演説を行いました。世界中の宗教および精神指導者たちが国連に集結したのは、これが初めてのことでした。そこで『世界平和の模索』というサミットのテーマに沿ってゴエンカ氏は、一人ひとりの心に平和がなければ、世界の平和を達成することはできない、と強調しました。「人びとの心に怒りや憎しみがある限り、世界を平和にすることはできません。一人ひとりの心にある慈愛と慈悲のみが、世界平和を実現することができるのです。」と氏は述べました。瞑想という宗教的な技術によって、人々の心に平和を実現することを述べたのです。
 当時国連の事務総長であったアナン氏は、その会議を政治的な理由で欠席したチベット仏教の指導者たちについて何度か質問を受けたが、そのたびにサミットの目的を繰り返し強調しました。「仲裁者および調停者としての役割を果たす宗教を復活させなければなりません。宗教間の対立の問題は、聖書やトーラー、コーランによるものではありません。問題は信仰ではありません。問題は信仰者のあり方であり、お互いがどのような態度をとるか、ということです。繰り返しますが、平和を実現するための方法、そして寛容さを実現する方法について、みなさんの信者に伝え
てください」。
 この発言によって明らかなことは、チベット仏教の指導者たちが政治的なスタンスで平和実現を捉えているのに対し、ゴエンカ氏は瞑想という宗教的な技術によって平和実現を目指しようとしているということがはっきりと浮き彫りにされたことです。
 そして、先のようにゴエンカ氏が伝統的なヴィパサナー瞑想法を一つのカリキュラム・コースとして確立できた背景には、インドの宗教事情が考えられます。インドの伝統的な宗教技法のヨーガ行法(ヨーガ・チャルヤー)がヨーガ療法として医療分野に適応されているからです。ヨーガ
療法はすでに一九二〇年(大正九年)には、インド・マハラシュトラ州ロナワラ市に設立されたカイヴァルヤ・ダーマ研究所において、伝統的なヨーガ行法を医療分野に応用しようと科学的な研究が開始されました。その後、インド中央政府が認定し援助するヨーガ研究施設の一つのスワ
ミ・ヴィヴェーカナンダ・ヨーガ研究財団(sVYASA)は、インド中央政府人的資源管理省よりインドで二つ目のヨーガ大学院大学として認定を受け、ヨーガ療法の科学的な研究で修士、博士の学位記を取得できるようになっています。また同財団はバンガロール市郊外に西洋医も常駐するヨーガ療法施設を持ち、年間一万人を超える心身症患者たちにヨーガ療法を指導しています。
 このようにヨーガ療法が心理療法の一つの分野として成立しているのは、インド中央政府の医療分野では西洋医学とは別に自然療法(ナチュロ・パティー)が認証されており、インド伝承医学のアーユル・ヴェーダと共にヨーガ療法が公認されているからに他なりません。ところで、このような医療分野で応用されているヨーガ療法は、インドにおいて五千年の歴史的伝承を持つヨーガ行法をストレス・マネージメント法として科学的に再構築したもので、ヨーガによるきわめて効果的なストレス・マネージメント法(Stress Management of Extremely Techniqe、SMET・スメット)として体系化され現在に至っています。
 ヨーガ療法とヴィパサナー瞑想法の関わりは、インドのカイヴァルヤ・ダーマ研究所と提携関係にあるMCB財団タイ・ヨーガ研究所がバンコックのワンサニット・アッシュラムを運営し、一〇日間のヨーガ療法コースでは、「ワンサニット2010」の前後、タイの瞑想センターで一〇日間の「ヴィパッサナー・コース」を組み合わせる研修プラン、また「ワンサニット2010+ヴィパッサナー」の組合わせプランなど、幾つものヴィパサナー瞑想法センターとの連携も行われています。
 さらにタイ政府厚生省代替医療局はこれらの財団と提携し、バンコックのシーナカリン・ヴィロート大学哲学宗教学科ヨーガ研究室、マヒドン大学看護学部、南タイ・プリンス・ソンクラー大学看護学部などでヨーガ療法が医療の中で応用され始めています。

4 WHO(世界保健機関)の「健康の定義」見直し案の意味するもの
