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教化学研究2 現代宗教研究第45号別冊 2011年03月 発行

葬儀を考える─布施について

葬儀を考える─布施について

岩 田 親 靜

1、はじめに
 島田裕巳『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)、アエラ一〇月一一日号「『お寺』はもういらない」といったものが出版され、葬式仏教への批判が集中的に行われています。
 特にアエラでも取り上げられたイオンのサイトに掲載された「お布施の目安」は問題となっています。(『宝島』二〇一〇年八月二五日発行 第三八巻第九号でも 各宗旨宗派のお布施の相場といったものが掲載されている。)
 本年九月一三日には秋葉原で全日本仏教会が「葬儀は誰の為に行うのか?〜お布施をめぐる問題を考える〜」としてシンポジュウムを行っています。この件に関してアエラが取り上げ話題にしたのが先の「『お寺』はもういらない」という記事であります。
 記事では、HP上で「お布施の目安」なるものが発表され全日仏が反論し、削除された経緯が述べられています。

 サービスの開始とともに仏教界で大問題になり、「お布施という信仰の核心部分が、僧侶へのギャラのように表示、商品化された」と全日仏が猛反発。九月になってイオンが削除したからだ。シンポジュウムでは削除前のものが映し出されたのだが、今でもコールセンターにかければ、一覧表と同じ内容が提示されることに変わりはない。(六八頁)

 さらにこの記事では、全日仏の対応に関して、大和総研の石いし田だ佳よし宏ひろ氏のコメントも載せられてもいます。

 「値段を明示するということは、サービスの対価ではないか、とサービス業とされてしまうと、当局に課税される、という懸念があるのでしょう。」(六九頁)

 現行法律上、お布施は、確かに課税対象ではないが、料金表的なものがあれば課税の原因になりかねないということを示していると思われます。
 一方で、此経啓助『都会のお葬式』(生活人新書 二〇〇二年)では

 たとえば「二一世紀の仏教を考える会」が「仏式葬儀についての不満や提言」を公募したところ、全国から一四四人が意見をよせてくれた。六〇代、七〇代の男性が六割余で、女性は彼らの伴侶にあたる五〇代が多かった。不満のほとんどが戒名料をふくめた寺院の葬儀費用にまつわるもので、高額で金額設定が不明瞭ではないか、と指摘していた。(五頁)

とあり、高額であることと同時に金額設定の不明瞭さが問題となっており、ある種の金額基準を喪主側も求めているとも考えられます。
 そこでここでは、具体的な布施(財施)をめぐるクレームから検討を始めて見たいと思います。

2、布施をめぐるクレーム
 布施をめぐるクレームに関しては、平成一三年作成で少々ふるいものになるが、仏教情報センター編『仏教テレフォン相談一〇万件の中身 寺と僧への世間の期待と苦情』(国書刊行会 二〇〇一年)があります。この中にある戒名料・布施に関するクレームを確認してみましょう。

・ 最初に戒名料の額を聞いたら「適当に」と言っていたのに、後に法外な金額を言ってきた。払わなかったら訴えられるのか。(九一頁)
・ うちは由緒ある寺なので、お布施は私の心積もりをはるかに超えた額を言われた。今度、納骨法要があるが、お布施の用意に悩んでいる。(九二頁)
・ 母の葬儀の時、「大姉」で計七〇万の布施を要求された。父の時は「不如意で地味に」と言ったのに聞き入れられず、僧侶五人で九〇万にもなってしまった。(九三頁)
・ 父が亡くなり、菩提寺に葬儀を依頼したら、戒名料とお布施で一〇〇万円支払うように言われた。どうしたらよいかわからない。借金をしてでも払わないといけないのか。また、今後の四十九日忌や一周忌のこともあり、本当に悩んでいる。(八三頁)
・ お布施の額を見て、副住職が「こんなお布施では」と読経を拒否した。離檀する。新しい寺の住職も、やがて「カネ、カネ」と言うようになった。(九一頁)

 上記のクレームの中には「戒名料」なる表現がありますが、平成一二年一月に全日本仏教会は「今後、『戒名(法名)料』という表現・呼称は用いない。仏教本来の考え方からすれば、僧侶・寺院が受ける金品は、全てお布施(財施)である。従って、戒名(法名)は売買の対象ではないことを表明する。」と述べているが、この見解は妥当だと思われます。戒名・法号は、信者として授与されるものであります。
 また、お布施の額で読経を「行う」「行わない」などと言うことはあってはならないことのように思われます。
 一方で、多くの寺院の活動は檀信徒の布施により成り立っているのも事実です。