 ところで、このようなヴィパサナー瞑想法やヨーガ療法が世界的に受け入れている背景には、WHOが「健康の定義」見直し案を提出しなければならないほど、現代医学のあり方が問われている事実を指摘できます。一九九八年、世界の医師や医学会の元締めともいえるWHOの委員会、「健康の定義」を新しく見直そうという提案がなされました。その当時WHO事務総長は日本人の中嶋 宏氏(在任期間一九八七?一九九八年)でした。その提案とは、従来の「健康とは、単に疾病または虚弱でないばかりではなく、身体的、精神的および社会的に健やかな状態(wellbeing)である」という定義を、「健康とは、(中略)身体的、精神的、社会的および霊的(宗教的・spiritual)にダイナミックに健やかな状態である」と改めようというものでした。そして、この提案は一九九九年の総会において「事務総長のレビュー(評価)の下におく」として討議の議題から外されましたが、この提案が世界の各界に与えた衝撃は大きいものでした。これ以降、スピリチュアリティ(霊性)なる言葉は、現代の日本社会はいうに及ばず、世界的な規模でブームとなっており、この衝撃がどれほど大きいものだったかが想像できます。
 今まで「スピリチュアル(霊的・宗教的)」ということは宗教者が宗教の立場で考えていたことですが、それを世界の医師や医師会の元締めのようなWHOが討議したということに重要な意味があります。
 この霊性について、私たち日本人に分かりやすく語っている鈴木大拙の意見を挙げましょう。「人間とは物質と精神(肉体と心)という二つで成り立っています。しかし、この二つのは絶えず矛盾しています。この二つを背後から支えているものが霊性(スピリチュアリティ)です。このように人間が生きて行くためには、どうしても物質と精神は矛盾したままでは居られない。霊性とは、そういう意味で生きて行くためには、欠くことの出来ないものです。」(『日本的霊性』岩波文庫 主旨要約)
 このように人間の「肉体と心」の二つの関係は「肉体は滅んでなくなるのに、心は永遠に生き続けたいと思う」というように絶えず矛盾しています。この矛盾する二つを背後から支えているものが霊性(スピリチュアリティ)ですが、私たちがこの生死の矛盾に何らかの折り合いを付けて生き続けられているのも、この霊性(スピリチュアリティ)のお陰です。
 数年前に教誨師として死刑判決を受けて苦しんでいる拘置者と、面会したことがあります。彼は「死にたくない」と死を恐れていました。人は理性的には「自己の死」を知っていますが、具体的に肉体的な死にさらされない限り、死には気づきません。これが生死の矛盾に何らかの折り合いを付けていることです。このように霊性(スピリチュアリティ)が私たちを支えているということです。
 このような霊性(スピリチュアリティ)の重要性は、現在は宗教界ばかりではなく精神医療政策や教育政策という行政にも言えることです。現代社会の有り様をご覧になってお気づきのように、社会保障も社会福祉も破綻寸前です。それは物の豊かさを追及する資本主義の経済社会に限界が来ているからです。
 「元気に豊かで長生き」が幸せという社会目標はすでに実現不可能で、一病息災に徹した生き方によって、いい人生であったという霊性(スピリチュアリティ)の獲得が求められているということです。そして、この霊性(スピリチュアリティ)を獲得する技術が宗教と呼ばれてきたものです。仏教ではこの霊性を獲得する技術について、「対立し矛盾する肉体と心が統一するように私たちの心身をコントロールすること」だと教えます。簡単に言ってしまえば「私たちは朝夕の信行生活によって心身を統一し、私たちを背後で支えている霊性を獲得する」ということです。
 そのようなスピリチュアル(霊的・宗教的)をWHOという医学会の元締めがを認知したということは、霊性(スピリチュアリティ)などがもはや非科学的な言葉ではなくなったと同時に、人は科学だけでは生きられない現実を認めたということです。このようなWHOの「霊性の提案」は、霊性を健康の中に入れなければ人間の存在はなり立たないということ、そして、その観点は人間を「肉体・精神・魂」の三つの全体として見たということになります。
 そして、この「物質と精神の二元論を止揚する霊性」の構図によって、日本では明治七年六月に「医療・服薬を妨害する禁厭(まじない)・祈祷(おはらい)の取締」により医療と宗教が分離されましたが、この分離された医療と宗教の再統合・再協力ということがいま行われ始めています。日本では二〇〇七年に厚生労働省が指導する形で「統合医療学会」が設立され、近代西洋医学では治療不可能と言われた症状に対して、伝統医学や相補・代替医療の研究が医学界で行われているほどです。

5 WHO「健康の定義」見直し案の背景にあるもの
 このようなWHOの「健康の定義」見直し案が出てくる背景を眺めますと、当時はWHOの運営理事会のメンバーにイスラム系の方々が多く、スピリチュアル・ヘルス(魂の健康)ということを考えていたという事実があります。とくに過去二〇年間を遡りますと、欧米文化とイスラム文化の衝突によって、イスラム社会では政治的、宗教的な混乱が生じております。このように混乱するイスラム社会に生きる人々には、政治経済的な問題から医療による肉体的、精神的な治療が困難となり、そのためどうしても宗教的な救済としてのスピリチュアル・ヘルスが要請されたという経緯が考えられます。
 実はこのようなスピリチュアル・ヘルスが二十一世紀になって要請される背景には、十九世紀から起きている政治的、経済的な大きな変動が影響しています。とくに先の大戦後の社会は、戦争を避けるために「国連による政治的な安全保障」という国家の主権やその安全が重要視されるようになります。
 また世界各国でインフラなど産業基盤の社会資本環境が調うと、グローバル化が進んで経済的な問題が深刻化します。これらの問題によって「国連機関(世界開発銀行IMF)による経済的安全保障」が行われるようになます。さらに「国連(国連通商開発会議)による経済再配分と途上国開発」によって経済的に豊かな国々は、途上国に援助することで経済的な再配分が行われるようになります。
 そして、さらにグローバル化が進んで多国籍企業が世界進出することで国際企業が出てきます。政治的にも地域連合のASEAN(東南アジア諸国連合)、EU(ヨーロッパ共同体)、MERCOSUR(南米経済協力体)、NAFTA(北アメリカ自由貿易協定)というようなものが起きてきます。この中でとくに大きな問題はグローバルな経済共同体(WTO)を構築することで、世界全体の経済効率を図ろうとするところにあります。
 このような政治的経済的な社会の大変動によって、世界的なレベルで「家庭崩壊」が起きています。昨今の日本社会を見れば明らかですが、これはヨーロッパでも進んでおりアメリカでは最も顕著になっています。先に述べましたが、独立国家であれば国家の主権を守るためには、政治的に「国家安全保障」をが強化されるのは当然のことで、その守られた国民の経済や健康を守ることが「社会安全保障」です。さらに世界人口は爆発的に急増しすでに七〇億近くになろうとしています。この人口パンデミックによって、多くに国々では地域紛争によって難民が急増したり、そ
れによって国家安全保障が優先され、社会安全保障(国家福祉など)は財政困難のために切り捨てられるようになり、家庭崩壊が進むという構図が生まれます。
 日本憲法でも「第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と、国民の社会保障、社会福祉、公衆衛生に国家が責任を持つとあります。しかし、ご存じのように、この国家福祉はいま経済的に岐路に立っています。
 アメリカではすでに一九九六年には「社会保障」条項が憲法から外されています。オバマ大統領が社会福祉政策に訴えて当選したのはこのためです。この問題はアメリカばかりではなく、ヨーロッパ諸国も日本も、まもなく「ポスト福祉国家」になろうとしています。
 福祉国家というのは「強い国家と地方自治体が弱い個人を助ける」という構図です。ところが、ポスト福祉国家とは、グローバル化によって国際企業などは豊かになるが、国や政府は経済的な問題や、政治的な問題によってだんだん弱くなってしまう。それで個人が自分の力で自分を助けなければならなります。つまり「弱い国家と地方自治体、そして、強い個人となる」という構図です。この弱い国家と地方自治によって、個人が強くならねばならない構図こそが、WHOの「健康の定義」見直し案となった理由ということになります。