 此経啓助(これつねけいすけ)『都会のお葬式』では左記のように述べています。
 お寺の葬儀費用に対する檀信徒の不満は、かなり大きいものがある。「二一世紀の仏教を考える会」の調査によれば、現代では日本仏教の現状についての知識や情報に疎いところに加えて、お寺が宗教法人で、住職と檀信徒の協力によって、それぞれ独自に運営されていることをよく知らない現実がある。だから、お寺の葬儀費用(とくに戒名料)には、葬儀社に支払う費用と同様に「全国的な標準」や「一般的な値段」があるのではないか、とついつい考えがちなのである。
 しかし、それは間違いである。情報化社会のなかで、葬儀費用が平均化しつつあるとは言っても、現実にはてんでんばらばらである。
 いくつもの宗派があり、地方によって葬儀のやり方が異なり、住職の寺院運営の方法も多様で、檀家数もそれぞれ違う。どうして同じ金額になるだろうか。葬儀費用はお寺によって異なるのが常識なのである。
 また、お寺は家族を抱えた住職の私有財産のように見えるが、運営には檀信徒の協力が不可欠である。(一二〇頁) 

 上記のように布施の問題は、寺院の運営とも直結する問題であります。また、地域や檀家数により異なるものでもあります。それ故、一律にこの金額が適正などとは言えないのが現状でありましょう。寺院は運営のために、檀信徒はどの程度包めばよいかと悩むのを防ぐために、ある種の基準と言ったものが存在する場合もあるかもしれません。
 しかしこれは明確な料金表といったものであってはなりません。先のクレーム例ではありませんが、昨今の経済事情の中では、十分なお布施を払えないないという方もいらっしゃると思われます。そのような方に無理をしてでも出しなさいと言うのは問題があるのではないでしょうか? それこそ檀家離れ、寺離れを促進させ、住職の信用をおとしめる原因になるとおもわれます。
 そこでここでは、今一度、布施の原義を踏まえた上で、現代において今後寺院・僧侶がどう対応していくべきかを考えみましょう。

3、布施の原義
 布施とは本来、菩薩の行う六つの実践徳目(六波羅蜜)の一つです。通常、僧侶に対して施し与えられる金品すなわち財施だけが布施ではありません、教えを説き与える法施や怖れを取り除いてやる無畏施も含め三施を布施といいます。
 ここで重要なのが、布施(三施)は仏道修行であり、執着の心を離れてなされるべきものということです。サービスに対する対価として存在するものではありません。通夜・葬儀も含め法事の機会に施主は財施を行い、住職・僧侶は法要・説教という法施・無畏施を行うという仏道修行をおこなっているのです。
 佐々木閑(ささきしずか)『日々是修行─現代人のための仏教一〇〇話』は仏教の原理的な考え方を現代に生かすことを考えてつくられた書物ですが、布施にかんしては下記のように書かれています。
資料①

 古代インドの仏教修行者は、ひたすら修行に打ち込んだ。まわりの一般人はそのひたむきな姿に感激し、「この人なら、お布施をあげるにふさわしい」と考えて、食べ物や日用品を差し出した。修行に邁進する僧侶の姿が、人の心を惹きつけるのだ。ここに僧侶と信者を結ぶ絆が生まれる。だから修行者は、その絆を守るため、自分の生活のすべてをみてもらわねばならない。それが信用につながるのである。(五六頁)

資料②

 仏教の僧侶に払うお金、「お布施」はいくらが適正か。一〇〇円か一〇〇万円か。これは、実はきめられない。なぜならお布施は「もの」や「サービス」ではなく、その僧侶の「姿や言葉」に対して払うものだからである。(中略)お布施は、僧侶自身のあり方に対する、まわりの人々の外部評価の表れだ。その額は、お布施する側が決める。自分で納得した額が適正価格になるのだ。僧侶の価値は、その僧侶の存在が自分にとってどれほどの重さを持つか、その一点で決まるのである。(一九二頁)