 「元気で豊かで長生き」を支えてきた国家レベルの政治的経済的なあり方が破綻し、世界的なレベルで「ポスト福祉国家」が進んでいるために、WHOが「健康の定義」見直し案を提出したと言えます。「元気に豊かで長生き」が幸せという社会目標はすでに実現不可能となり、一病息災に徹した生き方によって、いい人生であったという霊性(スピリチュアリティ)の獲得が求められているということです。WHOは「健康の定義」見直し案は、霊性を健康の中に入れないと人間の存在はなり立たないということ、そして、その観点は人間を「肉体・精神・魂」の三つの全体として見なければ人は幸せになれない。こういう世界事情が歴史的な要請、社会的な要請だということです。
 後述しますが、この社会的な要請に応えているために、ヴィッパサナー瞑想が世界に普及していると考えられるのです。

6 おわりに
 日本の宗教界を文化庁統計などで眺めますと、日本のほとんどの人たちが、伝統教団の檀家と新興宗教の二つのわらじを履いており、神道系までも一緒にすれば三足のわらじを履いています。それは新興宗教の六〇〇〇万人の数字が納得できるか否かということではなく、新興宗教は戦後のわずか六十五年の間に、一五〇〇年に及ぶ仏教史上に新たなる牙城を打ち立てたという事実です。ところが、その新興宗教の信徒数は伝統教団を超えていても、実は信徒確保に汲々としているのが現状あります。
 このような日本の宗教事情にあって、ひとり教線を拡大しているのが、海外から教線を拡大するテーラワーダ仏教です。日本ヴィパッサナー協会、日本テーラワーダ仏教協会は、宗教法人格や非営利法人(NPO)を取得して、ヴィッパサナー瞑想センター施設を全国規模で設立し、ヴィパサナー瞑想法の普及に努めています。さらにこのヴィッパサナー瞑想は世界的に普及しており、テーラワーダ仏教の隆盛の背景には、ヴィッパサナー瞑想が医学的に認められるなど、その効用に大きな意味があります。
 このヴィパッサナー瞑想にはゴエンカ系とマハーシ系、さらにはパオ系と呼ばれる技法の流れがあり、この中でヴィパサナー瞑想法を世界的に注目を浴びるまで牽引してきたのは、サティア・ナラヤン・ゴエンカその人です。ゴエンカ氏は、ミャンマーのサヤジ・ウ・バ・キン師の伝統を受け継いだ、ヴィパッサナー瞑想の在家指導者です。彼はミャンマーでインド人の家系に生まれ育ち、ヴィパッサナー瞑想の指導を受けた後にインドへと移住し、一九六九年よりヴィパッサナー瞑想の指導を始めます。彼は伝統的なヴィパサナー瞑想法を一つのカリキュラム・コースとして確立しますが、この背景にはインドの宗教事情が考えられます。インドの伝統的な宗教技法のヨーガ行法(ヨーガ・チャルヤー)がヨーガ療法としてインド中央政府が公認して医療分野に適応されているからです。このような影響下でゴエンカが教える瞑想法の伝統は、宗教を信仰する人もしない人も、また世界中の様々な背景をもつ人たちを、惹きつけています。その瞑想法のコースには生理心理的な検証と解説が行われてるため、ヴィッパサナー瞑想は医療的に応用されております。
 そして、このようなヴィパサナー瞑想法を世界が受け入れる事情があります。それは単に宗教行為によって病気が治るということではなく、世界的に宗教的な救済の必要性が高まっていることなのです。一九九八年にWHOが「健康の定義」見直し案を提出するほどの高まりです。WHOの理事会は従来の「健康とは、単に疾病または虚弱でないばかりではなく、身体的、精神的および社会的に健やかな状態(well being)である」という定義を、「健康とは、(中略)身体的、精神的、社会的および霊的(宗教的・spiritual)にダイナミックに健やかな状態である」と改めよ