資料③

 考えてみれば、僧侶というのは奇妙な存在だ。普通の人なら朝から晩まで働いて、それでなんとか日々の生計を立てていくものなのに、そういう堅気の生活を放り出して「自分を高める」などという破天荒な目標に一生をかけるのだから無鉄砲である。しかも毎日のご飯は仕事をしている一般人からお布施で賄おうというのだから虫がいい。無鉄砲で虫がいいことなど、この世にまかり通るはずがないのに、この出家という行為は、二五〇〇年間東アジア全域で営々と続いてきた。その理由は「出家した人は、出家していない人よりも、人格が高貴で、行動が誠実で、智慧がある」と皆が考えてきたからである。そしてまた実際に、多くの僧侶がそういう姿を皆に示してきたのである。
 この世に仏教が成り立つためには、「お坊さんは普通の人よりも立派だ」という社会通念が絶対必要である。立派だからこそ、お布施をあげる価値がある。僧侶とは本来、丸裸の自分の存在そのものが評価の対象となる、非常に厳しい生き方なのだ。
 社会からの布施がなければ、仏教という宗教は成り立たない。その布施がもらえるかどうかは、僧侶の品格次第。ということは、仏教の栄枯盛衰はすべて、その時々の僧侶の質にかかっていることになる。
 現代社会の教育水準は随分高い。仏教を見る人々の目も厳しくなっている。いい加減な気持ちでいるとすぐ見抜かれる。今はまだ檀家制度の名残でなんとかもっているが、やがては僧侶一人ひとりの資質や、個々の教団の姿勢が、直接天秤にかけられる日が来る。大変だが、面白い時代でもある。
 外から評価される緊張感が、僧侶の修練に磨きをかける。それが結局は仏教という宗教の地固めになる。人々の目が仏教を育てるのだ。仏教を生かすも殺すのか、その決定権と責任は、お布施をする信者側にあるという点が肝心なのである。(九四・九五頁)
 佐々木氏は、自分の生活のすべてをみてもらったうえで、お坊さんの「姿や言葉」が普通の人よりも立派であること、僧侶の品格が高いことが必要であると指摘しています。

 さらに資料③では「社会からの布施」「僧侶一人ひとりの資質や、個々の教団の姿勢が、直接天秤にかけられる」といった表現や「人々の目が仏教を育てるのだ。仏教を生かすも殺すのか、その決定権と責任は、お布施をする信者側にあるという点が肝心なのである。」といった表現があり、自己満足ではなく社会や人々の目線をかなり意識する必要があることも指摘しています。第三者的視点、社会性の重要性を指摘したと言えましょう。

5、おわりに
 布施は僧侶と檀信徒を結ぶ絆があって成り立つものです。寺院・僧侶に対する信頼が絶対的に必要なものといえます。
 故に佐々木氏の指摘ではありませんが、僧侶自身は、檀信徒に納得してもらえる生活態度が必要でありましょう。華美な生活を控え、自らの立ち居振る舞いや言動に注意し、檀信徒の模範となるべく努力するということが必要であると思われます。
 さらには、佐々木氏の言うように「現代社会の教育水準は随分高い。仏教を見る人々の目も厳しくなって」おり、「僧侶一人ひとりの資質や、個々の教団の姿勢が、直接天秤にかけられる日が来」ているとするならば、僧侶・寺院は檀信徒や社会に対して、(僧侶としての品格を高めるという)従来的な考え方より、一歩前進して、布施を還元していく活動、顔が見える活動が行うことが求められていると思われるます。それにより僧侶・寺院を支える意義を檀信徒に感じさせることができるようになると思われるます。
 布施を還元していく活動、顔が見える活動とは、住職の個性とも関わりがありますが、具体的には寺報の発行やイベントの開催、子供会の運営など諸々の方法が存在すると思われます。活動報告の一端として、寺院の会計を公開するという方法もあると思われます。
 此経啓助著『都会のお葬式』に次の様な表現があります。

 本来ならば葬儀費用にまつわる不満は、住職や檀家総代などに相談して、自分で解決していかなければならない。とりわけ住職がその任にあたるべきなのだ。
 実際、檀信徒が不満を抱かないお寺はいくつもある。住職がしっかりしているのである。こういうお寺の檀信徒ならば、住職から葬儀費用について納得のいく説明をもらえるであろう。
 一方、檀信徒が不満を持つお寺がある。運が悪いのである。お寺を選ぶ自由が(一般的では)ない。よく住職と話しあったらいいと言うが、こういうお寺の住職は檀信徒への対応が悪いのである。(一二〇・一二一頁)

 先の引用文で触れたように、寺院は「檀信徒の協力が不可欠である」とすれば、我々寺院・僧侶は檀信徒(お布施をする信者側)に対して説明責任を有していると言えましょう。(ここでの説明責任は、立ち居振る舞い(背中での布教)、寺院の活動といったものも含まれます。)病院では患者に対するインフォームド・コンセント(説明と納得)が叫ばれて久しいが、寺院・僧侶はどうでしょうか? よくよく考えてみる必要があると思われます。
 

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