うと提案しました。この提案は一九九九年の総会において「事務総長のレビュー(評価)の下におく」として討議の議題から外されましたが、この提案が世界の各界に与えた衝撃は大きいものでした。今まで「スピリチュアル(霊的・宗教的)」ということは宗教者が宗教の立場で考えていたことですが、それを世界の医師や医師会の元締めのようなWHOが討議したということに重要な意味があります。
 この霊性とは、人間の「肉体と心」の二つの関係は「肉体は滅ほろんでなくなるのに、心は永遠に生き続けたいと思う」という矛盾を背後から支えているものでした。私たちがこの生死の矛盾に何らかの折り合いを付けて生き続けられているのも、この霊性(スピリチュアリティ)のお陰です。
 この霊性(スピリチュアリティ)の重要性は、宗教界ばかりではなく精神医療政策や教育政策という行政にも言えることです。現代社会の有り様をご覧になってお気づきのように、社会保障も社会福祉も破綻寸前です。それは物を中心とする資本主義経済社会の限界が来ているからです。「元気に豊かで長生き」が幸せという社会目標はすでに実現不可能で、一病息災に徹した生き方によって、いい人生であったという霊性(スピリチュアリティ)の獲得が求められているということです。そして、この霊性(スピリチュアリティ)を獲得する技術が宗教と呼ばれてきたものです。仏教の霊性を獲得する技術とは、「対立し矛盾する肉体と心が統一するように私たちの心身をコントロールすること」だと教えます。簡単に言ってしまえば「私たちは朝夕の信行生活によって心身を統一し、私たちを背後で支えている霊性を獲得する」ということです。
 すでに世界は政治経済的な問題から、社会保障や社会福祉を充実することが出来ない時代となっています。世界のグローバル化によって国際企業などは豊かになっていますが、国や政府は経済的な問題や、政治的な問題によってだんだん弱くなります。それで個人が自分の力で助けなければならなります。つまり「弱い国家と地方自治体、そして、強い個人となる」という構図です。この弱い国家と地方自治によって社会保障や社会福祉が貧弱となので、個人が強くならねばならない構図こそが、スピリチュアル・ヘルスが「健康の定義」見直し案となった理由ということになります。
 このようなWHOの「霊性の提案」見直し案は、霊性を健康の中に入れなければ人間の存在はなり立たないということ、そして、その観点は人間を「肉体・精神・魂」の三つの全体として見ることは、歴史的な必然ということ、社会的な要請だということです。いま世界的に宗教回帰、霊性の獲得が急がれているということです。
 以上を総括すれば、教化学とはこのような霊性(スピリチュアリティ)を獲得する技術を明らかにすることで、仏教は「対立し矛盾する肉体と心が統一するように私たちの心身をコントロールすること」だと教えます。最後に日蓮聖人の霊性を獲得する技術を挙げれば「なぜ修行(観心)するかといえば、それは自分自身の心(己心)を観じて、地獄界から仏界(十法界)のあること知る必要があるからだ。当然のことだが、他人の粗ばかりを探していても、自分の姿は見えない。自分の姿を知りたければ、明鏡に自分の姿を映してみることが必要だ。これと同じように、お経
文の所々にあなたは菩薩だ、仏だと記述されているが、法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡に自分を映して、確かに私の心に菩薩界や仏界があると気づかなければ意味がないのだ。(『観心本尊鈔』意訳)」とあります。
 (観心之心如何。答曰観心者観我己心見十方界。是云観心也。譬如雖見他人六根未自面六根不見自具六根。向明鏡之時始見自具六根。設諸経之中所々雖載六道並四聖不見法華経並天台大師所述摩訶止観等明鏡。不知自具十界百界千如一念三千也。『昭和定本』第一巻 七〇四)
 簡単に言ってしまえば、私たちは朝夕の信行生活によって心身を統一し、私たちを背後で支えている霊性を獲得することが出来るということです。教化学のスタンスとはこういう捉え方を指すのです。先に述べた「社会化葬儀法要の問題という認識」とは、宗教教義と社会現象を繋ぐということで、そのアダプターが教化学なのです。
 

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